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伊藤公雄先生のマーガレット・ミード

性差の科学編集委員会 (2011) 『性差の科学の最前線』、京都大学大学院文学研究科社会学教室、っていう報告集があるみたいなんです。google bookにひっかかってきて発見しました

まだ入手できてなくてよくわからないのですが、そのなかの伊藤公雄先生の文章がとてもひっかかりました。こんな感じです。

まあミードの『サモアの思春期』デレク・フリーマンの『マーガレット・ミードとサモア』でかなり厳しく批判されて、それがフェミニズム/ジェンダー論に対するバックラッシュに利用されたよ、でもミードのサモアの話と、(前のエントリで紹介した)伊藤公雄先生たちが使ってるSex and Temperamentのニューギニアの話は違うよ、ってな話ですね……。そうか……。……。

お前は何をいっているんだ

 

デレク・フリーマン先生の『マーガレット・ミードのサモア』は有名なのですが、パプアニューギニアの方の研究についてもデボラ・ゲワーツ先生が再調査してます。それらをもとにして、ドナルド・ブラウン先生が『ヒューマン・ユニバーサル』(1991、翻訳は2002)でミードの研究の問題についてかなり詳しく論じています。

サモア

  • デレク・フリーマンが再調査。
  • ミードはサモアの思春期にはストレスが少ないといってるが、彼女のデータでも25人の女性中4人が非行行動をとっている。最近(80年代?)のデータでも他の文化とかわらない
  • サモアにはかなり極端な性的行動のダブルスタンダードがある。
  • レイプも頻繁にある。暴力も頻繁。

パプア・ニューギニアのチャンブリ族

  • ゲワーツが70年代に再調査。
  • チャンブリの伝統的概念では男性は攻撃で女性は服従的。
  • 生産は女性がおこなうが、その産物をコントロールするのは男性。
  • 男性から女性に対する暴力も頻繁。
  • ミードが調査したとき、チャンブリ族は他の部族との戦争に負けた直後で危機的状況だった。つまり、一時的に男性の活動や男性どうしの競争がよわまった時期だったにすぎない。
  • 民族誌において、女性が公的な場で男性よりも優位にたつ社会はいまだに発見されていない。

ここらへんはものすごく有名な話なのに、2011年で伊藤先生みたいなことを書いていて平気っていうのは、いったいどういうことなのですか。もちろん、アカデミックにはまだまだ論争は続くと思う。我々素人には、偉い学者先生たちがちゃんとした研究をすすめるのを応援するしかない。がんばれー。お金まわしてあげてほしい。

でも、いかにも「バックラッシュ」勢力が、ジェンダー論を攻撃するためにフリーマン先生の適当な研究を使ってバッシングしている、みたいな表現をして、恥ずかしくないのですか。そしてそれを見ていた社会学者の先生たちはいったいなにをしていたのですか。

 

 

なぜ私はフェミニストを信頼しなくなったのか:「ミードの表」昔話

あんまり幸福じゃないのでで、友原章典先生という先生の『実践幸福学:科学はいかに「幸せ」を証明するか』っていう本よんでたら(良い本なので読みましょう)、年寄になったら昔話をすると幸せになるって書いてたのでやりましょう。

まあ加藤の論文をきっかけに、2000年代のことを思い出してたんですが、やはり印象強いのは、フェミニズムとかジェンダー論とかってものが、学問的におかしいんじゃないかと思いはじめたころのきっかけですね。2000年代にはいって今働いている会社に就職して、事情から「ジェンダー論」みたいなものを担当しなければならなくなり、それなりに勉強したんですよ。そしたら、どれ読んでもなんかへんな感じがするわけです。何読んでも出典がはっきりしなかったり、怪しげなことが書いてあったり、今では(2000年当時としても)おかしげなことが大手振るって説明されているわけです。そのなかで出会ったのが「ミードの表」問題。これは文献を調査しながらはてなブログで連載したんですが、今読んでも読者にはよくわからなくなっているので、簡単に昔話したいと思います。ジェンダー論読んでたら、マーガレット・ミードのSex and Temperament あたりの話について、同じような表が掲載されていることに気づいたんですよ。

みんな同じような表を貼ってるんだけど、どれもこれも同じようでなんかおかしい。そしてそれを読むと、なんか孫引きを繰り返しているように見えるし、途中でいろいろ変わってるし、この人々は学者としてやばいな、って思いました。

簡単に問題を整理すると、Mead (1935) Sex and Temperamentから、村田 (1987)で作成された表を、井上(1989)が引用し、それを伊藤(1996)が縦横変換して誤植を入れ、それを伊田(2004)がさらに伊藤の名を出さずにパクリ、別の本の出典を加えてる、感じですか。村田1987(初版は1979)はごく初歩的な発達心理学の教科書であり、ジェンダー論の基礎文献につかえるようなものではありません。

私がこの一連の表を調査して発見したのは、ここらへんの人はマーガレット・ミードの本(Sex and Temperament)をほとんど読まないままに、仲間内かなにかで表だけ真似しあっているのかもしれない(推測)、ということでした。

こういう人々の言うことは信頼できない、とそのとき確信したのです。伊田先生は男性フェミニストということで一時期脚光を浴びて話題になってましたが、影が薄くなりましたね。伊藤先生はその後も第一人者として活躍していますが、色々変なことを言っていて私はまったく信頼していません。


伊藤公雄『男性学入門』(2005)

伊田広行『はじめて学ぶジェンダー論』2004

 

『ジェンダーというメガネ』(2003)

出典は「マーガレット・ミード「男性と女性」 1935」

「アラペッシュ」「ムンドグモール」「チャンブリ」

 

 

 井上知子他『生き方としての女性論』(1989)

 

 

村田孝次 『教養の心理学』4訂版、培風館、1987

「ジェンダー論と生物学」 (8) 「循環的」「権限が及ぶ」がわからない

んで、加藤先生は「自由意志」の問題をつかって、自然科学者(この場合は神経関係の人々)がいろいろ勝手なことを言うのを戒めたり。ここらへんはまあいいです。そんな素朴な自然科学者たちっていないだろう、ぐらいは思うけど。

……人間に特有の現象として措定されたジェンダーという対象について,生物学は何も言うべきことがなくなるのではないか,という疑念をもつ読者がいるかもしれない.それは半分は正しく,半分は間違っている.

うしろ読むとわかるけど、実際には生物学はなにも言うべきでない、と言っているっぽいのよね。でもとにかくお話を聞きましょう。

正しい面とはこういうことだ.人間における女と男の分類について考えてみよう。男とは, あるいは女とは誰のことだろうか.それはわれわれが女として,男として名指す対象者のことである.この循環的な規定がすべての,そして唯一の出発点である.

はい、出発点なのはよいです。しかし、それがなぜ 循環的 だといわれるのかよくわからない。机、イス、ペンギンとはなにかといえば、我々が机と呼ぶもの、イスと呼ぶもの、ペンギンと呼ぶものだ。イスや机は我々が座るために、あるいは物置にするために作られたものであり、ペンギンは南極とかにいる飛べない鳥だ。なにも循環していない。なぜ「男」と「女」が循環的な規定と言われる必要があるのだろうか。

これまでのところ,それは「卵を作る個体が雌,精子を作る個体が雄」といった生物学における定義と概ね整合的である.生物学の方が自然言語における「性別」概念に依存しながら実践されてきたのだから,これは当然のことではある.だが現在においてすら,両者は完全に一致しているわけではない.われわれの自然言語は,無精子症の男性も「男」と呼ぶし,卵巣をもたない女性も「女」に分類するからである.(pp.161-162)

これは例が悪い。この意味でのオスやメスは、生物学においては、典型的には大きな配偶子をつくったり小さな配偶子をつくったりする性というにすぎない。環境や発達の過程によって配偶子をつくらない個体もいるが、それは生物学者にはなんの問題もない。そして、それぞれの個体がどういう配偶子を作るように成長するかは、大部分遺伝子が定めていることもわかっている。無精子症の男性や卵巣を持たない女性がいてもなんの問題もない。したがって、加藤先生が言いたいのはそういうことではないのだろう。

さらに近年では,諸々の社会制度における性別の取り扱いを,生殖機能にもとづいて各個に割り当てられた性別ではなく,当人の性自認(ジェンダー・アイデンテイティ)にもとづかせるべきだという主張が影響力を増している.今後,この趨勢が続くかどうかは分からない.(p.162)

生物学的な性ではなく、社会的な性の話をしているわけよね。無精子症の男性がいる話はまったく関係がない。

だが,性別の基準がどのように変化しようと,その基準にもとづく「女」「男」という人間の分類が社会的に有効であるかぎりにおいて,それがわれわれにとっての「女」「男」の,すなわち性別という概念の意味である.(p.162)

この「分類が社会的に有効であるかぎりにおいて」と「性別という概念の意味」がわかりにくい。でも我々が社会生活において「男/女」と呼んでいるものと、生物学的な「オス/メス」が同一でないというのは認めたい。

このとき,どのような基準が採用されているか,そこに生物学の知見がどのように関わっているかといった事態を明らかにすることは社会科学の固有の課題であって,生物学の関わりは二次的なものでしかない.(p.162)

これはOKではあるんだけど、我々が性別をどう判別するかとかっていうことには、心理学や認知科学や脳科学や生物学がからんでくることもあるだろう。「社会科学固有の課題」といわれてるときのポイントが私にはわかりにくい。我々の日常生活における男女の区分けがもっぱら社会や文化による恣意的な区分けである、と言いたいのだろうか。

他方,生物学の方にも,もちろん固有の課題がある.生物学の体系内で定義されたヒトの性的二型にかんする研究の意義は,ヒトが有性生殖によって繁殖する生物種である限り,なくなるはずはない.また,たとえば「性自認」といった現象が遺伝子や生育環境とどのような因果関係をもつのかといったことも興味深い問題である.あるいはさらに,「自由」という概念をヒトがもつに至る自然史的プロセス/メカニズムさえも,将来の進化生物学は解明するかもしれない.だが同時に忘れてはならないのは,これらの課題はすべて,「性別」「性自認」「自由」といった民間概念の理解に立脚し,それを媒介として,初めて可能になるということである.そして,われわれがこれら諸概念を運用するやり方を解明することは社会学の,また,それらの規範的な正当性を問うことは倫理学,法哲学,政治理論といったディシプリンに固有の課題であって,そこに生物学の権限は及ばないという,ただそれだけのことだ.(p.162)

日常的な男女の問題を考えるときには、日常的な男女の概念をよく考えねばなりません、自由の問題を考えるときは、まずは日常的な意味での自由というものを考えねばなりません、というのはもちろんまっとうな主張だと思う。文句はない。でも「生物学の権限が及ぶ」という表現の意味がわからない。「生物学的にオスである」とか「SRY遺伝子を含む染色体を含んだ細胞によって構成され身体をもっている」ということが、社会的に男性として扱われることを正当化するわけではないということかな?それなら当然認める。しかし、そんなことを考えている生物学者がいるとは思えない。

進化生物学者や進化心理学者がやろうとしているのは、進化という発想を背景にして、我々がどのような傾向性をもっているのか、環境にたいしてどのように反応する傾向があるのか、我々の生活や社会がどのようにして成立しているのか、などを解明しようとすることだと思う。まともな科学者は、簡単には社会的な規範の正当化などはおこなわないものだ。ハエやタコやカッコウや犬やネコの生態や繁殖や性生活がどのようなものであれ、そこから人間の生活についてすぐに規範的な判断や価値判断を行おうとする人々はただのインチキ科学者である。そんなの誰でも認めることではないか。それでは「権限が及ぶ」というのはどういうことなのだろうか。

一方で、生物学者が提供してくれる、進化や性淘汰といった発想や、他の動物と人間の社会や生態の比較は、我々人間とその社会についていろんなことを教えてくれる可能性がある。社会的な性差と呼ばれているものは、我々人類が、長年にわたってかわりゆく環境におうじて試行錯誤してきた結果かもしれない。それは直接には我々の社会の規範を指示するものではないけど、規範的な判断をするときの参考にはなる。我々は、生物学や進化心理学の知見を取り入れることで、性犯罪やポルノグラフィー、結婚制度、家庭内の男女分業などの問題を、もっとうまく処理できるようになるかもしれない。

つまるところ、私は加藤先生が「生物学」としてなんか批判したい見解がどのようなものかよくわかららないのよね。まともな生物学者で、加藤先生が危惧しているようなことを考えている人がいるのだろうか?私はよくわからない。そして、2019年から2020年にこういう論文を読んでよくわからないと思って苦しんでいる自分にうんざりしているのです。

 

 

「ジェンダー論と生物学」 (7) 性暴力、性欲、ドーキンスの麻薬患者

加藤先生は一応、原因と理由が切り離せないという話を、性暴力の話をつかって説明しようとしているように見えます。しかしここも私にはわからない。

ここで改めて性暴力(と呼ばれる人間の行動)について考えてみよう.性犯罪を犯した少年たちの治療教育に長らく携わった藤岡淳子によれば,性暴力とは「性的欲求によるというよりは,攻撃,支配,優越,男性性の誇示,接触,依存などのさまざまな欲求を,性という手段,行動を通じて自己中心的に充足させようとする」行為であるという(藤岡2006: 15). (pp. 156-157)

ここで挙げられている藤岡淳子先生の『性暴力の理解と治療教育』は国内ではよく読まれている本のようです。私はちょっと問題があると思っているのですが、ここでは触れません。「性的欲求によるというよりは」を、「性的欲求だけではなく」ぐらいに解釈してよいならとりあえずOK。

「性的欲求」が性暴力の一要因ではないというわけではないが,それだけには収まらないさまざまな欲求, しかも対他者関係的な欲求が複雑に絡み合うことから性暴力が引き起こされるという事実を,性犯罪者の証言という具体的なデータをふまえて,藤岡は明らかにしている.

これもOKです。ただ、「具体的なデータをふまえて〜明らかにしている」というのはちょっと言い過ぎだと思う。藤岡先生の解釈は、おもに海外の古めの文献の解釈にもとづいているもので、現代の犯罪学者の人々がまるっきり賛成するものではないと思う。でもそれはよい。問題はそれにもとづいた加藤先生の議論。

ここで,分析を簡略化するために,百歩譲って「性的欲求」がヒト以外の生物種(の雄)にも通底する何物か,たとえば主体的にはコントロール不能な衝動であると仮定したとしても―ドーキンスのいう「無力な麻薬中毒患者」のメタファー(Dawkins 1976=:389) を想起してもよい一一それ以外の諸要因まで同じように片づけるわけにはいかない.

