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宇崎ちゃん問題 (8) しかし、「理解を生む」だけは許さん!

まあ「理解」を理解するのはむずかしい。私もよくわかっていない。

でもぜったいに許せない表現があるわけです。「理解を生む」これは許せない!1)「誤解を生む」はもちろんOK。「共通理解を生む」はありえるけど、それならそうと書くべきだと思う。「〜という理解を、社会に生む」とかならぎりぎりOK。誰がなにをしているのかわからない、っていうのは許せない理由です。また、「通念を生む」「偏見を生む」でもいいのかもしれない。しかしそうなると「理解」の意味も考えなおさないとならない。

「こうした技法はやはり性的な鑑賞のために女性を用いていると言えますが、同時に商品や物語とは関係のないところでそれをおこなっている点において、商品や物語を単に装飾するためだけに女性を用いているという理解も生むでしょう」

理解を生む、って誰が生むのよ。主語は「こうした技法」ですか?「こうした技法」が「理解も生む」の?どこに生むの?とりあえず主語はなんなの?

「こうしたメタファーは、あからさまではない仕方で女性を性的な鑑賞のために用いているわけですが、あからさまではないがゆえに、性的ではない(あるいは性的である必要がない)状況においても「性的客体としての女性」という考えが前提とされているという理解を生むでしょう。」

「こうしたメタファー」が「理解を生む」の?誰が生むの?どこに生むの?とりあえず主語はなんなの?

「もちろん現実には、「意図しない/望まない性的接近」はそれを受ける女性にとってはエロティックであるどころか侮辱的で侵害的なものです。にもかかわらず、それをエロティックなものとして描くことは、女性の自律性、主観性を無視して性的な鑑賞のために用いているという理解を生むでしょう。」

「エロティックなものとして描くことは」「理解を生む」の?主語はいったいなんなの?

こんなのおかしいっしょ。誰のものでもない「理解」とかって抽象名詞つかってるからこういうわけわからん文章になる。「Aさんは〜と理解するようになる」ってふつうの文章で書けばこんなわけわからんこと言う必要がない。こんな文章を「明晰」「わかりやすい」とかって評価している人はいったい何を見てるのですか!

こんなふうになるのは、「理解する」っていうことがどういうことかよく考えないままに、抽象的な「理解」っていう言葉をひとりあるきさせ、それが誰の理解や思考であり、何が誰の思考にどういう影響を与えるかも考えたことがないからじゃないんですか。あるいは、もしこういうのが意識的で意図的なものであるならば、はっきりふつうの言葉で書くと、奇妙なことを主張しているのがはっきりしてしまうから、抽象的で曖昧な書き方しているんではないですか。これでいいんですか。これは小宮先生ではなく、あの文章読んで、なにがしかのコメントができると思ったひとびと全員に聞きたい。

好意的に、好意的に、最善の相で

泣きべそかきながら好意的に読むと、最初の一文は、「こうした技法はやはり性的な鑑賞のために女性を用いていると言えます。同時に商品や物語とは関係のないところでそれをおこなっている点において、こうした技法は、商品や物語を単に装飾するためだけに女性を用いていると私たちに理解させるようになるでしょう」かな?でも技法が主語になってるの気になるから「技法を使う人々は」とか「技法を使うことは」ぐらいにしてほしい。

そして、こうしてはっきりしてみるとここで、そうした技法や、その意味に気づかない人は、「そうした技法が女性を単に装飾のために使っていると理解するようになる」ということはないはず。おかしいじゃないですか。おかしいっしょ?

 

ふたつめは、「こうしたメタファーは、あからさまではない仕方で女性を性的な鑑賞のために用いています。そして、あからさまではないがゆえに、こうしたメタファーには、性的ではない(あるいは性的である必要がない)状況においても「性的客体としての女性」という考えが前提とされていると私たちに理解させてくれるでしょう」かな。これでも正確ではなく、できれば、「メタファーを利用する作家は女性を性的な鑑賞のためにもちいています」あるいは「メタファーの利用は、〜」と表現してほしい。これもさっきと同じようにおかしい。メタファーに気づかないひとはそういうものだと理解できないはずだから。

だから「こうしたメタファーには、性的ではない(あるいは性的である必要がない)状況においても「性的客体としての女性」という考えが前提とされているといえるでしょう」ぐらいなわけだ(先のも同様)。んじゃ、キーワードの「理解」はどこいくのよ。

 

三つめは「もちろん現実には、「意図しない/望まない性的接近」はそれを受ける女性にとってはエロティックであるどころか侮辱的で侵害的なものです。にもかかわらず、それをエロティックなものとして描くことは、女性の自律性、主観性を無視して性的な鑑賞のために用いているといえるでしょう」か?

技法やメタファーが理解を生む、っていうのはほんとうにわかりにくい。「それらを使うことが〜という理解を生む」ぐらいだったらまだましかもしれないけど、けっきょく抽象名詞を主語にした無生物主語みたいなのをたくさんつかうと文章はどんどんわかりにくくなっていき、なにを主張しようとしているのかわからず、したがってなにを確かめたり反駁したりしたらいいのかもわからなくなる。

とにかく、ここのところの「理解を生む」はほんとうに混乱させられてものすごく不愉快でした。私がおかしいのでしょうか。

はあ、メタファーが、理解を、生みましたか、はあ、そらおめでたい、いや近所の猫もね、猫を生んで、まあその、それと似たものですか。


追記(12/21)

しばらくして、小宮先生の「理解」が可算名詞のunderstandingに対応するということに思いあたりました。Cobuildだとこう

 

 

 

 

 

この意味だと、同義語に出てる「信念」とかの方が日本語では適切ですね。誰の信念であるかという問題はまだ解決されないけど。

 

References   [ + ]

1. 「誤解を生む」はもちろんOK。「共通理解を生む」はありえるけど、それならそうと書くべきだと思う。「〜という理解を、社会に生む」とかならぎりぎりOK。誰がなにをしているのかわからない、っていうのは許せない理由です。また、「通念を生む」「偏見を生む」でもいいのかもしれない。しかしそうなると「理解」の意味も考えなおさないとならない。

宇崎ちゃん問題 (7) 「理解」を理解するのはむずかしい

んで一番面倒なのが、「理解」とか「意味づける」って言葉で、この二つにはほんとうに苦しみました。

「理解」

まず「理解」から。小宮先生の典型的な表現を抽出してみるとこんな感じです。

 「表象に対する理解の齟齬」
「「悪さ」の理解」
「表象の理解」
「表象はその抑圧の経験との繋がりの中で理解される」
「女性差別の歴史と現状に照らしてその表象が理解される可能性が出てくる」
「女性の描き方の中で「女性は性的な客体……である」という女性観が当然の前提とされていると理解できるかどうかだ」
「具体的にどのような描き方をするとそうした理解が生じるのでしょうか」
「「性的客体としての女性」という考えが前提にされているという理解を生みやすい表現」

表象つまり表現物・作品を「理解する」っていうのはどういうことなのか、「ある絵画がどういうメッセージを伝えているかを解釈する」ぐらいだと、まあ絵画がメッセージを伝達するものとして解釈を必要とする、というのはわかります。でもこれも難しいですよね。

ふつうに「理解する」とは

まず、ふつうの意味で理解するってどういうことなのか。

  • 「太郎は地球が丸いと理解した」

これはOKです。地球は(おそらく)事実として丸いので、それを把握するということです。地球上を一方向にまっすぐに歩いていくと、いずれもとの場所に戻るであろう、ということもわかります(あれ、どっちに行っても戻ってくるよね)。

