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男らしさへの旅 (5)「支配のコスト」

「支配」のコスト

まあというわけで、私は実は「男性が女性を支配しているのだ!女性は支配されているのだ!」っていうのをかなり疑問に思っていて、とりあえずそれは、「現代社会においては職業や社会的地位において男性の方が有利な場面がけっこうある」ぐらいの話だと理解させてもらいます。

ところで、やっぱり男性の方が一方的に有利なわけではないので、苦しい場面もあるわけですよね。それに、有利な立場にあるとはいえ、「男性である」ということとは別の点相対的に困難な状況にある男性も少なくない。男女の別の他にも、たとえば親の社会的階層、学歴、容姿、性格、他にもいろいろ要因があります。頭よくて壮健で技能があり性格もリーダー向きであれば、お金たくさん稼いで女性にもモテたりできるでしょうが、そうでない男性の方が大半でしょう。そうした人々は生きていくのがつらいと考えても不思議はない。これが多賀太先生なんかがテーマにしている現代社会での「男の生きづらさ」問題ですわね。そして、女性の苦しさに比べて、男性の苦しさは(相対的に)無視されやすいかもしれない。

しかし、こうした男性の「生きづらさ」は「支配のコストだ」という考え方があるんですね。これが、多賀、平山、澁谷、小手川というこのシリーズで注目して読んでいる先生たちの共通理解です。

多賀先生によれば、メスナー先生という人が、男性による支配体制には、男性にもコストを払わせるところがあると指摘しているんですね。孫引きなりますがこう。

男性たちは、彼らに地位と特権をもたらすことを約束する男らしさの狭い定義に合致するために……浅い人間関係、不健康、短命という形で……多大なコストを払いがちである(多賀 2016, p.45)

次は多賀先生自身の文章です。

男性たちの「生きづらさ」の少なくともある部分は、集団としての男性による女性に対する優越を達成し維持するための物理的・精神的負担、あるいはそうした負担の結果として男性に生じているさまざまな弊害として理解することができる。(同 pp.44-45)

個別の、特定の男性(たとえば私)が感じる生きづらさは、集団として男性が女性を支配するために私も部分的に負しているコスト、負うべきコストだ、というわけですね。

そして、「男らしさなんかから解放されたい」「解放されよう!」とかっていう一部の「男性学」や「男性権利運動」(Men’s Right Activism)は、その生きづらさが支配のコストだということを直視していないのでけしからん、ということになるわけです。

コストからの解放という主張は、その「コスト」が経済力が権力ある地位といった「特権」を得ることの代償であることをしっかりとふまえている場合にのみ正当性をもつ。(多賀 2006, p.185)

多賀先生はこういう感じの立場で、まあ理解できるんですが、平山先生はその多賀先生の立場でもまだヌルい、と考えてるみたい。私はなんでそんなに多賀先生に厳しいのかもうひとつよくわからないのですが、とりあえず次のように批判している。

端的に言えば、稼得役割に対する固執と、それを追求するがゆえに男性がさらされる身体的・精神的・社会的リスクは、家庭における支配を維持するための対価である。

多賀もまた、これらのリスクを「支配のコスト」と呼んではいるが、多賀のようにこのコストを男性の「生きづらさ」として語る必要は、わたしには感じられない。……男性による「一人で家族を養うことができること」の追求は、男性個人の「生の基盤」の確立のために行われるわけではないからである。要するに、「支配のコスト」は「支配のコスト」ではなく、それを「生きづらさ」と呼ぶ必要はない。(pp.238-239)

「生きづらい」とかっていうのは苦しい立場に置かれてる人々の実感だろうから私はそれでいいと思うんですけどね。くりかえしますが、私の理解では、ここで言われている「支配」っていうのは、実際に男性Aさんが女性Bさんを「支配」しているっていう意味ではなく、「男性の方が有利な場合がある」ぐらいの意味のはずだし、その有利な立場にない人々にとっては他の男性の有利さのために自分が苦しいというのは理不尽だと思う人がいても不思議ではない。

澁谷知美先生も平山先生と同じような意見です。

日本の男性学の信用できない点とは、男性の特権にまつわるコストを「生きづらさ」と呼び、男性の「被害者性」を強調しながら、特権を放棄するための考察を怠っている点にある。(澁谷 2019, p.30)

〔現代の社会には〕「男の生きづらさタブー」のようなものがあると実感している。/そうした実感をもつ筆者も「男の生きづらさ」が存在しないと主張するものではない。その「男の生きづらさ」なるものが「支配の挫折」、「支配のコスト」、「自縄自縛」でしかないのに、それに関するエクスキューズ以外の指摘がないまま、ただ「男の生きづらさ」が強調される「語り方」に問題があると考えている」。(澁谷 2019, p.31)

ここらへんの先生たちの見解は、全体として、男性は女性を支配するために勝手に「男らしさ」を追求し、その結果勝手に苦しんでいるのだから自業自得である、苦しんで当然である、みたいな感じなんでしょうが、こういう議論は、どうも「誰が被害者なのか」「誰が悪いのか」ということを争っている感じで、社会的な不均衡みたいなのを「誰が悪いのか」という形で論じるのは私には奇妙に思えます。

どういう話であれ、「苦しいです」って言ってる人々の話は「苦しいのだな」って聞いてあげてもいいのではないか。というか聞いてほしい。まあお釈迦様がおっしゃられているように、われわれの苦しみの多くは、満足できない勝手で無駄な欲望や煩悩に由来するわけですが、それにしたって「自業自得だ」みたいなのは気の毒な感じがする。

もう一点、これらの先生たちは皆、男性は、「男性の特権」を放棄し、女性を「支配」しようとするのをやめ、無理な「男らしさ」(特に稼得)の追求をあきらめるべきだ、またより男女平等な社会をつくりあげることを目指すべきだ、そうすれば「男性の生きづらさ」も軽減されるであろう、っていうことをおっしゃっておられて、それはそうなのかなと思うわけですが、具体的に特権を放棄するにはどうすりゃいいのかということと(仕事やめればいいとかではないだろう)、本当にそれで苦しい人々が苦しくなくなるのだろうか、とか考えちゃいますね。

いや、基本線ではその通りだと思うんですが。


このエントリあんまりおもしろならなかったのですが、特定の男性が他人をうまく支配しているかどうかはともかくとして、男性であることにはいろんなコストがある、ということについてはけっこうよい本たくさんあります。多賀先生のも平山先生のもそういうのではどちらも優秀なので読んでほしいと思います(なんで批判しあってるんじゃろか?)。男性の苦しさについては、若手批評家のベンジャミン・クリッツァー先生なんかそこらへん積極的に紹介してますのでそっち読んでもらった方がよかった。

性的モノ化とセクシー化 (10) セクシー化の社会的影響

書きわすれてましたが、ガールたちのセクシー化は男性や成人女性や社会全体にも影響します。たいへん危惧されるものであります。

男子や成人男性への影響

女子のセクシャリゼーションは男性にも影響あるわけですが、あげられてるのは「まあそうだろうな」って感じですね。

  • いかにも「女性美」みたいなのをたくさん見ると、男の「OK」の基準が高くなる
  • ポルノを見ると自分のパートナーを魅力的だと思わなくなり、セックスにも不満足になり、愛情抜きのセックスをしたいと思うようになる
  • TVシリーズの『チャーリーズ・エンジェルズ』を1話分見ただけで現実の女性を魅力的だと思わなくなる(ははは)
  • 自発的にポルノ見る連中は女性を性的な言葉をつかって記述するようになる
  • 「男らしさ」には女性をモノ化する視線が組みこまれている(お、同時進行している別のシリーズで気になってるコンネル先生参照されている)が、これは女性と仲良くなるのを邪魔している
  • 女性をモノ化する学部生はパートナーに満足しにくい
  • 性的モノ化すると共感しにくい。共感はパートナーとの関係の良好さのインジケーター。

とか。『チャーリーズ・エンジェルズ』、たった1話で現実の女性の魅力をそぎおとしてしまうですから、非常にけしからんですね。

女性への影響

ガールがセクシャライズされると大人の女性にも影響します。ここであげられてるのは、成人女性が若く見られるために多大な経済的・時間的・身体的投資をするとかそういうやつとか。化粧品とか美容整形とかです。

社会への影響

社会全体にも影響するのです。性差別的な態度が広まるとか、レイプ神話を信じやすくするとか、セクハラや性暴力に比較的寛容になるとか。女性どうしがお互いを見る目が厳しくなるとか、見た目で中身を判断するようになるとか。さらには男性の女性の扱い方に直接影響を与えるとか。

性的モノ化とセクシー化 (9) セクシー化/セクシャル化/自己モノ化への対抗手段

セクシャル化への対抗手段

というわけで、APA 女子のセクシー化タスクフォースの報告書ですが、とにかくメディアの女子のモノ化と、その影響による女子の自己モノ化には心理学的な悪影響がありそうだということになっている。実際にあるでしょうな。

んじゃ我々は女性の自己モノ化とその悪影響についてどうすりゃいいのか、っていうと、教育と家族の関心と女子/女性自身の社会運動だ、ってことらしいです。

学校教育としては、まずメディアリテラシーやろうと。メディアを批判的・懐疑的に見る方法を教える。ヤセ願望を減らす効果ありとの研究あり。ダイレクトに反モノ化メディアリテラシー教育する可能性もあると示唆したり。

あと、女子スポーツと課外活動を充実させましょう。スポーツや課外活動を通して、身体の見かけではなく身体の能力に目を向けるようにすると、モノ化に対抗できるよい効果がありそうだ。スポーツは自己評価が高まるという研究ある。スポーツ以外の課外活動(音楽やダンス)も期待されるが研究は少ない。それにコンピューターやビデオゲームもどうか、という示唆してたり。まあスポーツやダンスなど体を動かすのは精神衛生と健康にもとてもよいし、おそらく美容にもよいのでどんどん活発にしたいですね。賛成!賛成!大賛成!

さらに包括的性教育。生殖、避妊、初体験を遅らせること、コミュニケーションスキルとか教えると、セックス健康まわりへの悪影響に対抗できるかもしれませんと。

家族の強力に関しては、テレビ番組とかはいっしょに見たりコメントしたりすることによって影響をやわらげたりカンターしたりしましょう。さらには宗教関連の活動や親の社会運動も有効です。ここらへん、なんかアメリカの保守運動とかと関係あるんかいね。

さらに、セクシャル化に対抗する女子グループ作るのを助けましょう、とか。当時は「ガール・ジン」とかっていう女子が集まって同人雑誌作るのが注目されてて、これは女子のホンネとか流通させることで商業主義的な大手メディアの影響をやわらげられるかもしれんとかそういうことでしょうな。女子で仲間つくる意義もでかい。おそらく男子の視線を気にするから自己モノ化するわけで、とかそういう発想がある。

ちょっと注目したのが、その流れで、ネット(ブログ等)つかってセクシャル化批判しましょうおすすめフェミニスト書籍を読ませましょうとか、そういうのがあって、なるほど、そういうのがメディアの女性のモノ化批判するブログや掲示板が隆盛になった背景でもあるのね、と納得しました。そりゃAPAが、悪影響のお墨付きくれてるならぜひ活動してモノ化して女子を自己モノ化に追いこむ悪い奴等を糾弾しないとならん。

とかそういう感じ。英語圏のフェミニズム運動がもりあがっているのが感じられます。

メディアの影響による男性による女性の性的モノ化から、メディアの影響による女性の自己モノ化の問題へ

こうしたメディアのセクシー化から、女子の自己モノ化、そしてその悪影響、というAPAの筋は、それ以前の80〜90年代のフェミニストたちのポルノが性暴力の原因、とかって議論よりは見込みがあるんですよね。何回か書いているように、男性がポルノを見て性暴力するようになる、みたいなのはほとんど実証できない。へたすると逆の効果もありそう(ポルノで満足して性暴力が減る)。それに比べるとこのAPAレポートは、メディアの男性への影響ではなく女性への影響を問題にしていて、それらはずっと実証しやすい。女性のファションとか化粧とかメディアの影響をもろに受けてるのはあまりにも明白だし、おそらく体型やふるまいについてもそうだろう。

そして、女性が自分の体を他人から見られるモノとして強く意識することは、女子自身の精神衛生に悪影響がありそうだ、というのもけっこう膨大な研究がある。

となると、世に溢れる女性をつかった性的な表現を批判し非難するには、女性の自己モノ化、特に子供たちに与える影響に対する意識を高めるのがいい。いやいや、これは書きかたがわるくて、そうした悪影響にこれまでちゃんと配慮されてなかった、ということが反省されるようになるわけです。

でもこれって、子供に限らず、日本でいろんな広告とかが問題になるときについてある種の洞察を与えてくれますよね。「男性視線の性的モノ化がいかんのだ」とかっていうことになると、「なんで見て楽しんでるだけなのに悪いんですか」とかっていう疑問に答えないとならないわけですが、世に溢れるセクシーな表現を見ると、女性は自己を見られる「モノ」として考えざるをえなくなり、それが女性の息ぐるしさや、各種のメンヘル問題につながる。実際、アニメやアイドルやその他を見て気分が悪くなるひとはけっこういるようで、それはそうした作りだされた女性像と自分自身を比べて身体不満とかその手のいろんなネガティブな心理的状態になるからだ、というのは悪くない説明な感じはあります。

ただもしこの手の考え方をとると、モデルさんたちをつかったセクシーだけど女性が毅然として下着広告とか、かわいく元気で主体的アイドルのダンスとか、そういうのもやっぱり女性の自己モノ化を促進しそうで、そういうのも問題だということになりかねない。まあ実際問題そうかもしれません。

性的モノ化とセクシー化 (8) マクネーア先生の批判とAPA報告書をチェック

マクネーア先生の批判

Brian MaNair先生という政治学・メディア研究のひとがいて、この人猛烈なポルノ賛成派(プロポルノ)で、世界を平和にするために爆弾じゃなくてポルノ落とそうぜ、みたいなことを言うひとなんですが、APAの報告書を批判しているですわ。基本的に、APAの報告書は学問的に厳密で客観的な証拠を提示しているフリをしているが、実は単に委員たちの主観的な願望的思考と、チェリーピッキング的でミスリーディング(誤解を誘う)証拠を提示しているだけだ、みたいな批判です。ちょっと見てみましょう。

  • レポートは、性的モノ化などを我々(特に女性)すべてにとって強制的に押しつけられるものだと想定していて、健康で健全な人々がそれを自発的に選択するという可能性を考慮していない。セクシー化は単に「悪いもの」として想定されている。
  • 現代アメリカで「セクシー化」(あら、これはセックス化だなあ)が激化していると指摘されていて、たとえばテレビドラマ(シットコム)1番組あたり3.3回のセクハラシーンがあると指摘されているが、これらの多くは男性のセクハラを批判したり、「男性性」を馬鹿にしたりするために用いられている点を無視している。
  • ミュージックビデオ(MV)では女性が単なる装飾品として登場させられていると主張しているが、そうしたMVでは男性も同様に非常に装飾的に使われている。
  • 旧来のバービー人形と、よりセクシーなブラッツ人形の違いが「セクシー化」のエヴィデンスとして指摘されている。バービーの原型は第二次世界大戦後のセックス玩具であり、それが50年代には従順な金髪女子となり、Toy Story 3では怒れる金髪フェミニストとなったように、時代の 親の好み にあわせてその姿を変えられている。ブラッツは第二波フェミニズム運動〜ポストフェミニズム運動のなかで生みだされたものであり、多様な人種とルックス、そして「ポルノスター」ティーシャツや「ポールダンサーキット」などが存在することがわかるように、現代の 子供自身 の好みにあうように作られている。
  • APAの報告書はmayやappear toなどの語句が頻繁に使われており、ブラッツ人形が女子に悪影響を与えているという推定は証拠のない憶念にすぎない。(なんでこの人バービーとブラッツにこだわってんだろ?ファンなのだろうか?)

