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セックス経済論 (10) ちょっとだけコメント

しかし投げっぱなしだと誤解されそうなのでちょっとだけコメント。

バウマイスター & ヴォース先生たちの「セックス経済論」は、社会学でいう「社会的交換理論」の一バージョンですね。まあ経済学も含め、非常に一般的な理論というか考え方なので、名前なんかいらないくらい。バウ先生たちは、経済学者のゲイリー・ベッカー先生の The Economic Approach to Human Behavior (1976) 1 の四つの想定をひきあいに出してます。

  1. 個人は、比較的安定した選好にもとづいて、コスト・ベネフィットに応じた選択をする
  2. 希少資源は価格の調整によって配分される。
  3. 財やサービスの販売者は互いに競争する(購買者も競争することがある)
  4. 個人は結果を最大化しようとする。

まあこうしたシンプルな理論がどんだけ射程が長いか、っていうのがわかる話になってます。

2004年の段階で、バウ先生たちのが 理論として どれくらい新鮮だったかというのはよくわからない。このシリーズ読んでくれたひとの多くは「そんなんあたりまえやろ」ぐらいの印象の人が多いんじゃないかな。わざわざ「セックス経済学理論」みたいな名前つけてあざといですね。でも先生たちはその後ずっとこのラインで議論していて、そこそこいけてると思ってるみたいです。

2004年の時点で、ジェンダー問題については、社会構築主義的なフェミニズム理論(男性支配!)と急速に勃興中の進化心理学が、男女関係を考える主な「セオリー」だったわけですが、どっちも「男性が女性を支配する」っていう形で見る傾向があったわけです。2020年代の心理学はさすがにそんなに単純な形にはなってないですが、バウ先生たちの論文の新鮮さは、進化心理学と同様に男女のあいだの性的関心・性欲の生得的な性差、というのは前提にしながら、男性が単に「支配」を欲求するようなハードワイヤードな傾向をもってるんではなく(もちろん女性が支配されることを望むような欲求をもっているわけでもなく)、状況・環境に応じて戦略を変更するような存在として見るという点、そして男女の間にあるのは支配・従属ではなく、むしろ交易・交換・協力だ、ってなところでしょうな。もちろんその交易や協力が強制的・搾取的になってしまう場合もある。そんでも、男女関係におけるアクターとしての女性の有利さっていうのはまあ常識的(少なくとも私の常識)に合致しているところがあるように思います。

しかしまあ男女の間で交換しているのはもちろん、女からセックス、男から金、だけじゃないのはほぼ自明っすからね。実際には他にもいろんなものを交換し協力しているわけで、まああえてこんな単純にした「理論」というのはなんであるのか、みたいなのはよくわからない。でもまあセックスと性欲(そして生殖)を中心に考えると相当のところが説明できる、っていうのはまあ進化生物学的な発想の強みではありますわね。

ちょっと時間があったので「セクシー化/セクシャル化」と「男性支配」についてだらだらメモ書きましたが、まあここらへんはおもしろいので、みんな(特に若い人は)勉強がんばってください。

実践的に、セックスや恋愛がんばってくださいというつもりはないです。がんばらないでください。でもセックスを中心に男女が交易しているという点にはなにほどかの真理があるでしょうから、モテたいと思う男子はちゃんと交易するための資源用意しといた方がいいだろうな、とは思いますね。素敵なテニス選手の方みたいな人から「私は高価料理メニューなので、あんたたちはそれ払えないでしょ!」とか言われるとつらいですからね。それは現ナマである必要はないはずなので、お金がないひとは海辺できれいな貝殻拾ってくるとか工夫してください。

注意として、進化心理学とかセックス経済論とか、そういうのを勉強すると、すぐに「 悪いのは 女性だ」みたいな発想する人がいるんですよね。こうした人間の「本性」や社会の仕組みみたいなのに関する「理論」や説明、解釈を、すぐに道徳的な善悪の判断や規範的判断(「よい/悪い/不正だ/罰を受けるべきだ/〜するべきだ」)に結びつけてはいかん。

実際のところ、学界でもセックス経済論をそういうふうに解釈して、「バウたちは女性たちに〜という現象の 責任 があるresponsible と主張しているが〜」のような人たちはけっこういます(Laurie Rudman先生とか)。バウ先生もヴォース先生も「女が悪い」とかそういう話はしていないし、道徳的な意味で「責任がある」みたいな話もしていない。まあ「このセックス中心の見方をすると、これこれの事象が他の理論(特にフェミニスト理論)よりはうまく説明できるっぽい」ていどの話で、誰が悪いかとか、よりよい社会(おそらく、公平で多くの人々が幸福に充実して生きられるような社会)をどう作ればいいかとういうのはまた別の話です。いろんな「理論」をすぐにまにうけて善悪の判断したり社会革命とか起こそうとするのは危険なので用心しましょう。それに「理論」っていったって、こういうのはぜんぶ 単なる仮説 だからね。他の理論より事実をうまく説明し、まだ見つけられない他の現象を予測できるかどうか、ぐらいの判断基準しかない。


(追記)

セックス経済論と「セクシー化」や「男性支配」との関係についてうまく書けてないですが、まああんまりよく考えないのでしょうがないです。

「セクシー化」は、セックス経済論が指摘し予想する女性どうしの競争となにか関係があるだろうとは思います。

「男性支配」に関してはヴォース&バウマイスター先生たちがはっきり述べてるとこがあるのでちょっと引用しておきますね。

セックス経済論(SET)は、進化的原理をもとづいた理論だが、この原理を市場という文脈の上においている。この市場という文脈は、定義によって、文化的に構築されたものである。……SETは、男性の相対的に強い性欲と、それを得るためにできるかぎり小さな代償を払おうとするという動機から、男性が女性を支配しようと試みることを説明するのだ。(Vohs & Baumeister 2015)

セックス経済論は、進化心理学的な理論とも、社会構築主義的なフェミニスト理論とも矛盾するものじゃないっすよ、と言いたいようです。ラッドマンさんなんかはセックス経済学を「家父長制的だ!」っていって非難してますが、現状とその原因の解釈としてはそれほど家父長的ではない、というかセックスと性欲という眼鏡で社会を見てみて、どう解決するか考える一歩にはなるかもしれないと私は思っているわけです。まあこの眼鏡はずいぶんとあらっぽいもので、不快に感じる人は多いかもしれませんがねえ。

【シリーズ】

脚注:

1

あれ、この本自体は翻訳ないんすか。

セックス経済論 (9) 女性のセクシュアリティの抑制

女性のセクシュアリティの抑制

多くの文化で女性のセクシュアリティ1が抑制されているとされます。まあ女性の性的な活動は好ましくないとか、性的な魅力をみせびらかすような服装はつつましくないとか、極端なケースでは女性の性的な快楽を削減するために性器に外科手術を施す(FGM)とか。

昨日飯山陽先生の『イスラム教再考』という本めくったんですが、後ろの方はイスラム文化がものすごく女性抑圧的だっていうことを力説していてあそこらの人達たいへんだなとか考えてました。

ふつうの解釈は、そういうふうな女性のセクシュアリティの抑制は、まさに男性の女性支配のあらわれである、っていうふうに解釈される。男性が自分の彼女や妻とかが自分以外の相手を誘ったりセックスしたりするのがいやだから、男性は結託して女性の抑圧している。それはこれはこれでまあ一応筋が通っているように見える。フェミニズム理論でも、(2000年ぐらいまでの)一般的な進化心理学理論でもまあそういう感じ。

こういう発想の背後には、女性のセックスの抑制が 誰の得になるのか 、を考えるという姿勢があります。”cui bono?”ってやつで、犯罪を操作するときなどに、それが誰の利益になるのか考えれば犯人の推定ができる、みたいな発想ですね。女性のセックスの抑制は男性の利益になるのだから、おそらく男性(男性支配)が犯人にちがいない。

ところがバウ先生たちのセックス経済論では、いやいや、女性もお互いのセックスを抑制することで、全体としてけっこう利益を得ていますよ、むしろ女性の利益じゃないっすか、みたいなことを考えるわけです。これは、中東とかの原油産出国が、お互いの輸出量を制限することで原油の値段をつりあげるのに似ている。

証拠はどこにあるのか、っていうと、Baumeister & Twenge 2002ってやつですね。

  • 思春期女子の性的抑制(セクシーな格好の非難とか)は、父親ではなく母親によるものであり、同級生とかの男子ではなく女性どうしによるものである
  • いわゆるヤリマン女子に対する非難も男性より女性によるものが強い
  • ボーイフレンドは自分のガールフレンドとのセックスを抑制せず、むしろ多く求める
  • 婚前セックスを非難する傾向は女性の方が強い
  • 婚外セックスのダブルスタンダード(男性は許されるが女性は許されない)的発想も女性の方が強い、先進国のダブルスタンダードを認めない現代女性も、自分以外の他の女性たちの方が男性よりダブルスタンダードを認める傾向にあると考えている

など。また、FGMの習慣があるような女性の性欲や性的活動を強く抑制する文化では、女性は男性よりはるかに社会的・経済的・政治的地位が低い。これのバウ先生的解釈として、女性は男性よりはるかに劣悪な環境で生活しているので、自分たちの性的能力から最大の利益を獲得しなければならず、そのために他の女性の性的活動を抑制して値段をつりあげる必要があるからだ、ってなことになる。うーん。

まあとにかくセックスを「安い」値段で男性に与える女性は女性から嫌われ制裁を受けちゃうわけですが、それはまさにセックスの価格維持のためだ、みたいな話になるわけですわ。でも個人としてはみんなが堅い行動をとっているときに、ルール破りして柔軟なセックス活動をおこなえば他より先に優秀なお客さんを確保できたりするわけで、ここに女性の性的活動の難しさがある。

まあ前に書いた心理学者たちの「セクシー化」批判みたいなのも、あんまり女性がセクシーなのは好ましくない、という判断が背景にあるのかもしれないですね。

セックス革命

まああとは1970年前後のセックス革命について。避妊技術が一般化して、婚前・婚外セックスが一般的になると、女性のセックスが値崩れおこしてしまい、女性は非常にむずかしい問題に直面することになった。当時のフェミニストの間でもこの革命の評価はさまざまですね。2000年前後でもテレビ Sex and the City でも、結婚を考えながら男性とどうセックスするのかっていう駆け引きやら取引やら戦略やら相談やらでたいへんで、2020年代もそれは変わらんでしょうな。

まあほかにもおもしろいネタはあるんですが、とりあえず「セックス経済論」一回おしまい。バウマイスター先生関係の細かいおもしろいネタは別にあつかうことがあると思います。

【シリーズ】

脚注:

1

ここでは女性の性的な活動や欲求、そして性的な魅力などをひっくるめてセクシュアリティって表現しています。

セックス経済論 (8) セフレ/名誉か汚名か/女性間攻撃/結婚勾配

セックスは(男性にとっては)利得

前の「セックスに対する態度」のところが私にはいちばんおもしろかったのですが、あとは駆け足で。

セックスは女の資源であり、男がそれを他の資源で買う形になっているので、男性があんまり手間かけずにセックスできるというのは利得(benefit)ってことになります。これは男性にとってはあまりにも自明なので言うまでもないことだと思うのですが、女性はそうは考えないわけですわ。(Sedikides, Oliver & Campbell 1994)

何回かツイッタあたりに書いてるんですが、大学で働きはじめたときに、ゼミかなんかでそういう系統の話になってるときに、(性体験の数、特にワンチャンみたいなのをすると)「男は増えるけど「男は増えるけど女はなんかが減る!(のです)」という発言があり、非常に強く印象に残ったのですが、まあそういうことですよね。おもしろいのは、女性はセックスを利得だとは思ってないが、**コストだとも思ってない** とか。バウ先生たちは、女性は特定の相手とならセックスは好きだけど(望めば)簡単に手に入るので利得だともコストだとも思ってないのだろう、とかそういう推測をしています。これはけっこうおもしろい指摘なので、いろんなことを考えるときに頭の片隅に置いとく必要があるかもしれない。「なんで男どもはそんなにセックスセックスって言ってるんだろう?」とか考えている可能性があり、これはもしかしたら将来書くかもしれないシリーズでふりかえることになるかもしれない(なんのシリーズかはまた)。

男性にとっては仲のよい友達とのセックス(いわゆるa friend with benefit、日本でいういわゆるセフレ)はたいへんありがたいものならしいですが、女性は友達とセックスするのは利得だとは思わない。理由はもう自明ですね。

片思いの話なんですが、片思いされてもつきあう気がない場合はそれをあんまりよいことだと思わないのがふつうですが、男性はそれでもつきあう気なくとも告られたらとりあえずセックスする人がいるわけですね。女性はそういうのはない。男性は相手の片思いにつけこんで搾取することがあるけど、女性はないのです。それは単に男とセックスすることにはほとんど価値がないからです。はははは。わかりましたか?