  • 「太郎は地球が平らだと理解した」

これはなんか微妙。「太郎は地球は平らだと誤解していて、そのため皆からフラットアーサーと呼ばれている」ならわかる。「古代人は地球は平らだと理解していた」は微妙だけどOK。

まあこういうふうに「理解」や「誤解」を使えるのは、「地球が丸い」という事実があるからですわね。それがわかってれば理解しているし、わかってなければ誤解している。

単純な文章の場合は、理解とか誤解とかっていうのはわかるわけですわ。

「意図を理解する」のようなものになるともうすこし複雑になる。

  • 「花子が「あなたのことは人間としては好きよ」と言ったのを、太郎は交際の拒絶として理解した」

まあ花子さんは太郎さんに人間的な魅力を感じてはいるものの、性的な魅力は感じないので、交際やセックスをおことわりする意味で「人間としては好き」と発言し、太郎はそれを正しくセックスの拒絶として理解した。こういうのはよくわかる。

 

表現物(表象)を理解するというのはどういうことか

でも、こうした発言や文ではない表現(表象)を理解するっていうのはどういうことだろうか。だって、絵や写真がなにか文あるいは命題に相当するようなものを表現しているかどうかっていうのは、かなり難しい問題ですもんね。

前エントリで例にあげた、フラゴナールの「ぶらんこ」が、助平な若い貴族男子と若くて陽気な既婚女子の浮気やセックスを描いていて、陰になっている貧相な年老いた旦那らしき人物も公認、みたいなフランス貴族社会を描いている、ぐらいは私にもわかる。しかしどういうメッセージなのか、とかいわれると難しい。フラゴナールは「どんどん浮気してセックスしましょう」っていってるのか「若い嫁さんもらったらブランコぐらいこいであげないといけません」と言ってるのか、「助平な貴族が偉そうにして人妻に手をつけているいるこの貴族社会を打倒せよ」って言ってるのかよくわからない。なにを理解したときに理解したと言えるのだろうか。フラゴナールの絵の寓意を理解することが「理解する」なのか、たんにその美や技巧を味わうだけでも十分なのか。

ある絵画や写真が何を伝えているかを「正しく」理解する正しい方法というのはあるのだろうか、とかそういう疑問が浮かびます。小宮先生は「表象の理解」とかって簡単に書くわけですが、図像表現をそんな簡単に理解できるものなのか。なにをすれば理解したことになるのか。「着衣のマハ」やベートーヴェンの第五交響曲(ジャジャジャジャーン!)理解するというのはどういうことなのか、わたりにはよくわからないのです。

ピカソの「草上の昼食」の意味を理解するとは?

「理解」じゃなくて「解釈」ならわかる。「ぶらんこ」を解釈するというのは、あの絵から、いろんなメッセージや諧謔や皮肉や美や快楽を読みとることだろうと思う。それらそれぞれはかならずしも命題(平叙文)の形にはならないかもしれず、単に「経験する」という表現しかできないかもしれない。

まあ、「「ジャジャジャジャーン」は運命が扉を叩く音である」とかって通俗的な解釈を知り、それに納得することが、あの曲を「理解する」ことだなんて立場には立てないし、また「ぶらんこ」は貴族社会での浮気の肯定を意味している、なんて解釈もくだらないと思う。んじゃ「表象を理解する」ってなんなのよ。

「裸のマハ」や「ウルビーノのヴィーナス」はいったいなにを「意味」してるんですか。絵にそんな「意味」なんてあるんですか?私がどういう状態になったら「理解した」ことになるのか、そういうのさっぱりわからず、そうした疑問を抱くことなく「表象を理解する」みたいな文章を書く、っていうのには反発をおぼえます。(似てるのは「人生の意味を理解する」みたいなやつですね。こういうのはけっきょくなんらかの比喩的な表現にすぎないのではないかと思う。人生の意味ぐらい私が教えてあげます。それはタンパク質です。理解しましたか?ははは。)

好意的に読むようにがんばりましょう

でもがんばって好意的に解釈しましょう。社会学者の先生たちは、「理解」っていう言葉をかなり独特に使う傾向があるみたいなんですよね。私はよくわからないんですが。

どうもunderstandというよりは、ドイツ語のVerstehen、みたいな印象。単に知的に文を理解するというよりは、「了解する」とか「十分な意味で理解する」とかそういう言葉をあてないとならんような。

たとえばまだ地球が丸いという事実を知らない部族が存在していて、その部族のメンバーは「大地は平らであり、ずっと行くと滝のようなところがあって落ちてしまう」と信じていて、旅をするのを恐れているとする。これを「彼らは地球は平らだと誤解している」のように表現するのはなんか、我々地球が丸いことを知ってる人々の特権的な判断であって傲慢だ、みたいな発想はあるわけですわ。彼らにとっては大地はまさに平らなものであり、そうした世界観とともに彼らの大地は平らだという信念を「理解」しないとならない、みたいな形になるんですかね。

つまるところ、われわれが「事実」と(個々の人々、あるいは社会全体での)「解釈」、みたいに分けちゃうのはあんまりよくない、みたいな発想。我々の知識や信念のすべては「解釈」なのだから、そうしたものはすべて「理解」と呼んでかまわんのだ、みたいな感じの発想はあるかもしれない。

実は、ミル先生の『論理学体系』第5篇第4章におもしろい個所があるのです。

(訳文は久木田水生)

漢方薬屋は病気や症状を漢方の理論にあわせて記述し理解し治療しようとする。ふつうわれわれは見たものをそのまま信じているのではなく、感覚に与えられたものを、自分がすでにもっている理論のようなもののレンズを通して経験する。見たままではなく、すでに推論(思考)が入ってるわけです。

 

この画家の訓練の話とかも、いま扱ってる話題と関係していておもしろいですね。

まあ小宮先生の「理解」って言葉の使いかたから離れてきてしまってますが、そんな簡単に、制限つけないで「理解理解」ってくりかえしたり、「理解可能性」っていう聞きなれず、それだけでは門外漢にはどういう意味かわからない言葉や概念をふりまわされるととても困りが発生するわけです。

 

 

追記。次のエントリに書きましたが、小宮先生の「理解」は可算名詞のunderstandingかもしれない。つまり「信念」とか「意見」とか「解釈」とか、そういうの類義語。「誤解」と対になる「理解」ではない。とすると、日常的な「理解する」っていう動詞と、こうした特別な「理解」=信念、解釈をいっしょに使われると混乱しますよね。

宇崎ちゃん問題 (6) 「コード」ってなんだろう

小宮先生の岩波『世界』の方の論説では「コード」が出てきます。これもわたしわからん。

ここからゴフマンは、写真にうつる人物の性別が男女どちらであるか、職業が何であるか、何をしているのか、他者に対してどんな役割を負っているのかといったことを、私たちが瞬時に理解するために用いられるある種のふるまいのコードを読み取っている。

この文章はとても読みにくい。「私たちは、写真にうつる人物の性別が男女どちらであるか、職業が何であるか、何をしているのか、他者に対してどんな役割を負っているのかといったことを瞬時に読みとる。ゴフマンはそのために用いられるある種のふるまいのコードをここから読みとっている」かな?悪文です。