まず、「ドーキンスの「無力な麻薬中毒患者」」なんて、その文脈や意味の説明なしにいきなり出してくるのが私は気にくいません。こういう、「当然知ってるよね?」みたいなのやめましょうよ。ハッタリはやめてください。、私は、そういうことする人々とは人生かけて戦いたいと思います。この一文で、加藤先生もその憎いリストに入りました1)実際のところ、この一連の悪口書かないと気がすまない気分になったのは、この「麻薬患者」への言及を見てのことです。私こういうのほんとに許せない。加藤先生はそういうのしない人だと信じていたのに。でも、実は前にもなんかへんな言及や参照は見つけていたのです。でもそれを「そんなはずはない、まちがいだろう」ぐらいで否定していたのです。

ドーキンスの出典は、『利己的な遺伝子』の1992年の方の翻訳なら399頁(翻訳数種あるので頁がちがう)。話は、カッコウは他の鳥の巣に卵を産み付けて、そのヒナの赤い口が、(他の種の「里親」となる)鳥にとって麻薬的に作用する、っていう文脈ですね。

カッコウの雛の大きく開けた赤い口はあまりにも誘惑的であるから、鳥類学者が、ほかの鳥の巣にすわっているカッコウの赤ん坊の口の中に食べ物を落としている鳥の姿を見かけるのは珍しいことではない。……突然、目の片すみに、まったくちがう種類の鳥の巣のなかにいるカッコウの雛の特別大きく開けられた真っ赤な口が飛び込んでくる。鳥はこのよそ者の巣に向かって方向を転じ、そこで自らの子どもの口の中に入るべき運命にあった食べ物をカッコウの口のなかに落とす。「抗しがたさ説」は、里親が「麻薬中毒者」のように振るまい、カッコウの雛が彼らにとっての「悪癖」として振るまうと述べた初期のドイツの鳥類学者たちの見解と一致する。……カッコウの開いた口が麻薬のような強力な超刺激であると想定すれば、なにがおこっているのかがはるかに説明しやすくなるのはまちがいない。……その神経系は、あたかもそれが無力な麻薬中毒患者であり、あるいはあたかもそのカッコウが里親の脳に電極を差し込む科学者でもあるがごとき状況のもとで、抗しがたくコントロールされているのである。(ドーキンス『利己的な遺伝子』p.399)

加藤先生、現実世界での性暴力や性欲について、これ本気で想定するんですか?つまり、鳥がついカッコウ雛の口にエサを投げ入れてしまうのと同じように、神経系が刺激されて、ほとんど不随意の運動として、男性が女性をレイプしてしまったり、電車で痴漢してしまったりするのだと(議論のためにさえ)認めてよいのですか?もしそんな「麻薬」「悪癖」「超刺激」が与えられてたら、「他の要因」なんか考える必要ないじゃないですか。選択の余地ないんだし。なにを言ってるのですか。こんなことになるのは、ドーキンスちゃんと説明しないからじゃないですか。いいかげんにしてください。

とりあえず、性欲やそれを引き起こす刺激がこんなものではないと想定して、加藤先生の文章に戻ります。

藤岡が挙げる他の諸側面は,男であるならば性的に活発であるべきであり,女を従わせることは正しく,また女が男の欲求を満たすことは当然であるといった正当化文脈と切り離して理解することはできない.

なぜですか。私にはわからない。「正しい」とか「べき」とか、加藤先生自身はなにも説明してないじゃないですか。「(男が)女を従わせることは正しい」というのは、一部の加害者の証言にあるのかもしれないけど、それ抜きでは性暴力を理解できないのは藤岡先生や加藤先生じゃないのですか。なにか客観的に、そうした正当化の文脈と切り離しては、性犯罪者の動機やその行動の原因を説明できないのでしょうか。それならそれなりに論証してもらわないとならないと思う。(もちろんそれは不可能ではないと思うけど、なされていない)

そして「性的欲求」さえも, こうした文脈と関連することで初めて性暴力を駆動する一要素になることができるのであり(人間が何をどこまで我慢するかという基準が当該社会の規範によって変わることは自明である),かくのごとく性暴力とは深く〈正当化の回路〉に属する現象なのである.

わからない。加藤先生自身はさっき性的な刺激と性欲は麻薬のように強力だと想定しているんだからなおさらわからない。その麻薬としての想定は抜きにしても、なにも社会的な正当化や規範と関係なく、強制的なセックスや性的な暴行をおこなう人々というのを私はなんの苦もなく想像できるし、じっさいそうした見境のない人や半道徳というよりは道徳をまったく気にしない「アモラル」な人々もいると思う。なぜ、ある人々の行動の至近的/究極的原因を解釈するために、道徳的あるいは社会規範的な正当化が必要になるのか、私には理解できない。

以上の考察からも,人間以外の生物に見られる強制的交尾を人間における性暴力と同一視する進化心理学的な「レイプの自然史」といった試みがかなり根本的に的はずれであることが示唆されるだろう.さらに言えば,おそらく以上のような特性は,性暴力に限らず,およそ人間における「性」と呼ばれる現象全般に通底する特質であろう.

ぜんぜんわかりません!

 

 

References   [ + ]

1. 実際のところ、この一連の悪口書かないと気がすまない気分になったのは、この「麻薬患者」への言及を見てのことです。私こういうのほんとに許せない。加藤先生はそういうのしない人だと信じていたのに。でも、実は前にもなんかへんな言及や参照は見つけていたのです。でもそれを「そんなはずはない、まちがいだろう」ぐらいで否定していたのです。

「ジェンダー論と生物学」 (6) 理由と原因は切り離せないとはどういう意味だろう?

さて、次の文章がおそらく重要なんだけど、読みにくいんですよね。

……ここで注意すべきは,性的二型という自然史的事実が性役割・性差別という規範的制度と関係する回路は二重であるということだ.一つは性的二型の現象それ自体が性差別をもたらす原因(cause) となる一一逆に性役割・性差別は性的二型を生じさせることもある―という〈因果関係の回路〉であり,もう一つは,性差をめぐる意味づけが性差別を正当化する理由(reason) になるという〈正当化の回路〉である.人間においても前者の水準と無縁であるわけではない.人間は自らを記述し規範性によって自らの行動を律するという性能を有する特殊な生物ではあるが,それでも生物の一種なのだ.しかし,〈因果関係の回路〉を〈正当化の回路〉から切り離し,独立に論じることはできない.前者はつねに後者に包摂され,後者を構成する一つの水準としてしか把握することができないのである.(p.156)

前で指摘したように、「性的二型」だの「性差別」だのが具体的に何を指すのかが明確になってないのに加えて、「回路」だの「水準」だの見慣れない言葉が出てきて、社会学者以外の人々にはかなり困難な文章だと思う。がんばって読む。

一つ言われているのは、(1) 「性的二型(男女の身体的・行動的な違い)が、性差別の因果的な原因となる」ということだと思う。具体例一つぐらい出してくれればいいのにね。それに、「性差別」というのが、個別の人物がやってしまう性差別なのか、社会規範としての性差別なのかわからない。まあおそらく社会規範なんだろうけど、性差別、というのでどういうものを指しているかもわからない。たとえば、性的二型(たとえば女性におっぱいがあること)が、過去に女性が参政権をもっていなかったことの因果的な原因となっているだろうか?なってませんわね。だから、「性的二型が性差別の原因になる」とか抽象的なことを言うときには、少なくともいくつか例を示してほしいものだと思う。たとえば、「女性は男性より体力がないことが多いので、力仕事は男性にまかせて体力の必要ない作業をする傾向を持つ」とかですわね。社会学者には性的二型が性差別の原因になっている例はあまりにも多すぎて自明なのかもしれないけど、いちおう確認してほしい。でもまあがんばってそういうことがあると認めることにする。

もうひとつ言われているのは、(2) 「性役割・性差別が性的二型を生じさせることもある」。ここで混乱するのは、まえに指摘したように「性的二型」が何をさしているのかはっきりしてないからよね。おそらく体の大きさや生殖器の構造・機能とかではなく、行動の違いまで指しているはずだ。おそらく、「人々の社会的な通念や思い込みが、人々の性に応じた振る舞いや他人の扱いに影響を与える」ぐらいなんだと思う。「男は仕事、女は家事」っていう思い込みがあるので、人々はそういうふうに振る舞うようになる、ぐらいの話だと思う。まあOK。

「性差をめぐる意味づけが性差別を正当化する理由(reason) になるという〈正当化の回路〉」はものすごく理解しにくい。この文章、「性差」じゃなくて「性的二型」じゃだめなんかな。それに「意味づけ」が社会学者以外にはわかりにくい。ふつうの人々の言葉づかいなら「解釈」ぐらいのはず。つまり、言われているのは、(3) 「性的二型をどう解釈するかということが、社会や個人の性差別を正当化する(当人たちにとっての)理由になる」ぐらいだと思う。

ここまで読むのでぜいぜいっていう感じですね。そしてやっと問題の「〈因果関係の回路〉を〈正当化の回路〉から切り離し,独立に論じることはできない.前者はつねに後者に包摂され,後者を構成する一つの水準としてしか把握することができないのである」が来る。

あれほどがんばっても、私はこの文章を理解することができない。加藤先生の言いたいことをふつうの書き方でいけば次のようになるはずだ。

人間の男女の 性差(性的二型)が存在することから、因果的に、社会での性役割分業や性差別が生じることがある。また、社会にすでに存在している性役割分業や性差別から、因果的に、男女の行動の差が生じることもある。さらには、そうした性差/性的二型が、性役割分業や性差別の正当化の理由とされることもある。

ここまではOK。しかし、続きがわからない。因果関係の話と、正当化の話が切り離せないのはなぜだろう?どういう意味で切り離せないのだろう?なぜ切り離せないのだろう? それはなにか概念的に必然的な話なのか、人間の心理的で偶然的な話なのか、どちらなのだろう?因果関係の話は正当化の話に「包摂される」とはどういうことだろう?因果関係の話が正当化の話を構成する一つの水準としてしか把握することができない、というのはどういいうことだろう?「把握する」のはいったいだれだろう?学者?

こういうの私わからんのですよね。私だけが読めないわけではないと思う。社会学者の先生どうしもよくわからず読み書きしてるんじゃないかと疑ってるんですが、どうですか。

 

 

「ジェンダー論と生物学」 (5) 「レイプ」という語を人間以外に使えるか?

進化心理学者たちの擬人法的な言葉づかいについて、前のエントリに書いた、ソーンヒル先生たちの『人はなぜレイプするのか』での言い分を引用して紹介しますね。わかりやすい文章なので解説はなにも必要ないと思う。

ごく初期の論文(Thornhill 1980)を批判するなかでゴワティやハーディングは、「この論文中では進化的機能を含めて“レイプ”を定義しているが、そうした定義は、この用語が人間についての出来事に関して一般的に用いられるのとは、異なるものである」といったことを述べている。しかしながら、定義に進化的要素を含めているからといって、その著者が、レイプは進化によってもたらされた自然なものであることを根拠にそれを正当化しようとする隠れた意図を持っていると考えるべき合理的な理由は、どこにもない。(p.224)

なにを指しているのかはっきりしていて、またそれを単純に人間の行動の道徳的な価値判断とかに利用しないならば問題はない。

自然主義の誤謬があくまでも誤謬であることを理解している人にとっては不合理きわまりなく思えることだが、レイプを“正当化”することへの恐れから、進化的説明に反対する多くの批判者が、レイプは人間だけのものだと考えようとする。これまで数多くのひはんしゃたちが、レイプは人間だけにしかないという意味をこめて、「どのような状況下においても、人間以外の生き物については“レイプ”という言葉を使うべきではない」と強硬に主張してきた。しかし現実には、この言葉を聞いて多くの人が最初に思い浮かべるのが人間についての例であるせよ、それを人間以外に当てはめていけない理由はない。たとえば“セックス”という言葉にしても、それを聞いて多くの人が最初に思い浮かべるのは人間のことだろうが、それとともに他の生き物についても、この言葉はごく日常的に用いられている。(p. 226)

これおもしろいですね。ハエのセックスとかタコのセックスとか、人間のとはずいぶんちがうかもしれませんが、まあそれなりにどういうことかわかるし混乱もしない。タコやイカが触手つかってセックスするからといって、そうしない人間が道徳的に不正だということにはなりませんしね。

 

……レイプは人間独自のものだと定義してしまうと、人間のレイプの要因について参考になるかもしれない、それ以外の生き物たちの行動を、最初から除外して考えることになってしまう。実際、要因を理解する上で生物学の基本的な手段となっている比較分析の重要性を、そうした限定的な定義は否定することになってしまうのだ。(pp. 226-227)

レイプを、かならずしも物理的に暴力的であるとはかぎらないなんらかの意味で強制的な(あるいは強制的に見える)交尾と定義してみると、いろんな生物でそういうのは見られて、そういう行動がどういう条件下で起こるかそれぞれの動物の特性や環境や条件など考え合わせるとおもしろいことがわかってくる。人間もそういう研究の対象になりうるわけです。「浮気」も同じですね。

 

     

    「ジェンダー論と生物学」 (4) たしかに鳥は「結婚」しないかもしれないが……

    なぜ、つがいになっているメス鳥が、オスの配偶者防衛をかいくぐって他のオスと交尾して卵を産もうとすること、そしてオス鳥が他のオスとつがいになっているメス鳥と交尾することを「浮気」と呼んではいけないのだろうか。

    これは加藤先生の文章を読んでも私にはピンとこない。というわけでズック先生のを見なければならないのだけど、ズック先生が言いたいことも実はよくわからんのですわ。

    鳥たちは、「浮気している」のではなく、ただするべきことをしているにすぎない。(ズック p.120)

    これ読むと、「鳥は浮気をするべきなのか!」と読んでしまう人がいるかもしれないけど、原文は ‘The birds aren’t “cheating”, they are just what they do’ なので、鳥というのはそういうことをするものだということですわね。べつにしなきゃならんとか、しないと道徳的に非難されるとかそういうことではない。

    まあよく読むと、ズック先生が言いたいのは、加藤先生が引用していない次の箇所。

    もし鳥たちの行動を、私たち自身の行動のためのモデルや正当化の手段として使用しようとするなら、私たちは自分たちのモラルについてきわめて不確実な根拠に基づいて決定を下す危険を冒すことになる……(p.120)

    これはまったく正しい主張ですね。つまり、鳥が「浮気」と呼べる行動をする、そしてそれは我々人間の行動とよく似ているとしても、だからといって我々人間が鳥と同じように「浮気」することが道徳的に正当化されるとか、当然のことだとか、許容されるべきだということにはならない。当たり前のことです。しかし、「浮気」という言葉を鳥の行動に適用してしまうと、鳥では許されるのだから人間でもゆるされるべきだ、と考えるやつが出てくるということだろうか。まあそういうことを考える人はいるかもしれないけど、それは生物学の専門用語や比喩としての「浮気」を批判するよりは、鳥と人間の区別がつかないような人々の考え方を非難した方がいいのではないか。

    まあでも、言葉づかいによるバイアスが、生物学研究や、人間社会研究に影響を及ぼすということは十分ありえるので、どんなに注意しても注意しすぎることはない、ぐらいは認めてもよい。

    しかし加藤先生の続く箇所はまた別の意味でわかりにくい。

    同じ理由から,ズックは『ネイチャー』誌に掲載された論文の一つが鳴禽類のヒナたちを「婚外子」(“illegitimate”)と呼んだことについて,「鳥の親たちが鳥用の小さな結婚証明証でも持っていて,誓いの言葉でもさえずったかのよう」だと批判している(Zuk 2002: 71=2008: 121) .言うまでもないことだが,鳥ーーだけでなく人間以外のすべての生物—は「結婚」などしない.かれらは自らの行動を「結婚」という規範的制度に結びつけて意味づけたりはしないからである.鳥類の一部が「一夫一妻」風のつがいを形成するのは,進化の結果としてそのような行動上の傾向性を獲得した結果であり,そしてそれがすべてであって,人間のように,それに違背すればサンクションを受けるようなルールに従っているからではない.