性的経験の多さは誇りか汚名か

まあこれはもういいっしょ。一般に男には名誉であり、女にとっては不名誉です。調査たくさんあります。

女性どうしの攻撃

女性どうしも、優秀な男性をお客として奪いあっている面があるので、競争があります。主に性的な魅力を競うことになり、美容その他努力して性的魅了を向上させて競うわけですが、ライバルを蹴落す努力も大事です。

女性のセックスに価値があるといっても、多くの男性は一般にコストをかけたパートナーが他ともセックスするのを好みません。そこで、ライバルになりそうな女性が性的にルーズであるとか、多くの人に安売りしているとか、そういう噂を流すことによって攻撃します。安売りするひとはローカル市場の相場を落とすのでその意味でも許せませんしね。

社会的地位

だいたいのところ、男女のカップルはなんらかの点でだいたいのところ「つりあっている」ことが広く知られています。学歴・知性・教養とかルックスとか、似たような感じの人々がカップルになります。月とスッポン、じゃなくて割れ鍋に綴じ蓋ってやつですね。

ただ、微妙に「結婚勾配」ってやつがあることが知られていて、これは結婚カップルの男性の方が年齢や社会的地位や学歴や収入その他でちょっと上にあるのが一般的で、これは社会において全体として男性の方が優位な立場にあるからそうなるのだという解釈もあるんですけど、これはあやしい。男女はだいたい同じくらいの数がいるので、もし社会的地位のジェンダー差が原因であるなら、「あぶれる」男女は理想的にはいなくなるのですが、そうなっていない。実際には高学歴高収入女性と低学歴低収入男性が余るというかたちになっています。まあネットではよく論じられてることですよね。

これは結婚だけじゃなくて、カジュアルセックスとかでも見られる現象で、ロックバンドのグルーピー(追っかけ)の人たちとは、自分よりはるかにお金もってるジミーペイジとかロバートプラントさんとかセックスして短期的におつきあいしたりするのですが、この逆のパターンはあんまり見られないみたいです。たしかにマドンナさんやガガさんにグルーピー(グルーパー?)とかと遊んでるって思えないですね。

テニス選手のアンナ・クルニコワさんは追っかけがたくさんいたらしいですが「私はチョーおたかいレストランのメニューみたいなものなの!あんたたちは見てもいいけど、とても払えないでしょ?」(I’m like an expensive menu. You can look at it, but you can’t afford it!)って言ったってんで有名らしいです。ひどいですね。ロバートプラントやジミーペイジ先生はそんなこと言いませんでしたよ!残り読むのがつらくなりした。

あと省略。

【シリーズ】

セックス経済論 (7) セックスに対する態度の性差、特にポルノと売買春

セックスに対する態度の性差

セックスを商品とした男女の交易、っていう観点からすると、男女の間にはセックスに対する態度の差があるはずだ。まあこれもほとんど自明というか常識なわけですが、バウ先生たちはあれやこれや態度の差をあげていきます。セックスの値段が安いと男性が得、高くなると女性が得なので、それぞれそういう態度をとっているだろう、っていうのが理論からの予測になります。んでそういう証拠はたくさんある。

  • カジュアルセックス(すぐにセックスしてぱっと別れる、いわゆるワンチャン)は、圧倒的に男性の方が望むかたち。有名な実験はClark and Hatfield (1989)で、大学キャンパスで魅力的なルックスの男女が異性に対して「今日うちに来てセックスしませんか」って声かけるやつ。ものすごい有名ですね。ひっかかるのは男ばっかり。
  • 男性器は直接にその名前を呼ばれるが、女性器は婉曲的にしか表現されない。おもしろいのは、女性器は、産婦人科学の授業でもあんまり直接には呼ばれないとか。男のは安くてそこらにころがってるけど、女性のは名前を呼べないほど貴重です、とかそういうのだろうか……1

さて、売買春とポルノ。前にも書いたようにヴィクトリア朝時代は女性たちがセックスの値段を非常に高くつりあげた時代なのですが、Cott (1979)によれば、売春とポルノを競争相手として意識して、強い反対運動を行なったわけです。ポルノや売買春が簡単に手に入り、とりあえず男性の性的な欲求が満たされやすくなれば、女性のセックス全体の値段が下がってしまう。そうしたわけで、19世紀後半は非常に強い反売春・反ポルノ運動があったし、それは日本にも輸入されましたね(矯風会とか)。

現代でもポルノに反対したり、禁止したりするべきだという態度は女性の方がかなり強い(もちろん男性にも一定数いますが)。いまだにネットでもよく見る光景です。映画でのヌードとかに反対するのも女性の方が多い。一般に、性的な表現に反対するのは女性の方がかなり多いわけです。

こうしたポルノや売買春といった「性の商品化」(あるいは「性的モノ化」「セクシー化」)に反対する思想的背景というのはなかなか込みいっています。ある種のフェミニストは、女性をポルノ的に描くのは女性に対する侮辱だとか女性を貶めるものだ(degrading)だっていうふうに主張します。でもこれ、なぜヌードやポルノが女性を貶め格下げするのか、というのは私自身けっこう悩まされた問題で、いまだによくわからない。それ以上の説明がない場合が多いから。そこで、バウ先生たちの解釈はこうです。

あるエロティックなフィルムが男女を平等なかたちでセックスしているのを描いているとしよう。なぜそれが女性を格下げするもので、男性についてはそうでない、ということになるだろうか? しかし、仮にセックスが女性の資源だということならばヘテロセックスの描写は、本質的に、男性が女性から何かを得ているという事態の描写ということになる。もし男性が女性におかえしになにかを与えていなければ、そのフィルムが描写しているのは、女性の性的な贈り物がとても低い価値しかないということであり、それはフェミニストの不満が示唆するように、実質的に女性を貶めることになるのだ。(p.354)

わあ、これはおもしろい!ポルノとか(特に現代のものは)セックスしている現場ばっかり(”Gonzo”、ハメ撮り)で、その前後に男性が求愛したり奉仕したりお返ししたりするところが描かれてないので、タダでセックスさせてもらっている形になってるから女性に対する敬意を表現していない!女性だけがあらわれるピンナップとかもタダで見られるので格下げだ!一方、長い恋愛映画とかだとその一部にセックスこみでもかまわん、むしろいい、なんといっても愛とコミットメントがあるから!

ポルノに比較して売買春はもっと強く反対され非難される傾向があるわけです。バウ先生たちがあげてる調査では女性の2/3以上、男性は半分以下。売買春はOKだっていう男性は女性の3倍。何度もいうように、売買春が許容されていることは、ローカルな相場での他の女性のセックスの値段を下げる。

一部の女性の利益ということでは、売買春は合法化した方がその女性たちの利益になる。非合法であるがゆえの大きな危険を減らし、また安全や集客のために世話にならねばならないポン引きたちにむしりとられる分け前を減らすことができるから。んじゃなぜ(当事者ではない)女性たちの多くが売買春の合法化に反対する傾向があるのか。当事者女性の利益を考えるなら、フェミニストたちは合法化に賛成するべきだと思われるけど、なかなかそうはならない。なぜか。

その理由を説明するには、バウ先生たちのセックス経済論がよいだろう、というわけです。女性のセックスの値段が全体に下ってしまうのは女性全体の不利益になるので、価格を下げる可能性のある売買春には賛成しにくいからだろう、と。まあこれはまだまだ研究途上なので、他の解釈もよく考えみる必要はあるけど、セックス経済論は有望でしょ、ってなことでした。おもしろいですね。

【シリーズ】

脚注:

1

榎本俊二先生の下品マンガもわりと好きなんですが、あれも男子のそれは大量に出てくるけど女子のは描けないっぽいですよね。ははは。

セックス経済論 (6) 性暴力/男性不足

性暴力

セックス経済論だと、セックスは財である、って考えかたなので、レイプとか痴漢とかっていうのは強盗やスリに似た犯罪ってことになってしまい、これはおそらく被害者の被害感情とかにそぐわないので不快に思う人はいると思いますね。

しかしこれは加害者の方を考える上では役に立つかもしれない。暴力的性犯罪の加害者は男性が圧倒的なわけで、そうしたものは標準フェミニズムみたいなのでは「男性の支配欲」みたいなのによって説明するわけですが、それでは具合が悪いことは前に一連のエントリーに書きました。基本的にはなんのために「支配」するのかわからんし、そうした男性たちが特に若く魅力的な女性を支配の対象にしようとするのかが説明しにくい。

むしろ、セックス経済論の観点からすると、そうした加害者になりやすい男性は、セックス交易のルールを無視・軽視して、男女の性的な関係一般を各種の手段によって搾取的にしようとするするような傾向の人々だ、と考えることができるわけです。ここでたとえばいわゆる恋愛工学系ナンパ師たちと、痴漢やレイプ犯との類似性、そして男性学の人々が気にしている「男性性と支配(欲)」の関係が見えてくるところがある1。(また、被害者の方としても、「強制された性交は暴力的な形で行なわれようと柔らかな物腰で言い寄られる形をとろうと強姦は強姦だ」(キャスリン・バリー)、「女性の意に反するセックスはぜんぶレイプ」とかのフェミニスト的意識も一部説明するじゃないか思う。)

こうした男性の傾向はいろんな調査研究から見えてくるわけです。デートレイプなどの加害者は、自分は被害者女性と一定期間デートしていろいろ投資したのだからセックスする権利がある、のような発想をすることが知られています。特にナルシスト傾向の男性は、自分は他人からの奉仕を受けるに値すると考えるので、強制的なセックスをしやすい。デートレイプなどが生じやすいのは、男性の性的な期待(「今日はできるだろう」みたいなやつ)が挫折させられたときだということもよく知られています。でもこういうやばい男性の思考にも、「〜に値する」deserveというかたちで、「交換」という発想がはいってるわけですわ。

ストーカーとかもおそらくそうですよね。お金や時間つかえばつかうほどやばい。学生様には「気のない男子にはお金は使わせない方がよい」ってなことは時々お説教したくなります。

あとレイプ発生率と社会での女性の地位みたいな話もあるんですが、これは証拠がまだ弱い。

戦争などで男性不足になるとどうなるか

セックス経済論はセックスの需要と供給で社会を見るので、需要が減ると値段が下がるとか、供給が減ると値段が上がる、というのは強い根拠になります。

古いですが、Goodentag & Secord (1983) Too many women? っていう研究があるんですね。これは女性が少ない(マイノリティ)である場合には女性のセックスの価値が高くなるので、セックス規範(相場)は女性の選好(欲求・好み)に沿うものになり、女性が多くて男性が少ない場合(女性がマジョリティ)の場合は男性の選好に沿うものになる、というけっこう意外というか、ある立場にとってはパラドックス的な発見です。

西部劇の時代のアメリカ西部や、現代の中国では女性が少なくなってるので、女性は敬意をもって扱われ地位が高くなり、婚前・婚外セックスは減る。コミュニティで女性が比率的に多くなると、女性はセックスの見返りに多くを求められなくなり、性的にはゆるい社会的雰囲気になり、カジュアルセックスや婚前・婚外セックスなどが増える。アメリカだと低所得者層コミュニティとか女性の方が多いみたいです。

バウマイスター&ヴォースの2012年の論文では Regnerus & Uecker (2011) Premarital Sex in America っていう研究をとりあげていて、これによれば、2000年代のアメリカの大学キャンパスなんかも女性の方が数的にマジョリティになってしまい、性的にはかなりルーズになってたみたいですね。Hook-up Cultureとしてけっこういろんな研究者が注目しています。男女で大酒飲んでセックス、みたいな男子が好むセックスパターンが広がって、いやな目にあったり、性的な被害に会う女子も増える。大学キャンパスでのRape Culture批判みたいな話はそのあとに来るわけです。

あと、国別に比較すると、男性が相対的に希少な国の方が十代女性の妊娠が多いというデータがある。男性の数が少ないんだから妊娠の数も減りそうなはずなんですが、増えちゃうのはなんでかっていうと、男性の意見が通りやすくなって男性が望むようなセックスをさせてしまうからですね。

ここらへん、「社会の(数的)マジョリティが規範を決定してますよ」みたいな発想だと説明できないし、「数じゃなくて支配者層が規範を決定してます」みたいなのもあやしい。そうじゃなく、市場原理で決まってるのだ!それをセックス経済論なら説明できますよ、っていうのがミソです。ここは他にもいろいろおもしろい話があります。

男女比が性的規範に与える影響については、次が日本語で読めます。

先進国のフックアップ文化についてはあんまり日本語の本はない気がする。

【シリーズ】

脚注:

1

セックス同意の論文も読んでください。 http://hdl.handle.net/11173/2419

セックス経済論 (5) 結婚と交際

売買春以外のお金とセックスのやりとり

もちろん売買春以外にも男女のあいだでお金とセックスのやりとりは(偽装された形で)頻繁におこなわれている。そしてここは以前の「男らしさと支配」のシリーズであつかったところそのまんまですね。

