「ジェンダー論」の文献は難しすぎる(清水晶子先生の場合)→あきらめ

この前千田有紀先生の文章にコメントしたので、それが批判(?)している清水晶子先生の「埋没した棘」っていう論文も読んでみたのですが、これは千田先生のやつに輪をかけて難しい、というより私にはほとんど理解できませんね。こういうの読まないとならない学生様院生様たちはどうしてるんだろう?

たとえば、こんな感じです。

諸身体の生存可能性がその集合的な現れによって切り開かれるのだとすれば、その生存は、現れ集合する身体の均一性に、どれほど依拠しているのだろうか。現れうる差異、集いうる身体の集合への注目は、現れることのより困難な諸差異、集うことのより困難な諸身体と、どこまで連帯し、どこまでそれらの諸差異・諸身体の黙殺を要求しているのだろうか。(p.36)

これはキビしい。ちょっと何言ってんのかわかりませんね。おそらく次みたいな感じ。

  1. 体をもった生身の人間は生きていくには、人間どうしの協力が必要です。
  2. さらに、人間はときどき政治運動とかしないとうまく生きていけないのですが、そういうときに一人でがんばってもなかなかうまくいかないので、集合的なデモとか社会運動とかする必要があります。
  3. これが「生存可能性が集合的な現れ(appearance)によって切り開かれる」の意味です。みんな集まってがんばりましょう。
  4. そうはいいましたが、そうやって協力とか政治運動とかして我々は生きていくわけですが、その協力とか政治運動での団結とかっていうのは、集ってる人々が共通点をもっている、あるいは似ているということにどれくらい依存しているでしょうか。いいかえると、協力・団結するには人々はどれくらい共通点をもっている必要があるでしょうか。
  5. (その先はなに言ってるかわかりません……)1

私は、日本のジェンダー学者の先生たちはこんな書き方はやめるべきだと思いますね。なに言ってるかわからないじゃないですか。

この文献、まあ何回か読んでみたんですが、キーワードとして「選びとられたわけではない近接性」という言葉がでてくるのですが、これもいったい何を指しているのかなにも説明がない。まあぼんやり、「自分から望んだわけではないけどいっしょにいなければならないような人間関係がありますね」ってな話だと思うんですが、自信がない。

全体の趣旨としては、女性はトランス女性と「選びとられたわけではない近接性」の関係にある、つまり自分たちで選んだわけではないけどトランス女性といっしょにならねばならず、さらには場合によってはお互いに傷つけあうこともあるかもしれないけど、いっしょにいないとお互い生きていけないのだからしょうがない、みたいな感じなのかなと思いましたが、なんにせよそういう文章だから手のつけようがない。

こういう文章を読もうとするならば、著者の人にいちいち「これなんですか」「この言葉の意味なんですか」「ぶっちゃけ、なに言ってるんですか」とか聞いて確認しないとならないと思うんですが、著者の近くの人々ならともかく、一般の読者にはそういうの無理なわけだし。学生様なんかは聞けないだろうし。学者先生たちだってこんな文章おたがいに読めてるはずがないと思う。雰囲気で話をしてるだけっしょ。

本当は、この文献は女性とトランス女性はどういう関係を築くべきか、という話をしているというよりは、反トランスジェンダーのような立場がどのようにして成立するのか、みたいな話をあつかっているらしいので、そこらへんいろいろ検討してみたかったのですがあきらめました。検討するにもたいへんな苦労してまず解釈しないとならんし、何をいっているか自分の解釈に自信がもてそうにない。時間の無駄。それだけです2

ジェンダー論とかっていうものに興味のあるまじめな学生様、院生様たちは、こういう難しい文章はほとんど誰にもわからないので読めなくても大丈夫だ、って言ってあげたいです3

(読んだことないひとは、optical frog先生のこのブログ記事を読みましょう 「「無敵」の人になるための3点セット」

脚注:

1

twitterで翻訳してくれてる先生がいました! 「人間が集団でないと生きていけないのなら、それは集団における身体の均一性にどれくらい依拠しているのだろうか。 男女のような表に出せる違いや、公然と出せる身体をもつ集団は、表に出せない違いや、団結することがより難しい集団と、どこまで連帯し、どこまで、無視することで成り立っているのか。」だそうです!すばらしい。判じ物の世界ですね。

2

ピアニストの山下洋輔さんなんかが昔若かったころに、バンドマン仲間集まって『エピステーメー』って80年代にあった現代思想の雑誌を開いて、一部読みあげて何書いてるかわからん!っていってみんなでゲラゲラ笑う遊びをしてたらしいのですが(へんなクスリもやってたかも)、まあそういうの思い出してしまいます。仏教のお経の一部とかもそういうのに使えるかもしれませんね。ハンニャーパラミター。

3

このエントリ、はてブとか見てると、「前提知識が」とか「そういうもの」みたいなコメントがぽつぽつあるけど、言葉はっきりしないままに議論するっていうのはどんな難しい分野でもアウトだっていうのは何回でも主張しておきたいものです。仮に言葉や文意がはっきりしないまま議論することが「あり」だとしても、物事を真面目に勉強したり考えたりしたい人は、その著者の先生が(なんらかの前提知識から)特に権威があり苦労して読むに値すると判断してないかぎりあんまり苦労する必要がない。そして、「本当にあなたがそんなに苦労して読むほどの権威ですか」っていうことは自由に疑ってかまわない、ということです。とはいうものの、ちゃんとした権威は権威として大事なので、それは尊重してもらってかまいません。でもあなたがその著者たちを権威だと判断したのはなぜだろう?っていうのは一回考えてみてもいいと思う。また、その権威は権威であるとして、仮に権威をはずして見たときにどうなんだろう?っていうのも考えてみてほしい。まあへんな話、人文学というのは権威の集積そのものなので、「権威なんか認めるな!」みたいな過激な立場にまで立つ必要はないし、最初はとりあえず一回は誰かを権威だと思って信じてみないとしょうがないところがあります。でもそればっかではやはり人文学の智恵そのものに反することになると思うのです。

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