    たしかに、結婚証明書を作る、という意味では鳥は「結婚」なんかしない。しかし、同じように結婚証明書を作らないでカップルになったりセックスしたり子供をつくったりした人々は世界中にたくさんいたし、いまもたくさんいる。というか結婚証明書を作るという意味で結婚した人々など、人類の歴史のなかではほんのわずかにすぎないだろう。では、結婚証明書を作らなかった人々は結婚しなかったのか?

    そうではない。加藤先生が言いたいのは、自分たちの行動を「結婚」という規範的制度なるものに結びつけて意味づけている人々だけが結婚したといえる、ということだろう。これは社会学者らしいものの見方だと思う。社会学者にとっての関心事は、こうした再帰性というか自己意識的というか、そうした性質をもつ社会制度が現在の社会でどのように機能しているかとか、歴史的にどのようにして成立してきたかとか、今度どうなっていくかとか、そういうことであるというのはよくわかる。

    しかし、人間社会の結婚制度を考えるときに、生物として、哺乳類としての人間がもっているさまざまな生活や繁殖の上での条件制約を考慮に入れることは当然必要であるように思われる。人間の生殖に関しても、他の動物、他の哺乳類や、特に鳥のようにつがいになって繁殖する傾向のある動物との類似や対比から学ぶことことは多いはずであり、鳥のつがい行動を、それは結婚証明書を作ってないので、あるいは自分たちが結婚しているとは理解していないので、「結婚」ではないのだ、と一蹴してしまう必要があるだろうか。また、人間が性的なペアや集団になる傾向をもっているのは、単に「それに違背すればサンクションを受けるようなルールに従っているから」と考えて十分だろうか。もちろん、人間は現在どの文化においても「結婚」という排他的制度をもっているわけだけど、そうした制度をもっているのは単なる偶然ではないはずだ。そして、結婚関係をむすんでペアやグループになるのは、それにしたがわないと社会的なサンクション(制裁)を受けるからという理由だけではないはずだ。そんな単純な話になっているはずがない。私の読みが悪いのかもしれませんが、かなり不用意な文章になってるんではないかと思うのです。

     

    「ジェンダー論と生物学」 (3) なぜ鳥に「浮気」を使ってはいかんのか

    まえのエントリの最後、加藤先生の見解では、人間以外の生物には性別役割や性差別が存在しないので、性的二型が性役割や性差別にどう関係するかという課題は、生物学ではなく人文社会系のジェンダー研究の課題だ、ということになる。

    これは見た目よりも複雑な主張ですよね。性差別は人間社会以外には存在しない、っていうのはありそうな話だってのはみとめてもよい。なぜなら性差別は(おそらく定義からして)性によって人々を不適切に、差別的に扱うことであり、人間以外の存在者について、「道徳的に不適切な振る舞いだ」などということが言えるとはおもえないから。

    「性別役割」の方はそれに比べるともっと面倒になる。オスとメスがちがった行動をとったりすることは人間以外の生物について認められる。もちろん、「ネコのメスはこうするべきだ、そうしないと不道徳なメス猫だ」などということはありえないが、たとえば鳥のつがいや、ゴリラやオットセイのハーレムのなかでなんらかの役割分担があるというのは事実だろうし、生物学者が好むネタでもある。

    だからここで加藤先生が言いたいのは、「オスは道徳的にこうあるべきだ」という判断は人間以外の生物については言えないし、生物学者がそういうことをいうのはおかしいということだろう。こう読めばOK。しかし、「人文社会系のジェンダー研究」なるものも、「オスは道徳的にこうあるべきだ」などということを主張することも同じように怪しいと思うのだがどうだろうか。とりあえず倫理学はそんなに偉くないとおもう。なぜ社会学はそんなに偉いのか。

    「おしどり夫婦」という日本語すらあることが示唆するように,生物学にくわしくない人々は,鳥類がいわゆる「一夫一妻」の結びつきを長期にわたって維持すると信じている。しかし近年の研究から,そうした鳥たちも実際には繁殖期ごとに相手を変えていたり,雌がつがい相手とは別の雄たちと交尾することが明らかにされている.問題は,生物学者や科学ライターたちが,そうした「つがい外交尾」行動を「雌の乱婚」と表現したり「浮気」と表現したりすこの点について,進化生物学者のマーリン・ズックがきわめて的確に批判している.

    鳥たちは「浮気している」(“cheating”)のではなく,ただするべきことをしているにすぎない.それに鳥たちは,雄と雌の間で夫婦の絆についてルールを発案したりしなかった.発案したのは私たち人間である.違反になるルールがないのなら,それは浮気なのではない。(Zuk 2002: 70=2008:120)

    この部分、私ものすごく理解しにくいのですわ。

    なぜ、オスメス1羽ずつのつがいをつくり、そのつがいのなかでだけ子孫を作ると思われていた鳥(ここではハゴロモガラス)のメスが、実はつがいの外のオスの卵を生んでいることが判明したときに、それをとりあえず「浮気」cheatingと呼んではいけないのだろうか。進化的に考えた場合、つがいのメスが他のオスの卵を生むことはつがいのオスにとっては非常に大きな適応的な損失になるので、メスがそうした「浮気」をしないようにさまざまな努力をするように進化していると推測され、実際そうした活動の傾向が発見されるわけだ(いわゆる「配偶者防衛」)。そして、人間社会でもそうした婚姻・カップル外の男性の子どもを育てているカップルや男性が少なからずいることが推測され、一部確認されている。こうした発見は生物学(動物行動学)では20世紀後半のものすごく大きな発見であり、ハゴロモガラスのメスの行動を「浮気」と呼ぶことにさほど不適切なものがあるとは思われない。なぜ、生物学者たちがやっているように、問題をはっきりした理解を容易にするために、はっきり定義した上で言葉を使うことに不適切なことがあるのだろうか。

    っていうか、前にも書いたけど、加藤先生がたとえばバラシュ&リプトン先生たちの『不倫のDNA』や、他のよくある進化心理学本を読むように読者に促してくれたら、もっと問題がわかりやすくなるだろうに、なぜそうした本を紹介しないのだろうか。読んでないってことはないだろう。(まだまだ続く)

     

     

     

    「ジェンダー論と生物学」(2) 性的二型とか

    んで、加藤秀一先生のに関するエントリの続きもしばらくだらだら書きたい。私、よくわからない文章を見ると、それにつてなんか書いておかないとものすごく気持ち悪くて、ずっとそれについて考えちゃうんよね。

    ジェンダー研究と生物学研究がすれ違いつづける理由の一つは、実は関心の対象が異なるのに、そのことがしばしば理解されていないということである。

    まず、「生物学」っていう学問のくくりについて先生がどう考えてるのかよくわからんのよね。フェミニズム/ジェンダー論などとバッティングしているのは、生物学そのものというよりは、社会生物学、そして 進化心理学と呼ばれる分野 だと思う。まあウィルソンの「社会生物学」とトゥービー&コスミデス組やデヴィッド・バス先生たちの進化心理学は同じものだ、っていう話もあるわけだけど。とにかく基本的に問題になるのは、心理学や人間行動学という分野で扱われるような人間の行動の話が中心であるということは認めてあげないとならないと思う。そうした学問(心理学)が1990年代以降、急速に「人間の進化」という発想を背景にした学問に組み替えられている。単に身体や臓器の問題を扱ってるんではなく、心理や行動を扱っている実証的な学問が、社会学系のジェンダー論に襲いかかっているわけよね。そして社会学系のジェンダー論はそうした批判や攻撃に耐えられるだろうか、というところがポイントだと思う。

    生物学者はヒトを含む生物における性的二型の実態や由来に主たる関心を向ける。それに対して、ジェンダー研究者にとって生物学者の言う性的二型は固有の研究対象ではなく、それとは異なる水準の社会現象としての性役割規範や性差別の実態や由来を明らかにする際に留意すべき要素の一つとして注目されるにすぎない。(pp.154-155)

    ここで先生が「性的二型」っていうのでなにを考えてるのかが問題だ。たしかに、体の大きさや生殖器の機能とかはまさに生物学的な性的二型と呼ばれるものだ。しかし、この加藤先生の論文全体では実はそうではないはずだ。先生がわざわざひっぱりだしてきた古い古いシュルロ編の『女性とは何か』に収録され、先生自身が批判の対象にしたビショフ先生でさえ、「性的二型」という言葉にはいくつかの意味があることを指摘している。性別に固有の行動や能力みたいなものもビショフ先生の文章では「性的二型」に含められてる。

    ビショフ先生によれば、性的二型という語は、(1) 精子と卵子という配偶子二型、(2) 卵子を作る個体と精子を作る個体という意味でのオスメス、(3) 生殖器官の分化、(4) 狭い意味での性的二型、オスメス、男女の解剖学的な差。これには性器だけでなく、声の音域とか、平均的な体の大きさとか、筋肉の付きやすさとか、いろんなものが挙げられる。そして、(5) 性別に固有の行動のちがい、行動パターン、感知・応答するシグナル、能力、動機づけなど。

    上で加藤先生があげている「社会現象としての性役割規範」といわれている性役割規範、男女の振る舞いや行動についての社会的な通念や理想、期待、要求などの一部は、社会的・文化的に恣意的なものなのかもしれないけど、一部は人類に共通のものかもしれず、また我々のもつ期待や欲求の背景には生物学的な基盤をもつものも多くふくまれているだろう。

    もちろん、人間の心理や行動についてそんな簡単に生得的だとかそうでなく文化的だか、そんなことはいえない。我々は文化や環境の影響がまったくない人間なんてものを想像することさえできないからだ。そんなのはミルの『女性の隷属』の時代から誰だってわかってることだわいな。だから、私が思うに、自然科学者たちが、「生物学」とかって言葉を使ってもっぱら身体的な特徴だけを問題にしていると思いこむのをやめて、彼らは文化的側面や心理的側面まで考えようとしていると認めるべきだと思う。加藤先生の文章のタイトルが「ジェンダー論と生物学」ではなく「ジェンダー論と進化心理学」だったらぜんぜん印象がちがうっしょ?もう心理学はそういう学問になってしまったと思う。

    ここで何よりも理解しておかなければならないポイントは、ヒト以外の生物についてはもちろんのこと、ヒトにおける性的二型の研究も第一義的には生物学に属する課題であるのに対して、生物学の言う意味での性的二型が人間における各種の性差や性役割や性差別にどのように関係するかという課題は生物学には属さず、本質的に「人文社会系のジェンダー研究」、たとえば社会学に固有の課題だということである。(p.155)

    なぜそんな社会学に固有といえるのだろうか。心理学にも、哲学や倫理学にも、経済学にも、政治学にも関係すると思う。生物学がヒトという生物種とその社会について考えたいならやはり生物学にも関係するだろう。ここらへんものすごく難しいですね。

    なぜそう言えるのか。最も簡潔な答えは、人間以外の生物にはそもそも「性別役割」や「性差別」は存在しないから、というものである。これらの現象にとって構成的な規範性が、他の生物種には見出されないからである。(p.155)

    社会学者が関心をもつのは「規範性」であり、それは単なる事実ではないので社会学者のものである、ってな話になるんだと思う。しかしここで「規範性」が未定義あるいは未説明なのが気になる。多くの哺乳類では雄と雌の行動はずいぶんちがっているはずで、われわれホモサピエンスが属する霊長類も例外ではない。男女にかかわる多くの性別役割やら性的な規範やらは、歴史のある時点で誰か偉い人が思いついて命じたようなものではなく、長い歴史のなかで形成されてきたものであり、その一部は我々の遠い先祖たちがはっきりとは自覚せずにつくりあげてきたものだろう。われわれ人間の「性別役割」も、そうした生物としての人類の歴史的・生物学的ありかたと密接に結びついているだろうと予想される。

    まだまだ難しいけど今日はこれくらい。

     

    読んでる加藤先生の論文は下に収録されているもの。「ジェンダー論と生物学」

    途中で引用したのは下の。

    加藤秀一先生の「ジェンダー論と生物学」は問題が多いと思う (1) まずは細かいところ

    年末、このブログでも何回か取り上げている加藤秀一先生の文章を読む機会がありました。(社会構築主義を中心にした)フェミニズム/ジェンダー論と、生物学の間の葛藤と、その調停の試みの思想と歴史という感じの論説なのですが、なんかいろいろ違和感があってしょうがないので、メモだけ残しておきます。論文は下のに収録されています。

    まずそもそもこのネタで論文や論説書くときに、当然あがってくるべきだと思う文献が出てこないのでおどろきました。ピンカーの『人間の本性を考える』はさすがに文献としてとりあげられていますが、社会生物学/進化心理学側の人々の言い分を十分に展開したものが言及されていない。特に、オルコックの『社会生物学の勝利』セーゲルストローレの『社会生物学論争史』はそのまんまなのでなぜまったく出てこないのか理解しがたいです。ソーンヒルとパーマーの『人はなぜレイプするのか』バスの『女と男のだましあい』なども重要。まあこの4冊あげてくれれば文句はないし、オルコックとソーンヒル組の2冊でもいい。ぎりぎりしぼってオルコック1冊でもなんとかします。(あげたのはごく古いものばかりで、最近はよい本が増えてる)

    (特に、加藤先生が応援しているゴワティ先生についてはソーンヒル先生たちの本でも触れれてるよ。特にpp.224ff

    ビショフ先生

    p.135で加藤先生は、ビショフという生物学者の引用を使って、「「文化規範」は「人間の本性」の「言い換え、解釈、解明」にすぎない──、。これはきわめて強い意味における還元主義の表明である」(p.137)とする。しかし「すぎない」は先生の勝手な付け加えですね。

    このビショフ先生という方の主張はたしかに解釈が必要なのですが、あとまわしにします。

    あとp.139のシュルロ先生が「苦言を呈している」という加藤先生の解釈にも疑問がある。

    遺伝子決定論なんて信じてる人はいません

    メイナードスミス先生が「実際に遺伝子決定論を信じているまともな進化生物学者などいないと主張している」と紹介しながら、注の12で斎藤成也先生ひきあいにだして「それは事実か否かはなんともいえない」とか言っちゃって、大丈夫なんですか。まさか斎藤先生がまともじゃない進化生物学者ではないと言いたいわけじゃないと思いますが。そら、ナスからはふつうナスの味がするだろうし、それはナスの遺伝子が環境の影響を受けてナスの味するんでしょよ。キュウリを同じ環境に植えてもナスの味がするようにはならない。それに、ナスの遺伝子もってても、ちゃんとナスの苗に育って、花が咲いて実がならないとナスの味にならない。必要な栄養とか不足しがらちゃんとしたおいしいナスの味がしないかもしれない。でも適切な環境で花が咲いて実がなったら、その実にナスの味を発現してくれる遺伝子なかったらやっぱりナスの味はしないだろ、これが斎藤先生が言いたいことでしょ?