Blumstein and Schwartz (1983) American Couples ってのによると、お金とカップルの力関係とセックスは密接にむすびついていて、専業主婦とかは夫がセックスしたいというときに断りにくい、とかそういう話。バウ先生たちの他の論文でも、一部の男性はパートナーをわざわざ経済的・社会的に無力で孤立させようとすることがあり、これはまさにセックスを断りにくくするためだろう、みたいなのがありました。あとセックス排他性(貞操)もコントロールしないとならんのだろう。

男性学周辺のみんなが気にしていたあの「稼ぎと支配」の話はつきつめるとこれなのかな、っていう感じですよね。

Loewenstein (1987)って研究では、大学生に、ファンの異性映画俳優にキスしてもらうなら現金いくら払う?っていう調査して、男性はけっこう払うけど女性はたいして払う気がない、みたいな話。しかしこれ、現代日本の男性俳優ファンとかけっこう払ってるんじゃないかという気がするけどどうだろう。アイドルと握手するのにいくら払いますか、みたいな調査してみたいですね。

浮気と離婚

ここらへんは有名な話が多いのではしょりたい。性的な「所有」の意識(つまり、夫婦やカップルは性的に排他的であるべきだ)や、嫉妬の観念がない文化はありません(浮気や不倫がない文化もない)。でも性差はあるのも確認されている。たいていの文化で女性の身体的な浮気の方がはるかに重大な裏切りだと考えられていて、離婚の理由になるけど、男性の浮気はそんなに強くとがめられないことが多い。

私が知らなかった話としては、エスキモーの人たちの間では客人に対して妻に接待させる習慣がある(過去にあった)みたいなのは驚くのでよく語られますが、それお客さんが「いいえ、けっこうです」とか断わるとホスト夫婦に対する侮辱になります、なぜなら奥さんのセックスは非常に価値あるものだとされているから、断わるとその価値を認めないことになります!とか(Flynn 1976)。ほんまかいな。

同性愛に関してもちょっとおもしろい研究が紹介されていて、ヘテロセクシャルの人(男女)に、あなたのパートナーが男と浮気した場合と女と浮気した場合、どっちが動揺しそうですか、みたいな質問をする。男性の場合は相手がレズビアン的セックス、女性の場合は相手がゲイ的セックスした場合のことも想像してもらうわけですね。この実験はヘテロとホモセクシャルに対する反応の男女差を検出しようとしてたんでしょうが、なんか予想どおりにはいかなかったらしくて、男女どちらも パートナーが男と浮気した方が嫌だ 、と答える傾向だったらしい。これは意外だったらしいんですが、バウ先生たちの推測は、一般に女が与え男が取るっていう形で理解されているので、パートナーが女と浮気してもカップルからなにかが奪われているわけではないが、男と浮気したらカップルからなにかが奪われている、と考えるからだろう、って言ってます。つまり、女との浮気はカップル全体としては(ひょっとしたら)利得だけど、男との浮気は(お金とかとれるところをタダでもってかれてるので)損失である。これおもしろいですね。あとで読んでみたい(Wiederman and LaMar 1998)。

浮気の誘いは、他人からパートナーを「略奪」する戦略であるわけですが、その略奪戦略も男女で違いがあり、女性はとにかく魅力的なセックスをエサにすればよい。男性が他の男から女性を奪うには資源を投資する必要がある。強い愛情やコミットメント、そして経済力。まあこれもそうでしょうな(Schmitt & Buss 2001)。まあ他にもいろいろ

求愛活動 courtship

まあおつきあいするにどうするかっていったら、女のセックスを男がいただくという形になっているので、基本的には男の方からアプローチしないとならないっていうのがこれまたどの文化でも共通の理解。プレゼントしたり御飯おごったり、熱烈な永遠の愛を誓ったりするっていうのはあたりまえ。ティーン女子とかの調査しても、「セックスは愛情が確認できないとさせません!」っていうのがふつうで、「とりあえずセックスしたい」という男子とはぜんぜんちがう。

おもしろい調査が、Cohen & Shotland 1996ってやつで、「いつ自分たちはセックスしはじめるべきだ/したいと思いましたか」みたいなのと「いつ実際にセックスするようになりましたか」っていうのとの相関をとってみた、っていうのがあります。これ知らなかった。答は、男性については「セックスするべきだと思ったとき」と「実際にした時」の間にはほぼ相関がない( r = 0.19)んだけど、女性についてはちゃんと相関している( r = 0.88)。セックスする時期はほぼ女性が決めているわけですね。「男性支配」はどこに行ったんだ!ははは。

ここの節では、ちょっと(アメリカみたいな国では)けっこう深刻な話もとりあげられています。女性が売り男性が買う、という形になっているわけですが、売り手の側の競争もそれなりに激しいわけですよね。女性は誰もが(いろんな意味で)優秀な男性を買い手としてゲットしたいので美容やその他の魅力やセックス提供などで競争しなければならない。ローカルな市場の相場が下る、つまり簡単にセックスを提供するようになると、そうしたくない女性もやむなくそうしなければならなくなる。先進国でそういうことが起きたのは1960年代のピル開発とその普及によって妊娠の心配が少なくなりいわゆる「セックス革命」が起きたときですね。それ以降は結婚の約束とかなしにセックスを提供せざるをえなくなった(これについてもファイアストーン先生とか以前に紹介したような気がする)。アメリカだと妊娠中絶の合法化みたいなのも大きい。

ところが、アメリカみたいな社会では、一部には宗教的な理由その他から、妊娠中絶はもちろん、避妊ピルなどの手段の利用もためらう女子・女性はけっこういるわけです。この人々は非常に難しい立場におかれてしまい、一方では他の女性に負けずに男性を獲得したいにもかかわらず、他の女性がピルなどを利用して以前に比べれば「安価」にセックスを提供するために競争上厳しい。けっきょくのところは、多くの女性がリクキーなセックスをおこなうことになり、婚前婚外妊娠出産が増える、という形になってるという話(Akerlof et al. 1997)。そういうのもセックス経済という観点から見るとよく理解できますよ、てな話です。技術の開発は規範の変化を生み、セックス経済の観点での新しい勝ち組・負け組のセットを作りだしてしまいます。

あとまあ処女性の提供は「ギフト」っていう形で考えられてるのもセックス経済理論によく合致します、とか。いろいろおもしろいっすね。

続けて読んでくれている読者はもうわかっていると思うのですが、この一連のエントリーは「文化/女子のセクシー化」と「男らしさ(稼ぎ)と支配」の両方の話の続編になっています。

セックス経済論 (4) 証拠とされるものを見てみよう、まず売買春

というわけで、バウマイスター&ヴォース(フォースかも)先生たちのセックス経済理論は、女はセックスという資源を売り男がそれを買う、ていうだけのごく単純な理論なんですが、こういう「理論」っていうののおもしろさっていうのは、(少なくとも素人には)その理論が「ほう、そうですかー!」とかってもんじゃないんですよね。むしろ、どういう統計や実験的事実や観察を自分たちの理論を裏づける証拠としてもちだしているかとか、どういうふうにして他の理論をやっつけに行ってるかとか、そういうのがおもしろい。あと、理論に一見合致してないように見える事実をどう説明するかとか、その理論から予測を立てて、どういう実験や調査をやればいいだろう、みたいなのも興味深い。

私は心理学、特に進化心理学の一般向けの読み物とか好きなんですが、まあ進化心理学なんかほとんど一本道みたいなところがあって、誰が書いても同じ、みたいなところがある。でも、その説明や立証や他の理論の反証にあたって、けっこう意外な事実の指摘とか、言われてみれば知ってはいるけどあんまり意識してなかった事実とか、その著者自身の生活のなかでの経験や観察とか、そういうのの記述の方が興味深いわけです。正直いってこの点で、フェミニズムまわりはいつも同じような話でつまらない。この記事読んでる人だって、「日本はジェンダー格差指数が〜」とかもう何百回読んだかわからんでしょ。

そういうんでまずBaumeister & Vohs (2004)ってのから、興味深い指摘をメモしたい。この論文では後半が「経験的証拠のレビュー」Review of Empirical Evidenceになっていて、領域別に大量の証拠(他の人たちの論文から)が列挙されててます。見出しはこんな感じ。みんなセックスについて研究してますねー。2004年以前の論文からだから今となっては古いのですが、アップデートされた情報はまたあとで確認します。

  • 売買春
  • 売買春以外のセックスとお金
  • 浮気と離婚
  • 求愛活動
  • レイプと強制
  • 男性不足
  • セックスに対する態度
  • 恩恵としてのセックス
  • 名誉・不名誉としてのセックス経験
  • 女性間の攻撃
  • 不均衡な社会的地位
  • 女性セクシュアリティの文化的抑圧
  • セックス革命
  • セックスと暴力

売買春

売買春はまあたいていの場合(どの国でもどの時代でも)、圧倒的に男が金払って女が売る、っていう形になってるのはほぼ自明なので、セックス経済論の一番強い証拠ってな感じでしょうな。フェミニスト的思考では、男性による(経済力による)女性の支配の最たるものでもあります。

学生様とかときどき「女性向けの風俗がないのはなんでだろう」とかっていう疑問を提示してくれることがあるんですが、まあ男のセックスにはほとんど価値がないからですよね。若い女性ならその気になればほとんどいつでも手に入るし、若くなくたって相手選べばいいし、そもそもそんなに知らない人といきなりそんなことしたいとは思わないっぽい。ただ、日本にあるホストクラブみたいなのについてはバウ先生たちはなにも言ってません。あれは性的サービスを売ってるわけじゃないけど少なくとも性的魅力は売ってるような気がしますよね。

ホストクラブに近い話として、女性が海外の島(バハマとかタヒチとかああいうところ、日本だとタイとかバリとか?)に行ってそこの「ビーチボーイ」と遊ぶ話は検討されてるんですが、それもセックスにお金を払う形にはなってませんよ、とか説明してます。そういう関係っていうのはとにかく旅先で「(男がその女性に)恋に落ちる」っていう形になっていて、女性は飯代ぐらいは払うことがあるけど、女性がボーイにお金を直接払うことにはなってない。でも、しばらくつきあってるうちに、突然そのボーイの家族や親戚とかが病気になったり借金取り立てられたりして経済的にピンチになってしまって、それを裕福な女性が愛情に対する感謝の印として経済的に助ける、っていう筋書になってるらしいです。へえ。ホストとかもそうかもしれないですね。だいたいそこそこ高齢の女性と異人種の若い男とかだと、セックスには至らないことも多いです、みたいな話もあります。うーん。

もうひとつ興味深いのが、性的に非常に禁欲的だったヴィクトリア朝時代のたとえばロンドンあたりの世界というのは、中上流階級の女性が集団的にものすごくセックスの値段をつりあげていた時代なわけです。結婚しないとセックスしないし、結婚しててもセックスなんていやらしいことは子孫を作る義務としてでなければしません、ぐらいの世界。ほんとかなあ。でもバートランドラッセル先生がなんか言ってましたね1。んじゃそのころの男性の性欲はどこへ向かったのかというとやっぱり経済的に困っていた売春婦の人々で、ブロー&ブロー先生の『売春の社会史』だとロンドンの女性の5〜15%ぐらいが人生の一時期に売春を経験していたみたいだ、って話になっています。これはけっこうな数字なわけです。バウ先生たちは「現代の道徳観からすればショッキングなほど高い」って言ってますが、まあたしかに大きな数字だと思います。反買春フェミニストの先生たちだったら「なんと不正な時代だ!」ってなことになりそう。実際、不正な時代であったのだろうとも思いますし、一部の売買春に、反買春フェミニストの先生たちが指摘するような貧困による強制という面があるのは否定できないと思う。

バウ先生たちははっきり書けてないと思うのですが、この件がセックス経済論にとって特に理論的に問題なのは、この理論によれば「女性はセックスをできるかぎり高く売ろうとする」はずなのに、結婚その他に比べると比較的チープ(だと思われる)売春をしなければならないが、一方ではそれしか収入の手段がないなら、売春から最大限の利益を得るためにやっぱり高く売りたいはずだ、ということになるからちょっと理論的に微妙なところが出てくるわけですね。説明省いてますが、というか2004年の論文の時点ではバウ先生たちは十分に強調してないのですが、女性が売っているのはセックスそのものというより性的魅力を含めたセックスと、長期的な関係においては 貞操 (排他的性的アクセス)と 生殖 (子供)なわけで、売春みたいなのはもし他人に知られると貞操に疑問抱かれる可能性が高いので、その経験は女性にとっては非常に不利になるし、みんなが売春みたいなことをすると値崩れが起こってしまう。実際に起こってたかもしれません。その時代の奇書『我が秘密の生涯』とか見ると、ほんとうに安かったみたいですからね。

