詭弁と誤謬推理に気をつけよう(1) 宇崎ちゃんポスターの場合 (宇崎ちゃん問題(1))

『宇崎ちゃんは遊びたい』とコラボした献血ポスターについて、フェミニストの牟田和恵先生が、各自治体のガイドラインを示して、ポスターはガイドラインに反した性差別であると主張しています。それに対してはすでによい論評がいくつか出ているので [1]「「宇崎ちゃんは遊びたい」×献血コラボキャンペーンの絵は過度に性的なのか?」「宇崎ちゃんを採用した赤十字は現実的」 私が書くべきことはほとんどないのですが、一つ、大学での教育的な点から書いておきたいことがあります。これは続きものになるかもしれない。

ゲンダイの文章は改ページが多くて見通しが悪いので、冒頭から、途中の、ガイドラインに反しているのは明らかだと主張しているところまで引用しましょう。

日本赤十字社が献血を呼びかけるためにweb漫画とコラボで作成したポスターがネット上で論議を呼んだ。今回使われたのは写真の通り、幼い表情で、巨大といってもいいような乳房を強調するもの。「宇崎ちゃん」という名のキャラらしい。

日本事情に詳しい米国人男性が英語で、過度に性的な絵で、赤十字のポスターとしてふさわしくない、とツイッターで発信(10月14日)、日ごろから女性差別問題について活発な発信をしている女性弁護士がそれに同意し「環境型セクハラ」と批判を続けたところ、「表現の自由だ、表現を規制するのか」「自分の基準で勝手なことを言うな」「たかが絵なのに文句を言うな」等々の、ほとんど罵倒と言ってもよいようなものも含めて、非常に多くの反批判を受けた。

私自身もこの件で複数回ツイートしたが、いずれもリツイートや「いいね」を多数いただいたものの、上記と同趣旨のリプライも山ほど浴びた。

改めて、何が問題なのか

結論から言えばこの件は、議論する以前に答えは出ている。

女性差別撤廃条約(1979年国連採択、85年日本批准)はジェンダーに基づくステレオタイプへの対処を求めており、日本政府への勧告でもメディアでの根強いステレオタイプの是正を重ねて求めている。

たとえば第4回日本レポート審議総括所見(2009年)では、勧告の項目「ステレオタイプ」に、「女性の過度な性的描写は、女性を性的対象としてみるステレオタイプな認識を強化し、少女の自尊心の低下をもたらす」と警告している。

男女共同参画社会基本法(1999年制定)の下で策定された「男女平等参画基本計画」(2000年)でも「メディアにおける女性の人権の尊重」が盛り込まれ、2003年には内閣府の「男女共同参画の視点からの公的広報の手引き」でこれを「地方公共団体、民間のメディア等に広く周知するとともに、これを自主的に規範として取り入れることを奨励する」としている。

同じ趣旨で各地方自治体でもガイドラインを策定しているが、たとえば、東京都港区は、

「目を引くためだけに『笑顔の女性』を登場させたり、体の一部を強調することは、意味がないばかりなく、『性の商品化』につながります」「(性の商品化とは)体の一部を強調されたり、不自然なポーズをとらされることで、女性の性が断片化され、人格から切り離されたモノと扱われること」(東京都港区「刊行物作成ガイドライン「ちょっと待った! そのイラスト」、2003年)

としている。

最近のものでは埼玉県が、自治体のPR動画やイベントポスターなどで過度に性的な「萌えキャラ」等が問題となっている事態を踏まえて、女性を性的対象物として描くことに注意喚起し、「人権への理解を深め、男女共同参画の視点に立った表現をすることが一層重要となっています」(埼玉県「男女共同参画の視点から考える表現ガイド」(2018年))としている。

