「ブーメラン」「普遍化可能性」「反転可能性」についての注意事項

(このエントリ、編集ファイルのバージョン混乱してしまっておかしくなってるかもしれません)

最近、私のツイッターやブログでの発言についてまたある方(Aさん)[1] … Continue readingという方からいろいろ御批判を受けているらしいです。まあいろいろいい加減なことを言っているので御批判を受けてしまうのはしょうがないのですが、なかでちょっと印象的なことがありました。

Aさんは、私の(そして他の人々の)発言の一貫性のようなものに関心があるらしく(もちろん私の憶測です)、これは正当なことだと思います。ただちょっと私にはAさんが何を指摘しているのかわかりにくいことが多い。これは私の理解力が不足しているのが主な原因ですが、会話や討論みたいなのをする際の相性みたいなのもあるんですよね。またちょっと好意的でない解釈をされているように感じることも多い。だからAさんには「私の発言についてブログのコメント欄で質問するとき、あるいはブログ等で非難や批判的コメントする際には、短い一問一答のかたちで問い合わせてほしい」のような趣旨の要望をブログのコメント欄やツイッタに書いたりしたことがあるのです。問題はここから。

するとAさんは、「お前がブログ書いたりツイッタで他人を批判したりするときは、ツイッタその他でその当人に問いあわせることはないではないか、まずお前がそうした対象の問いあわせるべきだ」という趣旨のことを指摘してくださるわけです(と私は理解しました。しかし実際には違うかもしれません)。

これは私の言動がいわゆる「ブーメラン」とかそういうのになっている、という指摘ですね(しかし違うかもしれません)。同じタイプの指摘は(特に)ツイッタ(X)では一般的になっていて、ある人がなにか発言していたら、それと矛盾するような過去の発言を探してそれを晒す、というのが人々の娯楽の一部にもなっています。

実際そういうのはけっこうおもしろいのですが、しかし、そういう手法はいつもうまくいくわけではない。発言の整合性や、言行一致を求める、そして不整合があれば、発言や行動や信念の変更を求める、というのは倫理学や応用倫理学の議論ではごく一般的な手法で、むしろ こうした手法を使えないとほとんど実質的な議論・討論はできない 、というぐらい重要な手法です。

なぜこれが重要なのかというと、道徳的に正しいことというのはどのようにして発見すればいいののかわかならいし、客観的な正しさなるものが存在するかどうかさえわからないのですが、少なくとも、発言の論理的整合性や言行の不一致があればそれは咎めることができるからです。重要なのは、一部では「道徳判断の普遍化可能性」と言われたり、あるいは「(道徳判断の)反転可能性」などと呼ばれているあれです。つまり、我々が道徳的に他人に要求することができるのは、自分がそれに実際に従う用意のあることがらだけだ、というものです。

たとえば他人に対して「道端ではタバコを吸うべきでない、歩きタバコをやめろ!」という要求をする人は、実際に自分がタバコを吸いたくても歩きタバコはしない、ということが求められます。これはあたりまえですね。「お前たちはエロ本を読むべきじゃない!」と言いながら実はエロ本毎日読んでるような人がいたらそれは偽善者なので、そういうのは時々摘発する必要があります。普「道徳判断の遍化可能性」「反転可能性」などは「正義の原理」と呼ばれることもあります。つまり正義というものの一番の基本は「同じものは同じに扱う」ことであるので、同じようなことなのに、ある人についてはダメで、ある人についてはOK、というのはおかしい。これはもはや正義の原理というよりは「合理性」の原理の一部です。なにも違いのないものを違う扱いするのは合理性にすら反しています。たとえば、工業製品のまったく同じコップがあるときに、片方がよくて片方が悪い、ということはないし、片方は美しくて片方は醜い、ということもない。判断を変えるにはなにか違いがあるはずで、ないのなら判断の合理性自体が疑われることになるわけです。

