長年苦しんでいた分担翻訳がとにもかくにも出版されて、やっと、ずっとどうにもならなかった締切から解放された感じで、これからは好きなことをしていきたい。しかし浦島太郎状態。生物学的にお陀仏になる前に、いくつかやっておきたいことがあるんですが、その一つは生命倫理、特にパーソン論まわりよね、ってなわけで最近の国内論文ちょっと見てたんですが、色々困惑してしまう。
たとえば日本生命倫理学会の雑誌『生命倫理』第28巻の瀬川真吾先生の「生命医療倫理学における人格概念の限界とその有用性」、混乱してしまって2、3日ずっと、自分がなぜ理解できないのか考えてしまってました。
論文お作法の問題
まず一般的なお作法として、次のような注文がある。
- ジープ、ビルンバッハー、クヴァンテといった論者の著作が参照されているが、 翻訳のあるものはそれにも言及してほしい 。もちろん翻訳は一切見なかったというのであれば言及の必要はないし、また言及困難だろうからその必要はない。
- 参照文献の指示をいわゆるauthor-yearでおこなうならば、 文献リストはアルファベット順にしてほしい 。そうでないとauthor-yearの意味がない。
- また、後注にまわさずとも文中ですませてもよいのではないか。後注は煩雑になる。
これは著者というよりは、査読方針と査読者の問題ですね。雑誌の編集方針もあるんで微妙なんですが、私日本の生命倫理業界がお作法できてないのとても気になるのです。
マイケル・トゥーリーの主張の理解
……マイケル・トゥーリーは、異なった時点と地点において自己自身を自己自身として把握するというロックの人格概念に立ち返ることで、生後12週目までの新生児は人格ではないというテーゼを立て、あらゆる中絶を道徳的に容認可能なものと見なす (p.23)
上はOKだとしても、
「特定の人間的存在にいかなる道徳的地位も認めない(トゥーリー)」 (p.23)
は言いすぎではないだろうか。トゥーリーは、ヒト胚や脳死者には生命に対する重大な権利をみとめなくても問題はないと考えているかもしれないが、いかなる道徳的地位も認めないかどうかはよくわからない。また「人間的存在」ということで何を意味しているのか読者にはわからない。「人間の遺伝子をもった個体」ぐらいだと思うが、説明が必要。
ちなみに、このトゥーリーに対する注(4)はTooley 1983とされているだけで、ページがついていない(他はついていることがおおい)。300ページもある本から典拠確認するのはとても大変というか無理なので、ページとはいかないまでも(最近は電子書籍も多いし)章ぐらいは指示してほしい。
「カントやロックの人格概念は、生物学的な意味で人間であることと認知的な意味で人格であることを明確に区別し」(p.23)
「認知的な意味で人格」はよくわからない。生命倫理学で人格(パーソン)についての議論がなされる場合は、生物学的な意味のパーソンと、規範的/道徳的/法的な意味のパーソンを区別するのだが、認知的な意味とはなんだろうか。この「認知的」は「感情的」「意思的/欲求的」などと対立される意味ではないだろう。「認知能力の意味での人格」も奇妙だと思う。
ふつうの解釈をすれば、生物学的な「人間(ヒト)」と、道徳的・法的な意味での「人格」を区別し、道徳的・法的な意味での人格を、主として認知的な能力によって特徴づける、ぐらい。
。しかし定言的にあらゆる人間的存在に同等の道徳的地位を認める(……)、あるいは特定の人間的存在にいかなる道徳的地位も認めない(……)というのは、生命の初期段階にある人間的存在に対する日常理解と両立しないだけではなく、そうした存在の道徳的地位をめぐる議論そのものを妨げているという意味で不適切なのである。(p.23)
細かいが、この文章はわかりにくい。胚に成人と同様の道徳的地位を認めるのも、あるいは認めないのも、それは論者の立場によるだろう。瀬川先生はそれが(われわれの)「日常的な理解」と両立しないと指摘するわけだけど、これも「だからどうした」といわれる可能性がある。まあ日常的な理解がそのまま使えるならば最初から中絶やヒト胚の実験利用などの倫理的問題は存在しないかもしれないし。さらに、「道徳的地位をめぐる議論そのものを妨げている」というのもよくわからない。もっとぶちゃけて書けば、「ヒト胚に成人と同様の道徳的地位を認めたり、あるいはまったく道徳的地位を認めなかったりすると、議論しにくい」ということになるんだろうけど、これは論点先取の誤謬推理になっていると思う。最初から「ヒト胚や脳死者には微妙な道徳的地位を割り当てたい」という前提があるとしか思えない。
