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シュラミス・ファイアストーン先生がお怒りのようです

ラッセル先生の革命的な著作以降、まあ避妊手段の開発とか映画の普及とか車の普及とか禁酒法の廃止とかロックとかいろいろあって、セックス革命は完成する。まあとにかくばんばんセックスセックス。

ビートルズのPlease Please Meの歌詞は知ってますね? 君はトライさえしようとしないじゃないか。君がやらせてくれないから僕の心には雨が降ってる。僕をよろこばせてくれよ。プリーズプリーズ。

 

 

そのなかで出てきたのが第二派フェミニズム、特に「ラジカル」=急進的、根本的フェミニズムね。これは、第一波が女性の社会参加(参政権や労働市場への参加、財産権etc)を求めるものだったのに対して、男女の関係、恋愛やセックスとかっていう人間生活の私的な領域と思われてたところまで批判の目を向けて、社会を根本から考えなおそうっていう思想の流れだと私は理解している。

FIRESTONE-obit-popup私は特に1970年に出版された 1)同じ年にケイト・ミレット先生の『性の政治学』も出ていてこれも重要な著作とされてるんだけど、私はあんまり評価してない。 シュラミス・ファイアストーン先生の『性の弁証法』がすごいおもしろいと思ってんのよね。ファイアストーン先生25才。早熟すぎる。

「ラジフカルフェミニズムの本が恋愛の問題を扱わないならばそれは政治的に落第である。なぜなら、恋愛は、おそらく出産よりももっと女性を抑圧する中心点となっているからである。……私たちは恋愛を捨ててしまいたいのだろうか?」p.157

フェミニストとして、この視点っていうのは、まあ正直でいいと思うんよね。差別や男女格差とかいろんな問題があるけど、それに深くかかわっている恋愛の問題は避けられない、みたいな。まあネット上のアンチフェミな人々が延々してきているのはこれだもんね。アンチの人は特に女性の上昇婚指向や性的なより好みを問題にしているわけだけど。いわゆる「ただしイケメンに限る」問題。

ファイアストーン先生はラジフェミなので、パーソナルイズポリティカル。恋愛ってパーソナルなもんだしプライベートなものだとされてたけど、そりゃポリティカルでっせ、と。まあこの「ポリティカル」の意味私よくわかってないところがあるんだけど。

恋愛は、十分に体験され、その体験もよく知られているにもかかわらず、いまだかつて理解(understand)されたことがない。……恋愛がなぜ分析されないのかについては理由がある。女と恋愛は、社会を支えている土台なのである。この二つを吟味してみれば、文化の構造そのものをおびやかすことになるからだ。

ファイアストーン先生の結論は「現在の(男性的)文化は、寄生的であって、女性の感情的な強さを餌にしているのだ」ってな感じになる。愛は所有欲や独占欲を含む利己的なものではあるけど、他人に自分を開き他者に屈することでもあり、他者と合一し自我を交換するすばらしいものである、みたいな感じ。それ自体はとてもグッドなもの。恋愛における相手の理想化(スタンダールの「結晶作用」)みたいなのもそんな悪いもんでもない。悪いのは、「愛の政治的、言い換えれば不平等な力関係である」(p.165)。現代社会では、恋愛っていうのは女性にとってのホロコーストになってて、そこで女性は犠牲にされ搾取されちゃってる、みたいな感じ。言いたいのは、女性がたとえば一流の芸術作品作ることができないとかってのは男のために家事したり子供育てたりしているからで、それって「愛」とかの名のもとに搾取されてんのよね、自発的奴隷だわ、ってな感じ。

まあラジフェミらしいわね。っていうか一番ラジフェミらしい。ドゥオーキン先生なんかおそらく彼女自身が直接に性暴力の被害者になっちゃって、男性憎悪みたいなのにまみれているのに対して、ファイアストーン先生はいちおう「恋愛はいい!」みたいなところがある。まあルックス的にもファイアストーン先生はけっこうモテたんではないかという気がする。ていうか少なくともモテを意識したことはあるだろう。

精神分析のテオドール・ライク先生が患者の恋愛に関する悩みとかをつづってるのがあるらしく、それ参照してるんよね。
女性はいろいろ男性と自分の関係のことに悩んでいる。

「男は、女が男を愛するようには、女を愛することができない」「長い間セックスなしで済ませることができるが、愛情なしではやっていけない」「私は、体以外にこの男に与えるものをもたないのかしら?」
「私は服を脱ぎ、ブラジャーをはずして彼のベッドの上に体をのばしてまった。一瞬、私は、自分が祭壇の上のいけにえの動物のような気がした。」

まあラッセル先生とかの影響で、若者はばんばんセックスするようになって、そこらへんで問題がいろいろ出てきているわけです。

「私には、男の気持ちがわからない。彼には私がいる。だのに、なぜほかの女を必要とするの? ほかの女には、私にはないものがあるの?」

これはラッセル先生の奥さんかもしれない。

「私は、何人かに、男も泣きながら寝ることがあるのかたずねたことがある。私は男はそんなことしないと思う。」

ラッセル先生、苦しめてますよ。まあ女泣かしている男はけっこういるようだ。んで男性はどうかっていうとこう。

「女性の外面的な見掛けだけが重要だなんてことはないよ。下着も大事だ。」「女の子とやるのは難しくない。難しいのは縁を切ることだ」「その子は私に、彼女の心(mind)のことを気にしているかと聞いてきた。うっかり、ケツ(behind)の方を気にしていると答えそうになったね」

これは「キモチを大事にしているか/オチチの方が大事だ」ぐらいに訳していいかな。まあとにかくアメリカ人いやですねえ。

「たぶん女を騙して、女を愛しているふりをするのは必要なことなんだろう。しかしなんで自分まで騙さなきゃらんのだ?」「うちの嫁は、話すのをずっと聞いてるだけでは満足しない。何を話しているのか内容まで聞けというんだ。」

それにしてもファイアストーン先生なんでこんなのばっかり拾ってくるんすかね。ライク先生の原文でこういうの不平等で男優位なのばっかり掲載されているのかどうかは不明。まあ60年代とか男性は経済的に優位だったから、ほんとにどんなことでもやれたしできたんすかね。でも、男女関係・夫婦関係の悩みっていうと、こういう感じになりますか。すでに関係ができてるなかでの悩みだから、「モテない」男女の悩みは入ってこない。

しかしまあ私自身は、女性にはこういうモテ男性しか目に入らないんじゃないか、それは60年代も2010年代もかわらんのではないか、みたいな印象をもってますね。女性の悩みのタネになる男はみんなジャーク。でもジャークはモテる。むしろジャークだからもてる。当時のアメリカも非モテも、ナードも、自信ない男もいたろうに。ファイアストーン先生、そういう人あなたの目に入ってましたか?

「シモーヌ・ド・ボーヴォワールは「愛という言葉は、男と女では、その意味するところが違う。このことが、男と女を隔てる深刻な誤解の一因となっている」と言っている」p.168

まあこれがファイアストーン先生の中心的なテーゼになる。この本自体ボーヴォワール先生に捧げられてんのよね。このボーヴォワール先生の指摘はほんとに大事ですね。実際、ラッセル先生やサルトル先生が語るloveなりamourなりって、女性から見たらただの性欲とセックス、あるいはせいぜいそれに女性からの親密サービスがくっついた程度のものじゃないんすかね。

男と女のあいだの愛に関する伝統的な違いのいくつかを説明した。この違いが、一般に認められている「ダブルスタンダード」であり、しばしば客間の話題になる。つまり、女は一夫一婦的で、独占的で、執着的(clinging)で、セックスそのものよりも、(非常に密な)「関係」に関心がある。そして性欲と愛情を混同している。他方、男は、やる(screw)以外には関心がない。そうでなければこっけいなほど女をロマンチックに祭り上げる。男はひとたび女を手にいれると、今度は、悪名高い女たらしとなり、けっして満足しない。男はセックスを感情ととりちがえている。(pp.168-169)

screwには「Wham, bam, thank you Ma’am!」ってのがついていて、「ドカン、パンパン、どもありがとう」、ぐらいか。訳書では「感情のないす早い性交」とかって訳してる。「出会ってやってんじゃバイバイ」ぐらいか。まあファイアストーン先生自身が60年代にどのていどwhamしてbamしてたのかはわからない。

ラッセル先生なんかは、親密になってセックスして、気が合わなくなったら別れちゃえばいい、とか言うわけだけど、そんな簡単に別れてくれないっしょ。

「セックスを感情ととりちがえてる」、はmistake sex for emotion。これは、女性が求めているのはやさしい感情・コミットメントなのに、女がなんか言ってきたらセックスしてやりゃいい、みたいに考えてるってことだと思う。まあモテる男は釣った魚に餌はやらない。まあというわけで、ファイアストーン先生の結論はこうだ。

「(1) 男は愛することができない。(男性ホルモン? 女性は伝統的に、相手が女性だったら許せないような感情的個人主義を男性に期待し受けいれている)。(2) 女が執着行動は、客観的社会状況によって余儀なくされているからである。(3) こうした状況は(セックス革命以前の)過去とたいして変わっていない。

(1)の「感情的個人主義」は、女どうしだったら「冷たい」とか「自分勝手」とかって言って嫌うような性格特性を、男性には期待するってことね。ジェームズボンドとか怖いわよね。でもすてきー。

まあこの「男は恋愛できない」っていうのを、フロイド的なエディプスコンプレックスや幼児期のしつけみたいなんで説明しちゃう。ここらへん、生物学というよりは文化的な問題と見るのがまあこっからしばらくのフェミニズムね。

「あらゆる正常な男性に残されている問題は、見返りとして彼女が愛しているのと同じように彼も彼女を愛してほしいなどという要求を出さないで彼を愛してくれる人をどうやって得るか、ということである。」p.171

まあ男は(いい女と)やりたいだけだ、というかそういう理解ね。それもなるべく紐付きじゃないのがいい。最高は毎日カジュアルセックスっすかね。ナンパ指南本とかまさにそれだしね。

「女性が「男性に執着する」のは、客観的な社会状況によって必要とされるのである。おたがいの愛情に関して、男性がヒステリーをおこすことに対する女性の反応は、男性から求められるのと同じ愛情を男性に求めるために、巧妙な操作技術の開発であった。この作戦は、何世紀にもわたって工夫され、実験され、内緒話とか茶飲み話のなかで母から娘へと受けつがれてきた。最近では、電話でこれがおこなわれている。これらのおしゃべりは、つまらない井戸端会議ではない。むしろ、女性がその生存をかけた必死の戦略とでもいうべきである。男女共学の四年制大学での勉強よりも、一時間ほど電話で男について語り合うほうが、もっと本当の知識が得られる。」

