フェミニズム」タグアーカイブ

デートレイプ魔としてのジャンジャック・ルソー

ルソー先生。イケメンだけどあやしい。

ルソーには「先生」つけたくない、みたいなこと書いてしまいましたが、いけませんね。ルソー先生の言うこともちゃんと聞かねば。しかしこの人やばい。やばすぎる。まあ実生活でもかなり危険な人でしたが、書くものもやばい。私はこの先生の書くもの、なにを読んでもあたまグラグラしますね。理屈通ってないわりにはなんか情動に訴えかけるところがあって、健康に悪い。肖像画とか見てもなんか自信満々の怪しいイケメンで、なんか恐いものを感じる。 続きを読む

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カント先生とセックス (3) 自分の体であっても勝手に使ってはいけません

まあ性欲はそういうわけでいろいろおそろしい。だいたい、いろんな犯罪とかもセックスからんでることが多いですしね。性欲は非常に強い欲望なので、道徳とバッティングすることがありえる、っていうより、他人の人間性を無視してモノに貶めるものだっていうんでは、ほとんど常に道徳とバッティングしてしまう。 続きを読む

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酒飲みセックス問題 (9) 同意したことに責任があっても同意は有効じゃないかもしれない

まあというわけで、酒を飲んで酔っ払ったからといって、行動の責任がなくなるわけではないような感じです。(場合によっては)同意したことや酔っ払ったことは非難に値するという意味で「責任がある」ということになりそうです。

しかし、んじゃ酔っ払ってした同意はぜんぶ有効validなのか、というとそうでもないかもしれない。同意の責任はあるけど同意は有効じゃないよ、だからそういう同意をした人とセックスした人を非難したり罰したりすることは可能かもしれない。 続きを読む

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酒飲みセックス問題 (1) 酔っ払ってセックスするのは許されるか

なんか(女子)大学生が酒飲んで街中で大量に倒れたりして話題になってますね。アルコール濫用はやめましょう。

まあ一部のサークルとかではほんとにお酒を使ってやばいことをしているようで、なんというか命の心配もあるし各種の性的暴行なんかも行なわれたりするだろうしいやな感じです。

そういや昔某学会で「性的同意」の問題をとりあげて、論文にしないでそのまんまになってたことを思いだしました。どういう同意が有効かっていうのはセックス倫理学のおもしろいネタで、特に酔っ払いセックスは実際の性犯罪やセクハラなんかと関係していて関心があります。

米国のブラウン大学で90年代なかばに有名な事件があったんですね。新入生のサラ(仮名)が土曜日に自分の寮の部屋でウォッカ10杯ぐらいのんで酔っ払って(私だったら死んでます)、そのあと近所でやってるフラタニティパーティー(まあ飲みサーのパーティーですな)にボーイフレンドに会いに行った。アダムという別の男が、サラが友達の部屋でリバースして横になってるのを見つけて水が欲しいか聞くとサラはイエスと答えた。アダムは水もってきて飲ませて、しばらく話をした。アダムがサラに、彼の部屋に行きたいかと聞くとサラはイエスって答えたので部屋に行った。サラは自分の足で歩けた。サラはアダムにキスして、服を脱がせはじめた。さらにアダムにコンドーム持ってるかとたずねた。アダムはイエスと答えて、セックスしたわけです。事後に二人は煙草吸って寝たそうな。起きてからアダムがサラに電話番号を聞くと、サラは教えたそうな。しかしサラさんはしばらくしてからやっとやばいことに気づいて、あわてたと。んで3週間後に寮のカウンセラーに相談してアダム君を訴えることにしたわけです。ブラウン大学は厳しいところらしくて、在学生規程みたいなのに「違反学生が気づいた、あるいは気づくべきであった心神喪失あるいは心神耗弱」の状態にあった相手とセックスしたら学則違反だというのがあるんですね。

まあこういう状態の女性(あるいは男性)とセックスするのは許されるかどうか。まあ正しい人びとは「そんなんもんちろんダメダメ」って言うかもしれなけど、ほんとうにそんなに簡単な話かな? 某学会ではこういう問題にとりくもうとおもってまあちょっとだけやりました。ネタ本はAlan Wertheimer先生のConsent to Sexual Relationsってので、これはおもしろい。

まあワートハイマー先生の議論はそのうち詳しく議論することにしましょう。今日 http://sexandethics.org っていうサイトを見つけて、こういうありがちなセックスにまつわる倫理問題みたいなのを議論する性教育カリキュラムを提示していておもしろいです。ここらへんのネタはやっぱりワートハイマー先生の枠組みでやってる(ただし全体の雰囲気はワートハイマー先生より女性に有利な感じなフェミニスト風味)。

たとえば次のような問題について議論してみよう、ってわけです。上のブラウン大学の学則は、飲んでセックスするのを禁止しているわけじゃなくて、意識なくなったりすごく酔っ払ってまともな判断が下せなくなっている場合にはだめだっていってるわけです。では、

  1. 女性が飲酒している場合、もし女性が飲酒していることを告げなかったとしたら、男性はその同意を信頼することができるか?
  2. もし男性が飲酒していてリバースしたばかりだとしたら、それは彼の同意の能力にどういう影響を与えるか?それはなぜ?
  3. もし男性が意識を失なったら、女性は彼に対して性的なことを続けてもよいだろうか?それはなぜ?
  4. もし女性が飲酒していて、男性に部屋に戻ってセックスしようと誘ったら、その誘いは有効だろうか? それはなぜ?
  5. もし男性が飲酒していて、女性に部屋に戻ってセックスしようと誘ったら、その誘いは有効だろうか?それはなぜ?
  6. 直前の二つの問いがジェンダーによってちがうとしたら、それはなぜ?

上のブラウン大学の実際の事例とか考えながら答えてちょうだい、と。

さらには、ワートハイマー先生はあれな人なので、もっと奇妙なケースも考えてて、上のsexandethics.comの人も紹介してます。

【パーティー】 AとBはデートはしていたがセックスはしていなかった。Aが「今夜どうかな」とたずねると、Bは「うん、でもまずお酒飲みましょう」と答えた。お酒を飲んでBはハイになり、Aの誘いにこたえた。

【抑制】 AとBはデートする関係だった。Bはまだセックスするには早いと言っていた。Bの経験と他の情報から、Bはお酒を飲むと判断がおかしくなることを知っていた。しかしそれについてあまりよく考えず、Bはパーティーで何杯か飲んだ。AがBにセックスしようかと言うと、Bはいつもよりもずっと抑制を感じずに、「なんでも初めてのときはあるよね」と生返事をした。

【コンパ(フラタニティーパーティー)】Bは大学新入生だった。Bはそんなにたくさん飲んだことがなかった。Bははじめてコンパに参加して、酎ハイ(パンチ)をもらった。Bが「お酒入っているの?」と聞くと、Aは「もちろん」と答えた。Bは何杯か飲んで、人生ではじめてとてもハイになった。Aが自分の部屋に行くかと聞くと、Bは合意した。

【アルコール混入】 Bははじめてコンパに参加した。部屋には、ビールの樽と、「ノンアルコール」と書いてはいるが実はウォッカで「スパイク(混入)」されているパンチ飲料が置かれていた。Bはパンチを数杯飲んで、とてもハイになった。Aが自分の部屋に行くかと聞くと、Bは合意した。

【空勇気】AとBはデートする仲だった。Bはまだセックスの経験がなく、セックスについて恐れや罪悪感を抱いていた。シラフではいつまでも同意できないと思ったBは、1時間に4杯飲んだ。キスとペッティングしてからAが「ほんとうにOK?」と聞くと、Bはグラスを掲げてにっこり笑って「今なら!」と答えた。

【媚薬】媚薬が開発されたとする(現在のところ存在していない)。AはBの飲み物に薬を入れた。それまでセックスに関心を示さなかったBは興奮して、セックスしようと提案した。

【ラクトエイド】Bは、お腹が痛いという理由でAとのセックスを拒んでいた。乳糖不耐症が原因であることが判明したので、Bは乳糖不耐症用錠剤を飲んだ。この「薬」のおかげでBは気分よくなり、セックスに合意した。

ここらへんのそれぞれについて、同意が有効なのかどうか考えましょう、と。おかしなこと考えますね。みんなで考えましょう。

Consent to Sexual Relations (Cambridge Studies in Philosophy and Law)
Alan Wertheimer
Cambridge University Press (2003-09-18)
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2018年追記。上のブラウン大の事件は下の本でも扱われてます。良書なので読みましょう。

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不倫・浮気・カジュアルセックスの学術論文ください

不倫(婚外セックス)とか浮気とかカジュアルセックス(いわゆる「ワンナイト」)とかについての哲学・倫理学の議論を紹介しようと思って、しばらく国内の文献をあさってたんですが、これって国内の学者さんによってはほとんど議論されてない問題なんすね。 続きを読む

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カジュアルセックスは不正か(2)