今回のポスターはこうしたガイドライン等に抵触することは明らかだろう。

「明らかだ」っていうんですが、本当に明らかでしょうか。私こういうタイプの文章見ると混乱してしまうんですよね。

牟田先生の上の引用での主張を、簡単にまとめると、「宇崎ちゃんは幼い顔でおっぱいが大きく描かれている」「宇崎ちゃんは過度に性的だと米国人男性が言った」「国連はメディアのジェンダーステレオタイプの是正を求めている」「男女平等参画基本計画ではメディアにおける女性の人権の尊重を求めている」「自治体がいろいろガイドラインを定めている」ぐらいですよね。最後の埼玉のを使うと

a. 埼玉のガイドラインは女性を性的対象物として描くことに注意喚起している
c. それゆえ今回のポスターは埼玉のガイドラインに抵触している

とかって形になっているわけです。なんかおかしいですよね。大学の授業なんかでは、論証というのは三段論法が基本だ、みたいな話を聞いていると思います。

a. 人間は死ぬ
b. ソクラテスは人間である
c. それゆえソクラテスは死ぬ

こういう形ですよね。実は上の牟田先生のやつは、省略三段論法とか隠された三段論法といわれやつで[2]省略三段論法自体は特に詭弁でも誤謬推理でもないです。、本来は、

a. 埼玉のガイドラインでは女性を性的対象物として描くことは不適切だ[3]実際の文言では「注意喚起」しているにすぎません。
b. 宇崎ちゃんポスターは女性を性的対象物として描いている
c. したがって、埼玉のガイドラインでは宇崎ちゃんポスターは不適切だ

という形になっているはずなのです。牟田先生が「明らかだろう」っていってるのはぜんぜん明らかではなく、「宇崎ちゃんポスターは女性を性的対象物として描いている」という牟田先生自身の論点や主張が明示されておらず、暗黙に了解されているにすぎない[4] … Continue reading。そしてこれこそ本当の論点のはずなのです(性的対象として描くことが不適切なこと、あるいは悪いことであることを認めるとして、ね)。

国連の「女性の過度な性的描写」の方を見ても同様ですね。

a. 国連は女性の過度な性的描写には問題があると主張している
b. 宇崎ちゃんポスターは過度な性的描写である
c. 国連は宇崎ちゃんポスターには問題があると主張する(だろう)

という形になるはずなのに、宇崎ちゃんが過度な性的描写であるという指摘がない。牟田先生は、あちこちのガイドラインが過度な性的描写には注意をうながしている、ということを列挙しているにすぎず、そのガイドラインの根拠についてもはっきりしない[5]そもそも献血ポスターと自治体のガイドラインの関係もよくわからない。 https://togetter.com/li/1425063 参照。。宇崎ちゃんは過度に性的なのだろうか。

これ、注意深く読むと、冒頭で「米国人男性が(宇崎ちゃんポスターは)過度に性的な絵で赤十字のポスターとしてふさわしくない、とツイッターで発信、女性弁護士がそれに同意」ということが言われていますが、牟田先生自身は「ポスターは過度に性的な絵だ」ということを主張・立証していません。

もしかしたら

a. 米国人男性と女性弁護士が共に言うことはなんでも正しい
b. 米国人男性と女性弁護士は共に「ポスターは過度に性的だ」と言った
c. したがって「ポスターは過度に性的だ」は正しい = ポスターは過度に性的である

とかそういう三段論法も隠されているのかもしれない。こうなるとすごいっしょ。まあ隠された三段論法の隠された前提にどんなものがはいっているかは推測するか質問するしかない。

『自由論』や『功利主義論』で有名なJ. S. ミル先生は、論理学者でもあって(というか、こっちの方が本職で重要)、『論理学体系』という非常に立派で重要な本を書いてます。いま、論理学っていうとA → B、A、したがってB、とかそういう記号でやるやつを連想する人が多いと思うんですが、ミル先生の「論理学」はそういうのも含んでますが、科学的推論というのはどのようにしてなされるべきか、とかそういうもっと広い範囲を扱った本ですわ。まあいまでいう科学哲学みたいなのも含んでる。ていうかまんま科学哲学。

