牟田先生たちの科研費報告書を読もう (5)

もう一つあげましょう。牟田先生は、「ギデンズが論じるように、法的な平等が保障されジェンダー平等への道が見えつつあるからこそ、性暴力やジェンダー暴力がいっそう生み出されているとすれば」と言います。この文章に対する注は

ギデンズは、「男性の性暴力が性的支配の基盤をなしているというとらえ方は、以前よりも今日においてより大きな意味をもつ……今日、男性の性暴力の多くは、家父長制支配構造の連綿とした存続よりも、むしろ男性の抱く不安や無力感に起因している」(ギデンズ 1995: 183)と論じている。

です。実はこのギデンズに依拠した牟田先生の文章は前にもブログでつっこんでいるのですが、今回本当にギデンズがこんなこと言ってるのかちょっと調べてみました。

別の論文 1)牟田和恵 (2015) 「愛する:恋愛を〈救う〉ために」、伊藤公雄・牟田和恵編、『ジェンダーで学ぶ社会学』(全訂新版)。これについては、別の記事でコメントしました。では牟田先生は、「ジェンダー平等が進展するほど、男性による暴力や支配が起こりやすくなる」と考えているようで、その根拠にギデンズ先生を使ってるわけですね。しかし、男女平等が進むと性暴力が増える、みたいなの信じられますか? 私は信じられない。その逆でしょ。男女不平等なほど性暴力は多いだろうと思う。ギデンズ先生がそんな馬鹿げたことを言ってるとも信じられない。

んでギデンズ先生の『親密性の変容』を見てみると、性暴力を論じているのはまあごく一部ですわね。んで、男女平等になって性暴力が増えてる、みたいなばかげた主張もしていない。

私の読みでは、ギデンズ先生がやってる議論はこうです。男性の女性支配っていうのは、近代までは、男性が女性を「所有」し隔離するという形でおこなわれてました。女性は家庭生活のなかで暴力にさらされることはあっても、家族以外からそういうことを受けることは少なかった、なぜなら隔離されていたから。レイプとかは、戦争とか征服とか略奪とか植民地とかそういうトラブルの時に起こる。(でもそういうトラブルはもちろん多い)でもそうした暴力っていうのは男同士でもふるいあっていて、男性も十分危険な状況で生きていた。

現代社会では、それいぜんよりは比較的暴力が抑制されていて、男性同士の暴力も少なくなって、暴力といえば男女間の暴力、性暴力が注目されるようになった。そこで上の

「男性の性暴力が性的支配の基盤をなしているというとらえ方は、以前よりも今日においてより大きな意味をもつ……今日、男性の性暴力の多くは、家父長制支配構造の連綿とした存続よりも、むしろ男性の抱く不安や無力感に起因している」

の引用文なんすよ。牟田先生が原文確認しているかどうかわからないけど、ここの「大きな意味をもつ」の原文は

It makes more sense in current times than it did previously to suppose that male sexual violence has become a basis of sexual control. (原書p.122)

で、「昔よりは今についての方が、男性の性暴力が性的支配の基盤になった、っていう考えかたが、make more senseする/筋が通ってる/理解できる/もっともらしいですね」ですわ。このブログでも何回か議論したブラウンミラー先生あたりの「レイプは昔から男性が女性を支配する脅しの手段だった」っていうのをむしろ否定してるんですわ。

まあもうすこしギデンス先生を解説しておくと、そのあとは

In other words, a large amount of male sexual violence now stems from insecurity and inadequacy rather than a seamless continuation of patriarchal dominance. Violence is a destructive reaction to the waning of female complicity. (p.122)

「言いかえれば、男性の性的暴力の大部分は、今では、たえまなく続く家父長制支配というよりは、男性の不安と無力感に由来している。暴力は女性の(男性との)共謀関係の衰えに対する破壊的な反応なのだ」ぐらいっすか。

これはまあ読みにくいしギデンズ先生がどれくらい自信あって断言しているのかわかりませんが、フェミニストが言うような家父長制のためとかってよりは、男性自身が不安だから性暴力振ってしまうんでしょ、ぐらいね。女性が男性に協力してくれなくなったから、それに破壊的な形で反応してるんでしょう、と。でもそうした性暴力全体が「増えてる」なんてぜんぜん言ってないですからね。

で、ここ見てたらもっと大きな問題を見つけてしまいました。この引用文のすぐあとで、ギデンズ先生は、女性もけっこう男性に対して身体的暴力を振ってるよとか、女性同性愛でも性暴力はけっこう頻繁だよとか、雑誌のセックス悩み相談に手紙を送る男性たちは、女性の性的満足のために自分の問題を解決しようと悩んでるみたいだよとか、売春婦のところに通う人々の多くは(牟田先生が想像している「女性を組み敷く」みたいな能動的なセックスのためではなく)受動的な役柄を演じたいと望んでいるよとか、まあそういうことを紹介しているわけです。これ、牟田先生が、この論文で想像している男性の一方的セックスとか暴力的で凄惨な売買春現場とかとはぜんぜん違ったものです。なぜ自分が引用している箇所の次のページ(翻訳p. 184)でそうした自分に不利な知見が紹介されているのを無視してしまうのですか。

やばい。(おそらくまだ続く)

References[ + ]

1. 牟田和恵 (2015) 「愛する:恋愛を〈救う〉ために」、伊藤公雄・牟田和恵編、『ジェンダーで学ぶ社会学』(全訂新版)。これについては、別の記事でコメントしました。

牟田先生たちの科研費報告書を読もう (4)

上野千鶴子先生が「嘘はつかないけど不利になることは隠す」とか発言しているのが発見されて、ツイッターの学者研究者界隈に動揺が広がってるようですが、まあそういう感じありますよね。特にフェミニズム/ジェンダー論まわりでは目につく。というか、昔からフェミニズムまわりではつらい経験をすることが多かったのですが、「嘘は書かないけど自論の不利になることにも言及しない」ぐらいの原則でやってるのだと思ったら理解しやすいことは多いです。

牟田先生の論文でもそういうところはあって、たとえば去年SNSで話題になった事件について、こういうふうに書くわけです。

日本では、5月に、伊藤詩織さんが、元TBS記者の山口敬之氏からTV局での仕事を紹介するからと酒席に誘われて酔わされた状態で、ホテルに連れ込まれレイプされたことを実名で告発した(伊藤 2017)。山口氏は安倍首相の伝記本を複数著している首相ご用達ジャーナリストであるところから警察権力の介入によって逮捕を免れた疑惑さえある。しかしこの事件はネット上では拡散し詩織さんのサポートの声がひろがったものの、一般のTVや新聞等の大メディアはほとんど報道せず、現在のところ捜査が再開される様子も無い。

この文章には嘘はない、というかまあSNSで知られているそのままが書いてあります。でも、山口氏が合意の上のセックスだと主張していること、東京地検が嫌疑不十分で不起訴処分にしたこと、検察審査会でも不起訴相当と判断されたことは書かれていない。デュープロセスや推定無罪、疑わしきは被告の利益に、という非常に重要な原則についても論文全体を通しても触れられていない。(実は推定無罪という言葉は、この科研費報告書全体でも一度も使われていないようだ。)はたして科研費報告書のようなもののなかで、山口氏の名前を出すのが適切かどうかわたしには判断ができない。

古久保先生の論文でも

続いて若者の性暴力(大学生における性暴力事件)の頻発について、テーマとしている。これが性暴力問題に関する1回目の授業になるが、そこでは性暴力被害者に焦点をあてるというよりも、むしろ二次加害者・傍観者という立場に焦点をあてて授業を進めている。これは、過去の大学でのレイプ事件の際に、加害者の「友人」たちがSNSを使って二次加害行為を行ってしまったという歴史的経緯を踏まえて行っているものであり、信頼している友人が加害者だと訴えられている事実を知ったときの認知的不協和を想像してもらいながら、二次加害の問題性を説明している。この授業を通じて、学生に性暴力が身近なところにあることに気づかせることにもなるが、実際、この段階で感想文のなかでは、「自分の友達」の性暴力被害についての言及が毎年出てくる。