でもそうすると、上の大きな数字は、女性は一般にセックスの売り手で、比較的優位な立場にあるということを含意するセックス経済論にとっては若干不利な事実なわけです。そもそも危険だし(ロンドンだったら切り裂きジャックに殺される可能性もある)。なぜそんな大量に安く売春する女子がいたのだろうか?バウ先生たちの苦しいところで切り出す札は、「でもどうもブロー先生たちによると、そうした大量の売春婦たちは、実際には他の仕事もってたみたいよ」ってなことですね。これは以前ハブロック・エリス先生に関するエントリーでも書いた話ですね。大きな数字は、フルタイムのプロスティチュートではなく、そこそこいけてる女中(メイド)さんとかがそういうこともして副収入を得ていたのだろう(だから安くても我慢する)、とかそういう感じでしょう。あと、理論からすれば、実際の値段とか、ロンドンの当時の男女人口比とかも興味深いところだろうと思います。(売買春についてはあとの「社会的態度」のところでも議論される)

脚注:

1

「私が若いころ、ちゃんとした女性が一般にいだいていた考えは、性交は大多数の女性にとっていやなものであり、結婚生活では義務感から耐えているにすぎない、というものであった。」(岩波『結婚論』p.85) 「われわれの祖父の時代には、夫は妻の裸が見られるとは夢にも思わなかったし、妻は妻で、そういうことを言われただけでぞっとしたことだろう。」(p.126)

セックス経済論 (3) しかし値段は簡単には決まらない

モノやサービスの値段というのはどうやって決まるかというと、高校でも習う需要と供給のバランスによる。漠然とした話ではありますが、供給が少なく需要が多い(強い)と値段は上がるし、その逆だと値段が下がる。

女性はセックスを提供することでなるべくよい資源を入手したいし、男性はなるべく少ない資源で獲得したい。ところが、この個人間の交易の値段は、他のプレイヤーがどう行動するかに大きく影響されるわけですね。ここがおもしろいところです。

セックスというのは基本的に近くにいる会える人としかできないので、その市場はごくローカルで、その値段というか相場はローカルに決まります。高校生のクラスとか、大学生サークルとか、ヤングアダルト社会人コンパとか、おじさんお姉さんの習い事とか、まあ人々というのはだいたい集団になって生活しているので、そのローカルな範囲で、他の人がどういう行動をとるかによってセックスの値段は変わる。ある時代のある集団(たとえば1930年代のアメリカ)では、女性の大部分が高価な婚約指輪もらってからじゃないとセックスさせないとすれば、そこの女性は婚約指輪もらえる公算が高い。でも2000年代のアメリカの大学みたいに、他の女性が簡単にセックスさせるようになると、ちゃんと結婚申し込んで婚約指輪くれないとセックスさせません、みたいなことを言ってると、ときどきデートしたり、パーティーでエスコートしてくれたり、ボディーガード役してくれる男性もいなくなってしまう。

そういうわけで、セックスの売り手である女性も競争せざるをえないわけです。でもあんまり女性のセックスの値段が安くなってしまうと利得がなくなってしまうから、女性は安売りする女性に集団的にプレッシャーをかけて安売りを牽制しなければならない。これが女性たちが簡単にセックスを提供する女性たちを非難する理由である、と。

バウマイスター&ヴォース先生によれば、男性は安いセックスをもとめるので、気軽にセックスさせてくれる女性は「いい子」であるわけですが、それでも他の男性と女性を共有するのはたいていの場合さまざまな理由から望まないので、特定の女性をめぐって競争せざるをえない。となると、人気のある女性はより高い値段で売ることができる。

ここで重要なポイントとして、けっきょくこうした値段をめぐる交渉というのは、一対一で決まるわけではなく、他の人々がどういうふうに行動しているかの知識に依存するわけです。そのコミュニティでどんな人がどんな人とどれくらいの「値段」で交際したりセックスしたりしているのか、というのは、男性にとっても女性にとっても重要な情報なので、まあ噂話とか雑誌とかツイッターとかで相場とかを調査するわけですね。情報戦みたいなことも起こるわけで、男性は女性にたいして「他の女性はかんたんにセックスさせている」という情報を流そうとするし、女性は男性に対して「そんな簡単でない、むしろもっと高い」という情報を与えようとする。これはグループとしても個人としてもそうっしょね。

まあここらへん、当然そうだよな、ってな感じですね。あまりにも常識的すぎて、これ「理論」なの?っていう感じではあります。

まああらましはこんなもん。先生たちは「証拠は山ほどある!」と主張しておられますが、フェミニスト心理学者(たとえば Laurie Rudman先生)なんかはかなり厳しく批判しておられます。

今回書くのに参照したのは、これのVohs先生による”Sexual Economics”の項。なんでも最初は専門事典見るのがいいですね。(実は悪質なサイトがオンラインで丸パクしてるのを発見してしまいました……通報したい)

【シリーズ】

セックス経済論 (2) ごく当然のあらまし

ロイ・バウマイスターとキャスリーン・ヴォース先生のセックス経済説、前のエントリにも書いたように非常に単純な理論です。

女のセックスには価値がある(男にはない)

基本的な前提は、広い意味でのセックスは女性がもって価値ある資源で、男性が欲しがるものである。したがって女性は、十分なインセンティブないかぎりそれを男性に渡そうとはしない。男性は女性にセックスを与えてもらうために各種の資源を女性に渡す。たとえば、コミットメント(関係継続の意思)、愛情、配慮、時間、敬意、そして経済的資源(端的にはお金)とかですね。

我々は社会でいろんな交易・交換をしていて、スーパーでお金払って野菜を買ったりするわけですが、そうしたものとしてセックスを見る。こうした交易で、一方が有利な立場になることがあるわけですが、そういうときは値段を変えることで調整する。新鮮な野菜はみんなが欲しがるので値段があがり、新鮮じゃなくなった野菜とかはあんまり買いたがる人がいないので値段が下がる。

男女の性的な関係においては、男性の方がはるかにセックスを欲しがるので女性が優位な立場になり、女性はセックスのひきかえに男性にさまざまなものを要求できる。まあプレゼントとか素敵なディナーとかは男性の方がたくさん貢がないとならない。私は不公平だと思いますが、当然だと思うひともいるでしょうね。

ここで、男性の方がセックスしたがっている、という話に疑問をもつ人がいるかもしれませんが、まあ常識的にはそうですよね。これについては前にもエントリー書きました。→「性欲が強いってどういうことだろう?

歴史上、だいたいどういう文化でもそういうことになっているのはまあ常識。欲求の強さがあまりにアンバランスなので、女性の体とセックスにはたいへん価値があり、男性のそれらにはほとんど価値がない。たとえば女性の処女性にはとても高い価値があり、女性はそれを理想的な局面で男性に与えようとするけど、男性の童貞とかっていうのはほとんどまったく価値がないどころか、ふつうは一定の年齢に到達すると恥ずべき状態である、みたいなことになちゃってる。

性暴力やDVの問題もまったくのところこの図式にあてはまります。性犯罪者は暴力で高い価値のある女性のセックスを奪おうとするのだし、暴力的な男性につかまってしまった女性は頻繁にセックスするのですが、これは暴力的なパートナーから危害を与えられるのを防ぐためにセックスを差し出している。

多くの文化で、妻の浮気・婚外セックスは離婚の理由と認められるし、不倫は男性よりはるかに厳しく非難され罰される。これは女性の貞操が結婚し男性の扶養されることの対価になっていると考えられているわけです。現代ではごく古い考え方なわけですが、芸能人の不倫なんかのテレビ番組やネット論説を見れば、いまだにそうしたことが常識というか人々の信念になっているわですよね。

あと心理学の実験でも、女性のセクシーな薄着の写真見たりすると男性はなんにでもお金払いやすくなる、みたいなのがあて、これはおかしい。こういうふうに、歴史的にも実験的にも、女性の体とセックスには価値があると思われていて、男性はそれに対価を払う用意があるっていうのはいろいろ証拠がある。(まあ常識でもある)

【シリーズ】

セックス経済論 (1)「男性による女性の支配」とは別の考え方はどうだろう

このブログ、ここ最近「文化のセクシャル化/セクシー化」の話と、「男らしさと支配」の話を平行してつぶやいてるのですが(もうブログもツイッタも同じようなもの)、「男性が女性を支配しているのだ」っていう信念は非常に一般的ですが、他の考え方ないっすかね。私どうもこの「支配」ってやつ信じられなくて。

まあこの「男が支配している」っていうのはフェミニズムの伝統的な考え方で、その発想はわかります。ある意味女性の実感なんだろうし、伝統的な社会・文化の多くが男の方が偉くて支配的な地位を占めてることが多い。お金も稼ぐのは男性で、女性はその経済力と社会的権力に支配されているのだ!

そしてこれって、ジェンダー問題について社会構築主義フェミニストたちと対立する立場に立つことが多い進化心理学とかの派閥の人もそう考えるんですよね。こっちの派閥は、主にいわゆる「父性の不確実性」を問題のキーポイントだと考える。女性は自分の子供の母親なのは(産院でとりちがえられたりしないかぎり)ほぼまちがいがないけど、父親の方は本当に遺伝的な父親かどうかよくわからない。人間の子供は養育に非常に大きなコストがかかり、現代はともかく、人間が進化してきた歴史のなかでは、父親の協力がないとうまく生存成長させるのが難しい。他の男の子供を自分の子供だと思って養育コストを支払うのは巨大な損失なので、進化的に男性は配偶者を他の男性から防衛するために、女性の貞操を重視し、活動を制限するなどして女性を支配するような心理的傾向を進化させてきたのだ、それが現在でも男性が女性に対して支配的にふるまう原因になっている、てことになってる。

まあどっちもそれなりに説得力がある。しかし現代の社会でもそんなかっちりした支配従属関係になってるかな?って思うわけです。むしろ、現代社会のありかたについて、女性の主体性とかそういうのをもっと重視する立場もありそうに思います。

一つは何度か紹介している、社会学者のキャサリン・ハキム先生の「選好論」と「エロティックキャピタル論」ですね。(あら、紹介していると思ったんだけどたいして言及してないわ)

この本はおもしろいので、ぜひ図書館で一回手にとってみてほしいですね。

ごく簡単にすれば、社会のなかで、人々は経済資本(お金)、人的資本(知的能力、学歴、職歴、教養など)、社会関係資本(人間関係、縁故、コネ)などを蓄積したり相続したりして、それを元手に自分の福利厚生を改善しようとしているわけですが、実は現代社会ではお金や学歴や縁故に加えて、容姿や他の魅力、特に性的な魅力が重要な資本になっている、っていう議論ですね。そして、性的な魅力は一般に女性の方が豊かにもっていてそれを自由に使える時代になっている。一方男性は慢性的な性的欲求不満状態(sexual deficit)になっているので、女性が自分たちの性的な魅力を磨きうまくつかうことができれば、男性を支配できるし、実際そうしている女性はけっこういる、みたいな話です。

ハキム先生によく似た議論を展開して今私が注目しているのが、ちょっと前のエントリに名前を出した社会心理学者のロイ・バウマイスター先生で、この人は日本では「意志力」の本で有名ですが、2000年代はジェンダーまわりでも仲間とともに論文やエッセイをいろいろ書いてるんですね。先生は自分の理論を「セックス経済論」Sexual Economics Theoryと名づけています。これはごくごくシンプルな議論で、ネットで「アンチフェミニスト」と呼ばれてる人々がときどき展開している議論とあんまり違いがない。基本的には、経済学とかでもちいられる「市場における需要と供給」を単純にセックス・ジェンダー問題に適用しているだけです。集団としての男女の間にはセックスに対する欲求に大きな差があり、女性がセックスの供給者・売り手であり、男性が消費者・買い手になっている、というそれだけの話です。ものすごいシンプルで、フェミニストの先生たちからかなり辛辣に批評されているようです。まあ社会心理学でものすごく偉くなった先生が、おじいさんになってから勝手な放談しているのかもしれないけど、そうでもないのかもしれない。

この本は2010年のエッセイですが、「セックス経済論」とか言いだしたのは2000年代前半で、2010年代にも続けて書いてますね。2012年のが読みやすいけど、2004年の方が包括的な感じ。どっちもネットで入手できるので興味あるひとはぜひ読んでみてください。(あら、論文の発行年勘違いしてました。すみませんすみません)

時間があったら、もう一本、読書メモみたいなエントリ上げたいと思います。

この本も関係ある。

男らしさへの旅 (7)「支配のコスト」と集団の責任

「支配のコスト」補足

そういや、「支配のコスト」について書き忘れてたことがあるんですが「〜が悪い」「〜のせいだ」みたいな責任と非難の話ってものすごくむずかしいんですよね。

「男性による女性の支配」が仮に成立しているとします。それは、(1) 一部の特定の男性が特定の女性を支配している(ありそうだけど逆もありそう)、(2) グループとしての男性がグループとしての女性を支配している(むずかしい)、(3) 男性の方が社会的・経済的地位を獲得する上で有利である(ありそう)、ぐらいの意味がある。そしてそうした支配なり有利なりはだいたい不正である、とします。