この「大学より電話の方が勉強になる」の箇所好きなんですよね。実際、女子は酒とか飲むと男とのつきあいかたの相談話ばっかりしてるわけだけど、それって彼女たちにとって非常に重要なのだなということがわかる。そしてそこでの洞察とか非常に鋭い。まあ男とのつきあいは、へたすると人生かかってるわけだしねえ。慎重になるのもわかるし、そもそも男とかなに考えてるのかわからない、みたいな話をしているっぽい。

さて、ここまで恋愛の話だったわけですが、先生セックスはどうなんすか。

「では、どうすれば、女性は、男性からこの反対給付を引き出すことができるのだろうか」p.174。

まあ、もし男を愛することに決めたら、どうやって男を尻にしいて感情的にも経済的にも安定した生活を営むか。その答はセックスだ。

女性のもつもっとも強力な武器はセックスである。女性はさまざまな策略を使って、男性を肉体的な苦痛状態にまで追いやることができる。彼の欲望を拒んだり、からかったり、与えるふりをしてやめたり、嫉妬させたりする。……「どうやって男をじらせようか?」とときおり考えたことない女性は、ほとんどいないだろう。」(pp.174-175)

ファイアストーン先生正直でいいすね。わたしはそういうのやめた方がいいと思うんですけどね。最悪トラブルになる。でもそういうことする女性はいるみたいですね。もう本能といっていいかもしれない。

ところがっすね、ラッセル先生の思想に影響されて生じたかもしれない60年代のセックス革命は、その点で女性に不利になったんですわ。これがこの本の核心部分の一つなんすよ。

「過去50年の間、女性に愛について二重に束縛されてきた。すなわち、すでに起こったとされる「セックス革命」を口実に、彼女たちは、男性に対する武装を解くようにと言われている(「ベイビー、やめてくれよ、いったい今までなにしてたんだい?セックス革命のこと聞いてないの?」)。現代の女性は、彼女たちのおばあさんの時代には、そうなるのが極めて当然のことと思われていた「いじわる女」(bitch) 2)日本語だとビッチは性的にゆるい人を指すけど、英語はいじわるってだけよ。 になるのを非常におそれている。おばあさんの時代には、男性もまた、自尊心の強い女性は男を待たせるものだし、恥ずかしがらずに正々堂々と男とかけ引きするものだということが当然だと思われていた。この方法で、自分の利益を守らない女は尊敬に値しなかった。それは公然の事実だった。だが、セックス革命という言葉は、女性には何も良いものをもたらさなかったとしても、男性にはおおいに役立つことがわかった。男たちは、女性に、彼女たちが普通用いる策略や要求は、卑劣で、不公平で、とりすました、時代遅れで、ピューリタン的で自分自身を殺してしまうものだと言い聞かせ、女性が苦しんで獲得したきたわずかな武装さえも解かせてしまった。その結果、男性の言いなりになる女性集団を創り上げ、伝統的な性的搾取に利用できる商品の不足を補うのに成功した。今日の女性は、この目的のために創り出された新しい言葉を投げつけられるのを恐れて、昔からの要求を言い出せなくなっている。「お固い女」「じらし屋」「退屈な女」等々。要するに男たちにとっては「物わかりのいい娘」が理想なのだ。」pp.171-172

この本が出たのは1970年、50年前ってのは1920年。ラッセル先生は1929年ね。まさにラッセル先生のことを考えてると思う。

「伝統的な性的搾取に利用できる商品」はもちろん売春婦。買春するのはお金かかるけど、ガールフレンドならタダだしね。20世紀に男性たちはロマンチックな口説き文句なんかを開発して、女性にただでセックスさせてもらうことを覚えた、実はそれは12世紀の宮廷風恋愛、18・19世紀のロマンチックラブもそうだ、っていうのが私の仮説。さらにラッセル流の自由恋愛は、性的に堅い女性は古い禁欲的教育の被害者であり、自由でないかっこ悪い存在してしまうことによって、女性のセックスを「解放」し、搾取した(搾取という言い方が適切かどうかは別にして)。堅い女性を形容する単語を大量につくりだす。

けなし言葉は“fucked up”, “ballbreaker”、”cockteaser”、”a real drag”、”a bad trip”

fucked up“はだめ女、頭おかしい、ぐらい? “ballbreaker“は「男性の自信を打ち砕く、過酷な要求をする女性」。でも「玉つぶし」なんちゃうかな。いやちがうか。cockteaserは誘惑はするものの、男を性的に興奮させながら性的な解放を味あわせない人、まあ「ちんちんいじめ」。a real dragは「面倒な女」ぐらい? a bad tripも「ひでー女」ぐらいか。「物わかりのいい娘」はa groovy chick 「ノリのいいカワイコちゃん」ぐらいか。いまでも「あの子ノリよくて」っていうのは性的にゆるいことをほのめかしている場合があるんちゃうかな。

これほんとに難しくて、女性がとりあえず男の「愛情」なりなんなりを確認したらセックスさせる、ってことになってしまえば、他の女性も相手をつかまえておくためにはセックスさせざるをえない。でないと他の女にとられちゃうし。「男を待たせておく」っていうのが無理になったんよね。でも相手選びに失敗して、いろんな男性とつきあう/セックスしたことになってしまうと、市場での値段がものすごく下がってしまう。

今でも、多くの女性は、何が起こりつつあるか知っており、罠を避けようとしている。彼女たちが男性から期待できるわずかなもののためにだまされるよりも、むしろ侮辱されたほうがましだと思っている(もっとも前衛的な男性でさえ、今日、あまり問題にされなくなた「古典的レディー」を望んでいるのは真実なのだ)。しかし、彼女たちは、罠にはまればはまるほど、伝統的な女性の策略は間違っていなかったことに痛烈に気づくが、既に遅すぎる。彼女たちは「男は皆オオカミよ」とか「男はケダモノよ!」とかいう古い表現と酷似した言葉で、こぼしながら、自分がすでに30歳になっているのに気づいてショックを受ける。「彼女たちは、昔の妻が正しかったのだということを認めざるをえなくなる。公平で寛大な女は(せいぜい)尊敬されるが、ほとんど愛されることはないのだということである。p.178」

いいねえ。いい。すばらしいよシュラミス。「男はみんなやりたいだけなんだわ」ですわね。「公平で寛大な女」はすぐにやらせてあげる女ね。

まあこういうのが70年フェミニズムの問題意識。ラッセル先生的な「性の解放」とかってのの男性中心的な偽善みたいなのに対する反抗とか、男性に対する絶望感とか。こっからフェミニズムは女性分離主義みたいなんに行く人々もでてきたり。ファイアストーン先生自身も、けっきょく性と生殖が一番の問題なんであって、将来人工子宮とかできたらいいな、みたいな結論になってるっぽい。

翻訳は偉いけどいまいちよくない。上の引用は勝手に語句訂正させてもらった。

性の弁証法―女性解放革命の場合 (1972年)
S. ファイアストーン
評論社
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References   [ + ]

1. 同じ年にケイト・ミレット先生の『性の政治学』も出ていてこれも重要な著作とされてるんだけど、私はあんまり評価してない。
2. 日本語だとビッチは性的にゆるい人を指すけど、英語はいじわるってだけよ。

2014年に読んだ本ベスト10

実は今年はここ20年ぐらいで一番本読まなかったんじゃないですかね。なんか気があせって余計な本とか読む余裕がなかったです。まあしょうがない。

でもまあとりあえず印象に残った本を。


ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法
冨田 恵一
DU BOOKS
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現役トップアレンジャー/プロデューサーが音楽(と音)の聞き方を教えてくれるというすばらしい本。音楽はたくさん聞くより何回も聞くものだと教えてもらいました。実践してないけどそうだと思う。


すごいジャズには理由(ワケ)がある──音楽学者とジャズ・ピアニストの対話
岡田暁生 フィリップ・ストレンジ
アルテスパブリッシング
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音楽本だとこれもおもしろかった。岡田先生はクラシック観賞/演奏から回心してジャズピ習いにいって、その先生からいろいろレクチャーを受ける。ストレンジ先生もいろいろ言うべきことをもった知的な方ですばらしい。

あとビートルズ関係のムックとか2、3冊読んだけど最近の研究はすごいね。
ザ・ビートルズ全曲バイブル 公式録音全213曲完全ガイド
ザ・ビートルズ アルバム・バイブル (日経BPムック)
まあ我々か、ちょっと上の世代向けなのね。


ドット・コム・ラヴァーズ―ネットで出会うアメリカの女と男 (中公新書)
吉原 真里
中央公論新社
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これは異常におもしろかったですね。こんな世界があるなんてなあ、な感じ。ぶちゃけていて、ふつうの人には書けない。実はインターネット(net news)にはじめて触れたときに、alt.personel.adsとかっていうニュースグループ(掲示板)があることに気づいたんよね。いわゆる「出会い系」なんだけど、そのころはそういう言葉はなかった。どのポストにも「私は〜才のSWMです(straight, white, maleだったかな?)。知的でユーモアのセンスがあり、音楽と読書を好みます。ニューヨークで〜才ごろまでの魅力的な女性を探しています」とかっていうのがたくさん流れていて、「これなんだろう? こんなのが実際に機能するのかな?」とか思ってたんよね。あれはけっこう本気で、最近はそうなっているのね、みたいな。


百姓から見た戦国大名 (ちくま新書)
黒田 基樹
筑摩書房
売り上げランキング: 73,064

新書だとこれもよかった。歴史学もずいぶん変わった。っていうかそりゃ「悪い殿様が農民を一方的に支配してました」とかってんじゃないわよね。あ、新書だとあと『女のからだ――フェミニズム以後 (岩波新書)』が情報量多くて優れてると思った。


一万年の進化爆発

一万年の進化爆発

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グレゴリー・コクラン ヘンリー・ハーペンディング
日経BP社
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進化もの一般書だとここらへんか。ついこのまえまで「我々は20万年前と同じ体と心だ」みたいなのが一般的だったんじゃないかと思うけど、そのあともけっこう淘汰かかってますよ、みたいな話だと理解した。『5万年前―このとき人類の壮大な旅が始まった』も同じ感じ。


心理学ものだとサブリミナル。

しらずしらず――あなたの9割を支配する「無意識」を科学する
レナード・ムロディナウ
ダイヤモンド社
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クルツバン先生の『だれもが偽善者になる本当の理由』を読んでればこれが一番だったけど、まだ積読状態。『錯覚の科学』もそこそこおもしろかった。