まあほかにもいろいろ悪態ついてます。でも実際、どれくらいのエビデンスが提出されているんでしょうね。ちょっとチェックしてみます。

認知的・身体的能力の低下

  • 自己モノ化によって意識が断片化し、認知能力が下る。女子は着替え室で水着を着て数学テストを受けると点数が下がる(Fredrickson et al., 1998, Hebl, King & Lin 2004)。論理的思考や空間把握能力も下がる.(Gapinski, Brownell & LaFrance 2003)
  • 思春期ぐらいから女子は自分の数学の能力とかを疑いはじめるが、女子校ではそういう現象が見られないので自己モノ化と女子の理系(STEM)進学が少ないのは関係があるのではないか(Fredrickson & Rorberts 1997)
  • 自分の身体をモノとみて、ルックスを気にする女子は、ソフトボール投げの距離が短い(Fredrickson & Harrison 2005)

正直、有名な「水着」論文なんかの、自己モノ化が認知能力を落とす、みたいな話はちょっとそのまま信用するのはむずかしそうかな、という印象です。

身体への不満、容姿不安

  • 自己モノ化と自己モニタリングは、自分の身体に対する恥の感覚を増加させる(e.g., Fredrickson et al., 1998; McKinley, 1998, 1999;Tiggemann & Slater, 2001)
  • 自分をセクシー化された視線で見る若年女子は容姿不安が強い (e.g.,Tiggemann & Lynch 2001)
  • メディアでの理想的女性ボディを見たあとでは容姿不安が強くなる(Monro & Huon, 2005)。雑誌表紙の「セクシー」「すらっとしたsheply」などの文字を見たあとでも同様。(T-A. Roberts & Gettman, 2004).
  • などなど省略

この種の調査は数多いので省略。身体に関する言及や理想的ボディ見せられると、自分の身体への不満や不安が強くなる。まあそうだろうな、って感じですね。若い女性のあいだで豊胸手術その他の美容整形なんかが流行しているのもネガティブにコメントされてます。

メンタルヘルス

自己モノ化・セクシー化と関係あるとされている女子と女性に多い三大メンヘル問題といえば次の三つ。

  • 摂食障害
  • 自己評価低下
  • 鬱病、抑鬱状態

これも非常に多くの文献があげられていて、まあそうだろうな、ですね。

身体的健康

自己モノ化とセクシー化は間接的に身体的健康にも影響する。あげられているのは

  • 身体不満と喫煙の相関(Camp, Kleges, & Relyea, 1993)(Harrell, 2002)

でした。

セックス関連

まずセックス頻度・満足度とかはウェルビーイングと強い相関があることを確認。これはそうなんしょね。んで、自己モノ化・セクシー化は健康セックスにネガティブな影響があると。

  • 自己モノ化する思春期女子(白人とラティーナ)は、コンドーム使用率が低く、性的な自己主張もしない傾向 (Impett, Schooler, and Tolman 2006)
  • MVや女性雑誌をよく見女子る大学生は、性的モノ化された女性像や伝統的ジェンダーイデオロギーに親和的、授乳や月経、汗などの身体機能にネガティブな態度をとりがち (L. M.Ward, Merriwether, and Caruthers 2006)
  • テレビ番組は人々の性行動を正確に描いていると信じている高校生は、最初の性体験に不満足、また処女であることにも不満足 (Baran 1976)
  • 一般男性雑誌や男性テレビキャラクター好きな大学(男女)は、最初のセックスはネガティブなものになるだろう予想しがち。(L. M.Ward and Averitt 2005)
  • 雑誌表紙の女性モノ化的な文句を読んだ女子は、性関係に興味を失なう(T-A. Roberts & Gettman 2004)
  • などなど

この項目、エビデンスけっこう数出されてるんですけど、なんか中身ちょっとしょぼい調査ばっかりな気がします。あと「態度と信念」と「女子の性的搾取」の項目があるんですが、もう疲れてしまって今日はおしまい。

証拠の強さは?

たしかに、このAPAの報告書を見ると、メディアが女性の精神衛生その他に影響を与えているだろう、っていうのは直接には言いにくいみたいですね。

メディアの影響→ 女子の自己モノ化 → 女子のメンヘルその他の問題

っていう形になっていて、メディアのセクシー化の影響によって自己モノ化している、っていう証拠は相関としてもさえ弱いし、自己モノ化 から メンヘル問題、っていう因果関係もなかなかエビデンス出すのに苦労している様子がある。相関ならまあなんとか……

あとなんといっても気になるのは、こうして列挙されているのは「女子のセクシー化」のネガティブな面ばっかりで、おそらくそれの裏側にある セクシー化のポジティブな面 に一切触れられていないのが気になりますね。「そんなものはないのだ!」って簡単には言いきれない気がする。実際、第三波フェミニズムとかを名乗る人々はこのAPAの報告書批判してますね。たとえば

  • Lerum, Kari, and Shari L. Dworkin. “‘Bad Girls Rule’: An Interdisciplinary Feminist Commentary on the Report of the APA Task Force on the Sexualization of Girls.” Journal of Sex Research, vol. 46, no. 4, Taylor & Francis, July 2009, pp. 250–63.

など。もっとも、この報告書のファーストオーサーの先生なんかは、2018年に「たしかに証拠ちょっと足らんかったけど、そのあと10年たってずいぶん強力になったぞ!」って言ってます。

  • Zurbriggen, Eileen L. “The Sexualization of Girls.” APA Handbook of the Psychology of Women: History, Theory, and Battlegrounds, Vol, edited by Cheryl B. Travis, vol. 1, American Psychological Association, xxii, 2018, pp. 455–72.
  • Lamb, Sharon, and Julie Koven. “Sexualization of Girls: Addressing Criticism of the APA Report, Presenting New Evidence.” SAGE Open, vol. 9, no. 4, SAGE Publications, Oct. 2019, p. 2158244019881024.

なんかこれ書いてたら、「セクシー化」じゃない方がいいみたいですね。最初は「セクシーなものが強調される」ぐらいの意味で使おうとしてたんですが、困りました。「セクシャル化」かもう「セクシャライズ」か。「性化」は読みにくいし、「セックス化」じゃあんまりよくないだろうしねえ。

男らしさへの旅 (4) 女性はもっとパワフルなはずだ

前のエントリうまく書けてないので、もう一回チャレンジ。

「支配」の原語は?

もう一回、「男性支配」に戻って、多賀先生のやつ再度引用。

われわれの社会では、実体的利益をより多く得られる立場や権威ある地位の大部分を男性が占めていたり、そうした利益や権威を得る機会が女性に比べて圧倒的に男性に多く開かれていたりする。このように、男性が女性に対して圧倒的に優位な立場にある社会状況を、ここでは「男性支配」という概念でとらえることにしたい。(多賀 2016, pp. 34-45)

やっぱりこの「支配」っていう訳語はあんまり適切じゃないじゃないですかね。対応する英語はdominanceで、ruleやgovernではない。

dominanceはなにかを比較する概念で、なにかと比較して優勢にあること、より力(権力)があること、目につくことですわね。制度的な支配とかそういうのではなく、単に数が多いとか、数が少なくともリソースの大部分をもってるとか、そういう感じになると思います。動詞のdominateとなると、これは「支配する」という語感に近いものになって、誰か他人をコントロールしたり強い影響力をもったりすることを指す。とくにまあ意に沿わない形で影響力を行使したりすることを指しますね。まさに支配だ。

「覇権的男性性」とかっていう表現に出てくる覇権的 hegemonicというのは、いろいろあるなかで一つが圧倒的に(なんらかの点で)優位・優勢であり、また強い影響力をもつという意味で支配的でもあることを指していると思う。

さて、大学教授とか、大企業の社長とか、議員とか、まだ男性の方がずっと多いので、たしかに男性優位だとは言える。しかしこの優位・支配というのは「女性をコントロールする」のような意味での「支配」ではない。もちろん数が多かったり高い地位にあれば他人をコントロールすることも容易になるでしょう。全体として、先進国の社会は、社会全体でも企業その他の団体でも、たいてい男性優位でしょうね。(美容業界や看護師や助産婦さんの世界なんかは違うかもしれない)

では家庭はどうか。小手川先生や平山先生が見ているように、男性支配、男性が優位であり、女性に強い影響を与えているだろうか、っていうのが最大の疑問なわけです。

女性は実はもっとパワフルなはずだ

このシリーズで名前をあげている日本の社会学・哲学の先生たちは、男性が稼ぎを資本にして女性をコントロールしている、と考えている。しかし、私のアイドルのパーリア先生や、キャサリン・ハキム先生なんかは、少なくとも家庭のようなプライベートな場所では第二波フェミニストたちが思っているより女性はずっとパワフルだと主張しています。

ハキム先生をちょっと引用しますね。

社会学的な調査は今のところパートナー間のエコノミックキャピタルの比較に焦点を当て、二人の平等性と力関係を評価している。欧州の国では(スカンディナビア諸国でさえ)、女性は普通、第二の稼ぎ手にすぎず、平均して家計所得への貢献は3分の1程度だ。夫は妻の約2倍の収入を得ていることになり、ときには収入の全部を賄う場合もある。フェミニストなどはこうした数字が男性支配(male dominance)と「性差別」(gender inequality)を示すものだと言いがちだが、その裏付け証拠はほとんどない。(p. 167)

この「証拠はほとんどない」には注がついていて、1984年の米国デトロイト州での社会調査が参照されています。それによれば、夫婦の相対的な収入も、妻の職の有無も、家庭内での力の配分には相関していないし、また結婚がうまくいくかどうかにも相関していない。さらには、身体的な魅力だけでも、家庭内での力関係にはリンクしていない、とされています。この資料(Whyte 1990, 1990, pp.153-4, 161, 169)はネットで手に入るみたいなので、私は見ませんが力のある人は確認してみてください。

先に社会保障・人口問題研究所の家庭内の意思決定の調査を見ましたが、あれのもっと詳しい版ですかね。とにかく、経済力によって男性が女性をコントール(支配)しているとか、影響力の点において優勢にあるとかっていうのは、裏づけがないかもしれません。

んじゃ男女の力関係はなにで決まってるのか?ハキム先生の推測はこうです。

男女関係に関する調査や結婚カウンセラーの本によると、一般に妻が駆け引きの材料に使うのは主にセックスで、お金ではない。妻たちは夫の協力を得ようと、セックスをちらつかせたり拒否したりする。夫は大抵妻よりセックスを望み、性風俗サービスの利用は恥ずべきこととされているので、この戦略は効果的だ。(pp. 167-168)

ははは。そうなんですか?他にも、フェミニストなんかが反対することが多い海外からのメイルオーダー花嫁なんかも家庭内ではかなりパワフルなようです。どうなんでしょうね。

性的モノ化とセクシー化 (7) セクシー化問題の成立史

「セクシー化」sexualizationっていう問題がどういうふうに形成されたのか、ってのは次のものが勉強になります。ほんのちょっとだけ紹介。

まずこのsexualization言葉は、複数の歴史的な意味がある。「セクシー化」ではない意味もあります1

  • 1970年代には、個人が男性・女性としてそれぞれ性的に分化して成熟していく過程を指す言葉として使われた。
  • また、精神医学ではフロイトのsexualizierenの意味で、リビドーが特定のエロチックな対象に固定する過程を指すのにも使われる。特にアメリカの精神分析業界では、治療者に対る「転移」を指すのに使われた。
  • 上のふたつの混用みたいな形で、子どもが大人に対する不適切な性欲をもつ社会化の過程を指したりもした。(へえ)
  • 児童虐待の問題意識が高まると、インセスト(近親姦)的な子どもに対するやばい関心を指すようになる。この用法は現代まで使われている。
  • 1980年代になると、子ども、特に女子のsexualizationが問題になる。これは子ども、特に女児が、十分成熟するまえに性的活動に参加しはじめることを指してました
  • 1990年代には、フェミニズムの影響を受けてジェンダー問題が「社会問題」として前面化する。特に女性と子供の性的被害がクローズアップされる。sexualizationは本来大人の社会から性的に隔離されているべき子供を性的活動にひきこむこと
  • 1995年にGarbarinoの Rasing Children in a Socially Toxic Environment という本がベストセラーになる。この本では子供のセクシャリゼーションによる搾取が問題とされる。「子供にセクシーな服を着せることは、もう制限なしだというメッセージを伝えることになる」2
  • 2000年代前半にsexualization 、このシリーズで述べてる意味での「セクシー化」がフェミニスト的問題になりはじめる。少女が積極的にセクシーな服を着て、男子の目をひきつけようとする傾向。フェミニスト的には、商業的・性差別的社会では、もは女子はまともな選択ができなくなっているという意識の高まり
  • 「以前は女性は自分たちをックスオブジェクトとして見るなと抗議していたのに、現代ではその娘たちは自分からセックスオブジェクトになろうとしている」 という危機意識。また女児の性的搾取のリスクの増加の懸念
  • セクシー化への懸念はAPAの報告書に結実、保守派の賛同も集める

まあこんなふうにして、2000年代このかた、若い女性を性的なものとして扱うことに加え、女子や若い女性が自分から性的なものとして自分をディスプレイして、また積極的に性的な活動をおこなう、っていう現象が、フェミニストにも、保守派にも懸念される現象になっているわけです。そして、1980年代に批判されたフェミニストと保守派の結託みたいな現象が2010年以降また起きている、って感じです。

脚注:

1

ちょっと英語の問題があって、sexualizeみたいな他動詞に-ationの語尾をつけて作った語は、その過程を指すこともあれば、その結果を指すこともあるんですよね。「子どもをセクシュアライズする」というのは、まあ「大人が子どもを性欲の対象としたり、性的な活動をする存在として見る」みたいな意味なわけですが、その名詞形のセクシュアライゼイションは、そうやって子どもを性欲の対象とするようになっていくという過程を指す場合と、子どもが性的な対象とされるようになったという結果を指す場合がある。accuse 訴えるという言葉の名詞形のaccuzationに、(1) 告発すること、という過程の意味と、(2) 告発そのもの、告発の内容、と二つの意味ができてしまうのと同じということらしいです。これ、よく考えないと翻訳もまちがってしまいますので注意しないとならんですね。

2

この本は重要なようで、いま話題になってる「有毒な男らしさ」っていうやつもこのラインの話なんですね。ケミカル有害物質の汚染と、性的な汚染がメタファーでつながれていて、それがいまでは「男らしさ」にも使われているんですな。

男らしさへの旅 (3) 「支配」と「優位」と「有利」

「支配」は単なる強制と服従ではない(はずなのだが)

とにかく私は主流派フェミニズムや男性学での「支配」がわからない。なぜ「支配/服従」という形で社会や人間関係を考えようとするのだろうか。前にも書いたように、小手川〜澁谷〜平山と遡って、多賀太先生の『男子問題の時代?』でやっと答らしきものを見つけました。