ここで、ある特定の男性、あるいは特定の男性のグループが「生きづらい……つらい……死にたい……」みたいなことを言ってる場合に、「それは(1)〜(3)の意味でとりあえず男性支配のコストなので自業自得なので十分苦しんでください」みたいなのはおかしいですよね。なんでかというと、集団として男性が女性を支配したり、あるいは一部に(不正に)有利で得をしている男性がいるからといって、その責任を支配や有利さを得ていない特定の男性が負担する理由はなにもないからだ。もしそうした「グループとしての自業自得」を主張するのであれば、「男性の集団責任」が個々の男性に分配される、ということを主張していることになる。

これって、たとえば「日本人は過去に周辺諸国に悪いことをしたので、現在の日本人にもその責任があるから自責の念に苦しむべきだ」みたいな発想に近い。「過去に男性は女性にひどいことをしたので、あなたはしてなくても女性を支配して好き勝手なことをしているので、あるいはセクハラや性暴力をする男性がいるので、男性のあなたは苦しむべきだ、生きづらさを感じるのは当然だ」とかそういうのは、なんか奇妙なところがある。私自身は、人間は自分がやったことだけに責任があり非難されるべきだという立場をとりたいので、そういうのには抵抗がありますね。でも男性の責任というのはそういうものだと主張する哲学者・社会学者たちも少なくないです。

まあここには集団の責任とか非難とかをめぐるむずかしい話があって、倫理学者とか好きなところではありますが、私はインチキなのであんまりよくわからないので、若い人々はがんばってくだください。

男らしさへの道 (6) 「吹きあがる男性を冷却」は気になるが、男は黙って話を聞くべきだ

(前からのつづき)というわけで、だいたい男性学がどういうのので、どういうふうであるべきと考えられているのかっていうのはそこそこ納得はしているのですが、気になるところもあるんですよね。次のは澁谷知美先生の文章(澁谷知美 (2019)「ここが信頼できない日本の男性学」、『国際ジェンダー学会誌』第17号)。

……信頼に足る男性学がどのようなものであるかを示しておく。「男の生きづらさ」を言うなら「男の特権のコストであることの指摘」、「特権解体のための考察」と必ずセットでなされるべきである。また、実践面では、「女性/相対的に弱い立場にある男性の邪魔をしない男性の養成」を指針とすべきである。

具体的には、

  • 〈生存レベル〉において女性を従属させることをやめる
  • 女性や相対的に弱い立場にある同棲への加害を誘発する男性性の分析、加害抑制のよびかけ、加害をしない次世代の育成
  • 稼得役割の獲得に失敗した男性、あるいは獲得に固執する男性を「冷却する」言説の開発

とかが男性学の課題であるべきだそうです。「生存レベルでの従属」もほんとうにそうなっているのか気になりますが、この最後のやつがものすごく気になる。

社会学者のゴッフマンによれば、詐欺師集団では騙したカモが警察などにかけこむのを阻止するために「冷却者 cooler」がいるという話です。これまた社会学者の竹内洋先生によれば、メリトクラシー社会でも競争に負けた人々を冷却する必要物らしい。

ジェンダー公正が貫かれる社会を、詐欺行為や、詐欺まがいのメリトクラシー社会と同等視するわけではない。しかし……ジェンダー公正を実現し、維持するためには、「男性に期待される社会的達成」を得られなかったり、得ようとして無理をしたりする男性をなだめ、「冷却する」ロジックを開発することが必要である。異性の恋人や配偶者を得られないため、あるいは稼得役割を達成できないために吹き上がる男性、期待どおりの人生を歩めなかったために女性憎悪に走る男性などを、「まぁまぁ落ち着いて」などとなだめるのである。/「結婚したいのにできない男性」が今後増えると予想される現在、冷却作業の必要性はより高まっている。……未婚でいることは人生の敗北を意味しないこと、稼得役割を遂行できないからといって人間としての価値が低減するわけではないことを懇々と説き、ジェンダー公正の実現が阻まれる要素をできるだけ打ち消してゆくべきである。(澁谷 2019, pp.43-44)

これはなんかすごいと思いましたね。ジェンダー公正を徹底するために不平不満をもらす男どもを黙らせろ、っていうことじゃないですか。ここでいう「ロジックを開発」というのは、論理というより不満をもつひとびとをなだめすかす説得方法、レトリックでしょうね。それは社会運動としては必要なんでしょうが、学問として必要なのかどうか私にはちょっとわからないです。そんな人を黙らせようとするロジックだか言説だかをわざわざ開発する必要はないと思う。そもそも、そうしたロジックなりレトリックなりで人々の不平不満がおさまるののなら、最初からジェンダー公正なんてものさえ必要ないのではないか、ロジック開発すれば不満をもつ人々も黙るのではないかとさえ思えてしまいます。

まあそもそも最初に気になった小手川先生の2019年の「「男性性」自己欺瞞とフェミニズム的「男らしさ」論文も、最後はこうなってるんですね。

自分に見えている現実とは異なる現実を教えてくれるものとして、女性や性的マイノリティの声に耳を傾けようとするなら、そうした人たちが発言しやすい場をつくり、「でも、それは…」などと口を差し挟むことなく、彼女たちの声を自分の声と同等なものというよりも、むしろ自分の声よりも重いものとして聴かなくてはならない。

……歴史的・社会的により多くの特権性をもつ立場にいるのが男性たちであるなら、自分の特権性に気づき、口を挟まずに他人の声に耳を傾けるようなあり方も、まずは男性たちに課されている「フェミニズム的男らしさ」と呼べるであろう。(小手川 2019, p.193)

「男は黙って女たちの話を聞け」な感じで、まあたしかに、男らしい……なんか読んでもすぐに「でもねえ」とか書いてしまう私がフェミニズム的に男らしくないだけでなく根本的に男らしくないのも当然だと思ったのであります。まだまだ修行をつまねば……


ちなみに、他人をどうやって黙らせるかっていうのは、次の本がとても役に立つので黙らせたいひとと黙らされたくない人は目を通してみましょう。

賛同するかどうかはともかく、ファレル先生あたりの言うことも聞いてみるのもよいと思う。嫌いな人々、反感感じる人々の言うことこそ聞くべきだ、っていうのは男らしいはず!

男らしさへの旅 (5)「支配のコスト」

「支配」のコスト

まあというわけで、私は実は「男性が女性を支配しているのだ!女性は支配されているのだ!」っていうのをかなり疑問に思っていて、とりあえずそれは、「現代社会においては職業や社会的地位において男性の方が有利な場面がけっこうある」ぐらいの話だと理解させてもらいます。

ところで、やっぱり男性の方が一方的に有利なわけではないので、苦しい場面もあるわけですよね。それに、有利な立場にあるとはいえ、「男性である」ということとは別の点相対的に困難な状況にある男性も少なくない。男女の別の他にも、たとえば親の社会的階層、学歴、容姿、性格、他にもいろいろ要因があります。頭よくて壮健で技能があり性格もリーダー向きであれば、お金たくさん稼いで女性にもモテたりできるでしょうが、そうでない男性の方が大半でしょう。そうした人々は生きていくのがつらいと考えても不思議はない。これが多賀太先生なんかがテーマにしている現代社会での「男の生きづらさ」問題ですわね。そして、女性の苦しさに比べて、男性の苦しさは(相対的に)無視されやすいかもしれない。

しかし、こうした男性の「生きづらさ」は「支配のコストだ」という考え方があるんですね。これが、多賀、平山、澁谷、小手川というこのシリーズで注目して読んでいる先生たちの共通理解です。

多賀先生によれば、メスナー先生という人が、男性による支配体制には、男性にもコストを払わせるところがあると指摘しているんですね。孫引きなりますがこう。

男性たちは、彼らに地位と特権をもたらすことを約束する男らしさの狭い定義に合致するために……浅い人間関係、不健康、短命という形で……多大なコストを払いがちである(多賀 2016, p.45)

次は多賀先生自身の文章です。

男性たちの「生きづらさ」の少なくともある部分は、集団としての男性による女性に対する優越を達成し維持するための物理的・精神的負担、あるいはそうした負担の結果として男性に生じているさまざまな弊害として理解することができる。(同 pp.44-45)

個別の、特定の男性(たとえば私)が感じる生きづらさは、集団として男性が女性を支配するために私も部分的に負しているコスト、負うべきコストだ、というわけですね。

そして、「男らしさなんかから解放されたい」「解放されよう!」とかっていう一部の「男性学」や「男性権利運動」(Men’s Right Activism)は、その生きづらさが支配のコストだということを直視していないのでけしからん、ということになるわけです。

コストからの解放という主張は、その「コスト」が経済力が権力ある地位といった「特権」を得ることの代償であることをしっかりとふまえている場合にのみ正当性をもつ。(多賀 2006, p.185)

多賀先生はこういう感じの立場で、まあ理解できるんですが、平山先生はその多賀先生の立場でもまだヌルい、と考えてるみたい。私はなんでそんなに多賀先生に厳しいのかもうひとつよくわからないのですが、とりあえず次のように批判している。

端的に言えば、稼得役割に対する固執と、それを追求するがゆえに男性がさらされる身体的・精神的・社会的リスクは、家庭における支配を維持するための対価である。

多賀もまた、これらのリスクを「支配のコスト」と呼んではいるが、多賀のようにこのコストを男性の「生きづらさ」として語る必要は、わたしには感じられない。……男性による「一人で家族を養うことができること」の追求は、男性個人の「生の基盤」の確立のために行われるわけではないからである。要するに、「支配のコスト」は「支配のコスト」ではなく、それを「生きづらさ」と呼ぶ必要はない。(pp.238-239)

「生きづらい」とかっていうのは苦しい立場に置かれてる人々の実感だろうから私はそれでいいと思うんですけどね。くりかえしますが、私の理解では、ここで言われている「支配」っていうのは、実際に男性Aさんが女性Bさんを「支配」しているっていう意味ではなく、「男性の方が有利な場合がある」ぐらいの意味のはずだし、その有利な立場にない人々にとっては他の男性の有利さのために自分が苦しいというのは理不尽だと思う人がいても不思議ではない。

澁谷知美先生も平山先生と同じような意見です。

日本の男性学の信用できない点とは、男性の特権にまつわるコストを「生きづらさ」と呼び、男性の「被害者性」を強調しながら、特権を放棄するための考察を怠っている点にある。(澁谷 2019, p.30)

〔現代の社会には〕「男の生きづらさタブー」のようなものがあると実感している。/そうした実感をもつ筆者も「男の生きづらさ」が存在しないと主張するものではない。その「男の生きづらさ」なるものが「支配の挫折」、「支配のコスト」、「自縄自縛」でしかないのに、それに関するエクスキューズ以外の指摘がないまま、ただ「男の生きづらさ」が強調される「語り方」に問題があると考えている」。(澁谷 2019, p.31)

ここらへんの先生たちの見解は、全体として、男性は女性を支配するために勝手に「男らしさ」を追求し、その結果勝手に苦しんでいるのだから自業自得である、苦しんで当然である、みたいな感じなんでしょうが、こういう議論は、どうも「誰が被害者なのか」「誰が悪いのか」ということを争っている感じで、社会的な不均衡みたいなのを「誰が悪いのか」という形で論じるのは私には奇妙に思えます。

どういう話であれ、「苦しいです」って言ってる人々の話は「苦しいのだな」って聞いてあげてもいいのではないか。というか聞いてほしい。まあお釈迦様がおっしゃられているように、われわれの苦しみの多くは、満足できない勝手で無駄な欲望や煩悩に由来するわけですが、それにしたって「自業自得だ」みたいなのは気の毒な感じがする。

もう一点、これらの先生たちは皆、男性は、「男性の特権」を放棄し、女性を「支配」しようとするのをやめ、無理な「男らしさ」(特に稼得)の追求をあきらめるべきだ、またより男女平等な社会をつくりあげることを目指すべきだ、そうすれば「男性の生きづらさ」も軽減されるであろう、っていうことをおっしゃっておられて、それはそうなのかなと思うわけですが、具体的に特権を放棄するにはどうすりゃいいのかということと(仕事やめればいいとかではないだろう)、本当にそれで苦しい人々が苦しくなくなるのだろうか、とか考えちゃいますね。

いや、基本線ではその通りだと思うんですが。


このエントリあんまりおもしろならなかったのですが、特定の男性が他人をうまく支配しているかどうかはともかくとして、男性であることにはいろんなコストがある、ということについてはけっこうよい本たくさんあります。多賀先生のも平山先生のもそういうのではどちらも優秀なので読んでほしいと思います(なんで批判しあってるんじゃろか?)。男性の苦しさについては、若手批評家のベンジャミン・クリッツァー先生なんかそこらへん積極的に紹介してますのでそっち読んでもらった方がよかった。