この本の第5巻がまる1冊分「誤謬推理」(Fallacy、虚偽、詭弁、誤謬的思考)[6] … Continue readingにあてられていて、ここはちょっと難しいけどとてもおもしろい。いろんなタイプの誤謬推理が分類されて、大量の哲学者やら科学者やら迷信やらがその実例としてあげられてます。そのうち新しい翻訳が出るらしいので楽しみにしておいてください。

そのなかで、一般の議論では三段論法ははっきり明示されることはごくすくないということも指摘されてます。日常的な議論でも科学的な議論でも、三段論法みたいなのを明示する必要はさほどないんですわ。たいていの場合には二つの前提のどっちかは明白だし、いちいち書いてたら煩雑だし。そもそも三段論法というのは新しい知識を生みだすものではないのです。ソクラテスが人間だからいずれ死ぬのはだれでもわかっていて、わざわざ三段論法の形にする必要はない。

ミル先生に言わせると、

三段論法の規則というものは、人に自分の結論を主張しつづけるために弁護しなければならないこと全体を自覚させるための規則である。人は、ほとんどどんなときでも、三段論法に勝手に偽の前提を入れ込んで、自分の論証を妥当なものにすることができる。したがって、ある論証が妥当でない三段論法を含んでいるということをはっきり確かめることが可能な場合はほとんどない。しかし、こうしたことは三段論法の規則の価値を失わせるものではない。推論する人が、どのような前提を主張する用意があるかをはっきり選択させられるのは、この三段論法の規則によるのだからである。

つまり、「三段論法が基本だ!」みたいなのは、「いつも三段論法を明示しろ!」とかそういう要求ではない。むしろ、自分がなにかを説得しよう、立証しよう、あるいは主張しようとするときに、自分と他人のあいだの前提の違いを意識して、自分がなにを言わなければならないかを自覚し、また他人にへんな説得されたり騙されたりしそうなときに、相手からなにを聞いておかねばならないかを意識するための規則なのです。

こういうのを見ると、わかりにくい文章やうたがわしい文章を読むときに、その文章の主張をリストアップしてみるのはよいことですよね。そしてうたがわしい文言があったら、それを主張するための三段論法をいくつか書きだしてみる。著者は(暗黙にせよ)その結論の前提をきちんと説明してくれているだろうか、そしてまた、その明示的な、あるいは隠された前提にあなたは同意できるだろうか。

私が見るところでは、牟田先生は宇崎ちゃんが過度に性的であることを立証しなければならなかった、あるいは、少なくとも自分で宇崎ちゃんは過度に性的であるということを主張しなければならなかった。その場合、「見ればわかる」「私の主観だけどみんな共有できるはずだ」という形でもかまわないかもしれないけど、一言主張するべきだったのです。もちろんそうすると、性的であるとはどういうことかとか、「過度に」性的であるとはどういうことかを説明してほしくなりますよね。宇崎ちゃんは魅力的なおっぱいのでかい女子なので「性的」であるとしても「過度に」性的であるっていうのは過度に魅力的であるのか過度におっぱいがでかいのか、とかそういう話になります。

a. おおきなおっぱいは過度に性的である
b. 宇崎ちゃんはおっぱいが大きい
c. それゆえ宇崎ちゃんは過度に性的である

まあこういうことになるのかもしれませんが、この場合多くのひとはbは認めると思うけどaは認めないと思う。私は同意しません。同意しませんよ!ははは。するとまた別の論証が必要になるわけです。

とりあえず牟田先生は「幼い表情で、巨大といってもいいような乳房を強調」している描写は過度に性的だとか女性を性的対象物として描いているとかそういうことをもっときちんと言ってくれればよかったのだろうと思いますが、あれが過度に性的だとか性的対象物だとかというのはかなり議論の余地があるように見えて、「明らかだ」というほどではないように思います。だからこれを論じてもらわなければならない[7] … Continue reading