という表現があるのですが、これはおそらく、2009年にあった京都教育大学集団準強姦事件と呼ばれてるやつをモデルにしてますよね。でもあれは、判決文などで知られている範囲ではかなり微妙な事件ですし、二次加害が云々の話もどれだけ古久保先生がデータをもっているのかわかりません。実際の裁判判決等の事情をふつうに書いたらやっぱり古久保先生たちには不利になるだろうと思います。それに、それこそこういうのが、「加害者」とされた人々への伝聞による加害ではないのかと心配になります。この報告書で触れられている他のトラブル・裁判例についてもそうした不安は同様です。

性暴力まわりの裁判とかについては、そうした「嘘は書かないけど自説に不利なことも書かない」みたいなのが一般化しているようで、非常につらいです。「これおかしいな」と思って判決文とりよせたりするとぜんぜん印象の違うことが書いてある、のようなのは頻繁で、フェミニスト学者の先生が出してくる裁判事例は、私はそのままでは信じない習慣がついてしまいました 1)このブログやtwilogにも角田由紀子先生や小宮友根先生の本での判例紹介についてのコメントが残ってるはずです。

こうした「嘘は書かないけど不利なことは隠す」という態度と、権威の発言や文献を恣意的に使う、というのは密接な関係にあるように思います。こうなってくると、意図的に勝手な使いかたをしているのか、あるいは勘違いその他のためにまちがってしまっているのかわからない場合がある。牟田先生の論文から二つ挙げてみたい。

一つは次の文章です。

セクハラに関する法理を打ち立てたアメリカのフェミニスト法学者キャサリン・マッキノンが「はっきりしているのは、自由に選択したとみなされている「真実の愛」と、頭に突きつけられた銃のようなものを意味する強制とを対立させる硬直した二分法では、女性のセクシャリティがどのように社会的に形づくられているのか、そしてそれが表現される条件――経済的なそれを含めて――がいかなるものであるかと説明するのには十分ではないということである」と述べているように(マッキノン 1999:103)、上司など職業上重要な関係にある相手からの性的なアプローチや性的言動をすぐにはっきりと断るなどきわめて困難であり、対応に曖昧さやためらいがまとわりつくのも当然だ。

牟田先生がマッキノン先生の文章をどう解釈しているのかはよくわからないですが、「セクハラされてるときに女性は簡単には断れないのだ」ということを主張する根拠になると解釈しているようです。

でも実はこれ、もっと広い文脈で見ると、マッキノン先生が主張しているのは「上司と部下のセックスでも、はっきり強制やレイプ(まがい)と言える場合もあるけれども、はっきり合意と言える場合もあるし、さらには、はっきりどちらともいえないような微妙でグレーなケースもあることはやっぱり認めなきゃならないね、でも少なくともはっきりしているやつはアウトだ」っていう文脈なんですわ。

私の読みでは、マッキノン先生は教育や秘書業務とかの現場で、尊敬や業務上のふるまい、あるいは利益なんかと恋愛感情や性欲がごっちゃになってしまうということを指摘した上で、

以上述べたことは、セクシャル・ハラスメントの法的成立条件を明らかにする論点ではなく、法的にはむしろ不利な事例を検討してみることによって、その社会的真実を明らかにすることができる論点である。

って述べてるわけです。マッキノン先生は80年代はかなり強硬で一方的な議論をするようになるのですが、少なくとも70年代はこうして自分たちに不利な事情があることも認めた上で、それでもなおセクハラっていうのはなくすべきだ、はっきりしているのは撲滅すべきだ、と主張しているわけです。牟田先生が使ってるように「マッキノン先生が指摘しているように女性は簡単に断われないのだ」っていう文脈のものではなく、「同意か強制かよくわからないケースもあるんだから、たしかに白とか黒とかはっきりしない場合もありますよ」ってことを言おうとしている流れなのです。まあマッキノン先生のこれは立派な態度だと思いますね。現代のフェミニストの先生たちにもそうしてほしいと強く願います。

(この項続きます)

References[ + ]

1. このブログやtwilogにも角田由紀子先生や小宮友根先生の本での判例紹介についてのコメントが残ってるはずです。

牟田先生たちの科研費報告書を読もう(3)

牟田先生のセックス平等の話をするまえに、もうすこしだけ他の論文に簡単なコメント。

元橋利恵先生の「新自由主義セクシュアリティと若手フェミニストたちの抵抗」は、二つの話題があって、「女性は自分の性器の呼び名がない」みたいな話と、「最近は女性が競争(新自由主義)のために男向けにいろいろ努力してる」みたいな話をくっつけようとしてるみたい。

まあ性器の呼び名みたいなのは古い話で、ろくでなし子先生みたいな方もいらっしゃるのだから好きにすりゃいいのにと思いますが、まあいいです。そもそも英語圏女性も自分のそれを「ヴァギナ」とは思ってないと思うし、そもそもその部分をヴァギナとか穴とかと見てるのかどうか、はたしてそれが女性の実感なのかどうか私はちょっとわからないところですが、まあいいです。あんまりやるとバレ噺になっちゃうし。

本論の新自由主義的セクシュアリティなるものはけっこうおもしろくて、わたしが今注目しているキャサリン・ハキム先生のエロチックキャピタルをネガティブに見た話ですわね。紹介しているウェンディ・ブラウン先生ってのはずいぶんと左翼ですが、別の見方もありそうなのでがんばってほしいです。

荒木菜穂先生の「日本の草の根フェミニズムにおける「平場の組織論」と女性間の差異の調整」も勉強になりました。まあ組織ってどこでもむずかしくて、とくに女性だけのグループっていろいろ難しいってのは、荒木先生も文献にあげてる西村光子先生の『女たちの共同体』他でいろいろやられているので、ここらへんも研究すすむといいっすなあ。まあ男子としては、「きみら女性はそんな組織化得意じゃないっしょ」みたいなの言いたくなるけど、私も組織とかグループとか苦手だから。ははは。

伊田久美子先生の「イタリアにおけるフェミニズム運動の新たな動向」はすみませんがまだ読んでません。

北村文先生の「国籍/エスニシティ/階層を超える・つなぐフェミニズム」はかなりおもしろくて、個人的にはこの論文集で一番勉強になりました。まあ女っていったっていろいろ対立があるってのを、アジアで女中さんをやとってるマダムvsメイドって形で見てる。でもマダムが一方的な支配者ってことはないよね、みたいな話。男女関係だって男性が一方的に支配者とかってのはなさそうなので、ここらへんの研究もすすんでほしいです。

熱田敬子先生の「日本軍戦時性暴力/性奴隷制問題との出会い方」もまだ読んでないです。

岡野八代先生の「道徳的責任はなにか」はやはり倫理学にかかわりをもつ人間として読まざるをえなくて読んだのですが、従来の「男性的」な倫理学がよくない、っていうのを言うのにウォーカー先生は〜と言ってる、ぐらいしか根拠がなくて、私は不当ないいがかりではないかと思います。ケア倫理と従来の倫理学の関係については、むかし品川哲彦先生の『正義と境を接するもの』の書評もどきをやったときに考えました(ブログも残ってるはず)。まだ岡野先生みたいなやりかたをする人がいるなら、もっとちゃんとした文章書いておかないとならないなと思いました。

まあでも(まだ読んでないのを含めて)どれもまじめで、科研費研究報告としては十分というか立派ですよね。えらいと思います。

「性的モノ化再訪」レジュメ

そういや、この前研究会で発表したレジュメおいときます。まあこんなこと考えてる。いつものようにあわてて書いたからあちこちよれていて、余計なこと書いてたり、わかりにくかったりしてだめなんですが、今年中にまともな論文にできるようにしたいとは思ってます。すみません。

牟田先生たちの科研費報告書を読もう(2)

牟田先生の論文のセックスの平等まわりの議論はいろいろおもしろくて、学問として議論したいところがあるのですが、その前にもうひとつどうしても問題を指摘しておきたい論文があります。

古久保さくら先生の「運動と研究の架橋:世代の架橋としての教育の可能性」です。

この論文は大学でジェンダー平等教育をやってらっしゃる古久保先生が、どういう授業実践をしているのかっていうのことと、セックスにおける「自己決定」をどう考えるか、というのの二つがテーマで、これは問題として重要で論文の価値があります。くりかえしますが、私はこの科研費研究の報告書を公開していることはとても高く評価していて、現在の日本のフェミニズムのよいところと悪いところの両方がよくわかると思っています。

性教育はとても重要です。小中高での教育がいろいろ言われるけど、私は大学でも性教育もとても重要だと思ってます。生命倫理学や倫理学・応用倫理学の授業とかでも、いきがかり上、生殖や性暴力についていろいろ説明して理解してもらわなければならないことも多い。でもどういうふうに授業すればいいんだろう?

