若い女子はルソー先生や秋元康先生ではなくウルストンクラフト先生の言うことを聞いたほうがいいかもしれない

私の考えているセックスの哲学史では、あのふつうは偉大だとされているルソー先生はスケベなレイプ魔みたいな人なんですが、それはその次の世代の女性にははっきりわかっていたんですよね。

そのわかってた人、メアリ・ウルストンクラフト先生についてはこのブログでほとんど何も書いてないみたいで驚きました。関連する授業ではけっこう大きく扱ってるし。っていうか女性思想家が表舞台に出てくるのはこの先生からぐらいですよね。

ルソーは次のように言明する。女性は、瞬時といえども、自分は独立していると感じてはならないと。そして、女性は、生まれつき持っているずるさを発揮するためには恐怖によって支配されるべきであり、自分を欲望の一層魅惑的な対象にするために、すなわち、男性がくつろぎたいと思う時にはいつでも彼のもっとも優しいお相手になれるように、コケティッシュな奴隷にならねばならないと。彼は更に議論を進め──自然の命ずるところに従ったふりをして──次のことをほのめかす。誠実と不屈の精神は、すべての人間的美徳の基礎であるが、女性の性格については、服従を厳しく叩きこむことが大事な教育なのだから、誠実や不屈の精神はほどほどに教えるべきだと。

これに対応するルソー先生の著作はもちろん『エミール』。

女性の教育はすべて男性に関連させて考えられなければならない。男性の気にいり、役に立ち、男性から愛され、尊敬され、男性が幼ないときは育て、大きくなれば世話をやき、助言をあたえ、なぐさめ、生活を楽しく快いものにしてやる、こういうことがあらゆる時代における女性の義務であり、女性に子供のころから教えなければならないことだ。(『エミール』)

かっこいいっすね。ウルストン先生はこれを思いっきり張り倒します。

何と馬鹿げたこと! 男性の高慢と好色のために、この問題の上には、こんなにもひどく煙が立ち込めてしまった。これを吹き払うに足りる程の知力を持った偉大な男性が、いつの日にか出現するであろうか! たとえ、女性には生まれつき男性には及ばない点があるとしても、彼女たちの美徳は、程度においてはともあれ、質においては男性と同じでなければならないのだ。(pp. 55-56)

この「男性の高慢と好色のために」がいいっすね。ウルストンクラフト先生『高慢と好色』ってフェミニスト小説書けたかもしれませんね。原文はどうなってるんだろう。

What nonsense! When will a great man arise with sufficient strength of mind to puff away the fumes which pride and sensuality have thus spread over the subject!

いかにもエッチな感じ

こうですか。「ナンセンス!」。まあルソー先生の好色と高慢を見抜いているのはさすがです。

このあと、とにかく人間の「美徳」っていうのは強弱の違いはあってもどの美徳も男女ともに求められるものなのだから、男女同じように教育するべきだ、というまったく正しい主張を先生はなさっておられます。

でもこの時代、「でもやっぱり女の子って恋愛に興味あるっしょ?サインコサインより目の大きさ、アインシュタインよりディアナアグロン」っていう人はいたわけですわね。それに対して先生はこう言うわけです。

恋愛に重きを置かずに論を進めるのは、情操や繊細な感情に対して大逆罪を犯すものであることは承知している。だが私は、真理の持っている単純な言葉を語りたいし、心よりもむしろ、理性に話しかけたい。この世から恋愛をなくそうと説得に務めることは、セルヴァンテスのドン・キホーテを追い出すことであり、ドン・キホーテと同じように常識に背くことを行うことになろう。しかし乱れ騒ぐ情欲(パッション)を抑えようとする努力は、そしてまた、次元の高い能力を下位に置いてはならぬことを証明しようとする努力は、あるいは、知性が常に冷静に保持すべき大権を奪い取ることは許されないことを証明しようとする努力は、それ程暴論とは思えない。

そりゃ恋愛とか性欲とかは強いもので、そういう感情や欲求を抑えるってのはむずかしいけど、パッションばっかじゃだめですよ、と。ここらへん啓蒙時代を感じますね。恋心やエッチな好奇心にふりまわされてはいけません。

青春は、男性にとっても女性にとっても、恋愛の季節である。けれども、思慮に欠けるこうした享楽の時代においても、人生のもっと重要な時代——その時には、熟慮が興奮に代って登場する——のために、準備がなされなければならないのだ。それなのに、ルソーや彼を見習った大抵の男性著述家たちは、女子教育の趣旨はひたすら一つの点——男性を喜ばせる女になること——に向けられるべきである、と熱心に説いてきた。

人生って、現代の女性にとっては80年以上あるけど、恋愛とかに頭いかれてる時期っていうのはそれほど長くないはずだ、青春とかってのよりもっと大事な時期、もっと大きなことをなしとげる時期があるので、教育っていうのは若いときの恋愛とか就活を目指したものではなく、もっと先の(仕事も仕事以外のも)キャリアを考えた教育をしなければならない、というわけですな。まったくお説もっとも。