ちなみに本当の論点とはちがう論点を「論証」してしまうのも詭弁・誤謬推理の一つのタイプで、「論点相違(の誤謬推理)」Ignoratio Elenchiという立派な名前があり、また「過度に性的なのはいかん」という言明を「性的なのはいかん」のように「過度に」という限定があり、それを論証しなければならないことを忘れてしまうのには「限定あり言明から限定なし言明への誤謬推理」Secundum quidという名前がついてます。われわれが非常によくやる詭弁と詭弁的思考なので、ちゃんと昔から名前があるわけです。

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References

References
1「「宇崎ちゃんは遊びたい」×献血コラボキャンペーンの絵は過度に性的なのか?」「宇崎ちゃんを採用した赤十字は現実的」
2省略三段論法自体は特に詭弁でも誤謬推理でもないです。
3実際の文言では「注意喚起」しているにすぎません。
4この「性的対象物」が難しいのは、たいていの男女は性的対象物というか鑑賞物になりうるからです。たとえば同時に献血コラボしていたと思われる乃木坂ははっきり鑑賞物。あれの方がずっと性的対象だろう、とか言いたくなってしまう。性的対象にならないように、メイクで全員ゾンビにしてしまえばいいのに。ははは。しかしそれだと乃木坂である必要はないことになってしまうだろうか、それとも乃木坂ならゾンビでも性的対象になりアイキャッチに使えるだろうか。他にもたとえばスケートの羽生選手などのスポーツ選手もとてもセクシーだと思うわけで。性的対象にしてますね!先生わかってますよ!みたいな。ははは。
5そもそも献血ポスターと自治体のガイドラインの関係もよくわからない。 https://togetter.com/li/1425063 参照。
6正しくない推論にはまってしまうと誤謬推理・誤謬的思考と呼ばれ、それを意図的にあるいは意図せずして説得に使うと虚偽や詭弁と呼ばれる、ぐらいの理解でよいと思います。
7つまり、どんなときに過度に性的だと判断されるのかとか、どんなときに性的対象物として描いていることになるのかというのをざっくりとでも説明し、可能ならば他のOKな表現と比較したりする必要がある。ひょっとしたら、なぜ性的対象物として描くことが不適切であるのかも説明してもらわなければならない。こういうのは手間がかかるので誰もがいつでもできるわけではなく、また今回牟田先生にとってそこまで必要なのかどうかはわからないわけだけど、説得や議論というのはそうしたものだし、世の中はそうしたお互いの努力によって進歩するのだと思います。「議論するまでもなく結論が出ている」のようなものではないと思う。

詭弁と誤謬推理に気をつけよう(1) 宇崎ちゃんポスターの場合 (宇崎ちゃん問題(1))」への8件のフィードバック

  1. ノート君

    めっちゃためになったし同意しかないし頭スッキリしたありがとう

  2. ほっけ

    すみませんが、いわゆる藁人形論法を使っているようにしか読めなかったので、ブログに批判エントリを書きました。
    https://hokke-ookami.hatenablog.com/entry/20191112/1573484400
    ブログに書かなかった疑問としては、『宇崎ちゃん』のポスターだけが過度に性的だとは誰も(少なくとも牟田氏は)主張していないのに、「あれの方がずっと性的対象だろう」「羽生選手などのスポーツ選手もとてもセクシー」という評価でもって「難しい」ことの根拠にしていることですね。
    それでいて「性的対象にならないように、メイクで全員ゾンビにしてしまえばいいのに」とメイクで性的対象の度合いが変わることは考慮していて、なのに現状のポスターがそのようなメイクをおこなっていない意味は深く考えていないように見えます。