古久保先生はとにかく女性は犠牲者だっていうのを強調するタイプの授業をしているみたいですね。仁藤夢乃先生の「買われた展」 1)これ京都でもやったんですが、事前に住所指名を明記した予約とかしなきゃならなくて入れませんでした。 とか紹介するみたい。仁藤先生は私ちょっとどうかと思ってるんですが、まあそれはいいです。

次はyoutubeのオランダの飾り窓のダンス。これはいかん!私腰ぬかしましたよ。動画は前から知ってましたが、これをそのまんま授業教材やなにかの論拠に使うとは。

これ、詳しい情報が英語ではあんまり出てこないのでよくわからないのですが、犯罪的トラフィッキングの犠牲者が、「このアムステルダムの飾り窓の中にいる!」とか、本当ですか? ただのパフォーマンスじゃないんですか? オランダって本当にそんな野蛮な国なんですか? パフォーマンスと事実の区別がつかなくなってませんか?

んでそういうふうに「売春している(若い)女性は犠牲者だ」って教えこんで、学生様にディスカッションさせるらしい。するとだいたい「許せませーん」とか言ってくれるんだけど、少数の学生様は「それ自分で決めてやってるんだったらええんちゃうか」って言うこともあるみたいですね。これは自然な発想だと思う。強制はいかんが、ちゃんとした年齢でちゃんと考えて自分からやってるなら、セックスワークはかまわんのではないか、という人々はたくさんいますよ。友人にセックスワーカーがいる学生様などは「いやいやではないって言ってました」とか指摘する。

ところが、古久保先生はそれでも売買春は悪いことだ、性差別だ、それを望んでする人はいないって思いこんでるみたいなんですよね。いちばん気になったのは、「性サービス産業に従事する友人をもつ学生も何人もいる」「性サービス産業に従事している若年女性は受講学生の近くにもいるのであるが、本人たちの姿を「納得している」「楽しそう」な姿として理解する」とか書いちゃってるんだけど、先生、先生のクラスには「友人」じゃなくて本人たちもいるでしょう。先生が「売春は被害です、セックスワーカーは犠牲者なのです」みたいな話ばっかりしているから「私もやってますけど」って言えないだけじゃないですか?

応用倫理学とかやってると、中絶とかセクマイとか性暴力とかセクハラとか、性教育まわりはいろんなこと話しなきゃならんわけですが、100人200人の講義してたら(大講義じゃなくても)そういうのをすでに経験しているひとびとが一定数いることは当然のことですよ。なにが「友人」ですか。長年そういう授業していったい何をいってるのですか。私はそういうのは許せませんね。そしてそういうのがフェミニズム教育だかジェンダー教育なのだとしたら、そういうのいらんのではないでしょうか。

まあその後ろの方の紆余曲折した議論はあんまり文句ありません。我々は自己決定が大事です。性産業はかなり難しいサービス業で、みんなが簡単にできるようなものではありません。特に若い人々ができるようなものではないし、いろいろ危険なのでせめて18歳ぐらいで規制しておきましょう。ちゃんとした自己決定ができるようになるために、家庭や教育は大事だし、ちょっとずつ自己決定したり拒否したりする訓練をしていかねばなりません。こんなの、誰だって言ってることじゃないですか。いったいなにをしてるんですか。

最初から性産業は特別な仕事だ、よくない仕事だって思いこんでるから自己決定だけじゃだめだって言いたくなるんではないですか? 危険な仕事はほかにもたくさんあります。そして、多くの場合、人々はいろんな選択を繰り返しながら自己決定を学んでいき、一部の人は危険な仕事をみずから選択する。強制される場合は社会がそれを保護しなければならないし、強制する奴等は罰しなければならない。まあそういうのは私も同意します。

でも古久保先生は、けっきょく、

自らのセクシュアリティを「自然」と位置づけ、性暴力被害の結果すら「自己責任」とみなそうとする学生の意識は、15回の講義を終了してすら変わっていないことがある。まじめに授業と対峙しなかったからなのか、対峙できなかったからなのか、彼らが何に怯え、何に傷ついているから「抵抗」をしているのか、授業の感想からでは理解しきれない部分は大きい。「抵抗」を理解するところから、社会的公正教育の実効性は高まる(……)とされるが、80-100人程度のクラスでそれはなかなかに困難なことではある。

ってな感じで学生様に対する違和感や(自分自身の)抵抗感を表明しておられますが、それって学生の方ではなく先生の問題なんじゃないでしょうか。あまりに自分の価値観を学生様に押しつけようとしてないですか? 「まじめに授業と対峙しなかった」だの「対峙できなかった」だの、学生の反論を「抵抗」呼ばわりして大丈夫なのですか? それに、飾り窓の件のように、おそらく事実じゃないことを事実だと思いこんでませんか? もうすこし学生様たちの言い分を聞いてみてはどうでしょうか。私は本当にがっかりします。

References[ + ]

1. これ京都でもやったんですが、事前に住所指名を明記した予約とかしなきゃならなくて入れませんでした。

牟田先生たちの科研費報告書を読もう(1)

フェミニストの牟田和恵先生たちの科研費研究の使途がおかしいのではないか、みたいな難癖みないなのが話題になって、それに反応してか先生たちのグループが成果の電子書籍を公開してくれたので、ちょっと読んでみました。公開えらい。

私の印象では、ちゃんとしたグループ研究だと思いますね。立派だ。えらい。一部には「ジェンダー平等のための〜」っていうタイトルなのに、いわゆる慰安婦問題を中心にした研究にしぼられているのはどうなのかという声もあるようなのですが、まあジェンダー平等とかって目標の一部に慰安婦問題の考察が必要不可欠なのだ、みたいな立場だったら許されるのではないか。研究計画とか読んでないからわからんですが、まあそういうのはあんまり関心がない。

んで内容としてもろにセックスの話をあつかってるとわかる章だけ読んでみたんですが、研究として立派だとは思うものの、いろいろ言いたいことは出てきますね。

最初に言いわけしておくと、この論文集はいわゆる朝鮮半島での従軍慰安婦問題ってやつが中心になってて、そっちの方は私詳しくないのでそんなコメントできません。半島で軍が直接女性を狩り出したとかってことはあんまりなさそうだけど、でもいろんな業者に騙されたり売られたりして、とにかく本人の意に反していわゆる「慰安婦」になって/させられていたたひとはかなりいたろう、日本軍が間接的に関与してたことはもちろんあったろう、そして労働環境が劣悪な場合もかなりあったろう、ぐらいの認識です。日本軍は他の地域ではもっと直接的に邪悪なことをしていたとも思ってます。


んでまあ読んでみると、かなりいやな気分になるところがありました。いくつか指摘してみたいと思います。

牟田和恵「なぜ「慰安婦」はこれほどバッシングされるのか:性暴力をめぐる新たな認識をめざして」

牟田先生たちは台北の公娼館跡地を訪問して、昔そこで公娼をしていた白蘭さんという人に話を聞いたようなのですが、彼女はその公娼館にいたころが一番よかった、って言ってるらしいわけです。