さて、むずかしいのは、我々が実際に日常的におこなっている判断というものは、そんなに単純なものではない、ということです。たとえば道徳的な原則として「嘘をつくな!(嘘をつくべきではない)」というものがありますが、これを本気で信じている人はあんまりいません。我々の日常生活では時々嘘をついたり、お世辞を言ったりしなければならないことがある。たいていの人は「他人を傷つけるような真実は言うべきではない」のようなことを信じていて、だから「場合によって、人を傷つけることを避けるために心にもないお世辞を言う必要もある」「人を褒める嘘はついてもよい」のようなことも信じているわけです。もとの「嘘をつくな」は実は「人を傷つける嘘はつくな」とか「悪意のある嘘はつくな」のようなものになっています。我々が実際にもっている道徳的な原則は実際に記述することは不可能なほど複雑なものです。

さて、話をもどすと、ネットでは「ブーメラン」とかそういう指摘が幅をきかせているわけですが、ある人のもっている原則(あるいは考え方)がどういうものか、というのは、いろいろ詳しく見たり質問したりしないと明確にはわからないものなのです。

一番最初に戻ると、私は Aさん に「非難(批判)する前に(ツイッタなどで)問い合わせてほしい」とおねがいしたわけです。おそらくAさんは、私が「 一般に 人を批判する前にはまずツイッタで問い合わせるべきだ」と考えていると推測したのではないかと推測します。それなら私が誰かに対する批判的なブログを書く前に、私が問い合わせしてないのはおかしいことですね。しかし私がお願いしたのは、「 Aさんの 書くものが私には特に理解しにくいものであることが多いので、可能ならば問合せしてほしい(義務ではない)」ということなわけです(実際はもっと複雑です)。もちろん、そうしたお願いをする以上、 私が 他の人から同様の要望を出された ならば 、礼儀としてなるべくそれを実現するようには努力しなければなりません。実際努力したいと思っています。でもそうした要望はまだ受けたことがないので、とくにそうした問合せはしていません。私は「誰かを批判するときには常に事前に問い合わせするべきだ」のような原則をもっているわけではないのです。単に Aさんが 私についてコメントするときには問い合わせしてほしいということです。そしてこれは道徳的な要求でさえなく、単に私の個人的な利益のためのお願いです。 私の便宜 のため、 私の利益 のためにおねがいしているにすぎません(でも他人の利益のこともあるていどは考慮します) [2]ちなみに、お願いはお願いなので、それが聞きいれられないことがあるのは当然のことです。。こうした要望は好きに出してかまわないものだと思います。可能ならお互いにそうした要望を尊重すればよい。それがお互いを対等なものとしてあつかうということだとおもいます。お願いがあればお願いすればよい [3]ちなみに、Aさん以外にも私に対して 同じように … Continue reading

まあこんなふうに、誰かを、ネットで見かけたぐらいの発言によって、言行不一致や発言の不整合で批判・非難するのはけっこう難しいことなんですわ。もちろん他人がブーメラン投げて自分の後頭部にあたってたら笑ってもいいのですが、実際に当たってるかどうかを判定するのは難しい、ということです。発言の解釈それ自体もむずかしいのです。「ブーメラン」のようなものは他人に投げつけるものというよりは、自分がブーメラン投げて自分に返ってきてないかいつも用心する、というかたちで自己反省のために使うものだと理解した方が無難ですね。

我々のもっている道徳的原則が実際にはとても複雑なものだ、ということは、私はR. M. ヘアの『道徳的に考えること』の第2章で学びました。これはとても大事な章で、私の勉強人生を変えたと言ってもよいくらいでしたね。倫理学とかに興味ある人はぜひ読んでください。


【追記】なんかよくわからないけど、法華狼さんからコメントで小宮さんと私の大昔の会話を途中に入れとけ、という要求があったのでここに貼っておきますが、どういう意味があるのかはわかりません。

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そういやその問題の小宮さんのモノ化の話へのアンコレさんのブログの内容にはコメントしてないけど、もういいですよね。