  3. 江口 投稿作成者

    なにを問われているかよくわからないのですが、とにかく、牟田先生が「過度に性的だ」と自分では主張していない、ということが問題だ、と書いているのです。ブログもよくわかりませんので勘弁してください。

  4. ほっけ

    >牟田先生が「過度に性的だ」と自分では主張していない、ということが問題だ、と書いているのです。

    私は、コメント欄においては「乃木坂ははっきり鑑賞物」ということを誰も否定していないのに、「あれの方がずっと性的対象だろう」と貴方が言うことに何の意味があるのでしょうか?という話をしています。

    私のブログにおいては、貴方の牟田氏の記述の要約が不正確だ、という話をしています。
    牟田氏が「強調」と表現して、「体の一部を強調されたり、不自然なポーズをとらされる」といったガイドラインを引いていることに対して、貴方が「牟田先生は宇崎ちゃんが過度に性的であることを立証しなければならなかった」と表現したことはおかしい、という話をしているのです。
    貴方は「宇崎ちゃんは魅力的なおっぱいのでかい女子」ということをもって、キャラクターが「性的」であることまでは(仮定の形式でも)認めました。ならば、そのキャラクターがポスターで「体の一部を強調」されているならば、その「性的」な度合いが高まることは自明的といえるでしょう。ここまではわかりますか?

    >よくわかりませんので勘弁してください。

    しかし「説得や議論というのはそうしたものだし、世の中はそうしたお互いの努力によって進歩する」という考えではなかったのですか?
    今回の件とは別件と判断しておきますが、ツイッターを見ていると自身が少数派ではないということを気にしながら「言論」や「議論」に向きあっていますが、それは「お互いの努力」にほどとおい態度だと思いますし、世の中を進歩から遠ざけるだけだと思いますよ。
    https://twitter.com/eguchi2018/status/1194633268420722689
    https://twitter.com/eguchi2018/status/1194633315791163393
    https://twitter.com/eguchi2018/status/1194633532489916417
    >言論とか議論とかに関することはなんかいろいろ絶望的な気分になる一日だったが、まあ少数のことでネガティブにならずに人々を信頼して寝たい。
    >私は少数派ではない。
    >ていうか、ネットがなかったらいろんなことについて自分は少数派であり、まちがっていて、どうしようもないだめ人間だと思っていたと思う。ネットのおかげでそうではなくごくふつうの平均的な男だと思えている。

  5. 江口 投稿作成者

    やっぱりおっしゃることがよくわからないです。

    一つ目については、私は牟田先生の言うことがすぐにはよくわからないので、要約が不正確になるのもやむをえないかもしれないけど、牟田先生は宇崎ちゃんの胸が大きいから宇崎ちゃんが性的だと言ってるのだ、とは私は解釈してないです。それがはっきりしてないから「こういう解釈がありえるかもしれないけどちがうよね」ってな話です。このブログ記事は続きが書くと思うので、ゆっくりまっていてもらうとたすかります。牟田先生の話ではなくなると思う。続きものにするつもりでタイトルをああしてしまったのですが、実際私は牟田先生のタイプの書き方が詭弁だとは思っていないです。

    二つ目の問いについては、宇崎ちゃんが性的なのは認めるし、体の一部を強調していると性的な度合いが高まるだろうっていうのも認めます。でも体の一部を強調しているから、(ガイドラインがいましめている意味で)過度に性的になる、とは簡単には認めないです。ほっけ先生が「体の一部を強調しているから(ガイドラインの意味で)過度に性的になっているのだ」と主張するのであれば、ほっけ先生はそういう意見なのだろうと理解します。牟田先生は、体の一部を過度に強調しているから過度に性的になっているのだ、と一言そえれば、理解しやすくなったはずだ、ということです。

  6. 江口 投稿作成者

    ほっけ先生には以前にもお願いしましたが、私が言っていることや、言いたいけどうまく言えていないことを確認せずに先に進まれてしまってとても辛いので、できればツイッタのような短かく一問一答できるメディアでおねがいしたいです。 eguchi2017 のアカウントに投げてもらえればお相手することもあるかもしれません。捨てアカウントでもかまいません。

