続き。 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/97683
次は「心理的苦痛を訴える資格」。これは見出しからして心乱れます。そんなものがあるのだろうか。苦痛は苦痛であり、それを訴える資格なんか必要がないと思う。もちろん、それを考慮に入れるかどうかというのはその訴えを聞く方の都合でいろいろあるでしょうが、「苦痛を訴える 資格がない 」みたいな言いかたってとほうもないように私には思えます。
その次にくるのが「鏡見て出直せ/自分の面見直してみろ、お前はその苦痛に値する」みたいな話じゃないっすか。正直なところ、私そういうのはたえられません。
「男性は、自分たちが痴漢だと見られることには怒る一方で、自分たちが痴漢と同じ目で女性を見ていることには寛容である」という二重基準が実際にあるからです
ポイントは「同じ目で 見る 」ですね1。見るだけで痴漢したのと同じである、というのは、新約聖書のイエスさんを連想させますね。
「あなたがたも聞いているとおり、「姦淫するな」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。(マタイによる福音書5:27-28)
みだならな目で学生様を見る大学教員はすでにセクハラしているのである!理由なくセクハラした/するんじゃないかと疑われてものそれを不快だと訴える 資格はない !それでいいんですか。
「痴漢被害を軽く見積も」ることなどは当然なく、性暴力につながるような態度や考え方や言動にも一切関与したことはなく、その種の発言等をずっと批判し続けてきた、という男性も存在するかもしれません。その人には、機会制約を批判し、「男性として」の心理的な苦痛を主張する資格があるでしょう。
これはイエスさんのまた別の一節を連想させますね。
あなたたちの中で罪を犯したことのない者がこの女に、まず石を投げなさい(ヨハネによる福音書8)
もちろん論理的には、「痴漢にずっと反対してきた」→資格がある、から、「みだらな目で女性を見た」→ 資格がない、ということは言えませんが、堀田先生は実際にそういうこと考えてるっしょ?こんなイエスさんみたいな極端な話、現実世界で受けいれられますか?
でも我々は、自分の苦痛は苦痛だと訴える資格はつねにあるのです。もし堀田先生がその訴えに耳を貸そうとしなくてもね。歴史上、多くの人々が「資格がない」っていっていろんな意見を言うことを封じられてきたのです。なんでそんな「資格がない」なんてことをほのめかすのですか。私は堀田先生、いや堀田さんを個人的にも知っていて、たいへん真面目で素敵な人であることを知っています。そんな人が「苦痛を訴える資格」みたいな話をしているのを読んでものすごくショックを受けました。そういうのはやめてください。
単に、そうした男性の心理的苦痛は、女性の(確率的な)痴漢被害の重大さに比べればささいなものだ、って指摘するだけでいいじゃないですか。なんで「資格」なんですか。私はそうした「苦痛を訴える資格」みたいな考え方は非常に危険なものではないかと思います。
まだ続きます。
- 堀田義太郎先生の「女性専用車両は不当な差別か」について (1) 潜在的な加害者
- 堀田義太郎先生の「女性専用車両は不当な差別か」について (2) 被害を訴える資格
- 堀田義太郎先生の「女性専用車両は不当な差別か」について (3) 痴漢は女性差別の産物
- 堀田義太郎先生の「女性専用車両は不当な差別か」について (4) 平等な尊重の要請をくつがえす理由?
- 堀田義太郎先生の「女性専用車両は不当な差別か」について (5) 女性専用車両をめぐる論議とは(おしまい)
脚注:
ここのところの堀田先生の「見る」については、男性が女性を性的な関心をもって「見る」ことと、女性が男性を犯罪者として「見る」ことは、同じ「見る」でも意味が違うのではないかという指摘を複数の人からもらいました。なるほど。
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