ハルワニ先生が紹介していたフロイト先生の「性愛生活が誰からも貶められることについて」読んでみました。岩波のフロイト全集第12巻。この全集は読みやすくて優秀です。

精神分析の開業医が、どのような苦しみのために自分はもっとも頻繁に助けを求められるからを自問するなら、その答は……心的インポテンツのため、となるにちがいない。

とかってのからいきなりはじまってびっくりしました。1910年ごろのウィーンの精神科医ってのはそういうのの相談係だったんですね。まあフロイト先生は当時わりと名士で、ウィーンの知識人たちのセックス相談役でもあったわけです。

情愛の潮流と官能の潮流が相互に適切に融合しているのは、教養人にあってはごく少数の者でしかない。男性は性的活動をするときにはほとんどいつも、女性への敬意ゆえに自由が利かないと感じており、その十全たるポテンツを展開できるのは、貶められた性的対象を相手とするときに限られるのである。このことはまた、男性の性目標には、尊敬する女性相手に満足させようとは思いもよらない倒錯的成分が入り込んでいることからも、確かめられる。十分な性的享楽がえられるのは、男性がなんらの憂いなく満足に向かって専心するときだけなのであって、この専心を彼は例えば自分の礼節正しい妻相手にやってみようなどとはしないのである。こうしたことのために男性には、貶められた性的対象への、すなわち、美的懸念を示すのではないかと心配する必要がなく、生活のほかのかかわりで彼を知ることもなければ評価することもできない、倫理的に劣等な女への、欲求が芽生えることになる。そうした女には男は自分の性的な力を、博愛の方はより地位の高い女性に全面的に向けられている一方で、嬉々として捧げることになる。もしかしたら、最上位の社会階級の男性に頻繁に観察される、低い階層の女を長期の愛人にしたり、それどころか配偶者に選択したりするという嗜好も、十分な満足の可能性と心理的に結びついている、貶められた性的対象に対する欲求からの帰結にほかならないのかもしれない。

おもしろいのでおもわず写経してしまいました。なんか女性をママやお姉さんみたいに尊敬する対象と考えたりするとセックスがうまくいかなくなります、みたいな。むしろ無教養だったり下品だったりした方がいい、メスブタみたいな女との匿名のセックスの方が燃える、とかそういう感じ。岡崎京子先生の『Pink』っていうマンガで、テレビで正しいことを語ってる大学教授が主人公をメスブタ扱いしている、みたいな話おもしろいですよね。まあ人間は複雑だ。

まあこの「貶める」がおもしろいですね。一部のフェミニストが「男性にとってセックスは女性を貶めるものだ」とかって解釈したのの意味がだんだんわかってくるような。

同じようなことは性科学の創始者のハブロック・エリスや、20世紀に社会的にも大きな影響をもった哲学者のバートランド・ラッセル先生も言ってるんですよね。

(ハブロック・)エリスの説では、多くの男は、束縛や、礼儀正しさや、因襲的な結婚という上品な限界の中では、完全な満足を得ることができない。そこで、そういう男たちは、ときどき娼婦のもとを訪れることに、彼らに許された、ほかのどんなはけ口よりも反社会性の少ないはけ口を見いだすのだ、とエリスは考えている。……しかし……女性の性生活が解放されたなら、もっぱら金目当てのくろうと女とのつきあいをわざわざ求めなくても、問題の衝動を満足させることができるだろう。これこそ、まさに、女性の性的解放から期待される大きな利点の一つなのだ。(ラッセル『結婚論』)

まあここでラッセル先生が言ってることがどういうことなのかってのを考えるのはおもしろくて、女性もどんどんカジュアルにセックスするようになれば売買春はなくなるぞ、そういうふうに教えこもうぜ!みたいな。それでいいんすかね。まあ「金払わなくてすむようになるぞ」っていうんじゃなくて、ラッセル先生は売買春は不道徳だと考えてたんですけどね。

あとこのフロイト先生の論文のタイトルは、 Über die allgemainste Erniederung des Liebeslebensなんですが、これ「性愛生活が貶められれること」なのかなあ。「セックスライフでは「貶める」ってことがよくあることについて」じゃないのかな。Erniederungは性愛生活を貶めるんじゃなくて対象(特に女性)を貶めるんだろう。まあセックスライフにはそういう側面があるわけです。

あ、英訳だとやっぱりタイトルは “On the Universal Tendency to Debasement in the Sphere of Love”になってるね。




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カジュアルセックスは不正か (1)

今日は1日カジュアルセックスまわりの文献見たりしておりましたです。

まあ基本はソーブル先生の事典(Sex from Plato to Paglia)のRaja Halwani先生のCasual Sexの項目見ながらもってる文献見なおしたり。 続きを読む

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不倫はなぜ不道徳か (1)

なんか一日「不倫はなんで悪いか」みたいな論文読んで終ってしまいました。

これは「セックスの哲学」の流れのなかではけっこう議論の蓄積がある問題で、Richard Wasserstrom先生の”Is Adultery Immoral?” (1975)って論文が議論のはじまり。ワッサーストローム先生はセックス哲学以外にもいろんな応用倫理学的な問題で重要論文書いていて、この手の議論のパイオニアです。

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認知の歪みと研究者生活

うつ病とかになるひとには、独特の認知の歪みとかがあるっていう話を聞いたことがあります。有名なのはデビッド・バーンズ先生の歪みリストですね。いろんなページで紹介されてますけどたとえば http://d.hatena.ne.jp/cosmo_sophy/20050119 とか。 続きを読む

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性表現と表現規制(7) ポルノ批判と会田先生の答え

まあ米国での規制の法制度づくりは失敗したわけですが、その後もポルノは性差別だというマッキノンとドウォーキンのラインの議論はけっこう魅力を感じる人もいるようです。

表現そのものが性差別だとかってのに疑問を感じる人がいると思いますが、人種差別的なヘイトスピーチのこととかを考えると、ポルノも女性に対するヘイトスピーチなのだ、みたいな言われ方をしたりします。わかりにくいって言えばわかりにくいんですけどね。

まあもうちょっとだけこのタイプの人々の言い分を聞いておくことにしましょう。

まずポルノってやっぱり言論だから言論の自由の方が大事なんちゃうか、言論だとしたら規制するのはおかしいだろう、という批判に対して、ラジフェミ(まあラジカルフェミニストにもいろいろいますが、今回はとりあえずこう呼んでおきます)の人々は、ポルノはそもそも言論なんかいな、言います。正直言論ってよりはマスターベーションの道具みたいなもんだろう、と。なにも新しいアイディアとか含んでないじゃないか、とりあえずたんなるオナニーの「おかず」ではないか、と。

それに仮に言論だと認めたとしても、言論の自由は絶対的なものではない、虚偽の広告とか規制しているのだから、女はいじめられて喜ぶものだとかって女性についての虚偽をばらまいているポルノを規制しても良いだろう、とか。

ポルノとか芸術とかは既成の道徳概念とかをひっくり返すものだ、みたいな見方に対しては、ポルノのいったいどこが既成の概念をひっくり返してるんだ、男が主体で女は受け身っていう旧来の考え方を繰り返しているだけじゃないか、とか。

まあもっといろいろあるんですが面倒だから途中で。とにかくこの系統の人々はいまだにポルノに対して反対しているし、法規制を求める人も少なくありません。とにかく性表現の規制をめぐる議論は、「猥褻」ではなく「性差別」が中心になってるわけですね。(もちろん性差別反対派と猥褻反対・保守派が手を結んだりしている部分もあります。)

んでまあ一番最初の会田誠先生と森美術館に対する抗議とそれへの返事の話にもどると、「ポルノ被害を考える会」とかはこういうマッキノンたちのラインでポルノを考えているわけですね。特に児童ポルノってのは、年端もいかない少女を邪悪な欲望の対象とするおぞましいものだ、と。んでおそらく会田先生なんかの作品では虐待されている少女が微笑んだりしているこそ気にくわん、女はいじめられて喜ぶというポルノ的幻想の最たるものではないか、みたいな感じだと思うんです。さらに、森美術館という一流美術館がそういう作品を堂々と展示することによって、そうした作品の作り方や欲望のあり方にお墨付きを与え、男性的な性欲とファンタジー中心社会をさらに盛り上げようとしている、と。彼らがよく使う比喩に「黒人が首輪付けられて犬扱いされて喜んでいる絵とかOKだっていうのか?」みたいなのがあるんですが、まあそういうものとしてポルノを見ているわけですね。

というわけでまあ会田先生の法律上の「児童ポルノ」や「わいせつ物」にはなりようがないですが、そういうものだとして展示を中止させようとしたってところだと思います。この戦略が正しいかどうかはわからんですね。私自身はぜんぜんだめだと思うんですが、まあ運動というのはいろいろあるんでしょう。

で、問題はこれに対する会田先生の「発表する場所や方法は法律に則ります」ですな。「考える会」などは法律は不十分だと考え、法が要求する以上のことをもとめているわけです。これに対して「法律に則ります」ってのはぜんぜん会の要求にそうつもりはありません、ってことですわね。「「万人に愛されること」「人を不快な気分にさせないこと」という制限を芸術に課してはいけない」とかってのは嫌いな人や不快な人や腹をたてる人がいてもアッシはやらせていただきますよ、ってことなんで、まあ「考える会」の主張にはまったく従うつもりがないってことですわ。

