https://yonosuke.net/eguchi/archives/15710 に続いて、また清水先生の講演の問題点に戻ってしまうんですが(しつこいけどいやがらせではない)。ちょっと「学問の自由」と「キャンセルカルチャー」の定義を見てみたい。
「 キャンセルカルチャー 」ですが、英語版のWikipediaだとこうなってますね。 https://en.wikipedia.org/wiki/Cancel_culture
Cancel culture or call-out culture is a phrase contemporary to the late 2010s and early 2020s used to refer to a form of ostracism in which someone is thrust out of social or professional circles – whether it be online, on social media, or in person
「キャンセルカルチャーとかコールアウトカルチャーっていうのは、2010年代広範から2020年代にかけての言葉で、誰かが 社会的あるいは職業的なサークルから追放される こと(オストラシズム)を指します」。オストラシズムってのは古代アテネとかの「陶片追放」ってやつですが、早い話、集団から誰かを追い出すことですね。それも社会的・職業的なサークルから。オンライン、ソーシャルメディア、それにin personってのは生身の人。職場や同業者集団から追い出されたらたいへんです。日本でもツイッタでの発言がもとで職場から追い出されるような人々が出て問題になってるわけですね。特に呉座先生に対する「オープンレター」とその影響はツイッタの人々の関心をひいています。
さて、清水先生。 https://anond.hatelabo.jp/20220805230307
先生は「キャンセルカルチャー」の辞書的な定義を2種類提示しています。それもまさに辞書からもってきてます。 正式な辞書はあんまり新しい言葉を収録するのは得意ではない のはちょと考えればわかりますね。言葉とその意味が人々のあいだで定着するまでは時間がかかり、編集と出版に膨大な手間のかかる辞書っていうのはそれに追いつけない。だから私自身は新しい言葉や専門的な言葉はwikipediaで確認することの方が多いですし、そっちの方が適切な場合もあると思う。ネット新語やスラングなんかに関しては、ふざけた事典というか字引のふりをした勝手な掲示板ですが、Urban Dictionaryとか見ることもあります。まあそれは置いといて。
ケンブリッジ。
a way of behaving in a society or group, especially on social media, in which it is common to completely reject and stop supporting someone because they have said or done something that offends you
ミリアムウェブスター。
the practice or tendency of engaging in mass canceling (see CANCEL entry 1 sense 1e) as a way of expressing disapproval and exerting social pressure
上のCANCELはふつうの意味。
to decide not to conduct or perform (something planned or expected) usually without expectation of conducting or performing it at a later time
清水先生の説明では、ケンブリッジ辞書のは「拒絶したり支持をやめたり」っていう個人の行動として定義していて、ウェブスター辞書のは「集団でキャンセル」みたいになってる。ウェブスターのも「キャンセル」は「支持を撤回」になってて、Wikipediaなんかが重要だと考えてるであろう「(集団からの) 追放 、村八分」的な側面は見えなくなってますね。ケンブリッジやウェブスターのはかなり広い(曖昧な)定義だといってよいと思います。
(ビューリサーチセンターなるところはなんだか知りませんが、「責任をとらえるアクション」か「検閲」で、これは定義のかたちにはなってない。)
さて、清水先生が「キャンセルカルチャー」についてこういう広い定義を採用しているのはもちろん意図的だろうと思います。個人が「ある人の言動によって支持を撤回したり拒絶したりする」とかっていうのはふつうはそれ自体は 個人の行動としては ほとんど問題がないわけだし。社会で「キャンセルカルチャー」が問題になってるのはそれを 集団的にやって 、 地位や職業を剥奪 したり、 発言を封じて しまうことなのに、それがケンブリッジやウェブスター辞書の定義で見えなくされている。だからこれ、ひょっとしたら、見方によって実は語義曖昧や論点相違の誤謬推理(詭弁)になっているわけです。
定義はそういうふうに使うこともできる、という話ですな。「キャンセルカルチャー」を「言動に反論し非難すること」ぐらいに定義するから、「キャンセルカルチャーはマイノリティの異議申し立てをキャンセルすることだ」とかそういう立論が可能になるわけですわ。
逆に言えば、一番最初にあげた英語版wikipediaの定義を使うと清水先生の講演はまったく違うものにならざるをえない。もちろん、 どういう定義を採用するかっていうのは基本的には論者の好き勝手です 、という立場もあるんですが、人々、特に聴衆が関心をもっていることを論じてほしいというのもありますねえ。「みんなで政治的発言をもとに職場から追いだすのはどうなんだ」って思って話を聞きに来たら、単に「言動によってそのひとの支持をとりけす」とかが話題だったら肩すかしな感じがするじゃないですか。
さて、「 学問の自由 」の方も問題があって、以前にもツイッタで指摘したんですが、清水先生は、最初は国際大学協会なるところの定義をつかって、「学問の自由という原則は、学術コミュニティの構成員、すなわち、研究者、教員や学生が、倫理的規則と国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部からの圧力を受けることなく、学術的活動を追求する自由と定義できる」ってはっきり定義してる。
https://anond.hatelabo.jp/20220805225632
ところが、こうなります。
ところがこの学問の自由の主張が、全く逆のベクトルで利用されることがある。すなわち差別的・抑圧的な考察や言説に対して、政治的・経済的に力のない側、社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立てを、これは「学問の自由の侵害」であるというふうにする言説、というのが見られるようになっている。これは日本国憲法で保障される学問の自由からはかなりかけ離れたもので、何を言ってるんだというふうに思われるかもしれません。
いつのまにか 国際大学協会の定義 が、 日本国憲法第23条「学問の自由はこれを保障する」に すりかえられ 、かつ、「社会的少数派からの批判や異議申立」は学問の自由の埒外だという 暗黙の前提 が導入されている。これも論点相違だし、語義曖昧の誤謬推理・詭弁だと思う。
だからこの講演、 タイトルの「学問の自由」も「キャンセルカルチャー」も、実はまともな定義されていない のですわ。というか定義はされているように見えるけど、一般的なものからはずらされていたり、自分が定義したものからずれていっている。そして、学問の自由に対する脅威あつかいされているABORは、前のエントリーで書いたようにほぼ藁人形論法かもしれません。
さらに書けば、「学問の自由」を「政府・強者からの学問の自由」にすりかえるために使われているのがジェンダーフリーバッシングとか慰安婦問題とかそういうのなのよね。これまで問題にされてきた「学問の自由」は多数派による圧力からの学問の自由だ、という話をしたから「少数派からのはちがう」っていう話にもっていけているわけです。
こっちは「キャンセルカルチャー」の定義より罪が重い、というか、たちが悪いと思います。だって「学問の自由」、つまり冒頭で言われている学問や学者、大学などの独立は、少数派からの訴えに関しては成立しないとかって話はほとんどしてませんからね。でもいかにも冒頭の定義からそれが言えてるように聞こえてしまう。そりゃそういう話はしてません、って言えばしてないわけですが、それって 聴衆のことを尊重した態度なのか どうか。
こういうのは文字起こしみたいなのをじっくり見てやっと気づくことで、講演とか聞いてたらわからんと思う。まあ私の読みはまちがってるかもしれないので、みんなそれぞれ考えてみてください。わたしはこわいです。
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