社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学
ジョナサン・ハイト
紀伊國屋書店
売り上げランキング: 18,902

まあハイト先生のは挙げとかないとね。


近代科学を築いた人々〈上〉科学への夢/原子/電子/力学
長田 好弘
新日本出版社
売り上げランキング: 1,150,213

19世紀の科学史みたいなのちょっとあれして読んだけどよかった。19世紀はすごい時代だ。


もう一つのヴィクトリア時代―性と享楽の英国裏面史 (中公文庫)
スティーヴン・マーカス
中央公論社
売り上げランキング: 701,328

しかし裏はこんな感じ。有名な『我が秘密の生涯』とかを中心にした19世紀ロンドンあたりの話。おもしろいのは『秘密の生涯』がおもしろいからかもしれん。


あれ、1冊足りない。これで。

「幸せ」の決まり方 主観的厚生の経済学
小塩 隆士
日本経済新聞出版社
売り上げランキング: 264,237

一般向けでもちゃんとしていて偉い。経済学だと『ひたすら読むエコノミクス』が超入門だけどキーワードの説明とかすごくわかりやすくて感心しました。


ドゥルシラ・コーネル先生を援用した議論に苦しんでいます

ドゥルシラ・コーネル先生というフェミニスト法学者の有名な先生がいて、国内でも中絶とかの議論を援用する人々がけっこういます。山根純佳先生の『産む産まないは女の権利か』、小林直三先生の『中絶権の憲法哲学的研究』あたりが代表的なところでしょうか。彼女の中絶についての議論が紹介されたのは1998年の『現代思想』に載った「寸断された自己とさまよえる子宮」でわりと注目されたんじゃないでしょうか。それが収録されている『イマジナリーな領域』の翻訳が出たのが2006年で、それ以降はフェミニズム系の人が中絶の議論するときは非常によく取りあげられている印象です。塚原久美先生の『中絶技術とリプロダクティブライツ』でもとりあげられてますね。

私このコーネル先生が苦手なんですわ。ジュディスバトラー先生ほどではないけど。レトリック過剰なところがあるし、ラカンの「鏡像段階とかひっぱって来るのとか、なぜその必要があるのかわからないし。

まあとにかく彼女の中絶の権利の擁護の議論は、簡単に言うと、我々にとって自分の身体の統一性は非常に大事であり、それは自分のイマジナリーを反映するものじゃないとならん。望まない妊娠は身体統一性を損うものである。したがって、女性の中絶の権利を否定して、妊娠の継続・出産を強要するのは平等に反するし、女性の格下げである。したがって女性がオンデマンドで(つまり、あらゆる事情を理由に)中絶する法的権利が必要だ、ぐらいだと思います。

私がこの議論がよくわからなかったのは、ラカンとか持ちだされてくるのもよくわからなかったのもあるのですが、プロライフの人たちが主張している胎児の権利とか生命の価値とかどうなってんの、ってことですわね。特に、国内でこの議論を紹介する人の多く(確認してないけど)が、いわゆる「パーソン論」に触れてその欠陥を指摘してからコーネル先生の議論を援用する、って形になってたのがよくわからなかったわけです。

だってそりゃ身体の統一性なるものはたしかに重要だとは思いますが、胎児が権利をもっていたり、その生命が大きな価値をもっているのならば、女性の身体の統一性という価値と胎児の生命との間で葛藤が起こるわけですからね。なぜ女性の身体の統一性が優先するのだろう、と思ってました。

まあコーネル先生の議論をそのまま使わないまでも、女性と胎児の関係は特別な関係なのであるから云々、という議論はよく見られます。これも私は同じように納得してなかった。いやもちろん言いたいことは十分よくわかるのですが、「パーソン論」とらないんだったら、プロライフの人の(けっこう堅い)理屈をどうするの、っていうのがわからなかった。

ここ数日コーネル先生の議論を読み直してたんですが、彼女の議論そのものもすごくわかりにくいんですね。彼女は基本的にほとんど、米国の中絶裁判判決文と、ロナルド・ドゥオーキンの『ライフズ・ドミニオン』の議論だけを相手にしていて、哲学的生命倫理学の文献はほとんど見てないんですわ。「パーソン論」だけじゃなく、プロライフの人々の議論さえ参照してない。

んで、私のここまでの理解では、ドゥオーキン先生が『ライフズ・ドミニオン』でだいたいロー判決(妊娠初期の中絶を禁止するのは違憲。ただし、中期〜後期になるにしたがって州が一定種の規制をおこなうのは場合によっては可能だ、ぐらいの判決)を追認する形の議論しているに対して、「いやそれじゃぬるい、もっとオンデマンドに近い形で中絶できる権利を認めろ」ってやってるわけです。

しかしこれ、ドゥオーキン先生もそうなんですが、けっきょくはっきり言って、胎児をパーソンと認めてないんすよね。そしてその理由は示されていない、っていうかまあはっきりいって、米国憲法では胎児はパーソンではないから、ぐらいの根拠なわけです。

これ私おかしいと思いますね。もしそんなことが言えるのであれば、わざわざ「パーソン論」とかトムソン先生の「自分の身体を使用する権利」とかでがんばる必要がないわけですからね。まあとにかくコーネル先生のプロライフ論者の無視っぷり、完全シカトは私おかしいと思います。女性と胎児の特殊な関係をもっと真面目に考えろ、ってのなら、Margaret Olivia Little先生の”Abortion, Intimacy, and Duty to Gestate”とかLaura Purdy先生の”Are Pregnant Women Fetal Containers?”とか優秀な論文が他にあると思うし。

少なくとも、国内で「パーソン論」に批判的な論者がドゥオーキンやコーネルの議論を採用することはできないと思う。なんらかの「パーソン論」、あるいは胎児の生命権、あるいはほとんどすべての権利を否定する議論を提出する必要があるはず。なんでこういうことになってるんですかね、とか。

まあ譲って、ドゥオーキンやコーネルの議論は米国憲法の上でどういう法が可能だったり要求されるかとう議論である、とするならそれでいいんですけど、これと道徳的なレベルの議論は混同するべきではないと思う。私は道徳的なレベルの話に興味がある。なぜ胎児は人としての権利をもってないのか、という疑問に対する答が、「憲法では人じゃないから」では満足できない。なぜ憲法や他の法で人と認める必要がないのか、というのが知りたい。

私まちがってんのかなあ。不安。もうすこし読んで考えます。

イマジナリーな領域―中絶、ポルノグラフィ、セクシュアル・ハラスメント
ドゥルシラ コーネル
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ライフズ・ドミニオン―中絶と尊厳死そして個人の自由
ロナルド・ドゥオーキン Ronald Dworkin
信山社出版
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産む産まないは女の権利か―フェミニズムとリベラリズム
山根 純佳
勁草書房
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中絶権の憲法哲学的研究: アメリカ憲法判例を踏まえて
小林 直三
法律文化社
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中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ: フェミニスト倫理の視点から
塚原 久美
勁草書房
売り上げランキング: 50,490

んでいろいろ文献見てて雑感。

研修中とはいえ、そろそろ来年度のシラバス考えたりしなきゃならないわけです。私は哲学とかのおもしろみっていうのは、常識的な意見とか、他の人の意見とかを批判してなんか真理みたいなところに近づいていくところにあると思っているわけですが、そういうのってもちろん他の人とディスカッションしたりするのが一番なんですが、対立する論文を読み比べてみたり、論争を追っ掛けてみたりするのがいいんですよね。

でも国内では論文そのものがあんまりないから学生様に読ませることができない。さすがに英語で読めってわけにはいかんですしねえ。英米の大学のシラバスなんか見てると、毎週2、3本の抜粋なり論文なり読んでいろいろやってるみたいでうらやましい。日本で同じことをしようとすると翻訳からしなきゃならなかったりするわけでねえ。教科書そんなたくさん買わせるわけにもいかんし。だいたい、一人の人間が書いた教科書とか、あるい論争の紹介なんてのは迫力がないんすよね。


バトラー様のフォロワーを考える(3) さらに主体と表象について教えていただいております

ありがとうございます。ヘーゲル関係の講義を聞いているときを思いだしました。聞いてるとだんだん何を言おうとしているかわかってくる。

>なるほど、choicesするの意味上の主語はlawやpolitical structureですか。individualかと読みちがえてました。

lawやpolitical structureがchoiceする、というのはよく分からない事態になってしまうと思います。むしろ(ここで出てきているindividualsとは区別されるような)これまで存続してきた社会において、そこで生活してきた人々が歴史的に集合的に選択してきた慣習、という程度の意味ではないかと思います。慣習とここで言う場合、狭い意味で風俗みたいな意味合いではなく、より広い意味で(例えばヒューム的な意味で)規範をも含意しているとも考えられます(例えば、女性は男性よりも力・能力において劣っているから低賃金で働いて当然である、というような)。その慣習(規範)というのは歴史的・文化的にcontingentで、例えば(カントのように)理性がア・プリオリに選択するというような当必然的な性格を持つものではない、ということではないでしょうか。

なるほど。これも当然かもしれませんが、最初のjuridical systemからして疑似法的な慣習とその規範も含んでいるんでしょうね。

>このthe very political systemは現状のものなのでしょうか、それともフェミニストががんばって実現しようとしている、あるいは将来あるべき、political systemでしょうか。

後者だろうと思います。つまり、フェミニストが実現しようとしている(例えば男女同権的な)政治的制度であっても、それが女性という法規制の名宛人を規定し、すなわちその限りで女性を主体として規定し、その後で法が女性という主体(の意志)を表現するものとして現れてくる限り、女性(フェミニスト的主体)というものは、法によって構成された主体なのだ、ということではないかと思います。

次で出てきますが、「構成」の意味も私にはまだはっきりしてないかもしれません。

discursive constitutedについてですが、discursiveというのは、次のように理解できるんじゃないでしょうか。つまり、法を慣習あるいは「偶然的で撤回可能な選択の実行」が言語的に表現されたものだと理解するなら、discursiveというのは、ここでは「法のなかに慣習(規範)として言語的に表現されたところの」というような意味だと取れます。ところで、constituteには「構成する」という意味の他に、「設立する」「制定する」というような法的なコノテーションを持つ意味もあります。それゆえ、discursive constitutedというのは、「法の中に慣習(規範)として言語的に表現されることによって、設立された」という解釈を取れます。とすれば、”the feminist subject turns out to be discursively constituted by the very policical system that is supposed to facilitate its emancipation. “は、「フェミニストの主体は、[フェミニストにとって][法規制による抑圧からの]解放を可能にするとされるところの政治システムによって[であっても]、[その政治システムを駆動させている法規制のなかに][慣習(規範)として]言語的に表現されることによって、設立されたものであると分かる」という風に解釈できそうです。