われわれの社会では、実体的利益をより多く得られる立場や権威ある地位の大部分を男性が占めていたり、そうした利益や権威を得る機会が女性に比べて圧倒的に男性に多く開かれていたりする。このように、男性が女性に対して圧倒的に優位な立場にある社会状況を、ここでは「男性支配」という概念でとらえることにしたい。(多賀 2016, pp. 34-45)

「優位な立場」を支配と呼ぶのはかなり奇妙な感じがしますね。たしかに優位な立場にあれば、支配しやすいことはあるだろう。教員というのが学生様に対して優位な立場にあると言われていて、一番大きいのは単位を認定する職務上の決定権をもっている。学生様は教員の指示にしたがって、授業に出席したりクラスで発表したり期末レポートを書いたりしなければならない。もちろん、学生じゃなくて道を歩いている人々は、大学教員の言うことなんか聞く必要がない。また学生様も、その教員の単位が必要なかったら、その教員の言うことなんか聞く必要がない。でもまあ学生様は卒業するために一定数の単位が必要だし、必修の授業とかになるとその教員の指示にしたがわないで卒業することは難しくなる。そういうわけで、教員は単位の認定権をつかって学生様を支配している。(ほんとうにちゃんと支配できればいいんですが……)

こういう形で男性が女性を支配しているかというと、これはむずかしいですね。まず、特定の男性が、不特定の女性に対してそうした、支配できる優位な立場にあるかというとそうではない。私は男ですが、道行く女性に「焼きそばパン買ってきて」とかって言ったとしても誰もそんな指示にはしたがわない。警察に通報されちゃいます。

特定の男性が、特定の女性に対して支配できる優位な立場にある、ということはありえる。たとえばある父親が自分の娘に対して生活費や学費の支払いを根拠に、自分の言うことを聞かせることはできるかもしれない。学費や生活費止められたら困りますからね。親子関係じゃなくても、カップルは配偶関係でもそうしたことはあるでしょうな。

日常的な感覚で「支配」と聞けば、暴力や脅しによって支配者が被支配者を強制的に服従させるような状況をイメージするかもしれない。しかし、社会学で「支配」という概念を用いる場合、それは必ずしもそうしたむき出しの暴力による統治だけを指すわけではない。「支配」には、被支配者がその支配体制を正当なものとみなし、自発的にそうした支配体制に従うような側面もありうる。……つまり、男性支配の社会であるからといって、常に男性が暴力や脅しによって女性を力ずくで服従させている……とは限らない。むしろ、女性たちが、男性が女性よりも利益や権威を得られる社会のあり方を正当なものと見なし、自発的にそうした体制に従っている状況を「男性支配」という概念で把握することは、社会学的な「支配」の用法として、十分理にかなっている。(多賀 2016, p.35)

これ言いたいことはわかりますね。しかし、「支配体制に自発的に従う」っていうときのこの「支配」は、被支配者にはもういやなものでもないし、また道徳的に悪いものでもないわけです。日本に政府があって、政府が国民を統治しているのは悪いことではない。

となると、上の社会学者たちの意味での支配(優位/劣位)が悪いのは、その優位/劣位または有利/不利が生まれるプロセス・経過が不正だったり、あるいは有利不利の格差が参加者たちが正当性を認めるものより大きすぎたりする場合に限られるように思います。

さて、日本の社会における男性と女性の関係はそうしたものになっているだろうか?グループとしての男性とグループとしての女性が、そうした優位・劣位の関係になっているというのはちょっと考えられない。私が男だからという理由でしたがってくれる女性はほとんどいませんしね。他の男性はそうした女性をもっているのかもしれないけど、グループとしてもってるわけではないでしょう。

一方、一般に男性の方が、女性よりも教育や就労の点で(優位ではなく)有利だ、ということはありえる。それほどはっきりした有利不利が性別によってあるのかどうか私は疑問に思っていますが、これはとりあえずここでは認めてもよい。でもこの有利不利は、我々がふつう使っている「支配」とはまったく違う概念ですよね。

そして、多賀先生自身はともかく、平山先生や小手川先生は、家庭内における支配、ふつうの意味での支配、すなわち 強制 を問題にしている。つまり、夫婦・カップルの間の経済力(稼ぎ)による支配ですわ。でも本当にそうなってますか?

なぜ稼ごうとすることが「支配」なのか?

前のポストで引用した平山先生。

男性が自己強迫的に追い求める夫しての稼得役割=「家族を養うことができること」……その思考は本人の意図にかかわらず、結果的には妻の生殺与奪権を握り、支配する志向となることを免れない。(平山 2017, p.238)

小手川先生はこう。

集団としての男性は、男性は女性よりも優れているから女性を支配すべきだという思い込みのもとに、家父長制からもっとも利益を得てきたし、いまなお得ている存在である。(小手川 2019, p174)

これらの「支配」が強制や押し付けを指してるのははっきりしていると思うんだけど、どうでしょう?そして、男性は本当にそうした強制や押し付けをしているのかしら。逆に、妻からさまざまな強制をされている男性はあんまりいないのだろうか。

私が思うところでは、多くのご家族(夫婦)は、政府と人民、みたいな支配(強制)と服従、みたいな形にはなってないと思うんですよね。前のエントリで貼った「意思決定」だっていろんなことを夫婦で相談しながら決めてるじゃないですか。労働と家事の分担みたいなのも、夫婦それぞれ不満をかかえながらかもしれないけど、そこそこうまく分担して協力している。多くのご家庭では夫が主たる稼得者であるけれども、家計の管理なんかは妻がやって、おこづかい制度になっていると聞きます(旦那が稼いだものなのに!)。もちろん、協力がだんだんうまくいかなくなってくると、おたがいの不満も増えるし、いっしょにいるメリットがなくなって別々にいた方がましとなれば、離婚してしまう(現在初婚カップルの1/4だっけ?)でもそれって、支配/服従じゃないですよね。たしかに、ある時点から結婚生活が支配と服従になってしまうかもしれないけど、支配から逃れて離婚して独立することもできるのだから。

でもここで、平山先生や小手川先生に、私が想定していなかったある仮定があることに気づきました。先生たちは、たくさん稼いで妻を専業主婦になってもらおうとしている男性たちのことを考えていたのね!「結婚するなら仕事やめて」みたいな男性たち。あー、そりゃ勝ち組だわ。

子どものころから、私のまわりにはめったにそういう人がいなかったので、そういう発想がわからないんですよね。専業主婦なんてほんとうに限られた高収入層の贅沢じゃないっすか。

いまどきの男性も、配偶女性に実際に専業主婦になってほしいとは思わない傾向があると思う。統計はすぐに出ませんけど出せると思う。現代の若者男性(20代から40才ぐらいの未婚男性)が苦しいのは、妻が専業主婦になってくれないからではなく、お金がないと結婚はおろか交際(一対一の、結婚を前提とした)さえ難しいからですよね。

こういうのに気づいたら、先生たちがいったいなにを議論しているのか、そして私がそれをなぜ理解できなかったのか、疑問が氷解した、っていう感じでした。

(続く)

男らしさへの旅 (2) 「男らしさ」と「男性性」

「男らしさ」と「男性性」

小手川先生や彼が参照する男性学の系統の先生たちでは、「男らしさ」は「家父長制」と強く結びつけられて考えられていて、そこでは、男性は「支配者、稼ぎ手、威厳ある父」(小手川 2020 p.62)である、ってことになっているみたい。なんかずいぶん違和感ありますね。ここらへんはいろいろむずかしい。

まず「男らしさ」っていう言葉が誤解をまねきやすい。我々が日常的に「男らしい」という言葉を使う場合は、宮下あきら先生の『魁!!男塾』みたいないかにも男男していて、強く乱暴で義侠心がある漢!侠!みたいなのか、あるいは生物学男性がとりがちな不合理で馬鹿げた振舞をすることを指してると思う。まあそれほど馬鹿らしくなくても、正義感とか忍耐とか、そうした優れた(?)性質に対する誉め言葉や、それを逆手にとった皮肉でユーモラスなけなし言葉だと思うんですわ。とにかくなんらかの評価語だ。

私が「男らしさ」っていう言葉で連想するのは、身体的な強さや筋骨に加え、なんといっても「勇気」と「公正さ(正義)」と「忍耐」とかの精神的な美徳なんですわ。他にもチームワーク、なんかに習熟していること、各種テクノロジー使えること(ITに限らない!たとえばロープ結びや火起こし)、冒険心、そしてなによりタフさ、かなあ。

こういう「男らしさ」って、我々男性の大半が手に入れてないものですよね。「男らしい」筋骨隆々のボディなんてほとんどの男性はもってない。たいていの腹ぼて洋梨体型でしょ。勇気も正義も忍耐も技術も冒険心もタフネスももってない。我々は卑劣でえこひいきしてすぐに投げだし、不器用で臆病で弱虫だ。いつも泣き言ばっかり。男らしさはそれは単なる理想としてだけある。そして、我々の大半は、まあ自分がすでに手に入れた男らしさを、なにかの機会に発揮できたときに、満足して確認することはあるかもしれないけど、他のたいていの男らしさ(美徳)を努力して手に入れようとさえしないことも多いように思います。 男らしさ、男性性がそういう能力の獲得と発揮にあるなのなら、我々はほとんど男性失格だと思いますね。

でもどうも男性学とかその手の人々のあいだではちがうものを見てるみたいなんですよね。小手川先生も日本の男性学の影響を強く受けてるのは感じられる。

社会学は基本的に価値中立が望ましいってことになっていて、いろんな言葉を、ほめたり推奨したりけなしたり非難したりする価値的・規範的な使い方ではなく、なるべく記述的に使う、ってことになってる。つまり、「男らしい」 masculine っていうのはほめ言葉でもけなし言葉でもなく、単に「男であること」女性と比較した場合にもっているある性質、みたいに使うことになっています。そうすると、評価的に使われる「男らしさ」っていう日本語はあんまり適切じゃなくて、masculineは「男性的」、masculinityは「男性性」とか訳した方がいい、って立場もある。社会学者の多賀太先生なんかはそういう立場で、「男らしさ」ではなく「男性性」を使うようになっているようです。この一群の記事では面倒なので使いわけません。

覇権的な男らしさ/男性性

小手川先生も使ってるけど、主流の男性学では、「覇権的な/ヘゲモニックな男らしさ/男性性」っていうのがキーワードなんですわ。これまたやっかいな概念です。「支配的な男らしさ」っていう表現も見ますね。

「男っぽい」っていっても、いろんな「男っぽさ」があるわけですわね。豪放磊落、豪傑っぽいのだけが男じゃない。ブラッドピットみたいなのも男っぽいし、ホーキング博士みたいな科学者も男な感じ。そういうわけで、「男らしい」「男性性」っていってもいろんなイメージがあるわけですわ。だからレイウィン・コンネル先生という有名な人は、男性性 masculinity はいろいろあるから複数形でも使えるはずだ、複数形で使うべきだ、ってんで Masculinities っていう本を書いて男性性の概念をそうしたものとして扱った。まあ実際男性っていろいろいるから、なかなか「これが男だ!」ってのはやりにくいですわね。

んでコンネル先生は、そうした複数の男性性には、特別に偉いと思われてるやつがある、っていうんですわ。それが覇権的な(ヘゲモニックな)男性性。覇権って、国とかまあいろいろあるなかで、他の同種のものに対して支配権・支配力をもってるような存在ですね。男性のなかでも特にあるグループの人々は他の男性グループに対して優越し、支配権をもつ。

コンネル先生は現代社会では、ホワイトカラー、正規雇用、異性愛者、既婚者であることが覇権的な男性性である、っていうわけです。まあ結婚している上級サラリーマンみたいなのがそれだっていうんですかね。この人々のなかの個人が実際他の男性を支配しているか、というのはよくわからない。実際のサラリーマンは簡単には他人を支配することなんかできないだろうと思う。むしろ、いまの日本を動かしてる自民党とか経団連とかそういう人々を思いうかべるんですかね。

男性学の主流では、この「覇権的男性性」から解放されようとか、そういう話をするわけですわね。あれ、さっき社会学の主流は価値中立的とかって書いたのに、とかなるかもしれませんが、まあ基本は分析だけど、もし「生きづらさから解放されたいならば」みたいな条件があるわけですわ。おそらく。

男性よる女性の支配

んでくりかえしますが、小田川先生のなかでは、従来の男性というのは、なによりも家計を稼いで 支配 することを目指すものってことになってるんですよね。

男性たちは、家事や育児や介護を女性たちに丸投げすることで、仕事に専念し収入や公的な信頼を獲得したてきただけでなく、彼らの扶養者である妻や子どもを自分に依存させ、従わせることができた。しかし、そのために彼らは、妻との対等の関係や子どもとの愛情ある関係を犠牲にしてきたとも言える。フェミニズムとは、こうしたあり方の歪みを問い直し、支配者・稼ぎ手・威厳ある父であり続けなければならないという家父長制の束縛から男性を解き放つことを目指すものである。(小手川 2019, p.174)

しかし本当にこうなってるんですかね。同種の発想は平山先生にもある。

事実、日本では、離別や死別によって貧困に陥る女性が非常に多い。夫婦という単位において、男性が稼得者としての役割の固執することがどのような意味をもつかは明らかである。その固執は、何よりもまず妻を自身に従属させ、その生活に係る資源の供給源を握ることで、妻を支配することへの志向を必然的に意味するのである。(平山 2017, p.234)

男性が自己強迫的に追い求める夫しての稼得役割=「家族を養うことができること」……その思考は本人の意図にかかわらず、結果的には妻の生殺与奪権を握り、支配する志向となることを免れない。(平山 2017, p.238)

ここらへんで、「男らしさ」がけっきょく家族を養うお金を稼ぐことと、女性(妻)を支配することに煮つめられているのが私にはとても意外なのですが、まあ一般に「男の生きづらさ」と言われるのは、「仕事したくないでござる」と思いながらつらい職場で仕事しなければならないことや、性的におつきあいしてくれる女性がいないことに集中している感じがあるのでしょうがないですかね。でも「男らしさ」の話として、貧弱すぎる気はするのです。

まあそれはおいといて、現代日本での覇権的な「男らしさ」なり男性性なりに、「お金をもっていて家族を養うことができる」というのが入っていると認めるとしましょう。それでも、「女性を支配する」っていったいどういうことでしょうか。女性を支配している男性とかいま日本にどれくらいいるんでしょうか。

国立社会保障・人口問題研究所が出してる第6回家庭動向調査 (2020)だと、「主たる意思決定者」はこういう感じなんですよね。

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まあ高額品の購入、家計の管理、親戚づきあい、子どもの教育について、夫婦のどちらが意思決定しているかってだけなので、妻が家庭を支配しているというよりも、夫の方がそうした家庭のことにさして興味をもたず、妻に丸投げしている、という小手川先生や平山先生が指摘していることを示しているのかもしれませんが、んじゃ実際のところ、男性が女性を支配している、夫が妻を支配しているというのはどういうことなのだろう?ほんとに支配なんかできてるんでしょうか?