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References

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1 実際には法華狼さんからのご指摘がきっかけですが、法華さんを批判したり非難するという趣旨ではないので法華狼さんはこのエントリには直接には関係ありません。Aさんは法華狼さんではなく、私がとらえた法華狼さんの見解にすぎません。彼の正確な見解については彼のブログや下のコメント欄を参照してください。あと法華狼さんは私がコメント欄を操作したりしているということを何度か指摘されておられますが、私はそういうのは意図的にはあんまりしないようにしていて、wordpressやそのプラグインのakismetが法華さんのコメントをはじいたりしていたことがあるようです。よくわかりませんがはじかれて不快だったら残念だとは思うものの、よくわからないのでなんとも言えません。
2 ちなみに、お願いはお願いなので、それが聞きいれられないことがあるのは当然のことです。
3 ちなみに、Aさん以外にも私に対して 同じように わかりにくい質問や非難をする人がいたら私はどうするだろう、というのはおもしろい問いで、おそらく同じように「一問一答でおねがいします」のようなお願いをするでしょう。

コメント

  1. ほっけ より:

    >Aさんには「私の発言についてブログのコメント欄で質問するとき、あるいはブログ等で非難や批判的コメントする際には、短い一問一答のかたちで問い合わせてほしい」のような趣旨の要望をブログのコメント欄やツイッタに書いたりしたことがあるのです。問題はここから。
    するとAさんは、「お前がブログ書いたりツイッタで他人を批判したりするときは、ツイッタその他でその当人に問いあわせることはないではないか、まずお前がそうした対象に問いあわせるべきだ」という趣旨のことを指摘してくださるわけです。
    >そうしたお願いをする以上、私が他の人から同様の要望を出された ならば 、礼儀としてなるべくそれを実現するようには努力しなければなりません。実際努力したいと思っています。でもそうした要望はまだ受けたことがないので、とくにそうした問合せはしていません。

    その説明は私の意図を誤解していますし、経緯の説明として情報が足りないと思います。
    私が貴方の要望に対して最初にコメント欄で応答しようとして、反映されなかったコメントの一部を下記に転載します。

    >ツイッターで一問一答形式にしてほしいと要望されましたが、そこでなぜ前回のような長文コメントを書いたのか、先にあえて長文で説明しておきます。
    >第一には、一ヶ月ほど前のやりとりを見たからです。できれば相手にあわせてコメントすることが望ましいと私は思っています。
    https://twitter.com/frroots/status/1361480195098611714
    https://twitter.com/frroots/status/1361482567464050692
    https://twitter.com/frroots/status/1361591798942998532
    明らかに小宮氏は回答する意味を見いだせずに拒絶しているのに、しつこく検討を求めていました。一問一答方式をとらず、具体的な根拠も出さず、ばくぜんとした気持ちだけで。どこが検討に値するかという小宮氏の問いになかなか答えずに。
    ちなみに、このやりとりで貴方が有意義な意見のようにみなしている人物は、大日本帝国の加害を矮小化するために歴史を無視して資料を歪曲するような主張をくりかえしています。
    >どのような人物であれ有意義な意見を新たに出せる可能性がないわけではありません。しかし歴史修正主義者の意見が検討にあたいすると主張するのであれば、それなり以上に意見に価値があることを示す必要があると思いますよ。

    「第一には」と書いているように、理由は他に第三まで説明していました。このエントリに対する補足としてはこの第一がとりあえず要点になると思います。
    つい先ほど別エントリのコメント欄で提示されたセルフまとめTogetterに、「小宮先生その他に一般化されてもこまります」とありますが、上記コメントを貴方が認識してこのエントリを書いたかどうかまでは私にはわかりません。
    https://togetter.com/li/2209400
    もし私の要望を聞いていただけるのであれば、エントリ本文を修正する必要はありませんが、途中に上記の小宮氏と貴方のやりとりを引用していただけると幸いです。

  2. ほっけ より:

    >なんかよくわからないけど、コメントで小宮さんと私の大昔の会話を途中に入れとけ、という要求があったのでこここに貼っておきますが、どういう意味があるのかはわかりません。