「法の中に慣習(規範)として」は、「慣習」よりは「規範」の方がはっきりしてる気がします。

discursive formation and effectも、「法の中に慣習(規範)として言語的に表現されること(*)によって[法規制の名宛人として制定され、それによって法にその意志が代表されるところの主体が]形成されること、それ(*)によって[主体が]帰結すること」というふうに取れます。

はい。

そこで、representational politicsというのは、先ほどコメントしたものよりも詳しく書けば、僕はこう理解しました。つまり、法の中に慣習(規範)が言語的に表現されることによって、なんらかのcontingentな慣習(規範)の負荷がかかった形で、法規制の名宛人として法にその意志が代表されるところの主体が形成される、そうした主体が帰結するというような事態です。おそらくここでpoliticsは、利益団体がどのように多数派を構成するかとか、政治家が権力をどのように獲得するかというのではないでしょう。あるいは言論による抗議・説得というようなものでもないでしょう。むしろ、contingentな慣習(規範)が法の中に言語的に表現されることによって制定される主体というものがもつcontingencyに関するものでしょう。言い換えれば、どのようにcontingentな慣習(規範)が法の中に言語的に表現され、そしてどのように法の名宛人としてcontingentな属性を付与された主体が制定されるのか、というプロセスを意味しているのではないかと考えます。これは少なくとも普通の意味でpoliticsなのではないでしょう。

>では問題の一文を訳しなおしてみると、こうなります。「女性たちをフェミニズムの「ザ・主体」として表現するものとして、言葉と政治によって法を形づくろうとすることは、それ自体があるヴァージョンの「表現の政治」をもちいた、言論的による(法の)形成であり結果でもあるのだ」

juridical formationは、法を形作るというより、法によって主体を形作るということを指していて、それは女性をフェミニズムの主体として表象する、ということではないのでしょうか。つまり、the juridical formation of language and politics that represents women as “the subject” of feminismというのは、次の文章の”the very political system that is supposed to facilitate its emancipation”に言い換えられているものではないかと思います。また、a given version of representational politicsというのは、givenを「ある」というよりも、「所与の」「すでに与えられた」というような意味があるのではないでしょうか。つまり、これまで存続してきた社会において人々が歴史的に集団的にcontingentに選択してきた仕方におけるrepresentational politicsということが示されているのではないでしょうか。

うーん、だいたいのところはわかってきましたが、まだ自信がないですね。仮に訳してみるとこうなる。

「もしこの分析が正しければ、女性をフェミニズムの「主体」として表象させようとするような、言語と政治によってなされる、法による主体の形成は、それ自体が、すでに存在するバージョンの「表象の政治」の言説的な形成であり結果であるということになる。そして、フェミニストの主体は、自分たちを解放させてくれると想定されているまさにその政治システムによって設立されていることになる。」

パラフレーズしてみるとこんな感じでいいのかどうか。

「もしこのフーコーの分析が正しければ、こういうことになる。法や慣習そのものがそれ自体が反映するべき「主体」を限定するものであるため、誰の意思がどう法や慣習に反映されるかということは「表象の政治」のそのものでありまたその結果である。フェミニズムは女性を政治的な主体と認めさせようとするものであり、言葉と政治によって、女性を政治的・法的な「主体」であるように設定し、その意思を法や制度や慣習に反映させようとする運動である。しかしこうした運動自身が、実はすでに存在している「表象の政治」によって、政治的主体を言語的に設定しようとするものであり、また同時に運動自体がそうした「表象の政治」の結果でもある。そうなると、結局のところ、フェミニストの主体といったものは、自分たちを解放してくれるだろうと彼女たちが考えている、まさにその来たるべき政治システムによって設定されるということになるだろう。」

→ しかしその来たるべき政治システムが従来の通念での「女らしい女」だけをその通念にしたがった形で「解放」するとか、あるいは「男っぽい・男と同格の女」だけを解放するとかってことになるとなんか目標が自己矛盾してしまうから政治的には問題だ、と続く。

まだだめそうですね。
私はsskさんの解釈はおそらく適切だろうと思いますが、そこまで行くのはたいへんですね。しかしかなりわかってきましたし、竹村先生や望月先生の訳の問題もちょっと見えてきました。

 


ジュディス・バトラー様のフォロワーを考える(2) コメントでやっつけていただきました

前エントリは、コメントで一気にやっつけていただきました。すごい。

以下コメントへのお返事。
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本格的な解説ありがとうございます。なるほどこういうのが知りたかったそのものです。あの時間でこれ書けるのはすごいと思います。

>近代の民主的な国家は、だいたい「政府は被統治者・国民を代表するものだ」。王様だったら「俺はお前らの代表としてがんばっているんだ」って主張するわけですわね。

「政府が被治者を代表する」という先生の前提こそ曖昧です。ここで先生は政府をどのような意味で理解されているのですか? 執行権を担う制度という意味なのか、立法権を担う制度を意味しているのか、それとも国家というような意味なのか。

私はぼんやり国家だと考えてましたが、たしかに他の可能性がありますね。

しかし、このいずれの意味であっても、代表するものが「政府」なのではない可能性もあります。つまり、被治者をrepresentするのが、端的に法だという場合です。この場合、被治者の意志が法として表れている(represent)のであり、被治者は意志を持つ存在者です。ここで意志を持つ存在者のことを、主体subjectと表現することは哲学的な用語法に適ったものではないでしょうか?

なるほど、その解釈の方がスマートですね。

さらに言えば、representは代表とも表現(表象)とも理解されるものであり、ドイツ語で言うならVertretungと区別して考えなければならない場合もあります。法が被治者の意志をrepresent(repräsentieren)するという場合、represent(repräsentieren)はvertretenではないでしょう。代理は例えば人民が選挙で選んだ代議士、というような事例にふさわしいものです。つまり、ここで「法は人民を代表する」と言っても、「法は人民を、代議士が人民を代理するように、代表する」という意味で解されてはならないでしょう。

なるほどなるほど。Vertretungは「代理」。

また、法が何らかの存在者の意志をrepresentするものである、あるいは法は何らかの存在者の意志としてrepresentされたものであるという理解はとりたてて特別なものではなく、神学上では神の意志が法として表現されていましたし、人民主権の文脈では人民=被治者の意志が法として表現されていました(あるいは人民主権を否定する論者でさえ、法は人民の意志を表現するものだという理解を示していた場合もあります)。

了解です。

そうであれば、juridical systems of power produce the subjects they subsequently come to representを「法的な権力システムは主体をつくりだすが、それは法的権力システムが結果的に表すことになるところのものである」と訳すことができますし、その場合には次のような理解が可能になります。法は被治者の意志を表すというが、被治者という属性は法によって規定されない限り存在しない(この場合の法は単なるGesetzではなくVerfassungsrechtのような根本法でしょう)、従って、法はまず被治者を(意志の)主体として生み出し、その後で自らを被治者(の意志)を表すものだと規定する、ということです。では、被治者という属性が法によって規定されるという事態はどのようなことかといえば、その法の体系一般を受け入れるべき名宛人が法の規定する存在者だということになるでしょう。法の体系一般というのは、次の箇所で述べられるように、「~するな」という形でregulateする規則の集合体です。

ここまでよくわかりました。すばらしい説明だと思います。(これも読んでる人のために書くとVerfassungsrechtは憲法)

>individuals related to that political structure through contingent and retractable operation of choices これもいやですねえ。個人は国家という政治構造とかかわっているわけですが、そのかかわりがcontingentだっていうのは、たとえば日本で生まれて日本で生活しているのは偶然的だからcontingent。

なぜか先生は国民国家間での事象を考えておられるようですが、国民国家間で働くjuridical structure(国際法のような?)がここで議論されているのでしょうか?contingent and retractable operation of choicesというのはむしろ、慣習法のように偶然の産物が伝統化されて法として結晶するような状況が想定されているのではないでしょうか。例えば、日本の民法では女性は16歳以上、男性は18歳以上にならなければ婚姻できませんが、こうした規定は当必然的に選ばれているものではないですよね? こうした「偶然的で撤回可能な[はずの]選択の実行」の積み重なりを通して獲得される法的権力システムが、political structureと言われているように思います。

なるほど、choicesするの意味上の主語はlawやpolitical structureですか。individualかと読みちがえてました。

>But the subjects regulated by such structures are, by virtue of being subjected to them, formed, defined, and reproduced in accordance with the requirements of those structures.前のsubjectsは、これまでと同じものであれば被統治者、臣民、国民を指すはずです。

さきほど述べたように、法的構造はそれを受け入れるべき名宛人をまず規定します。それがここでthe subjects regulated by such structuresと呼ばれているものです。subjectsは法を自らの意志として表現することになる存在者、つまり意志を持った存在者であるので、その存在者は主体として理解できるでしょう。被治者・臣民・国民と訳してもいいですが、それでは意志の主体としてのコノテーションが失われるのではないでしょうか。

これもよくわかりました。

>私はこのjudical formation of language of pliticsのformationがなにを指しているのかちょっとぼんやりしていてわからんですね。
>んで次の関係詞節が問題です。that represents women as “the subject” of feminism。このsubjectは「主体」でいいんでしょうか。さっきまでのsubjects (複数)は、話の筋を追うかぎり被統治者のこと。こんどはthe subject (単数)になってる。「フェミニズムの〜」の「〜」になにが入るか。

このof language and politicsは「~による」と訳すべきではないでしょうか

そうですか。このofは私には非常に曖昧に思えます。最後に試訳つくります。

これまでの議論からすれば、法は被治者をregulateするものです。こうしたregulationは、「偶然的で撤回可能な選択の実行」を通じて獲得された政治的構造において、法を通じてなされるものです。法は言語によって表されるものでありますが、もっと詳しく言えば、法は慣習(「偶然的で撤回可能な選択の実行」)を言語的に表現したものでもあります。さらに、こうして言語的に表現された慣習を通じて政治的構造が成り立っています。したがってjudical formationは「言語と政治による」ものである、と理解することができるようになります。

なるほど、「選択」が法自身の選択であると考えれば、
最初のはjuridical formation of language and politicsが正しいですね。正しく読んでもらってすみません。

さらに、関係詞節も合わせて訳せば、「フェミニズムのthe subjectとして女性をrepresentするような、言語と政治による法的な形成」となりますが、ここでは「フェミニズム[運動]の主体」と訳して構わないのではないでしょうか。

なるほど。わかります。ただし、この場合”the subjects”と表現することはできないのですか? まあこの読みであれば、womenを集合的にとってるのだとは思います。
あとこれ今気づいたのですが、含意としては、「(たとえば19世紀から80年代までのように)女性をフェミニズム運動の主体として、法的・政治的に重視させようとするするような語り方の変更と法改革の動きは」ってことなんですね。あってますか?