    そもそも加藤先生が「遺伝子決定論」っていうので言いたいことはいったいなんですか。

    「フェミニスト認識論」については話がよれている

    p.145からのハーディングに代表される「フェミニスト認識論」についての中途半端な議論(中途半端なのは、加藤先生自身がこの問題については判断しないことを宣言して途中で放り出すから)は、筋がよれていて読みにくい。なぜガワディ先生が開いたシンポジウムとその成果の書籍の話をしているのに、ハーディングやグロス先生やソーカル先生たちや、いわゆる「サイエンスウォーズ」の話に流れていってしまうのかよくわからない。もちろん関連があるのはわかるのだが、ガワディ先生たちはどこいったのよ。時代が前後していてわからん。アナクロニズムだ。

    日本学術会議の「学術とジェンダー」公開講演会記録

    ジェンダー論者と生物学者の対話として、三つめに加藤先生がとりあげるのが2005年の日本学術会議の公開講演会ですが、まあこれいまとりあげる意義がよくわからなかった。昔ぱらっとめくっただけだけど、ごく簡単なものだし、学問的な意義がそんなあったのかどうか。

    まあそれはともかく、加藤先生は「ジェンダー論者(社会学者)も、生物学者も、おたがいに勉強不足だった」ってことにしたいようですが、これどうなんですか。

    少なくともこのとき、「セックスはジェンダーである」とかわかりにくいことが社会学者の先生たちを中心に提案されて、生物学者その他の自然科学者たちは「はてなー?」ってなってた時期ですよね。んで加藤先生の分析によれば、そのときの上野先生の講演にはなにほどかの理論的な問題があるという。でも加藤先生は、問題のジュディスバトラー様の主張を放っておいて(!)、「いずれにしてもこれはバトラーのテクストからの正確な引用ではなく、上野による要約である。そしてその要約のプロセスには、上野によるかなり強引な解釈が入りこんでいる。」(p.152)とかってことにしちゃうんですが、この前数年から2010年代に至るまで、社会学者の先生たちの本みたら「セックスはジェンダー」とか頻出じゃないっすか。いったいそんなわけわからん状態で、社会学者の先生たちの話をもっと勉強しろ、とかよく言えたものだと思うのです。

    バトラー様なんて、パフォーマティビティその他、すみからすみまで、なにを読んでもなに言ってるかわからないじゃないですか。加藤先生自身がバトラー様の本や論文使ってけっこうな知的生産した人であり、そんな人が「「バトラー自身がそのような乱暴な主張をしているのかどうかは措くとして」(p.152)とかよく言えますね。私はこれ本気で批判したいです。

    せめてここで、2005年の「セックスはジェンダーだ」なんて不思議なこと(あるいは読みようによってはとても瑣末なこと)を社会学者の人々がみんな一様に言いはじめたときに、社会学者自身はなにをしなければならなかったのか、それを考えるべきなんではないでしょうか。生物学者その他の人々に向かって「ジェンダー論を勉強不足だ」と言う前に!いまでも遅くないので、「セックスはジェンダーだ」について、社会学者の先生たちの本で読むに値するものを教えてくださいよ、と言いたくなる。生物学者たちの本で読むべきなのは上にあげました。たとえば『社会生物学の勝利』と『人はなぜレイプするか』です。加藤先生は同じくらい読みやすく、ためになるものあげられるだろうか。

    加藤先生は、p.153で学術会議の講演会に出てきた長谷川真理子先生は勉強不足だと言う。しかし先生はその時にはすでにオルコックの『社会生物学の勝利』の翻訳出してたんですよ!

    先生の本論であるところの第3節、「ジェンダー研究と生物学の生産的な関係をつくりだすために」は丁寧にやる手間かかるので別エントリにします。

    (続く)

    日本学術会議でのシンポの様子は下の本でわかるはず。

    海外の論争の様子は下。

     

    『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(5)

    • これはちょっと細かいのですが。

    私はまさしく彼が「聴くこと」を望んでいます。〔私が〕どんなに無力な状況に置かれ、ひどいトラウマを負ったのかを。彼が完全に〔私の苦しみを〕受けとめて理解すると期待しているわけでもありません。私の口から直接出てくる言葉を確かに彼に聞かせたいから、〔加害者に対して〕「〔私の声を〕聴け」と言いたいのです。私は加害者(すべての加害者)は、表面的なレベルでしか受け止められないとしても、〔性暴力被害者が〕何を感じていたのかを知る必要があると思います。私にとって重要なことは、少なくとも、直接的に私から〔加害者に自分の言葉に対して〕耳を傾けられる経験を得ることです。

    私は彼にちゃんと「聞いて」hear ほしいのです。そんな無力な立場におかれたときにどんな感じがするのか、それがどんなひどいトラウマになるのかを。私がいま「聞く」って表現したのは、彼は気にしないかもしれないし、こういうことを完全には理解しないかもしれないからです。それでも私は私の口から出る言葉を直接聞いてほしいのです。だって他の誰もほんとうにそういう立場に置かれなかったら説明できないのですから。表面的なレベルでしか受け止められないにしても、加害者(すべての加害者)はそれがどういう感じであるかを聞く必要があると思います。私にとって一番大事なことは、少なくとも私から直接それを聞くことです。」

    これはこの被害者が、意味の理解とかそんなのより、とりあえず物理的に聞くのでいいから自分の声を聞いてほしい、と求めている文章です。listen to じゃなくてhearっていう言葉をつかうのは「とにかく物理的にでいいから聞いて!」っていう感じがでていて、このVSSRさんはほんとうによく自分の体験について考えてる感じがします。最後の would have at least the heard thisのところはわかりません。誤植かなあ。まあこの文章の訳は軽い問題がある、ぐらいです。

    ちなみにこのVSSRという記号をつけられた人はけっこう話してくれる、意見のはっりしたしっかりした方で(前のエントリはVSC3さんで、この人もよい)、小松原さんは何回か使っているのですが、同一人物であることを把握しているのかどうか気になりました。読者にはそうしたことがわからないのです。それで大丈夫なのだろうか。正直ななところ、このKeenan先生の報告書にん記録されている30人ぐらいの人のなかの数人の言葉は非常に魅力的で、私は、kenan先生の報告書から、「被害者」としてばらばらにされてしまいひとからげに「被害者」とされたの人々のインタビューの中から、その個人像を再構成してみたいという欲求さえ感じました。こういうのを「〜という被害者もいた」みたい匿名化してに証言をバラしてしまうのは私は好きではない。

    修復的司法っていうのはかなりマイナーな研究分野であるだろうし、勉強しにくかったり理解されにくかったりするのはわかるんですわ。それの研究を続けたり、いろいろ読んだりしているのはえらいと思う。語学とかは得意不得意とかあるし、他国の司法制度なんかも、まわりに詳しい人がいないと学びにくいものだとは思う。そういうんで、小松原先生自身を訳程度の問題で非難する気はあんまり強くないのです。私が気にしているのは、こうしたいろいろ穴があるのはまわりの人、特に博論の指導教員とか研究仲間とかはすぐに理解しただろうから、なぜ適切なアドバイスをしてあげてないのだろうかとか、ジェンダー法学会はなぜこれくらい基本的な問題があるのを承知で賞を出すのだろうか、とかそういうことです。それともそうした問題があることに気づかなかったのだろうか。

     

     

    『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(4)

      • 第4章第3節も見ておきたい。
      • p. 151に出てくる、Nodding (2011)という資料はどういうものかよくわからない。この団体 https://restorativejustice.org.uk  が出している冊子かもしれない。あるいはこれ https://restorativejustice.org.uk/resources/jos-story そのものか。そもそもこの団体がどういう性質のものかよくわからない。怪しい団体ではないとは思うのだが。
      • p.152に出てくるKeenan (2014) も最初見つけられず苦労したのだが、文献リストでは「報告書」として他の「外国語文献」とは別になっていた。「学会報告、講演」も別になっていて、上とあわせてその分類の基準がよくわからない。このKeenan (2014)もURLとかないので探すのけっこう苦労したけど、とりあえずこれ http://irserver.ucd.ie/bitstream/handle/10197/8355/Marie-Keenan-Presentation.pdf?sequence=1
      • この資料は、修復的司法を希望する、参加したい、加害者と対話したい、という人々30人に対するインタビューで、前の節のデイリーvsカズンズ論争が実際に修復的司法は効果があるか、という数字をつかったあるていど実証的なものであるのに対して被害者の願望を聞き取っているもの。話の順番が奇妙に感じられるが、それは問わないことにする。
      • この資料自体は、貴重な被害者の声をきんとひろっていて、非常に迫力があります。こういうの探してくるのは小松原先生すごくえらいと思いますね。
      • ただし小松原先生の参照のページがずれているようで、対応箇所を見つけるのを非常に苦労することが多い。これは多すぎるのであげきれない。
      • また、このKeenanの調査が、さまざまなタイプの被害者の特徴を示す記号がつけられて特定されていることなどにまったく触れられていないのが気になる。家族内レイプと路上レイプなどは経験その他がまったく違うと思われる。それに、小松原先生が同一人物をダブルにカウントしている箇所があるように思える。下では「VSSR」(Victims of stranger rape as an adult)と記述されてる人の発言が何度もでてくるが、これは同一人物である。しかし、小松原本ではどの発言がどの被害者のものかわからなくなっている。
      • p.154で「責任のメカニズムとして」という表現が出てくるが、これは説明しないとわからない。

    (f) 虐待を告発する際に教会の権威者を問題にすること
    教会内の事例においては、被害者陳述のように、RJを通して加害者の責任を追求したいと考える性暴力被害者もいる。(p.154)

    • これは読みちがえているように思う。

    f) Dealing with Church Authorities when Abuse Disclosure handled Badly
    One victim of clerical abuse whose abuse disclosure was poorly handled by the church was keen to meet a priest to whom she had disclosed through a restorative meeting as she thought there would be healing in it for her.

    • ということなので、加害者の責任も問いたいが、教会当局の問題の処理も問題にしたい、ということだと思う。加害者以外の人物に被害にあったことを打ち明けたのにちゃんと対応してもらえなかった、あるいは不適切な対応を受けたのでそれについて自分で苦情を言いたいということではないか。

    (引用)私は彼に聞きたいのです……私は、普遍的な問題として、彼の動機を本当に理解したいと思っています。
    (小松原)この性暴力被害者は、性暴力という問題を「個人的な問題」ではなく「普遍的な問題」だと考えている。

    • 原文は “I would truly like to understand his motivations for it in general.” なので、微妙だが、〔女性や社会にとっての〕「普遍的な問題」と読むのは読み込みすぎかもしれない。「彼のそうした動機一般を知りたい」ぐらいではないか。

    しかし、私は〔問いの〕答えを得られませんでした。私は〔今も〕動けずにいるし、問いを抱えたままです。被害者として〔加害者に言いたいことは〕、あなたはあなた自身を責め、恥やうんざりした気持ち、ストレスを抱えることになりました……でも私はそれぞれの〔加害者は〕個別で違っていると思います。だから、私は「なぜ、私なのか(Why me?)だったのか知りたいのです。

    これは非常に痛切な告白でもあるわけですが、これほど大事なものも誤訳していると思います。

    But I haven’t got answers. I’m stuck and I still have questions – as a victim you blame yourself for a lot of things, a lot of the time. You do blame yourself and you suffer a lot of shame and disgust and a lot of – you know, a lot of stress… … But I think each individual is different, I think. So I’d just – I need to know why me?