現代倫理学にとっておそらくもっとも根本的な問いとは、「当事者」の主観的な感覚ないし欲求だけが正しい行為のために重要なものなのかどうかである(p.24)
これはジープの文章なので瀬川先生に責任はないが、「正しい行為」が誰の正しい行為であるか、また誰にとって正しい行為であるかが不明。まあたとえば、「行為者や被行為者の感覚、欲求、主観的経験だけによって、ある行為の正しさが判断されるのか、それ以外の要素も重要なのか」とかそういう問いだと思う。しかしこうして書いてしまうと、行為者や被行為者の感覚や欲求などの主観 だけ が重要だなんて主張する倫理学者がいるとは思えませんよね。
第1節と第2節のあらまし
第1節ではジープ先生が人格(人)であるかどうかを、有か無か、ゼロかイチかの観念としてとらえないで、発展的段階・衰退的段階をもつものとして扱おうとしたという話だと思う。まあ人かそれ以外(物)か、みたいな発想にはどっかおかしいところがあるかもしれないので、これはこれでありの立場だと思う。
第2節ではビルンバッハー先生が「人格」(人)という概念使うのはもうやめてしまおうって主張している(らしい)ことの紹介で、まあこれもありの立場だと思う。ジープ先生のもビルンバッハー先生のも、80年代〜90年代前半くらいの英語圏の生命倫理学の議論ならごくふつうの立場ですね。
第2節の細かいところ
第2節の方の議論はちょっと問題があるので、詳しく見る。
中絶をめぐる議論における人格概念の争点は、あらゆる人間が存在するすべての時点において人格であるのかという問いにおいて先鋭化する。ビルンバッハーは、この問いを肯定する立場を「同等説」、それを否定する立場を「非同等説」と呼ぶ。
ここまではOK。
同等説によれば、人間と人格の概念は外延的に一致し、あらゆる道徳的権利を有する人格だけが道徳的な保護対象であるとされる。そこでのジレンマは、胎児のみならず、もっとも初期段階における受精卵にも成人と同等の道徳的権利が認められねばならず、例えばそれらの存在と母親の生命との比較考慮といった可能性が例外なく閉ざされることである(同等説のジレンマ)。
「ジレンマ」の意味がおかしいと思う。ジレンマというのは、AかBかの選択肢があり、そのどちらをとっても受け入れがたい帰結がある選択や論法を言うと思う。「受け入れがたい帰結」はジレンマそのものじゃないので、普通は「受け入れがたい帰結の一つは〜」とか、「ジレンマの一方のツノ(horn)は〜」とか表現するものだと思う。
んで、人間と人格(人)の外延は同じである、人間はすべて人格であり、人格はすべて人間である、と考えると受け入れがたい帰結が存在するだろうか?瀬川先生はそう考えると、妊娠中絶が全部禁止されるから困る、と言いたいようだけど、妊娠中絶反対派はまさにそう考えているのでなにも困らない。
非同等説は、人間と人格という概念を外延的に異なるとものと見なす。ここでのジレンマは、人格性を満たしていないであろう胎児や新生児に、いかなる道徳的権利も認められないという事態である( 非同等説のジレンマ)。
こっちのジレンマの角については、上の角の説明より、さらに問題が大きい。ある存在者が人格(人)でないからといって、「いかなる」道徳的権利も認められないということにはならない。たとえば私は(トゥーリーと同じように)、子猫は人間の単なる楽しみのために痛めつけられない権利があると考える(つまり、私は人間は単なる楽しみのために子猫を痛めつけるべきではないと考えている)。ある存在者が人格でないならば、人格と同じような道徳的権利はもたないかもしれないが、もつかもしれない。これはそれぞれの道徳的権利の根拠がどのようなものであるかに依存するのであり、人格かそうでないかによって自動的に決まるようなものではない。
同等説と非同等説
ビルンバッハーは、同等説と非同等説のジレンマを回避する上で人格概念が寄与しないことを論じることで、自らのテーゼを基礎付けようとする。
もうすこしおつきあいして細かく見ていく。
ビルンバッハーにしたがえば、ジレンマを解消するために同等説は、認知能力の基準からすれば現時点では人格とは見なされない人間を、すでに人格性を満たした人間が人格として知覚し承認することで物としてではなく、人格として扱われるのであるという戦略を展開した(「再構成主義的戦略」)。