言語的慣習とそれを通じて出来上がってくる政治的構造のなかに存在する個人は、法によって規制される対象・名宛人として規定され、規定されることで実際に法によって規制されます。同様に、女性を規制していた種々の法律(参政権の制限や離婚の制限、労働上の地位の制限など)は、その規制の以前に、その規制の対象である存在者を女性として表現します。フェミニズムが抑圧(規制)からの解放を謳う運動であり、女性は法の規制の対象として法的に形成される(法的な名宛人として規定される)存在者なのだとすれば、フェミニズムのthe subjectは能動的・積極的にその規制から女性を解放しようとする存在者であるでしょう。その場合、the subjectが「テーマ」として理解されるのは不適切ではないでしょうか。そして、フェミニズムにおいて女性を解放しようとするのは当の女性たちであり、女性たちが主体となって(能動的になって)自らを解放しようとする、という理解につながります。

なるほど。実はthe very political system that is supposed to facilitateのところの is supposed toがよくわからなったのですが、このthe very political systemは現状のものなのでしょうか、それともフェミニストががんばって実現しようとしている、あるいは将来あるべき、political systemでしょうか。

>ところがですね。discursive formation and effectもわからん。…representational politicsは代表制政治・政体ですかねえ。

まず、representational politicsですが、もし(議会)代表制のような政治制度・政体を表すのであれば、representative politicsと言うのではないでしょうか。

これは私も気になりました。

むしろ、竹村訳のように表現による政治(ないしは表象による政治)の方が適格ではないでしょうか。

言論、特に表現の仕方による政治、抗議、説得etc.という意味ですか?

というのも、法は慣習あるいは「偶然的で撤回可能な選択の実行」を言語的に表現したものであり、それがまずは規制する対象を規定することで被治者という属性を与え、その後で自らを自らが規制するところの被治者の意志として表現するものであり、これをバトラーはpoliticsと呼んでいるようだからです。

なるほど。
では問題の一文を訳しなおしてみると、こうなります。
「女性たちをフェミニズムの「ザ・主体」として表現するものとして、言葉と政治によって法を形づくろうとすることは、それ自体があるヴァージョンの「表現の政治」をもちいた、言論的による(法の)形成であり結果でもあるのだ」
ぐらいですか。これでよろしいですか?あれ、ofの意味がおかしいかな。まだわかってないようです。おねがいします。

要点をまとめれば、先生は、法が被治者の意志をrepresentするものだという法学・政治学的な通説を全く無視しており、それゆえに被治者は意志を持った主体である、というsubjectに込められた表現を見落としてしまっているのではないか、ということです。

すみません。とても勉強になりました。

私には「subjectの意味のすりかえ」が行われているようには思えません。こういった議論を、その前提に思い至らないまま「誤謬推理というか詭弁Fallacyがふんだんに使われていて、これは超一流のソフィストを感じさせます」とコメントするのは、どうなのでしょうか。

こうして説明してもらえれば、そうしたディスは必要ないかと思います。そうした表現は控えたいと思います。やっとわかってきた感じで、たいへん勉強になりました。あきれずおつきあいください。
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今回、すごくよく読めている人もいることがわかりました。読めてないのは私だけかもしれない。おそろしい。

 


ジュディス・バトラー様のフォロワーを考える (1) バトラー様の文章は読めません

まあ本当はセックスの分析哲学・規範倫理学やりたいわけですが、国内でセックスだのセクシャリティだのジェンダーだのって話になると必ずバトラー様とか出てくるので気になる。私はぜんぜんわからないのですが、議論する上でバトラー様あたりの議論に気を配ってないとなんか問題があるかもしれないので一応読むわけです。そしてわからない。

2005年ぐらいから、1年に1、2回はまってしまうジュディスバトラー様にまたはまってしまいました。もうこれいずれ研究ノートぐらいにしなきゃならんね。でないと無駄にした時間が本当に無駄になってしまう。

これは私のなかではもう長い長い歴史があって、私のなかでは感情的にもいろいろ許せないところがあったり。その研究というか調査というか、そういうのなかで、心ならずも人様を怒らせたりもしていて、その始末もつけないとならん。Twitterは書き捨てとはいってもTogetterとかにまとめられているみっともないつぶやきもあり。

いずれ書きたいのは、とにかくバトラー様をもちあげてる人々はほんとうにバトラー様読めてるのかどうかって問題。バトラー様本人に喧嘩を売るつもりはない。っていうか本気でわからんし。

翻訳の問題と、「主体」と「パフォーマティブ」と「セックスはいまだすでにジェンダー」がどれもよくわからんから、もし国内の学者さんたちが今後もそんなもちあげるつもりならちゃんと説明してほしい、ていどのこと書いておきたいとは思ってます。

たとえばこの文章の翻訳。すごく有名な箇所です。まあ一番最初の方なので誰でも読む。

Foucault points out that juridical systems of power produce the subjects they subsequently come to represent. Juridical notions of power appear to regulate political life in purely negative terms — that is, through the limitation, prohibition, regulation, control, and even “protection” of individuals related to that political structure through the contingent and retractable operation of choice. But the subjects regulated by such structures are, by virtue of being subjected to them, formed, defined, and reproduced in accordance with the requirements of those structures. If this analysis is right, then the juridical formation of language and politics that represents women as “the subject” of feminism is itself a discursive formation and effect of a given version of representational politics. And the feminist subject turns out to be discursively constituted by the very policical system that is supposed to facilitate its emancipation.  (Butler 1990, p.4)

竹村和子先生の訳だとこう。

フーコーは、権力の法システムはまず主体を生産し、のちにそれを表象すると指摘した。権力を法制的な概念から観れば、権力は純粋に否定的なやり方で、ひとの政治的な生き方を規定しているようだ。つまり、そもそも偶発的で撤回可能な選択によって政治構造にかかわっているにすぎない個人に対して、制限や禁止や規則や管理、なかんずく「保護」さえも与えることによって、その個人の政治的な生き方を規定していくのである。けれどもそのような構造で規定される主体は、構造に隷属することによって、構造が要求するこ事柄に見合うように形成され、定義され、再生産されていく。この分析が正しければ、女を、フェミニズムの「主体」として表象しようとする言語や政治の法組織は、表象の政治の既存の一形態を言説で組み立てたもの、その結果にすぎないということになる。そうなるとフェミニズムの主体は、解放を促すはずのまさにその政治システムによって、言説の面から構築されていることになる。(竹村訳p.20)

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わたしこれ、おかしいんじゃないかと思います。っていうか意味がわからん。ちょっとずつ行きましょう。

Foucault points out that juridical systems of power produce the subjects they subsequently come to represent. 

私が読むと、いちばん最初のsubjectsは被統治者、臣民ですわね。(国家という)法的な権力システムは、国民を作り出します、と。

まあ国家っていってもいろいろあるわけです。古代ギリシアのポリス国家みたいなのもあれば、中世的な封建国家もあり、近代的な君主制国家もあり、社会契約とかにもとづいた立憲君主制とか共和制みたいなのもありーのでいろいろ。なにが国家っていうのはけっこう難しくて、まあふつう近代的国家は(1)国土 (2)国民 (3)主権、の三つが必要みたいなことを授業でしゃべったりしますがモガモガ。

まあむずかしい話はおいといて、国家はふつう(排他的な)領土をもっていて、国民もいるわけです。王様とかが「こっからここまでうちの領土でこいつら俺の国民ね」ってやる。おそらくこれが「被統治者を生みだすproduce」っていうことの意味ですわね。どっかなにもないところから作り出すわけではない。フーコーでは知らんけどふつうに読めばそうだろう。

the subjects (that) they subsecuently come to representは「法的権力システムがのちに代表することになる被統治者」ってな感じですね。近代の民主的な国家は、だいたい「政府は被統治者・国民を代表するものだ」。王様だったら「俺はお前らの代表としてがんばっているんだ」って主張するわけですわね。ただしこのsubsequentlyが時間的な「後」を指しているのかどうかは曖昧ですね。「論理的」な前後関係を指しているのかもしれない。つまり、国民を統治する法を定める前に国民が誰であるかが定まっているはずだ、みたいな。まあここらへんは国家や法の正当性・正統性にかかわるところで難しいですが、ここまでの文章の内容はわからんでもないです。(実はpowerに冠詞がついてないのが気になるのですが、気づかなかったことにします)

しかし竹村先生はこのsubjectsを「主体」って訳してしまっていて、ふつうの人間が読んでも意味不明なんじゃないですかね。

次行きましょう。

Juridical notions of power appear to regulate political life in purely negative terms — that is, through the limitation, prohibition, regulation, control, and even “protection” of individuals related to that political structure through the contingent and retractable operation of choice. 

Juridical notions of powerはいやですね。「権力の法的諸観念」とか訳してもよくわからないし。誰か教えてください。こういうの例が出てこないとわからんすよね。まあたとえば「刑法」とか「刑罰」とかそこらへんの権力が使ういろんな観念でしょうな。

まあとにかく、そういうものは、政治生活をネガティブな形で規制する。「〜しろ」ではなく「〜するな」「〜させない」という言語で表現すれば否定形になるような形で、ってことでしょう。国家や法ってのは基本的にあれしちゃだめ、これしちゃだめ、っていう形で人々の生活に干渉してきます。「政治的」生活って言ってるのの「政治的」のポイントはちょっとわからない。まあここでは「人と人とがかかわるときに」ぐらいと理解しておきます。簡単にいうと、「国家とか法律というのは、人々の生活にあれすなこれするなと口を出してくるものだ、場合によっては手も出す」ぐらい。of individualsのofはpolitical lifeにかかっているはずです。いやなかかりかたですね。

individuals related to that political structure through contingent and retractable operation of choices これもいやですねえ。個人は国家という政治構造とかかわっているわけですが、そのかかわりがcontingentだっていうのは、たとえば日本で生まれて日本で生活しているのは偶然的だからcontingent。おそらく中村さんみたいにアメリカ移民してあっちの国民になることもできる。これがretractable 撤回可能。いちおう国家の国民であるのは、その個人がその国の国民になることを選択し、同意しているからそうなってるんだ、ってことですね。ソクラテスさんがアテネの市民であり、アテネの法律によって死刑になったのは、ソクラテスさんがアテネ市民であることに同意していたからだ、っていうのは『ソクラテスの弁明』や『クリトン』読みましょう。

But the subjects regulated by such structures are, by virtue of being subjected to them, formed, defined, and reproduced in accordance with the requirements of those structures.