というわけで、さいど一番最初にもどると、こうしたポルノ批判の文脈で芸術家が「法に則って」とか「法の範囲内で」とか発言することはぜんぜん保守的でもなんでもないわけです。

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性表現と表現規制(6) エロチカとポルノ

キャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンのラインの考え方では、性表現はよい性表現と悪い性表現がある、と。それを分けましょう。たんに友好的で平等で自発的で楽しいセックスを描いた「エロチカ」と、女性をものみたいに扱ったりいじめたり差別したり男性に従属させている「ポルノグラフィ」に分ける、と。
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性表現と表現規制(5) 性差別としての性表現

しかし1980年代からは、「猥褻」としてではなく「性差別」や「性暴力」として性表現を見る考え方が現れて注目をあびるわけです。この一連のエントリの始まりに書いた「ポルノ被害を考える会」なんかの思想的背景はこういうところにあるはずです。

1960年代に米国あたりでは黒人の公民権運動とかがあって人種差別に対してみんなが非常に敏感になったわけです。でももう一つ大きな差別があるんではないか、それは性差別だ、と。ジョン・レノン先生はオノ・ヨーコ先生に教えられて「女は世界中でニガーだ」みたいな曲を歌ったりして。まあ女性は経済的な差別だけじゃなくて、痴漢強姦その他の性暴力にもさらされているのに放って置かれているじゃないか、それは黒人に対する暴力や差別が放置されていたのとおんなじだ、ってわけです。(同じ意識から「動物も食べられたり毛皮剥がれたり実験に使われたりして差別されている!種差別だ!」って発想も出てきます。)

まあそうして第二波フェミニズムって呼ばれる動きが出てくる。70年代前半とかに女性が集まって、「こんなことに苦労している」みたいな話をすると、旦那やボーイフレンドや上司から侮辱されたり無理やりセックスされたりしているわけです。強姦・レイプっていうと道を歩いているといきなり暗がりに連れて行かれて「あれー、きゃー!」みたいなを連想してしまうけれども、実際に無理やりやられるのはデートとか夫婦関係とか職場の権力関係のなかでなんだ、ってんでデートレイプだのドメスティックバイオレンスだのセクシャルハラスメントだのってのが問題に上がってくる。今となっては、3、40年前にはそういうのが問題にされてなかった、って方が驚きですけどね。人々の意識は変わるものですね。

まあそういう性差別や性暴力を考えて、なんでそういうのがそれほど社会に蔓延しているかっていったら、それはポルノが悪いんではないか、ポルノが男たちが性差別したり性暴力振るったりする教科書になっているのではないか、ってのが基本的な発想ですわ。

まあ性表現とかエロとか、やっぱり圧倒的に女性が描かれる対象になってるし、男が無理やり嫌がる女をあれする、とかってのが典型的な表現だし。雑誌のグラビアなんか見ても女の子はちゃんとにこやかに笑っておっぱいを強調してなきゃならん、ベッドに横たわってなきゃならん、みたいな。背筋伸ばしてしっかり前を見ている姿とかあんまりエロくないっすからね。SMとか好きな人は縛られたりするのはだいたい女性だしねえ。まあ中年男性が縛られたりするのもいいのかもしれないですが、体の緩んだ中年男性が縛られてるだけだとなんかちゃんとエロにならないので女王様も同時に描かないとならんわけです。

まあとにかく性表現では男性と女性は別の扱いを受けていて、女性はだいたい受け身でいじめられたり暴力振るわれたりする側になってる、と。ケイト・ミレットって評論家が『性の政治学』って本書いたり、アンドレア・ドウォーキンっていう作家・評論家が『インターコース』って本買いたりして、フェミニズム批評みたいなのが流行するわけです。それまでの性表現なんてのはぜんぶ男の視点から男の都合の良いセックスを描いているだけだ、みたいな話になる。1960年代に超大物だったノーマン・メイラー先生とかが槍玉に挙げられたり。猥褻で問題になったヘンリー・ミラー先生も。まあでも今回は「猥褻」っていう切り口ではなく、「性差別」なわけです。

こういう動きの中で、セクハラ訴訟とかですごい成果を上げたキャサリン・マッキノン先生がドウォーキン先生と組んで性差別的な性表現を問題化しようって運動を立ち上げるわけです。

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性表現と表現規制(1)

会田誠先生の森美術館というところでの展覧会に、ポルノ被害と性暴力を考える会(http://paps-jp.org/ 以下「考える会」)という団体が抗議をしたのをきっかけに、ネット界隈では芸術と表現の自由とかについての議論が盛んになっているようです。まあ性表現と表現の自由の問題は愛好者も多いし、もしかしたら深刻な問題を含んでいるかもしれないので興味深いですね。

私自身は「芸術」みたいなもの全般はとにかく、造形美術の方はまったくダメというかよくわかんなくて、造形美術とかについて語る資格はまったくないし、芸術一般というくくりを超えてはそんな興味があるわけでもない。造形とかで興味があるのはアートではなくむしろずばりエロ。でもまあ性表現と表現の自由の問題はセックス哲学の問題として興味深いし、本物の問題があるように思っていますので少しずつ書いてみたいと思います。

「考える会」の抗議に対しては森美術館と会田先生本人から声明が出ていて、そのなかで会田先生は

僕の作品群の中には、性的なテーマとは限りませんが、人によってショッキングと受け取られる表現があると思います。そういう場合、僕は必ず、芸術における屈折表現――僕はそれをアイロニーと呼んでいますが――として使用しています(あるいは、僕個人はこの言葉をあまり使いませんが、『批評的に使用しています』と言い直してもいいのかもしれません)。けして単線的に、性的嗜好の満足、あるいは悪意の発露などを目的とすることはありません。また「万人に愛されること」「人を不快な気分にさせないこと」という制限を芸術に課してはいけないとも考えています。発表する場所や方法は法律に則ります。 http://www.mori.art.museum/contents/aidamakoto_main/message.html

てなことを言ってる。

ちょっと前にツイッターで、この「発表する場所や方法は法律に則ります」について、芸術家がそうした宣言をすることは危険だという趣旨のつぶやきがリツイートされて流れていました。その一人にお話を聞いてみると、そうした宣言は刑法175条のわいせつ物頒布罪という悪法を承認することであり、国家権力が表現に介入することを是認することであって、また会田先生という有力な芸術家がそうした宣言を行うことによって他の芸術家や表現者たちが萎縮してしまう(萎縮効果)という危険がある、ということのようでした。(誤解があるかもしれません)

しかし私の理解では上の会田先生の宣言をそう読むのはあまりよい解釈じゃない気がしたんですね。それを説明するには、まずは考える会の主張をちゃんと理解してあげる必要があるように思います。

考える会や、おそらくこの団体と近い関係にあるポルノ・買春問題研究会 http://www.app-jp.org/ の背景になっている理論はそれなりにおもしろいんですよね。基本的には1980年代にキャサリン・マッキノンやアンドレア・ドウォーキンといったラジカルフェミニストたちが生み出した物の見方。これらの人々は、ある種の性的な表現「わいせつ」だから規制するべきだってんではなくて、ある種の性表現はそれ自体が性暴力や性差別や性虐待であり、またそうした暴力や差別を生み出す社会を生み出している原動力だから規制するべきだ、ってな議論をしているわけです。とりあえず古臭い「猥褻」は直接には関係ないんですわ。

まあ長くなるんですこしずついきます。

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Ratus先生たちのHuman Sexuality

というわけでまあおすすめのRathus, Nevid & Fichner-Rathus先生たちのHuman Sexualityの「ジェンダー役割」の項目も訳出してみました。他にも妊娠のメカニズムとか人々はどんなのに興奮するかとか、おすすめの体位とか各種テクニックとか、ポルノやら性暴力を避ける方法やら事後対策やら、なにからなにまで書いてて素敵なんですがね。2、30人人集めて翻訳して出版したいなあ。価値があると思うんだけどね。

これは第6版のやつなので、最新第9版では参照する文献とか含めてぜんぜん違う文章になっているのではないかと予想。第8版は図書館入れてもらったつもりだけどチェックしてない。まあ第9版をamazonで私費で注文したからどんなになってるか楽しみでもある。

Human Sexuality in a World of Diversity

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前に紹介したボストン女の健康の本集団のOur Bodies, Ourselvesは松香堂から1988年に出たやつを入手してみました。『からだ・私たち自身』ってやつ。出てるのは知ってたけど放っておいたんよね。

定価5000円。藤枝澪子先生が監修、校閲を河野美代子先生と荻野美穂先生がやってて、訳者は「翻訳グループ」が23人、「編集グループ」が25人。すごい大きな仕事だ。偉い。まあこれくらい人数集めないとできないわよね。当時のフェミニズムに勢いがあって、みんな真面目だったのがわかる。これから25年四半世紀も経過してるんだからフェミニストグループが同じようなことやるってのもありそうなんだけどね。あちこちから研究助成みたいなのもでてるだろうし組織もしっかりしてきたし。まあ私がやるべき仕事ではない気もしてきた。