  7. ほっけ

    > 「こういう解釈がありえるかもしれないけどちがうよね」ってな話です。

    それにあわせるなら、私は「そういう解釈はありえないから確認するまでもなくちがうよね」という立場です。
    そして、「簡単にまとめると」「ぐらいですよね」という文章からは、「こういう解釈がありえるかもしれないけどちがうよね」という文意を読みとることができません。
    本当に「こういう解釈がありえるかもしれないけどちがうよね」という文意であったのなら、「牟田先生の上の引用での主張を、簡単にまとめると、」は「牟田先生の上の引用での主張は」に、「ぐらいですよね」は「という解釈がありえるかもしれないけどちがうよね」といった記述に修正するべきでしょう。

    >「体の一部を強調しているから(ガイドラインの意味で)過度に性的になっているのだ」と主張するのであれば

    その問いに対しては「いいえ」です。
    貴方による牟田氏の要約が間違っている、というのがここでの私の主張です。この私の主張において、牟田氏が正しいと私が論じる必要はいっさいありません。
    すでにご覧になっている下記エントリでも「牟田和恵氏の論理に飛躍があるという江口聡氏の指摘そのものと、要約の不充分さそのものは異なる次元の問題」と注記しています。
    https://hokke-ookami.hatenablog.com/entry/20191114/1573741034

    >ツイッタのような短かく一問一答できるメディアでおねがいしたいです。

    確認せずに先に進んでしまう問題が私にあるとして、短い一問一答ではむしろ問題が拡大すると思いますが、辛い気分にあわせてしまったことは了解しました。
    今回の件でコメント欄に書きこむのは最後にします。たぶんブログで応答することになるとは思いますが。

  8. 通りがかり

    昔の記事ですが、このコメント欄で私も頭が痛くなったので、今一度議論を整理してみました。

    牟田氏の主張は要約すると、

    ・ポスターがふさわしいか否かは「議論する以前に(否という)答えは出ている」なぜなら「ポスターはガイドライン等に抵触しているからだ」というものでした。

    それに対する江口氏の指摘は、「ポスターが本当にガイドラインに抵触しているかどうかについて、牟田氏は言明していない」(三段論法の小前提の証明が抜けている)でした。

    この限りで議論は成立しているように見えます。
    ここにほっけ氏は「江口氏の要約がそもそもおかしい」というトリッキーな批判を打ち込んできます。そこからコメント欄の議論が錯綜していっていくように思えました。

    ただ、ほっけ氏はご自身で言いたいことが言語化されていないだけで、江口氏の議論に沿った反論はエントリ上にあるような気がいたしました。それは要約うんぬんではなく、ポスターの絵の乳房の配置を分析し、更には非-性的な女性の模型を対比させながら、ポスターの性的な度合いを解説したところです。この箇所は、江口氏の「暗黙に了解されているにすぎない」という部分に対する反論として有効です。ほっけ氏は議論に沿った上で「ポスターのキャラは明らかに性的であることが前提としてあるため、牟田氏が改めてここに言明する必要はない」と主張すれば済んだ話です。もっともそれでも、性的だと納得しない人はいると思うのでそこからまたガイドラインで何がセーフで何がアウトかの線引きが行われ、生産的な議論になるように思います。

    最後に議論の重要性について、
    議論は、私も必要なことだと思いますが、議論を行うことよりも、まず相手の議論を聴くことの方がより大事ではないかと私は思います。相手の主張を聞かずに自分の喋りたいことだけを喋るのであれば、それはお喋りであって議論ではないような気がします。相手の主張を十全に聞いてもなお、自分の中で腑に落ちないときに言葉が生まれて、そこから議論になっていくのではないでしょうか。

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