前のsubjectsは、これまでと同じものであれば被統治者、臣民、国民を指すはずです。such structresは国家とかの政治的構造ですね。be subjected toは「従属させられる」ですわね。国民であるには、その政治的構造が要求する条件に適合している必要がある。たとえば日本で生まれたとか、父か母が日本人だ、とか日本に〜年住んでる、とか犯罪犯してない、とかまあそういう要件ですわね。それにしたがって形成formされ、規定defineされている。formとか多義的な言葉をこういうふうに使うのはわかりにくい。

If this analysis is right, then the juridical formation of language and politics that represents women as “the subject” of feminism is itself a discursive formation and effect of a given version of representational politics.

ここ私わからんのです。竹村先生の訳も意味不明だと思う。

私はこのjudical formation of language of pliticsのformationがなにを指しているのかちょっとぼんやりしていてわからんですね。前後読んでもはっりしない。「言葉と政治の組み立て」ぐらいしかしょうがないか。

んで次の関係詞節が問題です。that represents women as “the subject” of feminism。このsubjectは「主体」でいいんでしょうか。さっきまでのsubjects (複数)は、話の筋を追うかぎり被統治者のこと。こんどはthe subject (単数)になってる。「フェミニズムの〜」の「〜」になにが入るか。

私これ、Cobuild辞書では2番目にあがってるSomeone or something that is the subject of criticism, study, or an investigation is being criticized, studied, or investigated、つまり「テーマ・主題・話題」じゃないかと思いますね。

この場合、動詞representも「表現する」ぐらいの意味になりますかねえ。代表ではなくなってしまう。

ところがですね。discursive formation and effectもわからん。「言説で組み立てたもの」かなあ。discursiveっていうのはまあ of or relating to knowledge obtained by reason and argument rather than intuition ですか。representational politicsは代表制政治・政体ですかねえ。「ある種の代表制政治を、言論として(あるいは「お話として」)かたちづくっているものであり、またその結果でもある。」ぐらいですか。これでも曖昧ですね。

And the feminist subject turns out to be discursively constituted by the very political system that is supposed to facilitate its emancipation.

ここに来るとsubjectが何を指すのかさっぱりわからない。一番最初のsubjectはおそらく被支配者でまちがいないところですが、ここでは(1)被支配者、(2)テーマ・対象、(3)ふつうの意味の「主体」、つまり自分で感じたり判断したり行為したりする存在者、のどれにも解釈できてしまう。

「フェミニストという被支配者は構成されている」「フェミニスト的主体は構成されている」「フェミニズムの主題・対象は構成されている」どれもOKですね。でもどれでもいいということはありえないと思う。

もし最初のsubjectが被統治者で、最後のが「主体」であるなら途中で論理のすりかえがおこなわれてるし、最初のsubjectが被統治者でなくて「主体」であるならば、その正当化してもらわないと「従属させられることによって主体になる」みたいなのがなぜそうなるのかわからない。

まあこんなふうに私はこの文章は読めないですね。representやsubjectが多義的に使われていて一貫していないと思う。ここらへんが英語ネイティブの哲学者にさせ、「バトラーは難解」と言われる理由ですね。竹村先生の訳もおかしいし意味がとれない。

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望月由紀先生という方が、「発話行為と主体の成立、あるいは主体の受動性について」っていう論文でこの部分を引用してます。

フーコーの指摘によれば、権力の司法システムは主体を生産した後に、それを表象するようになるのである。……この分析が正しければ、女性をフェミニズムの「主体」として表象しようとする言語や政治の司法組織自体が、既存の代表制政治の一形態を言説的に構築したものであり、その効果にすぎないということになる。さらに解放を促すはずのフェミニズムの主体は、まさにその政治システムによって言説的に構築されていることになる。(望月訳、p.23)

竹村先生のよりはましだと思いますが、本当に最初から「主体」でいいんでしょうか。その場合「表象する」っていったいどういうことだろう。なぜ「代表制政治を言語的に構築したもの」なのかもこれではわからない。「言説的に構成」みたいなのも直訳だとこうなるけど、はたしてこれで了解可能なのかどうか。

私の見るところ、誤謬推理というか詭弁Fallacyがふんだんに使われていて、これは超一流のソフィストを感じさせますね。subjectの意味のすりかえ、なんてのは古典論理学や非形式論理学の教科書にはかならず出てきますが、どれも人工的ですぐにわかる例ばかりなのに、こうなるとよくわからない。超一流。なぜそういう方をあがめるのか私にはわからない。マーサ・ヌスバウム先生がジュディスバトラー先生をディスった有名な文章がゲリラ翻訳されてますので見てみてください。 http://goo.gl/Ztr2Bh

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望月先生の論文はこれに。先生の論文はかなり読みやすいと思います。

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デートレイプ魔としてのジャンジャック・ルソー

ルソー先生。イケメンだけどあやしい。

ルソーには「先生」つけたくない、みたいなこと書いてしまいましたが、いけませんね。ルソー先生の言うこともちゃんと聞かねば。しかしこの人やばい。やばすぎる。まあ実生活でもかなり危険な人でしたが、書くものもやばい。私はこの先生の書くもの、なにを読んでもあたまグラグラしますね。理屈通ってないわりにはなんか情動に訴えかけるところがあって、健康に悪い。肖像画とか見てもなんか自信満々の怪しいイケメンで、なんか恐いものを感じる。

ルソーはセックスと恋愛について大量に書いてます。『新エロイーズ』とか、元祖恋愛小説ベストセラー作家でもある。『エミール』とか教育論の元祖・名作ってことになってていろいろ誉められてるけど、そんないいもんでもない気がする。その内容を見てみるとこんな感じ。

性のまじわりにおいてはどちらの性も同じように共同の目的に協力しているのだが、同じ流儀によってではない。そのちがった流儀から両性の道徳的な関係における最初のはっきりした相違が生じてくる。一方は能動的で強く、他方は受動的で弱くなければならない。必然的に、一方は欲し、力をもたなければならない。他方はそんなに頑強に抵抗しなければそれでいい。

男は強く暴力的に荒々しく迫り、女はちょっと抵抗していいなりになるのが自然だ。

この原則が確認されたとすれば、女性はとくに男性の気に入るようにするために生まれついている、ということになる。男性もまた女性の気にいるようにしなければならないとしても、これはそれほど直接に必要なことではない。男性のねうちはその力にある。男性は強いというだけで気に入られる。……

男は力がすべて。肉体の力も金も権力も。そういうのある男性がモテるってのは、まあそうでしょうね。

女性は、気に入られるように、また、征服されるように生まれついているとするなら、男性にいどむようなことはしないで、男性に快く思われる者にならなければならない。女性の力はその魅力にある。その魅力によってこそ女性は男性にはたらきかけてその力を呼び起こさせ、それをもちいさせることになる。男性の力を呼び起こす最も確実な技巧は、抵抗することによって必要を感じさせることだ。そうなると欲望に自尊心が結びついて、一方は他方が獲得させてくれる勝利を勝ち誇ることになる。そういうことから攻撃と防御、男性の大胆さと女性の憶病、そして、強い者を征服するように自然が弱い者に与えている武器、慎しみと恥じらいが生じてくる。

征服だー。「男性の力を呼び起こす最も確実な技巧は、抵抗することによって必要を感じさせることだ」。迫られてもすぐにチューさせたりしないで抵抗しろ。その方が燃えて無理矢理迫りたくなるからね。

自然は差別なしに両性のどちらにも同じように相手に言い寄ることを命じている、だから、最初に欲望をいだいた者が最初にはっきりした意思表示をすることになる、などとだれに考えられよう。それはなんという奇妙な、堕落した考えかただろう。そういうもくろみは男女にとってひじょうにちがった結果をもたらすのに、男女がいずれも同じような大胆さでそれに身をゆだねるのが当然のことだろうか。……

女から迫ってはいかん、ということです。不自然だから。迫られるのを待ってろ。

そういうわけで、女性は、男性と同じ欲望を感じていてもいなくても、また男性の欲望を満足させてやりたいと思っていてもいなくても、かならず男性をつきのけ、拒絶するのだが、いつも同じ程度の力でそうするのではなく、したがって、いつも同じ結果に終わるわけでもない。攻める方が勝利を得るためには、攻められるほうがそれを許すか命令するかしなければならない。攻撃する者が力をもちいずにいられなくするために、攻撃される者はどれほど多くのたくみな方法をもちいることだろう。あらゆる行為のなかでこのうえなく自由な、そしてこのうえなく快いその行為は、ほんとうの暴力というものを許さない。自然と道理はそういうことに反対している。自然は弱い者にも、その気になれば、抵抗するのに十分な力をあたえているのだし、道理からいえば、ほんとうの暴力は、あらゆる行為のなかでもっとも乱暴な行為であるばかりでなく、その目的にまったく反したことなのだ。というのは、そんなことをすれば、男性は自分の伴侶である者にむかって戦いをはじめることになり、相手は攻撃してくる者の生命を犠牲にしても自分の体と自由を守る権利をもつことになるし、また女性だけが自分のおかれている状態の判定者なのであって、あらゆる男が父親の権利をうばいとることができるとしたら、子どもには父親というものはいなくなるからだ。……

女性は力いっぱい抵抗することもできるのだが、セックスの場面ではそんな強く抵抗することはない。最初にちょっと抵抗するとあとはぜんぜん抵抗しなくなる。これは無理矢理セックスされるのを実は望んでいるからだ。

とか危険なのがいっぱい。まあ早い話、女は迫られるのを待っていて、迫ると抵抗するけどそれは本気じゃないからそのままやってもかまわん、それが自然だ、ということですわね。

こんなものが戦後教育の推薦図書とか信じられんですね。「なに?ジャンジャック、やめて、やめてジャンジャック、本気なの? おうおう」「(やっぱり女は最初抵抗してみせるだけだな)」とかってことになった人がたくさんいるのではないか。まあルソーほど有名人でイケメンだったら好きでそういうふうになった人もいるかもしれんけど、そうじゃない人も多かったろう。いやほんとにシャレならんすよ。そういうの読んで女はそういうものだ、みたいにまにうけた戦後知識人もたくさんいたと思う。こういうのは、単なる時代的な限界とかそういうのではないのではないかな。