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セックスの哲学と私 (4)

国内に目を向けると、セックスと哲学ってのは実はあんまり議論されていない、っていうかほとんど文献とかないんちゃうかな。「愛」とかそういう形ではあるんだけど、露骨なのがないから目に入らない。まあ婉曲表現だったりするんだろうけどなんかねえ。 続きを読む

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セックスの哲学と私 (3)

まあフェミニズムまわりをうろうろして悩んでいたときに手にしたのがAlan Soble先生の Pornography, Sex and Feminism 。ポルノ規制派のフェミニストたちを「ポルノ読む人間のことをさっぱりわかっとらん」とディスりまくってて痛快すぎた。まあ書き方がユーモアとアイロニーに満ちててすばらしかったわね。「日本のBukkakeのすばらしさがわからんのか」とか。どうもこのころbukkakeがアメリカで流行ってたらしい。私は嫌いでした。ははは。それにしてもやっぱヘビーユーザーは違うわ。 続きを読む

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セックスの哲学と私 (2)

戻る。でまあ学部の同僚とかを中心にフェミニズムの研究会とかやってて、勉強させてもらうために顔出させてもらって、聞いてるだけだとあれだから、フェミニストによるポルノグラフィ批判みたいなのを紹介して検討したりしてた。 続きを読む

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森岡先生の膣内射精暴力論を読んでみる

(このブログ記事から発展した研究会レジュメは https://yonosuke.net/eguchi/papers/morioka200806.pdf )

http://www.lifestudies.org/jp/sexuality01.htm森岡正博先生の文章はいろいろおもしろくて、いつかまじめに考えてみたいと思ってた。今回機会があるのでじっくり読んでみたい。でもまともなことが書けるわけじゃないから、とりあえずだらだらと印象を書きつらねてみよう。なんかおもしろいことを思いつくかもしれんし。非常にひっかかりのある文章なんで、気になるところをあげてみて、それから考えよう。

この論文が発表されたシンポジウムはしょうじき私はいろいろ不満があったんだけど、まあそれは書いているうちに思いだすだろう。

まずタイトル。「膣内射精」という耳ざわりにしなきゃならんのかな。AV用語だよな。私はかなり抵抗があるけど、まあそういう抵抗感をねらってるんだろう。「膣」とか書きたいからそういうタイトルにしてるんじゃないかとか言いたくなるんだが。膣内に射精することが問題なんじゃなくて避妊しないのが問題なんじゃないのか。「避妊しないセクロス」「妊娠の強制」じゃだめなのか。まあもとになっている沼崎一郎先生以来の問題意識が「膣内射精は性暴力」だからしょうがないのか。このタイトルや問題意識そのものがかなり男性的ななにかを感じてうーん、っていう感じなんだけど。まあいいや。

第1節の議論のまとめはとくに文句ない。

沼崎のポイントは、(1)避妊責任は女性にあるのではなく、男性にあるということ、(2)膣内射精は性暴力であること、(3)受精・受胎を起点とする中絶論は欺瞞であること、の三点である。

宮地先生の「法的になんとかしよう」ってのはいろいろ問題があると思うんだけど、まああとまわしにしよう。

第2節。まあ「女性の意に反した性行為はすべてレイプ」ってんで(とりあえず*1)よいと思うし、これは70年代からのフェミニズムの大きな成果の一つだわな。

(1)「強制膣内挿入」・・・これは、女性の意に反して、男性がペニスを女性の膣に強制的に挿入することである。

「膣」と書くなら「ペニス」じゃなくて「陰茎」の方がいいんじゃないかな。書きにくいのかな。

「強制膣内挿入」の暴力性とは、膣内に挿入してほしくないという女性の願いが踏みにじられることであり、「強制膣内射精」の暴力性とは、膣内射精による妊娠の危険性を引き受けたくないという女性の願いが踏みにじられることである。であるから、女性が膣内射精による妊娠の危険性を引き受けたくないと思っているときに、強制的に膣内で射精することは、女性のその願いを踏みにじる性暴力であると明瞭に言えるのである。

なんらかの行為の「暴力性」はその被害者の欲求の対象によって算定されるってことだろうな。

「強制膣内射精」の暴力性と、「強制妊娠を導いた膣内射精」の暴力性には、きわめて重要な違いがある。「強制膣内射精」の場合には、その膣内射精が生じたその瞬間に、その行為が、射精してほしくないという女性の願いを踏みにじっているわけだから、その時点でその暴力性は確定する。ところが「強制妊娠を導いた膣内射精」の場合には、膣内射精を行なった瞬間には、その暴力性は確定しない。その暴力性は、沼崎が言うように「潜在的」なものにとどまるのである。そして、実際に妊娠が判明して、それが女性の意に反していることが明らかになったときに、その原因となった膣内射精の暴力性が〈事後遡及的に〉確定するのである。

事後的にしか判断できないタイプの暴力があると言いたいわけだ。これが微妙。

まあなんかの後遺症とかを法的にいろいろやる場合は難しいかもしれんが、この手のケースに使えるかな?

第3節。ここらへんで森岡ワールドにひきこまれてしまってあれな感じになってくるのだが。

まず、男女が長く続く恋人や夫婦の関係であり、避妊について意思疎通が取れており、女性の側も男性の挿入と膣内射精を自発的に許容している場合を考えてみよう。この場合、避妊をしたうえでの膣内射精は、「強制膣内挿入」でもないし、「強制膣内射精」でもないと考えられる。しかしながら、コンドームの破れなどによって避妊が失敗し、女性が妊娠したときには、このときの膣内射精が、事後遡及的に「強制妊娠を導いた膣内射精」として同定される可能性は残されている。問題は、このような場合に、その直接の原因となった膣内射精を、女性が性暴力と感じるかどうかという点である。それは、膣内射精の後に起きた受胎について、男性と女性のどちらの過失分が大きいと女性が感じるかによると思われる。

ポイントは「強制」という言葉だろう。このカップルの両方がそういうセクロスに同意していたとき、なにが「強制」なのか?「強制」している主体は誰なんよ。自然の摂理なるものによって強制されているわけではないだろう。むしろ「過失」だろう。あれ、この文章の「膣内射精を自発的に許容」ってのはコンドームなどによって避妊しつつ「膣内射精」することなのかな。周期法とか使ってのセクロスのこと考えてるのかな。なんかよくわからん。まあどういう手段を使っていようとも、「女性の側も男性の挿入と膣内射精を自発的に許容」しているのならとても「強制」とは言えないと思う。

たとえば、コンドームを付けて性交したのであるが、コンドームが脱落して精液が漏れたのであれば、それは男性の過失であって、性暴力である、と女性が感じることはあるだろう。

わからん。「失敗」「悪い結果」ならわかる。「過失」であるには、「配慮義務」のようなもの、つまり、「ふつうの人ならば、あそれが起こらないように気を付けておくべきである」基準のようなものを守っていないことが要求されると思う。だからたとえば日本製のコンドームのように品質が優秀であることが知られているものを「正しく」使用したけど実はピンホールが空いてた、のような場合には過失とは呼べないかもしれない。コンドームはずれちゃった、とかってのは(その両者の使用の技術や経験にもよるのだろうけど)過失と呼べるかもしれん。女性がピル飲みわすれていたのも、厳しくすれば「過失」かもしれんし、周期法使って失敗したのも「過失」かもしれん。

ちなみに各避妊法による失敗の確率は
http://en.wikipedia.org/wiki/Pearl_index

日本語だとえーと、私が作ったいいかげんなレジュメ(あんまり信用してはだめ)は「一般的な使用法」と「理想的な使用法」にわかれてるところがいろいろ怪しい。

でもなぜ「暴力」なの?森岡先生は「暴力」って言葉をどういう意味で使ってるんだろう。こういうところが森岡ワールドなんだよな。情動的・評価的な言葉をわりとルーズに使ってしまう。私の語感では、「暴力」であるにはなんらかの「意図」が含まれていることが必要に思えるんだが。あるいは、「過失」に要求されるよりはるかに程度の高い無知や無配慮が必要だ。

コンドームを付けて行なった性交の場合、いくら女性が膣内射精を許容していたとしても、後に妊娠が生じたときに、男性の膣内射精が事後遡及的に「性暴力」として構築される可能性が、つねに開かれているということである。その潜在的可能性は、次の月経などによって妊娠の可能性が否定されるときまで、続くことになる。

この文章のなかの「暴力」を「失敗」にすれば、なんの問題もない文章になる。やってみよう。

コンドームを付けて行なった性交の場合、いくら女性が膣内射精を許容していたとしても、後に妊娠が生じたときに、男性の膣内射精が事後遡及的に「失敗」として構築される可能性が、つねに開かれているということである。その潜在的可能性は、次の月経などによって妊娠の可能性が否定されるときまで、続くことになる。 (性暴力→失敗に変更したもの)