まあこれは昔からエンゲルハート先生とかやってるやつですね。しかし、これ「同等説が〜という戦略を展開した」ってのは非常に奇妙で、なんでそんな「説」が戦略を展開したりできるんでしょうか。戦略を展開できるのはあくまで論者なのではないか。
それゆえ同等説の枠組みでは、胎児のような人間的存在が実際に人格であるのかという存在論的な事実をめぐる論争はもはや生じない。しかしビルンバッハーが指摘するように、再構成主義的戦略はジレンマを回避する上で三つの点で不十分である。
「存在論的事実」みたいな語句の説明がそれ以前には行われてないと思う。
第一にこの戦略は、いわゆる限界事例[に?]おける人間が存在論的にも人格であるという同等説のもっとも基礎的な主張と矛盾する。
「存在論的にも人格である」に目をつぶるとして、この論点は、上の「説」と「論者」を混同することから来ている問題 だと思う。たしかにあるタイプのヒト(人間的存在)を人格(人)だとみなさないのであれば、それはもう「同等説」ではない。しかしそんなことを言ってどうなるのだ。
第二に、あらゆる人間が存在するすべての時点において人格として知覚され承認されるという想定は、例えば現象的に私たちとは似ているとは言いがたい受精卵といった限界事例にも妥当するのかは疑わしい。
「知覚され承認される」の「承認する」の方はともかく、「知覚」の方は必要なのだろうか。「それが人に見える」ということから、「人として承認する」という形になっているのだろうか。「現象的」もわかりにくいが、とりあえず胚や胎児は人間には似ていないので人格(人)ではないとすることができるのだろうか。タコのような姿だが知的で友好的な火星人がいたら、彼らも現象的には人間に似ていないので人格ではないということになるだろうか。どういう姿をしているか知らないが、天使というものが存在するとしたら、彼らは人格はないのだろうか。
第三にこの戦略は、その戦略の支持者同士で広く共有されている前提を、それを支持しない者に適用することができない。同等説が人格だけを道徳的権利の担い手とし、人間と人格の外延の一致という枠組みを維持する限り、同等説はジレンマを回避することができない。ビルンバッハーは、まさに人格概念こそが、ジレンマの回避を妨げる原因であると診断する。
一般に、議論上のどういう戦略であれ、議論の前提をそれを支持しない人々に対して認めされるのは難しい。なぜこれが問題なのだろうか。ここらへん、ビルンバッハーと瀬川先生がなにを議論しているのか私にはわからない。
非同等説は、自らの抱えるジレンマを回避する上で人格概念が不要であるという見解を明確に打ち出す。
わからん。ビルンバッハーはそういうふうに解釈しているということか。
特定の認知能力が人格性にとって不可欠であり、人格だけが道徳的権利の保有者であるならば、人格概念は道徳的権利を認めるための閾値概念とならざるをえないがゆえに、非同等説はこの概念を放棄するのである。
わからん。「人格だけが道徳的権利の保有者」という前提はどこから来たのだろうか。「閾値概念」も内実不明。なぜ非同等説が人格という概念を捨てることになるのかまったくわからない。
したがってビルンバッハーのテーゼを見れば明らかなように、彼は非同等説の支持者の一人である。人格概念の放棄によって非同等説は、道徳的権利が人格にのみ認められるという想定から解放され、非人格を特定の道徳的権利を有する存在と捉えることが可能となる。
そもそも人格概念を放棄するというのはどういうことかわからない。「人格」という言葉をもう使わないということなのか、存在者を道徳的に地位づけるときに「人格」であるかどうかをさほど重視しないということか。おそらく後者だと思うが、それならそうとはっきり述べるべきだと思う。
しかしこうした立場からは、道徳的権利の基礎付けに関する原理的な問いが生じる。非同等説は道徳的権利の根拠を、ある存在がそうした権利を持ちたいと欲求できるかどうかという点に見出している。それによれば、ある存在が道徳的権利Xを持つのは、その存在がXを持ちたいと望むからである。
そもそもこの非同等説なるものは、誰の説なのか。トゥーリー? トゥーリーの説は、道徳的権利の根拠をある存在がそうした権利を持ちたいと欲求できるかどうかという点に見出しているのか?どこでそういうことがいわれているのか?「ある存在が道徳的権利Xを持つのは、その存在がXを持ちたいと望むから」といったことは一体誰が述べているのか?でたらめではないのか?