    要望を聞いていただけるのはありがたいですが、上記(2023/08/23 06:07)の私のコメントでも「よくわからない」「どういう意味があるのかはわかりません」と思うなら質問してみてください。
    そもそも、その追記は末尾であって「途中」ではないと思います。本心から要望を聞こうと思っていただけているのであれば、たとえば前回に引用した貴方の文章「そうした要望はまだ受けたことがないので、とくにそうした問合せはしていません。」という文章の直後に挿入して、貴方が小宮氏の要望は聞きたがらなかったことを明確化していただけるとありがたいです。

    >まあこんなふうに、誰かを、ネットで見かけたぐらいの発言によって、言行不一致や発言の不整合で批判・非難するのはけっこう難しいことなんですわ。発言の解釈それ自体もむずかしいのです。

    ひとつ質問ですが、下記ツイートのような「危険引き受け」は簡単なのですか? 

    >まあ正直なところ、ネットで炎上をくりかえしてアンチやエネミーを生産しつつ、なんか指摘があってもちゃんと対応せず、んでリーガルハラスメントだってんで名誉毀損で訴える、みたいなのはあんまり応援できない。「危険引き受け」だっけか。

    そもそも、少なくとも最近の私は貴方に対して「ブーメラン」「普遍化可能性」「反転可能性」といった言葉をつかっていません。上記ツイートの表現を引いて、「危険引き受け」をつかって批判したことは下記のようにあります。

    >正直にいえば、リーガルハラスメントされているColaboについて「危険引き受け」を根拠に応援できないと表明して、暇な空白氏による詭弁と誤謬に満ちた「推理」への好感を表明してしまった時点で、貴方が他人の解釈を「誤解」としてこばむ資格はどこにもないと思いますよ。

    私の話をしたいのであれば、なぜエントリタイトルに「危険引き受け」をつかわなかったのでしょうか?
    もちろん私も相手の主張から二重基準を見出すことはありますが、矛盾していると指摘するためでは必ずしもなく、どちからといえば明言されない基準をさぐる端緒としてつかっています。
    たとえば下記ツイートにはじまる「一般的な話」も、暇な空白氏による仁藤夢乃氏への「追及」を貴方がどう論評したかを思い出せば、興味深いものが見えてくると私は思います。

    https://twitter.com/yonosuke2022/status/1693518632410824759

  3. 安達 より:

    第三者の視点からコメントするのは、ほかの第三者がこのエントリを読むうえで意義があるのかも、と思いコメントします。法華狼さんにあてたコメントではありませんので、質問されてもお返事はしないと思います。

    法華狼さんが江口さんから「(ブログ、コメントには)ほとんど答えられない」と突き放されているのは、法華狼さんが過度の一般化による認知のゆがみを抱えているから、と思われます。具体的に指摘すると、「文章がわかりにくい人という限定を全員に一般化」と「批判される側と批判する側を同じとして一般化」の2つあります。

    このエントリの主旨は「言動が首尾一貫するのは大事だけど、首尾一貫かどうかを見極めるのは単純じゃないよね」だと私は理解しました。法華狼さんには「*誰であろうと*非難(批判)する前に(ツイッタなどで)問い合わせてほしい」と見えていることが、江口さんの意図では「*これまで書かれた文章がわかりにくい人は*非難(批判)する前に(ツイッタなどで)問い合わせてほしい」という食い違いが(1つ目の過度な一般化として)指摘されています。前のエントリにある法華狼さんの質問『「文章が長くて」が問題なら、まさに貴方はブログを書く前にツイッターで質問するべきでしょう。(略)なぜ貴方は自分がやらないことを私に対してもとめるのでしょうか?』などへの、批判される側としての江口さんの返答でしょう。

    しかし、法華狼さんはエントリの主題を無視して1つ目のコメントで、「上記の小宮氏と貴方のやりとりを引用」することを求めました。これは批判される側に関するエントリとは完全に無関係の要求で、質問(批判)する側(としての江口さん)の言動にすり替わっています。この観点から、江口さんの「どういう意味があるのかはわかりません」に同意しますし、意味を尋ねたところで批判する側とされる側が混同された答えが返ってくるだけでおそらく無駄でしょう。