まあそれはおいといて、この「コード」わかりにくいと思うんです。わかりにくくないですか?「コード」はふつうは(1) 規則、慣例、法典、(2) 記号・暗号、(3) 符号体系の三つぐらいの意味があると思うんです。ゴフマンの『ジェンダー広告』のcodeは、はっきり(1)のふるまいの「規則」のはずです。「記号」ではない。(『ジェンダー広告』も原書Gender Advertisementも入手しにくいので、ちゃんとした論拠はちょっとまってね1)たとえば、英語版の”codes of gender”のwikipediaで、ゴフマンとともに何回か参照されている Morris & WarrenのThe Codes of Genderだと、codeっていうのはみんなが共有しているもの:規則のセット、ふるまいのコード、の短縮形だってはっきり書いてある。。)

ツイッタでのジェンダー関係の話になると「〜コード」とか言う人々がいるんですが、そういうの見たら「それって規則?それとも記号?」って聞いてみてください。

小宮先生の『世界』の文章に戻ると、「コード」の前にポロック&パーカー先生の「記号」の話が出てきててさらに混乱しやすいんじゃないかと思います。先生はポロック先生とゴフマン先生の話が同じようなことを言ってる、って主張しているように見えるから。でもそんなに同じだろうか。

小宮先生が引用しているポロック先生のを再引用すると、

ここで必要なのは、絵画とは記号の組織体だという認識である。一枚の絵を組み立てる特定の記号についての知識をもち、かつ文化的・社会的記号について熟知している、この二種類の知識をもって見る者が読んだ場合に、意味を発揮する記号組織が絵画である。

でもこれ、実はこうです。わかりやすいように、前後もちょっと拡大しますね。

芸術作品のなかに描かれた女性のイメージには、現実社会の女性が、よし悪しは別としてそのまま反映されていると見るのは、われわれが陥りやすい罠である。ここで必要なのは、絵画とは記号の組織体だという認識である。一枚の絵を組み立てる特定の記号についての知識をもち(つまり画面上の線と色彩を、描かれている対象物をかたちづくるものとして読解できる)、かつ文化的・社会的記号について熟知している(つまり描かれているものがもつ象徴的レベルの含意を読解できる)、この二種類の知識をもって見る者が読んだ場合に、意味を発揮する記号組織が絵画である。芸術は社会を映す鏡ではない。社会の諸関係をいくつもの記号からなる図式にして伝え、提示しなおす(re-present 表現する)のが芸術であり、それらの記号が意味あるものになるには、読解力をもち、一定の条件を備えた読み手が必要である。このような記号が含意する、多くの場合意識されない意味のレヴェルにおいてこそ、家父長的イデオロギーが再生産されるのである。(翻訳 p.184)

ポロック先生たちの「記号」が、英語でなんであるのかまだわからないのですが(手配中)、「象徴的レベルの含意」を含むような描かれている物、人物、服装、持ち物(アトリビュート)、背景、構図、その他ですかね。

たとえばフラゴナールの「ぶらんこ」2)実はこの前ゼミで学生様がレクチャーしてくれた。ではいろんなものが描きこまれていて、たとえばスリッパ(左上)、たとえばイルカとキューピット像(中央下)、それらの物がどれもエロティックな含意を伝える「記号」になってるわけですわね。こういうのを解読できるようになると楽しい(中野京子先生の『怖い絵』とかどうぞ)。しかし、これって、ゴフマン先生の「ふるまいの規則」としての「コード」とはずいぶんちがうもんなんちゃうんかなあ。これ、最初から「コード」じゃなくて「ふるまいの規則」って書いてたら、読者は「あれ、それって同じ話なの?広告とかに描かれるふるまいの規則と、絵に描かれる記号って、たしかに近い話みたいだけどちょっとちがうもんじゃないかな?」って思うと思うんです。どう思います?ていうか、せめて「ふるまいのコード、すなわちふるまいの規則が」とか書いてくれてもいいと思うんです。

(この話は続きがあります→ 宇崎ちゃん問題(11) 「コード」と「記号」のその後

 

 

 

References   [ + ]

1. たとえば、英語版の”codes of gender”のwikipediaで、ゴフマンとともに何回か参照されている Morris & WarrenのThe Codes of Genderだと、codeっていうのはみんなが共有しているもの:規則のセット、ふるまいのコード、の短縮形だってはっきり書いてある。
2. 実はこの前ゼミで学生様がレクチャーしてくれた。

宇崎ちゃん問題 (5) 「表象の「悪さ」」の「悪さ」がわかりにくい

小宮先生の文章(『世界』のと『現代ビジネス』のの両方)では、「表象の「悪さ」」とかそういう表現が頻繁に出てくるのですが、この「悪さ」っていう表現にも私はひっかかってしまう。これはかなり面倒な事情があって、ちょっとここでは簡単には説明できないのですが、いくつか私の「困り」を説明しておきたいと思います。

どういう種類の「悪さ」か:それは「道徳的な悪さ」か?

「表象の悪さ」っていわれたときに、ある表象(つらいので、以後表現とか表現物とか書くことにします)が悪いことがある、ってことを言ってるのはもちろんわかる。問題は、その悪さというのはどういう種類の悪さかということです。人を殴るのは悪い。これは道徳的に悪い。道徳的に悪いというのがどういうことかというのもこれまたむずかしいのですが、人を殴るのは悪いので、殴るのをやめるべきだというのは当然として、さらに、人を殴るのは避けるべきだ、人を殴った人は罰されるべきだとか、非難されるべきだとか、被害者にあやまるべきだ、場合によっては賠償するべきだ、反省するべきだ(自責の念に苦しむべきだ)、とかまあそういうことを意味しているとここでは解釈することにします。道徳的に悪いというのは、単に「悪さ」という性質がその対象の物や行為に付随している、といっているだけでなく、それが上のような指示・指図・命令や、非難や罰と結びついている、と私は理解しています。

でも「悪い」からといって、そうした命令や非難や罰と(それほど強くは)結びついていないタイプの「悪い」という意味もあります。

たとえば、「このワインは悪くなってる」ってときは、ワインがすっぱくなっていることを意味しているかもしれない。「これは悪いワインだ」ってときは値段のわりにおいしくないのかもしれない。 “I am a bad pianist.”って私が言うとき、私はピアノを弾くけど下手だということを意味していて、それを非難されたりピアノ弾いたら非難されたり罰されたりしなければならないっていうことを言おうとしているわけではない。「悪い絵」っていうのも、まあ下手な絵にすぎないかもしれない。罰を与えたり、非難しないであげてください。「あたなって、悪い人……いじわる……」「ワルい子だーっwww」っていうのはむしろモテてる。機能的に悪いっていうのもある。コンピュータのマウスの効きが悪いっていうのは別に罰を与えられたり非難されたりするって話ではないし、もちろんマウスに向かって「お前は悪い奴だ!罰を与えてやるっ!」って言う人はあんまりいない。ブレーキの効きが悪い車運転して人ハネてしまったら当然非難されますが、それはまた別の話。

っていうわけで、「悪い」っていう言葉を使う場合は、「道徳的に悪い」とか「宗教的に悪い」とか「美的に悪い」「道具として悪い」とかそういう限定をつけてほしいわけですわ。小宮先生の文章はまったくそういうのがないので(実は小宮先生だけでなく、社会学系統の人々の文章にはそういうよく見かけるのですが)、非常に困りが発生しつらみが増加するわけです。

とりあえず「表象の道徳的な悪さ」とかそういう表現の省略形だと読むことにします。だって道徳的な評価をしようとしているように見えるから(あとで議論するかもしれません)。「政治的な都合の悪さ」「フェミニストにとっての都合の悪さ」の可能性があるけど、おいておきます。

「悪さ」と「不正」

悪い、ていうと英語だとbadだろうと思うんですが、英語ではbad(悪い)とwrong(不正な)っていうのはちとちがった概念・観念なんですよね(概念とか観念ってなんであるかは尋ねないでくださいすみませんすみませんよくわかってません)。「よい」 goodはgood – better- best って中学校で習ったように比較できる。bad – worse -worstです。badderとかbaddestとかだめですからね!

