堀田義太郎先生の「女性専用車両は不当な差別か」について (5) 女性専用車両をめぐる論議とは(おしまい)

続き。 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/97683

というわけで、いろいろ文句つけてしまったのですが、堀田先生の論説の基本的な主張と結論には私はまったく異論はないのです。つまり、電車痴漢の被害は甚大なので、形式的には差別に見える女性専用車両はやむをえない、そして男性は痴漢やその他の性暴力の被害の大きさをよく考えて撲滅に協力すべきだ、そのためにはまずは多くの男性はそれぞれが自分の意識を変革すべきだ、というのはまったく同意するのです。でもそこに至る議論に文句があるわけです。


犯罪防止のためとはいえ、公共の場所から、あらかじめ一部の人を、加害者・犯罪者に 似ている からといって排除するというのは、まさに差別ど真ん中であって、そんなことは簡単には認められない。マジョリティとかマイノリティだとかっていう話は関係ありません。そもそも男女ぐらいでマジョリティだのマイノリティだのっていうのはおかしいと思う。でも痴漢に関しては圧倒的に男性が加害者であり、圧倒的に女性が被害者になるという図式がはっきりして、数も多いし女性の被害も甚大なのでなんとかしたい。

だから実際の女性専用車両というのは、鉄道会社が音頭をとって、利用者の皆様(特に男性)に呼びかけて自発的にその場所を遠慮してもらう、そういう形になっていると思います。そして多くの男性はそうした呼び掛けに素直に応じて、それぞれ少し窮屈な思いをしても女性を守ろうとしている。すばらしいことじゃないですか。実は 実践的な問題としては 女性専用車両の存在に関する論争なんてものは 存在しない んじゃないかと思います。

私が見るところでは、女性専用車両が男性差別だとか男性蔑視だとか主張しているひとは、実践的にそれをすぐさまなくすべきだと主張しているというよりは、もっと 理論的な、あるいは原理原則の話 をしているのだと思います。我々はどんな属性によってもあらかじめ加害者・犯罪者あつかいされるべきではなく、また公共の場所から排除されるべきではない。我々は自分の行為にのみ責任を問われるべきであって、他人の行動について少なくとも法的・準法的な形では負担を負わされるべきではない。我々は自分が受けている被害や差別を広く社会に訴えることができるべきだ。これは差別に反対する非常に重要な原則であって、一部の論者のそれを軽視する態度が問題にされているのだと理解しています。

それなのに、差別されているという被害意識を主張する 資格がない とか、あるいは他の男性が痴漢しているんだから、あるいは男性優位社会という文化があるのだから、男性が連帯責任とらされてもしょうがない、みたいな議論を見せられたら、そうした原理原則を問題にしている人々はなおさら原理原則にこだわりたくなるものだと思います。

女性専用車両の問題というのは、どうやって痴漢を防ぎつつお互いを人間として尊重しあう社会を作れるか、どのようにしてみんな、あるいは多くの人が同意できるようような制度を考えて、社会的な合意を形成できるか、というもっぱら理論的・原理的な問題なのです。そうしたときに、「女性専用車両に文句をつける連中はこんな悪しき動機やこんなあやまった認識をもっているにちがいない」のような話をするというのは私はとてもよくないと思うのです。もっと誠実な議論をしましょう。女性専用車両は、たしかに形式的には男性差別であり、可能ならば廃止するべきだ。しかし現状では女性が安心できる利用のためには女性専用車両はとりあえずは簡便な手段だから、利用者相互の自発的な譲りあいみたいなのの一つのかたちとして許容されるべきだ。しかし鉄道会社や国家の 強制としては 許容されない。そうしたことを素直に認めあっていくうちに、差別と安全の問題に関する我々の理解は進むのだと思います。

安全を確保する方法は専用車両だけではないだろうし、ベストの方法でもないかもしれない。たとえば運賃があがるとしても車両を増やすという手もあるだろうし、カメラを積極的に設置することも可能かもしれないし、あるいは乗客相互の監視を強めたり、あるいは通報と摘発の機会をもっと増やすような他の工夫もあるかもしれない。痴漢被害が重大な問題であることをみんながちゃんと認識して、そうしたことを話しあっていくうちに社会はよくなっていくはずで、一部の専用列車に異議を唱える男性たちの言い分を消去するような形であってはならないと思うのです。

おわります。

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