    痛々しいのは、2つ目のコメントで『(略)貴方の文章「そうした要望はまだ受けたことがないので、とくにそうした問合せはしていません。」という文章の直後に挿入して、貴方が小宮氏の要望は聞きたがらなかったことを明確化していただけるとありがたいです。』と自分の発言には疑問をまったく抱かず書いていることです。批判される側というエントリの主題に照らして、「*公の場に発表した文章に対して*そうした要望は受けたことはないので」と解釈すると、文章の発表に責任があり、それに対する質問は法華狼さんのように気軽に行ってよい、という立場を想定できるので、江口さんの言動は一貫します。しかし、法華狼さんには批判する側とされる側の区別がおそらくついていないため、あのようなコメントになったのでしょう。

    以上から、法華狼さんには認知のゆがみがあり、それを自覚できず相手の責任にして批判している、と私は理解しました。このような質問をされたら、私なら耐えられずに早々に受け答えを打ち切り、相手をブロック出入り禁止にしたいし、それが許される世の中であってほしいと思います。

  4. ほっけ より:

    >このエントリの主旨は「言動が首尾一貫するのは大事だけど、首尾一貫かどうかを見極めるのは単純じゃないよね」だと私は理解しました。

    >具体的に指摘すると、「文章がわかりにくい人という限定を全員に一般化」と「批判される側と批判する側を同じとして一般化」の2つあります。

    その具体的なはずの指摘の、「文章がわかりにくい人という限定を全員に一般化」が何を指しているのかよくわかりません。私はそのような方向では一般化していません。
    ひょっとして、江口氏の「Aさんは、「お前がブログ書いたりツイッタで他人を批判したりするときは、ツイッタその他でその当人に問いあわせることはないではないか、まずお前がそうした対象の問いあわせるべきだ」という趣旨のことを指摘してくださるわけです」という要約を信じたのでしょうか?
    その要約が指しているかもしれないhttps://yonosuke.net/eguchi/archives/10980でのコメントを、下記に転載します。読んでのとおり私は「批判したりするとき」ではなく、「解釈に迷っていたこと」があったと具体的に指摘しています。

    >貴方のブログ記事を読めば相手の主張の「解釈」に迷ったことを表明する表現が見られます。下記エントリやコメント欄などが一例です。
    https://yonosuke.net/eguchi/archives/14958
    上記エントリは貴方が「誤解」しているように私からは見えます。その私の視点を採用しなくても、貴方の視点からでも解釈に迷っていたことはたしかです。
    なぜ貴方は自分がやらないことを私に対してもとめるのでしょうか? 

    あらゆる文章が同じようにわかりにくいといった話を私がしたおぼえはありません。
    しかし「解釈に迷っていたこと」を「批判したりするとき」と要約したのを疑いもせず信じたのであれば、たしかに私に対して認知のゆがみを感じてもしかたないかもしれませんね。その責任を私にもとめられても困りますが。

  5. ほっけ より:

    要望ですが、私が貴方に対して「いろいろ詳しく見たり質問したり」していない状況で「ブーメラン」にあたる論評をおこなった根拠を示してください。
    その根拠を示せないのであれば、「Aさん」が私(法華狼)を指しているという説明を撤回するか、実際には「Aさん」は質問をしていたと文章を修正してください。

    これだけでは受けいれられないと思いますので、下記で理由を説明します。

    >するとAさんは、「お前がブログ書いたりツイッタで他人を批判したりするときは、ツイッタその他でその当人に問いあわせることはないではないか、まずお前がそうした対象の問いあわせるべきだ」という趣旨のことを指摘してくださるわけです。
    これは私の言動がいわゆる「ブーメラン」とかそういうのになっている、という指摘ですね。
    >ネットでは「ブーメラン」とかそういう指摘が幅をきかせているわけですが、ある人のもっている原則(あるいは考え方)がどういうものか、というのは、いろいろ詳しく見たり質問したりしないと明確にはわからないものなのです。
    >「ブーメラン」のようなものは他人に投げつけるものというよりは、自分がブーメラン投げて自分に返ってきてないかいつも用心する、というかたちで自己反省のために使うものだと理解した方が無難ですね。