このような意見の支持者で、人間性について何らかの知識を持っているような人と議論しよう。彼らは、結婚は生活習慣を根こそぎ変えうるものである、と想像するのであろうか?ただ男性を喜ばせることだけを教えられてきた女性は、彼女の魅力が落日の夕日の如く沈むことを、いずれ知るであろう。夫と毎日鼻を突き合わせてばかりいる時には、また女盛りが過ぎ去った時には、自分の魅力が夫の心をあまりつかむことができなくなるということを、やがて知るだろう。その時になって女性は、他人に頼らず自分で楽しみを見出していくために十分な、また自分の潜在能力を磨くためにも十分な、本来のエネルギーを持てるであろうか?持てないとなると、別の男性を喜ばせようと試みると考える方が、もっと合理的ではないであろうか?そして新しい愛を獲得する期待から生まれた感情の中で、彼女の愛や自尊心が受けた屈辱を忘れようと考える方が、もっと合理的ではないであろうか? 夫が自分を愛してくれる人ではなくなった時——その時は必ずや来るであろう——には、彼を喜ばせたいという彼女の願いは暗礁に乗り上げるか、あるいは、悲嘆の源となるであろう。そして恋愛、恐らく、あらゆる情熱(パッション)のうちで最も移ろいやすい愛は、嫉妬や空しさに席を譲るのである。

ここがいいんですよね。誰かを喜ばせることだけを教えられた人は、その誰かあんまり喜ばなくなってしまったら、しょうがないから別の誰かを喜ばせようとするだろう。これは行動分析学とかで言う「強化」の原理ですね。誰かに喜んでもらのはよいことであり楽しいことであり満足いくことですから、喜ばせましょう。ただ、美貌やエッチな能力だけで他人を喜ばせつづけるのはかなり難しいので、いろいろ工夫も必要でしょうな[1]ルソー先生も嫁は美人でない方がいい、って言ってるし。。それに次々に相手を変えて喜ばせていく、というのもありかもしれんし。少し前にうしじまいい肉先生が、「私はいつも上の世代と遊んでいるから、50才になったら老人ホームの70才の男性を喜ばすつもりだ」(大意)というのを書いていて、これはこれですばらしいと思いました。ただちょっと出典見つからんな。

私は今、何かの信念、もしくは偏見によって抑制された女性について語る。このような女性は不義密通というようなことは大嫌いであろうが、それにもかかわらず、彼女たちだって夫からひどく冷淡にあしらわれているのがはっきりした時には、他の男性からちやほやされることを望むのだ。そうでなければ、夫と意気投合した魂が享受した過ぎし日の幸福を夢見ながら、毎日、毎週を過ごし、ついには、彼女たちの健康は蝕まれ、精神は不満のために傷つくのだ。そうだとすると、男性を喜ばせるという大変な技術を学ぶことは、そんなに必要な学習でありえようか?それは、ただ情婦にとって役に立つだけである。清純な妻や、真面目な母は、人を喜ばせる能力は彼女の美徳を磨くことによってのみ生まれる、と考えるべきであり、夫の愛情を、彼女の仕事を容易にし彼女の人生をより幸福なものにするための励ましの一つとしてだけ考えるべきである。——しかも、愛されていようが無視されていようが、彼女の第一の望みは、自分自身を尊敬に値するものに成長させることであって、幸福のすべてを、彼女と同じように弱さを持っている人に賭けてはならない。(pp.58-60)

てな感じですばらしいっす。

まあこの時代、女性向け小説とかすごく流行ってたんですわ。ルソー先生だって『新エロイーズ』っていう当時のベストセラーもってたし。これは身分の差恋愛ありの不倫よろめきかけありの小説ですね。(岩波の古い訳がありますが普通の人は読んでもおもしろくないと思う)

ウルストンクラフト先生は、小説とかエッチなことや人間の感情みたいなのしか書いてないから読書としてはあんまりよくない(だめだとは言わないが)、だから哲学書(ここでの哲学は学問全部、物理学とかも含む)と歴史書を読め、みたいなことを言ってます。

ていうわけで、ディアナアグロンじゃなくてアインシュタインしますか[2]でもこういうのもこれはこれでどうだろう。https://lite-ra.com/2016/04/post-2157.html 。まあそうもいかんですかねえ。


これ書いてみたいのは、最近中公新書の『マリー・アントワネット』を読んで、ウルストンクラフト先生が指摘している女子教育の問題というというのはまさにマリアンさんたちの問題だったのだな、と気づいたから。人を喜ばせることを学び、それが自分にできるなら、人を喜ばせたいっていうのは当然の欲求な気がします。そしてそれしかできなかったら、なんとかして喜ぶ人を見つけたい。世界で一番喜ばせがいがあるはずの王様が喜んでくれなかったら、貴族仲間喜ばせたいだろうし、国民も喜ばせたいだろう。もし自分がいるだけで喜んでくれるなら、フェルセンも喜ばせたいですよね。ウル先生はマリアンさんのこととかある程度知ってたろうしね。それはまわりにある問題だった。まあウル先生はそうとうキレてる人だったのであれだったですが。そういうの考えつつ読むとおもしろいです。


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1ルソー先生も嫁は美人でない方がいい、って言ってるし。
2でもこういうのもこれはこれでどうだろう。https://lite-ra.com/2016/04/post-2157.html

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