となってくると、やっぱり森岡先生がセクロスを暴力であると考えたり理由が知りたくなる。まあわからんでもないのだが。

さて、次が一番問題の多い部分。

では次に、男女ともに子どもを作ってもかまわないと思っているときのことを考えてみよう。妊娠を生じさせてもかまわないと二人とも思っているわけだから、コンドームもピルも使わない性交を試みることになる。この場合もまた、「強制膣内挿入」も「強制膣内射精」も起こらない。ところが、やはり、このときの膣内射精が、事後遡及的に「強制妊娠を導いた膣内射精」として同定される可能性は残されているのである。妊娠が生じたあとで、男女のあいだの関係性に、大きな亀裂が入ったときである。

それはたとえば、妊娠後に男性が女性を裏切って不倫したり、妊娠した女性のもとから逃げたり、あるいは妊娠前から男性が他の女性と付き合っていたことが妊娠後にばれたりして、女性がその男性と性的関係を持ったこと自体を深く後悔し、そんな裏切り者の血を引く子どもが自分の胎内にいるということを、自分に対するこの上ない暴力だと感じたときである。そのようなとき、女性は胎児に対する強い拒否感を抱いて、中絶してしまいたいと思うかもしれないし、そのような感情を持ちながらもしっかりと産み育てたいと思うかもしれない。いずれにせよ、妊娠してしまったことに対するこの拒否感を引き起こした直接の原因である、あのときの膣内射精が、このようにして、性暴力として事後遡及的に構築されることはあり得るのである。あのときの膣内射精さえなければ、いまの自分の陥っている望まない妊娠という出来事は起きなかったのにというわけである。二人の関係性に対する裏切りという可能性をはらみながら膣内射精を行なった時点で、それは潜在的な性暴力を背後に抱いた膣内射精だったのであり、実際に男がそのような裏切りを行なったり、裏切りの情報が暴露された時点で、その潜在性は顕在性へと転化し、「あのときの膣内射精は性暴力であった」ということが事後遡及的に構築されるのである。

これはいくらなんでも無理だろうなあ。この手の議論をするなら、そもそも妊娠をポイントにする必要がない。「同意のセクロスしたあとに、セクロスしたことを後悔したり憤慨する」なんてことはよくあることだろう。多くの離婚カップルや破局したカップルの一方は(おそらく特に女性は)そういう感覚を抱くんじゃないだろうか。「あんな男とやっちゃったことなんか忘れたい」ってやつ。わざわざ「妊娠」を特別扱いする理由はどこにあるんだろう?それは妊娠が特別な出来事だから、なんだろうなあ。でもどう特別なんだろうか。

ここでふと思いついたただの思いつきだが、「あのときにセックスして妊娠しておけばよかった」とあとで思えば、それは「消極的性暴力」とかにカウントされたりしないかな。

セックスできそうなのにセックスさせないでおあづけ食らわすのは性暴力じゃないのかな。どれも違うだろう。でもなぜ違うんだろうか。なんか基準があるはずなんだよな。あとで考えよう。

それはすなわち、膣内射精から始まるすべてのいのちの誕生の背後には、潜在的な性暴力の影がぴったりと貼り付いているということである。赤ちゃんの誕生は、祝福されるべきものと言われる。だがしかし、そのいのち誕生の初発となった膣内射精は、いつでも事後遡及的に性暴力として構築され得る可能性をはらんだものなのである。すなわち、このようにして生まれてくる赤ちゃんは、その存在の始原において潜在的な性暴力の影を背負って生まれてくるということである。すなわち、性交の結果として母親の胎内から生まれ出てきたすべての人間は、この意味での性暴力の影を背負いながらこの世に生まれてきたのである。これは、これらの人間が生まれながらにして背負わなくてはならない原罪ではないのか。

まあこのセクロスに対する罪悪感こそが森岡先生のこの文章を魅力的にしているんだよな。むしろとりえずこういうセクロスは罪である、生殖は罪悪である、っていう発想があって、膣内射精だのなんだのって話が出てきているように私には見える。男性的(?)性欲に対する嫌悪感。パウロやアウグスチヌスやカントやキルケゴールなんかが共有していた意識。私も共感するところがあるねえ。そういう罪悪感が正当化されるものかどうかはなかなか難しい。ほとんど人間であることを否定しているようにさえ見えたりもする。まあセクロスが他人をモノ化する「暴力的」な側面をもってるってのは否定できんしね。昔書いた駄文は 。だめだめ。

でも「性暴力」をこういうタイプ(「膣内射精」)の問題として扱うこと(過剰なものにしているのか、矮小化しているのかわからん)はどうなんだろうな。もっと検討すべき点は別にあるような気がする(あとで書く)。

まあぱっと見えるのが、このタイプの「暴力」(女性が妊娠する危険を負ってセックスする)は女性がピルのように簡単で確度の高い避妊方法を採用するだけでimmuneになることができるわけだが、それどうなのよ、ってなことだわな。だからこそピルは女性の性の解放の一番の道具になったわけで、国内のフェミニストたちのピルに対する冷たい視線はなんかおかしいように見える(あとで特に宮地先生のを読みなおしたい)。

ピルはなぜ歓迎されないのか

ピルはなぜ歓迎されないのか

とかそういう研究で関心あるひとにはおすすめ。文献情報もしっかりしているので役に立つ。あとリブ運動史とか参考になる。そういや新宿リブセンターの資料が出版されるとか見たけど、もう出てるのかな。

避妊しないセックスが潜在的には常に性暴力であり、悪いものであるとしたら、避妊すればいい。でもそれじゃ森岡先生の罪悪感はなくならないだろう。もしかしたら、女性にピル飲まれると罪悪感やドキドキ感がなくなって余計にセクロスが たのしくなくなるんではないかとか茶々入れたくなるほどだ。(半分は冗談*2。)

宮地先生の避妊責任

森岡先生のはちょっと置いといて、とりあえず宮地尚子先生の。まあもう10年も前の論文なので、宮地先生の現在の考え方とは違うところもあるかもしれない。

http://www.kinokopress.com/civil/0102.htm

沼崎先生のと宮地先生のについては、まず「責任」という言葉が気になるんだよな。「避妊責任」とかってときの責任。これは「避妊の義務」じゃないところがちょっとしたミソになっていると思う。(私だったら「男性が積極的に避妊する責任」として論じそう)

「責任」にはたんに「義務」の意味と「非難可能性」の意味があって~、他にも「賠償責任」とか「因果責任」とか「ハートなんかの有名な分析だと、「責任 responsibility」には四つぐらい意味があって、

  1. 因果責任 causal responsibility。単に因果的に寄与しているっていう意味。”Termites were responsible for the damage.”とかって文章で使われるやつ。これは日本語の「責任」にはない意味。この意味で「男性は女性の妊娠にresponsible」とはもちろん言える。けどあんまり重要じゃない英語特有のカテゴリ。
  2. 役割責任 role-responsibility。まあぶっちゃけ(役割に応じた)「義務」
  3. 賠償責任 liablity-responsibility。これハートでもけっこう広い概念で、刑事責任(刑事罰を負う)とか民事責任(賠償しなきゃならん)とか、さらに道徳的責任(非難に値する)がある。どういうときに非難可能(有責)かってのはけっこういろいろ条件がある。
  4. 能力責任 capacity-respoinsibility 。それをすることができる、って意味で責任があるといわれることがある。”He is a very grave and responsible man”とかの文章にあるやつだわな。これも日本語では「責任ある」じゃなくて「責任感がある」とか「ちゃんとした」とかって訳語になるからあんまり関係ない。

んで、沼崎先生や宮地先生が「責任」という言葉を使うとき(特に沼崎先生)、上の2と3の意味が混同されている可能性があると思う。宮地先生は鋭い方なのでこれには当然気づいていて、

とりあえず男女とも半々の責任がある。そう割り切った上で、それでは半々の責任とはどういうことなのかを考え、決めていく必要があるのではないか。沼崎も「女性にも男性にも同等の避妊責任が問われるべきだ」と書いている(5)。この「同等の避妊責任」の内容をはっきりしておかないと、後で述べる責任の実体化、とくに新たな法的規制なり解釈の変更が困難になる。

半々の責任とは、妊娠という事態を防ぐための負担を半々が負うということと、妊娠という事態が起こってしまった場合の不利益を半々が負うということだと、とりあえず考えることができるだろう。

どっちも負担責任として考えてるみたいだけど、まあ「避妊の義務」と「妊娠した場合の非難可能性・可罰性」に分けりゃよかったんじゃないだろうか。

あとおそらくこの宮地先生の「半々」の議論は、事実として「因果的には妊娠には男女が半々の寄与」しているということから「男女が負担を半々にするべきだ」と推論しているように見えるんだけど、これは自然だけどあんまりうまい推論ではないように見える。功利主義者ならば、どっちかが一方的に負担することが全体としてずばぬけてよい結果をもたらし、それを補うだけの補償を行なうことができるならそうすりゃよいと言うんじゃないだろうか。負担の「半々」にこだわることによって非常に悪い結果が出るのが予測されるならば、そういう平等はあまりよいものではない。 (私は具体的には避妊ピルのことを考えている。)まあここはいろいろ議論ありそうなところ。