    「実際には法華狼さんですが、法華さんを批判したり非難するという趣旨ではないので」と注記されていたので、どちらかといえば私に対する反論や批判ではなく、一般的な話をしたいのだと思って言及しませんでした。
    しかしこのコメント欄やはてなブックマークを見ると、具体的な根拠を示さない貴方の解釈が私の実際の発言の正確な要約として広まっているようです。

    実際には、私は貴方の主張が「ブーメラン」と断言するようには書いていませんし、「普遍化可能性」や「反転可能性」という表現もつかっていません。
    「危険引き受け」のような表現をつかったのは貴方ですし、知るかぎりは貴方がその判断を表明するにあたって「いろいろ詳しく見たり質問したり」という準備をおこなっていた記憶はありません。
    近いものだと思われる私自身のコメントは、たとえば下記のように質問の形式をとっており、言外の基準を貴方が説明する予知を考慮しています。

    https://yonosuke.net/eguchi/archives/10980
    >上記エントリは貴方が「誤解」しているように私からは見えます。その私の視点を採用しなくても、貴方の視点からでも解釈に迷っていたことはたしかです。
    なぜ貴方は自分がやらないことを私に対してもとめるのでしょうか? 
    >>最後の方の危険引き受けの話はよくわかりません。
    >暇な空白氏の「推理」によるColaboや仁藤夢乃氏への攻撃に好感を表明して被害者に許容をもとめた貴方なら、それより妥当で慎重な推理で自身が批判されることくらい許容するべきではないですか?という話ですが。そんなに難しいですか?

    そこで要望ですが、私が貴方に対して「いろいろ詳しく見たり質問したり」していない状況で「ブーメラン」にあたる論評をおこなった根拠を示してください。
    その根拠を示せないのであれば、「Aさん」が私(法華狼)を指しているという説明を撤回するか、実際には「Aさん」は質問をしていたと文章を修正してください。

  6. 江口 より:

    名前消すとおそらくこのエントリについてるほっけさんのコメントも意味不明になってしまうので、できるかぎり修正しました。

  7. ほっけ より:

    対応していただいたことに感謝します。
    また、前回コメントの「予知」は「余地」の誤変換です。

    >名前消すとおそらくこのエントリについてるほっけさんのコメントも意味不明になってしまう

    過去のコメントが修正によって齟齬をきたす場合は、修正線をつかったり、修正前バージョンを注記に入れる方法などもあります。
    そうした修正は読みづらくなりやすい問題はありますが。

  8. ほっけ より:

    要望とは異なる修正ではありましたが、いちおうの対応がなされたので前回コメントでは感謝しました。
    しかし下記ツイートを知っておどろきました。

    https://twitter.com/yonosuke2022/status/1707400552186065040
    >法華狼さんから(再度)要望がついていたことに気づいたので、可能なかぎり修正した。でもほんとにほっといてください。おねがいします。それにwordpressのコメントとか気づかないのです。(通知できるはずだけどできない)

    具体的な根拠をいっさい出さないまま他人を批判的に解釈するエントリを出しておいて、その他人から根拠をあげて解釈が否定されることを「ほっといてください」と要望できる立場だと思いますか?
    私との関係をしめせないのに私と関係があるかのように記述されては、私のほうこそ「ほっといてください」といいたくもなりますよ。
    コメント欄とエントリ本文の関連性を残したいなら、変更前の文章に取消線を引くなり、変更前の文章を注記に記録するなり、さまざまな方法があるでしょう。ちなみに私は大きな変更はコメント欄に前後を記載するようにしています。
    当事者である私はいいとして、私との関係をしめせない解釈を信じて私を「法華狼さんには認知のゆがみがあり、それを自覚できず相手の責任にして批判している」と論評してしまった安達氏らへの謝罪は書くべきでしょう。念のため、安達氏は江口氏の「文章が長くて」は直後に「わからんし」と書いている文章ということを無視しているので、安達氏自身にも責任があるとは思いますが。

