「ジェンダー論」の文献は難しすぎる(千田有紀先生の場合)

ジェンダーまわりの議論というのは、論文よりもツイッターのようなSNSやブログでなんか議論されていることが多くて、どうしてもそういうのを見ないわけにはいかないのですが、ここ数年トランスジェンダーまわりが激しいやりとりがつづいていて、興味もたずにはいられません。


トランスジェンダー(トランス)まわりは、当事者じゃない人間がそれについてコメントするのさえなにか不道徳なところがある、という判断もあるようで、私のようなものが口を出すのははばかられてずっとコメントなにもしないままだったのですが、最近「トランスジェンダーに関して卒論を書きたい」というような話を聞くようになって困ってるんですよね。いまんところ、「私はよくわからないのでそれはおすすめしません、文献も私が読んで理解できるものはあんまりありません」みたいな答になってしまいます。

国内ではとくに千田有紀先生が問題提起をしているようですね。そしてツイッタでわりと強めのことを主張しているようです。 https://twitter.com/ekodayuki/status/1546250891090464768

しかしこの文章、私よく読めないんですよね。そして学生様に読んでもらうのもためらわれる。

この文章は千田先生の論文「フェミニズム、ジェンダー論における差異の政治:平等から多様性へ」(『社会学評論』、2022)という新しいものの末尾部分です。論文は全体で16ページ。フェミニズムの歴史をふまえた上でこれからのフェミズムと「トランスジェンダー問題」と呼ばれるものに関する将来の議論を提案しているもののようです。

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とりあえず、上のツイートで千田先生があげてる文章を私がどのように 読めない か、を指摘しておきますね。

(1)まず、「開かれた諸関係を選択せず」がわからない。もちろん批評対象にされている清水先生と千田先生自身はわかってるんでしょうが、「開かれた諸関係」がどういう関係か説明してもらいたい。文脈を配慮すれば「生物学的女どうしでかたまってないでトランスの人にも開かれた友好的な関係」ぐらいでしょうか。

(2) 次の引用「特定の性的・身体的な傷つきやすさ〜女性の均一性〜」のところは、おそらく、フェミニズムは直訳すると「女主義」みたいなものなので、集団としての女性っていうのが大事で、女性としての共通点を強調することで連帯するのだ、とかそういう話だと思うのですが、「均一性」というのはわかりにくいですよね。個々の女性の傷つきやすさ(性暴力にあいやすいなど)が「均一」であるというのはわかりにくい。「同質性」とか「共通性」ならまだわかりやすいですが均一であるというのはどうなのか。

(3) これは千田先生ではなく清水先生の問題だと思いますが、同じ引用文の「傷つきやすさからの保護にこそ女性の連帯の拠り所を」の部分、「傷つきやすさ から の保護」っていうのがあんまり日本語っぽくないですね。protection from their vulnerabilityみたいな構文を意識しているんだと思うのですが、ふつうに日本語にしたら「女性は傷つきやすいので、男性からの暴力など から の保護を〜」みたいなかたちになるはずで、「から」という助詞の対象がおかしい感じがします。

(4) 「過去に受けた〜主張されるのも、〜ゆえとされる」は、このブログでよく主張している受け身の形の曖昧な文章で、できれば「一部のフェミニストたちが、過去に受けた性暴力〜などの恐怖を強調するのは、そうした主張が、感情的に読者に訴える力をもつからだ」のように表現してほしい。こういうのは私の好みではあるのですが、学生様に読んでもらうときもこういう文章はやっかいだと感じます。学生様たちはこういう文章をちゃんと好意的に読んでくれない。

(5) 「近接性のリスク」がわかりませんね。これは清水先生が長い論文でいろいろ書いてくれてるんだろうから、千田先生がちゃんとパラフレーズして「近接性のリスク」というのはなんであるのか解釈を示してくれる必要がある。

(6) 「ここには、フェニミニストの連帯への欲望と〜」の部分は千田先生の論文全体をよめばぼんやりわかります。でもなんで「欲望」って書くんでしょうね。「欲求」なり「必要」でもいいのに。でもOK。