幼いころから極貧で親に売られ苦労してきた白蘭さんにとってここで働いていた時代が、することを自分で決めることができ、一日3人も客を取れば十分生活できた、一番いい時期だったからと、公娼館の閉鎖後、食い詰め体を壊した彼女はここで死にたいと瀕死の状態で戻ってきていたのだった。

ということらしい。ところが牟田先生はその部屋を眺めて、

右奥の部屋は、かつて女性たちが客を取っていたままのかたちで保存されているのだが、そこは、セミダブルの寝台が部屋のほとんどを占め、化粧台等が端に置かれている。廊下や隣の部屋との境は薄いベニヤ板のような間仕切りで、しかも天井まで仕切られているわけではなく、上が10センチくらい空いている。ここで一回15分で客たちは「女を買って」いた。

この薄暗い部屋にたたずみながら私は、そこで行われていたのはいったい何だろうかと疑問を抱いていた。それは果たして「セックス」なのか?話し声は筒抜けでプライバシーの無いここでは、娼妓と客のコミュニケーションなど、身振りでのやり取り以外にはほとんどなかったであろう。男がズボンと下着を下ろし、女の上にのしかかり、ペニスを突き刺して擦り、射精するだけで終わるような15分だったであろう。それはどのような15分だったであろう。それはどのような意味でセックスなのだろうか?

といろいろ想像をめぐらせている。まあこれはよくわかります。15分じゃたしかに短かそうですねえ。でもほんとに15分なんだろうか。牟田先生は、上の白蘭さんが、15分で1日3人お客さんとって、計45分で3回セックスすると(楽に)生活できた、と想像しているのだろうか。そんなものなのかな。そこらへん、白蘭さんに聞くことはできなかったのかな。むずかしいですか。むずかしいでしょうな。聞きにくいわね。

でも、私はそういう場所に行ったことがないのでよくわかりませんが、同じような仕組みでやっていたはずの大阪飛田のは、井上理津子先生という方が『さいごの色街 飛田』というルポで描いてるんですね。かなり取材していて、良質なルポだと思います。そこだと、20分か30分が選べて、20分だと1万5千円(当時)とかで、けっこういろいろ話をしたりさまざまな交渉したりするらしいです。もうちょっとリアルな描写もあります。どうも「組み敷く」みたいな形ではない。当時の台湾や朝鮮半島でどうだったかはもちろん知らんけど、それほどちがってたろうか。まあ飛田に限らず、昭和初期からしばらくの遊廓やちょんの間や私娼窟みたいなのがどういうものだったかというのはいろいろ文学作品が残っていて、わりと正確に様子がわかるはずですね。そのころの朝鮮も外国というよりは日本帝国の一部だったわけだからそんな大きくちがってたわけでもないんちゃうかという気もします。なかにはおそらくやっぱり悲惨なやつもあれば、そうでもないのもあるだろうと思う。おもしろいかどうかわからないし、あんまり上品なものでもないし、つらいと思えなくもないけど、*牟田先生が思ってるほどは*悲惨ではないかもしれない。

でもこれは私が気になる問題ではないのです。私が問題にしたいのは、牟田先生がわざわざ現地調査に行って、「ここにいたときがいちばんよかった」とまで言うお姉さんの話を聞いていながら、たんに「それはどのような意味でセックスなのだろうか?」と想像するにとどまっていることですね。

牟田先生は(おそらく)性風俗一般について、「カネを払って「同意」を買っているとはいえ、それはレイプとどう違うのだろうか。」、買春は「幾ばくかの金銭によって同意を擬制しただけのレイプではないのか?」という疑問を持ち、「私たちはそれを長らく、合法・非合法を問わず、「セックスをカネで買う」商行為とみなしてきたが、実はそれは、経済的社会的力関係の下でなければ生じえない性交の強制、すなわちレイプに他ならないのではないか」とおっしゃる。

んじゃ上の白蘭さんはレイプされいた時代が生涯で一番よい時代だったということになる。それでいいのだろうか。さらに気になるのは、その文章につけられた注ですわ。

ここでの記述は、現実のセックスワーカーの方々とその現場について述べているのではなく(実際、上述の通り白蘭さんが、文萌楼で公娼として働いていた時期が自分の人生で最良だったと語っていた事実は重い)、性行為の「同意」についてラディカルに考えるならばこうした見方ができうるのではないかという理論的な問題提起であることを断っておく。

これを見たとき、私ほんとにいらいらして禁煙していたタバコ吸ってしまました 1)あえて書いておけば、もちろん牟田先生が言いたいのは、公娼として働いているときがベストだったと言わねばならなおいほどつらい人生を送らねばならない人生とはどのようなか、という共感なのはわかっているつもりです。。実際に人々がおこなっているセックスはどのようなものかと調査したり考えたりするよりも、まず「ラディカルに考えるならばこうした見方ができうるのではないか」ってのを優先するというのは、いったいどういうことなのかわたしにはわからないです。なぜ牟田先生はわざわざ取材・調査に応じてくれた白蘭さんの言葉や思いをもっと紹介してくれないのだろう。なぜ白蘭さんという生身の人の生身の経験を踏み台にして、いきなりアメリカの白人インテリのラジカルフェミニストの理論から見た売買春の話にジャンプしてしまうのだろう。

「慰安婦」とか債務奴隷の状態にされた人々のなかにものすごく悲惨な経験をした人々が、かなり多数いるのはまちがいないところだと思うわけですが、だからといって「ラディカルに考える」ために、人々の姿を勝手に想像し押しつけるのははまちがっていると思う。それがフェミニズムとか哲学とか社会学とかだったら、そういう学問はなくてもよいのではないかとさえ思ってしまいました。(続きます)

References[ + ]

1. あえて書いておけば、もちろん牟田先生が言いたいのは、公娼として働いているときがベストだったと言わねばならなおいほどつらい人生を送らねばならない人生とはどのようなか、という共感なのはわかっているつもりです。

「飲み物を飲んだら急に眠くなって、気が付いたらセックスの最中だった!」はおかしいか

なんか、内閣府男女共同参画局関係の広報が炎上していたようです。

「飲み物を飲んだら急に眠くなって、気が付いたらセックスの最中だった!」というツイートが話題になっていて、これは「セックス」ではなく「レイプ」と書くべきだろう、のようなコメントがついているようです。どうでしょうか。

「セックスの最中」っていうワーディングはなんかへんな感じがするので、「飲み物を飲んだら急に眠くなって、気が付いたらセックスされていたようだ」ぐらいだと問題なかったかもしれませんね。なんだか「最中」がへん。

ただ、これセックスをレイプにおきかえて、「気が付いたらレイプの最中だった」にするのはあんまりよくないと思います。

ここで注意しておきたいのが、やはり言葉の定義の問題、そして記述的意味と評価的(規範的)意味と呼ばれるものの区別です。

倫理学のふつうの理解では、評価的・規範的な言説、つまり「〜はよい」とか「〜するのは悪だ」といった会話などをするとき使われる語については、それが記述的な意味しかもってないのか、それとも評価的な意味も含んでいるのかを注意するべきです。

定義はそれを自覚していればどうやってもいいようなものですが、まあ「セックス」の意味は、ふつうはなにか二人以上で体を使ってエッチなことをすることで、まあ性器挿入とかそういうのがないとセックスと言わないって人もいるかもしれませんが、ここではもっと広くとりましょう。素敵じゃないセックスはセックスじゃない、っていう人はあんまり多くないでしょうね。よいセックスもあれば悪いセックスもある。こういう言葉は記述的意味、つまりその2人なり3人なりがやっているのが体を使ったエッチなことである、ぐらいのことを意味しています。