男らしさへの旅 (1) ジェンダー論や男性学も勉強しないと

セックスのことばっかり考えてないで、ジェンダー論や男性学も勉強しないと

子供のころから、注意散漫でわがままで泣き虫で人とうまくやってけなくて、自分の「男らしさ」に不安や疑問や不満をかかえつづけている高齢者男性としては、ジェンダー論とか男性学というやつは気にはなりますねえ。1月末ぐらいから少し余裕があって、数冊本や論文めくってみて論じられている「男らしさ」というものについて少し考えてみたので、読んだ順番で紹介してみたいですね。

最初に目にしたのは、哲学者の小手川正二郎先生の一連の論文・書籍。

どれもとてもおもしろいので、ジェンダー論や「男らしさ」に関心がある人はぜひ一読をおすすめしますね。つい読んでみて気なったのは2019のやつで、2020の2冊でも、「男性学」や男性の発想について、だいたい同じ論旨の批判と主張をおこなっておられる1。でも私ずいぶん違和感あったんですよね。

小手川先生は「親フェミニスト」っていう感じで、ちょと違和感はあるけどフェミニズムに賛成して性差別をなくしたい、そのためにもまず自分の悪しき男性性を反省したい、みたい感じで、文章読んでるとても誠実でいいひとっぽいのが伝わってきますね。

小手川先生の「男性学」や「男らしさ」に関する主張を簡単に紹介するのはむずかしいのですが、2019のやつだと次のようになる。

  1. 現代でも性差別は大きな問題である
  2. 性差別をなくすためには、男性は自分たちの「男らしさ」についての考えかたを反省するべきだ
  3. 一般に現代日本で「男らしさ」(覇権的男らしさ)として考えられているのは、家父長的な男らしさであり、稼ぎ、支配、威厳、独立、自律などの特徴が中心的である
  4. しかし実際には男性は女性に依存しており、女性のサポートによって有利な立場にありつづけている。男性は男性的特権をもっており、それを十分自覚しておらず、自己欺瞞的である
  5. 男性が家父長的な「男らしさ」を求めるのは、他人、とくに女性の支配のためであり、「つらさ」はそのコストにすぎない
  6. 日本の男性学では、「男の生きづらさ」が強調され、それの対策として「男らしさから降りる/男らしさを捨てる」のようなことが提唱されているが、「男らしさ」はそんなに簡単に降りたり捨てたりできるものではなく、それできるとかすでにおこなったとかって主張をするのは自己欺瞞的である。
  7. 男性はそうした自己欺瞞をやめ、次のような方針に賛成するべきだ。そしてそれが「フェミニズム的男らしさ」である。(1)自分たちの力の限界を認識し、アファーマティブアクション等の制度の改善に貢献するべきだ (2) 自分たちの男性的特権に気づき、他人(特に女性)の言いぶんをよく聞くべきだ

私の違和感は、家父長的な威厳をもって「支配」してたりしようとしている男性というのはいまどきそんなにいるものだろうかとか、男性学で言われている「生きづらさ」がそんなに欺瞞的なものだろうかとか、アファーマティブアクションみたいなものをそんなに簡単に肯定して大丈夫なのかとか、「違和感があってもとにかく女性の話を聞け」みたいなのがかえっておかしな「男らしさ」ちゃうんかとか、まあいろいろあるわけです。

んで、「男性学」や、ネットのアンチフェミニストを激しく批判していて気なっていた澁谷先生のを読む。伊藤公雄先生2や田中俊之先生や多賀太先生という方々が「男はつらいよ型男性学」みたいなレッテルで批判されてますね。澁谷先生は平山亮先生という方の多賀太先生批判にかなり頷くところがあったみたいなのでそれも読む。

最後に問題の「つらいよ」型の代表として多賀先生の読んで(順番が逆だ!)、ここらへん、どういう議論がおこなわれているのか少しわかったような気がする。どれもおもしろいので、ぜひ読んでください。でもいろいろ違和感あるんですよね。少しメモ書いておきたいと思います。

脚注:

1

時系列的には『現実を解きほぐすための哲学』は出たあとすぐにめくってはいたのですが、あんまり細かく読んでなかった。

2

伊藤先生は実はこのブログで何回か言及しているんですが、まあ今回はパス。

性的モノ化とセクシー化 (6) ちょっと書籍紹介

ちょっとだけ書籍紹介。いまリスト作っているのでとりあえず。文献リストはある程度取捨選択しないと意味ないから面倒なんすよね。だんだん整理します。

「スカンク娘たち」。セクシー化はエンパワではなく搾取派。ファッション、セックス活動、ポルノ、ストリッパー、美容整形、ミスコン、行儀、音楽、雑誌、テレビ、映画、ネット、スポーツ、ファンタジと分けて、話題になったものとそれに対する人々の意見をならべました、みたいな。

とにかく若い女子がなにをするかというのは非常に興味をもたれる。

論文集っすね。アトウッド先生はメディア学でかなりいけてる先生なので信頼できます。

まあここらへんが基本。セクシー化というよりもうこれは「ポルノ化」だ!許せん!っていう先生たちも活発です。

ここらへんの人は保守フェミニスト、みたいな感じの人々ですね。

女の子が脱いだりエッチなダンスしてあばれたりするのは低俗文化(Raunch Culture)だ!っていう議論もあります。下のFemale Chauvinist Pigs (すごいタイトルだ)が有名ですね。Girls Gone Wildっていう有名な素人エッチDVDとかをいろいろ批判している。

おまけ

性的モノ化とセクシー化 (5) 「セクシー化」の方が使いやすいのはなぜ?

「性的モノ化/客体化/物象化」より「セクシー化」の方が議論に使いやすい、というか有用だってな意味のことを書いたんですが、私がなぜそう考えるのかちゃんと理由書いてませんでした。

「性的モノ化」が使いにくい概念であることは、このシリーズの(1)で書きました。

  • 自発的なモノ化(たとえば、自撮り女神様、ポルノ出演等)は不正ではない
  • アニメやイラストは誰もモノ化していない
  • 表現物が、男性を介して生身の女性のモノ化をひきおこすという因果関係を立証するのは困難

とかそういう感じですね。

実在の女性 → 集団としての女性のイメージ → 作者の頭のなかに結実した像(ビルド) → 作品 → それを見る鑑賞者 → 鑑賞者の頭のなかの女性に対するイメージや偏見 → 実在女性の被害、不快

上のような図式で考えようとすると、いろいろ論点が多過ぎるように思います。

一方、フレドリクソン先生の心理学における「モノ化」や「セクシー化」の議論は、表現物の影響によって男性の考えが歪み、それが男性の性暴力など女性に対する悪しき扱いを引き起こす、という形にはなってないのですわ。

作家の頭のなかで生まれた表現物 → それを見る女性が内面化する → 女性の不快、鬱、摂食障害、活動低下、交渉力不足など

っていう形になっています。 メディアで女性のセクシーなボディや女性的ステレオタイプが頻繁に描かれることが、女性の心理的負担になるという形で、女性に対する「抑圧」と呼ばれるものが(男性を経由せずに)直接引き起こされるというモデルなので、実証的な立証も「男性による女性の性的モノ化」よりも単純ですわ。

そしてこれは、作家が男性であろうが女性であろうが関係ないですしね。へんな言い方をすれば、ここの作家や出演者や自己モノ化する人々が何を考えいようが、その自由な行動と表現の裏に、苦しむ人々が発生するリスクがある(のでコントロールするべきだ)、みたいな議論をすることが可能かもしれないのです(私は簡単には同意しませんがね)。

文化的に女性はなによりセクシーなものだ、セクシーな方が高く評価される、セクシー最高!っていうあつかいを受けることが、(少なからぬ)女性にとって被害である、と示せればよいわけです。どうですか、魅力的でしょう?

(まだまだ続く)

性的モノ化とセクシー化 (4) セクシー化/セクシー文化の実例

ちょっと息ぬきに、セクシー化ってどんなものが想定されているかっていうのは確認する必要がありますよね。ポルノだのなんだの話をしているときに、多くの論者は、そのポルノ自体を名指しすることがないことが多くて、「どういうポルノ考えてるの?」とか言いたくなる場合があります。

「セクシー化文化」 sexualized culture みたいなのもどれくらいセクシーだとセクシー化されていると言えるのか、みたいなのはそれぞれ具体的に考えてみるべきだ。

たとえば古いけど、こんなんですかね。

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「私とカルバンクラインジーンズのあいだに何があるの?なにもないわ(ノーパンです!)」

私の好きな音楽から少し例を。ちょっと今誰の論文からもってきたかわらなくなってるのですが(あとで訂正します)、以前に読んでた論文で言及されているセクシー化された文化における主流の音楽PVってこの3本でした。

Nicki Minaj – Anaconda

Ariana Grande – 7 rings (Official Video)

Lizzo – Tempo (feat. Missy Elliott) [Official Video]


まあエッチですね。セクシー化があんまりはげしいからこういうのはポルノ化 Pornify, Pornificationって呼ばれたりする。かっこいいと思った若い女子はマネしますかね。(どうだろう?)

こういうんだったら私好きなのいくらでも出せます!現在最強はこれ!

Robin Thicke – Blurred Lines ft. T.I., Pharrell (Official Music Video)


「パティーして酒飲んでワイルドに行こう」みたいな感じで、2010年代のアメリカのフックアップカルチャー(人によってはレイプカルチャー)を代表する曲ですね。

こういうのは昔からたくさんあって、私が好きなプリンス様なんかはそれの専門家よね。

Appollonia 6 Sex Shooter HQ

まあこういうものに影響されて、女子は苦しくなるのだ、と。(ほんとかな?)

性的モノ化とセクシー化 (3) 女子の「セクシー化」の方が広い概念で使いやすいかもしれない

女子のセクシー化という問題

その後、2000年ぐらいを境にして、「モノ化」とか「自己モノ化」っていうのはかならずしもセクシーな含意がないので、男性や社会が女性にセクシーであることを求めたり、女子自身がセクシーであろうとするのが問題なのだ、という立場の人々は、「自己モノ化」じゃなくて「セクシー化」sexualizationという概念を使うようになります。「性的モノ化」の「モノ化」よりは「セクシャル」の方を重視するわけですね。

まあ前にも指摘したように、我々はモノでもあるわけだし、グラビアやテレビでは、女性も男性も鑑賞の「対象」の「モノ」ではあるわけですから、性的モノ化が問題だと考える人は実際にはそれが「セクシーな」モノ、セックスや性欲の「対象」であることを気にしているのですから、こっちの方が適切な場合も多い。日本の皆さんも、セックスにかかわっていることが気になるのならこっちの概念・言葉を使ったほうが問題がはっきりすると思う。

アメリカ心理学会の「少女のセクシー化」対策部会

こうしたなかで、アメリカ心理学会が2007年に「少女のセクシー化」が女性にもたらす悪影響についての心理学的研究の報告書を出すわけです。これはけっこうな分量(70頁ぐらい)と内容のものなんですわ。

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APAは学術研究者に加え、臨床心理学者というかカウンセラーや精神科医なども含む巨大組織で、単に研究するだけでなく社会的な政策みたいなのにも心理学の立場からコミットするのが任務だと思ってるわけです。んで、公衆メンタル衛生みたいなもおにも積極的にとりくんで、政策提言みたいなのに近いこともしようとしている。

そこではひとのセクシー化っていうのは四つぐらいの下位区分がある。

(1). ひとの価値が、セックスアピールや性的なふるまいによって決定され、他の特質が排除される

(2) ひとの身体的魅了が、セクシーさによってのみ評価される

(3) ひとが、自立した行動や意思決定ができる人間としてではなく、性的にモノ化される、つまり他人の性的使用のためのためモノとされる

(4) 人にセクシュアリティが不適切に投影(impose)される。

(3)はおなじみに「性的に使用するための道具にする」という意味での「性的モノ化」ですが、他の三つは性的モノ化っていうのとは関係するけどちょっとちがうもので、まあ「セクシー化」というのはその意味で性的モノ化より広い概念ですね。

んで、このAPAの対策部会(タスクフォース)によれば、テレビ、広告、ネットその他のメディアでの少女のセクシー化について、次のような懸念が表明されているわけです。

現代社会では、(1)セクシー化と呼ばれる現象が増加していて、(2)それは弱者グループ(ふつうは少女や若い女性だけどそれ以外も含む)に害(harm)を及ぼしている、という(3)懸念・不安が増加している。それゆえ、有害なイメージに対するコントロールが必要だ、みたいな形ですね。

あとで検討するかもしれませんが、この報告書には私はちょっと問題がるかもしれないと思っています。メディアが実際に女性を中心にした弱者グループに害を及ぼしているかを証明するのはたいへんなので、前のエントリーとかで紹介したフレドリクソン先生やその他の部分的な心理学実証・文献研究から、害を及ぼしている かもしれない ということを伸べて、コントロールが必要だろう、って話にもっていってるわけです。

まあでもこの報告書は、おそらく世界でもっとも影響力のあるアメリカ心理学会の名前とともに出ているのですから影響力があります。このシリーズの間接的な出発点となった牟田和恵先生の「現代ビジネスオンライン」の記事でいろんなガイドラインが参照されていましたが、ああしたガイドラインの背景には、このAPAの報告書の影響があるのかもしれません。

同種の報告書は他の国の政府や公共団体からも出ています。イギリスでも、心理学者のパパドプロス先生というひとが主導した内務省の「若者のセクシー化」という報告書(2010)が出ています。

イギリス教育省も子供のセクシー化・商品化に対する懸念を報告書にしている。イギリスは厳しいですね。

オーストラリアでも、APAより先に進歩派系シンクタンクのオーストラリア研究所が「ペドフィリア企業:オーストラリアにおける子供のセクシー化」とかってどぎつい報告書出してます。

こういう流れで、女性の「性的モノ化」という問題意識は、若い女性や少女、そして子供を性的に見る文化的な態度の問題としとらえられるようになってるんですわね。いま国内でやっている「性的消費」「性的モノ化」「性的客体化」などといった議論は、むしろ、こうして女性を性的な道具や鑑賞物として見たり、そうした文化的な雰囲気に対応して少女や女性たちが手間暇かけて自分を性的に魅力的なモノとして提示したり、あるいは商品化したりする、そうした「女子のセクシー化」「文化のセクシー化」「セクシー文化」の問題として見た方が、有益な議論ができるかもしれませんので、そっち方面の立場でがんばりたいひとはいろいろ調べてみてください。

ちなみに、「セクシー化」の方が議論にはよいだろうっていうのは、uncorrelated先生というよくわからない方が以前からツイッタ炎上のたびに指摘しているので、そっち先に見た方が事情がわかりやすいかもしれません。

(続くかもしれないけど少し先になります。)

性的モノ化とセクシー化 (2) 心理学分野での「性的モノ化」と「自己モノ化」

心理学分野での「性的モノ化」と「自己モノ化」

80年代か90年代にかけて、アメリカでは(日本でも)思春期から若い成人女性の摂食障害がものすごい増えて、社会問題になり、その原因はなんじゃいな、ということが議論された。現在、精神科医たちは、摂食障害は、おそらく心理学的な要因に加え、生物学的な要因の問題もあるようだ、って考えてるようですが、この時期はやはりテレビや雑誌などのメディアで、痩せた女性が登場してその体を自慢し、それを見た少女たちがファッションモデルや芸能人のようなボディーシェイプを目指してダイエットするために摂食障害を発症するのだろう、と考えられたわけです。まあそういうのはいまだに問題になっていますね。実際に、そうしたメディアの影響がなにもない、というのは考えにくいし。

90年代の心理学業界では、こうしたメディアの影響についてやはり「モノ化」という観点でとらえていて、とくにここらへんの論文が非常に有名ですね。発表されたのはマッキノンやヌスバウムたちよりちょっと遅れて1997。まあ心理学でもああいうタイプのフェミニスト問題意識が十分蓄積したということだろうと思います。

  • Fredrickson, Barbara L., and Tomi-Ann Roberts. “Objectification Theory: Toward Understanding Women’s Lived Experiences and Mental Health Risks.” Psychology of Women Quarterly, vol. 21, no. 2, SAGE Publications Inc, June 1997, pp. 173–206.