一方、正しい right や 不正な/(道徳的に)まちがっているっていう意味のwrongは、right – righter -rightestとか、wrong – wronger- wrongestとかならない。「よい/悪い」と「正しい/不正な」はちがうのです。(morally) rightや (morally) wrongは、ある(道徳的な)基準を適合しているか否かについての判断なんですね。

小宮先生が参照しているイートン先生の論文のタイトルは、 What is wrong with (female) nude? で、ヌード絵画の不正さについて考えているのであり、その単なるよしあしではない。

でもまあこの「よい/悪い」と「正/不正」のちがいっていうのはかなりむずかしいもので、先年おなくなりになった高名な倫理学者の大庭健先生の『善と悪』っていう岩波新書とかでもちゃんと区別されてなかったですね。。でも倫理学者にとってはけっこう大きな区別なので、そういうのないのにはがっかりしました。だからまあ、倫理学者以外の人にはなおさらしょうがないのかもしれない

悪さはどれくらい悪いのか

よしあし、善悪っていうのはさらになかなか面倒なんですわ。機能的なよさ悪さ、美的なよさ悪さ、道徳的なよさ悪さ、宗教的〜っていろんな種類があるのと同時に、よし悪し、善悪には程度の問題もあります。さっき「悪い(下手な)ピアニスト」bad pianistの例を出したけど、このbadは道徳的なバッドではなく芸術的あるいは技術的なバッドで、誰かと比較するための形容詞ですわね。下手なピアニストでも弾くのを禁止するべきだってなことにはならないし、上手いピアニストがいなければ下手なピアニストで我慢しなければならないときもある。そういうときは「しょうがないからお前が弾いて」って頼まなきゃならないときもあるでしょう。

これ、単に比較の問題っていうのでもないのです。問題は、「悪い」が、我慢できる/あるいは中立の水準(仮にレベル0とする)よりも上での高低の問題なのか(+10と+3の比較)、あるいは中立の水準以下(-20)を指すのか、っていうのが曖昧であることですわね。「この表現物は悪い」というとき、それはその表現物が存在しない方がよいということなのか(-20)、それとも期待されるものほどには到達していないということなのか(期待が+20だとしたら+5しかない)、ってことですわ。

小宮先生の「表象の悪さ」っていう書き方からすると、なんかマイナス表現があると言ってるように見えるんだけど、それでいいのかどうか。道徳的にマイナスの表象ってのがあるとすれば、そういうものは存在しないほうがよく、ポスターが貼ってあったときに(可能なら/他の条件が同じなら)はがした方がいいし、場合によっては焼いた方がいいかもしれない。

「一応悪い」と「いろいろ考えた上で悪い」

仮に、小宮先生たちが主張しているのが「ある表象が道徳的に悪い」「道徳的な悪さ」であるとすると、またちがった解釈の問題もあります。それは、「一応悪い」(prima facie bad)(「とりあえず悪い」「他に特段の事情がないならば悪い」)のか「いろいろ考えた上で悪い」(bad all things considered)なのか、ってな区別です。悪い行為があるとします。たとえば、ふつうは人を縄でしばりつけることは悪い。こういうのを倫理学者は、「一応のところ悪い prima faicie bad 」と表現します。prima facieはラテン語で、「表面的には」って意味ですね。

でも、夜に暴れてベッドから落ちそうな老人が言うことを聞いてくれないときに、ケガを防ぐために拘束することがやむをえないときもあるかもしれません。「一応悪い」ことも、状況によっては許されることがある。この場合、上の話とからめると、縛りつけないでベッドから落ちないのは+20で、縛りつけてベッドから落ちないのは+2ぐらい、ってこともある。しばりつけるのは一応悪いえけどしょうがない、ってこともあるわけです。

一方、いろいろ考えたうえでやっぱり悪い、ってこともありえます。息子が犯罪を犯すかもしれないから殺す、とかっていうのは、いろんな状況を考えにいれても悪い。実際には殺さないかもしれないし、ちゃんとケアしたり、施設に入れたり、最善のことをすれば、殺す必要はないだろう。こういうふうに言えるなら、すべてのことを考えたうえで、総合的に悪い all things considered、って言えるわけです。

小宮先生がとりあげているポスターとかの話に関しては、これはわりとはっきりしてますね。仮に、女性をモノ化することが悪いことであるとしても、それはとりあえずは「一応悪い」にすぎない。他に考えるべきことがあるかもしれない。すべてを考えにいれるというのは、たとえばポスターの目的とか、それの社会的な効果や影響とか、ネットの騒動やら、もろもろを考えに入れた上で「悪い」ということなわけですが、小宮先生たちがそこまで考えているとは思えないから1)つまり、ポスターの宣伝効果その他の文脈を総合的に見て悪いと主張しようとしているわけではない、と解釈している。、以後は「悪さ」は「一応の悪さ」であると解釈することにします。

引用符に囲まれているのは意味があるか

小宮先生の文章で「悪さ」「悪い」を検索すると、ほとんど引用符(「」)に囲まれているわけです。この引用符には意味があるのかどうか。

上で書いたように、ふつうは「悪い」という言葉には禁止、非難、不承認、非推奨(おすすめできない)とかの意味があると広く信じられているわけです。もちろんその程度はさまざまだけど。素の「よい」「わるい」という言葉には、人の行動を指図しようとする力があるというか、まあ広いいみで推奨や命令を含んでいるわけです。

これは「よい」「わるい」だけでなく、価値や規範を含んでいる他の言葉についてもいえます。たとえば「下品」とか「野蛮」とかって言葉は、そういう形容されるふるまいとか行動とか表現はやめなさい、もっとちゃんとしなさい、っていう含意がある。

でも、人の言葉というのはおもしろいもので、ののしり言葉みたいな言葉でさえほめ言葉に使えたりする。「あいつはバッドな奴だ!」っていうのは道徳的に悪いやつだ、つきあうな、って意味なく、かっこいい、すごい奴だ、友達になりたい、ってことだろう。

それに単に「他のやつらはそう言ってる」っていう意味で「」にくくることもある。「あいつは「ヤクザな奴」だ」っていうのも、「」にくくってしまえば、ヤクザの特徴をもってはいるけどかっこいい、すてきな奴だという意味になるかもしれないし、他のやつはあいつを「ヤクザ」と呼ぶけど俺はよくあいつのいいところをわかっている、ってな意味になるかもしれない。

こういう「他人はそういうふうに言う」とか、あるいは特別な意味をこめて「」にいれるやつを倫理学者は「引用符用法」って呼んだりします。もともとの価値的な意味を失なってるんですね。まあ現代思想とかでも「」つけて特別な意味につかってて混乱するわけですが、あれですわ。

小宮先生がある種の表象とか表現の「悪さ」、表現が「悪い」ということについて、多くの場合「」をつけているのを見ると、私は小宮先生はその表象を本気で悪いと思っているのか、悪さがあると思っているのか混乱するわけです。なんで「」をつける必要があるのか。それはフェミニストが「悪い」って言ってるだけなのか、小宮先生もそれが悪いと思っているのか、そしてわれわれにそれが悪いものであることを説得しようとしているのかよくわからないのです。

さらに

さらに、小宮先生のように「Aは悪い」という表現でなく、「Aには悪さがある」みたいな表現を使うと、「悪さ」という独特の性質があるように感じられるわけですが、これはかなりあやしくて、われわれの思考を混乱させます。