一方レイプは、ふつうの理解では「強制的に、あるいは相手が抵抗できない状態でセックスすること」ぐらいでしょうか。これも性器挿入がないとレイプじゃないっていうひともいれば、もっと広い範囲をレイプと呼ぶ人もいるでしょう。これは「レイプ」と呼ばれる行為の「記述的な」範囲が人によって異なっている、ということです。どっからがレイプになるかは、もし必要があれば定義しなければならない。とりあえず、いろいろあるセックスのなかで、レイプは強制的なものセックスである、ということになります。レイプよりセックスの方が指し示す範囲が広い。

注意すべきなのは、「レイプ」は、ふつうは、ひどく悪く、不正なことであり、非難され罰されるべき行為である、と理解されていて、「それは悪い」という評価的・規範的な意味ももってることです。ことです。「よいレイプ」というのはふつうはないと考えられているので、「彼は悪いレイプをした」のような表現も冗長であると考えられます。レイプは悪いセックス、不正なセックスの代表であるわけです。

この男女共同参画局の広報では、アルコールなどで意識がないときにセックスされたり、触られたり、動画をとられたりするのが性的な被害でありそれをした人々は非難され罰されるべきだ、被害を受けた人は被害を受けたと考えて当然だし、できればそれを訴えてください、という広報なわけです。あなたがされているセックスは悪いものであり、レイプだ、って言いたいわけなので、まあ広報ではああいう形になるのがただしいと思いますね。とりあえず、意識がないのにセックスしていた、ということはわかるって人々に、それは被害を受けてるんですよ、って言いたいわけだろうし。それが狭い意味の「レイプ」かどうかとか、強制性交罪とか強制挿入だかなんだかそういうのに当てはまるのかどうか、とかそういうのはあとでいい話。

レイプが非常に悪いことであると正しく理解している人々は、広報の「セックスの最中」というのはやはりそれが悪いことであることを示すために、評価的・規範的意味を含んだ「レイプの最中」におきかえて、それがとてつもなく悪いことであることを強調しようとしたいと思うのかもしれませんが、それはあまり効果的ではないかもしれない。

最初から「薬を盛られてレイプされている最中だった」と考えることができる人であれば、それはレイプだというのは当然わかっているわけで、この広告が対象としている人々ではない。

もちろんもっと別のうまい書き方はできるのですが、そんなに気になるほど悪い書き方でもないと思います。


んで、「レイプはセックスではない」って言いたいひとは、「セックス」をもっと狭い意味でとらえているのですね。「2人以上が同意の上で、体を使ったエッチなことをするのがセックスだ」ぐらいの定義かもしれません。これだとレイプは同意がないのだからセックスではない。そういう意味で使うひとはそれでもいいです。でも今度は、「同意のあるセックス」とか「同意のないセックス」とかっていう表現が、矛盾したり冗長だったりすることになります。

どういうふうに言葉を定義するのがうまいかかっていうことは主張しようとしている内容や場面によって変わってくるので一概には言えませんが、私の好みは、語はなるべく記述的に、そして広く定義して、必要なときはいちいち形容語をつける、ぐらいの方針です。

セックスは「2人以上でするエッチなこと」ぐらいにしておけば、「オーラルセックス」は片方が口でするエッチなこと、「性器セックス」は2人が性器をつかってするエッチなことぐらいであることが明示できる。最初からせまく「男性と女性がそれぞれ性器つかって、男性が女性に性器を挿入すること」とか定義しちゃうと、それ以外の形のはセックスじゃないことになっちゃいますからね。同意のあるセックス、ないセックス、とかも言えるし。

実はこれ、どういうふうに定義しても、つまり、語を広く定義しても狭く定義しても、そして記述的に定義しても評価的意味も含むように定義しても、ちゃんと議論をすれば同じような前提から同じような結論が出ます。レイプ(=強制的なセックス)がわるいことであるのは、「レイプ」が悪いことであるという定義によるのではなく、強制的なセックスが悪いことだからであって、それが悪いことであるのは、ひどく人を傷つけ、自律を損ない、身体的に痛めつけ、などなど、人に被害をもたらしたり、尊厳を傷つけたり、法律に反したりするからです。

相手がなにを言おうとしているのかをちゃんと読み聞きしようとせずに、自分自身の定義(たとえば「セックスは同意のあるものだけ」)を押しつけたり、相手の言葉だけをとらえて、その定義をたしかめずに非難するというのはとてもよくないことなので、いちおう定義たしかめたり発言の真意を探ったりしてみてほしいですね。

あととりあえず酒の飲み過ぎには注意してください。性的被害だけじゃなくて死んだりするし、お店のトイレとか汚れるのも迷惑です。死ぬかレイプされるおそれは非常に大きなものです。一気呑みとかするサークルは即やめましょう

また、お店の人も儲けのためといって黙認しないで、ちゃんと止めてください。私はそういうの放っておくのはお店の人たちも同罪だと思います。

おじさんおばさんは、一気呑みしているグループがあったら勇気を出して止めましょう。リーダー格のにトイレで「ほどほどにね」ちょっと一言言う、ぐらいでも効果あるかもしれません。

まあとにかくお酒には注意しましょう。

あと酒飲みセックス、酔っ払いセックスはいろいろ考察に値するおもしろいネタがあるんですが、それはここらで。

(あれ、なんで(2)がないんだろう?)


尊敬する先生がもっとわかりやすく正確な記事を書いてるのでそちらをどうぞ。 https://flipoutcircuits.blogspot.jp/2018/03/blog-post_29.html

最近活躍している谷田川知恵先生の強姦被害者16万という数字は雑すぎる

下のを書いたあとに、問題はもっと複雑だし、たしかに性暴力被害の問題は深刻だよなと思って消してたんですが、まあ一回公開したものだし置いときます。また考えなおします。


谷田川知恵先生という方は実は前から注目していて、どういうかたかわからないのですが、いろいろ雑な印象があります。ジェンダー法学会が出してる「講座 ジェンダーと法」シリーズの『暴力からの解放』(2012)での谷田川先生の「性暴力と刑法」から。

年間16万人の女性が強姦されているが、警察に届けられるのは数%にすぎず、検挙、起訴されて有罪が言い渡される加害者は500人にすぎない—-暗数が有罪人員の300倍にもなるのは女性差別の強い異国の話ではない。日本である。

16万人というのはすごい数で、これはほんとうに早急に対策打たないとならないと思います。私はとりあえずセックス禁止、セックス免許制がいいと思いますね。レイプしない講習を受けて、ペーパーテストと実技験受けて、合格者だけがセックス可能にして、違反があったらすぐに免許取り上げ。

しかし谷田川先生はどっからこの数字をもってきたのでしょうか。暗数が300倍というのは異常すぎます。
性犯罪の暗数はみんな興味があるのでいろんな数字が出されていますが、300倍というのはさすがに見たことがない。

谷田川先生のこの解釈はずいぶんオリジナルなもので、例の内閣府の調査から自分で解釈しています。

内閣府男女共同三角局「男女間における暴力における調査報告書」(2012)では、全国20歳異常から無作為抽出された女性の1.25%が過去5年かんに「異性から無理やりに性交された」と回答しており、5年以上前であった者を含めて3.7%しか警察に連絡・相談していない。日本人女性人口が6,500万人として年間0.25%の16万人が「無理矢理に性交」され、警察へは6000人ほどしか連絡・相談していないと推計できる。この調査は2005年から3年ごとに行なわれているが、この傾向に大きな変化はない。警察では相談のみで告訴のない強姦事件の立件は稀であるから、2010年犯罪統計における強姦認知件数が1,289件、検挙件数が995件であることは推計と矛盾しない。同年検察統計における強姦起訴率は45.2%、検挙件数は568件。同年司法統計では、強姦単独の統計はなく、「わいせつ、姦淫、重根の罪」の総計で地裁における通常第1審の無罪判決は5件。(p.197)

