数日まえに載せたヌスバウム先生のバトラー様批判(あれは私の翻訳ではないです、柳下先生)にはけっこう反応があったみたいなんですが、ブログとか書いてくれてる人もいたんですね。 https://kumabushi.com/?p=11750
書きたいのはこの方のブログの内容ではなく、そこで引用されているバトラー様の文章についてなんです。
ジェンダーは真実でもなければ、偽物でもない。また本物でもなければ、見せかけでもない。起源でもなければ、派生物でもない。だがそのような属性の確かな担い手とみなされているジェンダーは、完全に、根本的に不確かなものとみなしうるのである。(『ジェンダートラブル』p.248)
これは竹村和子先生の訳なんですけど、意味わかりますか?私はわかりません。原文はこうなんですわ。原書p.180。
上の竹村先生の訳だと、最初のcanが落ちちゃってますね。これは文章の意味がとれるならば必ずしも悪いとは限らないんだけど、どうだろうか。
私が訳すと前の方の文章は「ジェンダーというものは真だとか偽だとかいえるのものではない。また、実在的だとかみかけだけだとかいえるものでもない。またオリジナルだとか派生的だとかいえるものでもない」。
命題とかっていわれるもの、たとえば「地球は丸い」とかってのは真とか偽とか(true or false)とか言うことができるけど、パフォーマンスみたいなのが真だとか偽だとかそういうのは言えませんよ、ってことかなあ。
まあここでの「ジェンダー」が男らしいとか女らしいとかそういうことだとして、男が男らしいとき、あるいは女が女らしいとき、っていうのはみんながんばって男らしくしたり女らしくしているのでそれがrealだとかapparentだとかっていうこともできない、とかってことですかね。
さらに、そうした男らしさに、彼のはオリジナルな男らしさだとか、それを彼の(あるいは彼女)男らしさは、それをコピーした男らしさとだ、とかそういうのも言えない、と、まあそれくらいおおざっぱにとっていいんですかね。知りませんよ。
問題は二つめの文章です。
As credible bearers of those attributes, however, genders can also be rendered thoroughly and radically incredible.
ものすごい難しい。さすがバトラー様の御託宣。「しかしながら」……「そうした属性の信頼できる担い手としては」?わからんでしょ。「そうした属性」は前に出てきてる属性のはずだから、true or false, real or apparent, original or derived。まあ真だとか偽だとか、本物だとかみせかけだとか〜、つまりそうした属性をもっているということが言えるとすれば、そうしたことはほんとうは言えないんだけどそうしたものをcredibleにbearする、つまり、私の解釈では、本当はそういうの言えないんだけど、人々がそういうことが言えるものだと思いこんでいるものとすれば、ぐらいか。そういうものとしては、「徹底的に根本的にincredibleにすることもできるのです」。(ここの属性attributesについての話は私の読み間違い。下の追記を見よ)
このincredibleはもちろん二つ意味があって、(1) 信頼できない、(2) 信じられない(ほどすばらしい)。さて、どっちでしょうか。
信頼できる担い手としては信頼できないものにできる、っていうのでは意味が通じないので、「信頼できる担い手としてはすばらしいものにすることができます」ですね。というわけで、私が訳するとこうなる。
「ジェンダー」というものは、真であったり偽であったりするものではないし、実在するものであったり見掛けだけのものであったりすることもなく、また、オリジナルであったり派生的であったりすることもありえない。しかし、そうした属性が付与されてしまう担い手として信頼できるもの〔、つまり皆がそう思うもの〕としては、「ジェンダー」は徹底的に、そしてラディカルに、すばらしいものに〔も信頼できないものに〕(incredible)もすることもできるのだ。
これでもわかりませんね。私の勝手な想像による解釈はこうです。男らしいとか女らしいとかっていうのは社会的な構築物とやらなので、別にどれが本物とか偽物とかそういうのないです。男性の服装がどうあるべきで女性がどうあるべき、みたいなのも文化によってちがいますしね。でも社会の人々が、「こういうのが男の服装、男の振る舞い、これがほんとう」「こういうのが女の服と振る舞い、これがほんとう」みたいに考えるってことはかなりの確度でいえる、だいたいそう思っているということがいえるのならば、逆に、そうした異性の服装や振る舞いをまねたりするのが魅力的ですばらしいものになるし、そうしたジェンダーがあるからこそ宝塚はすばらしい、そういうことですわ。同時に、そうした異性装とかっていうのはそのジェンダーなるものを不確かなものにもする。脱いでみたら女でした/男でした、みたいなのもまああるだろうから、ある程度のひとがうまくそういうのを演じてたら「らしさ」を信頼できないものにすることもできる。
最後のincredibleは原文ではイタリックになっているので竹村和子先生は傍点を打ってるけど、このincredibleが二義的でダジャレになっていることは理解してないんじゃないかな。いや、ほんとうに二義的かどうか、ダジャレかどうかは知りませんよ。そういうのはおそらく、英語がすごく読めて、ポストモダン思想だけじゃなくいろんな分野の知識を熟知している人々にしかわからないんじゃないかと思う。
でもこれ読んでる人には考えてほしいのです。こんな大事なところにあるこんな短い文章読むだけでこんなかかるんですよ?