まあでもルソーの近代社会に対する影響は巨大なので、どの本も読むに値する。読まないでいると、いま一般に言われている政治的・社会的な議論とかがどこに出自があるのかわからなくなってしまう。「あ、日本の〜という人がいっていたあれはルソーの引用なのか」とか気づくことがたくさんあります。あとウルストンクラフト先生という元祖フェミニストみたいな先生がいるんですが、この方はルソーが嫌いでその批判で1冊本書いてます。かならず読みましょう。でもさすがにセックスの話はできなかったみたい。

まああえて好意的に読めば、こういうのも人びとのセックスや性欲に関するある種の真理や理想を描いている、みたいになるんすかね。攻めと受け、っていうBLとかで一般的な構図ですしね。実は人びとはやっぱりそういうのが好きだってのはあるんかもしれない。

まあどう評価するにしても、ルソーとかカント先生とかの著作が一般には非常に抽象的なものとして読まれていて、我々の実際の生活や関心事とかけはなれたことを論じているように紹介されるのは私は不満です。どの哲学者もセックスとかには関心をもっていて、かなりの分量の思索を残してます。そういうがまったくといっていいほど議論されることがないのは、やっぱりおかしいのではないか、みたいな問題意識からもセックスの哲学はおもしろい。でもまあやっぱり堅い(ことが求められている)大学教員としては書きにくいことも多いのはわかんですけどね。

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ルソーの一般向け紹介本みたいなのはでは仲正先生のがまともで読みやすくてよかったです。「なんとか2.0」みたいなのはまにうけてはいけません。

今こそルソーを読み直す (生活人新書 333)
仲正 昌樹
日本放送出版協会
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右翼・保守の人はルソー嫌いが多くて、もう人身攻撃みたいなのしてます。話のネタには読んでおいてもいいかも。

絵解き ルソーの哲学―社会を毒する呪詛の思想
デイブ ロビンソン オスカー ザラット
PHP研究所
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カント先生とセックス (3) 自分の体であっても勝手に使ってはいけません

まあ性欲はそういうわけでいろいろおそろしい。だいたい、いろんな犯罪とかもセックスからんでることが多いですしね。性欲は非常に強い欲望なので、道徳とバッティングすることがありえる、っていうより、他人の人間性を無視してモノに貶めるものだっていうんでは、ほとんど常に道徳とバッティングしてしまう。

例の人間性の定式「人間性を単なる手段としてではなく、常に同時に目的として扱え」にてらして考えてみると、性欲とセックスは相手を自分の欲望を満たすための単なる手段にしてしまうわけで、どうすれば同時に目的として扱うことになるのか難しい。

まあふつうに考えれば、床屋さんやマッサージ屋さんと同じように、相手が自律的・自発的に望んでいることを尊重すればいいんちゃうか、と思いたいところですが、カント先生はそれじゃ満足しないみたいなんですね。ここらへんちょっと入りくんでいてわかりにくいのですが、性欲とセックスは人間をモノに貶める行為であって、他人をモノとして扱うのが許されないだけでなく、自分自身を(自発的・一時的に)モノとして提供することも不道徳で許されません、みたいな論理のようです。だから売春とかもだめ。床屋さんやマッサージ師さんとは違う。あれは技術を売っているわけだけど、売春は自分をモノにおとしめてその体を売ることだ。実は、(一時的な)恋人関係・愛人関係みたいなのでさえだめなんですわ。それはお互いを性的傾向性にもとづく愛によってモノにしてしまう関係である。

カント先生はこんなふうに書いてます。ちょっと長いけど、いつか使うために写経した。

人間は、当人も物件ではないのだから、自分自身を意のままに処理することはできない。人間は自己自身の所有物ではない。それは矛盾である。なぜなら、人間は、人格である限り、他の事物に関する所有権をもつことのできる主体だからである。さてしかし、彼に人間が自己自身の所有物であるとしたら、人間は、その当人がそれに対する所有権をもつことのできる物件であることになろう。しかし、とにもかくにも人間はいかなる所有物ももたない人格なのであり、したがって、当人がそれに関して所有権をもつことのできるような物件ではありえない。なぜなら、実際、同時に物件でも人格でもあること、換言すれば、所有者でも所有物でもあることは不可能だからである。

したがって、人間は自分を意のままに処理することはできず、人間には自分の一本の歯もその他の手足も売る資格がない。さてしかし、ある人格が自分を利害関心に基づいて他人の性的傾向性を満足させる対象として使用させる場合、すなわち、ある人格が自分を他人の欲望の対象にする場合、その人格は自分をひとつの物件として意のままに処理しているのであり、それによって自分を物件にしている。他人はその物件で自分の欲を鎮める。ローストポークで自分の空腹を満たすのと同様に。ともかく、他人の傾向性は性に向かうのであり人間性に向かうのではないので、この人格がその人間性を部分的に他人の傾向性に与えること、そして、それによって道徳的目的という点で危険を冒していること、それは明らかである。

したがって、人間は他人の性的傾向性を満足させるために、利害関心に基づいて自分を物件として他人の使用に供する資格をもたない。なぜなら、その場合、その人の人間性は、ひとつの物件として、すなわち誰彼なくその人の傾向性を満足させる道具として使用される危険を冒すからである。(『コリンズ道徳哲学』39節「身体に対する義務について──性的傾向性に関して」、御子柴訳)

我々自身は我々のものではない、っていう主張は目をひきますね。「我々は自分(特に自分の身体)を自由に処分することができるのか」ってのは生命倫理とかフェミニズムとかで非常に議論されているところですね。自殺の自由はあるか、とか。カント先生ははっきりないって言います。これはずっと一貫してる。売春の自由とかってのも認めないわけですね。ただし、「私の体は私のもの」みたいなフェミニストの標語をカント先生が認めないかどうかはわかりません。フェミニストの意味では認めるんちゃうかな。

カント先生による自殺の禁止の議論は倫理学のテストで出題されるかもしれませんね。「人間性の定式」では「あなた自身のうちにあるものにせよ、他の人のうちにあるものにせよ、その人間性を単なる手段として扱わず〜」っって言われているわけですが、この「あなた自身の」の方はわすれられやすい。他人だけじゃなく自分も単なる手段としてあつかってはいかんのです。

だいたい、自殺とかってのは苦しいことから逃がれたくて自殺したいと考えるわけですね。おそらく、死ぬことそのものを望む人はあんまりいない、っていうかおそらく現実には存在しない。「生きてんのがやになりました」とかってのは実はなんか夏休みの宿題しなきゃならないとか、そういう面倒なことが苦痛だからそれから逃げたいだけ。面倒なことがなくなれば死ぬことそのものを望んだり意志したりするっていうのは考えにくいですね。とりあえず生きてりゃ音楽聞いたり本読んだりできるし、ひょっとしたらいつかはうまいもの食ったりセックスしたりして楽しいこともあるかもしれないし。

んで、人生の苦しみから逃れるために自殺するというのは、自分自身とその生命を、苦痛を逃れるという目的のための単なる手段として扱うことになる、自分の体をたんなるモノとして処分することになる。だからだめっす、という議論です。これがうまくいってるかどうかはよくわからんですが、おもしろいこと言いますね。ちなみにカント先生はこの議論だけでなく、別のやりかたでも自殺の禁止を立証しようとしてます。


ポルノとアート (1) それはどう違う?

芸術家の人がわいせつ物頒布かなんかで逮捕されたりして、わいせつと芸術、みたいな古い感じの話がネットで話題になっているようです。あとバルチュスっていう有名な画家さんの展覧会を見て、「児童ポルノだ!」みたいに言ってる人たちもいた。実はあんまり興味ないんですが、まあいろいろあって気分転換にちょっとだけ。そういう問題の本筋にかかわる話ではないです。

日本の「わいせつ物」ってのは(1) 徒らに性欲を刺激・興奮させて、(2) 普通のひとの正常な性的羞恥心を害して、(3)善良な性的道義観念に反するものだ、っていうのが反例とかで出てるらしいですね。わたしはこの条件の最初の「徒らに(いたずらに)」っていうのが好きです。よく知らないんですが、この「いたずらに」っていうのは「無駄に」とかそういう意味だと思うんですが、性欲っていうのは無駄に刺激されたりするものですからね。ははは。

このように日本の法律上では、猥褻かどうかっていうのは芸術かどうかとはあんまり関係がない。でも猥褻か芸術か、みたいな話になってしまうのはわからんでもないですね。米国の反例なんかだと猥褻物というのは、(a) その作品が、平均的な人が、共同体のその時点の標準を適用して、全体として、好色な興味に訴えるものだと思うようなものであり、(b) 不快なしかたで州法でさだめる性的な活動を描いていて、(c) その作品が、全体として見て、文学的・芸術的・政治的・科学的価値をもたないもの、のように言われています。これは文学的・芸術的・政治的・科学的な価値がある場合は猥褻物として法的に規制したくないからこういうのを定義に入れちゃってるわけですわね。日本の法律はそうはなってないけど、芸術的価値のあるものは性的なことをばっちり描いちゃってても規制しないでおこう、みたいな考え方は常にあるわけです。

まあとにかく気晴らしにArt and Pornographyって本を読んでて、Hans Maes先生という方がポルノと芸術(アート)を二分することができるかっていう話をしてます。答は「そんな簡単にはできない」みたいな感じですが、とりあえず候補として、よく言われているポルノとアートの違いみたいなのを挙げているのがおもしろかったので簡単に紹介しています。ここで言われているアートはアートのなかでもエロティックアートとか呼ばれる、まあエロチックな、エッチな、セックスとか裸とか出てくるような、そういうやつわね。まあ私には美術作品の半分くらいはエッチに見えます。あれ、むしろエッチじゃないのは美術作品として観賞することができてないだけか。

ポルノとアートは違うぞ、って言ってる人びとは、どういう違いがあると言っているのか。

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1. 表現の内容

ポルノとアートは内容が違う。

ポルノ:性的に露骨、暴露的。解剖学的に詳細。まあアダルトビデオとか、その部分のクロースアップとか好きですよね。女性はそんなもの見てなにがいいんだ、って言うことが多いみたいですが、なんか男性は気になるらしいです。
アート:示唆的。その部分はぼかしたり隠したりすることも多い。体の部分より全体を描く。モデルの個人性や、その描かれている人物の主観的経験なんかを描写しようとする。恥ずかしがったり、恋のとりこになっていたり、夢見てたり、よいアートはその描かれている人の複雑な内面を想像してしまいますね。