1997年のこれがエポックメイキングだったらしい。ここでのモノ化は女性を人柄から切りはなしてセクシーなボディに還元して、それを商品化したり、女性の典型としたりする、みたいな。まあマッキノン〜ヌスバウムのラインそのままですね。

性的モノ化を許容する文化 → 女性のモノ化の内面化(オブジェクトとしての自分の身体を監視する) → 女性の身体羞恥、恥意識、interoceptive deficits1など → メンヘルリスク(摂食障害、鬱病、性的機能障害など)

上のようなモデルが組まれたわけです。まあメディアとかでセクシーな女性を見たり、あるいは社会生活のなかでセクシーボディの女性が規範とされることで、女性が自分をセクシーなモノであるべき存在として見るようになり、その基準に到達してない人はもちろん、到達している人々でさえずっと自分のボディに注意し監視することになる、と。

ここで重要なのが、心理学者にとって、女性の問題は、他人から直接にモノ化されるという経験(性暴力とか盗撮とか面と向かっての性的評価)もまあ重大ではあるんですが、自分をモノと見る自己モノ化も重大な経験であるっていうのに気づかれたところなわけです。(それゆえフレドリクソン先生たちのは時々「モノ化理論」というよりは「自己モノ化理論」として参照されることがある)。

こっちも特に有名なやつで、「水着を着て鏡の前でテスト受けると女子学生は数学の成績が落ちる」みたいな実験して、自分を女性だと意識したり、モノとして見ることが女性にさまざまな心理的負荷をかけていることを実証した、とされるやつです。読んでみたけどちょっと微妙なところありそうですが、フレドリクソン先生はこういうので偉くなります2

脚注:

1

まだどういうのかよくわかってないです。

2

フレドリクソン先生は2000年代以降はポジティブ心理学の方で業績残すことになって、私はそれで意識しました。先生がモノ化に反対してたとなると、私も考えなおさねば。

性的モノ化とセクシー化 (1) 「性的モノ化」の議論のむずかしさ

「性的モノ化」は自発性や同意があればそんな悪くない

ポルノやソフトな表現での「性的モノ化」(客体化、物象化)の問題については、ごく簡単な論文もどきも書いたし、もう飽きてる感じではあるんですが、時々ツイッター検索とかをかけると、いまだに時々この概念が使われてるようですね。

何度も書いているように、ポルノとかの「モノ化」の問題の一つは、単なるモノや動物ではない価値をもっていると考えられる人(パーソン)や女性を、単なるモノ(オブジェクト)として扱うこと、勝手に鑑賞したりよしあしを品評したり本人の意思に反して操作したりする対象・客体(オジェクト)として扱うことは、他人や自分に対してもつべき尊敬・尊重の念に反するので道徳的に問題がある、というものです。特に女性は男性から性的なモノ、セックスや痴漢や盗撮という行為の対象となりやすく、それよって被害を受けたり、他人がそうされているのを知って少なくとも不快になったりする。いくないですね。(ちなみにここでのモノも客体も対象もぜんぶ「オブジェクト」で、英語話者の論者でも鈍い人はあんまり区別つかない感じですね。)

でも、我々人間は単なるモノではないのですが、しかし実際に身体をもったモノでもあるわけです。そしてその身体を鑑賞してもらったり、愛玩してもらったり、欲望やセックスの対象としてほしいこともあるわけです。ヌスバウム先生の言葉を使えば、「ワンダフルなモノ化」があるかもしれないし、モノ化が許される場合はもっと多いだろう。「あんたの道徳的な人柄は好きだけど、体はぜんぜん興味ないのよね、むしろなくなってほしい」とか言われたらそれはそれでいやじゃないっすか。若い女性たちが毎日自撮りしてツイッタやインスタやチクトクにアップロードするんだって、他人にモノでもある存在として見てもらったり、場合によっては性的な欲望の対象になりたいと思うからだと思う。私もできることならそんなことしてみたいけど、まあ需要がないだろうし逮捕されるとやばいからやめとかないとならんですね。ははは。

イラスト等には使いにくい概念

もう一つ、この「性的モノ化」っていう概念をインターネットで見るような表現に使おうとするときの問題は、よく問題になるイラストやアニメは、盗撮のように生身の人をモノとして扱ってるわけじゃないことですわ。モノにされている人がそもそもいない。まあ絵描きの頭のなかにしかいない想像上の人物が自発的にエロな格好しているとも、同意しているともいいがたいところはあるにしても、なぜそうしたイラストに道徳的に問題があるかというのを示すのはけっこう難。

実在の女性 → 集団としての女性のイメージ → 作者の頭のなかに結実した像(ビルド) → 作品 → それを見る鑑賞者 → 鑑賞者の頭のなかの女性に対するイメージや偏見 → 実在女性の被害、不快

とかっていう経路を考えないとならない。まあ、最大単純にして、エッチなイラストを見て痴漢したくなり、実際にそれをする、みたいな単純な影響や因果関係を示すことができればましですが、それ自体むずかしいし、さらには一部の人がそんな経路をたどって痴漢とか性暴力とかに至るということが言えてさえ、そうした表現が不正である、と主張するのはむずかしい。マルクス読んで暴力革命するんだってんでテロ起こしたからといって、マルクス禁書になんかしたくないっしょ?

実は、英語圏でも「モノ化」の議論はまだまだやられてるんですが、2000年代後半ぐらいから、広告やテレビなどの表現物については、むしろ「女性のセクシー化」みたいな枠組みで考えることが増えてるんですわ。ちょっとだけ紹介しようかと思ったのですが、いつものように前口上だけで長くなってしまった……続くと思います。

『宇崎ちゃん』ポスターは「女性のモノ化」だったのか?

現代ビジネスオンライン https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68733 に載せたものをorg2blogのテストとしてこっそり転載しとこう。1年以上経過したし、転載してもかまわんだろう。(お金くれるって言われた気がするけどもらってないし)


『宇崎ちゃん』ポスターは「女性のモノ化」だったのか? 「性的対象物」という問いを考える

『宇崎ちゃん』論争のその後

日本赤十字社が献血を呼びかけるポスターをめぐってSNSで激しい議論が生じた。この「現代ビジネス」上でも、大阪大学教授の牟田和恵氏が論説を発表している。

赤十字社のコラボ相手となった丈(たけ)氏作『宇崎ちゃんは遊びたい!』は、累計で60万部以上を売り上げている人気マンガだ。

https://amzn.to/2OmK4sa

主人公の一人の桜井先輩は、高身長のイケメンだが奥手で堅物の男子大学生である。もう一人の主人公宇崎ちゃんは、女性的で豊満な身体つきだが、実は非常に活発で食い意地がはった「ウザくてカワイイ」女子大学生である。

この作品は、二人がおりなす「くっつきそうでくっつかない」ほのぼのとした日常生活を描いたラブコメであり、部分的にエロチックな要素も含んではいるものの、一部の人々がポスターから連想したような「お色気」や「エロ」中心の物語ではない。

牟田氏は、「宇崎ちゃんのポスターが抱える問題点がわからない人々は、女性差別の問題がわかっていない」と指摘したのだが、議論の中心になっている「性的対象物」という用語が何を意味し、どのような問題を含んでいるのかについては、詳しい解説がなされていない。

本稿ではこの言葉と概念を明確化することを通して、「宇崎ちゃん問題」をもう一度考えてみたい。

問題のありかを明確にする

「ポスターで『宇崎ちゃん』というキャラクターが『性的対象物』として描かれている」と指摘する人は、そのとき、「女性が(男性から)性的な関心の対象とされている」ということを指摘しているのだろう。しかし、そうした「性的な対象化」がなぜ女性「差別」なのか、なぜ悪いことであるのか、ということは、実はそれほど自明ではない。

人物をポスターにすることはたしかに「対象化」の一種であるし、一般的に、そうした対象とされた人物が、性的な魅力をもっていることも少なくない。ポスターに登場するキャラクターだけでなく、芸能人やスポーツ選手の多くも、多かれ少なかれそれぞれ性的な魅力を持っており、それゆえに人気を集めている側面があるように思われる。

ではこうしたことの、何が問題なのだろうか。

「性的モノ化」とはなにか?

女性を「性的対象物」として描くこと、あるいは「性的モノ化」「性的客体化」などと訳されている言葉と概念は、フェミニズム思想の最重要キーワードの一つだ。

この言葉は英語では”sexual objectification” であり、男性が支配的な社会においては、女性たちが性的な「オブジェクト」、すなわち単なる物体(モノ)として扱われているということを指す。現代社会においては、男性は「能動的な主体」であるのに対し、女性は「受動的(受け身)な客体」であり、眺められ触れられるモノとされている、という発想である。

この「性的モノ化」という概念は、性表現や性暴力の問題を論じる文脈で頻繁に使われてきたものの、そのままではぼんやりした概念である。

2016年に京都賞を受賞した哲学者のマーサ・ヌスバウム氏の代表的な業績の一つに、この「性的モノ化」という概念を分析した論文がある。彼女によれば、「性的モノ化」という概念は、実は複数の要素を複合したものだ。

「モノ化」一般、すなわち「人をモノとして扱う」という表現で意味されている主要なものの一つは、(1) 他人を道具・手段として使用するということだ。

たとえば、奴隷制度は人を単なる道具として使うことであり、それゆえに不正だということは直感的にわかりやすい。だが、私たちが生活の中で、他人を「手段として」使うこと自体は避けられない。私たちはいたるところで他の人を商品やサービスを手に入れるための手段として使っており、また他人に使われてもいる。

当人が給料や待遇や人間関係などの点で納得して、自発的に使用されるのならば問題がない。不正なのは、他人を「単なる」手段として使うこと、つまり当人の意思を無視して、手段として使うことだ。

さて、ヌスバウム氏によれば、この「他人を単なる手段として使う」という発想から、他のさまざまな「モノ化」の問題点が生じる。

それには、対象となる人の(2) 自己決定を尊重しない、(3) 主体性・能動性を認めず常に受け身の存在と見なす、(4) 他と置き換え可能なものと見る、(5)壊したり侵入したりしてもよいものとみなす、(6)誰かの「所有物」であり売買可能なものであると考える、(7) 当人の感情などを尊重しない、といったさまざまな面が見られる。

女性の「モノ化」で起きること

過去も現代も、女性は特に「性的な」モノとされやすい。セクハラ・痴漢・性暴力などの被害者となるとき、女性は男性の性的欲望や快楽のための単なる道具であり、操作される客体・対象とされてしまう。

そうした時に女性は、自己決定を無視され、受動的な存在とみなされ、女性であるなら誰でもよいという置き換え可能な形で被害者になる。また夫婦・恋人関係でも、女性は男性から「オレのもの」とみなされて自由を制限され、さらにはその意思や感情が無視されてしまうことがある。

さらに近年は、あらたに(8) 女性をその身体やルックスに還元してしまうという問題も重視されている。女性は胸や腰などに身体的特徴をもった、性的に魅惑的なものとみなされ、その性的な特徴だけが鑑賞されたり評価されたりする。そしてしばしば、その女性の人格や人柄が無視されてしまう。

たとえば超一流の女性スポーツ選手でさえ、報道では腰や胸などを強調した写真などが用いられ、本人の望む望まないにかかわらず、ルックスのよしあしが話題にされてしまう。

また、(9)エロチックな写真などでは、女性は体全体を鑑賞されるだけでなく、胸や腰や脚などの特に性的な部分・パーツに分けられ、その部分だけを鑑賞されることもある。こうしたことはおおむね女性の意志に反することであり、モノ化であり、そして不正なものを含む、とされる。

モノ化・道具化されるのは必ずしも女性だけではないが、女性は特にこうした性的なモノ化の対象となりやすいため、それは女性に対する不当な扱い、すなわち性差別とされるわけである。

『宇崎ちゃん』は「モノ化」か?

さて、問題の『宇崎ちゃん』ポスターを見るとき、上のような批判は当てはまるだろうか。

当のマンガ作品そのものを見てみると、宇崎ちゃんというキャラクターは、(1)先輩の単なる手段や道具とされてはおらず、強引に遊びに誘ってくる後輩として扱われており、(2)彼女の意志は尊重され、彼女の意志に反するセクハラなどははっきり拒否されており、 (3)格別に主体的・能動的な女性として描かれている(むしろ常に先輩が遊びに誘われる形で受け身になっている)。

彼女はさらに(4) 他の女性と置き換えできないかけがえのない存在であり、(5)勝手に触ったりできる存在ではなく、(6) 誰の所有物でもなく、(7)彼女自身の性格、発想、感じ方が作品のテーマとなっている。また女性をステレオタイプ的(典型的・画一的)に描いているとも言いがたい。

つまり、マンガ作品としての『宇崎ちゃんは遊びたい』を読む限り、この作品が女性を性的にモノ化しているという批判はあてはまらないように思われる。それどころか、宇崎ちゃんが他の登場人物のセクハラ的発言に対して強く対決しているシーンもあり、宇崎ちゃんは自覚的・自立的・能動的で魅力的な女性として描かれている。

一方、日本赤十字社はかなり以前から多種多様な人気アニメ・マンガとの「コラボ」によって、若者に対するキャンペーンをおこなっている。

『宇崎ちゃん』はその一連の企画のひとつであり、またポスターが掲示されたのは献血ルームなどに限られていたことを考慮すると、すでに人気のあった『宇崎ちゃん』とのコラボを選択することに特に問題があるようには思えない。主人公のルックスと性格を表した単行本表紙の絵柄を選択することにも、さほど問題があるわけではないだろう。

このように、「モノ化」を非難するべき理由まで分け入って考えれば、今回のポスターそのものが「性的なモノ化」にあたるという非難は、説得力があるとは言えない。

なぜ「不快」と非難されたのか

では、なぜ『宇崎ちゃん』のポスターはこれほどの非難を浴びたのだろうか? 問題のありかを知るには、ポスターに反発する人々の考え方や、そうした人々の置かれている状況を理解する努力も必要だろう。

第一に、実在する人物でない宇崎ちゃんをポスターに起用しても、直接に「人をモノとして扱う」ことにはならないとはいえ、彼女は、人目をひく女性キャラクターとしてアイキャッチに使われている。その意味で、宇崎ちゃんは献血参加を促す「道具」とされているとは言える。

宇崎ちゃんは架空の人物なので、彼女のポスターがその意思に「反している」とは言えないが、同時に彼女の「自発的な行動である」とも言えない。

芸能人やスポーツ選手をポスターに登場させる場合にはその意思が尊重されているわけだが、宇崎ちゃん自身の意思はそもそも存在しない。したがって、作家・ポスター制作者は宇崎ちゃん自身だけでなく、女性一般の性的なイメージを勝手にデフォルメし、アピールの手段として利用している、ということは指摘できる。

一部の人々が、女性芸能人のポスターには感じない不快さをマンガ・アニメの女性キャラクターの使用に感じるとすれば、その理由はこうしたことかもしれない。

第二に、女性の胸を強調した構図をポスターとして使うのは、女性の身体の一部にだけ注目するという形の性的モノ化ではないか、という声があるだろう。

このポスターの画像は、マンガ単行本最新刊の表紙イラストの流用であり、また「バストショット」は人物を描く際にごく一般的な構図である。しかし、女性的な身体の部分を強調したイラストは、女性を単なるモノとして見る性差別的な見方を反映しているから、そうしたポスターが公共性の高い団体の広報に使われるのは不適切だ、という意見はありえる。