トゥーリーが(1972年の論文で)述べているのは、ある存在者が道徳的権利Xをもつ必要条件として、その存在者がXをもちたいと望むことができることが要求される、ということであり、XをもちたいからXをもつ権利が認められることになるわけではない。私はいま1億円ほしいが、1億円もっている権利をもっているわけではない(がんばって働いて1億円稼いで手に入れる権利はもっているだろうが)。多くの死刑囚はまだ生きていたいだろうが、もはやふつうの意味では生命に対する権利を持っていないと思う。
非同等説は、道徳的権利を基礎付ける上で権利とその権利に対応した能力の一致関係を前提とする。それゆえ、例えば苦痛を回避する権利は、感受能力に立ち返ることで痛みを感じる段階にまで発達した胎児や新生児にも帰属させることができる。こうした方法で生命初期における人間的存在を道徳的な保護対象と見なせるのであれば、人格概念は非同等説の陥るジレンマを回避する上でいかなる役割も果たさないということになる。
わからない。まあ人格かどうかという区別にさほど重要性を認めないでも倫理学理論はうまくいくと思われるが、それが「人格概念を放棄する」ということなのだろうか。別に放棄しなくてもいいのではないか。
第3節
私が読みとれたあらすじは次のようになる。ビルンバッハーのように、生命倫理学の規範的な議論において「人格かそうではないか」をさほど重視しない立場があり、ビルンバッハー実際に「放棄する」と言っているが、「人格」という言葉や概念がまだ重要な生命倫理学の領域がある。それが「臨死介助」の問題だということらしい。臨死介助というのは、国内では一般に消極的/積極的な「安楽死」とかそういうふうに呼ばれてる分野で、まあ本人が望んでいるときに、延命治療を控えたり、薬剤によって死ぬのを早めたりするのをさす。そうした臨死介助なるものが常に不正だとかってことにはならないし、場合よっては許されるべきだと多くの人思うと思うんだけど、本人が望んでさえいれば医療関係者がその人をさっさと死なせたりするのはやっぱりやばいわけだ。ではどういう場合に許されるか。瀬川先生によれば、ここでパーソナリティというものが大事で、パーソナリティにはある程度の一貫性が必要で、本人が望んでいても、それが過去のその人のパーソナリティにそぐわないものだったら本人のじゃないと考えていいとかそういうことを言いたいらしい。でもよくわからない。
だって、これってパーソナリティの一貫性とか、当人の意思が真正なものかとか、どういう意思を尊重するべきかとかそういう問題ではあるけど、第1節や第2節であつかっていた、ある存在者が人格であるかどうかが重要かどうかという話とはまったく関係がないですからね。
この論文も、けっきょく「人格」という多義的な語を避けて、「人」とか「パーソナリティ」という語だけをもちいればこんな変な議論にはならなかったと思うのです。
昔書いた論文でも指摘しましたが、この、「ある存在者が人格(人)であるかどうか、人格は他の存在者よりも重要な道徳的地位をもつか」という道徳的地位に関する問題と、「人格の同一性とパーソナリティはどういう関係にあるか」という問題は、まったく無関係とはいえないまでもあんまり関係がないんだけど、ものすごく混同されやすいと思います。これはとてもよくない。
『生命倫理』は日本では権威ある雑誌で、私は載せたことないけど査読も厳しいはずなのです。どういう基準かはっきりしないけど、投稿された論文は「原著論文」と「報告論文」に分けられていて、この論文が乗った29号だと原著論文が3本、報告論文が9本、落とされてる論文もけっこうあるはず。投稿は23本だったようだ。そういうキビシイ査読くぐり抜けても、トゥーリーみたいなごく基本的な議論がちゃんと理解されていなかったり、人格(人)とパーソナリティが混同されているように見えるのは私には本当に厳しい事態に思えるのです。
とかダラダラ書いてたけど、途中でいやになってしまった。また真面目に論文書き直す必要があるのだろうか。しかし、他人の議論のあら捜しなんてのになんか学問的な意義があるとは思えない。でもいつまでも同じような誤謬っぽい議論が権威ある雑誌にのっているのも困る。どうしたらいいかわからない。
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