内容的にもうちょっとふみこんでみると、

ポルノ:攻撃的。情感に乏しい。即物的。単なるF**K。そもそも「ポルノグラフィ」ってのは「売春婦(ポルネー)の記録」だ。汚ない、っていう人もいるっしょね。
アート:愛、情感。情熱。参加者は平等に求めあったりしている。エロティックっていうのは「エロース」=「愛」から来てるわけだからして、愛を含まないのはエロチックじゃないぞ。それにプラトン的にはエロースってのは美に向かうものだからして。美しくないのはエロくない。

2. 道徳性

これはポルノっていうのはいろんな表現のなかでも道徳的に劣ったもの、あるいは道徳的に悪いもの、不正である、っていう立場の人がとりますね。第二派フェミニズムが問題にしたやりかたです。

ポルノ:不道徳。粗野、野卑、下劣。degrading=登場人物をおとしめる。虐待的。有害(制作の被害、視聴の被害、性暴力、性犯罪、性差別の誘発)。ヘイトスピーチとして、女性の声を奪い女性を従属させる。疎外。モノ化(人間をモノとして扱う)。性差別的、性暴力的。

このタイプの議論をした人としては、法学者のキャサリン・マッキノンと文学者のアンドレア・ドウォーキンのコンビの一連の運動が有名ですね。他にも有力フェミニストの多くがこの立場をとる。彼女たちは、性表現を、こういう道徳的に人(特に女性)を貶めるような「ポルノグラフィー」と、無害な「エロティカ」に分けて、エロチカはぜんぜんかまわんがポルノグラフィーはなんかのしかたで規制しないと男女平等な社会はできないよ、ってなことを主張してます。この「ポルノ(グラフィー)」という語を定義しなおしちゃったのはいろいろ混乱を招くので私自身はよくなかったと思いますね。「性差別的ポルノ」と「平等ポルノ」とかにすりゃよかったのに。まあもっとも、「ポルノグラフィ」が含んでいる「ポルネー(売春婦)」の語源も性差別的で気にくわないところがあったのだと思います(ただし直接その指摘を見たことはない)。

3. 芸術的質

まあアートはもちろんアートとして質の高いものだけど、ポルノは単なる道具。

ポルノ:芸術的質をまったく欠いているか、低い。一元的。性欲を刺激するという単目的。クリシエ的。定型、紋切り。姿勢やジェスチャーは限定的。AVについての話を見ると、きまりきったことをきまりきったように描いていて、見る人は自分の好みのジャンルを延々見つづけるようですね。せいぜい新しくて魅力的なモデルが変わる程度。
アート:複雑、多層的。多様な解釈や視点の可能性がある。オリジナリティが重要。有名絵画の解説本なんかを見ると、細かい点にもすごく気をつかっているのがわかりますね。

ポルノ:工業製品、大量制作、大量生産。1人のAV監督が1年に何本取るのか知らんけど、まあチーム作業で1日1本とかでばんばん撮影しているんだと思います。素人が作ってもポルノになる。
アート:制作にあたって高度な技術や修練を要する。デッサンしたり習作制作したりして長年の修練をつまないとアートにはならんですね。

ポルノ:naked、単に「服を剥がれた」状態。とにかく裸ならいい。
アート:nude、身体は理想的な形に装飾される。腰まきとかつけちゃったりしてよりエロく。(この区別はおそらくケネス・クラーク先生だと思う)

ポルノ:純粋なファンタジー。消費者が求めるように描く。消費者は自分の好みしたがって好きなジャンルやモデルを選ぶだけ。見てもなにも変わらない。
アート:読者視聴者の想像をかきたてる考えさせるファンタジー。視聴者が求めるように描くのではなく、我々が生きている現実についての認識を提供し、現実の理解を深めてくれる。鑑賞者を教育してくれる。

4. 目標とされる視聴者の反応

それを見る人になにを求めるか、ってことですね。

ポルノ:性欲の刺激。視聴者の想像活動を邪魔する。視聴者のかわりにポルノ作者が想像してくれる。享受する者は「消費者」。作品を使い消費する。作品は道具として(有用なため)価値がある。性的欲求は観賞contemplationをむしろ不可能にする。まあ刺激されて「使用」して、使用がおわればポイっとすてたりプチっと再生をやめたりするわけですね。

アート:視聴者の想像を喚起する。享受する者は「読者、鑑賞者」として作品を観賞し評価する。作品は内在的に価値がある。エロチックな興奮を呼び起こすこともあるが、作品自体の美的価値を観賞することもできる。

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こんな感じみたい。まあぱっと見て、こういう二分法がうまくいきそうにないのは見てとれますね。でもいくつかは芸術というのもについて興味深いことを示唆しているとも思います。まあうまく行きそうもないものをいろいろ理屈こねてみるのも哲学ではあります。

この記事はおそらく続きません。続くとしてもずっと先。もっとも「疎外」とか「モノ化」とか「degrade 格下げする、さげすむ、おとしめる」っていう概念については考えてみたい。

Art and Pornography: Philosophical Essays
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「芸術とはなにか」とか「芸術は道徳的でなければならないか」みたいなのを考えたい人は、まず『分析美学入門』読むといいと思います。訳者の先生ががんばって注とかつけてくれているので哲学入門としても読める。偉い。

分析美学入門
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クラーク先生のは超有名本なので読んでおくべきです。

ザ・ヌード (ちくま学芸文庫)
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でも楽しいのはやっぱりカラー画像がはいってるやつですよね。

ヌードの美術史 身体とエロスのアートの歴史、超整理 (BT BOOKS)
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平松先生が一連の美女画の解説本出してて、とても楽しい。なんか一部からは不評らしいけど。でも美術作品のよさは実はエロにあるのではないかと思っています。

名画 絶世の美女ヌード
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そういや、こういう絵画は原題を書いておいてほしいですよね。カタカナだとネットで効率的に検索できなかったりするから。美術作品の画像も、図書館に行かなくてもネットでなんでも手に入るよい時代になりました。


酒飲みセックス問題 (9) 同意したことに責任があっても同意は有効じゃないかもしれない

まあというわけで、酒を飲んで酔っ払ったからといって、行動の責任がなくなるわけではないような感じです。(場合によっては)同意したことや酔っ払ったことは非難に値するという意味で「責任がある」ということになりそうです。

しかし、んじゃ酔っ払ってした同意はぜんぶ有効validなのか、というとそうでもないかもしれない。同意の責任はあるけど同意は有効じゃないよ、だからそういう同意をした人とセックスした人を非難したり罰したりすることは可能かもしれない。

ここはわかりにくいかもしれませんね。くりかえしになりますが、まずまあ基本的に同意してない人とセックスするのは非難されるべきことなわけです。それはたとえば相手の身体の統合性bodily integrityとかを毀損する行為かもしれない。デフォルトではダメだってことです。そういうデフォルトではダメな行為が、本人の同意があることによって非難の必要がない行為になる。医者が患者にメスを入れたりするのもそういうもんですわね。セックスも手術も、ひょっとすると非道徳的にも道徳的にもすばらしい行為になるかもしれない。同意にはこんなふうにある行為の道徳性を変更する効力がある。これがHeidi Hurd先生なんかはこういうのを「同意の道徳的魔法」moral magic of consentとかって呼んでます。

で、強迫されてした同意とかはそういう同意の魔力をもってない無効な同意です。酔っ払ってした同意もそういう類のものかもしれない。つまり、行為の責任と、同意の効力は別のことなわけです。同意に「責任」があるからといってその同意が有効だということには直接にはならない。まあふつうに考えれば同意に責任があるなら同意は有効だろうと言いたくなりますが、ここで考えてみるのが哲学ですわね。

別の言い方をすると、無効かもしれない同意した責任というのは当人にあるわけで、それを非難されたり(おそらく可能性はほとんどないですが)法的に罰されたりすることはあるかもしれない。しかし、その同意をもとにして、その相手とセックスすることはまた道徳的に非難したり罰したりすることが可能かもしれないわけです。こっちの「酔っ払いとセックスしたら罰する」ってのは十分ありえる考え方です。

スーザンエストリッチ先生というレイプまわりで非常に有名なフェミニスト法学者は、車に鍵をかけわすれたからといって、車を盗む許可を与えたわけではない、って言ってます。鍵をかけわすれたことは非難できるかもしれませんが、だからといって、車盗んだ人が悪くないってことにはならんですよね。車盗むのはほとんど常に悪い。酔っ払ってしたことに責任があるからといって、酔っ払った人とセックスすることが悪くないってことにはならんのんです。

車泥棒の例を続ければ、AさんがBさんに車を貸して、Bさんが鍵をかけわすれてCが車泥棒したとき、AさんがBさんに「なんで鍵かけなかったんだ!」って非難するのは理にかなっているけど、だからといって車盗まれた責任がぜんぶBさんにあるわけではないし、Cの車泥棒が非難できなくなるわけでもない、ということです。

んじゃ、酔っ払っての同意は有効なのか、酔っ払った相手とセックスするのは問題ないのかどうか。ワートハイマー先生なんかに言わせると、これはけっきょくわれわれの社会でおこなわれているさまざまな「同意」のコンテクストによるのだ、ってことになります。

たとえば酔っ払ってした商業契約とかどうなるか、みたいなのはおもしろい例ですわね。日本の民法ではどうなってるしょうか。

米国の法律だと、古くは酔っ払った人がおこなった契約は、「ひどく薬物の影響を受けて取引の性質や帰結を理解できなかった場合」には無効にすることができたみたいすが、現在はもっと緩くて「契約の相手方が、酔った人物が取引について合理的な仕方で行為することができないと知る理由があった」ときのみ無効にすることができる、みたいな感じらしいです。これは相手がぐでんぐでんになってるな、ってことがわからないとだめだってことですわね。セックスでいえば、相手がもうなにがなにやらわからん状態だろう、ぐらいに思える程度に酔っ払ってないとならんということになりそうで、自発的に服脱いだり脱がせたりいろんなあれやこれやとかしてたら「そういうひとなんだろうなあ」とか思ってしまいそうですね。よくわかりませんけど。

でもこういう商取引をセックスまわりに適用してだいじょうぶなのかな、とかって不安は残りますね。セックスは商取引とは違うのではないか。セックスはセックスとしての同意のありかたがあるんではないのかな、という話になります。