プラトン先生なんかは、この世にあるものごとやおこないの「よさ」を説明するのに、それはイデア界という奇っ怪な世界に「よさそのもの」が存在していて、この世にあるよいものやよいおこないは、そのイデア的な「よさそのもの」を分有している/あずかっているのだ、みたいなことを言うわけですが、これは奇っ怪な発想だと思います(議論はしないけど)。

「A(たとえばある表象)の悪さを考えよう」っていわれると、「Aには悪さという特別な性質があるのだなあ」とか思ちゃうけど、実はたんに、我々が「Aは悪い」って思ってるだけかもしれない。そうなるとPさんとQさんがAについて悪さがあるとかないとか、そういう争いになるのかもしれない。

まあここまで来ると本当に面倒なメタ倫理学っていう面倒でテクニカルな分野の話になってしまい、たとえば佐藤岳詩先生の『メタ倫理学入門』とか読んでもらわないとならなくなるわけですが、そんな面倒なことをしなくても、とりあえず「Aの悪さを考えよう」とかっていう混乱しやすい表現をやめて、「なぜ我々はAを悪いと考えるか考えましょう」って表現してくれたら回避できるはずです。

すると「悪さ」について私はどう表現してほしかったのか

けっきょく、小宮先生の「悪さ」とかっていう表現について、そのまわりで「読みにくみ」みたいなのが存在していて、私のまわりで困りが発生しているわけなので、いっそのこと「読みにくみ」「困り」というもの(実在?)や性質が存在しているかのような表現はやめて、「私は小宮先生の文章が読みにくいと感じる」「私は小宮先生の文章が読みにくくてこまっています」とかそういうふうに表現すればいいわけですね。

同じように、「ある表現が道徳的に悪いと考えられるべきなのはなぜでしょうか」とか「ある表現が道徳的に不正だと我々が判断すべきなのはどのような場合でしょうか」と表現してくれればいいわけです。でもこういうのは私の読者としての好みだからそんな強くは要求できない。できればそういうふうに表現してほしかったなあ、ぐらいです。

でも、もし私と同じようにつらみや困りが大量に発生してしまった人々がいるなら、それはこうしたなにかを名詞の形であらわす表現自体に問題がある、ってことを理解してもらえれば、このエントリは成功が成立しているという理解が存在することになり、私にもうれしみが発生します。

長くてつかれました。ここまで読んだ人はごくろうさま。すぐさま忘れてください。

References   [ + ]

1. つまり、ポスターの宣伝効果その他の文脈を総合的に見て悪いと主張しようとしているわけではない、と解釈している。

宇崎ちゃん問題 (4) 「モノ化」は「客体化」でもやむをえない

ちなみにここで小宮先生にはあんまり責任がない「客体化」もむずかしいって話もしとかないとならんかな。

牟田先生が「客体化」って使ってんのに私は「モノ化」にして、小宮先生も「客体化」にしてて、まあどうせ専門用語だからobjectificationっていう英語に対応する訳語だってわかってりゃそれでいいでんですが、私「モノ化じゃなくて客体化だろ!」「モノ化という訳語はだめではないか」って言われちゃってるので、ちょっとだけいいわけ。

これ実際カタカナ使っていいんだったらオブジェクト化でもよかったし、あるいはさらにさかのぼって「物象化」「物件化」とかそういう訳語も可能だったかもしれないわけです。十数年前に論文モドキ書いたときはかなり悩んだ末に「モノ化」にしたんですが、今思えばもう「モノ扱い」でもよかったくらいだと思ってます。その方がわかりやすいでしょ。日常的だし。

あの論文ではとにかくヌスバウム先生の分析・解釈にしたがうつもりで、ヌスバウム先生やそれ以前のフェミニスト学者の先生たちは、objectificationというのは人をモノ(thing)として扱うことだ、reify (ラテン語のres「モノ」にする1)reifyは普通は「具体化する」なんですが、まあマッキノン先生も難しい人なのです。)でありthingify(そんな言葉は辞書にはないけどマッキノン先生が使ってる)、って言ってるはずなんで、モノ化にしたわけです。

実際、ヌスバウム先生は「道具化」「道具性」「自律性の否定」「不活性」「交換可能性」「毀損可能性」「所有性」「主観性の否定」ってのをあげるんだけど、これらは全部、自発的・能動的・自律的etc.な「人」と対比される上での「モノ」の特徴なのよね。モノだから、道具にするし、自律しないし、自分では動かないし、同じように作られてたらどれでも同じだし、壊してもいいし、自分のものにできるし、感情とか考えなくていい。

これを「客体化」って訳してしまうと、客体と対になるのは「人」ではなく「主体」になるんだけど、客体であるってことだけからは「道具性」「自律性の否定」「不活性」「交換可能性」「毀損可能性」「所有性」「主観性の否定」も出てこない。

そしてそれだけじゃない。太郎は花子を愛する、っていう文では太郎が主体で花子は客体ですが、だからといって太郎が意識不明の花子さんとセックスしてよいわけではない。太郎は花子にキスしたってとき、やっぱり花子はキスする客体(対象)だけど、花子の感情を無視していいわけじゃないし、「キスされる」からといって主体性がなにもない、ってわけでもない。実は花子さんがキスされることを期待していることもあるだろう。そしてキス「する」んじゃなくてキス「されたい」って思うことさえあるだろう。愛されたりキスされたりする対象・客体になりたい、っていう欲求は、男女ともにときどきあるんじゃないっすかね。そういう人を愛したりキスしたりする対象にするのはまったく問題がないどころか、ピューピュー、モテるねー、やけるねー、おしあわせに、ってなものではないですか。

だから「モノ化」の方が適切だと私は判断したわけです。

まあもともとのマッキノン先生以下さまざまなフェミニスト学者の先生たちは、オブジェクトという言葉を多義的につかってるので「客体化」でもまあしょうがないのではあるのですが(実はmen fuck womenという文での目的語の意味もある)、以上のような次第で私は「モノ化」の方が適切であると判断したわけでありまーす。

 

 

References   [ + ]

1. reifyは普通は「具体化する」なんですが、まあマッキノン先生も難しい人なのです。

宇崎ちゃん問題 (3) 「表象」はわかりにくい

正直小宮先生の書くものはある種の魅力があって、それが多くの人を惹きつけるんだと思うんですわ。私の文章とかぜんぜんだめよね。なんか華がないというか、もってまわってわかりにくいし。あはは。

さて、私はそもそも「表象」がよくわかりません。いきなりタイトルで「性的な女性表象」ってガツーンとやられて、「あ、難しい文章だ!」って思って身構えてしまう。だって「表象」なんて私らめったに使わないじゃないですか。ショーペンハウアー先生に『意志と表象としての世界』Die Welt als Wille und Vorstellung っていう有名な本があるんだけど、あれの「表象」っていったいなんだか私いまだにわかってないです。あの本の前半はとてもむずかしい。カントわかってないと読めないんすよね。(ちなみになかば以降は楽しい)

「表象」Vorstellungとか英語でrepresentationとかっていうのは、哲学で使われるときには、非常に単純にいえば、外界にあるものを我々が感覚器官(典型的には目、でも感覚器官は他もありますね)を通して認識だかなんだかして、頭のなかに浮べたあれです。頭の外にある(かもしれない)外的な事物、それの印象とかイメージとか対応する観念(アイディア idea)、そういう頭のなかにあるのが表象。でも小宮先生のはこの意味ではない。