    さて、どうしても私に対する貴方の解釈をきっかけにしたかたちでブログを書きたいというなら、あらためて修正を要望します。

    >するとAさんは、「お前がブログ書いたりツイッタで他人を批判したりするときは、ツイッタその他でその当人に問いあわせることはないではないか、まずお前がそうした対象の問いあわせるべきだ」という趣旨のことを指摘してくださるわけです(と私は理解しました。しかし実際には違うかもしれません)。

    こちらには注記がついていません。私が具体的な根拠をあげて否定したのに、貴方は「違うかもしれません」と可能性にとどめています。
    貴方が自身の解釈を捨てられないのならばしかたありませんが、ならば「Aさんは、」の後に「「貴方の視点からでも解釈に迷っていたことはたしかです。なぜ貴方は自分がやらないことを私に対してもとめるのでしょうか?」といった質問をしてきました。これを私なりに解釈すると」といった文章を挿入してください。

    また、注記の「Aさんは法華狼さんではなく、私がとらえた法華狼さんの見解にすぎません。」の後に、そうとらえた根拠を貴方が出せていないことも明記してください。
    出せる選択肢を提示したのに貴方が出さなかったので、なんらかの理由で出せないのは事実でしょう? 挿入する例文として「そうとらえた具体的な根拠は出せません。」を提示しておきます。

  9. ほっけ より:

    なお、私自身の主張とは関係ないので言及しませんでしたが、エントリ本文の下記は背景情報が不足しているので、むしろ「言行不一致や発言の不整合で批判・非難するのはけっこう難しい」の一例に見えます(なお、「普」は原文ママです。直後の「道徳判断の遍化可能性」から一文字ずれていませんか?)。

    >「お前たちはエロ本を読むべきじゃない!」と言いながら実はエロ本毎日読んでるような人がいたらそれは偽善者なので、そういうのは時々摘発する必要があります。普

    むしろ読んではいけない条件が社会で決められている例外的な書籍ジャンルが「エロ本」ですよね。具体例で考えれば、エロ本を毎日読んでる大人が未成年に対して「お前たちはエロ本を読むべきじゃない!」と主張した場合、偽善者と呼ばれることが自明だとは思えません。
    念のため、現在の法律はまちがっていて未成年もエロ本を読んでいいという思想はありえますし、成人が未成年にだけ制約をかすことを偽善と考える思想もあるかもしれません。しかし提示された文章の状況だけでは、「摘発する必要があります」と断言できるような状況ではないと思いますよ。
    よりふさわしい事例を考えてみましょうか。「貧困少女の誕生日パーティーに公金をつかうべきではない!」と言いながら、公金をつかったパーティーで支持者を優遇する政党などは、摘発する必要があるかもしれません。もちろんこの事例は単純に一貫性ないというより、ミソジニーや権威主義といった言外の基準の存在をうかがわせる手がかりになるというのが私の考えですが。

    ついでに、もし「言行不一致や発言の不整合で批判・非難するのはけっこう難しい」の具体例を出したいなら、「歴史修正主義」という言葉には複数のニュアンスがあるという主張と、そのニュアンスのひとつをつかった主張を、不整合であるかのように非難する下記ツイートなどがふさわしいのではないでしょうか。

    https://twitter.com/yonosuke2022/status/1709215517872214044
    >「歴史修正主義」が、起草者たちにとって評価的に中立で、道徳的に問題ないものだったら、「からかい」的コミュニケーション様式のもたらす害悪の一部としてわざわざ言及する必要ないわよね。

