八重樫徹先生の「猥褻」論(2) 猥褻の条件とチャタレー判決

まあ私が気になっているのは、「猥褻」という概念を定義したり分析したりするっていうのがどういうことなのか、というのが 私自身にとって はっきりしてないことですわね。

前のエントリでも書きましたが、猥褻というのはやはり基本的には人工的な法的概念であって、法律や判決で明示的に「こういうものが猥褻です」と宣言されるようなものであって、我々が日常的に使ってる概念としてはそういう法的な宣言から離れて勝手にいろいろ考えてるようなもので、なんか「猥褻」の「必然的本質」みたいなものはありようがないような気がする。せいぜい一般人が考えてる「猥褻」って「とってもエッチで、人様には見せられないもの」とかその程度でしかないのではないか。八重樫先生はそれを見つけようとがんばってるように見えて、私にはそういう作業がどういう意味があるのかわからない。

さらに、もしそういう私たちが一般に「猥褻」で考えてるものがどんなものかを明確にしようと思えば、法学でいう「善良な性的道義観念に反するもの」が一番ぴったり来るように 私には 思えていたのです。でもよく読んでると、八重樫先生はそうは考えないっぽいんですね。

三つの条件はどういう関係か?

くりかえしになりますが確認すると、法的な意味での(規制可能な/規制されるべき)「猥褻」は (1) いたずらに性欲を刺激して興奮させる、(2) 一般人の性的羞恥心を害する、(3) 善良な性的道義観念に反する、です。

判決や解説ではこの三つの特徴の順位づけとか因果関係とかには触れてないので、私自身はこの三つは並立の関係にあって、その三つの条件がどれも満たされないと可罰的な「猥褻」にはならないと解釈してました。

しかし、八重樫先生はそう解釈してないみたいなんですよね。前のエントリでも引用しましたが先生はこう書いてる。

……この〔性行為非公然の〕「原則」を猥褻性判断の基準として採用することは、猥褻概念の説明にはならない。公然と性行為をすることや性行為の描写を公然と提示することは、まさに刑法174条と175条が明示的に犯罪として規定していることそのものであり、したがって「猥褻がダメなのは、刑法で猥褻と名付けられているとにあたるからだ」と言っているのと変わらないからである。加えて、そのような「原則」は本当に一般に受け入れられている道徳観念なのか、またそうだとしてもそのような道徳を法が保護する必要と妥当性はあるのか、といったことが気になってくる。

おそらく八重樫先生は、(1) (誰かを)性的に興奮させ、(2) 一般人の性的羞恥心を害する(つまり一般人が見て性的に恥ずかしいと思う)ものが「猥褻」であり、 そのために 性的道義観念に反するのだ、っていうふうに読んでるんだと思う。

私自身はこの手の話を読むときにはそうは読んでなくて、この三つの条件はせいぜい並立か、あるいはむしろ、(1) 基本的には 善良な(人々の)性的道義観念に反するやつが「猥褻」である 、が、それだけでは広すぎて可罰的であるとまでは言いにくいので、法的に可罰的にするためにはもっと限定して、(2) 一部の人の性欲をものすごく、そして「いたずらに」≒ 無駄に刺激して、さらにその判定基準として (3) 一般人がそれを見て恥ずかしく思う、という条件をつけているのだと思ってました。

つまり「善良な」人はいろんなものに性的/非性的な道義観念に反すると思って不快を感じるのものだけど、とありあえず「性的な道義観念」に限定し、さらにそれでも広いので、最低限「すごくエッチで一部の人を興奮させる」っていうのと、「一般の人が人前で読んだり見たりしたら恥ずかしいと思う」っていう判定基準をつけてるんだと思ってたわけです。この解釈が正しいかどうかは法学者に聞いてみないとわからない(聞いてもあんまりはっきりした答は返ってこないかもしれない)。

チャタレー判決ではどうなっているのか?