この場合はむしろ、ポスターにあらわれるような発想(アイディア)や女性に対する観点が、公共性の高い団体のポスターにおいて表現されることで、女性一般をモノ化する発想を維持・拡大することに通じる可能性がある、ということが問題にされているのだろう。

『宇崎ちゃん』ポスターを見る人が、その構図や姿勢、身体の描かれ方に違和感をもつかどうかは、おそらく、現代のアニメ・マンガで使われる構図や絵柄や彩色方法などにどれくらい慣れているかにも関係するだろう。

私が担当する授業などで女子大学生たちに聞いてみたところでは、「ふつうの絵だ」という意見の方がかなり多かったが、「胸を強調しすぎていて不快だ」という声も少数ある、といったところだった。

ポスターそのものよりも…

第三に、現在私たちがWebを見たり、スマートフォンのアプリを使用したりするときには、明らかに性的なコンテンツやゲームの広告が、時には頻繁に表示されることがある。そうしたしつこい性的な広告を不快に思う人は多いはずだし、私自身も不快である。

そうした性的コンテンツの広告には、『宇崎ちゃん』と同じタイプの色彩や描画方法をとったものも多く、『宇崎ちゃん』という作品を知らずにポスターを見た人々が、そうした性的コンテンツの不快や脅威を連想してしまうのも無理はない。

ネット上では、女性を利用した性的な図画を目にする機会は多いし、また露骨で女性差別的な発言やそれに関連した攻撃的な発言もいやおうなく流れてくる。こうしたもの全体が、特に女性にとって脅威と感じられるのももっともであろう。

そうした女性の不快や脅威の感覚にまったく配慮しないことは、まさに女性たちのものの見方や感情を無視するという点で「モノ化」であり性差別である、ということがありえる。

こうして考えると、「女性差別がわかっていない」として牟田氏が指摘したかったのは、おそらく、『宇崎ちゃん』ポスターそのものが単体で性差別的であるというよりも、むしろポスターに不快を感じる(主に)女性たちの観点や感情が軽視・無視されてしまうことについての、社会的な無理解や無関心こそが問題である、ということのように思われる。

一般に、女性が子供のころからさまざまな形で外見を評価されたり、意志に反した性的な扱いをされたりする危険にさられていることは言うまでもない。こうしたフラストレーションや不快な経験が積み重なった結果として、一部の人々にとっては愉快で魅力的に映る『宇崎ちゃん』ポスターが、女性の間では不快なものとして映ったのだと言えるだろう。

対立と無理解を乗り越えるために

私自身は今回の一件について、ポスター自体に問題があるというよりは、本来はこれほど目立たなかったであろう話題がSNSで拡散され、意見の対立が先鋭化しクローズアップされた事例だったと考えている。

日本赤十字社が献血参加者の拡大に努めていることを考慮すれば、コラボ作品の魅力を損ってまで無難な表現を選択するべきだとも言えない。また、私たちはこれほど豊かなマンガ・アニメ文化をもっているのだから、単なる絵柄の印象だけから即断してポスターを非難したり擁護したりするよりは、作品の内容に関心をもち、鑑賞するチャンスと考えてみる態度も必要だろう。

一方で、このポスターをめぐる論争をもっと広い視野で捉えたとき、人によっては不快に感じる表現もネット上ではなかば強制的に見せられてしまうことや、SNSにおいては「表現の自由擁護派」と「表現規制推進派」のような派閥対立と相互の無理解が激化しているかのように感じられ、議論が先鋭化してゆくことは、むしろあらたな問題であると感じられる。

私たちがSNSを利用しはじめてから、まだ10年ほどしかたっておらず、これからも各種の表現に関して細かい議論を積み重ねていく必要があるだろう。マンガ・アニメコンテンツと広告・広報の問題については、すでに一定の事例と議論が蓄積されつつある。

いずれにしても、異なる立場の人々がそれぞれの意見を発信し、他の人々にも見える形で議論が進むことは、全体として社会にとって有益であると信じたい。

トランスジェンダーについての基礎知識

めくってみているDavid C. Geary (2021) Male, Female: The Evolution of Human Sex Difference, 3rd ed.っていうのにトランスジェンダーの人々についての基礎知識があったので、Emacsのorg2blogってのでwordpressを書くテストをかねてメモあげてみます。

  • ジェンダーアイデンティティ = 自分のジェンダーについての当人の心理的感覚。99%以上は誕生時の性別に一致。
  • トランスジェンダーの人は生まれつきの性別がジェンダーアイデンティティと合ってない人。(ただし男女以外の場合もある。ノンバイナリー、ジェンダー流動的、ジェンダークィアなど)。
  • さまざまな文化で性別に典型的でないふるまいをする人々を記述する言葉がある。
  • ジェンダー違和(gender dysphoria 性別違和)、異性として見られ受けいれられたいという強い欲求をもつ人々がいる。
  • 性別に応じた典型とちがうふるまいをする子供は多い(男児の3%、女児の5%程度)が、これは生まれの性別に対する違和感とはまたちがったもの。
  • 1〜2%の子供が異性になりたいと語ることがあるが、これもトランスジェンダーとはちがう。このなかの85%程度は、思春期から青年期には異性になりたいと望むことがなくなる。一部は生まれの性別にとどまりつつホモセクシュアル・バイセクシュアルと自認するようになる。
  • 子供時代から性別違和を感じている人々は「早期型」性別違和者。子供時代から性別に非典型的な振舞をし、ホモセクシュアルになる傾向がある。
  • 成長してから性別違和を訴える「後期型」は圧倒的に生まれは男性。子供時代にはさほど強い性別違和はなく、しばしばヘテロセクシュアルであり、人生のけっこうな部分をヘテロセクシュアルとして生活した経過をもつ。この種の人々の一部は自分自身が女性であると想像することに関して性的興奮をおぼえることがあり、Blanchardという研究者は自己女性化嗜癖autogynephiliaと名づけたが、これはけっこうな論争になる。
  • 成人期の性別違和は子供時代よりずっと少ない。あるメタアナリシスでは、14,705人に1人がトランス女性。トランス男性はもっと少なく、38,461人に1人。ただしこれは医療機関に相談した人々の数なので、かなり過小評価になっているかもしれない。
  • 近年、性別違和を訴える青少年が増えているが、一般的な認知が普及したから周りの人々ににそうしたことを告げやすくなったためか、あるいはマスコミ等の影響でそう感じる人が増えているのかは不明。

これくらい。あっさりしてますが、まあこの手の情報さえあんまり流れてなかったりするから。

英語圏ではトランスジェンダーの人々や、そうした人々に対する差別みたいなのについての論争がかなり長く続いていて、国内のネットでもここ数ヶ月けっこう激しいやりとりが続いているようですが、セックスなんかについての話は、ネットにあるブログ記事とかあさる前に、まずはちゃんとした教科書やハンドブックみたいなものを見て基本を確認しておきたいように思います。

関連記事はこっち。

Rathus先生たちの「ジェンダーアイデンティティ」解説

2005年の教科書記述で、すでにちょっと古くなってしまっているのですが、Spencer A. Rathus, Jeffrey S. Nevid & Leis Fichner-Rathus, Human Sexuality in a World of Diversity, 6th ed., 2005のp.175からの項目を江口聡 eguchi.satoshi@gmail.com が勝手に訳したもの。著作権クリアしておいません。版も古いです。だれかいっしょに訳出しませんかね。出版社はどこに相談したらいいかなあ。医学系のところじゃないとだめだわね。新しい版はずいぶん変わってる。


ジェンダーアイデンティティ

Q: ジェンダーアイデンティティとは何でしょうか? 私たちのジェンダーアイデンティティは、男性であるとか女性であるとかといった意識や感覚であり、私たちの自己概念の最も明白で重要な側面です。あとで見るように、ジェンダーアイデンティティはふつうの人の解剖学的な性と一致しますが、必ずしもそうではない場合があります。性割り当て(ジェンダー割り当てとも呼ばれます)は子どもの解剖学的な性を反映しており、通常は誕生時におこなわれます。子どもの性別は両親にとって重要なので、手や足の指を数える前にまず「男の子?それとも女の子?」と知りたがるものです。

ほとんどの子どもは生後18ヶ月ぐらいのときに自分の解剖学的な性別を意識するようになります。生後36ヶ月までには、ほとんどの子どもはジェンダーアイデンティティについてしっかりした感覚を獲得します(Rathus, 2003)。

ジェンダーアイデンティティにおける生まれと育ち

Q: なにがジェンダーアイデンティティを決定するのでしょうか?生物学的に胎児期の性ホルモンによって、私たちの脳は男性的になるか女性的になるか生物学的にプログラムされているのでしょうか? 出生後の学習経験などの環境が私たちが男性であるとか女性であるといった自己概念を形成するのでしょうか? あるいは、ジェンダーアイデンティティは生物学的影響と環境影響を混ぜあわせたものを反映しているのでしょうか?

ジェンダーアイデンティティはほとんど常に染色体の性別と一致します。しかし、そうした整合性はジェンダーアイデンティティが生物学的に決定されていることを確証するものではありません。私たちは解剖学的な性別にしたがって男性あるいは女性として育てられる傾向もあります。それでは、生まれと育ち、生物学と環境の役割を洗い出すことができるでしょうか?

研究者たちは、手掛かりをインターセクシュアルという稀な人々の経験に見つけだしました。インターセクシュアルの人は、一方の生殖腺をもってはいるものの、外性器が曖昧であったり、反対の性の外性器である人々です(Zucker, 1999)。インターセクシュアルはときどき反対の性(染色体の性とは別の性)として育てられることがあります。研究者が不思議に思ったのは、こうした子供たちのジェンダーアイデンティティは、染色体や生殖腺の性を反映するのか、それとも誕生の際に割り当てられ、それにしたがって育てられた性を反映するのか、という点でした。先に進む前に、真のハーマフロダイト(両性具有)とインターセクシュアルを区別しておくことにしましょう。

遺伝学的な性にかかわりなく、ハーマフロダイトの人は、誕生の際に割り当てられたジェンダーアイデンティティとジェンダー役割を引き受けることがしばしばです。図6.3は、右の精巣と左の卵巣をもった遺伝学的女性(XX)です。この人はしっかりした男性のアイデンティティをもちながら結婚して義理の父親になりました。しかしながら、生物学と環境の役割はもつれあっています。というのは、真のハーマフロダイトの人は、両性の生殖腺をもっているからです。

真のハーマルフォダイトは非常にまれです。もっと普通なのはインターセクシュアルで、新生児1000人に1人ほど存在します。インターセクシュアルの存在は、科学者にジェンダーアイデンティティの形成にあたって生まれ(生物学)と育ち(環境)が果たす役割を確かめる機会をもたらしました。インターセクシュアルの人は睾丸あるいは卵巣のどちらかをもっていますが、両方はもっていません。ハーマフロダイトとはちがい、インターセクシュアルの生殖腺(精巣あるいは卵巣)は、染色体の性に合致しています。しかし、出生前のホルモンのエラーによって、身体内部の生殖器が曖昧であったり、異性のものに似ていたりするのです。

女性のインターセクシュアルで一番よく見られるものは、congenital adrenal hyperplasia (CAH)で、遺伝学的女性(XX)が女性の身体内性的構造(卵巣)をもっており、しかし男性化した外性器をもっている、というものです(Barenbaum & Hines, 1992; Migeon & Donohue, 1991; Zucker, 1999)。クリトリスが肥大して、小さなペニスのようになります。この症状は、男性ホルモンが過剰に分泌されたことによります。一部の例では、胎児自身のアドレナリン腺が過剰な男性ホルモンを作りだすことがあります(アドレナリン腺は通常は男性ホルモンは低いレベルしか作りません)。また別の一部では、妊娠中に母親が合成男性ホルモンを摂取したという場合もあります。副作用が知られる前の1950〜60年代には、流産を繰り返す女性に対して、流産を防ぐために合成男性ホルモンが投与されたことがあります。

スウェーデンの研究者Anna Sevinとその共同研究者たち(2003)は、CAHの2才から10才の26人の少女およびそれと同年齢のCAHをもたない26人の少女を比較して、ジェンダー的行動と関心を調べました。CAHの少女はよりも、自動車などの男の子らしいオモチャを好み、人形のような女の子らしいオモチャを好みませんでした。CAHの少女はまた、男の子を遊び仲間にし、男の子っぽい職業を望んでいました。CAHの娘をもつ親は、そうでない娘をもつ親よりも、娘の行動を「男の子っぽい」と評価しましたた。研究者は、少女の親が子供の遊びに影響を与えた証拠を見いだせませんでした。Servinと共同研究者たちはこの結果を、ホルモンがCAHのある少女とそうでない少女の間の違いに寄与していることを支持するものだと解釈しました。

インターセクシュアルのもう一つのタイプであるアンドロゲン不応症 androgen-insensitivity syndrome にはさまざまなものがあります。一つは、遺伝学的に男性(XY)である人が、遺伝子変異により、胎児期に通常より低い男性ホルモンへの反応性しか示さないことがあります(Adachi et al., 2000; Hughes, 2000)。その結果、性器は正常に男性化しません。こうした人の外性器は出生の時点では女性化されており、小さな膣をもっていたり、精巣が下降していなかったりします。男性ホルモンに反応しないので、こうした男性の輸送管システム(精巣上体、精管、精嚢、排出管★)は発達しません。しかしながら、胎児の精巣はMullerian inhibiting substance (MIS)を作り出し、子宮や輸卵管の形成を阻害します。男性ホルモン不反応症候群の男性は、陰毛や腋毛が薄いか発毛しません。これらの部位の発毛は男性ホルモンに左右されるからです。

不全型アンドロゲン不応症の少女もまたインターセクシュアルとなります。不全型アンドロゲン不応症(PAIS)や完全型アンドロゲン不応症(CAIS)は、女児2000〜5000人に対して1人の割合です。この症状は、X染色体が1本しかないか、あるいはXX染色体構造はもっているがその染色体の一部を失なってしまった女児にあらわれます。CAISの女児は典型的な女性の外性器を発達させますが、内性器は発達しないか、正常に機能しません。対照的に、PAISの女子は男性化した外性器をもち、男の子として、そして時に女の子として育てられます。Melissa Hineと共同研究者による研究では、CAISでX染色体を1本しかもってない22人の女性を、同数の正常なXX染色体構造の女性と比較しました。CAIS症状の人とそうでない人の間には、自己評価、一般的な心理学的幸福感、ジェンダーアイデンティティ、性的指向、ジェンダー的行動パターン、結婚状態、パーソナリティ特性、利き手などについて差はありませんでした。Hinesたちは、X染色体2本と卵巣をもつことは、人間において女性的な行動を発達させるには本質的ではないと結論しました。