2000年ごろから文学とか美学とか映画学とかマスメディア文化論とか、そっちの大学関係の方面で「表象」っていうのがよく使われるようになってるみたいで「表象文化学会」とかそういうのもありますね。こういうのでいわれる「表象」っていうのは、もっとふつうの言葉でいえば「表現」とかなんだと思う。「文学」っていうと文字で書いてる小説とか戯曲とかになるけど、アニメとかマンガとかだと「文学」ってのとはちょっと違うし。絵画とか映画とか、まあそういう人間が作り出したイメージとか作品とかを「表象」って呼ぶんだと思う。しかしこの意味では、まだ辞書にもなかなか載ってない感じですよね。

それにそもそも、この「表象」っていう言葉をどう使うのかっていうのは、そっち方面の学者先生たちのあいだでもさほど合意がないんじゃないかと思う。たとえば私のbooklogから「表象」ていう言葉をタイトルに使ってる本をあげてみると、「特集=ジェンダー 表象と暴力」「視覚表象と音楽」「 “悪女”と“良女”の身体表象」「無垢の力—「少年」表象文学論」「少女マンガジェンダー表象論」「セクシュアリティの表象と身体」「オトメの行方—近代女性の表象と闘い」「イーストウッドの男たち—マスキュリニティの表象分析」「欲望・暴力のレジーム 揺らぐ表象」「ひとはなぜ乳房を求めるのか: 危機の時代のジェンダー表象」とかになってしまう。

どれも難しそうでかっこよさげなのは置いといて、「表現」におきかえられるようなものだけではないですね。「イメージ」ぐらいが妥当なんだろうか。

小宮先生の「女性表象」は「女性のイメージ」(頭のなかにあるもの)なのか、「女性を描いた作品」(頭の外にあるもの)なのかあんまりはっきりしない。がんばって読むと、おそらく後者の、作品、表現されたもの、だと思います。「表象は必ず「誰かが作る」ものだ」って言ってますからね。我々の頭のなかにある女性のイメージは、必ずしも誰かが作るものだとはいえないように思う。私の目の前にあるウィスキーの瓶の私の頭のなかにあるイメージが、「私が作ったもの」かというとちょっと自信がないし。

でもこんな難しい言葉、学者先生なら一言ぐらい説明してくれたっていいじゃないかと私は思うわけです。マンガやポスターの「描かれたもの」「表現物」を「表象」って呼びますよ、ぐらいなんで説明してくれないんですか、ぐらいのこと思ってしまうわけです。んな、最初っから「表象」って言われたら、われわれ一般読者は腰がひけちゃうじゃないですか。すごく高度っぽいからもう話聞くしかなくなっちゃうし。でもそんなにはっきりした言葉じゃないと思うのです。「表象」で苦しんだみなさん、そういうの要求してかまわんのです。

 

宇崎ちゃん問題 (2) 単なるいいわけ

前の「宇崎ちゃん」に関するエントリ書いたあと、すぐに続きを書くつもりだったのですが、当の『現代ビジネス』からそれについての原稿書いてみないかというお誘い受けてしまって、考えてることを書いたりして、時間がたってしまいました。ちなみにタイトルとか見出しとかは編集者の方につけてもらい、細かい表現なんかも草稿見てもらった数人の先生と編集者先生に直してもらいました。名前は出しませんが感謝感謝あめあられ。

前のエントリについて言い訳を追加しておくと、牟田先生のあの文章が詭弁だとか誤謬推理だとかっていうことを書こうとしてのではなかったのです。むしろ、他人の文章を読んでそれが詭弁だとか誤謬推理だとか判断するのがとても難しい、ってことを書きたかった。省略三段論法みたいなやつは日常生活では非常に頻繁につかわれる論証の形で、三段論法みたいに前提を明示した論証なんてめったに見ることがない。そして、どういう前提が隠されているかっていうのは、読者がいろいろ考えてみないとならんわけで、それは対象となっている論者が考えている前提とはまったくちがったものかもしれない。最終的には「どういう前提なんですか」って聞いてみないとわからんと思う。そして、そんなふうに前提を明示してしまえば、形式論理的な誤謬推理をすることはめったにないし、詭弁の余地もものすごく狭くなる。まあ、結果的にそもそもの基本的な前提について同意できないってことがはっきりするということになるかもしれません。たとえば「ポスターに大きな胸を描くことは女性差別だ」っていう前提について、AさんとBさんが同意しないってことは十分にありえるわけです。

まあそんなことを考えているうちに、知らん学会で知りもしないことを発表したり、私生活でもちょっと忙しくなったりして時間過ぎてるうちに、これまた同じメディアに小宮友根先生の「炎上繰り返すポスター、CM…「性的な女性表象」の何が問題なのか」っていう論説が発表されてけっこうもりあがってたみたいですね。忙しくてキャッチアップするのけっこうたいへんでした。なんかみんな飽きてるのはわかってるけど、ちょっとだけコメントしないとならんかな、とか。

実は小宮先生がそれ以前に『世界』に書いた「女性表象はなぜフェミニズムの問題になるのか」っていうのはずいぶん前に紙で読んでて、私が『現代ビジネス』に書いた文章でも言及してコメントしようと思ってたんだけど、一般向けの文章としては煩雑になるかもしれないし、オンラインのものでもないからカットしたんですわ。特に、私は「累積的経験」という表現自体は使ってないけど、同じような内容になったところには先生のクレジットつけたかった。原稿書きあげて数日してからオンラインになって「あらー」って思ったり。ははは。

小宮先生の文章を読んでいると、勉強にはなるんだけど「言葉」について考えこまされることが多くて、そうしたつらつらを書いてみたいと思います。詭弁だとか誤謬推理だと言いたいのではなく、また批判というのでもなく、むしろ文章を読むというのが私にとってどれくらい難しいことか、っていうのを説明してみたいのです。私は本当に文章を読むのが下手なのよね。そして、そういう悩みをもっている人は私の他にもいるんじゃないかと思う。そうした人々、特に学生様とかに、私も読めないので(それほど)心配しなくていい、みたいなことを示して、悩みを共有したいというわけです。

あら、言いわけと前置きだけで長くなってしまった。

 

詭弁と誤謬推理に気をつけよう(1) 宇崎ちゃんポスターの場合 (宇崎ちゃん問題(1))

『宇崎ちゃんは遊びたい』とコラボした献血ポスターについて、フェミニストの牟田和恵先生が、各自治体のガイドラインを示して、ポスターはガイドラインに反した性差別であると主張しています。それに対してはすでによい論評がいくつか出ているので 1)「「宇崎ちゃんは遊びたい」×献血コラボキャンペーンの絵は過度に性的なのか?」「宇崎ちゃんを採用した赤十字は現実的」 私が書くべきことはほとんどないのですが、一つ、大学での教育的な点から書いておきたいことがあります。これは続きものになるかもしれない。

ゲンダイの文章は改ページが多くて見通しが悪いので、冒頭から、途中の、ガイドラインに反しているのは明らかだと主張しているところまで引用しましょう。

日本赤十字社が献血を呼びかけるためにweb漫画とコラボで作成したポスターがネット上で論議を呼んだ。今回使われたのは写真の通り、幼い表情で、巨大といってもいいような乳房を強調するもの。「宇崎ちゃん」という名のキャラらしい。

日本事情に詳しい米国人男性が英語で、過度に性的な絵で、赤十字のポスターとしてふさわしくない、とツイッターで発信(10月14日)、日ごろから女性差別問題について活発な発信をしている女性弁護士がそれに同意し「環境型セクハラ」と批判を続けたところ、「表現の自由だ、表現を規制するのか」「自分の基準で勝手なことを言うな」「たかが絵なのに文句を言うな」等々の、ほとんど罵倒と言ってもよいようなものも含めて、非常に多くの反批判を受けた。