性的モノ化とセクシー化 (10) セクシー化の社会的影響

書きわすれてましたが、ガールたちのセクシー化は男性や成人女性や社会全体にも影響します。たいへん危惧されるものであります。

男子や成人男性への影響

女子のセクシャリゼーションは男性にも影響あるわけですが、あげられてるのは「まあそうだろうな」って感じですね。

  • いかにも「女性美」みたいなのをたくさん見ると、男の「OK」の基準が高くなる
  • ポルノを見ると自分のパートナーを魅力的だと思わなくなり、セックスにも不満足になり、愛情抜きのセックスをしたいと思うようになる
  • TVシリーズの『チャーリーズ・エンジェルズ』を1話分見ただけで現実の女性を魅力的だと思わなくなる(ははは)
  • 自発的にポルノ見る連中は女性を性的な言葉をつかって記述するようになる
  • 「男らしさ」には女性をモノ化する視線が組みこまれている(お、同時進行している別のシリーズで気になってるコンネル先生参照されている)が、これは女性と仲良くなるのを邪魔している
  • 女性をモノ化する学部生はパートナーに満足しにくい
  • 性的モノ化すると共感しにくい。共感はパートナーとの関係の良好さのインジケーター。

とか。『チャーリーズ・エンジェルズ』、たった1話で現実の女性の魅力をそぎおとしてしまうですから、非常にけしからんですね。

女性への影響

ガールがセクシャライズされると大人の女性にも影響します。ここであげられてるのは、成人女性が若く見られるために多大な経済的・時間的・身体的投資をするとかそういうやつとか。化粧品とか美容整形とかです。

社会への影響

社会全体にも影響するのです。性差別的な態度が広まるとか、レイプ神話を信じやすくするとか、セクハラや性暴力に比較的寛容になるとか。女性どうしがお互いを見る目が厳しくなるとか、見た目で中身を判断するようになるとか。さらには男性の女性の扱い方に直接影響を与えるとか。

性的モノ化とセクシー化 (9) セクシー化/セクシャル化/自己モノ化への対抗手段

セクシャル化への対抗手段

というわけで、APA 女子のセクシー化タスクフォースの報告書ですが、とにかくメディアの女子のモノ化と、その影響による女子の自己モノ化には心理学的な悪影響がありそうだということになっている。実際にあるでしょうな。

んじゃ我々は女性の自己モノ化とその悪影響についてどうすりゃいいのか、っていうと、教育と家族の関心と女子/女性自身の社会運動だ、ってことらしいです。

学校教育としては、まずメディアリテラシーやろうと。メディアを批判的・懐疑的に見る方法を教える。ヤセ願望を減らす効果ありとの研究あり。ダイレクトに反モノ化メディアリテラシー教育する可能性もあると示唆したり。

あと、女子スポーツと課外活動を充実させましょう。スポーツや課外活動を通して、身体の見かけではなく身体の能力に目を向けるようにすると、モノ化に対抗できるよい効果がありそうだ。スポーツは自己評価が高まるという研究ある。スポーツ以外の課外活動(音楽やダンス)も期待されるが研究は少ない。それにコンピューターやビデオゲームもどうか、という示唆してたり。まあスポーツやダンスなど体を動かすのは精神衛生と健康にもとてもよいし、おそらく美容にもよいのでどんどん活発にしたいですね。賛成!賛成!大賛成!

さらに包括的性教育。生殖、避妊、初体験を遅らせること、コミュニケーションスキルとか教えると、セックス健康まわりへの悪影響に対抗できるかもしれませんと。

家族の強力に関しては、テレビ番組とかはいっしょに見たりコメントしたりすることによって影響をやわらげたりカンターしたりしましょう。さらには宗教関連の活動や親の社会運動も有効です。ここらへん、なんかアメリカの保守運動とかと関係あるんかいね。

さらに、セクシャル化に対抗する女子グループ作るのを助けましょう、とか。当時は「ガール・ジン」とかっていう女子が集まって同人雑誌作るのが注目されてて、これは女子のホンネとか流通させることで商業主義的な大手メディアの影響をやわらげられるかもしれんとかそういうことでしょうな。女子で仲間つくる意義もでかい。おそらく男子の視線を気にするから自己モノ化するわけで、とかそういう発想がある。

ちょっと注目したのが、その流れで、ネット(ブログ等)つかってセクシャル化批判しましょうおすすめフェミニスト書籍を読ませましょうとか、そういうのがあって、なるほど、そういうのがメディアの女性のモノ化批判するブログや掲示板が隆盛になった背景でもあるのね、と納得しました。そりゃAPAが、悪影響のお墨付きくれてるならぜひ活動してモノ化して女子を自己モノ化に追いこむ悪い奴等を糾弾しないとならん。

とかそういう感じ。英語圏のフェミニズム運動がもりあがっているのが感じられます。

メディアの影響による男性による女性の性的モノ化から、メディアの影響による女性の自己モノ化の問題へ

こうしたメディアのセクシー化から、女子の自己モノ化、そしてその悪影響、というAPAの筋は、それ以前の80〜90年代のフェミニストたちのポルノが性暴力の原因、とかって議論よりは見込みがあるんですよね。何回か書いているように、男性がポルノを見て性暴力するようになる、みたいなのはほとんど実証できない。へたすると逆の効果もありそう(ポルノで満足して性暴力が減る)。それに比べるとこのAPAレポートは、メディアの男性への影響ではなく女性への影響を問題にしていて、それらはずっと実証しやすい。女性のファションとか化粧とかメディアの影響をもろに受けてるのはあまりにも明白だし、おそらく体型やふるまいについてもそうだろう。

そして、女性が自分の体を他人から見られるモノとして強く意識することは、女子自身の精神衛生に悪影響がありそうだ、というのもけっこう膨大な研究がある。

となると、世に溢れる女性をつかった性的な表現を批判し非難するには、女性の自己モノ化、特に子供たちに与える影響に対する意識を高めるのがいい。いやいや、これは書きかたがわるくて、そうした悪影響にこれまでちゃんと配慮されてなかった、ということが反省されるようになるわけです。

でもこれって、子供に限らず、日本でいろんな広告とかが問題になるときについてある種の洞察を与えてくれますよね。「男性視線の性的モノ化がいかんのだ」とかっていうことになると、「なんで見て楽しんでるだけなのに悪いんですか」とかっていう疑問に答えないとならないわけですが、世に溢れるセクシーな表現を見ると、女性は自己を見られる「モノ」として考えざるをえなくなり、それが女性の息ぐるしさや、各種のメンヘル問題につながる。実際、アニメやアイドルやその他を見て気分が悪くなるひとはけっこういるようで、それはそうした作りだされた女性像と自分自身を比べて身体不満とかその手のいろんなネガティブな心理的状態になるからだ、というのは悪くない説明な感じはあります。

ただもしこの手の考え方をとると、モデルさんたちをつかったセクシーだけど女性が毅然として下着広告とか、かわいく元気で主体的アイドルのダンスとか、そういうのもやっぱり女性の自己モノ化を促進しそうで、そういうのも問題だということになりかねない。まあ実際問題そうかもしれません。

性的モノ化とセクシー化 (8) マクネーア先生の批判とAPA報告書をチェック

マクネーア先生の批判

Brian MaNair先生という政治学・メディア研究のひとがいて、この人猛烈なポルノ賛成派(プロポルノ)で、世界を平和にするために爆弾じゃなくてポルノ落とそうぜ、みたいなことを言うひとなんですが、APAの報告書を批判しているですわ。基本的に、APAの報告書は学問的に厳密で客観的な証拠を提示しているフリをしているが、実は単に委員たちの主観的な願望的思考と、チェリーピッキング的でミスリーディング(誤解を誘う)証拠を提示しているだけだ、みたいな批判です。ちょっと見てみましょう。

  • レポートは、性的モノ化などを我々(特に女性)すべてにとって強制的に押しつけられるものだと想定していて、健康で健全な人々がそれを自発的に選択するという可能性を考慮していない。セクシー化は単に「悪いもの」として想定されている。
  • 現代アメリカで「セクシー化」(あら、これはセックス化だなあ)が激化していると指摘されていて、たとえばテレビドラマ(シットコム)1番組あたり3.3回のセクハラシーンがあると指摘されているが、これらの多くは男性のセクハラを批判したり、「男性性」を馬鹿にしたりするために用いられている点を無視している。
  • ミュージックビデオ(MV)では女性が単なる装飾品として登場させられていると主張しているが、そうしたMVでは男性も同様に非常に装飾的に使われている。
  • 旧来のバービー人形と、よりセクシーなブラッツ人形の違いが「セクシー化」のエヴィデンスとして指摘されている。バービーの原型は第二次世界大戦後のセックス玩具であり、それが50年代には従順な金髪女子となり、Toy Story 3では怒れる金髪フェミニストとなったように、時代の 親の好み にあわせてその姿を変えられている。ブラッツは第二波フェミニズム運動〜ポストフェミニズム運動のなかで生みだされたものであり、多様な人種とルックス、そして「ポルノスター」ティーシャツや「ポールダンサーキット」などが存在することがわかるように、現代の 子供自身 の好みにあうように作られている。
  • APAの報告書はmayやappear toなどの語句が頻繁に使われており、ブラッツ人形が女子に悪影響を与えているという推定は証拠のない憶念にすぎない。(なんでこの人バービーとブラッツにこだわってんだろ?ファンなのだろうか?)

まあほかにもいろいろ悪態ついてます。でも実際、どれくらいのエビデンスが提出されているんでしょうね。ちょっとチェックしてみます。

認知的・身体的能力の低下

  • 自己モノ化によって意識が断片化し、認知能力が下る。女子は着替え室で水着を着て数学テストを受けると点数が下がる(Fredrickson et al., 1998, Hebl, King & Lin 2004)。論理的思考や空間把握能力も下がる.(Gapinski, Brownell & LaFrance 2003)
  • 思春期ぐらいから女子は自分の数学の能力とかを疑いはじめるが、女子校ではそういう現象が見られないので自己モノ化と女子の理系(STEM)進学が少ないのは関係があるのではないか(Fredrickson & Rorberts 1997)
  • 自分の身体をモノとみて、ルックスを気にする女子は、ソフトボール投げの距離が短い(Fredrickson & Harrison 2005)

正直、有名な「水着」論文なんかの、自己モノ化が認知能力を落とす、みたいな話はちょっとそのまま信用するのはむずかしそうかな、という印象です。

身体への不満、容姿不安

  • 自己モノ化と自己モニタリングは、自分の身体に対する恥の感覚を増加させる(e.g., Fredrickson et al., 1998; McKinley, 1998, 1999;Tiggemann & Slater, 2001)
  • 自分をセクシー化された視線で見る若年女子は容姿不安が強い (e.g.,Tiggemann & Lynch 2001)
  • メディアでの理想的女性ボディを見たあとでは容姿不安が強くなる(Monro & Huon, 2005)。雑誌表紙の「セクシー」「すらっとしたsheply」などの文字を見たあとでも同様。(T-A. Roberts & Gettman, 2004).
  • などなど省略

この種の調査は数多いので省略。身体に関する言及や理想的ボディ見せられると、自分の身体への不満や不安が強くなる。まあそうだろうな、って感じですね。若い女性のあいだで豊胸手術その他の美容整形なんかが流行しているのもネガティブにコメントされてます。

メンタルヘルス

自己モノ化・セクシー化と関係あるとされている女子と女性に多い三大メンヘル問題といえば次の三つ。

  • 摂食障害
  • 自己評価低下
  • 鬱病、抑鬱状態

これも非常に多くの文献があげられていて、まあそうだろうな、ですね。

身体的健康

自己モノ化とセクシー化は間接的に身体的健康にも影響する。あげられているのは

  • 身体不満と喫煙の相関(Camp, Kleges, & Relyea, 1993)(Harrell, 2002)

でした。

セックス関連

まずセックス頻度・満足度とかはウェルビーイングと強い相関があることを確認。これはそうなんしょね。んで、自己モノ化・セクシー化は健康セックスにネガティブな影響があると。

  • 自己モノ化する思春期女子(白人とラティーナ)は、コンドーム使用率が低く、性的な自己主張もしない傾向 (Impett, Schooler, and Tolman 2006)
  • MVや女性雑誌をよく見女子る大学生は、性的モノ化された女性像や伝統的ジェンダーイデオロギーに親和的、授乳や月経、汗などの身体機能にネガティブな態度をとりがち (L. M.Ward, Merriwether, and Caruthers 2006)
  • テレビ番組は人々の性行動を正確に描いていると信じている高校生は、最初の性体験に不満足、また処女であることにも不満足 (Baran 1976)
  • 一般男性雑誌や男性テレビキャラクター好きな大学(男女)は、最初のセックスはネガティブなものになるだろう予想しがち。(L. M.Ward and Averitt 2005)
  • 雑誌表紙の女性モノ化的な文句を読んだ女子は、性関係に興味を失なう(T-A. Roberts & Gettman 2004)
  • などなど

この項目、エビデンスけっこう数出されてるんですけど、なんか中身ちょっとしょぼい調査ばっかりな気がします。あと「態度と信念」と「女子の性的搾取」の項目があるんですが、もう疲れてしまって今日はおしまい。

証拠の強さは?