    このas a victim you blame yourselfってときのyouは、被害者になってしまったときのあなた、我々、そして私自身。

    「被害者として、私たちはいろんなことについて、すごく長い時間自分を責めてしまいます。ほんとに自分を責めて、恥や嫌悪感、そしてすごい……わかるわよね、すごいストレスに苦しみます。でも人はそれぞれちがうものだと思うんです。だから私は、なぜそれが私だったのか、を知る必要があるのです」だと思う。

    • この”Why me?”というのは、節だけでなく、本書全体を通してつらぬかれる基本的な被害者の声であるわけです。これほど大事な部分で、こういう読みちがいをしてしまうっていうのはどういうことかと考えてしまうわけです。これは英語読解能力の問題だけなのだろうか。前の節でデータと論文を粗雑にあつあっているだけでなく、この節では被害者の言葉さえもまじめに受けとめていないのではないだろうか。
    • これはちょっと書きすぎたかもしれません。でもこの誤訳らしきものは本当に大きいと思うのです。当然専門家が読めばおかしいと思うはず。誰かが草稿段階でこの原稿を読んだらおかしいと思うはずだし、学会賞を出そうという人々が読んでたら、なにかへんだとおもわないはずがないと思うのです。そしてこうした疑念が、わたしをいらいらさせるのです。いまも書きなおしてて、やっぱりいらいらしてしまいました。読んでる人々が不快になったらもうしわけない。でも私はこうしか書けないのです1)それが堅い論文書けない理由でもある……ははは。

     

    References   [ + ]

    1. それが堅い論文書けない理由でもある……ははは。

    『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(3)

    • デイリー先生の文章の引用

    私は〈裁判による性暴力の問題解決〉より〈カンファレンスやそれに類するRJ〉がより一般的に用いられるとは思わない。〔しかしながら〕私は犯罪と被害へ、より洗練された対応をすること、そしてRJがその流れの中に位置づけられることについて考えることは、意義があると思っている。

    私が訳すると「私は、カンファレンス、より一般的には修復的司法が、性犯罪裁定の問題に対する「解決」になるとは〔カズンがわたしになすりつけているようには〕考えていない。私が信じているのは、犯罪と被害に対応することについてもっと革新的に考えてみることには価値があるということであり、修復的司法はそうした潮流の一つだ、ということである。そうした各種のアプローチが、被害者や加害者に対して有効な司法のなかで邪魔になると考えるのはむずかしい。」

    • ここまで、主にほぼ4章2節の英語の訳の問題だけ見てきたのですが、どれもいわゆる「意訳」や「わかりやすい訳」やケアレスミスだけではない。構文がとれないために意味がとれてないないか、知識がないためか、検討する論文全体を読んでいないため理解できていない、という感じだと思います。こうなると、この本に出てくる日本語の翻訳が出ていない文献からの引用・参照はすべて疑わねばならないことになる。しかしそれはしょっぱなから論文タイトルがまちがっているのを見れば誰でもわかる話でもあると思います。
    • まだ続きます。

     

     

    『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(2)

    p.149

    刑事司法制度の補完として、RJを取り入れる具体策としては、「有罪答弁」の改革をデイリーは挙げている。現行の刑事司法制度にも、加害者が自らの犯行を自白する「有罪答弁」は導入されている。しかしながら、デイリーによれば「有罪答弁」は「被害者の決まりきった質問に、加害者が棒読みで答えるという白々としたもの」である。それを「被害者が自分の経験を思いきり語り尽くし、加害者は率直に事件について吐露する場にする」のである。(p. 149, 強調江口)

    • まず、イギリスやオーストラリアの裁判制度のなかでの「有罪の答弁」guilty pleaの制度を紹介してもらう必要がありますわね 1)おそらく本書にそうした説明はない。。http://www.courts.sa.gov.au/RepresentYourself/Offence/Pages/Pleading-guilty.aspx こういうんですか。っていうかオーストラリアの裁判所制度がどうなってるかはここらへんからたどればわかるはず。まあそこまでしなくてもGoogle様が教えてくれる
    • んで、この有罪答弁では「被害者が質問して加害者が答える」なんてことになってるのでしょうか。まさか!原文は

    The court’s guilt plea process can change (Combs 2007). Rather than ‘perfunctory affairs [in which] questions are mechanically posed, answers are monosyllabically provided, and all of the participants seek to get the proceedings over with as quickly as possible (p.14), Combs propses a ‘restorative justice guily plea’ that would have greater disclosure of the offending by defendant and greater involvement of victims in describing the effects of the offense.

    • デイリーではなくコーム先生の意見であるのはともかくとして、「審問が機械的におこなわれ、それに対してはイエス・ノーだけ(monosyllabically、一音節で)で答えられ、関係者はみな手続をできるだけ早く終らせようとするおざなりな手続き」ぐらいですか。現行で被害者が直接加害者に質問するなんてあるわけない。ここらへんになってるくると、著者はまったく知らないことについて語っている可能性が出てくるわけです。

    References   [ + ]

    1. おそらく本書にそうした説明はない。

    『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(1)

    小松原先生の『性暴力と修復的司法』の第4章は非常に問題が多いと思うので、すこしずつ指摘したいと思います。実は同内容の別の文書を書いてしまって、公開するべきかどうか実はかなり迷ったのですが、やっぱり見てしまった以上は書かざるをえないと思います 1)この本は以前に読んで、問題があるな、とおもっただけでほうっておいたのですが、ツイッターで「第4章第2節ではエビデンスをもとにした、性暴力における修復的司法の議論を行っている」とおっしゃっていたので、どの程度エビデンスなるものを検討しているのか再読せざるをえなかった。。ここではなるべく価値判断は避けて、事実だけ記載しなおしたいと思います。ジェンダー法学会の奨励賞を受賞していることからも問題の深刻さを考えさせられました。


    第4章第2節

    • 書誌情報、author-yearの形 (Daly (2006), p.339の形)をつかっているのに、Ibid. も使うのは奇妙な印象があるけど、こういう書き方をする分野があるのだろうか。

    p.143

    • デイリー論文タイトルを「歪曲のない記録の位置付けとラディカルな変更への要求」している。原題は“Setting the Record Straight and a Call for Radical Change” なので、「事実を明らかにすること、ラディカルな変化をもとめること」かなあ。set the record straightはほぼ慣用語句。
    • どこか別の場所で『修復的司法─どう実践するか(Restorative Justice: How It Works)』というのも見たのですが、ページ失いました。How it worksは「それはどう機能するか」、くだいて「それはうまくいくか」だと思う。
    • デイリー論文の紹介 https://www.researchgate.net/publication/31045901_Restorative_Justice_and_Sexual_Assault_An_Archival_Study_of_Court_and_Conference_Cases

    小松原p.144

    「裁判に参加した226例(59%)の少年のうち、118例(31%)がRJのカンファレンスに参加し、41例(10%)が訓告を受けた。その結果、再犯率は裁判が66%で、カンファレンスは48%だった。また「(執行猶予も含んだ拘留などで)〔少年に対して〕責任を追求して脅す「青年脅迫(Sacare Youth)の試みは、最も高い再犯率を示している(80%)。(強調江口)

    • デイリー先生の原文によれば、扱われてるのは385事件の少年365人、そのうち226は裁判所に送られ、別の118はカンファレンスに、41は訓告formal cautionを受けた、ということだと思う。226+118+41=365よね。「裁判に参加した226例の少年のうち」はまったくのあやまり。これ以降、そのまま信じることはできない。
    • 原文によれば、再犯したのは80%ではなく81%。ここのところは、オーストラリアの裁判制度の説明が必要だとおもいます。
    • Scare Youthには脚注がついていて、

    「Scared Straight Programのこと。1970年代米国に非行少年に対して行われた犯罪抑止プログラム」

    云々という脚注がついているが、これは1995〜2001年の南オーストラリアの話なのでまったく関係がないと思う。原文はThe court’s effort to ‘scare yourth’ with threat to further liabilityということなので、米国の話とは少なくとも関係がないように見える。

    「こうした結果を見ていくと、性暴力事犯において、少年が裁判を受けたり、厳しく罪を問われたりすることは、再犯防止にならないということがわかる。」

    • これはこんなに簡単にはいえない。「「もっと厳しく責任を問うぞ」として法廷が若者を脅す」というのは、i.e. detention, including suspended sentencesということなので、裁判所に送られてけっきょく拘留しただけとか、起訴猶予などの処置にされた少年たちが81%再犯におよんだわけだけど、これはカンファレンスや訓告ですまされた少年たちより悪質と考えられて裁判所に送られた少年たちであって、カンファレンス送りの少年たちとは簡単に比べることはできないと思う。

    「さらに、裁判はカンファレンスよりも集結までに2倍の時間がかかり、被害者は平均6回も裁判所に足を運んでいた。被害者の負担は大きいのである。それにも関わらず、最終判決に出席しても半分近くの事例は訴訟棄却または訴訟取り下げになるとデイリーは指摘している。」(下線江口)

    • 原文はvictims would have had to attend court an average of six times to lean the outcome of their case。これは、「もし被害者が裁判結果を聞こうとすれば、6回ぐらいは行かねばならなかったろう」ということだと思う。
    • If they appeared in court on the day of finalization, nearly half would find the case was dismissed or withdrawn. 「その日に傍聴にいけたとしても、半分ぐらいは起訴猶予やら起訴とりさげやら」ということ。被害者が裁判所に行こうが行くまいが判決は同じ。これは下のような感じ。
    • 先生書いてないので1パラだけ紹介すると、41の訓告(formal cautions)処分措置にされた全員が罪状を認め終結した。118のカンファレンスのうち、ほとんど(94%)が性的暴行を認めて終結した。裁判所送りになった226件のうち、51%が性犯罪が立証された。4%は非性的犯罪とされ、残りは棄却、起訴取り下げ。226件のなかで公判にかけられたのは18件、8%。Guilty pleaはあとで問題にするけど、さっさと有罪を認めれば裁判短縮してあとは量刑を考えるだけになるというもの。残りのうち14人が罪状を否認、その結果、8人が棄却、3人は無罪。けっきょく、 226件の裁判所ケースのうち、115件は性犯罪が立証された(ほとんどすべてGuilty Plea)、8件は非性的犯罪、100は棄却または起訴取り下げ、3は無罪、ということだと思う。こうした情報を示さないで一部の数だけを示しても意味がない。(あんまり自信ない。オーストラリアの(少年犯罪の)裁判制度の説明が絶対に必要のはず。)

    「被害者が証言したのは14例のみで、有罪判決が出たのは3例だけだ」

    • 原文によれば、「裁判所送りになり、さらに公判にかけられた14例のうち、何件で被害者が証言したかはわからないが、仮に14件で被害者が話をするのを許されたとすれば〜」
    • 1ページでこれほどあやまりと思われるものが多いとかなり苦しい。

    • Daly先生の引用

    SAASの結果は性暴力への対応における公式の裁判過程の限界をあらわにしている。この限界は〔被害者と加害者を〕対立させる〔刑事司法〕制度に内在している。それは〈告訴された人が加害を否認する権利をもっていること〉と〈法律的な罪を確定する中では証拠を集めるハードルが極めて高いこと〉である。

    • 「被害者と加害者を対立させる刑事司法制度」というのが謎。“The limits inherent in an adversarial system in which accused persons have the right to deny offending and the evidentiary hurdles are especially high in establishing legal guilt.” であって、「〔容疑者に対して〕敵対的な制度」であって被害者と加害者を対立させるわけではない。刑事司法というのは基本的に「国vs容疑者(被告)」だと思いますが、私がまちがっているのか。被害者と加害者の対立は二次的であるはず。(もちろんそれではだめなのかもしれないので、被害者が裁判に参加できる形を模索しているわけだが)

    pp. 147-148でのデイリー先生の引用

    • ここは長くいろんな不正確な訳が含まれているので、下に私の訳を示します。
      > 私が思い描いている重大な変更目標は、次の三つの要素からなる。犯行の自白(理想的には、当初からの自白)の増加、(裁判での)事実認定の必要の減少、そして性犯罪と性犯罪者に対する強すぎるスティグマづけの最小化である。弁護士たちは依頼者の権利を擁護するだけでなく、「法的」には有罪ではないとしても事実上有罪であるような依頼者が、その罪を認めることの価値を見出すことにも役目を負っている。私はこのような変更目標がすぐに実行されるとは期待していない。

    • まだ続きます。

     

    References   [ + ]

    1. この本は以前に読んで、問題があるな、とおもっただけでほうっておいたのですが、ツイッターで「第4章第2節ではエビデンスをもとにした、性暴力における修復的司法の議論を行っている」とおっしゃっていたので、どの程度エビデンスなるものを検討しているのか再読せざるをえなかった。

    「メディアは現実を構成する」について調べてみた

    どうでもいいつまらない話なんですが、時間とお金をつかったので記録だけしておきます。

    (マス)メディアとジェンダーというテーマは、ジェンダー論やらフェミニズムやらの中心的なテーマの一つなわけですが、「実証的な調査はどういうものがあるのか」ってんで、私自身「そういや標準的にはどういうふうに信じられたり教えられたりしてるんだろうな」みたいな疑問をもってしまいました。

    まあふつうはメディアに出てくる女性像やら男性像やらが、現実の女性やら男性やらの服装やらふるまいやらに影響を与えているので、メディアは注意深く見ないとなりません、みたいになっていて、実際私も今年度の前期のゼミでメディアリテラシーのまねごとしながら考えてたんですわ。

    ところが、標準的なジェンダー論とかのテキストなんかだと、その問題は指摘されてるけど、さほど実証的な裏付けには言及されないんですよね。

    いろいろ見たんだけど、いちばんはっきりわかりやすかったのは、加藤秀一先生たちの『図解雑学ジェンダー』。これは優秀入門書、というか入門の入門。まあ「図解」を1ページまるごと引用させてもらえば、こんな感じ。まあ典型的な「ジェンダー論」って感じですよね。

    ここの左のページには加藤先生自身が簡単な文章を書いているんですが、参照文献が諸橋泰樹先生の『ジェンダーの語られ方、メディアのつくられ方』だったのです。

    実は10年ぐらい前にこの先生の本を読んでちょっといやなのを発見したりしているので、図書館で調べてみました。(昔私がリクエストして入れてもらった本だと思う。)

    と、この『語られ方』の本は2002年出版ということもあって、相当古い情報にもとづいたものでした。

    「能力、性別、らしさ、様ざまな特性はは生まれもったものではない、社会的・文化的に構築される」p.19

    「男は人の話を聞かなくてよい」p.19

    「女性/男性」という性別二分法自体が、もう人間の観念的な枠組み」p.20

    「オオカミに育てられた子どもはずっとオオカミのまま……第二次性徴をはじめとするセクシュアリティも開花しない」「ことばがないとセクシュアリティが顕現せず」p.20

    「虹の色はリベリアのバサ語では二色」、「ニューギニア高地人のチャンブリ族という部族」では「男性の性格は嫉妬深く、猜疑心が強く、噂話が大好きでショッピングが大好き、……お祭が大好きで、そのときはオスコンテストをする」p.23、

    生物学的な性別といわゆる性別役割分業の間に、直接の関係はありませんp.24

    とか、まあここでは議論できませんが、古すぎますね。肝心のメディアが我々のジェンダーにどういう影響を与えるか、という実証的な議論は特に見つかりませんでした(どっかにあるかもしれないけど)。

    もう1冊、『メディアリテラシーとジェンダー』という本もあったのでそっちも見たのですよ。こっちも実証的な議論は特になかったのですが、

    次の概念が、メディアリテラシーの内容を説明します。すなわち、(1)メディアは全て構成されたものである、(2) メディアは「現実」を構成する、(3)オーディエンスがメディアを解釈し、意味をつくり出す、(4) メディアは商売と密接な関係にある、(5)メディアはイデオロギーや価値観を伝えている、(6) メディアは社会的・政治的な意味をもつ、(7)メディアは独自の様式、芸術性、約束ごとをもつ、(8)クリティカルにメディアを読むことは、創造性を高め、多様な形態でコミュニケーションを作り出すことにつながる。(pp. 21-22)

    「メディアは「現実」を構成する」とか、いかにも社会構成主義とかそういう難しい立場のけっこう極端な立場のような気がするので、なにかしっかりした根拠があるのかと思ったのです。んで、参考文献としてあげられているカダナ・オンタリオ州教育省編『メディア・リテラシー』っていう本を入手してみたのです。