私自身もこの件で複数回ツイートしたが、いずれもリツイートや「いいね」を多数いただいたものの、上記と同趣旨のリプライも山ほど浴びた。

改めて、何が問題なのか

結論から言えばこの件は、議論する以前に答えは出ている。

女性差別撤廃条約(1979年国連採択、85年日本批准)はジェンダーに基づくステレオタイプへの対処を求めており、日本政府への勧告でもメディアでの根強いステレオタイプの是正を重ねて求めている。

たとえば第4回日本レポート審議総括所見(2009年)では、勧告の項目「ステレオタイプ」に、「女性の過度な性的描写は、女性を性的対象としてみるステレオタイプな認識を強化し、少女の自尊心の低下をもたらす」と警告している。

男女共同参画社会基本法(1999年制定)の下で策定された「男女平等参画基本計画」(2000年)でも「メディアにおける女性の人権の尊重」が盛り込まれ、2003年には内閣府の「男女共同参画の視点からの公的広報の手引き」でこれを「地方公共団体、民間のメディア等に広く周知するとともに、これを自主的に規範として取り入れることを奨励する」としている。

同じ趣旨で各地方自治体でもガイドラインを策定しているが、たとえば、東京都港区は、

「目を引くためだけに『笑顔の女性』を登場させたり、体の一部を強調することは、意味がないばかりなく、『性の商品化』につながります」「(性の商品化とは)体の一部を強調されたり、不自然なポーズをとらされることで、女性の性が断片化され、人格から切り離されたモノと扱われること」(東京都港区「刊行物作成ガイドライン「ちょっと待った! そのイラスト」、2003年)

としている。

最近のものでは埼玉県が、自治体のPR動画やイベントポスターなどで過度に性的な「萌えキャラ」等が問題となっている事態を踏まえて、女性を性的対象物として描くことに注意喚起し、「人権への理解を深め、男女共同参画の視点に立った表現をすることが一層重要となっています」(埼玉県「男女共同参画の視点から考える表現ガイド」(2018年))としている。

今回のポスターはこうしたガイドライン等に抵触することは明らかだろう。

「明らかだ」っていうんですが、本当に明らかでしょうか。私こういうタイプの文章見ると混乱してしまうんですよね。

牟田先生の上の引用での主張を、簡単にまとめると、「宇崎ちゃんは幼い顔でおっぱいが大きく描かれている」「宇崎ちゃんは過度に性的だと米国人男性が言った」「国連はメディアのジェンダーステレオタイプの是正を求めている」「男女平等参画基本計画ではメディアにおける女性の人権の尊重を求めている」「自治体がいろいろガイドラインを定めている」ぐらいですよね。最後の埼玉のを使うと

a. 埼玉のガイドラインは女性を性的対象物として描くことに注意喚起している
c. それゆえ今回のポスターは埼玉のガイドラインに抵触している

とかって形になっているわけです。なんかおかしいですよね。大学の授業なんかでは、論証というのは三段論法が基本だ、みたいな話を聞いていると思います。

a. 人間は死ぬ
b. ソクラテスは人間である
c. それゆえソクラテスは死ぬ

こういう形ですよね。実は上の牟田先生のやつは、省略三段論法とか隠された三段論法といわれやつで2)省略三段論法自体は特に詭弁でも誤謬推理でもないです。、本来は、

a. 埼玉のガイドラインでは女性を性的対象物として描くことは不適切だ3)実際の文言では「注意喚起」しているにすぎません。
b. 宇崎ちゃんポスターは女性を性的対象物として描いている
c. したがって、埼玉のガイドラインでは宇崎ちゃんポスターは不適切だ

という形になっているはずなのです。牟田先生が「明らかだろう」っていってるのはぜんぜん明らかではなく、「宇崎ちゃんポスターは女性を性的対象物として描いている」という牟田先生自身の論点や主張が明示されておらず、暗黙に了解されているにすぎない4)この「性的対象物」が難しいのは、たいていの男女は性的対象物というか鑑賞物になりうるからです。たとえば同時に献血コラボしていたと思われる乃木坂ははっきり鑑賞物。あれの方がずっと性的対象だろう、とか言いたくなってしまう。性的対象にならないように、メイクで全員ゾンビにしてしまえばいいのに。ははは。しかしそれだと乃木坂である必要はないことになってしまうだろうか、それとも乃木坂ならゾンビでも性的対象になりアイキャッチに使えるだろうか。他にもたとえばスケートの羽生選手などのスポーツ選手もとてもセクシーだと思うわけで。性的対象にしてますね!先生わかってますよ!みたいな。ははは。。そしてこれこそ本当の論点のはずなのです(性的対象として描くことが不適切なこと、あるいは悪いことであることを認めるとして、ね)。

国連の「女性の過度な性的描写」の方を見ても同様ですね。

a. 国連は女性の過度な性的描写には問題があると主張している
b. 宇崎ちゃんポスターは過度な性的描写である
c. 国連は宇崎ちゃんポスターには問題があると主張する(だろう)

という形になるはずなのに、宇崎ちゃんが過度な性的描写であるという指摘がない。牟田先生は、あちこちのガイドラインが過度な性的描写には注意をうながしている、ということを列挙しているにすぎず、そのガイドラインの根拠についてもはっきりしない5)そもそも献血ポスターと自治体のガイドラインの関係もよくわからない。 https://togetter.com/li/1425063 参照。。宇崎ちゃんは過度に性的なのだろうか。

これ、注意深く読むと、冒頭で「米国人男性が(宇崎ちゃんポスターは)過度に性的な絵で赤十字のポスターとしてふさわしくない、とツイッターで発信、女性弁護士がそれに同意」ということが言われていますが、牟田先生自身は「ポスターは過度に性的な絵だ」ということを主張・立証していません。

もしかしたら

a. 米国人男性と女性弁護士が共に言うことはなんでも正しい
b. 米国人男性と女性弁護士は共に「ポスターは過度に性的だ」と言った
c. したがって「ポスターは過度に性的だ」は正しい = ポスターは過度に性的である

とかそういう三段論法も隠されているのかもしれない。こうなるとすごいっしょ。まあ隠された三段論法の隠された前提にどんなものがはいっているかは推測するか質問するしかない。

『自由論』や『功利主義論』で有名なJ. S. ミル先生は、論理学者でもあって(というか、こっちの方が本職で重要)、『論理学体系』という非常に立派で重要な本を書いてます。いま、論理学っていうとA → B、A、したがってB、とかそういう記号でやるやつを連想する人が多いと思うんですが、ミル先生の「論理学」はそういうのも含んでますが、科学的推論というのはどのようにしてなされるべきか、とかそういうもっと広い範囲を扱った本ですわ。まあいまでいう科学哲学みたいなのも含んでる。ていうかまんま科学哲学。

この本の第5巻がまる1冊分「誤謬推理」(Fallacy、虚偽、詭弁、誤謬的思考)6)正しくない推論にはまってしまうと誤謬推理・誤謬的思考と呼ばれ、それを意図的にあるいは意図せずして説得に使うと虚偽や詭弁と呼ばれる、ぐらいの理解でよいと思います。にあてられていて、ここはちょっと難しいけどとてもおもしろい。いろんなタイプの誤謬推理が分類されて、大量の哲学者やら科学者やら迷信やらがその実例としてあげられてます。そのうち新しい翻訳が出るらしいので楽しみにしておいてください。