たしかに、このAPAの報告書を見ると、メディアが女性の精神衛生その他に影響を与えているだろう、っていうのは直接には言いにくいみたいですね。

メディアの影響→ 女子の自己モノ化 → 女子のメンヘルその他の問題

っていう形になっていて、メディアのセクシー化の影響によって自己モノ化している、っていう証拠は相関としてもさえ弱いし、自己モノ化 から メンヘル問題、っていう因果関係もなかなかエビデンス出すのに苦労している様子がある。相関ならまあなんとか……

あとなんといっても気になるのは、こうして列挙されているのは「女子のセクシー化」のネガティブな面ばっかりで、おそらくそれの裏側にある セクシー化のポジティブな面 に一切触れられていないのが気になりますね。「そんなものはないのだ!」って簡単には言いきれない気がする。実際、第三波フェミニズムとかを名乗る人々はこのAPAの報告書批判してますね。たとえば

  • Lerum, Kari, and Shari L. Dworkin. “‘Bad Girls Rule’: An Interdisciplinary Feminist Commentary on the Report of the APA Task Force on the Sexualization of Girls.” Journal of Sex Research, vol. 46, no. 4, Taylor & Francis, July 2009, pp. 250–63.

など。もっとも、この報告書のファーストオーサーの先生なんかは、2018年に「たしかに証拠ちょっと足らんかったけど、そのあと10年たってずいぶん強力になったぞ!」って言ってます。

  • Zurbriggen, Eileen L. “The Sexualization of Girls.” APA Handbook of the Psychology of Women: History, Theory, and Battlegrounds, Vol, edited by Cheryl B. Travis, vol. 1, American Psychological Association, xxii, 2018, pp. 455–72.
  • Lamb, Sharon, and Julie Koven. “Sexualization of Girls: Addressing Criticism of the APA Report, Presenting New Evidence.” SAGE Open, vol. 9, no. 4, SAGE Publications, Oct. 2019, p. 2158244019881024.

なんかこれ書いてたら、「セクシー化」じゃない方がいいみたいですね。最初は「セクシーなものが強調される」ぐらいの意味で使おうとしてたんですが、困りました。「セクシャル化」かもう「セクシャライズ」か。「性化」は読みにくいし、「セックス化」じゃあんまりよくないだろうしねえ。

男らしさへの旅 (4) 女性はもっとパワフルなはずだ

前のエントリうまく書けてないので、もう一回チャレンジ。

「支配」の原語は?

もう一回、「男性支配」に戻って、多賀先生のやつ再度引用。

われわれの社会では、実体的利益をより多く得られる立場や権威ある地位の大部分を男性が占めていたり、そうした利益や権威を得る機会が女性に比べて圧倒的に男性に多く開かれていたりする。このように、男性が女性に対して圧倒的に優位な立場にある社会状況を、ここでは「男性支配」という概念でとらえることにしたい。(多賀 2016, pp. 34-45)

やっぱりこの「支配」っていう訳語はあんまり適切じゃないじゃないですかね。対応する英語はdominanceで、ruleやgovernではない。

dominanceはなにかを比較する概念で、なにかと比較して優勢にあること、より力(権力)があること、目につくことですわね。制度的な支配とかそういうのではなく、単に数が多いとか、数が少なくともリソースの大部分をもってるとか、そういう感じになると思います。動詞のdominateとなると、これは「支配する」という語感に近いものになって、誰か他人をコントロールしたり強い影響力をもったりすることを指す。とくにまあ意に沿わない形で影響力を行使したりすることを指しますね。まさに支配だ。

「覇権的男性性」とかっていう表現に出てくる覇権的 hegemonicというのは、いろいろあるなかで一つが圧倒的に(なんらかの点で)優位・優勢であり、また強い影響力をもつという意味で支配的でもあることを指していると思う。

さて、大学教授とか、大企業の社長とか、議員とか、まだ男性の方がずっと多いので、たしかに男性優位だとは言える。しかしこの優位・支配というのは「女性をコントロールする」のような意味での「支配」ではない。もちろん数が多かったり高い地位にあれば他人をコントロールすることも容易になるでしょう。全体として、先進国の社会は、社会全体でも企業その他の団体でも、たいてい男性優位でしょうね。(美容業界や看護師や助産婦さんの世界なんかは違うかもしれない)

では家庭はどうか。小手川先生や平山先生が見ているように、男性支配、男性が優位であり、女性に強い影響を与えているだろうか、っていうのが最大の疑問なわけです。

女性は実はもっとパワフルなはずだ

このシリーズで名前をあげている日本の社会学・哲学の先生たちは、男性が稼ぎを資本にして女性をコントロールしている、と考えている。しかし、私のアイドルのパーリア先生や、キャサリン・ハキム先生なんかは、少なくとも家庭のようなプライベートな場所では第二波フェミニストたちが思っているより女性はずっとパワフルだと主張しています。

ハキム先生をちょっと引用しますね。

社会学的な調査は今のところパートナー間のエコノミックキャピタルの比較に焦点を当て、二人の平等性と力関係を評価している。欧州の国では(スカンディナビア諸国でさえ)、女性は普通、第二の稼ぎ手にすぎず、平均して家計所得への貢献は3分の1程度だ。夫は妻の約2倍の収入を得ていることになり、ときには収入の全部を賄う場合もある。フェミニストなどはこうした数字が男性支配(male dominance)と「性差別」(gender inequality)を示すものだと言いがちだが、その裏付け証拠はほとんどない。(p. 167)

この「証拠はほとんどない」には注がついていて、1984年の米国デトロイト州での社会調査が参照されています。それによれば、夫婦の相対的な収入も、妻の職の有無も、家庭内での力の配分には相関していないし、また結婚がうまくいくかどうかにも相関していない。さらには、身体的な魅力だけでも、家庭内での力関係にはリンクしていない、とされています。この資料(Whyte 1990, 1990, pp.153-4, 161, 169)はネットで手に入るみたいなので、私は見ませんが力のある人は確認してみてください。

先に社会保障・人口問題研究所の家庭内の意思決定の調査を見ましたが、あれのもっと詳しい版ですかね。とにかく、経済力によって男性が女性をコントール(支配)しているとか、影響力の点において優勢にあるとかっていうのは、裏づけがないかもしれません。

んじゃ男女の力関係はなにで決まってるのか?ハキム先生の推測はこうです。

男女関係に関する調査や結婚カウンセラーの本によると、一般に妻が駆け引きの材料に使うのは主にセックスで、お金ではない。妻たちは夫の協力を得ようと、セックスをちらつかせたり拒否したりする。夫は大抵妻よりセックスを望み、性風俗サービスの利用は恥ずべきこととされているので、この戦略は効果的だ。(pp. 167-168)

ははは。そうなんですか?他にも、フェミニストなんかが反対することが多い海外からのメイルオーダー花嫁なんかも家庭内ではかなりパワフルなようです。どうなんでしょうね。

性的モノ化とセクシー化 (7) セクシー化問題の成立史

「セクシー化」sexualizationっていう問題がどういうふうに形成されたのか、ってのは次のものが勉強になります。ほんのちょっとだけ紹介。

まずこのsexualization言葉は、複数の歴史的な意味がある。「セクシー化」ではない意味もあります1

  • 1970年代には、個人が男性・女性としてそれぞれ性的に分化して成熟していく過程を指す言葉として使われた。
  • また、精神医学ではフロイトのsexualizierenの意味で、リビドーが特定のエロチックな対象に固定する過程を指すのにも使われる。特にアメリカの精神分析業界では、治療者に対る「転移」を指すのに使われた。
  • 上のふたつの混用みたいな形で、子どもが大人に対する不適切な性欲をもつ社会化の過程を指したりもした。(へえ)
  • 児童虐待の問題意識が高まると、インセスト(近親姦)的な子どもに対するやばい関心を指すようになる。この用法は現代まで使われている。
  • 1980年代になると、子ども、特に女子のsexualizationが問題になる。これは子ども、特に女児が、十分成熟するまえに性的活動に参加しはじめることを指してました
  • 1990年代には、フェミニズムの影響を受けてジェンダー問題が「社会問題」として前面化する。特に女性と子供の性的被害がクローズアップされる。sexualizationは本来大人の社会から性的に隔離されているべき子供を性的活動にひきこむこと
  • 1995年にGarbarinoの Rasing Children in a Socially Toxic Environment という本がベストセラーになる。この本では子供のセクシャリゼーションによる搾取が問題とされる。「子供にセクシーな服を着せることは、もう制限なしだというメッセージを伝えることになる」2
  • 2000年代前半にsexualization 、このシリーズで述べてる意味での「セクシー化」がフェミニスト的問題になりはじめる。少女が積極的にセクシーな服を着て、男子の目をひきつけようとする傾向。フェミニスト的には、商業的・性差別的社会では、もは女子はまともな選択ができなくなっているという意識の高まり
  • 「以前は女性は自分たちをックスオブジェクトとして見るなと抗議していたのに、現代ではその娘たちは自分からセックスオブジェクトになろうとしている」 という危機意識。また女児の性的搾取のリスクの増加の懸念
  • セクシー化への懸念はAPAの報告書に結実、保守派の賛同も集める

まあこんなふうにして、2000年代このかた、若い女性を性的なものとして扱うことに加え、女子や若い女性が自分から性的なものとして自分をディスプレイして、また積極的に性的な活動をおこなう、っていう現象が、フェミニストにも、保守派にも懸念される現象になっているわけです。そして、1980年代に批判されたフェミニストと保守派の結託みたいな現象が2010年以降また起きている、って感じです。

脚注:

1

ちょっと英語の問題があって、sexualizeみたいな他動詞に-ationの語尾をつけて作った語は、その過程を指すこともあれば、その結果を指すこともあるんですよね。「子どもをセクシュアライズする」というのは、まあ「大人が子どもを性欲の対象としたり、性的な活動をする存在として見る」みたいな意味なわけですが、その名詞形のセクシュアライゼイションは、そうやって子どもを性欲の対象とするようになっていくという過程を指す場合と、子どもが性的な対象とされるようになったという結果を指す場合がある。accuse 訴えるという言葉の名詞形のaccuzationに、(1) 告発すること、という過程の意味と、(2) 告発そのもの、告発の内容、と二つの意味ができてしまうのと同じということらしいです。これ、よく考えないと翻訳もまちがってしまいますので注意しないとならんですね。

2

この本は重要なようで、いま話題になってる「有毒な男らしさ」っていうやつもこのラインの話なんですね。ケミカル有害物質の汚染と、性的な汚染がメタファーでつながれていて、それがいまでは「男らしさ」にも使われているんですな。

男らしさへの旅 (3) 「支配」と「優位」と「有利」

「支配」は単なる強制と服従ではない(はずなのだが)

とにかく私は主流派フェミニズムや男性学での「支配」がわからない。なぜ「支配/服従」という形で社会や人間関係を考えようとするのだろうか。前にも書いたように、小手川〜澁谷〜平山と遡って、多賀太先生の『男子問題の時代?』でやっと答らしきものを見つけました。

われわれの社会では、実体的利益をより多く得られる立場や権威ある地位の大部分を男性が占めていたり、そうした利益や権威を得る機会が女性に比べて圧倒的に男性に多く開かれていたりする。このように、男性が女性に対して圧倒的に優位な立場にある社会状況を、ここでは「男性支配」という概念でとらえることにしたい。(多賀 2016, pp. 34-45)

「優位な立場」を支配と呼ぶのはかなり奇妙な感じがしますね。たしかに優位な立場にあれば、支配しやすいことはあるだろう。教員というのが学生様に対して優位な立場にあると言われていて、一番大きいのは単位を認定する職務上の決定権をもっている。学生様は教員の指示にしたがって、授業に出席したりクラスで発表したり期末レポートを書いたりしなければならない。もちろん、学生じゃなくて道を歩いている人々は、大学教員の言うことなんか聞く必要がない。また学生様も、その教員の単位が必要なかったら、その教員の言うことなんか聞く必要がない。でもまあ学生様は卒業するために一定数の単位が必要だし、必修の授業とかになるとその教員の指示にしたがわないで卒業することは難しくなる。そういうわけで、教員は単位の認定権をつかって学生様を支配している。(ほんとうにちゃんと支配できればいいんですが……)

こういう形で男性が女性を支配しているかというと、これはむずかしいですね。まず、特定の男性が、不特定の女性に対してそうした、支配できる優位な立場にあるかというとそうではない。私は男ですが、道行く女性に「焼きそばパン買ってきて」とかって言ったとしても誰もそんな指示にはしたがわない。警察に通報されちゃいます。

特定の男性が、特定の女性に対して支配できる優位な立場にある、ということはありえる。たとえばある父親が自分の娘に対して生活費や学費の支払いを根拠に、自分の言うことを聞かせることはできるかもしれない。学費や生活費止められたら困りますからね。親子関係じゃなくても、カップルは配偶関係でもそうしたことはあるでしょうな。