    この本はメディアリテラシーの教育実践の本としては非常に優れてるのですが、上のような主張はリテラシー教育の上での作業上の仮説のようなもので、それの正当化とかなにもしてませんわ。まあ予想はしてたんですが。

     

    まあこんなもん。まあこれくらいの意味なら「メディアは現実を構成する」って言われてもまあそうですね、ぐらいですね。こういうの参考文献にあげられても困ってしまう。まあ剽窃ではない、ということなんだろうと思うけど、この本入手できない人がみたら、「メディアは社会を構成する」ということになんか難しい根拠づけかなんかがされていると思いこむかもしれませんね。それに諸橋先生はなんで「「現実」」ってわざわざカッコに入れたんですかね。まあどうでもいいです。

    他にも諸橋先生の本は「女性週刊誌は女性を思考停止させる」(大意)みたいな書き方で、なんか女性をバカにしている感じがして印象が悪かったです。

    まあこういうのはどうでもいいんですが、入門レベルとはいえ、これくらいのちゃんの根拠づけとかできないままにメディアとジェンダーの関係とかそんな簡単には議論できないなあ、みたいな印象はもちました。

    もちろんメディアが我々の生活に大きな影響を与えているのはそうだと思うので、実際にどのように影響を与えているのか知りたいですね。そしてそういう研究はちゃんとあると思う。

    ↑にいちゃもんつけたけど、基本的に良書なので買ってあげてください。

    牟田先生の「セックスはすでにつねにジェンダーである—「男女平等」の罠」

    http://www.lovepiececlub.com/feminism/muta/2014/06/26/entry_005203.html

    また毎度毎度の牟田先生でもうしわけない。堀あきこ先生が「わかりやすい」ってほめてたので「わかりやすいなら読もう」ってな感じで(昔読んだのを)読みなおしたけどわからない。私あたまわるすぎ。

    一番最初はどうでもいいので飛ばす。

    シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、女性解放を論じた現代の古典として名高い『第二の性』(1949)で「人は女に生まれない、女になるのだ」と言明し、いかにして女が「作られて」いくかを論じました。女性はリーダーシップに欠ける、権力志向が無い、だから政治家には向かない・管理職には向かない、などともっともらしく言われたりしますが、それは、幼い時から、女の子は優しく素直にと、従順でつねに他者を自分より優先するようにしつけられ内面化していくから。このことが、女性が政治家になりにくい要因の一つを作っているのは明らかでしょう。

    この「内面化」仮説の真偽や、「女らしい」から政治家になりにくいのかどうかは、それほど明らかではないと思うけど、今回はいいや。

    1960年代後半から70年代にかけて花開いた女性解放運動(第二波フェミニズム運動)の女性たちは、ボーヴォワールのこの考えを、「ジェンダー」という概念で表現しました。生まれつきの性別(セックス)が女・男の「らしさ」を決めるのでなく、生れ落ちてからの社会環境と文化の中で人は、らしさを刷り込まれていく。「母性本能」ということばに典型的なように、妊娠や出産をする身体をもっていれば誰もが母になりたがり子育てが自然にできるかのような思い込みが、いかに女性を縛ってきたことか。そのウソをあばいたのがジェンダーの語でした。

    「女性を縛ってきたことか」→「女性と男性を」がいいと思うけど、まあいいや。

    「ジェンダー」の定義してないけど「男/女らしさ」でいいのかな?それとも「社会的性差」「格差」かな。

    この意味でのジェンダーは、今では日本でも一般に知られるようになりました。ジェンダーにとらわれない生き方ができる社会を作り上げていくことは、現在進行形の重要な課題であるのは言うまでもありません。
    しかし、1990年代以降のポストモダンフェミニズム理論は、ジェンダーにはもっと深い意味があると大胆に発想しました。すなわち、社会的性差は作られたものであるというのはその通りだとしても、その考え方の背後には、男女の生物学的性差は「自然」なものとして存在しているという暗黙の前提があるのではないか。そこで自明とされている「自然」な性差、「セックス」とはいったい何なのか、という問いを投げかけたのです。

    問いとしてはいいと思うんだけど、ここで「自然」っていうので何を言ってるかも分析してほしい。「生得的なもの」だろうか。それとも「本性」だろうか。上で「子育てが自然にできる」っていうのがあって、この「自然」はどういう意味かな。「自動的に」「教えられずに」「訓練なしに」「意識的に考えないで」とかそういうのだろうか。けっこうむずかしいね。でもこれもまあいい。

    ジュディス・バトラーは「セックスは、つねにすでにジェンダーである」と言います(バトラー、1999、29頁)。肉体的・所与のものと見える性差すら、時代によってさまざまな「科学」的知識の名の下に、二分法的に男/女の記号を付されてきたものである、セックスそのものがジェンダー化されたカテゴリーであると。

    ここで、っていうかここは序文みたいなところなのでうしろの方で「科学がどうのこうの」についてバトラー様が論拠にしているのはファウストスターリング先生の研究なんだけど、あれもずいぶん問題のある研究なのよね。

    これを聞くと、おそらく多くの人がそれはおかしい、と思うでしょう。女と男では体つきが明らかに違う、おっぱいや膣は女性にしかないし、ペニスがあるのは男性。ホルモン分泌も、DNAも異なる。それは、どんな文化・時代でも変わりがないはず、それなのに、セックスがジェンダーだなんて非合理もいいところだ、と。

    まあヒトは性的二型がかなりはっきりしてる哺乳類だしねえ。DNA異なるというか、Y染色体以外はDNAは異ならない、っていうのもなんか不正確で、染色体が1本ちがう、ぐらい。

    でも、バトラーは、そういった身体的な差異が無い、と言っているのではないのです。人には、身体的差異はいろいろある。肌や眼の色、人種、性的指向、老若の違い、もって生まれた気質や性格、体格もさまざまです。それなのに私たちは、男/女の身体的差異がほとんどまったく意味を持たない状況や場合ですら、人を認識するのにまず、男/女という区切りを考えてしまう。そうした認識のあり方が、セックスすらジェンダーであるということの意味なのです。

    ここがわからん。バトラー様のあの箇所からこの解釈が本当に出てくるのかどうか。

    「男/女の身体的差異がほとんどまったく意味を持たない状況や場合ですら、人を認識するのにまず、男/女という区切りを考えてしまう」はわかるような気はするんだけど、具体例を示してほしい。具体例がないと私わからんのですよ。たいていの学生様もわからんと思う。

    ここでたとえば、「車の免許をとるときに生物学的な男女は関係ないはずなのに、公安委員会は男女で違うテストをする」とかそういうのがあるだろうか。これはありそうにない。でも、自働車教習所の教官は男女の違いを意識するかもしれんね。これは真面目な人は男女での統計的な運転の習熟の早さ遅さとか、無謀運転する傾向とか、どういうふうに教えるとわかりやすいかとか、そういうのを考えるかもしれんね。そういうことなの?

    ずっと昔にも書いたけど、私は繁華街で向こうから人が歩いてくるときに男女はけっこう意識しますね。男だと危いやつの可能性がある。危険だ。もちろん危険なやつもいれば危険じゃないやつもいる。そういう統計的な危険性の配慮とかのときに、「そいつが男か女か」をつかうのは、正当化できるときもあれば、できないときもあるだろうと思う。(たとえば会社が、女性はごく統計的にではあれ、早期退社しやすいというデータをもっていても、それを就活で使うことは正当化されにくいと思う。)

    まあ具体例がないとなんとでも言えるわけですわ。この具体例のなさ、なにがそれであり、なにがそれでないのかを曖昧にしたままにするっていうのがポストモダンとかのいちばん悪いところだと思う。例出してください例。例が出せない話はよくわかってないんです。学部学生様だって3回生ぐらいになると必ず適切な例だしてくれますよ。

    また、「人を認識するのにまず、男/女という区切りを考えてしまう」っていう我々の傾向を説明するのに、なぜ「セックスはジェンダーだ」みたいなことを言わねばならないのかも私にはわからない。上で牟田先生はセックスもジェンダーもちゃんと定義してないのよね。だからなんとでも言えちゃう。もし「セックスは生物学的な性差(チンチンとか)」「ジェンダーは文化的・環境的に思いこまれてる「らしさ」を指すって定義してれば、この文章のおかしさは明白なのに、そうはしないわけですわ。こういう文章は少なくとも学生様には読ませたくない。

    実は、このように男/女を絶対的な区分として考える考え方は、近代以降もたらされたものです。なぜかといえば、近代以降、「人はみな平等」となったから。身分差が絶対のものだった前近代社会では、人の違いは、まず、身分。身分内での男女の差はそのあとから。身分が低い者、低階層の者は男でも教育機会も自由もないが、身分が高ければ、女性は教育も財産も持てる。それが、近代以降、平等の概念が登場したからこそ、女/男の区分が強調されるようになったのです。帝国主義・植民地主義の時代には、「人種」が人を分ける「自然」なカテゴリーであるとする思考が、黒人を人間以下の扱いをする奴隷制を正当化したように、男女を異なるものとしてまず発想する思考は、近代以降の女性差別を正当化してきたのです。

    「人を認識するときにまずはわりと男女を意識することがありますね」って話が、「男/女を絶対的な区分として考える」にすべっていく。この「絶対的な区分と考える」の例もない。それにあてはまる例出してください、例。そして可能ならそうでない例も上げてもらえるともっとよい。

    どんな「絶対的な区分」を考えてるんだろう? 男は戦争に行けて、女は家にのこってる、とか? もしこういう例をあげれば、こんな考えかたが「近代以降にもたらされた」なんて馬鹿げた話をしようとする人はいませんわね。そもそも近代っていつから近代かわからんし。ヨーロッパに限っても、16世紀なのか19世紀なのか、なにも具体性がない。学者がそれでいいんですか。

    近代がいつかわからんけど、以前にだって「女性は〜できない」みたいなのたくさんあったんちゃうんかな。お寺に入れないとか。バトラー様と牟田先生は、なんか根拠もってるのだろうか。出せますか? 「男女の違いが(身分などの他の違いに比べて)相対的に重視され強調されるようになったのは近代以降である」だともうすこしもっともらしくなるかもしれんけど、それさえ立証するのはかなり難しいように思えるけど、ジェンダー社会学っていうのはそれでいいんでしょうか。歴史学者からの怒られが発生するのではないか。

    たとえば、最近読んだ『聖書、コーラン、仏典:原典から宗教の本質をさぐる』ておもしろい本では、コーランには生まれた子が女児だったら殺してしまったりする習俗があることが記録されていて、コーランはそれを禁じているっていう記述がありました。こういう話を前にして、社会学者たちはどういう意味で「近代以降」に絶対的区分になったとかってことが言えるんだろう?

    もう一回「自然」が出てきたけど、ここでの自然もわからんねえ。とくに「」をつけて独自の用法で使ってるって明示してるんだから、その「自然」ってなにかを説明する義務が文章を書く側にあると思う。

    このように考えると、「男女平等」という概念にも、違う意味がみえてきます。フェミニズムは、発祥以来、男女間の格差を解消し「男女平等」を実現することをめざしてたたかってきたわけですが、「男」と「女」の平等をめざす、というのは、そもそも、「男」「女」という別々のカテゴリーが存在するという前提に立ってしまっているのではないか。そのこと自体が、人間をまず性の区分で認識するという、近代以降つくられ女性差別を正当化してきた考え方そのものなのに。江原由美子が、「『男』『女』という『ジェンダー化された主体』が最初にあって、その両者の間で支配-被支配の関係がうまれるのでなく、『男』『女』としてジェンダー化されること自体が、権力を内包している」と論じている通り(『ジェンダー秩序』勁草書房 2001、25頁)、「男」「女」とあたかも人間が二種類であるかのように考えること自体が、抑圧を作ってきたのです。そもそも、「男」「女」は対称でもなんでもないし、「女」と、ひとくくりでくくれるような「女」はどこにも存在しないというのに。

    「「男」「女」とあたかも人間が二種類であるかのように考えること自体が、抑圧を作ってきたのです」はわかりにくい。もちろん、グループを抑圧するためには、そのグループがどういうものかを理解しておく必要がある。そういう意味で、男女に分けることは女性を抑圧するための基本的条件。

    でも、たとえば哺乳類を人間と人間以外の哺乳類に分ける、っていうことそれ自体は問題はない。問題なのは、人間と人間以外の哺乳類の間に大きな道徳的地位の差がある、と判断することにある。

    政治的参加や、幸福の配慮の問題を考えるときに、男女の違いをもちだして、女性(あるいは男性)は選挙権をもつ必要がないとか、それぞれの幸福の価値に違いがある、と考えるのは不正なのはまちがいない。でもそれは人間には生物学的な男と女という典型的な性的二形がある、という事実についての知識そのものがまちがってるわけではない。

    もちろん、我々の心理的な傾向として、なにかをグループに分けたら道徳的地位にも差があると考えやすい、っていうのはあるかもしれないけど、グループに分けること自体は中立であるように思う。ここはむずかしいな。

    こうしてみると、あたかも、男女を対等にするというフェミニズムの原点自体が、間違っていたということになりはしないか、それではアンチフェミニストの思うつぼなのでは、と心配にもなるかもしれません。
    でもだいじょうぶ、そうではないのです。

    フェミニストたちは(自分がフェミニストだとは考えない女性も)、現実に存在するさまざまな女性差別に怒り抗議をするとき、いつも、「では男女の性差がなくなればいいのか」「男女がどのような扱いを受ければ平等なのか」と問い返され、答えられるはずのない「差異か平等か」の二者択一を迫られてきました。そして、女性たちの中での対立をも生んできました。まさにこれこそ、「罠」だったのではないでしょうか。この罠を見抜き、「男」「女」のジェンダーカテゴリーをひらいていくこと(脱構築)で、私たちは新たな未来を構想できる—これがポストモダンフェミニストの提言なのです。

    ここで「性差」が出てくるけど、この性差はなんじゃいね。「らしさ」のこと? 上でいろいろ述べてきたことがここにどう効いてるのかわたしにはさっぱりわからんです。
    「ジェンダーカテゴリーを開く」も意味わからんし、それが「セックスはジェンダー」とどう関係しているかもわからん。「ジェンダーはいろいろあります」でいいんちゃうのかな。なにを言ってるのだ。

    女たちはさまざま。「女」とひとくくりされるわけにはいかない。しかし他方、現実に私たちは、「女」としてくくられて明白にも暗黙にもいろんな不利益を受けている。だから私たちは、女性差別に反対しながらも、めざすべきなのは、すべての女たち、さまざまな女たちの自由と尊厳、そして権利。それは、決して画一的なものではないし、ましてや「男」と一緒でいいなんて、そんな薄っぺらなものじゃない!