これって、哲学じゃないですね。だってどっちのことを言ってるのかわからないから。評論です。それも作品としてすごく高度なダジャレや暗喩に満ちた高級評論です。イエール大学とか東大とかお茶の水大学とかの文学の先生になるような人々じゃないとわからないような。
そして、その翻訳もこんな感じで、引用されてても原文見てみると、私の読みとはぜんぜん違うことが書いてあるんですよ?これまた毎度毎度のことです。もうあらゆる引用がこんな感じに見える。みんないったい何を読んでるのさ。
そしてこれって、我々が必要なものなの?毎日、自分のジェンダーアイデンティティやらセックスやらについてまじめに考えたい人々がなにか参考にできるものなの?知的超上流階級の人々がひまにまかせて分析しながら鑑賞するような知的おもちゃじゃないの?
前のゲリラ訳でヌスバウム先生が言いたいことの一部もそういうことなんじゃないかと思う(もっと大事な政治的な含意もある)
バトラー樣のインクレディブルなダジャレについてはoptical_frog先生も解説してくれている。でもこんなインクレディブルなダジャレとかを含んだインクレディブルな翻訳を読まないとジェンダー論わからんとかって言われたら、どうするんですか。そして、そういうことを匂わす人々はこれがインクレディブルな本だってことちゃんと自分で確認したんですか?私そういうのは本気で不愉快です。
もしかしたら知的貴族たちは、上の翻訳を見て即座にincredibleのダジャレを見抜き、「まあジュディス樣ったらこんなお冗談をおっしゃって、ほほほ」とかやってるんかもしれんけど(それじゃ貴族じゃなくてエスパーですか)、われわれ知的精神的貧民がこんなもん読めるか!日本の学者先生たちはインクレディブルすぎる。せめて翻訳正誤表とバトラー樣のダジャレ解説一覧でも出してほしい。
ツイッタやブログでバトラー樣の文章はわからん、と書くとなにやら難しいことを解説してくれる人もいるんだけど、それもわからん。まちがったことを書くと「頭が悪いね」ってやられそうで、まじめな人や臆病な人は誰も文句つけらんないじゃん。サール先生がいうところのテロリズムだ。
私はバトラー樣とか読む余裕はないので、かわりにインクレディブルなジャズギターでも聞きます。よかったらいっしょに聞きましょう。
追記:
さっそくやっつけられてしまった。ははは。どもどもありがとうございます。
どうもattributesはその前の段落のgender attributesを指すっぽい。っていうか、たしかにそっちの方が自然だで、むしろ直前を指すと見るのは読めなさすぎ。直前の段落こうなってんだからそう読むのがあたりまえ。平民すぎる。
どうも難しい文章を見てイヤな気分になってると視界が狭くなっていかんです。反省反省。よくやるんよね。
ただしそれでも、can be renderedのところと意味が通じないように思うし、イタリックになってる意味もあんまりよくわからないですね。そっちは納得してないです。
expressiveとperformativeのところも、オースチンとかの言語行為論のネタじゃなくて、たとえば「男らしさというのはその人がもってる潜在的な男らしさ性をそれが表現しているというものではなく、男らしい振る舞いをすることによって男らしい人間になるのだ」みたいな感じのはずで、まあバトラー様はあんまり説明してないけどこれはわかる。ボーヴォワール先生どころかアリストテレス先生あたりとも同じ話。怠惰な人間は生まれもった怠惰性を発揮しているのではなく毎日怠惰にふるまうことによってそうなる。勤勉な人間も同じ。毎日努力しているけど怠惰な人間とか、毎日酒飲んでる勤勉な人間とかはいない。これは昔どっかで書きました。
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コメント
知的な遊戯と言われればそうかも知れません。
「わたしは裸で母の胎を出た。
また裸でかしこに帰ろう。
主が与え、主が取られたのだ。
主のみ名はほむべきかな」。
―ヨブ記