ドミニカ症候群 Dominican Republic syndromeがはじめて記録されたのは、ドミニカ共和国の2つの村で18人の少年についてです(Imperato-McGinley et al., 1974)。ドミニカ症候群は、遺伝的な酵素異常で、テストステロンが外性器を男性化するのを阻害します。男児たちは正常な精巣と内性器をもって生まれますが、外性器は正常に形成されません。ペニスは成長せずクリトリスに似ています。陰嚢は完全に形成されず、女性の大陰唇に似ています。男児らは部分的に形成された膣ももっています。男児たちは出生時には女児に似ているため、女性として育てられます。しかし思春期には、精巣が正常にテストステロンを分泌し、驚くような変化が生じます。彼らの睾丸は下り、声変りし、筋肉組織は盛り上がり、「クリトリス」はペニスの大きさになります。女児として育てられた18人の男児のうち、17人は男性としてのジェンダーアイデンティティをもつようにりました。18人のうち16人はステロタイプな男性的性役割を受けいれました。残りの2人のうち、1人は男性としてのジェンダーアイデンティティを採用しましたが、ドレスを着るといった女性的な性役割を維持しつづけました。もう1人は女性としてのジェンダーアイデンティティを維持して、のちに思春期の男性化を「修正する」ために性割り当て手術を求めました。女の子として育てられたのにもかかわらず、これらの人のほとんどすべては男性的な役割に問題なく移行しました。これはジェンダーアイデンティティにおける生物学的要因の本質的な重要性を示唆しています(Bailey, 2003b)。

多くの科学者の結論では、ジェンダーアイデンティティは生物学的要因と心理社会的要因の複雑な相互作用によって影響されていいます。しかし、「複雑な相互作用」アプローチは、生まれ(生物学的要因)と育ち(心理社会的要因)のどちらがより重要か、という難問を避けることができたのでしょうか?生まれに力点をおけば、個人の選択の役割を減らすことになり、多大な政治的含意をもつことになります。心理社会的要因に相対的に大きな比重を置く人もいますが(Bradley et al., 1998; Money, 1994)、生物学的要因の役割を強調する人々もいます(Collaer & Hines, 1995; Diamond, 1996; Legato, 2000; Servin et al., 2003)。しかしながら、「女児として育てられた男児たち」についての「もっとよく見てみよう」コラムにあるように、新生児は心理性科学的に中立であり、ジェンダーアイデンティティは主に環境要因に依存するという理論は、近年「厳しい道」を歩んでいます。

読者が人間の性とジェンダーアイデンティティの起源にまつわる複雑な諸問題を十分学んでしまったと思ったら、クロコダイルのことを考えてみましょう。クロコダイルの卵は性染色体をもっていません。子供の性は、卵が発育する温度によって決定されます(Ackerman, 1991)。オスは暑いのを好み(少なくとも華氏90度)、メスは寒いのを好むわけではないですが、華氏80度以下を好みます。

トランスセクシュアル

1953年に、「性転換手術」を受けるためにデンマークに行った元下士官が新聞記事を飾りました。彼女はクリスティン(もとはジョージ)・ヨーゲンセンとして知られるようになりました。それ以来、何千人ものトランスセクシャル(トランスジェンダーとも呼ばれます)の人が性再割り当て手術を受ています。Q: トランスセクシャルとはなんでしょうか?

トランセクシャル(transsexualism)とは、ある人は異性の解剖学的な特徴をもち、異性として生活したいと願うことです。多くのトランスセクシャルがホルモン治療や、異性の典型的な外性器の見掛けにする手術を受けています。こうした手術は、より性格にいうと、女性から男性のトランスセクシャルよりは男性から女性へのトランスセクシャルでおこなわれることが多くなっています。手術のあとには、性的活動に参加してオーガスムさえ得ることができます。ある研究によると、「ニューウーマン」の2/3のが性的活動の間にオーガスムを得ています(Schroder & Carroll, 1999)。しかし、彼女たちは妊娠したり子供を生んだりすることはできません。

トランスセクシャルの人はなぜ異性として生活したいのでしょうか? John Money (1994)によれば、トランスセクシャルはジェンダー違和感(gender dysphoria)を経験しています。つまり、そうした人たちは、性器の解剖学的特徴と、自分のジェンダーアイデンティティやジェンダー役割の不一致を経験しています。トランスセクシャルの人々は、一方の解剖学的性をもっていますが、異性の一員だと感じるのです。この食い違いから、この人々は自分のもともとも性的特徴(外性器や内性器)を取り除き、異性の一人として生活したいと感じるのです。男性から男性のトランスセクシャルは自分をなんからの運命のいたずらによって、まちがった性器をつけられた女性だと思います。女性から男性のトランスセクシャルは、自分を女性の体に捕われている男性だと感じます。

Ray Blanchard (1988, 1989)とJ. Michael Bailey (2003a, 2003b)は別の見方をしています。トランスセクシャルの人への広範な調査に基づいて、女性になることを求める人々は、さらに別のカテゴリーに分類されると主張しています。つまり、極端に女性的な男性と、女性になるというアイディアによって性的に興奮する人々です。第一のカテゴリーにはBlanchardが「同性愛的トランスセクシャル」と名づける人々——極端に女性的なゲイであり、他の男性との性的活動によっては完全には満足できない人々——も含まれます。第二のカテゴリーは、「オートジネフィリックautogynephilic自分が女であることを好む」、つまり、自分の身体が女性であるという空想によって性的に刺激される人々を指します。

トランスセクシャルがどの程度一般的であるのかは不明のままですが、かなり稀であると考えられています。米国のトランスセクシャルの数は5万人以下と見つもられています。性再割り当て手術を受けた人は2万人未満です(Jones & Hill)。

同性愛的トランスセクシャルは通常、幼い子供のころから遊びや衣服についてジェンダーをクロスした好みを見せます。記憶に残っているかぎり、自分は異性に属していると感じていたと報告する人もいます。男性から女性のトランスセクシャルの人々が回想するところによると、子供のころ、人形で遊ぶのが好きで、フリルのついたドレスを着るのを楽しみ、荒っぽく転がりまわるような遊びを嫌っていました。こうした人々は仲間からしばしば「おんなおとこ sissy boy」とみなされていました。女性から男性へのトランスセクシャルの人々によれば、子供のころはドレスが嫌いで「おてんばtomboy」としてふるまっていたということです。こういう人々は「男の子の遊び」が好きで、男の子といっしょに遊びました。女性のトランスセクシュアルは男性のトランスセクシュアルより適応するのに苦労しないようです(Selvin, 1993)。「おてんば」は「女男」より仲間に受けいれやすいと感じています。大人になってからも、女性のトランスセクシュアルは男性の衣服を着て、ほっそりとした男性だとして「パス」する方が、筋骨たくましい男性が体格のよい女性として「パス」するより簡単かもしれません。

性再割り当て

外科手術は性再割り当ての一要素です。手術は不可逆なので、医療関係者は、再割り当てを求める人がそうした決断をする能力があり、その帰結を徹底的に考えたのかを細心の注意をもって検討します。医療関係者は通常、トランスセクシュアルの人が手術の前に、オープンに異性として生活できないか、さらにしばらくの間試験的に生活することを要求します。

いったん決定に到達したら、生涯にわたるホルモン治療が始まります。男性から女性へのトランスセクシュアルの人は女性ホルモンを受け、それが女性の第二次性徴を発現させます。胸と臀部に脂肪を堆積し、肌を柔らかくし、ヒゲの育毛を抑制します。女性から男性のトランスセクシュアルは男性ホルモンを受け、それが男性の第二次性徴を発現させます。声が低くなり、体毛が男性のパターンにしたがって発毛し、筋肉が増大し、胸と臀部hhhnnnnの脂肪が少なくなります。クリトリスももっと大きくなります。男性から女性へのトランスセクシュアルの場合、声のピッチを上げるために「音声手術」をおこなう場合もあります。

性再割り当て手術は大分美容的(cosmetic)なものです。医学では内性器や生殖腺を構築することはできません。男性から女性への手術は一般に女性から男性への手術よりもうまくいきます。まずペニスと睾丸が除去されます。ペニスからの組織が人工ヴァギナの場所におかれ、感覚神経末端が性的感覚を与えるようにします。治療の間、ペニスの形をしたプラスチックかバルサ材でヴァギナの形を維持するように使われます。

女性から男性への場合、内性器(卵巣、輸卵管、子宮)と胸部の脂肪組織が除去されます。FtMトランスセクシャルのなかには、人工的なペニスを構築するペニス形成術 phalloplasyを受ける人もいます。しかしこのペニスはあまりよく機能せず、手術には高額の費用がかかります。それゆえ、ほとんどのFtMトランスセクシャルは子宮摘出、乳房切除、テストステロン療法で満足します(Bailey, 2003b)。

将来の極端な医療的介入のことを考えて、手術を受けることをためらうトランスセクシャルの人がいます。また、ハイステータスな職業経歴や家族関係を危うくしないために手術を控える人もいます。こういう人々も、手術をしないとしても、自分は異性の一員だと考えつづけます。

堀あきこ先生の「メディアの女性表現とネット炎上」はフェミニスト的メディア批判をうまく説明しているので勉強しよう

堀あきこ先生のインタビュー記事についてツイッタでいろいろ失礼なことを書いてしまって、反省して論文も読んでみました。学者のインタビューだけ読んで論文読まないほど失礼なことはないですからね。

堀あきこ (2019) 「メディアの女性表現とネット炎上:討論の場としてのSNSに注目して」,『ジェンダーと法』,No. 16

この論文「メディアの女性表現とネット炎上」は、ここしばらくずっと論じられてるのに対する堀先生からの答えという感じでとても勉強になったので、ぜひ紹介しておきたいですね。この論文はとてもまじめなもので、最近の広告表現とかについてのネット議論について、目下のフェミニスト主流的立場をわかりやすく書いてくれているので、みな読むといいと思う。入手しにくいのよねえ。学会雑誌はこれからはオープンアクセスを目指してほしいと思う。

女性を使った表現については、(1) 固定的な性役割、(2) 性別役割分担、(3) 性的な対象としての女性描写、が問題だとされてきています、と。「固定的な性役割」ってのは男/女らしいとかそういうので、役割分担というのは「男は仕事女は家庭」みたいなやつのはず。「性役割」と「役割分担」の区別がちょっと微妙で、混乱しそうだけどとりあえずOK。

ルミネの2015年のCMが「固定的性役割」、ユニチャームの2016年のが「性別役割分担」、(3)の「性的な対象としての女性」が宮城の壇蜜先生のおもてなしのやつだそうだ。「萌え絵」の方だと、人工知能学会のやつと君野イマ・ミライが(1)、キズナアイのノーベル賞が(2)、碧志摩メグと『のうりん』が(3)だそうだ。

性役割、性別役割分担

論文の核の部分はそういう表現に対する批判に対する再批判に対する答えで、ここが読みがいがある。

「固定的な性役割や性別役割分担の肯定的描写には、旧来的なジェンダー規範を繰り返し描くことで再生産装置となる、という批判がなされてきた。」

これに対しては、たとえば「専業主婦差別だ」「女らしい/かわいい女性批判だ」みたいなことを言われることがありますよ、と。もうちょっと批判者の言い分を十分とってあげたい気はするけど、OK。堀先生によれば、こういう反論というのは、「表現批判と現実の女性のあり方を混同している」と堀先生は言う。

「性差別的な社会をそのまま肯定的に描くことは現状追認に過ぎず、ジェンダー平等な社会の推進や性役割のステレオタイプからの脱却の足枷となる。」

「ワンオペ育児が当然とみなされたり、賛美して描かれることが、さらなる性差別を生み出し強化してしまうというメディア作用への批判なのである。」

この、メディア表現が既存の社会的規範を拡大再生産します、だからそういうのは批判して数を少なくします、っていうのは基本の発想よねえ。「メディアが偏見を再生産」みたいなのはやっぱり認めないとならないと思う。

しかし、問題になっている広告などがモメた理由は、個々のルミネやユニチャームのやつやキズナアイや人工知能学会のやつがそうした偏見助長的・差別的なものかってことだと思う。私が見るかぎり、あれらが偏見とかの「肯定的表現」になってるかというとよくわからない。ルミネやユニチャームのは、基本的には「上司が馬鹿で無神経だったり、旦那がちゃんと協力してくれなったりして、女性はたいへんよね」ってな感じで描かれているように思うし、制作者もそうしたコメントをしているようだ。

まあルミネとユニチャームのは、どっちも全体にネガティブで味がよいものではないけど、現代社会での女性の苦労みたいなのを描いていて、性役割や性別分業を「肯定的に」描写している、みたいなのとはちがうように思う。肯定的に描くっていうのは、ふつうはそれが「よいものだ」っていう感じで描くという意味だと思うけど、どっちでもそうはなってないように思う。ルミネのやつは、上司たちに無神経にいろいろ言われて「おしゃれしないと!」みたいな結論になってるらしいけど、それが「肯定的に描いているの」かどうか。たしかに対人的・社会的な問題を自分の努力と工夫と商品とお金で解決するという形なので、それが「肯定的に描く」って言われるのかなあ。これは解釈が分かれるところか。

とりあえずルミネとユニチャームのは、働く女性の問題がルミネやユニチャームの商品で一気に解決!みたいなことにはなっていないと思う。むしろその問題の描き方がリアルであるからこそ不快だという話なのではないかと思う。「女らしさ」や性別役割分業を肯定しているとはいえないように思うし、ましてや性的モノ化ではない。

もうひとつ気になっていることがある。伝統的で優勢な性役割規範みたいなのをCMなんかで描くのは当然といえば当然な話で、だって実際に社会がそうなっているならそれを使わないというのは人工的で不自然になりすぎる感じがある。たとえば架空のケースの表現を考えるとして、複数の女性が登場するときに、伝統的に女性らしいと言われるような女性が まったく 出てこないような表現を作る、っていのはなんかへんな感じがある。偏見の解消をめざして、少数派をを実際の比率よりかなり多めに描く、みたいなのはありえると思う。たとえばLGBTとか、その国での少数民族とか外国人とか。でも登場人物をLGBTと少数民族と外国人だけにしてしてしまう、みたいなのはやりすぎに思える。そこらへん、企業CMとかはほんとうにむずかしい。まあ各位努力してもらって多様性を確保しておいてもらえばいい、ぐらいなのではないかとおもうんだけどどうだろう。

私自身は、ルミネやユニチャームのが非難されたのは、それが偏見や性役割分業を肯定しているからというよりは、単に特に不快なものだったからなんじゃないかと思っている。化粧炊事掃除洗濯なんかの女性が購買する関係のCMの多くは性別役割分業ばりばりだと思えるし、「肯定的に描いている」というのでは他のそうしたCMの方が肯定的だと思う。それらはOKだけどルミネやユニチャームのがだめだったのは、不快だからだろう。私には、ACの暗いPRなんかも私には同じように不快だ。

もどって、たとえばメディアで専業主婦を肯定的に描くことを批判することは、専業主婦を批判することだ、というのは 批判のレベルがちがう 、という堀先生の主張はどこまでうまくいくのだろうか。たとえば、アイドルをCMで肯定的に使うことを批判するのは、アイドルを批判することとはちがう、とか、軍人を肯定的に使うことを批判することは軍人を批判することとはちがう、っていうのとどのていど違うだろうか。

「性役割のステレオタイプからの脱却の足枷となる」は、社会学者たちの文章全般について何度も指摘しているように主語がないんだけど、「女性一人一人が」だろうか。あるいは「日本の社会が」だろうか。ステレオタイプから脱却しようとしている人を非難するような表現ならたしかに「足枷」「邪魔」って言いたくなるけど、ふつうにやってる分には少なくとも邪魔はしてないように思うんだけどどうだろう。「ジェンダー脱却に 協力的ではない 」みたいなことは言えるかもしれないけど、邪魔だとか足枷だとかって言えるかというと微妙だと思う。