    わからん。ただのアジテーション? 難しいことをいって混乱させて同意させる攻撃? 私こういうの許せないです。

    「すべての男女の自由と尊厳」じゃないのかなあ。なんで「女」なの?脱構築ってどこいったんですか? まあ人がなんと言おうがみんな好きに生きたらいいと思う。そのためになんか難しいポストモダン理論は必要ない。そういうのが必要なのは特殊な人だけだとおもいますね。

    上の「差異と平等」ってのは1980年代のラディカルフェミニストたち(特にマッキノン)を悩ませた問題です。男女は同じっていったら女性特有の問題(妊娠就労その他)が見えなくなるし、男女は違うって主張しちゃうと「んじゃ違ってていいじゃん」になっちゃう、という問題。マッキノンの答は、同一か差異かではない、そうではなく、男性が女性を支配していることが問題なのだ!っていさましいやつですわ。上の牟田先生の文章はバトラー様というよりはそうしたマッキノン先生の議論を連想させるけど、バトラー様にもあるのかな。

    ものすごく好意的に読むと、マッキノン先生の立場の一解釈では、「女」と呼ばれるのは、必ずしも生物学的な女性ではなく、まさに「支配されている」「従属させられている」人間が「女」なのですわ。牟田先生はどうかわからないけど、このマッキノン解釈はわりと根拠があるかもしれないけど、いまは面倒だからまたあとで。それにこれはマッキノン先生の立場であってバトラー様ではない。でももしこういうことを主張したいのであれば、それはそれで明示してほしいですね。

    この「ジェンダー化され従属させられている者が女である」っていう解釈だと、上の牟田先生の「女に課されている不利益に抵抗しよう」「女性差別をなくせ」っていうのが当然のように意味をもってくるんだけど、これってふつうはこうは読めないですよね。

     こんなふうに現代のフェミニズム理論は、ジェンダーをめぐる新たな地平に私たちを招待しています。なんだか刺激的じゃないですか?

    わからんです。刺激的っちゃー刺激的ですが、わからなくてイライラして刺激的、ぐらい。堀あきこ先生はよくわかるわけなのだろうか。


    あ、バトラー様の原文検討しないとならんかったか。またあとで。

    これ読める人はすくないわよねえ。

    問題の箇所の直前、culturallyが「社会的」って訳されてるね。 文化的のほうがいいだろう。バトラー様の翻訳は私は質が低いと思う。あちこちで誤訳らしきものが見つかるけど、それ指摘している人々は見たことないですね。(私がちゃんと見たのはExcitable Speechの前半だけだけど、あれはひどい)

    「セックスの不変性に疑問を投げかけるとすれば、おそらく「セックス」と呼ばれるこの構築物こそ、ジェンダーと同様に、社会的に構築されたものである」とかわからんけど、このif は
    本当は「セックス(生物学的性差)っていうのは歴史的に不変であるってことがさまざまな研究によってくつがえされるってことになるんだったら、このセックスという人間の考えや言説によってつくりあげられた構築物は、「ジェンダー」ってのと同じくらい文化的に構築されたものってことになる」ぐらいだろうと思う。まあ「セックス」も「ジェンダー」も、どちらも我々のあたまのなかにあるっていう意味では同じです、ってことね。この意味では、他にも「地球」も「宇宙」も「ペンギン」もぜんぶ構築物なわけですわ。

    ファウストスターリング先生とかの研究が正しければ、なにが男女の生物学的性差であると考えられてきたかということ自体が時代によって変化しているので、我々の「セックス(性差)」という概念は文化的構築物ですってことになります、その点では「ジェンダー」と変わりません、ぐらいね。そりゃわれわれの頭のなかにある概念とか考え方とか言葉の内容とかは時代によって変わるので、そのいみでは「セックス」も文化的な構築物だわいな。あたりまえ。チンチンがついたりなくなったりするわけではない。そしてチンチンや生殖ぐらい基本的な部分についての考え方がどれくらい変わったかな? これも例がないからどのていどまで「生物学的性差」にしているかわからんよね。

    江原先生のを検討してみるがわからん

    https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits1996/11/11/11_11_62/_pdf

    経験科学的水準の議論においては、セックスもジェンダーも、具体的性差それ自体を指す。セックスとは、生物学的な根拠を持つ性別・性差(それ自体多様性を持つが)のことであり、ジェンダーとは、社会環境によってつくられる性別・性差のことである。したがって、この意味で「セックスはジェンダーである」という命題を理解しようとすると、「生物学的な根拠を持つ性別・性差は、社会環境によってつくられる性別・性差である」という意味になってしまい、到底理解不能な命題となってしまう。

    しかし、認識論的水準の議論においては、セックスとは、生物学的な性別・性差とされている「知識」をいい、ジェンダーとは、社会的文化的に形成された「性別・性差に関する知識」をいう。ここの意味で「セックスはジェンダーである」という命題を理解するならば、「生物学的な性別・性差という『知識』も、知識である以上、社会的文化的に形成されている知識である」という命題となる。この文脈では、セックスとジェンダーというカテゴリーは論理階梯が異なるようにずらされており、その点で「セックスはジェンダーである」という命題はレトリカルな命題であるような印象を受けるが、上記のように理解すれば全く理解不能な命題ではなく、むしろ当たり前で自明なことを述べているに過ぎないように思われる。

    なに言ってるかわからん。カッコの使い方になんかトリックがある。

    これ、特に後ろの方があやしいなあ。前の段落と同じように単純に書き代えるなら、

    生物学的な性別・性差とされている「知識」は、社会的文化的に形成されている「性別・性差に関する知識」である

    になって、私にはやっぱり前の段落と同じくらいおかしいと思える。「~とされている知識」がわからん。

    セックスとジェンダーはどっちもは知識なのか?そう使いたいんなら、それでもいいけど、ふつうに考えた場合1)なにが普通かはわからんけど、対象がない知識というのは理解しにくいと思う。、知識というのはなんらかの対象についての知識だろう。では江原先生の言う「セックス」はなんについての知識で、「ジェンダー」は何についての知識なんだろうか。「セックス」はセックスについての(文化的負荷を負って生物学的とされている)知識で、「ジェンダー」もやっぱり(文化的負荷を負っている)セックスについての知識か?んじゃおなじじゃん。トートロジー。

    あれ、おかしい。江原先生の「とされている」が気になる。

    生物学的な性別・性差とされている対象についての知識は、社会的文化的に形成されている性別・性差とされている対象についてのについての知識である

    と言いたいのかな。

    江原先生が言いたかったのは、

    認識論的水準の議論においては、セックスとは、社会的文化的に生物学的であるとされている性別・性差に関する知識をいい、ジェンダーとは、社会的文化的に形成された生物学的な性別・性差に関する知識をいう。

    と言いたかったのか?あれ、おかしい。

    なんというか、難しいのはわかるけど、こういう言葉の使い方ひとつろくにできない(し、解決の見込みもない)のなら、「ジェンダー論」とかってのはやめた方がいいんじゃないかな。生物学的性差と文化的性差ぐらいでいいじゃん。それならOKだしまだ生産性もある。あるいは哲学やっている人がちゃんと助けてあげるべきじゃないのか。(哲学やっているという人たちが助けることができるかどうかは知らないけど、もし哲学者がなんかできるならそういうことしかできないだろう。)

    この文脈にはあんまり関係ないけど、こういう馬鹿なことを考えたくないひとは、やっぱり、バトラーに『ジェンダー・トラブル』で引用されて脱構築されちゃってるウィティッグの原文を読んでみるべきだと思う。私の理解では、Wittigは「わしら、人を見るときに、まずどうしたってまず男か女か考えちゃうわよね」ってな実感をちゃんとした言葉で語っていて、別におかしくないしよくわかるし、鋭い指摘だ。

    わたしらの大部分(ほんとは全員と言いたい)は、人間(通りすがりでも)を見たときに、どうしても、まずそれが異性か同性かをまず最初に認識しようとするし、すぐに認識できない場合かなり気になり確かめようとする。私の場合は異性だとわかったら、すぐにどの年齢層にいるかとか性的に魅力的かとかをもっと意識する。むしろ、まず最初に性的に魅力的な生き物(つまり若い女)とそれ以外(ジジイ、オヤジ、おばあさん、子ども、猫、机、鉛筆、舗道、空、太陽など)とをまず分けて認識しているかもしれないほどだ。そういう意味で、女性には性的なマークがつけられてしまっている(少なくとも私には。まあ私がつけているのだが)。女性ならば中学生ぐらいまではよくわからんが、20代だと2才の差ははっきりわかる。40才近くなるとかなりおおざっぱになり、60才を越えるとほとんど同じと認識してしまう。同性でも自分にとって危険な近い年齢層はかなりとはっきり意識しようとするが、自分より歳がはなれるにつれてよくわからんようになる。ウィティッグのは、そういうのから逃がれられない私たちってはたいへんだ、って文章だと読んだ。興味あるひとは読んでみるとよい。(今手元にないので、そのうちもう一回読んでみようと思う。いや、勝手にこう読んじゃっただけかもしれんのでぜんぜん違ってたら許してください。)

    いったいバトラー読んでいる人間のうちの何割が自分でWittig読んでいるのか私は疑っている。おそらくバトラーがWittigの鋭い洞察になにを借りたのか、Wittigが本当はなにを言ったのかについて、バトラーのファンはほとんど興味がないのだろう。日本googleをひくと、ウィティッグの名前が必ずバトラーと組になって出てくるのがかわいそうだ。そういう風潮を私は憎んでいる。誰もバトラーがちゃんと引用してまともなことを言っているかどうか調べようとせず、「ジェンダーがセックスを規定する」(バトラー)とか書きまくり、伝言ゲームしているのだ。フェミニズムの没落、あるいは、いかにしてフェミニズムはジェンダー「論」とかいう学問もどきとなり退廃したか。

    あとバトラーのもうひとつのネタ本であるファウスト=スターリングのあの本が現在どういう立場にあるのかを、生物学まわりの他の本を読んで理解しているひとがどれくらいいるのかとかね。もちろんわたしはちゃんと理解しているとは言えないけど、ファウストスターリングのどこがおかしかったかぐらいはぜんぜんわからないわけではないと思う。

    さすがに『哲學』のシンポ論文二本がどっちもバトラーからはじまっていればこういうことを考えちゃうよな。

    References   [ + ]

    1. なにが普通かはわからんけど、対象がない知識というのは理解しにくいと思う。

    『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』

    楽しみにしていた『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』。期待してたけどもうひとつだった。半分以上がなんというか大きなヨタ話で占められていて、実質的な議論らしい議論をしていると思われる論文はほんの数本(山口論文と瀬口論文)。まあただ私が頭悪いからよくわからないだけだろうが。

    期待していた「科学」の話をまともに扱っているのは瀬口典子先生のしかない。小山エミ先生のは科学の話というよりはそれがどう誤って解釈され引用されているかっていうネガティブな話。いや、それを書かざるをえない面倒な立場であることには同情している。でも議論の重要な一部は、フェミが科学的知見や他の学問分野の成果をどう利用しているか(そしてバッシング派がどう利用しているか)って話なんだから、もっと科学や学問の話してほしかったなあ。

    瀬口先生ので気になるところメモ

    科学とは、実験や観察にもとづく経験的実証性と論理的推論にもとづき一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動であり、その結果としての体系的整合性をその特徴とする。(p.311)

    なるほど。ちょっと古いタイプの特徴づけなのかな。でもよかろう。しかしここから話はへんな方向に進む。

    科学的手法で導き出された説はもっとも論理的で、観察されたデータの客観的な解説がなされると、一般に思い込まれているようだ。しかし、じつはそうではない。科学的手法を使っても、かならずしも客観的で正しい結論を導くことができるとはいえないのだ。科学者も人間なのだから、科学にも多かれ少なかれ、直感や思い込み、その科学者の生まれ育った文化的背景など、主観が入っている可能性は高い。(中略)ある現象を説明するために立てた仮説にも、最初の段階で主観が入っているかもしれないし、研究者が所有している測定器具、または実験装置にも違いがあるし、論理の組み立てにも飛躍があるかもしれない。つまり、科学は絶対に客観的だとは言い切れないのである。(p.311)

    うーん、なんか私の直感が「この文章はへんだ」と叫んでいるのだが、よく分析できない。まず「客観性」ってのが瀬口先生がどういう意味で使っているのかがわからんからだな。

    おもいつくままに書いておくと、

    • 「客観的な解説」がわからん。「科学の命題はすべて仮説」という立場があると思うのだが、瀬口先生は「客観的」「正しい」には「仮説以上のもの」という含みをもたせているのだろうか。
    • ふつうは検証したり反証したりする仮説には直感でも思いこみでも主観でもなんでもはいっていてよいとみなされていると思うのだが、そこらへんはどうなのだろうか。
    • 測定器具や実験装置に大きな違いがあると困るだろう。実験の再現性はかなり大きいポイントなんじゃないのか。素人考えでは、科学という営みの特徴は、それが科学者集団によって相互監視のもとで行なわれるってことなんじゃないのかなあ。「客観的」ってのはそういう意味じゃないのかなあ。

    もうちょっと具体的に。澤口俊之の講演録なんか批判してもしょうがないと思う。どうでもいいけど。澤口のおかしいところをとりあげて、「澤口の講演内容には自己矛盾が見られる」という。

    「澤口は、「男と女の脳は生まれながらにして違う」と言いながらも、脳の原型は女で、男は男になる教育をしなければ中性化してしまうと述べている。男脳と女脳が「生まれながらにして」違うといっているのに、なぜか教育によって変わってしまう、つまり環境によって大きな影響を受けるといっている。これは論理的におかしくないか。」(p.312)

    少なくとも論理的にはおかしくないと思う。もし「生まれついたまま他のものの影響を受けない」とあきらかに経験的に偽であることを主張しているのなら矛盾していることになるかもしれんが、引用のままならば「自己矛盾」と呼ばれるものではないだろう。だいたいこの講演は日本会議兵庫県本部主催の教育シンポとかってものの講演録かなにかで、どうすりゃ入手できるのかもわからん。こんなもの叩いてもしかたなかろうに。

    p.312-313の澤口の講演のほかの欠点の指摘はもっともだと思うが、どれも知識不足や(意図的に?)誤解をまねく表現で、「自己矛盾」にあたるタイプのものはみあたらない。

