ガブリエル・ブレア『射精責任』の解説にコメント (1) アメリカの憲法論むずかしいっすね

キャッチーなタイトルのガブリエル・ブレアさんの『射精責任』ですが、内容的には「避妊しましょう、特にコンドームで避妊しましょう、妊娠を望んでいないのに避妊しないセックスは無責任です」という話で、まあごく普通の話で新しいアイディアは何も含んでいないと思います。性教育にはよいと思うので、学校やら会社やら喫茶店やら、そこらへんの人目に触れるところに置いといて読んでもらったらいいんじゃないでしょうか。

ちょっと検討してみたいのが社会学者の齋藤圭介さんによる解説で、これは著者紹介に加え、アメリカの中絶論争史と、日本の避妊・中絶の現状、そして本書の論点・争点の簡単な検討などが含まれていて、読みごたえがある立派なものです。立派だとは思うのですが、いつものように、気になる点をいくつか指摘しておきたい。

第2節[1]第2「章」になってるけどこれくらいの分量で「章」っておかしいと思うの「アメリカの中絶をめぐる歴史と現状」はおおむね正確で勉強になります。

細かいことだけどプロチョイスを「中絶に賛成の立場」(p.183)と表現するのは「賛成」がおかしい感じなので、「中絶を許容する立場」ぐらいにしといてほしいです。あと妊娠によって母体の生命や健康に大きな危険があるときにも中絶に反対する立場っていうのもあるんですが、さほど一般的とは言えないので、「経済的・社会的な理由による中絶〜」とかそういう表現にしといてほしいですね。まあこれは細かい。

ロー対ウェイド判決の紹介では、よく「女性の中絶の権利が憲法で認められた」とかって表現が使われるんですが、この判決はけっこう面倒で、妊娠9ヶ月を3つに分けて、

最高裁は妊娠を三半期毎に分け、それぞれについて州による中絶規制の憲法上の制限を定めた。第1三半期においては、政府は中絶を禁止してはならず、(免許のある産科医によらなければならないなど)医療上の要件だけを定めることができる。第2三半期に入ると、政府は中絶を禁止することはできないが、母体の健康のために合理的に必要な範囲で中絶の方法を制限することができる。第3三半期、すなわち胎児が独立生存可能性を備えた後は、政府は母体の生命・健康を保護するために必要な場合を除いて、中絶を禁止することができる。(Wikipedia)

っていう判決なのは注意してほしいです[2]この件は注10で説明されているんですが、本文で書いてほしかった。。つまりプライバシー権にもとづいて、制限されないという意味で権利らしい「中絶の権利」なるものが認められたのは最初の3ヶ月ぐらいのあいだだけです。第2三半期は制限が可能。わかりにくいのは、アメリカはそういう規制の立法っていうのは州のレベルでやるので、州の考え方によってさまざまになりえることですわね。ロー判決は「州で決めることだけど、第1三半期(初期)の妊娠中絶を禁止するのは憲法違反ですよ」とやったわけです。

ちなみに日本にはいまだに堕胎罪があって堕胎は犯罪ですが、母体保護法によって「母体外での生存が不可能」な期間にかぎって医療的・経済的な理由による中絶が可能であることも注意してください。現在は22週以内、第2三半期の真ん中ぐらいですか。ちなみに妊娠週というのは、前回の月経の最初の日を0週0日と数えるので、1回予定の月経がこないなーとか言ってると、その時点で妊娠4週ぐらいになってます(正確じゃない)。あと、日米の比較の上では、日本の母体保護法は、健康上の理由や経済的な理由がなければ中絶は許容されないんですが(それに基本的に配偶者/父親とかの同意も必要)、ロー判決で認められた「中絶の権利」は、第1三半期はたしかオンデマンドでよい、つまり女性が望めば特段の理由がなくてもよい、ってことだっていうのもけっこう大事だと思う。