日常的な感覚で「支配」と聞けば、暴力や脅しによって支配者が被支配者を強制的に服従させるような状況をイメージするかもしれない。しかし、社会学で「支配」という概念を用いる場合、それは必ずしもそうしたむき出しの暴力による統治だけを指すわけではない。「支配」には、被支配者がその支配体制を正当なものとみなし、自発的にそうした支配体制に従うような側面もありうる。……つまり、男性支配の社会であるからといって、常に男性が暴力や脅しによって女性を力ずくで服従させている……とは限らない。むしろ、女性たちが、男性が女性よりも利益や権威を得られる社会のあり方を正当なものと見なし、自発的にそうした体制に従っている状況を「男性支配」という概念で把握することは、社会学的な「支配」の用法として、十分理にかなっている。(多賀 2016, p.35)

これ言いたいことはわかりますね。しかし、「支配体制に自発的に従う」っていうときのこの「支配」は、被支配者にはもういやなものでもないし、また道徳的に悪いものでもないわけです。日本に政府があって、政府が国民を統治しているのは悪いことではない。

となると、上の社会学者たちの意味での支配(優位/劣位)が悪いのは、その優位/劣位または有利/不利が生まれるプロセス・経過が不正だったり、あるいは有利不利の格差が参加者たちが正当性を認めるものより大きすぎたりする場合に限られるように思います。

さて、日本の社会における男性と女性の関係はそうしたものになっているだろうか?グループとしての男性とグループとしての女性が、そうした優位・劣位の関係になっているというのはちょっと考えられない。私が男だからという理由でしたがってくれる女性はほとんどいませんしね。他の男性はそうした女性をもっているのかもしれないけど、グループとしてもってるわけではないでしょう。

一方、一般に男性の方が、女性よりも教育や就労の点で(優位ではなく)有利だ、ということはありえる。それほどはっきりした有利不利が性別によってあるのかどうか私は疑問に思っていますが、これはとりあえずここでは認めてもよい。でもこの有利不利は、我々がふつう使っている「支配」とはまったく違う概念ですよね。

そして、多賀先生自身はともかく、平山先生や小手川先生は、家庭内における支配、ふつうの意味での支配、すなわち 強制 を問題にしている。つまり、夫婦・カップルの間の経済力(稼ぎ)による支配ですわ。でも本当にそうなってますか?

なぜ稼ごうとすることが「支配」なのか?

前のポストで引用した平山先生。

男性が自己強迫的に追い求める夫しての稼得役割=「家族を養うことができること」……その思考は本人の意図にかかわらず、結果的には妻の生殺与奪権を握り、支配する志向となることを免れない。(平山 2017, p.238)

小手川先生はこう。

集団としての男性は、男性は女性よりも優れているから女性を支配すべきだという思い込みのもとに、家父長制からもっとも利益を得てきたし、いまなお得ている存在である。(小手川 2019, p174)

これらの「支配」が強制や押し付けを指してるのははっきりしていると思うんだけど、どうでしょう?そして、男性は本当にそうした強制や押し付けをしているのかしら。逆に、妻からさまざまな強制をされている男性はあんまりいないのだろうか。

私が思うところでは、多くのご家族(夫婦)は、政府と人民、みたいな支配(強制)と服従、みたいな形にはなってないと思うんですよね。前のエントリで貼った「意思決定」だっていろんなことを夫婦で相談しながら決めてるじゃないですか。労働と家事の分担みたいなのも、夫婦それぞれ不満をかかえながらかもしれないけど、そこそこうまく分担して協力している。多くのご家庭では夫が主たる稼得者であるけれども、家計の管理なんかは妻がやって、おこづかい制度になっていると聞きます(旦那が稼いだものなのに!)。もちろん、協力がだんだんうまくいかなくなってくると、おたがいの不満も増えるし、いっしょにいるメリットがなくなって別々にいた方がましとなれば、離婚してしまう(現在初婚カップルの1/4だっけ?)でもそれって、支配/服従じゃないですよね。たしかに、ある時点から結婚生活が支配と服従になってしまうかもしれないけど、支配から逃れて離婚して独立することもできるのだから。

でもここで、平山先生や小手川先生に、私が想定していなかったある仮定があることに気づきました。先生たちは、たくさん稼いで妻を専業主婦になってもらおうとしている男性たちのことを考えていたのね!「結婚するなら仕事やめて」みたいな男性たち。あー、そりゃ勝ち組だわ。

子どものころから、私のまわりにはめったにそういう人がいなかったので、そういう発想がわからないんですよね。専業主婦なんてほんとうに限られた高収入層の贅沢じゃないっすか。

いまどきの男性も、配偶女性に実際に専業主婦になってほしいとは思わない傾向があると思う。統計はすぐに出ませんけど出せると思う。現代の若者男性(20代から40才ぐらいの未婚男性)が苦しいのは、妻が専業主婦になってくれないからではなく、お金がないと結婚はおろか交際(一対一の、結婚を前提とした)さえ難しいからですよね。

こういうのに気づいたら、先生たちがいったいなにを議論しているのか、そして私がそれをなぜ理解できなかったのか、疑問が氷解した、っていう感じでした。

(続く)

男らしさへの旅 (2) 「男らしさ」と「男性性」

「男らしさ」と「男性性」

小手川先生や彼が参照する男性学の系統の先生たちでは、「男らしさ」は「家父長制」と強く結びつけられて考えられていて、そこでは、男性は「支配者、稼ぎ手、威厳ある父」(小手川 2020 p.62)である、ってことになっているみたい。なんかずいぶん違和感ありますね。ここらへんはいろいろむずかしい。

まず「男らしさ」っていう言葉が誤解をまねきやすい。我々が日常的に「男らしい」という言葉を使う場合は、宮下あきら先生の『魁!!男塾』みたいないかにも男男していて、強く乱暴で義侠心がある漢!侠!みたいなのか、あるいは生物学男性がとりがちな不合理で馬鹿げた振舞をすることを指してると思う。まあそれほど馬鹿らしくなくても、正義感とか忍耐とか、そうした優れた(?)性質に対する誉め言葉や、それを逆手にとった皮肉でユーモラスなけなし言葉だと思うんですわ。とにかくなんらかの評価語だ。

私が「男らしさ」っていう言葉で連想するのは、身体的な強さや筋骨に加え、なんといっても「勇気」と「公正さ(正義)」と「忍耐」とかの精神的な美徳なんですわ。他にもチームワーク、なんかに習熟していること、各種テクノロジー使えること(ITに限らない!たとえばロープ結びや火起こし)、冒険心、そしてなによりタフさ、かなあ。

こういう「男らしさ」って、我々男性の大半が手に入れてないものですよね。「男らしい」筋骨隆々のボディなんてほとんどの男性はもってない。たいていの腹ぼて洋梨体型でしょ。勇気も正義も忍耐も技術も冒険心もタフネスももってない。我々は卑劣でえこひいきしてすぐに投げだし、不器用で臆病で弱虫だ。いつも泣き言ばっかり。男らしさはそれは単なる理想としてだけある。そして、我々の大半は、まあ自分がすでに手に入れた男らしさを、なにかの機会に発揮できたときに、満足して確認することはあるかもしれないけど、他のたいていの男らしさ(美徳)を努力して手に入れようとさえしないことも多いように思います。 男らしさ、男性性がそういう能力の獲得と発揮にあるなのなら、我々はほとんど男性失格だと思いますね。

でもどうも男性学とかその手の人々のあいだではちがうものを見てるみたいなんですよね。小手川先生も日本の男性学の影響を強く受けてるのは感じられる。

社会学は基本的に価値中立が望ましいってことになっていて、いろんな言葉を、ほめたり推奨したりけなしたり非難したりする価値的・規範的な使い方ではなく、なるべく記述的に使う、ってことになってる。つまり、「男らしい」 masculine っていうのはほめ言葉でもけなし言葉でもなく、単に「男であること」女性と比較した場合にもっているある性質、みたいに使うことになっています。そうすると、評価的に使われる「男らしさ」っていう日本語はあんまり適切じゃなくて、masculineは「男性的」、masculinityは「男性性」とか訳した方がいい、って立場もある。社会学者の多賀太先生なんかはそういう立場で、「男らしさ」ではなく「男性性」を使うようになっているようです。この一群の記事では面倒なので使いわけません。

覇権的な男らしさ/男性性

小手川先生も使ってるけど、主流の男性学では、「覇権的な/ヘゲモニックな男らしさ/男性性」っていうのがキーワードなんですわ。これまたやっかいな概念です。「支配的な男らしさ」っていう表現も見ますね。

「男っぽい」っていっても、いろんな「男っぽさ」があるわけですわね。豪放磊落、豪傑っぽいのだけが男じゃない。ブラッドピットみたいなのも男っぽいし、ホーキング博士みたいな科学者も男な感じ。そういうわけで、「男らしい」「男性性」っていってもいろんなイメージがあるわけですわ。だからレイウィン・コンネル先生という有名な人は、男性性 masculinity はいろいろあるから複数形でも使えるはずだ、複数形で使うべきだ、ってんで Masculinities っていう本を書いて男性性の概念をそうしたものとして扱った。まあ実際男性っていろいろいるから、なかなか「これが男だ!」ってのはやりにくいですわね。

んでコンネル先生は、そうした複数の男性性には、特別に偉いと思われてるやつがある、っていうんですわ。それが覇権的な(ヘゲモニックな)男性性。覇権って、国とかまあいろいろあるなかで、他の同種のものに対して支配権・支配力をもってるような存在ですね。男性のなかでも特にあるグループの人々は他の男性グループに対して優越し、支配権をもつ。

コンネル先生は現代社会では、ホワイトカラー、正規雇用、異性愛者、既婚者であることが覇権的な男性性である、っていうわけです。まあ結婚している上級サラリーマンみたいなのがそれだっていうんですかね。この人々のなかの個人が実際他の男性を支配しているか、というのはよくわからない。実際のサラリーマンは簡単には他人を支配することなんかできないだろうと思う。むしろ、いまの日本を動かしてる自民党とか経団連とかそういう人々を思いうかべるんですかね。

男性学の主流では、この「覇権的男性性」から解放されようとか、そういう話をするわけですわね。あれ、さっき社会学の主流は価値中立的とかって書いたのに、とかなるかもしれませんが、まあ基本は分析だけど、もし「生きづらさから解放されたいならば」みたいな条件があるわけですわ。おそらく。

男性よる女性の支配

んでくりかえしますが、小田川先生のなかでは、従来の男性というのは、なによりも家計を稼いで 支配 することを目指すものってことになってるんですよね。

男性たちは、家事や育児や介護を女性たちに丸投げすることで、仕事に専念し収入や公的な信頼を獲得したてきただけでなく、彼らの扶養者である妻や子どもを自分に依存させ、従わせることができた。しかし、そのために彼らは、妻との対等の関係や子どもとの愛情ある関係を犠牲にしてきたとも言える。フェミニズムとは、こうしたあり方の歪みを問い直し、支配者・稼ぎ手・威厳ある父であり続けなければならないという家父長制の束縛から男性を解き放つことを目指すものである。(小手川 2019, p.174)

しかし本当にこうなってるんですかね。同種の発想は平山先生にもある。

事実、日本では、離別や死別によって貧困に陥る女性が非常に多い。夫婦という単位において、男性が稼得者としての役割の固執することがどのような意味をもつかは明らかである。その固執は、何よりもまず妻を自身に従属させ、その生活に係る資源の供給源を握ることで、妻を支配することへの志向を必然的に意味するのである。(平山 2017, p.234)

男性が自己強迫的に追い求める夫しての稼得役割=「家族を養うことができること」……その思考は本人の意図にかかわらず、結果的には妻の生殺与奪権を握り、支配する志向となることを免れない。(平山 2017, p.238)

ここらへんで、「男らしさ」がけっきょく家族を養うお金を稼ぐことと、女性(妻)を支配することに煮つめられているのが私にはとても意外なのですが、まあ一般に「男の生きづらさ」と言われるのは、「仕事したくないでござる」と思いながらつらい職場で仕事しなければならないことや、性的におつきあいしてくれる女性がいないことに集中している感じがあるのでしょうがないですかね。でも「男らしさ」の話として、貧弱すぎる気はするのです。

まあそれはおいといて、現代日本での覇権的な「男らしさ」なり男性性なりに、「お金をもっていて家族を養うことができる」というのが入っていると認めるとしましょう。それでも、「女性を支配する」っていったいどういうことでしょうか。女性を支配している男性とかいま日本にどれくらいいるんでしょうか。

国立社会保障・人口問題研究所が出してる第6回家庭動向調査 (2020)だと、「主たる意思決定者」はこういう感じなんですよね。

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まあ高額品の購入、家計の管理、親戚づきあい、子どもの教育について、夫婦のどちらが意思決定しているかってだけなので、妻が家庭を支配しているというよりも、夫の方がそうした家庭のことにさして興味をもたず、妻に丸投げしている、という小手川先生や平山先生が指摘していることを示しているのかもしれませんが、んじゃ実際のところ、男性が女性を支配している、夫が妻を支配しているというのはどういうことなのだろう?ほんとに支配なんかできてるんでしょうか?