ということです。あれ、なんかへんだな思って平成23年の調査みたのですが、これですよね。
http://www.gender.go.jp/policy/no_violence/e-vaw/chousa/pdf/h23danjokan-8.pdf

これは「異性から無理矢理に性交された経験の有無」を聞いて(7.6%)、さらに「あり」の人のなかから5年以内に被害を受けた人を特定している(16.4%)。0.076 * 0.164%ってんで0.0125ぐらい、ってんで女性の1.2%が5年以内に被害を受けてます。たしかにこれは少ないように見えてたいへんですよね。でこれを5年間でわって1年あたり0.24、まるめて0.25%ですか。ここまでは(こういう紹介の仕方がフェアなのかどうかはわからないけど)よい。

でも、これって、被害をうける女性の年齢を考えてないっしょ。
http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/62/nfm/n62_2_6_2_1_6.htmlにあるとおり、20代と30代がほとんどなんよね。だから女性全体の6500万人に(簡単に)拡大してはいけない。まあ「あらゆる年代・特徴の女性が強姦の被害者になる」っていう例の反レイプ神話的フェミニスト立場の反映でしょうが、なんの根拠もなくそういうことしていいんですか。

年間500件の強姦有罪件数を16万件に引き上げることを目指すなら、男性による女性の同意の主張をいっさい認めないことが有用であろう。……要するに、男性が女性の同意を主張するには客観的証拠を必要とするのである。 (p.193)

なんですかこれは。

フェミニストとか性暴力とか、本気でこの問題考えたいひとはちゃんとやってくださいよ。谷田川先生は最近話題になったニューヨークタイムズの記事のインフォマントみたいだし、立憲民主党だかの政策にもかかあわりつつあるみたいだし、ちょっと心配しています。

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シュラミス・ファイアストーン先生がお怒りのようです

ラッセル先生の革命的な著作以降、まあ避妊手段の開発とか映画の普及とか車の普及とか禁酒法の廃止とかロックとかいろいろあって、セックス革命は完成する。まあとにかくばんばんセックスセックス。

ビートルズのPlease Please Meの歌詞は知ってますね? 君はトライさえしようとしないじゃないか。君がやらせてくれないから僕の心には雨が降ってる。僕をよろこばせてくれよ。プリーズプリーズ。

そのなかで出てきたのが第二派フェミニズム、特に「ラジカル」=急進的、根本的フェミニズムね。これは、第一波が女性の社会参加(参政権や労働市場への参加、財産権etc)を求めるものだったのに対して、男女の関係、恋愛やセックスとかっていう人間生活の私的な領域と思われてたところまで批判の目を向けて、社会を根本から考えなおそうっていう思想の流れだと私は理解している。

FIRESTONE-obit-popup私は特に1970年に出版された 1)同じ年にケイト・ミレット先生の『性の政治学』も出ていてこれも重要な著作とされてるんだけど、私はあんまり評価してない。 シュラミス・ファイアストーン先生の『性の弁証法』がすごいおもしろいと思ってんのよね。ファイアストーン先生25才。早熟すぎる。

「ラジフカルフェミニズムの本が恋愛の問題を扱わないならばそれは政治的に落第である。なぜなら、恋愛は、おそらく出産よりももっと女性を抑圧する中心点となっているからである。……私たちは恋愛を捨ててしまいたいのだろうか?」p.157

フェミニストとして、この視点っていうのは、まあ正直でいいと思うんよね。差別や男女格差とかいろんな問題があるけど、それに深くかかわっている恋愛の問題は避けられない、みたいな。まあネット上のアンチフェミな人々が延々してきているのはこれだもんね。アンチの人は特に女性の上昇婚指向や性的なより好みを問題にしているわけだけど。いわゆる「ただしイケメンに限る」問題。

ファイアストーン先生はラジフェミなので、パーソナルイズポリティカル。恋愛ってパーソナルなもんだしプライベートなものだとされてたけど、そりゃポリティカルでっせ、と。まあこの「ポリティカル」の意味私よくわかってないところがあるんだけど。

恋愛は、十分に体験され、その体験もよく知られているにもかかわらず、いまだかつて理解(understand)されたことがない。……恋愛がなぜ分析されないのかについては理由がある。女と恋愛は、社会を支えている土台なのである。この二つを吟味してみれば、文化の構造そのものをおびやかすことになるからだ。

ファイアストーン先生の結論は「現在の(男性的)文化は、寄生的であって、女性の感情的な強さを餌にしているのだ」ってな感じになる。愛は所有欲や独占欲を含む利己的なものではあるけど、他人に自分を開き他者に屈することでもあり、他者と合一し自我を交換するすばらしいものである、みたいな感じ。それ自体はとてもグッドなもの。恋愛における相手の理想化(スタンダールの「結晶作用」)みたいなのもそんな悪いもんでもない。悪いのは、「愛の政治的、言い換えれば不平等な力関係である」(p.165)。現代社会では、恋愛っていうのは女性にとってのホロコーストになってて、そこで女性は犠牲にされ搾取されちゃってる、みたいな感じ。言いたいのは、女性がたとえば一流の芸術作品作ることができないとかってのは男のために家事したり子供育てたりしているからで、それって「愛」とかの名のもとに搾取されてんのよね、自発的奴隷だわ、ってな感じ。

まあラジフェミらしいわね。っていうか一番ラジフェミらしい。ドゥオーキン先生なんかおそらく彼女自身が直接に性暴力の被害者になっちゃって、男性憎悪みたいなのにまみれているのに対して、ファイアストーン先生はいちおう「恋愛はいい!」みたいなところがある。まあルックス的にもファイアストーン先生はけっこうモテたんではないかという気がする。ていうか少なくともモテを意識したことはあるだろう。

精神分析のテオドール・ライク先生が患者の恋愛に関する悩みとかをつづってるのがあるらしく、それ参照してるんよね。
女性はいろいろ男性と自分の関係のことに悩んでいる。

「男は、女が男を愛するようには、女を愛することができない」「長い間セックスなしで済ませることができるが、愛情なしではやっていけない」「私は、体以外にこの男に与えるものをもたないのかしら?」
「私は服を脱ぎ、ブラジャーをはずして彼のベッドの上に体をのばしてまった。一瞬、私は、自分が祭壇の上のいけにえの動物のような気がした。」

まあラッセル先生とかの影響で、若者はばんばんセックスするようになって、そこらへんで問題がいろいろ出てきているわけです。

「私には、男の気持ちがわからない。彼には私がいる。だのに、なぜほかの女を必要とするの? ほかの女には、私にはないものがあるの?」

これはラッセル先生の奥さんかもしれない。

「私は、何人かに、男も泣きながら寝ることがあるのかたずねたことがある。私は男はそんなことしないと思う。」

ラッセル先生、苦しめてますよ。まあ女泣かしている男はけっこういるようだ。んで男性はどうかっていうとこう。

「女性の外面的な見掛けだけが重要だなんてことはないよ。下着も大事だ。」「女の子とやるのは難しくない。難しいのは縁を切ることだ」「その子は私に、彼女の心(mind)のことを気にしているかと聞いてきた。うっかり、ケツ(behind)の方を気にしていると答えそうになったね」

これは「キモチを大事にしているか/オチチの方が大事だ」ぐらいに訳していいかな。まあとにかくアメリカ人いやですねえ。

「たぶん女を騙して、女を愛しているふりをするのは必要なことなんだろう。しかしなんで自分まで騙さなきゃらんのだ?」「うちの嫁は、話すのをずっと聞いてるだけでは満足しない。何を話しているのか内容まで聞けというんだ。」

それにしてもファイアストーン先生なんでこんなのばっかり拾ってくるんすかね。ライク先生の原文でこういうの不平等で男優位なのばっかり掲載されているのかどうかは不明。まあ60年代とか男性は経済的に優位だったから、ほんとにどんなことでもやれたしできたんすかね。でも、男女関係・夫婦関係の悩みっていうと、こういう感じになりますか。すでに関係ができてるなかでの悩みだから、「モテない」男女の悩みは入ってこない。

しかしまあ私自身は、女性にはこういうモテ男性しか目に入らないんじゃないか、それは60年代も2010年代もかわらんのではないか、みたいな印象をもってますね。女性の悩みのタネになる男はみんなジャーク。でもジャークはモテる。むしろジャークだからもてる。当時のアメリカも非モテも、ナードも、自信ない男もいたろうに。ファイアストーン先生、そういう人あなたの目に入ってましたか?