んで、解説にちょっと問題があるなと思うのは、186ページあたりで「ロー判決後は、政治的なバックラッシュの動きが加速しかつ加熱化していった」という表現がなされるわけですが、「政治的なバックラッシュ」とかっていう言葉を安易に使うのはやめた方がいいと思うんですよね。それだといかにも保守的な悪人たちが悪いことをしているように見えちゃう。プロライフ派はおもに「胎児も赤ちゃんや大人と同じ人間の生命だ!」って考えてる人々が大半であると思われるわけで、それはそれで筋が通っていて、そういう人々を悪役扱いするのはよろしくない。「バックラッシュ」にはそういうネガティブな意味はこめてません、っていうのならまあそれはそれでOKですが、なるべく中立の言葉を使った方が学術的には望ましいのではないでしょうか。

プロライフ派は、あの手この手で女性が中絶へアクセスすることを困難にしようとしてきた。プロライフ派は、中絶の権利を骨抜きにすることで、実質的に中絶の権利を無効化しようとしてきたのだ (p.187)

齋藤さんは上のように言うわけですが、いかにも悪意が見えてしまう。私は勉強不足ですが、第1三半期の中絶の権利まで制限しようとしてたというのはあんまりないんじゃないかと思います。

んで、ドブス対ジャクソン女性健康機構事件ってのでロー判決は覆されてしまいます。勉強してませんが、私の印象は、ロー判決の論理は当初からプロライフ派だけじゃなくプロチョイス派の哲学者たちによっていろいろ批判にさらされていたので、まあしょうがないかな、みたいな。判決自体は、中絶の全面禁止を認めたものではなく、15週以降の中絶の禁止を認めたものだと私は理解しています。まあオンデマンド(特段の理由がなくとも女性がその気になればおこなう)中絶は妊娠が発覚してから2ヶ月以内ぐらいにしなさい、ということですね。これをどう評価するかは当然難しい。私としては、そんなに簡単にプロチョイスが正しいはずだ、って言えるものでもないと思います。

さて、この本『射精責任』でブレアさんが言っているのは、妊娠は当然男性がかかわっているのだから、中絶の権利とか禁止とか議論する前に、まず男性はセックスするときに望まない妊娠をしないように万全の対策をするべきだ、ということで、これ自体はごくまっとうな話で、少なくとも日本で反対する人はほとんどいないと思う(避妊は悪であると考える一部の人以外)。

微妙なのが、アメリカでの中絶論争はまさに胎児の生命権と女性の自己決定権のあいだの対立として見られているわけで、「そもそも望まない妊娠が起こらないようにすればいいのだ!」っていうのは、ある意味で論点違いになってしまうってことですわね。基本的には女性がオンデマンドで中絶する権利が争われていると私は解釈しているので、望まない妊娠を避けるための努力はなされるべきではあるが、それでも望まない妊娠が起きたときに女性に中絶する権利があるかどうか、というのはやはり議論しなければならないと思うのです。

でもまあこういう論点相違というか、論点をずらすというのは、難しい問題を解決するときに必要な場合もあるので、必ずしも誤謬推理っていうわけではないと思います。でも論点ずらしたからといって難しい問題を回避できるわけでもない、ということです。ちなみに、妊娠中絶の問題については、この男性の責任を問うべし、とか、そもそも男女の関係の力学が問題なのだ、という考え方は別に新しいものじゃなくて、むしろ1970年代このかた、フェミニスト生命倫理学などでは主流の考え方の一つです。たとえばTong先生とかそういう感じだった(あとで文献出します)。「まったく新しい」中絶の議論の仕方だ、というのは、まあブレアさんがフェミニスト思想とかそんなよく知ってるわけじゃないかもしれないからしょうがないですが、別に新しくないです。

(中絶まわりの議論はしばらく勉強してなくてあやふやなので、まちがいがあったらコメントやツイッタなどで教えてください。)

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1 第2「章」になってるけどこれくらいの分量で「章」っておかしいと思う
2 この件は注10で説明されているんですが、本文で書いてほしかった。

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