避妊手段が女性のコントロールばっかり考えているっていう批判はもっとも。もっといろいろ方法があればいいのにね。(でもまずは女性が自分でコントロールしやすい方法を手に入れるのは私はよいことだと思う。)

避妊が失敗したときの負担は、圧倒的に女性に偏っている。そして、男性が肩代わりできる負担はほとんどない。この当たり前のことが、男性が避妊を怠る最大の要因であることは十分認識しておく必要がある。

ここらへんまでその通り。異議なし。問題は「避妊責任の実体化」の節。こっから話がヨレているように見えるんだよな。

とりあえずこの手の複雑な問題について、なんでも「法で規制しろ」ってのはいろいろ問題がある。立法措置とはなじまないタイプの問題ってのはけっこうあると思うんだよな。この手の問題が立法になじむかどうか。

さて、避妊責任の実体化についてこの辺で考えていこう。男性が孕ませない責任を実行するようにするためには、どうすればいいか。ここでは法制化の方向で考えていきたい。実体化が必ずしも法制化を必要とするわけではないが、社会規範に頼れない場合、もしくは規範自体が問題を含んでいる場合は、法的強制力に頼るしかないように思うからである。セクシュアル・ハラスメントについての大学や企業の対応が、訴訟など法的措置ぬきでは変わらなかったように。

でもまあ「セクハラ禁止法」などは作る必要はなかったろう。既存の法にもとづいた訴訟ですませることができればそれで十分。

女性は孕む性である。しかしそれは、所与である。自分の身体はできるだけ自分で守りなさい。これは、自由主義の基本とも言えるかもしれない。国家や共同体の介入を最小限にとどめておくことは、確かに重要かもしれない(19)。しかし、それなら「半々の責任」の実現は不可能だ。男女が半々に責任を負う社会にするのであれば、この自由主義的主張は一部修正せざるを得ない。「自然の不均等」をなくすのであれば、「社会的アファーマティブアクション」を求めるしかない。

まあこれなんだよなあ。私はあんまり賛成できない。「女性の性の解放」がよいものかどうかあんまり自信がないけど、女性の性的自己決定はすごく重要な気がするし、それをそういう法制度でなんとかしようとか、なにがなんでも「半々に責任を負う」とかってのを実現しようってのは実践的にどうなのかなあ。

しかしまあ宮地先生の問題意識はわかる。

沼崎が避妊責任を、女性には実際には問わない理由は二つに整理できる。一つは、現在の男女関係のあり方の中で、女性に交渉責任を課すべきでないということ(「男女間の不均等な権力関係という文脈においては、女性から男性にコンドームの着用を頼みにくいという構造がある」(21) )、もう一つは女性は妊娠による負担を重くせおうから、そのかわりに男性は避妊の負担をおうべきであるということである。

あとで見るつもりだけど、沼崎先生の「避妊責任」は事後的な非難可能性の話なんよね。つまり妊娠してしまって中絶とかってことになったときに、女性を非難するのはおかしい、むしろ非難されるべきは男だ、ってこと。まあ悪くない立場だと思うけど、ここらへんはいろんなケースがあるだろうとは思う。私自身はどういう場合でも(特に妊娠初期の中絶については)たいした非難は必要ないという立場に立ちたいと思うのだが、まあそうもいかんだろう。でもとりあえず沼崎先生がそういう文脈で「避妊責任」ってものを考えていることは重要だと思う。

んで、宮地先生は沼崎先生の議論を次のようにみる。

第一の理由は、現状では配慮に値するが、女性の主体性を軽視する事にもなりかねないので、私には賛成できない。「避妊してよ、しないならエッチしないよ」くらいは言える女性でなくてはならないのではないかと思うし、それはノースリーブを着て強姦されたときの被害者非難(22) とは違うと思うからだ。

私も宮地先生と同じように賛成できない。春先に某先生が新入生に対して「そういう男とはつきあっちゃいけません」と説教していたが、ある程度の判断力を求められる年齢になれば、それでいいんじゃないだろうか。

しかし、第二の理由はかなり説得力がある。すでに見てきたように、避妊負担は分担できても、避妊が失敗したときの負担を男性に負わせるのは困難だ。それならば、失敗したときの負担は女性が負うのだから、避妊の負担くらいは男性が責任をもつことが、全体の負担のバランスをとることになる。この論理は、妊娠期間中は女性が負担したのだから、出産後の育児は男性が中心にすべきという主張と似ている。現実には、妊娠する女性が育児責任も負わされ、妊娠して困る方が避妊しろという論理がまかりとおっているのだが。

こっちは沼崎先生の見解にも宮地先生の見解にも異論がある。妊娠に関して女性の方がより多くの負担を負うことになるのはその通りなんだと思う。男は逃げるかもしれないけど女は逃げられない。しかしここから、「避妊に失敗した負担は女性が負うのだから、避妊の負担は男性が「責任を持つ」ことが全体の負担のバランスをとることになる」といえるだろうか。

キーポイントになりそうなのは、宮地先生がこだわる「半々」であるように思える。問題がたんに「負担」であるならば、負担の負い方はもっと他にもありそうだ。たとえば、ホテル代は男が持つ、男は女にいろいろプレゼントする、デート代全部男が持つ、結婚したら男がいっしょうけんめい稼ぐなど。実際に多くの人びとの性的関係はそうなっているように見える。もしこういう対案がばかげてみえるのであれば、その理由はなんなんだろう。

それは、セックスという限定された局面で負担を平等にもつべきだ、ってことなんだろうけど、避妊は男の仕事、産んだり中絶したりするのは女の仕事、とかってのはなんだかぜんぜん半々でも平等でもないように見える。上のようなデート代の「負担」も同じ程度に平等かもしれんし不平等かもしれん。

いやいや、これは単なる経済的・精神的負担の話じゃなくて、けっきょくは「誰が非難されるべきか」の話なのだ、と考えればまだ少しわかりやすくなる。けっきょく、「女はそういうことを(文化・経済・その他の理由によって言いにくいのだから、まともな男はちゃんと避妊すべきなのだ、そういうことしない男こそ責められるべきだ」ならまあわかる。

で、まあ宮地先生のユートピアの法律。まさか本気で考えているのではないと思うのだが。

これを法制化するとどうなるだろう。

まず、女性が妊娠すると、合意の有無をとわず男性は強制妊娠罪に問われることになる。

とりあえず妊娠は(prima facie 他に特段の理由がなければ)悪しき結果なのである。

強姦と和姦の境界をめぐる争いは一切しなくてすむようになる。男性は「女性が妊娠を望んだ」「女性が避妊つきの性交を嫌がった」と言い逃れするかもしれない。けれど、男性は自分が子どもを望まないのであれば、女性の依頼に屈することなく避妊をすればよい。

あるいはこっそりパイプカットでもしておけばよい。

また、双方が妊娠を望むなら、女性にその旨の契約書を書いてもらい、男性が保存しておけばよい。要は、双方が明確に妊娠を望むときを特殊な場合とみなし、通常では男性が避妊とその失敗の責任を負うというふうにするわけである。

子どもを作ったりすることは計画的な契約関係であるべきであって、われわれに降りかかる偶然事であってはならないのかもしれん。そうなのかな。そうであるならばわれわれの生活はより豊かになるんだろうか。わからん。

「生殖のための性」の現実の割合の低さを考えれば、また妊娠を望むカップルの相互信頼度の相対的な高さを考えれば、妊娠を望まないときではなく、望むときに契約するというのは理にかなっているのではないだろうか。性と生殖を分離しようとする欲望をすでに今の社会は認めているのだから、それを明確化するだけの話である。

宮地先生が注で認めているように、現状の世界でも、実質的に婚姻関係がそういうもんなんだろう。

そして、望まない妊娠をした女性は中絶しても出産してもよいことにする。中絶や出産による女性の労力や心身の負担、費用については男性が一切責任を負う。また、出産しても女性が特に養育を望まなければ、養育責任は男性が全面的に負う。

ここらへんの養育費の問題はいまよりもっとしっかりした方がいいんでしょうね。これは認めます。

強制妊娠罪には、強制中絶罪か強制出産罪のどちらかが必ず加わると考えることもできるだろう。女性は妊娠したから中絶をしたいのであって、中絶を元々望んでいたわけではないし、中絶は妊娠と別に女性に負担をかけるのだから。また、出産を女性が選ぶとしても、それは代理母になるのを強いられたようなものであり、女性の養育責任とは切り離すべきである。したがって、男性の認知や結婚が責任をとったことにはならない。つまり、強制妊娠罪を侵した男性は、どちらかの罪を重ねるしかない。一方、女性は身体変化を経験するという「自然的義務」がある分、その経験を経た上での最大限の選択が許されるべきである。