蛇足だけど、こうしたメディアが社会に影響を与えるというのはなかなか否定しにくいけど、いったいどのように影響・作用するかというのも実はなかなか実証的には示しにくい。メディア全体が人々の考え方に影響を与えているのというのはもちろん否定できないが、個々の表現がどう作用するかを示すのはものすごく困難で、そもそもマスメディアという巨大な海みたいなところから、個々の表現を切り出してその影響を云々するのはむずかしい。個別のCMの他にいろんな記事や番組があり、さらにはマンガも映画もあり、となると、ぼんやり「メディアは社会に影響を与える」ぐらいのことしか言えない。でもまあこれはしょうがない。

(ii) 解釈の多様性

とにかく、上の一番基本的なところはOKってことにする。この点で私が興味あるのは、個別のCMが実際にそうしたものか、ってところだわ。ルミネやキズナアイは実際に差別的だったのだろうか。ネットでのあれやこれやの炎上について、大筋では「性差別的なのはだめ」「偏見を助長するのもだめ」っていうのは同意されていて、個別の作品がそうしたものかが争われていたように思っている。

この「個別のCMなりが実際にそうしたものか」っていう問題を、堀先生は「人によって受け取り方は違う」「そう感じない人もいる」という反論がなされる、って言ってる。これが堀先生の(ii)の「読みの多様性」についての反論。先生は「メディアのメッセージは一義的ではなく、解読は多様である」って認めるんだけど、「しかし、こうした反論は、メディアの影響力を低く見積り過ぎではないだろうか」という。これはわかりにくい。

「人の心を深く傷つける表現に責任はないだろうか。メディアは大きな力を持つのだから、人生に大きな負の影響を与える可能性に敏感でなければならない。」

「差別と感じない人もいる」という意見によって、不快に感じている人は我慢を強いられるし、どのような表現が誰にとって不快なのか、という議論の糸口が閉ざされしまうことにもなる。」

ここのところで、堀先生はとんねるずの保毛尾田保毛男のコントをもってきている。あれは(私が見るかぎり)たしかに(実は新しい方は見てないのだが)差別的で、ゲイの人々を傷つけている。2000年代には通用しない表現だろう。(見てないけど)ゲイの人々の容姿や行動を笑い者にしたりするというのはステレオタイプ偏見をあらわしているし、明確に差別的であり侮辱的だろうと思う。まあ私とんねるずの笑いは嫌いなので見たくない。

しかし堀先生はとんねるずをもってきても、もとのルミネやユニチャームやキズナアイがどうなのかってのは触れないわけよね。これはあんまりよくない論法だと思う。論点ずらしとかレッドヘリングとか呼ばれている誤謬推理・詭弁だと思う。フェミニストの表現批判に対して問われているのは、ルミネやキズナアイが差別的であり、とんねるずのコントのように 人をひどく傷つける表現であるのか 、ということであるのに、それに答えるのを回避している。

フェミニストに対する反論者たちは、「解釈なんでさまざまなんだからなにも批判なんかできない」とかっていうタイプのラジカルな相対主義みたいなものを採用しているのではない。あくまで「キズナアイが差別的だと指摘されるのはなぜなのか」ということのはずだ。たしかに人を傷つける表現は存在するし、そうしたものは解釈はそれほど難しくない。問題は、もっと微妙な個別の表現が本当に人を傷つけるものと言えるのかどうかだ。

というわけで、この(ii)のところの堀先生の論法は私は認めません。

(iii) 表現の自由

(iii)は「どういう表現も表現の自由だ」っていうタイプの反論。

これにたいしては、「メディア表現は多くの人の目に振れることが目的の一つとなっており、そうした公共性を持つものが、性差別的であることは目を閉じてすむ問題ではない。」「求められているのは、情報制作者側の女性表象に対する考慮である」

「ヘイトスピーチ禁止条例に見られるように、表現の自由はどのような表現も無条件に認めるものではない。表現の自由は守られねばならないが、ヘイトスピーチのように他の人権と衝突する場合には制限を受けざるをえない表現があり、表現の自由には制約があると考えるべきであろう」ここはまあOK。細かいつっこみは可能だけど余計だろう。

(iv) 公共性

「アイキャッチャーの多くに若い女性が登用されることへの批判に対し、「若い女性がアピールした方が商品は売れる」「若い女性に魅力を感じるのは生物としての本能」といった反論がなされる。」

「本能」はやめましょう。本能撲滅委員会を結成してほしい。まあ「人間の本性的な傾向」ぐらいならOK。この、魅力的な男女をアイキャッチに使うというのは、たしかにルックスが魅力的な男女は人目をひきやすいし、好意的な対応をされやすい人間の本性みたいなところを利用していると思う。そして、魅力的な男性より魅力的な女性の方がはるかに多いように思う。これはいわゆるエロティックキャピタルの話に関係があって、そのうちいろいろ議論してみたいと思っているけど今回はパス。

さて、堀先生は「行政広報は「特定の意図をもったり、特定の対象者だけに行ったりする広報は許されない。あくまで行政広報はサービスの公平な提供のために行うもの」っていうのを引用し、「したがって、PRターゲットを男性に限定することは、サービスの公平な提供に適っていないといえる」と言う。

これも論点がずれているように思う。へんよね。(確認してないけど)これはたとえば福祉サービスを提供の広報をするときに、サービスを受ける人のなかの一部の人だけに向けた広報をしてはいけませんよ、ってことだろう。しかし今回はそのタイプの「行政広報」の話をしているのではないはずだ。論点相違・レッドヘリングだと思う。

たとえば碧志摩メグは男性に対するサービスなのかというとそうではなく、(せいぜい)メグを餌にしてオタ男性の注目をひいて知名度を上げ観光客になってもらおういうもので、別にサービスを提供しているのではない。またユニチャームも人工知能学会もキズナアイもそうしたものではない。

一番その雰囲気のある宮城の壇蜜先生のCMでさえ、男性だけにサービスを提供しようというものではないように見える。壇蜜先生が亀をなでるところを鑑賞させてくれるなら行くという男性はいるかもしれないが。むしろ、当時人気の壇蜜先生を使って下品な広告をして話題になろう、という意図があるように見えた。まあ下品であることは認めるけど、そうした壇蜜と下品なセクシーさとの組合せがおもしろいと制作者たちは考えたのだろう。下品だ。下品ではあるが性差別なのかというとよくわからない。

「特に、性的な表現は、女性の人権からは、肌の露出の程度だけが問題とされているのではなく、女性を「トータルな人間存在としてこの世界に生きる者」として明確に把握しようとしているかどうかが重視されている。」

これは加藤春恵子先生の「性別分業批判・らしか固定批判・性的対象物批判」という文章の引用なんだけど、まずそもそも壇蜜以外に話題になっている広告等は、「性的な表現」と呼ぶようなものではないので、突然こうした引用があらわれて。さらに、ルミネもユニチャームも「トータルな人間存在としてこの世に生きる者」として見てると思う。あれがトータルでなければトータルな人間存在として描くというのがどういうことか私にはわからない。

ちなみにこの加藤春恵子先生の文章はクリアでおもしろいので一読してみるとよいと思う。谷崎潤一郎〜市川崑先生の映画『鍵』が女性の「性的対象物化」「性的モノ化」の典型例あるとして批判している。あれはまさに道徳的に怪しげなモノ化の典型だからこそ芸術になっているわけなので、興味深い論説だと思う。

とにかく、私は堀先生のこの(iv)も受け入れられない。もっとも、公共的な団体は私企業より性的に魅力的な表現を避けるべきだというのはありえる主張かもしれないので、その理由をもうすこしつめてもらえるとよかったと思う。

萌え絵の特殊性

萌え絵については堀先生は特に節が設けて論じていて、これはえらい。萌え絵をどうしようが被害者がいないって言われるけど、「表現される女性イメージと現実の女性は無関係ではなく、イメージが参照されている。」これはOK。

「キズナアイは、舌足らずな喋り方や上目遣いの「接待モード」で表現されている。それが女性らしさや可愛らしさに結びつけられている記号であるからこそ、そうしたイメージを女性キャラクターが再生産していることが批判の一端となっているのである。」

このキズナアイの評価はオタの人達が反論したところよねえ。かなり反論されたからここでは触れない。でもまあキズナアイがかわいいっていうのは認めていいと思う。そして萌え絵の「コード」とやらの話が出てて、先生は次のように指摘する。

「そうしたコードやコンテクストに親しんでいない人にとっては過激な表現と感じられるものが、制作者やファンには自然化されているため「性的なもの」と認識されないことがある。」

この堀先生の論文2019年7月出版で、その前の年の12月の学会の発表をまとめたものだと思うんだけど、私知らなったのよね。「コード」の話をした小宮友根先生はこの論文ポイントしてくれてもよかったかもしれない。あの界隈の人々のあいだでは、「萌え絵コード」みたいなのが共通理解なのかもしれない。私はなんかそういうのうたがわしいと思ってんだけど。

「また、イラストはデフォルメの技術(意図的な誇張)が使用されるため、かわいい・優しい・甘えている・従順・無知といったジェンダー・バイアス表現と性的表現が重なり、女性性の表現が過剰になりがちという特徴がある。」

「萌え絵をPR等に使用する場合、コードとコンテクストが共有されている狭い領域から、コードとコンテクストが共有されない公的領域への進出がなされるという点に注意が必要だろう。」

ここの堀先生の指摘はたしかにおもしろいと思う。えらい。SNSの女性を使った表現で炎上するケースでは、たしかに萌え絵(私この言葉あんまり好きじゃないので「アニメ絵」ぐらいにしたいんだけど)にまつわるものが多くて、ああしたアニメ的表現には、生身の女性をつかったものとはちがうタイプの問題があると多くの人が考えているだろう。

キズナアイに代表されるアニメ・AIキャラたちは若い女性の姿を使うことが多い。これはやはり、我々が若い女性が好きだからだと思う。我々というのは我々高齢者男性という意味ではなく、もっと広く、女性も男性も若い「かわいい」女性が好きなのだと思う。

以前は、「そうしたものは男性が金と権力をもっていて主要な消費者だからだ」と説明されたわけだけど、そろそろ見直してみたらどうだろうか。

フェミニストの先生たちはよくこの社会は男性中心的だというんだけど、実際には現代社会は非常に女性化 feminize されていると思う。マンガやアニメのファンは男女を問わず多いんだけど、最近は「けいおん!」や「ガルパン」その他、主人公たちは若い女子ばっかりで、もう男子はアニメ世界からは死滅したんではないかというほどだと思う。男子主人公たちもイケメン中心で、表現が女性化されていると言えるように思う。歌謡アイドルたちもやはり女性の方が優越していて、女性ファンも多い。女性的な魅力や発想・行動などが非常に肯定的に描かれているわけなのよね。こういう意味で現代社会は女性化され、またセクシー化(sexualize)されていると思うので、社会学者の先生たちは「男性支配!」みたいな固定的な発想を見直して、女性化・セクシー化された文化というものを批判的あるいは肯定的に見たりしてみてほしいと思う。

まあここはもっといろいろ議論できそうなところで、とにかくとっかかりを作っている堀先生はえらいと思います。みんなで議論しましょう。

残り

ここまでが本論で、残りは、こうした表現の問題は「人権問題です」っていうのと、「声をあげた女性への侮蔑は男性に比べ、はるかに多い」のでたいへんだっていう話。

女性イメージには、作り手と受け手が共有しているジェンダー規範が反映されている。商品PRと女性の”若さ”のつながりが当然視されていたり、女性が教わる側でしかなかったり、女性の身体の一部がクローズアップされるのぞき見的なカメラワークが多用されたりする描写などは、性差別的社会を映し出すものだ。ジェンダーは構造的な問題であり、社会に深く埋め込まれているからこそ、意識しなければ自由になりづらい。

女性の「若さ」というか、若い女性が魅力的だから使われるという話よね。問題は、「ジェンダーは構造的な問題である」というのと「ジェンダーは人権問題である」っていう表現が、フェミニスト以外にはわかりにくいことだと思う。短い論説だからしょうがないけど。

よく「構造的な問題だ」「構造を見ないと」ってな話を聞くわけですが、これ紋切り表現になってしまっていて、私は具体的にどういう話なのかよくわかないのです。一つの理解は、「男性が金と権力を独占しているから、女性はそれにしたがわざるをえず、そのためにかわいくしたり化粧したりするのだし、メディアでもそうした女性を使用するのだ」とかそういう話だと思うんだけど、これはかなり疑わしい主張だと思う。論じるとかなり長くなるしまだよくわからないので先送り。

「人権問題だ」というのも紋切りで、言おうとしているのは「人間の平等に反する」なんだろうけど、どういう意味で平等に反するかはやはり議論が必要だろうと思う。まあこういうのは根本的な話なので、堀先生がこういう書き方をしているのは今回はしょうがないと思う。この「構造」と「人権」の話もみんなで議論してつめていきたいですね。

堀先生の残り一つは、「声をあげた女性への侮蔑は男性に比べ、はるかに多い」「SNSは物を言う女性が女性であるがゆえに差別を受ける現場である」ために、「言論の自由市場」はあまり有効でない、という指摘。

女性ツイッタラーに対して、論点と関係のない侮蔑をする人々とかはたしかにいて、非常に下品であり不道徳だと思う。しかし「女性への侮蔑がはるかに多い」かどうかは微妙に思える。たしかにフェミニスト女性に対するツイッタとかでの侮蔑や罵倒はひどいものがあって、ああいうのはやめるべきだと思う。ただし、そうした侮蔑や罵倒する人々は、男性にも同じようにそうした表現を使う人々だと思う。政治的な対立があると侮蔑的な表現や攻撃的な表現を使ってもかまわないと考える人たちがいるようで、これもやはり男女ともに存在する。そうした下品で不道徳な発言をする人々をどう扱うか、というのはやはりむずかしい問題だと思う。ツイッタ社のようなところが、一定の基準をもうけて凍結などをするのは私はやむをえない派。しかし、あんまりやりすぎないように寛容であってほしいとも思うわけです。

まとめ

ってなわけで、この堀先生の論文はとても勉強になるので、入手できる人は入手して検討してほしいですね。えらい。

途中で出てきた加藤先生の文章が再録されているのはこれ。

2020/3/21 (土) セックス哲学懇話会やります

コロナでなにも予定がなくなって暇だという声があるので、ヒマならごろごろしてりゃいいわけですが、ゴロゴロついでに3/21に京都でセックス哲学懇話会を開こうと思っています。単にその分野に興味ある人間が集まってネタをしゃべってみるだけ、というものです。今年度の自分たちのセックスと哲学について反省し(「自分たちの」は「セックスと哲学」にかかります)、来年に向けて計画したりもします。希望者は twitterのeguchi2020 か eguchi.satoshi@gmail.com に連絡してください。場所はおそらく京都女子大S校舎のどこか、2時から5時ぐらいの予定。いまのところの予定話題は

  • ながと先生の「ロバートソロモン先生のセックス快楽の話はステキだ」という話。Robert Solomon, “Sexual Pradigms”の話かな?
  • あいざわ先生のウーマンリブと中絶あたりの話
  • 江口の「応哲で性的な表現の話することになってるけどどうしたらいいだろう」という相談。宇崎ちゃんとかあそこらからんでしまってあれだった、という話も?Mari Mikkola先生の議論はどうなんですか、Haslanger先生はこわすぎませんか。
  • 江口の「ことしは生涯学習講座でルソー・ウルストンクラフト・ヒューム・カント・ショーペンハウエル・ミル」ってやったけど、これは許されるだろうか、専門家から非難されたときどうお詫びするべきか」
  • 翻訳や出版の企画ってどうするんだろう?
  • セックスの哲学を学部生にどう教えるか問題のつづき

などです。