    澤口のみならず、このような自己矛盾は、保守派の論理に見られる第一の特徴だ。

    とかってのは言いすぎだろうし、へんな一般化だ。

    古人類学は、研究調査をおこない、その結果と解釈を記し、進化の事実と過去の人類の行動を客観的に正しく伝えてくれていると世間一般には思われている。しかし、多くの人類進化モデルはけっして客観的ではなく、現代の男と女に関する固定観念がそのまま当てはめられている。過去に人類進化史が、男性人類学者の偏見のうえに構築されてきたのはあきらかであるという認識は、現代の古人類学では主流となっている。(p.314)

    いいたいことはわかるし、まあいいんだけど、なんか奇妙な文章だよな。現代の古人類学で主流の考え方も客観的でなくて偏見にとらわれているとかってことはないんだろうか。

    まあ先に進む。読みどころはp.315からの「人類進化史モデルにおけるジェンダー・バイアス」。瀬口先生はここらへん専門であろうし、やはり一番得意なところを読みたいものだ。

    • 60年代の「マン・ザ・ハンター」モデル → 70年代アイザックの「食物配分の起源」モデル→80年代のラブジョイ「男性食料供給説」
    • 70年代の「ウーマン・ザ・ギャザラー」モデル

    が対立していていたらしい。もっとも私にはそれが実質的にどう対立しているのかがよくわからん。どの説も男女の間に性役割分業があったという主張をしているように思える。性分業がなかったとか、進化の過程で性分業はなんの役目も果たしていないかもしれないということになればけっこう驚きだが、そういうわけでもないらしい。んじゃ、どちらの性に注目していたかの力点が違うだけなんじゃないのか。もちろん、その注目の仕方に研究者の性バイアスや文化的バイアスがあったのはまちがいないだろうし、またもちろん人類が生存したり進化したりするのにどっちか一方の性だけが重要な役割を果たしていたなんて考えるのはあほらしいのはみとめるが。ダーウィンだってメスの好みが動物の進化に大きな影響を与えたろうって憶測しているじゃないか。

    「90年代になると・・・それまでのように女性を無視した進化説は訂正されてきた。女性も人類進化を担った一員として登場しはじめたのだ」p.320、

    「男らしい・女らしい行動、性別役割、そして社会的・文化的な性のありようが、狩猟をしていた遠い昔から構築され、遺伝子に刷り込まれていったという説明には、現在の古人類学の主流から見ると、まったく信じられていないモデルが使われているのだ。」(p.322)

    と主流派を強調するのだが、それがどういう立場なのかさっぱり説明されていないのはいったいどういうわけだ。古人類学の主流とはなにか?わたしがなにか読みまちがいしているのか。

    もうちょっと好意的に読むと、man the hunter仮説とかは古くさい仮説で、性差や性別分業があったとしても、そんな単純なものではありませんよ、もっと複雑なものだったろう、ってことなのかな。それならわかる。しかし人類のように霊長類としてはけっこう性的二型がはっきりしている動物で、性別分業などがなかったろうと考えるのは無理に見える。まあそういうことを主張しているわけではないだろう。わからんけど。

    脳の重さの話はおそらくトリヴィアルでつまらんように見える。続く脳梁の性的二型、空間認知能力と言語能力の性差、性ホルモンの影響、とかどれも「まだ十分検証されてませんよ」程度の話でつまらん。なんでこんなにつまらんのだろうと思っていると、

    「近年、人類の脳容量の増加と関連して、高度な精神能力や脳細胞の成長に係わっている遺伝子がX染色体上にあるという研究が発表されはじめた。・・・この一連の研究によって、生物学や遺伝学は、女が男より劣っていると信じる連中に挑戦状を叩きつけたことになる」p.330

    遺伝学者は、人間性の個性的な精神能力の根源をY染色体ではなくX染色体に見つけたのだ。p.331

    で俄然おもしろくなる。ああそうか、そういうことを言いたかった人なのね。道理でそこまでつまらんと思ったよ。

    高い知能と社会的に生活するために必要な技術を獲得することこそが、人類という種にとって重要であった。そのために、そういう能力が必要だったからこそ、脳の発達に必要な遺伝子がX染色体上に速やかに進化していったのだろう。p.331

    他の染色体の上にも知的な能力にかかわる重要な遺伝子はたくさんあると思うのだが。だいたい最近のそういう研究だってまだ仮説とも言えないものだろうに。脳の重さや脳梁の形や認知能力なんかについて「まだ検証されてない」「バイアスがあるかもしれんぞ」と主張する人が、この程度の仮説を大きくとりあげるってのはなんかおかしくないか?それに「種にとって」重要だったという書き方が、ふつうの進化論理解と違っていて気持ちわるいぞ。

    人類という種が幅広い優れた認知能力の恩恵を受けているのだから、一方の性が特定の能力に優れているだの、一方の性だけがもっと知能が高いだの、一方の性だけが人類進化に何らかの寄与をした、などという主張はさっさと捨てるべきであろう。(p.332)

    わからん。まず、瀬口先生の仮想論敵である「保守派」にそんなこと主張しているひとびとがどの程度いるのか。第二に、科学の仮説はあくまで仮説なんで、へんなこと言っている奴にはいつでも反証をつきつければよろしい。

    生物学的性差は、たしかに存在する。だが、これらの違いの意味は、まだあきらかにされていないものがほとんどであり、たとえわかったとしても、霊長類に進化する以前に確立されたものである可能性が高い。たいへん古い時代に進化した痕跡かもしれない。それは人類を人類たらしめる重要な精神能力とは無関係かもしれない。そういった古い痕跡を取り上げて、類型的な「男らしさ、女らしさ」をこじつけることは、論理の飛躍だ。さらにそれを理由として女性の社会進出を拒むなどして、差別を助長してはならない。(p.332)

    何重かの意味でミスリーディングだと思う。

    上の文章での性差の「意味」とはなにか? なにを考えているんだろう。性差の「起源」や進化論的説明のことだろうか?

    さらに、そういう「意味」がわかったとして、さらに、それがたかだか20~2万年程度(へたしたら農耕以後の1万年程度)の間に進化してきたとしても、社会的な差別を正当化する理由にはならんのは当然のことではある。つまり、性差の起源の古さは問題ではない。

    逆に、いかにその起源が古い性差であっても、現在重要な違いになっているのであれば、社会政策とか作る場合には、一定の考慮の対象にしなければならん。これは差別の理由にするとかではなく、たとえばもし集団としての男女の間で「出世欲」に(統計的に)性差があるなら、(統計的な)「ガラスの天井」の原因や、ポジティブアクションの是非の話は検討しなおさなきゃならなくなる可能性があるってことにすぎないけど。

    あと気になった点箇条書で追加。

    • この文脈(バッシングとか)で性差が問題になるとき、知的な能力の差が云々されるのはほとんど見たことがない。実際「知能」なるものが計れるかってのはほんとうに難しい問題だし(私はそういうのは存在せんのだ、とまでは考えない)、ほとんど同じ遺伝子もってるのにSRYごときで複雑な知的な能力が左右されるってのはなんか信じがたいし。わからんけど。
    • 空間把握だの言語運用だのが引きあいにだされるのは、実験室であつかいやすいんでわりと早くから心理学の方で成果が出てるからだろう。
    • 本当に性差で関心を引いているのは、攻撃性(それに支配欲とか)や性行動の傾向(カジュアルセックス願望とか強姦傾向とか)や「母性」とかそこらへんのはず。空間把握とかの話は、「空間把握のような基本的な認知でさえもこれくらい差があるんだから、(より経験的に明らかであるように見える)性行動の傾向とかの差にははっきりした生物学的基盤があるはずだ」という予想・推測・憶測を引きだすために使われるんだと思う。これ形だけでも扱ってくれないと不満。

     

    まあとにかくここらへんの議論を扱ってくれるのなら、澤口先生ではなく新井先生か田中冨久子先生あたりの議論が含意するものを考えてみてほしかったのだが。あとピンカーやDavid M. Buss。彼らはバックラッシュしている「保守派」じゃないから論敵じゃないのだろうか。しかし、論敵はできるかぎり強力な立場に再構成してあげてから叩くもんだ、と思う。ポパー先生はそうしているよ、とブライアン・マクギーが言ってました。

    あと短評

    宮台論文。なに言ってるか私にはわからん。かっこつきの言葉が多くて。

    斎藤論文。これもなに言ってるかさっぱり。ラカンとかわからんし。でもわからなくてもいいです。

    鈴木論文。社会学ってのはこういう学問なのかなあ。

    後藤論文。読む気になれない。

    山本・吉川論文。なぜこの人びとはいつも藤子不二雄なんだろう?陳腐だけど、いちおうこういう注意書きが必要なんだろうか。

    澁谷論文。まあそうですね。

    小谷論文。テクハラですか。

    マーティン・ヒューストン。資料として貴重。おそらくこの本で
    一番価値がある部分だろう。

    山口論文。特に文句なし。よく調べてるし考察も鋭い。みな、大きい話はしなくていいから、こういう感じで書いてくれればいいのに。

    小山論文。同主旨の文章をblogで読んでたから印象が薄い。

    長谷川論文。現場の話がこれだけだってのが編集方針のあれさを示していると思う。

    荻上論文。政治の話はよくわからん。ちょっとナイーブか?

    上野・北田対談。よくわらかん。だいたい上野だの宮台だの、いいかげんな対談ですまそうとする編集方針がだめだめ。

    コラム・用語集ものはよく書けてると思う。

    むずかしい話がわからないのは私が悪いです。はい。

    まあ全体を読んでみて、一連のバックラッシュ騒ぎの奇妙さは、「バックラッシュ」している側にほとんどちゃんとした論者がいないことだよな。同じようなことを同じように主張している人びとがたくさんいるように見えるだけで、実は層が薄い。いつまでたってもマネー対ダイアモンドとかやってるし。情報ソースが非常に限られているんだな(ここらへんが組織的な運動ではないかと疑われる由縁)。だから好意的に再構成しようとしてもうまくいかないのかもしれん。しかしこれは「ジェンダーフリー」の側にもちゃんとした論者はほとんどいないってのと対応しているようにも思える。なんかここらへんの本を読んだりするのは時間の無駄かもしれん。

    『男と女の倫理学』

    前に「なんかいろんな意味でひどい本だな。」と書いたまま放っておいたが、それじゃあまりにも一方的なので、どう「ひどい」と思ったかぐらいは書いておかねばなるまい。

    たとえば山口意友による第9章「「男女平等」という神話」をとりあげてみる。この論文は論拠のはっきりしない「ジェンダーフリー」という思想批判しているのだが、どこのだれが山口自身が批判するような「ジェンダーフリー」を提唱しているかまったくわからない。出典がまったくないのである。

    かろうじて男女共同参画基本法をとりあげて批判しているのだが、第四条をとりあげて、

    確かに、生まれつきの性は、生物学的にどうしようもない男女差であるが、それ以後の後天的なものは男女ともに中立的でなければならないとするのが同法の主旨であり、これは「男女は同じである」という平等観に基づくものである。(p. 191)

    そして、

    つまり、あらゆる分野において男女共同参画の基本理念が示す「中立性」を国策として推進せねばならないとされるのである。こうした点から、従来の男女間の性別役割分担や、男らしさ、女らしさといった文化的な性差をなくしてしまえというジェンダーフリー運動が公共機関を通して堂々と行なわれるようになったのである。(p.191)

    しかし、実際の第四条は

    ・・・社会における制度又は慣行が、性別による固定的な性役割分担を反映して、男女の社会における活動の選択に対して中立でない影響を及ぼすことにより、男女共同社会の形成を阻害する要因となるおそれがあることにかんがみ、社会における制度又は慣行が男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできる限り中立なものとするように配慮されなければならない

    であるわけで、どこにも「後天的なものは男女ともに中立でなければならない」とか「男らしさ女らしさをなくせ」なんてことは書いていない。たんに、「男女の選択の幅は同じ程度に保証できるような制度や慣行にしましょう」と言っているだけだろう。(まあもちろん法の「裏」の意味はわからんわけだが)

    おおげさにプラトンだのアリストテレスだのをもちだして、「平等」には「無差別な平等」と「比例的な平等」の二種類があるとか簡単に議論したあとで、

    周知のように、フェミニズムは「男女は同じ(イコール)である」という無差別的平等観に則り、両者の文化的差異、すなわち「質的差異」を取り払うべく、ジェンダーフリーを主張するに至る。(p.195)

    いったいどこの誰が言っているのかわからないことを「周知のように」ではじめるというのはどういうことだろうか。そういうことを言っているフェミニストもいるのかもしれないが、とにかく出典ぐらい明らかにしてくれないと山口の主張の妥当性が判断できない。学生に「出典をはっきりさせなさい」と教えていないのだろうか。そして

    あえて男女間の質的差異に対しても「平等」を適応(ママ)させようとするのであれば、無差別な平等だけでなく、それぞれの性に応じたあり方があってもおかしくない。「男には男らしい言葉遣い、女には女らしい言葉遣い」を要求することが質的な差異を意味するにしても、それは決して不平等を意味するものではなく、それは「質」における比例的平等というべきものである。」

    (「適応」は「適用」の誤植か?)

    いったいこれがプラトンやアリストテレスとどう関係があるのかさっぱりわからない。たしかに「その人に応じたものを」が平等(の一つの意味)や正義(の一つの意味)のポイントだとしても、「男は男らしく」がそれとどう関係しているのか。

    「男は男らしく」の前の方の「男」は生物学的な性差を指しているのだろう。後ろの「男らしい」は名古屋の先生の呼び方では「分厚いthick」二次評価語で、「はっきりしている、勇気がある、人前で泣かないetc」という記述的内容を豊富に含んでいる。問題は、なぜ性別が男性であればそういう分厚い意味で「男らしく」なければならないのか、そうあることが望ましいのか、というところにある。そうでなければ「男は男らしく」はほとんど同語反復で無意味な主張になってしまう。

    と、書いて読みなおしたら、「男は男らしく」ではなく、「男には男らしい言葉遣い」だった。(はずかしい。やっぱり私は人様を批判する資格などない) しかしなぜ「言葉遣い」なのだろう。それがフェミニズムとどういう関係があるのだろうか。それがあまりにもわからないから誤読したのだろう(と自分を慰める・・・)

    まあそれでも主旨はかわらん。なぜ性別男は「男らしい言葉遣い」(だぜ!)をすることが望ましいのか?

    プラトンの平等だのアリストテレスの正義だのってのはあまりにも形式的すぎて、実質的内容がないから、こういう文脈ではほとんど役に立たないのだ。

    私自身はフェミニストではないし、多くのフェミニストはやっぱりまちがっていると思うわけだけど、ちゃんと批判対象を明白にしないでフェミニスト叩きをしてもしょうがないだろうに。