こういうふうになんでも「強制」と見る見方はわたしにはあまりにも主体性がないように見えるんだが、どうなんだろうか。「強制」についてはのちほど。

男性に酷すぎるという声が聞こえそうだ。しかし、いやなら避妊をすればいいだけの話である。簡単に自衛手段は手に入るのだから

避妊の失敗の可能性を考えれば、いやならセクロスしなければいいだけの話である、の方がよさそう。なぜそう書かないのだろうか。

うーん、宮地先生の議論はなんでこんなに奇妙な感じがするんだろう。おそらく、実質的な結果より「半々」とか「責任」とかそういう大義の方を優先しているからか。 この時点(1998年)ではまだ避妊用低用量ピルが認可されていなかった*3。私は宮地先生は女性の安全のためにまさにこんな奇妙で実現不可能に見える法制度を夢想するんではなく、ピルの認可こそを求めるべきだったように思えるのだが、どうなんだろう。性病の問題はピルでは解決しないけど。

まあでも、こういう宮地先生の夢想的なのは、次のようなことを言いたいがためのレトリックと読むのがよいのだろう。

男性が毎日、排精子抑制剤をのむ日を想像するとSFのように感じてしまう今の私たち。逆は既に現実になっているにもかかわらず。それほど私たちは性差別的な社会に生き、それを当然と思わされているのだ。また、以前はSFとしか思えなかったことが現実に今、医療などの分野でどんどん起こっている。セクハラやデートレイプなど、一昔前なら女性の落ち度とされ、法律で扱うことなど考えられなかったことが、徐々に法的処罰の対象になってもきている。

そもそも強姦された女性が訴えるなんて考えられなかった時代だってある。いまだにそういう社会もある。したがって、強制妊娠罪の概念もその境界線も、今は突飛なように見えても、そのうち人々の意識になじんでくる可能性は十分ある。「できちゃったのよ。責任とってよ」という程度には、望まない妊娠が「男性の非」であるという認識を、すでに多くの女性はもっている。

ここらへんは宮地先生の正統派フェミニストとしての面目躍起。ここらへんはまあわかる。でも「僕パイプカットしてるからね」は一部の人は口説き文句だと思ってるかもなあ。そのうち「僕、薬飲んでるから」とかってのが現実に使われるときが来るかな。それをSF的だってだけじゃなくて、なにか邪悪なところがあると思う人もいるかもしれない。どういうことなんかな。あんまり完全に生殖と切りはなされたセクロスはなんか邪悪なところがあるのかもしれない。想像だが、森岡先生はそう感じるんじゃないだろうか。女性が「私はピル飲んでる」と言いにくいかもしれないのと関係があるだろうか。ここは興味あるところだなあ

んで、一番大事なところ。

孕む性を負担としてのみ議論してきたが、この前提は問題ではあり得る。孕むことを喜びとする女性もいる。孕む性を武器にすることもある。孕むことのできる性をうらやましく思う男性もいる。孕みたいときと、孕みたくないときで別に考える必要があるのだろう。ここではあくまでも女性が孕みたくないときに孕まされることの害を言おうとしているだけである。

OK。ではなぜ副作用がなく確度の高いピルを求める論文にならなかったのだろうか。私はそっちの方が気になる。そりゃやっぱり男性にも「責任」なり負担なりを負わせたいからだ。でもそれってほんとに必要なんだろうか。(もちろんそうでもいいんだけど、そうしようとすることで悪い結果が出るとしてもそうなんだろうか。)

男性は父子関係をはっきりさせたいという欲望と、はっきりさせずにおきたい欲望を持ち、それぞれの場合で場所を使い分けている。永田は、性の市場化をめぐる分析の中で、結婚と売買春との根本的な違いを、男性の再生産責任の有無におく。結婚(恋愛は準結婚である)とは男性の再生産責任を負わせる制度であり、売買春市場は男性の再生産責任が免除される場であるという指摘である(30)。これは、前者の場では、男性は父子関係をはっきりさせたいという欲望を、後者でははっきりさせずにおきたい欲望を満たすと言い換えることもできるだろう。・・・一方、女性はどちらかの場に割り当てられ、両方の欲望を満たすことは許されない。・・・父子関係が母子関係ほどはっきりできないことは、現時点では男性による女性のセクシュアリティの管理の要因でもあり、手段でもあるのだといえよう。

この指摘は鋭い。ここらへんが正統派フェミ。まったくその通り。ヒューム以来、ファイアストーンも進化心理学も指摘している。まさにセクース論の核心の一部。おそらく問題は、たとえば父子関係が遺伝子検査によってはっきりするとしても(もう8万円ぐらい払えばはっきり時代)、われわれの心理はそういう技術革新についていってないってことかもしれん。我々の欲望は石器時代のまんまだ。人間の本性(あるいは自然的傾向性)があるとすれば、それほど簡単には変わらん。道徳教育によって変えるか、法制度によって強制するか、技術によって回避するか。教育は一部の人びとにしか効果がないかもしれん。法律ぶんまわすのはいろいろ注意が必要、となれば、わたしだったら教育(一部の人にしか効果がないかもしれない)とあんまり侵襲的でない技術でなんとかしたいと思う。もちろん法制度が有効なら使いたいけど、実践的にはむずかしそうだ。

そして最後の箇所。

そしてもっと重要なのは、妊娠の負担に気づいているからこそ、避妊しない性交を行なう男性もかなりいるのではないかという点である。孕む危険をもたせることで、女性の行動の自己規制を促す。身体につながれざるをえない女性と、身体から自由な男性との格差を楽しみ、生物学的格差を利用して、女性のセクシュアリティをコントロールする。明確にその意図を自覚しているかどうかは別として、そういう男性は決して少なくないはずである。

女性が負う妊娠や中絶の負担に気づいていないだけであれば、女性と話し合い、想像力を用いることで、男性の行動は変革されるかもしれない。けれど、気づいた上で、その格差を利用している男性の行動をどうすれば変革できるのだろうか。権力バランスの逆転か、同じ負担を人為的に男性に与える社会的システムの構築か、法的な制裁か。

宮地先生はよくわかってるなあ。妊娠だけに関していえば、やっぱり私はピルで解決したらいいんじゃないのと言いたくなるのだが、けっきょく宮地先生が言いたいのはもっと広いセクシュアリティの不平等なりなんなりなわけだ。

そういう男性的セクシュアリティの闇の部分に思いをはせていらっしゃるな。でもそういう男性的なものの闇だけでなく、おそらく同じように女性的セクシュアリティの闇の部分にも気づいているだろうから、そっちの論評も読みたくなってきた。そういや手元に新刊があるのに読んでないや。

宮地先生が気づいている(森岡先生も)のに十分論じていないと私に見えるのは、そういう宮地先生や野崎先生や森岡先生が嫌うタイプのマッチョな男に魅力を感じる女性がかなりの数いるように見えるところなんよね。宮地先生にはそこを論じてほしいんだが。そういう男が女性とのセックスへのアクセスをまったく失なってしまうのであれば、問題は起こらないのだが、マチズモは実は女性へのアクセスを増加させる一要因でさえあるかもしれない。(少なくとも一部の男性はそう思いこんでいる。)肉体的・物理的・経済的・社会的な力によって「強制」しているだけではないかもしれん。ここらへんが恐いところ。

あ、宮地論文の注15「沼崎前掲p92では、正確には「膣内射精」を性暴力としている。細かいことだが、いわゆる膣外射精でも妊娠可能性は十分あるので本稿ではこの言葉を用いない」私もその方がよいと思います。賛成。

注29も宮地先生はよく見えてると思わされる。父子関係がはっきりしちゃうと不利益を受ける女性もかなりいると思う。もうその不利益は現実のもの。でもそういう技術に反対するわけにはいかんだろうなあ。

注33「避妊に対して「自然に反している」「女性性が損なわれている」と感じる女性もいるようだ(森,飯塚,谷澤ら前掲p367)。避妊なしで性交をしてしまう女性の心理も分析が必要であろう。 」ふむ、そうです。

あ、卒論とか書いている学生のための注。宮地先生はまもってないけど、ページを示すときのpのうしろにはピリオドつけてください。p95じゃなくてp. 95ね。複数ページはpp. 91-95のように。

うーん、宮地先生の論文は昔ざっと読んだときよりずっとよく見えるな。すばらしい。他にもいくつか疑問があるけど、沼崎先生のに行くか。

沼崎一郎「〈孕ませる性〉の自己責任:中絶・避妊から問う男の性倫理」

『インパクション』105号、1997。

タイトルの「自己責任」よくわからんよね。「〈孕ませる性〉の責任」でいいのに。なんで「自己」なんだろう?