    実際の裁判では呉座氏が敗北したのに、おそらくインターネットで呉座氏側から断片的に流れた情報だけで勝利側の不整合を断言することは、私ならためらいますね。近い状況で結論を出す時はエクスキューズを入れると思います。裁判で勝利してなお曲解にもとづく誹謗中傷をあびせられている側を非難したいなら、ツイートで論証を省略するべきではないと思います。
    念のため、貴方が上記ツイートを書いたことと、このエントリで貴方が主張したことが、「言行不一致や発言の不整合」とは断言しません。だからこそ、いまだ誹謗中傷の被害にあっている人々のために、説得力ある説明が補足されることを期待しますよ。

  10. ほっけ より:

    安達さんへ
    >法華狼さんが江口さんから「(ブログ、コメントには)ほとんど答えられない」と突き放されているのは、法華狼さんが過度の一般化による認知のゆがみを抱えているから、と思われます。

    あらためて指摘しておくと、違うと思いますよ。
    江口氏自身は、「「過去にお前はこういった、ああいった」と自分でもおぼえていないような昔の発言を掘りかえされるよりも、もっと実質的な話がしたいです」と自身が発言した責任を放棄するようなツイートをしていますから。
    逆に江口氏は認知のゆがみをもつ人々について、「その人々が指摘していることが無効になるわけじゃない」ともツイートしています。

    https://twitter.com/yonosuke2022/status/1735860592987267418
    >もしなんとかアノンな人々がミソジニーとかそういうのが動機や素因になっているとしても、その人々が指摘していることが無効になるわけじゃないのよね。

    もちろん、現実にはQアノンやJアノンと呼ばれる人々が、なぜそのように無効な指摘をおこなうのだろうという疑問から動機を考察する順番が多いと思います。

    >このエントリの主旨は「言動が首尾一貫するのは大事だけど、首尾一貫かどうかを見極めるのは単純じゃないよね」だと私は理解しました

    上記の主旨自体は一般論としては異論ありませんが、このエントリへはてなブックマークで下記のコメントをしているwxitizi氏の理解は違うようです。

    >某はてサのご意見番的な人のことですかね。これを読むと学術的に訓練受けた人の強さ(と内輪受けだけの人の程度)が分かる。

    上記コメントは個人の感想ですので否定も肯定もできませんが、wxitizi氏は私のエントリに対して、はてなブックマークで下記のようなコメントをおこなっていました。

    https://b.hatena.ne.jp/entry/s/hokke-ookami.hatenablog.com/entry/20231019/1697642206
    >wxitizi 万引やっても通報されずに済まされてる人もいるからこの万引犯だって通報するべきではない、的な。

    上記の万引きの比喩は、私自身が実際におこなっている一般化はもちろん、安達さんの考えた私のコメントと比べても過度な一般化としか思えません。安達さんのコメントはwxitizi氏には通じなかったのかもしれませんね。
    ただし安達さんも、私に対して認知のゆがみを見いだしていることを公表しながら、「法華狼さんにあてたコメントではありませんので、質問されてもお返事はしないと思います」と最初に断りを書くくらい自分自身の発言に責任をとる能力も意図もないようですから、コメントに意義が生まれなかったのは当然の結果なのかもしれませんが。

  11. 江口 より:

    法華さんにコメントに答えろと言われても、なにを言われているのかわからないのです。
    とにかく文章をみじかくして一問一答の問答のかたちにしてもらわないとわかりません。
    それに身内にいろいろあり、またその影響と以前からの先送りのために仕事もたまっているので考えてる余裕がないのです。
    それでもどうしてもというのであれば、ツイッタかあるいはGoogle Docsのようなところを用意して招待して、ひとつひとつ確認してください。時間があるときに答えることがあると思います。

  12. ほっけ より:

    では、注記の「見解にすぎません。」の後に「そうとらえた具体的な根拠は出せません。」を、「おそらく同じように」の後に「、あえてわかりにくく書く私の方針を変えるのではなく、」を、挿入してもらえますか?

  13. 江口 より:

    すみませんがコメントブロックさせてもらいます。

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