(7) 問題は次です。

女性の「身体的恐怖と性的トラウマ」は、文学テキストの分析であれば妥当かもしれないが、現実の個々人の性暴力経験の評価としては、いわば「セカンドレイプ」として機能しかねず、流石に賛同することは難しい。

これ、私は日本語としてNGだと思います。正しくは、

「過去に受けた性暴力からの性的トラウマや身体的恐怖が主張されるのも、その「圧倒的な訴求力」や「強い情動的喚起力」ゆえ(である)」とする清水の発想は、セカンドレイプとして機能しかねないので賛成できない。もっとも、文学テキストの評価としては妥当な場合もあるかもしれないが、実際の人々の主張の評価としては適切でない。

ぐらいだと思います。しかし、ここまで好意的に読んでも、「セカンドレイプ」というのを千田先生がどういうものとして理解しているのかわからないし、また、セカンドレイプとして機能しかねないから清水先生の解釈が妥当でない、ということも言えていないように思います。なにか自分が納得できないことが言われているときに「それはセカンドレレイプになる 可能性 があります」と指摘することは適切なときもあるかもしれませんが、こうした学術的な文脈ではまったく妥当でない論理であると思います。セカンドレイプ である ことを示すべきだ。さらには、学問的には、仮に一部の人に対して「セカンドレイプ」になってしまうことがあっても主張しなければならないことはあるかもしれない。ここは千田先生から清水先生の文章に対する批判の中心部分であるのに、これでは議論の評価のしようがないように思います。

(8) 「またフェミニズムが〜から定義されているが」も「から」がなぜ「から」なのかわりませんし、「女性の解放からなされている」もよくわからない。定義が「〜からなされる」というのはどういうことなのだろうか。「〜の定義が〜を用いてなされている」ではないのか。

(9) 「バトラーのアセンブリ論」わかりません。説明しないことは書く必要がないのではないか。

(10) 「トランスジェンダーと同様に〜をもつ身体に女性は含まれるべき」ですが男性も不安定で可傷的な身体をもってると思う。まあ女性やトランス女性がシス/トランス男性より傷つきやすいということはあるかもしれませんが、それって比較の問題なのか。

とか考えて、学生様に読んでもらうのはむずかしいという判断になりました。他にもいろいろあるけど今回はこのへんで。(実は続きあるかも/ないかも)

続き書こうとしましたが挫折しました → https://yonosuke.net/eguchi/archives/15642


(追記2022/07/27)

清水先生のも読んでみたところで「セカンドレイプ」のところでもうすこし書いておくと、私が指摘したいのは、

  1. 千田先生は「セカンドレイプは避けられるべきである」ということを自明だとみなしているようだが、そもそもどういうものがセカンドレイプであり、それがなぜ避けられるべきであるのかを一切説明していない。
  2. (読者が前提知識を利用して)女性の性的な被害や不安を過少評価し、被害や不安や恐怖を訴える人を非難したり揶揄したり疑ったりすることがセカンドレイプであるとしても、ごく少数ではあるが被害を詐称する人はいるので、少なくとも法的な場では訴えを疑わざるをえない場合があるわけです。だから「セカンドレイプになりえる」というのは警戒しなければならないことではあるけど、それ自体で強い論拠になるわけではない。
  3. 清水先生は反トランスの人々は性的トラウマや身体的恐怖を強調している(「動員している」)と言うわけですが、それを「セカンドレイプになりえるから受けいれられない」とするのは単純すぎて反論や批判になっていない。なんにしても「セカンドレイプになりかねない」なんていう1行や2行で他人の複雑な議論をやっつけるのはふつう無理です。評価もしようがない。批判するならもうすこし共感的に読んであげて字数使って反駁するべきだと思います。
  4. 「セカンドレイプになりかねないので同意できない」だけでなく、おそらく清水先生は、女性の被害経験や恐怖がひきあいに出されるのはトランス女性をいろんなところから排除するためだろうとか、その恐怖は実は、これまでもすでにまわりに「埋没した棘」をもってる(トランス)女性がいたということに気づいたことに対するものだろうとか、あんまり(私には)根拠があるのかないのかわからないことを主張しようとしているので(よくわかりませんが)、そこらへんも検討してもらえればよかったのではないかと思います。

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