「シモーヌ・ド・ボーヴォワールは「愛という言葉は、男と女では、その意味するところが違う。このことが、男と女を隔てる深刻な誤解の一因となっている」と言っている」p.168

まあこれがファイアストーン先生の中心的なテーゼになる。この本自体ボーヴォワール先生に捧げられてんのよね。このボーヴォワール先生の指摘はほんとに大事ですね。実際、ラッセル先生やサルトル先生が語るloveなりamourなりって、女性から見たらただの性欲とセックス、あるいはせいぜいそれに女性からの親密サービスがくっついた程度のものじゃないんすかね。

男と女のあいだの愛に関する伝統的な違いのいくつかを説明した。この違いが、一般に認められている「ダブルスタンダード」であり、しばしば客間の話題になる。つまり、女は一夫一婦的で、独占的で、執着的(clinging)で、セックスそのものよりも、(非常に密な)「関係」に関心がある。そして性欲と愛情を混同している。他方、男は、やる(screw)以外には関心がない。そうでなければこっけいなほど女をロマンチックに祭り上げる。男はひとたび女を手にいれると、今度は、悪名高い女たらしとなり、けっして満足しない。男はセックスを感情ととりちがえている。(pp.168-169)

screwには「Wham, bam, thank you Ma’am!」ってのがついていて、「ドカン、パンパン、どもありがとう」、ぐらいか。訳書では「感情のないす早い性交」とかって訳してる。「出会ってやってんじゃバイバイ」ぐらいか。まあファイアストーン先生自身が60年代にどのていどwhamしてbamしてたのかはわからない。

ラッセル先生なんかは、親密になってセックスして、気が合わなくなったら別れちゃえばいい、とか言うわけだけど、そんな簡単に別れてくれないっしょ。

「セックスを感情ととりちがえてる」、はmistake sex for emotion。これは、女性が求めているのはやさしい感情・コミットメントなのに、女がなんか言ってきたらセックスしてやりゃいい、みたいに考えてるってことだと思う。まあモテる男は釣った魚に餌はやらない。まあというわけで、ファイアストーン先生の結論はこうだ。

「(1) 男は愛することができない。(男性ホルモン? 女性は伝統的に、相手が女性だったら許せないような感情的個人主義を男性に期待し受けいれている)。(2) 女が執着行動は、客観的社会状況によって余儀なくされているからである。(3) こうした状況は(セックス革命以前の)過去とたいして変わっていない。

(1)の「感情的個人主義」は、女どうしだったら「冷たい」とか「自分勝手」とかって言って嫌うような性格特性を、男性には期待するってことね。ジェームズボンドとか怖いわよね。でもすてきー。

まあこの「男は恋愛できない」っていうのを、フロイド的なエディプスコンプレックスや幼児期のしつけみたいなんで説明しちゃう。ここらへん、生物学というよりは文化的な問題と見るのがまあこっからしばらくのフェミニズムね。

「あらゆる正常な男性に残されている問題は、見返りとして彼女が愛しているのと同じように彼も彼女を愛してほしいなどという要求を出さないで彼を愛してくれる人をどうやって得るか、ということである。」p.171

まあ男は(いい女と)やりたいだけだ、というかそういう理解ね。それもなるべく紐付きじゃないのがいい。最高は毎日カジュアルセックスっすかね。ナンパ指南本とかまさにそれだしね。

「女性が「男性に執着する」のは、客観的な社会状況によって必要とされるのである。おたがいの愛情に関して、男性がヒステリーをおこすことに対する女性の反応は、男性から求められるのと同じ愛情を男性に求めるために、巧妙な操作技術の開発であった。この作戦は、何世紀にもわたって工夫され、実験され、内緒話とか茶飲み話のなかで母から娘へと受けつがれてきた。最近では、電話でこれがおこなわれている。これらのおしゃべりは、つまらない井戸端会議ではない。むしろ、女性がその生存をかけた必死の戦略とでもいうべきである。男女共学の四年制大学での勉強よりも、一時間ほど電話で男について語り合うほうが、もっと本当の知識が得られる。」

この「大学より電話の方が勉強になる」の箇所好きなんですよね。実際、女子は酒とか飲むと男とのつきあいかたの相談話ばっかりしてるわけだけど、それって彼女たちにとって非常に重要なのだなということがわかる。そしてそこでの洞察とか非常に鋭い。まあ男とのつきあいは、へたすると人生かかってるわけだしねえ。慎重になるのもわかるし、そもそも男とかなに考えてるのかわからない、みたいな話をしているっぽい。

さて、ここまで恋愛の話だったわけですが、先生セックスはどうなんすか。

「では、どうすれば、女性は、男性からこの反対給付を引き出すことができるのだろうか」p.174。

まあ、もし男を愛することに決めたら、どうやって男を尻にしいて感情的にも経済的にも安定した生活を営むか。その答はセックスだ。

女性のもつもっとも強力な武器はセックスである。女性はさまざまな策略を使って、男性を肉体的な苦痛状態にまで追いやることができる。彼の欲望を拒んだり、からかったり、与えるふりをしてやめたり、嫉妬させたりする。……「どうやって男をじらせようか?」とときおり考えたことない女性は、ほとんどいないだろう。」(pp.174-175)

ファイアストーン先生正直でいいすね。わたしはそういうのやめた方がいいと思うんですけどね。最悪トラブルになる。でもそういうことする女性はいるみたいですね。もう本能といっていいかもしれない。

ところがっすね、ラッセル先生の思想に影響されて生じたかもしれない60年代のセックス革命は、その点で女性に不利になったんですわ。これがこの本の核心部分の一つなんすよ。

「過去50年の間、女性に愛について二重に束縛されてきた。すなわち、すでに起こったとされる「セックス革命」を口実に、彼女たちは、男性に対する武装を解くようにと言われている(「ベイビー、やめてくれよ、いったい今までなにしてたんだい?セックス革命のこと聞いてないの?」)。現代の女性は、彼女たちのおばあさんの時代には、そうなるのが極めて当然のことと思われていた「いじわる女」(bitch) 2)日本語だとビッチは性的にゆるい人を指すけど、英語はいじわるってだけよ。 になるのを非常におそれている。おばあさんの時代には、男性もまた、自尊心の強い女性は男を待たせるものだし、恥ずかしがらずに正々堂々と男とかけ引きするものだということが当然だと思われていた。この方法で、自分の利益を守らない女は尊敬に値しなかった。それは公然の事実だった。だが、セックス革命という言葉は、女性には何も良いものをもたらさなかったとしても、男性にはおおいに役立つことがわかった。男たちは、女性に、彼女たちが普通用いる策略や要求は、卑劣で、不公平で、とりすました、時代遅れで、ピューリタン的で自分自身を殺してしまうものだと言い聞かせ、女性が苦しんで獲得したきたわずかな武装さえも解かせてしまった。その結果、男性の言いなりになる女性集団を創り上げ、伝統的な性的搾取に利用できる商品の不足を補うのに成功した。今日の女性は、この目的のために創り出された新しい言葉を投げつけられるのを恐れて、昔からの要求を言い出せなくなっている。「お固い女」「じらし屋」「退屈な女」等々。要するに男たちにとっては「物わかりのいい娘」が理想なのだ。」pp.171-172