そこでチャタレー判例読みなおしてみたんですが、これおもしろいですね。

要するに判例によれば猥褻文書たるためには、羞恥心を害することと性欲の興奮、刺戟を来すことと善良な性的道義観念に反することが要求される。およそ人間が人種、風土、歴史、文明の程度の差にかかわらず羞恥感情を有することは、人間を動物と区別するところの本質的特徴の一つである。羞恥は同情および畏敬とともに人間の具備する最も本源的な感情である。人間は自分と同等なものに対し同情の感情を、人間より崇高なものに対し畏敬の感情をもつごとく、自分の中にある低級なものに対し羞恥の感情をもつ。これらの感情は普遍的な道徳の基礎を形成するものである。

「自分の中にある低級なものに対して羞恥の感情をもつ」はほんとうかなあ。まあ他の同情や畏敬についても、哲学者だったらこんな観念的なのにはすぐには同意しないでしょうね。んで。

羞恥感情の存在は性欲について顕著である。性欲はそれ自体として悪ではなく、種族の保存すなわち家族および人類社会の存続発展のために人間が備えている本能である。しかしそれは人間が他の動物と共通にもつているところの、人間の自然的面である。従つて人間の中に存する精神的面即ち人間の品位がこれに対し反撥を感ずる。これすなわち羞恥感情である。この感情は動物には認められない。これは精神的に未発達かあるいは病的な個々の人聞または特定の社会において缺けていたり稀薄であつたりする場合があるが、しかし人類一般として見れば疑いなく存在する。例えば未開社会においてすらも性器を全く露出しているような風習はきわめて稀れであり、また公然と性行為を実行したりするようなことはないのである。要するに人間に関する限り、性行為の非公然性は、人間性に由来するところの羞恥感情の当然の発露である。かような羞恥感情は尊重されなければならず、従つてこれを偽善として排斥することは人間性に反する。なお羞恥感情の存在が理性と相俟つて制御の困難な人間の性生活を放恣に陥らないように制限し、どのような未開社会においても存在するところの、性に関する道徳と秩序の維持に貢献しているのである。

「種族の保存」「本能」が時代を感じさせますね。そんな「本能」なるものは存在しません!でもまあこの当時はこういうことを考えてる人々がいた。

でもまあものすごく好意的に読むことにして、「セックスは人前ではしないというのは、人類の普遍的約束事(道徳)です」これくらいは認めてもよい。

「羞恥感情の存在が理性と相俟つて制御の困難な人間の性生活を放恣に陥らないように制限し、どのような未開社会においても存在するところの、性に関する道徳と秩序の維持に貢献しているのである」のところがおもしろいですね。 性に関する道徳と秩序 っていうのでなにを考えているのかがおもしろい。まあとりあえず「恥ずかしい」って思うから我々は人前でセックスしたり裸になったりしないわけで、この感情は社会秩序に貢献しています。

ところが猥褻文書は性欲を興奮、刺戟し、人間をしてその動物的存在の面を明瞭に意識させるから、羞恥の感情をいだかしめる。そしてそれは人間の性に関する良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放、無制限に振舞い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵している。

問題の「そしてそれは」はやっぱり「羞恥(の)感情」じゃないですね。興奮した性欲だと思う。猥褻文書によって我々は無秩序な性欲を喚起させられ、理性的でない行動をとったりすることがあるけど、羞恥心はそういうのを抑えこむ重要な働きをしている。だから(おそらく)羞恥感情を害することは、社会秩序をおびやかすほど性欲を刺激していることの徴になるのだ、っていう理屈じゃないっすかね。

私の解釈では、性欲は社会秩序をおびやかす危険があり、善良な性的道義観念は社会的な性的秩序を守るためのものであり、羞恥心はその助けになるものである、だから猥褻としてとりしまるのは、(1)性欲を刺激してあぶないものであり、(2)その基準として一般人の羞恥心が使える、(3)善良なる性的道義観念も社会秩序維持のために重要であって、この基準に反するやつは規制してかまわない、ってことじゃないかなあ。まちがってますか?

んでこの解釈だと、やっぱり「猥褻」の定義や基準から「善良な道義観念に反する」を抜くことはできないと思うんすよ。もちろん私は「猥褻」なんてものの存在は認めないんですけどね。

ちなみに、八重樫先生は判決文の『チャタレー夫人の恋人』が「家庭の団欒においてはもちろん、世間の集会などで朗読を憚る程度に羞恥心を害するものである」っていう文言に「「家庭の団欒」や「世間の集会」で朗読するというのは当時も今も小説の一般的な読み方ではない」って書いてるんですが、これはあやしくて、伊藤整先生が裁判の弁論で出した文章によると、この『チャタレー』は当時の女子学生などにもけっこう読まれたみたいで、読書会などで輪読・朗読されることはあったんじゃないですかね。文学が一人家でこっそり読まれるものだっていうのは、現代の我々の思い込みです。いつの時代も文学も哲学も、それをみんなで読んだり、感想を述べあったりするものだと思う。朗読することもけっこうあるっしょ。よい時代になって、『チャタレー』も完訳で読めますので、朗読会でもしたいですね。

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