この論文はまあ中絶の責任は誰にあるかっていう論文で、中絶は不正であり、その不正の責任の多くは男性が負う、ってことだわね。まあいいんじゃないでしょうか。具体的には、中絶は男性から負わされた妊娠という損害を回復するための、あるいは権利回復のための手段とみなすべきであるということらしい。(p.94あたり)かなり微妙な主張。妊娠を従来のような「女対胎児」の問題ではなく、男女関係の問題と見るんだなあ。斬新な主張だけど、男に注意が行きすぎているような気もする。

ピルに関してはこんなかんじ。

たとえ夢のピルが発明されたとしても、それは女性にとって避妊手段の有効な選択肢が増えるということを意味するだけであって、女性にとってピル服用の義務が生じるわけではない。女性には、ピルを選ぶ自由とともに、ピルを選ばない自由もある。この二つの自由を両方ともに承認する義務が男性にはあると、私は思う。そうしなければ対等なパートナーシップは築けないからだ。

ピルの有無にかかわらず、女性だけでなく男性にも〈避妊責任〉はある。どのような避妊手段を選ぶかは、女性と男性とが対等な関係のなかで話し合い、決定すべき問題だ。まして、副作用のないピルはまだ発明されていない。ピル任せにはできないし、ピル任せにはしてはならない。現状では、膣内射精は〈性暴力〉なのであって、男たちは、主体的に〈避妊責任〉を引き受けなければならないのだ。(p. 95)

お説教としてはもちろんOK。でも、女性には避妊しない男とはセクースしない自由もあるし、そもそも男なんかパートナーにしない自由もあると思う。それに、男が「主体的に」責任を引きうけるってのはよいことだが、こういう書き方をするからたんなるお説教になってしまい、もしかするとこういう発想がより多くの不幸を生みだすかもしれんと思う。社会政策とかを考えるのであれば、「主体性」とか信用ならん。「主体的に引き受けろ」とかいって主体的に引き受けたりするのは一部の良心的な人だけだもんね。そもそもわれわれはそんないつもいつも主体的だったり良心的だったり理性的だったりするもんじゃないような気がする。こういう論文が先にあったと思えば、「そんなもん信頼できないから法によって実体化せよ」という宮地先生の論文の意味がわかるね。まあとにかく道徳なんて当てにならんので、なんか「実体化」したいわけだ。宮地先生はまともだ。なんか読みなおして宮地先生の評価が高くなってしまってちょっと意外。さて、そうなると、この沼崎先生と宮地先生の論文を掘りおこした森岡先生の意図はどうなんだろうなあ。

と、とってきたままで放っておいてた沼崎先生の「男性にとってのリプロダクティ・ヘルス/ライツ」も軽く目を通したり。ふむ、父親としての自分を自覚していろいろ考えていらっしゃるわけだ。男にはパートナーとか子どもに対する「義務を果たす権利」がある、ってことらしい。沼崎先生の善良なところがわかってけっこうよい。「男性も生殖にかかわらせろ!」って感じ。こういうのがフェミニズムに対抗する意味での「男性学」(男権主義?)なのかな。この論文が載ってる『国立婦人教育会館研究紀要』第4号、2000は他にも重要な論文載ってそうだ。あと

男性論―共同研究

男性論―共同研究

が重要そうね。手に入れにくい。

森岡先生ふたたび:(a)妊娠可能な女性

さて、森岡先生のに戻るか。

以上を振り返ってみれば、「強制妊娠を導いた膣内射精」という性暴力には、次の三つの特徴があることが分かる。(1)この性暴力は妊娠の可能性をもった女性に対して特異的に行使される暴力である。男性や、妊娠の可能性が生物学的に生じない女性に行使されることはない。(2)膣内射精によっていったん受胎が起きたら、あとは女性の意志とは無関係に妊娠が自動的に進行していくという、生物学的な不可逆性が存在する。女性が自分の意志によってそれを食い止めるには、中絶しか残されていない。(3)「強制妊娠を導いた膣内射精」という性暴力は、事後遡及的に構築される。この意味でそれは無期限の潜在性を持っている。

(1)はなんかすごい。どうすごいのかはよくわからん。なんで森岡先生にとって妊娠がそんなすごいことなんだろうか。

(2)はまあそうなんじゃないのかな。

(3)はぜんぜんだめだろう。このタイプの議論をとれば、どんな暴力も無限にインフレしそう。

この、「特異性」「不可逆性」「潜在性」の三点が、「強制妊娠を導いた膣内射精」という性暴力を特徴づけていると言えるだろう。「潜在性」については、強制猥褻やセクシュアルハラスメントなどの性暴力においても見られる特徴であるが、「特異性」「不可逆性」については、膣内射精という性暴力に限って見られる特徴である。

うーん、ここでよく考えると、「特異性」のポイントはよくわからんけど妊娠という現象の特異性なんだよな。でも胎児が妊娠されて不利益を受けることはめったにないと思うので(どんな人生もたいていはそれなりによいものである)、それは胎児なり新生児なりの不利益ではなく、女性の不利益なんだろう。私自身はそれを(だいたいのところ)不利益と呼んじゃうことに抵抗を感じるけど、まあそうなんかな。でもこれの意味するところをよく考えると森岡先生が考えているのは、まだ妊娠の能力のない女児や、同じく妊娠の能力のない年配の女性とセクロスして射精することは、妊娠期の女性とセクロスして射精することより(他の条件が同じであれば)よっぽど悪い、ということのように思える。そしてこれがまさにおそらく森岡先生の考えていることなんではないかと思う。

このことに気づくと、なんか気持ち悪いんだけど、ここでデイヴィッド・バスやクレイグ・ソーンヒルのような進化心理学者がレイプについて語ってることを参照するのはけっこう重要だろうと思う。

人はなぜレイプするのか―進化生物学が解き明かす

人はなぜレイプするのか―進化生物学が解き明かす

  • 作者: ランディ・ソーンヒル,クレイグ・パーマー,望月弘子
  • 出版社/メーカー: 青灯社
  • 発売日: 2006/07
  • メディア: 単行本
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女と男のだましあい―ヒトの性行動の進化

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ここらへん。進化心理学の推測によれば、女性は妊娠の可能性があるときの方がそうでないときよりも性的な攻撃(まあレイプでいいけど)に対する苦しみが大きく、またそれは実証によっても支持されている、とかそういうこと。早い話、女性は痴漢にあってチンチン見せられたり、フェラチオさせられたりするより、膣内射精されたときの方が被害を大きく感じる。(だから刑法も強制わいせつと強姦を区別しているわけでもあるのだろう)これは年齢的なのもあるらしい。レイプのトラウマは妊娠可能な年齢のときの方が大きい、とか。(いまちょっと参照する時間がないのでこのまんまだけど、たしかどっちの本にもあったと思う。)

森岡先生のカンは、おそらくここらへんをとらえているんだろうな。さらにやばいことに、そういう射精をともなうレイプをした犯人は、めったに被害者を殺さない。っていうかレイプ犯が被害者を殺すことは予想に反してあまりない。ここらへんから推測すると、レイプとかってのは男性の生殖戦略の一部であるかもしれない。(ソーンヒルたちはもうひとつ生殖戦略の副作用であるって仮説も出してるけど)またわれわれは、そういう繁殖の成功が(至近因ではなく究極因として、つまり自分でははっきり意識はしてないけど)さまざまな行動の原因かもしれない。宮地先生や森岡先生が勘づいている「男性的セクシュアリティの闇」は、けっこう生物学的な基盤をもってる可能性がありそう。「人間の本性」の一部かもしれん。これは難敵ですよ。どっちも邦題からするとヨタ本かと思われそうだけど、そんなことはない。堅いのが好きな方は英語でもよければ

Evolutionary Psychology: The New Science of the Mind

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でももちちろん、「メスに子どもを生ませたい」ってのが人間のオスの行動の究極因であるとしても、それが道徳的にしょうがないとかそうそう思うべきだってことにはならない(おそらく可能ならば暴力によって他のオスを排除しようとするのも人間のオスの本性かもしれないけど、暴力がしょうがないとか正しいとかってことにはならん)。むしろだからこそ、そういうものをコントロールするのが道徳や法であり、また技術なわけで、そこらへんあれなんだけど。宮地先生のアイディアでうまくいくかな。そもままじゃうまくいかなそうだ。どうしたらいんだろうな。

(b)事後遡及

これはまあ法律とかそういうきっちりしたことを考えるときは問題にさえならないだろう。これは私には(1)法的な可罰性、(2)道徳的な非難可能性、(3)道徳的な罪悪感/良心の三つの問題を混同しているように思える。

おそらく、本気で法について考えるなら偶然的に事後的に結果が出るなんてのは採用できない。でも道徳的な罪悪感についてはそうは言えないかもしれない。森岡先生が議論しているのは、実は法の話じゃなくて、少なくともそう感じるべきだ、という罪悪感の話なんだろう。むしろ、罪悪感を法によってそれを感じない人びとに押しつけようとしているのかもしれない。

うーん、でも一眠りした方がよさそうだな。

書きかけ。まだまだ続く。

*1:あとで「とりあえず」がそんな簡単じゃないことは議論したい。

*2:半分は本気かも。あとで書く。

*3:バイアグラとの抱き合せという馬鹿げた事情によったのは関係者は爆発すればいいのにとか思う。

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『フェミニストの法』続き

昨日書いた部分はけっこう気になっているので、もうちょっと。(下では最初、subversiveを「攪乱的」と訳してたけどやっぱりなんかおかしいので「転覆」に一括置換した。よけいにおかしくなったかもしれない。) 続きを読む

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若林翼先生の『フェミニストの法』読んでみる。

気鋭の若手法学研究者。私は若手研究者が好き。若い人は覇気があり勉強していてすばらしい。気になったとこだけいつものように重箱の隅。

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