胎児の道徳的地位の議論としては、メアリ・アン・ウォレンの論文も重要である。トゥーリーとウォレンの論文は、結論としては胎児はまだ十分な精神的活動をしていないので中絶は許容される、という似かよったものになっているが、議論の哲学的な内容はまったく異なっている。トゥーリーの論文よりはむしろウォレンのものの方が、基本的なアイディアとして広く受け入れられた形の議論になっている。
ウォレンはトムソンの議論の難点を指摘したのちに、中絶の道徳性に関する議論で使用されている「人間」(human being)は二つの意味を含んでいることを指摘する。遺伝学的な意味でのヒト(犬や猫やチンパンジーではないという意味で人間である)と、道徳的な意味でのひと(パーソン)(殺してはならない存在、権利をもつ存在という意味での人間)である。
中絶反対派と容認派の双方が、中絶される胎児がヒトの胎児であることを認めている。ここには対立点はない。むしろ対立点は、胎児はどの程度の道徳的地位(moral status)をもっているのか、子どもや成人と同じ権利をもっているのかということにある。言いかえると、胎児は道徳的な意味での「ひと(パーソン)」なのか、権利をもっている人々、殺してはならない人々の集まりである「道徳的共同体」の一員なのか、という問いが重要なのである。
私たちは「ひと」ではないものに対してさほど配慮をする必要はないと考えている。雑草を引き抜き、ゴギブリを殺し、牛や豚を屠殺して食べている。それではどのような存在が道徳的配慮に値する「ひと」なのだろうか。この問いに対して、「ヒト(ホモ・サピエンス)である存在」と答えるのは有効ではない。その場合、「なぜヒトは特別なのか?」とさらに問われることになり、この問いに対して「それはヒトだから」と答えるのでは単なる同語反復になってしまうからである。一方、もし私たちとまったく同じように考え感じコミュニケーションをすることができるが、ホモ・サピエンスではない未発見の動物や宇宙人がいるとしたら、それを好きに殺しても(たとえば珍味として食べてみても)道徳的に問題はないということになるかどうかは疑問である。そこで、「ひと」である条件を生物種に訴えることによって示すことは難しい。
ウォレンは私たちが日常的に考えている「ひと」であることの中心的な特徴として(1)意識、(2)推論の能力、(3)自発的な活動、(4)コミュニケーションの能力、(5)自己意識、の5点を挙げる。典型的な「ひと」であるヒトの成体(つまり私たち)は上の5つの特徴をもっているが、私たちが「ひと」と認める存在が必ずしもこの5つの能力のすべてをもっているとは限らない。たとえば認知症の老人は推論の能力を失なっているかもしれない。しかし少なくとも上の五つの条件をすべて欠いている存在は「ひと」とは呼べないだろう、というのがウォレンの見方である。初期の胎児が上の5つの特徴をかねそなえているということはないし、仮に胎児が痛みなどを感じる意識能力をもっているとしても、それは他の牛や豚といった動物も同様である。こうして、ウォレンは大胆に初期の胎児はグッピーと同程度の道徳的地位しかもっていないと主張する。
しかしウォレンは上の5つの特徴をもつ存在者がなぜ「ひと」であるのか、道徳的共同体の一員であるのかという理由は説明していない。単に私たちの多くはそう考えているはずだということしか示していない。また、このウォレンの議論も、「ひと」であることの条件として精神的な能力や活動に注目するために、トゥーリーのものと同様に新生児や重度の認知症の老人などを死なせることを正当化してしまうように思われる。そのため、非常に不愉快で不道徳な見解だと考える読者は多いだろう。この点に関してはウォレン自身も気にしており、この論文がアンソロジーに収録される際には「新生児殺しに関する追記」を付記するよう求めている。
しかしここで注意しておかねばならないのは、もし(たとえば経済的な理由による)殺人は禁止しながらも妊娠中絶が正当化されると考えるとすれば、胎児の道徳的地位は成人ほどのものではないということをなんらかの形で立証しなければならないということである。そしてまた、食べるために牛や豚を殺すことは許されるが、ヒトを殺すことは許されないと考えるのであれば、それがなぜであるのかを「ヒトを殺してはならないのはそれがヒトだからだ」などという同語反復ではない形で説明しなければならないということである。もし胎児を殺すことが不正であるのであれば、他の動物を殺すことも不正かもしれない。もし胎児を殺すことが不正ではないのであれば、胎児と同じような意識状態にあるヒトを殺すことも不正ではないかもしれない。こうしてトゥーリーとウォレンの論文以降、胎児や新生児、他の動物の道徳的地位の問題が「ひとであるとはどのようなことか」という問題として重要な哲学的課題として浮かびあがってきたのである。
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