この本が出たのは1970年、50年前ってのは1920年。ラッセル先生は1929年ね。まさにラッセル先生のことを考えてると思う。

「伝統的な性的搾取に利用できる商品」はもちろん売春婦。買春するのはお金かかるけど、ガールフレンドならタダだしね。20世紀に男性たちはロマンチックな口説き文句なんかを開発して、女性にただでセックスさせてもらうことを覚えた、実はそれは12世紀の宮廷風恋愛、18・19世紀のロマンチックラブもそうだ、っていうのが私の仮説。さらにラッセル流の自由恋愛は、性的に堅い女性は古い禁欲的教育の被害者であり、自由でないかっこ悪い存在してしまうことによって、女性のセックスを「解放」し、搾取した(搾取という言い方が適切かどうかは別にして)。堅い女性を形容する単語を大量につくりだす。

けなし言葉は“fucked up”, “ballbreaker”、”cockteaser”、”a real drag”、”a bad trip”

fucked up“はだめ女、頭おかしい、ぐらい? “ballbreaker“は「男性の自信を打ち砕く、過酷な要求をする女性」。でも「玉つぶし」なんちゃうかな。いやちがうか。cockteaserは誘惑はするものの、男を性的に興奮させながら性的な解放を味あわせない人、まあ「ちんちんいじめ」。a real dragは「面倒な女」ぐらい? a bad tripも「ひでー女」ぐらいか。「物わかりのいい娘」はa groovy chick 「ノリのいいカワイコちゃん」ぐらいか。いまでも「あの子ノリよくて」っていうのは性的にゆるいことをほのめかしている場合があるんちゃうかな。

これほんとに難しくて、女性がとりあえず男の「愛情」なりなんなりを確認したらセックスさせる、ってことになってしまえば、他の女性も相手をつかまえておくためにはセックスさせざるをえない。でないと他の女にとられちゃうし。「男を待たせておく」っていうのが無理になったんよね。でも相手選びに失敗して、いろんな男性とつきあう/セックスしたことになってしまうと、市場での値段がものすごく下がってしまう。

今でも、多くの女性は、何が起こりつつあるか知っており、罠を避けようとしている。彼女たちが男性から期待できるわずかなもののためにだまされるよりも、むしろ侮辱されたほうがましだと思っている(もっとも前衛的な男性でさえ、今日、あまり問題にされなくなた「古典的レディー」を望んでいるのは真実なのだ)。しかし、彼女たちは、罠にはまればはまるほど、伝統的な女性の策略は間違っていなかったことに痛烈に気づくが、既に遅すぎる。彼女たちは「男は皆オオカミよ」とか「男はケダモノよ!」とかいう古い表現と酷似した言葉で、こぼしながら、自分がすでに30歳になっているのに気づいてショックを受ける。「彼女たちは、昔の妻が正しかったのだということを認めざるをえなくなる。公平で寛大な女は(せいぜい)尊敬されるが、ほとんど愛されることはないのだということである。p.178」

いいねえ。いい。すばらしいよシュラミス。「男はみんなやりたいだけなんだわ」ですわね。「公平で寛大な女」はすぐにやらせてあげる女ね。

まあこういうのが70年フェミニズムの問題意識。ラッセル先生的な「性の解放」とかってのの男性中心的な偽善みたいなのに対する反抗とか、男性に対する絶望感とか。こっからフェミニズムは女性分離主義みたいなんに行く人々もでてきたり。ファイアストーン先生自身も、けっきょく性と生殖が一番の問題なんであって、将来人工子宮とかできたらいいな、みたいな結論になってるっぽい。

翻訳は偉いけどいまいちよくない。上の引用は勝手に語句訂正させてもらった。

性の弁証法―女性解放革命の場合 (1972年)
S. ファイアストーン
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References[ + ]

1. 同じ年にケイト・ミレット先生の『性の政治学』も出ていてこれも重要な著作とされてるんだけど、私はあんまり評価してない。
2. 日本語だとビッチは性的にゆるい人を指すけど、英語はいじわるってだけよ。

2014年に読んだ本ベスト10

実は今年はここ20年ぐらいで一番本読まなかったんじゃないですかね。なんか気があせって余計な本とか読む余裕がなかったです。まあしょうがない。

でもまあとりあえず印象に残った本を。


ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法
冨田 恵一
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現役トップアレンジャー/プロデューサーが音楽(と音)の聞き方を教えてくれるというすばらしい本。音楽はたくさん聞くより何回も聞くものだと教えてもらいました。実践してないけどそうだと思う。


すごいジャズには理由(ワケ)がある──音楽学者とジャズ・ピアニストの対話
岡田暁生 フィリップ・ストレンジ
アルテスパブリッシング
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音楽本だとこれもおもしろかった。岡田先生はクラシック観賞/演奏から回心してジャズピ習いにいって、その先生からいろいろレクチャーを受ける。ストレンジ先生もいろいろ言うべきことをもった知的な方ですばらしい。

あとビートルズ関係のムックとか2、3冊読んだけど最近の研究はすごいね。
ザ・ビートルズ全曲バイブル 公式録音全213曲完全ガイド
ザ・ビートルズ アルバム・バイブル (日経BPムック)
まあ我々か、ちょっと上の世代向けなのね。


ドット・コム・ラヴァーズ―ネットで出会うアメリカの女と男 (中公新書)
吉原 真里
中央公論新社
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これは異常におもしろかったですね。こんな世界があるなんてなあ、な感じ。ぶちゃけていて、ふつうの人には書けない。実はインターネット(net news)にはじめて触れたときに、alt.personel.adsとかっていうニュースグループ(掲示板)があることに気づいたんよね。いわゆる「出会い系」なんだけど、そのころはそういう言葉はなかった。どのポストにも「私は〜才のSWMです(straight, white, maleだったかな?)。知的でユーモアのセンスがあり、音楽と読書を好みます。ニューヨークで〜才ごろまでの魅力的な女性を探しています」とかっていうのがたくさん流れていて、「これなんだろう? こんなのが実際に機能するのかな?」とか思ってたんよね。あれはけっこう本気で、最近はそうなっているのね、みたいな。


百姓から見た戦国大名 (ちくま新書)
黒田 基樹
筑摩書房
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新書だとこれもよかった。歴史学もずいぶん変わった。っていうかそりゃ「悪い殿様が農民を一方的に支配してました」とかってんじゃないわよね。あ、新書だとあと『女のからだ――フェミニズム以後 (岩波新書)』が情報量多くて優れてると思った。


一万年の進化爆発

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進化もの一般書だとここらへんか。ついこのまえまで「我々は20万年前と同じ体と心だ」みたいなのが一般的だったんじゃないかと思うけど、そのあともけっこう淘汰かかってますよ、みたいな話だと理解した。『5万年前―このとき人類の壮大な旅が始まった』も同じ感じ。


心理学ものだとサブリミナル。

しらずしらず――あなたの9割を支配する「無意識」を科学する
レナード・ムロディナウ
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クルツバン先生の『だれもが偽善者になる本当の理由』を読んでればこれが一番だったけど、まだ積読状態。『錯覚の科学』もそこそこおもしろかった。


社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学
ジョナサン・ハイト
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まあハイト先生のは挙げとかないとね。


近代科学を築いた人々〈上〉科学への夢/原子/電子/力学
長田 好弘
新日本出版社
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19世紀の科学史みたいなのちょっとあれして読んだけどよかった。19世紀はすごい時代だ。


もう一つのヴィクトリア時代―性と享楽の英国裏面史 (中公文庫)
スティーヴン・マーカス
中央公論社
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しかし裏はこんな感じ。有名な『我が秘密の生涯』とかを中心にした19世紀ロンドンあたりの話。おもしろいのは『秘密の生涯』がおもしろいからかもしれん。


あれ、1冊足りない。これで。

「幸せ」の決まり方 主観的厚生の経済学
小塩 隆士
日本経済新聞出版社
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一般向けでもちゃんとしていて偉い。経済学だと『ひたすら読むエコノミクス』が超入門だけどキーワードの説明とかすごくわかりやすくて感心しました。