そのなかで、一般の議論では三段論法ははっきり明示されることはごくすくないということも指摘されてます。日常的な議論でも科学的な議論でも、三段論法みたいなのを明示する必要はさほどないんですわ。たいていの場合には二つの前提のどっちかは明白だし、いちいち書いてたら煩雑だし。そもそも三段論法というのは新しい知識を生みだすものではないのです。ソクラテスが人間だからいずれ死ぬのはだれでもわかっていて、わざわざ三段論法の形にする必要はない。

ミル先生に言わせると、

三段論法の規則というものは、人に自分の結論を主張しつづけるために弁護しなければならないこと全体を自覚させるための規則である。人は、ほとんどどんなときでも、三段論法に勝手に偽の前提を入れ込んで、自分の論証を妥当なものにすることができる。したがって、ある論証が妥当でない三段論法を含んでいるということをはっきり確かめることが可能な場合はほとんどない。しかし、こうしたことは三段論法の規則の価値を失わせるものではない。推論する人が、どのような前提を主張する用意があるかをはっきり選択させられるのは、この三段論法の規則によるのだからである。

つまり、「三段論法が基本だ!」みたいなのは、「いつも三段論法を明示しろ!」とかそういう要求ではない。むしろ、自分がなにかを説得しよう、立証しよう、あるいは主張しようとするときに、自分と他人のあいだの前提の違いを意識して、自分がなにを言わなければならないかを自覚し、また他人にへんな説得されたり騙されたりしそうなときに、相手からなにを聞いておかねばならないかを意識するための規則なのです。

こういうのを見ると、わかりにくい文章やうたがわしい文章を読むときに、その文章の主張をリストアップしてみるのはよいことですよね。そしてうたがわしい文言があったら、それを主張するための三段論法をいくつか書きだしてみる。著者は(暗黙にせよ)その結論の前提をきちんと説明してくれているだろうか、そしてまた、その明示的な、あるいは隠された前提にあなたは同意できるだろうか。

私が見るところでは、牟田先生は宇崎ちゃんが過度に性的であることを立証しなければならなかった、あるいは、少なくとも自分で宇崎ちゃんは過度に性的であるということを主張しなければならなかった。その場合、「見ればわかる」「私の主観だけどみんな共有できるはずだ」という形でもかまわないかもしれないけど、一言主張するべきだったのです。もちろんそうすると、性的であるとはどういうことかとか、「過度に」性的であるとはどういうことかを説明してほしくなりますよね。宇崎ちゃんは魅力的なおっぱいのでかい女子なので「性的」であるとしても「過度に」性的であるっていうのは過度に魅力的であるのか過度におっぱいがでかいのか、とかそういう話になります。

a. おおきなおっぱいは過度に性的である
b. 宇崎ちゃんはおっぱいが大きい
c. それゆえ宇崎ちゃんは過度に性的である

まあこういうことになるのかもしれませんが、この場合多くのひとはbは認めると思うけどaは認めないと思う。私は同意しません。同意しませんよ!ははは。するとまた別の論証が必要になるわけです。

とりあえず牟田先生は「幼い表情で、巨大といってもいいような乳房を強調」している描写は過度に性的だとか女性を性的対象物として描いているとかそういうことをもっときちんと言ってくれればよかったのだろうと思いますが、あれが過度に性的だとか性的対象物だとかというのはかなり議論の余地があるように見えて、「明らかだ」というほどではないように思います。だからこれを論じてもらわなければならない7)つまり、どんなときに過度に性的だと判断されるのかとか、どんなときに性的対象物として描いていることになるのかというのをざっくりとでも説明し、可能ならば他のOKな表現と比較したりする必要がある。ひょっとしたら、なぜ性的対象物として描くことが不適切であるのかも説明してもらわなければならない。こういうのは手間がかかるので誰もがいつでもできるわけではなく、また今回牟田先生にとってそこまで必要なのかどうかはわからないわけだけど、説得や議論というのはそうしたものだし、世の中はそうしたお互いの努力によって進歩するのだと思います。「議論するまでもなく結論が出ている」のようなものではないと思う。

ちなみに本当の論点とはちがう論点を「論証」してしまうのも詭弁・誤謬推理の一つのタイプで、「論点相違(の誤謬推理)」Ignoratio Elenchiという立派な名前があり、また「過度に性的なのはいかん」という言明を「性的なのはいかん」のように「過度に」という限定があり、それを論証しなければならないことを忘れてしまうのには「限定あり言明から限定なし言明への誤謬推理」Secundum quidという名前がついてます。われわれが非常によくやる詭弁と詭弁的思考なので、ちゃんと昔から名前があるわけです。

 

 

References   [ + ]

1. 「「宇崎ちゃんは遊びたい」×献血コラボキャンペーンの絵は過度に性的なのか?」「宇崎ちゃんを採用した赤十字は現実的」
2. 省略三段論法自体は特に詭弁でも誤謬推理でもないです。
3. 実際の文言では「注意喚起」しているにすぎません。
4. この「性的対象物」が難しいのは、たいていの男女は性的対象物というか鑑賞物になりうるからです。たとえば同時に献血コラボしていたと思われる乃木坂ははっきり鑑賞物。あれの方がずっと性的対象だろう、とか言いたくなってしまう。性的対象にならないように、メイクで全員ゾンビにしてしまえばいいのに。ははは。しかしそれだと乃木坂である必要はないことになってしまうだろうか、それとも乃木坂ならゾンビでも性的対象になりアイキャッチに使えるだろうか。他にもたとえばスケートの羽生選手などのスポーツ選手もとてもセクシーだと思うわけで。性的対象にしてますね!先生わかってますよ!みたいな。ははは。
5. そもそも献血ポスターと自治体のガイドラインの関係もよくわからない。 https://togetter.com/li/1425063 参照。
6. 正しくない推論にはまってしまうと誤謬推理・誤謬的思考と呼ばれ、それを意図的にあるいは意図せずして説得に使うと虚偽や詭弁と呼ばれる、ぐらいの理解でよいと思います。
7. つまり、どんなときに過度に性的だと判断されるのかとか、どんなときに性的対象物として描いていることになるのかというのをざっくりとでも説明し、可能ならば他のOKな表現と比較したりする必要がある。ひょっとしたら、なぜ性的対象物として描くことが不適切であるのかも説明してもらわなければならない。こういうのは手間がかかるので誰もがいつでもできるわけではなく、また今回牟田先生にとってそこまで必要なのかどうかはわからないわけだけど、説得や議論というのはそうしたものだし、世の中はそうしたお互いの努力によって進歩するのだと思います。「議論するまでもなく結論が出ている」のようなものではないと思う。

セックス哲学史読書案内:エッチが大好きローマ人

 

 

当時のエッチな絵を見ながら、オウィディウス先生その他のエッチな文章を大きな文字で読みましょう、みたいな。まあ図書館にあったら眺めたらいいぐらいの本。もうすこしまじめに読みたい人は下。

 

上は火山の噴火で埋もれたポンペイの街の発掘が進むと、いろいろエッチな絵や娼館の落書きが出てきたので紹介します、な本。

 

↑グッドな本でした。

この本、生活一般についていろいろ述べられていてとても楽しい。

 

法制度とか細かいこと書いてて私には途中まで退屈だけど、詩人や哲学者が登場する第6章や第8章は勉強になる。

いろいろ読んでると、人間のやってることはどこでもいつでもたいして変わらない、とか言いたくなるんだけどどうだろう。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (11) 個人主義ってなんだろう

んで最終の第8章、「現代日本の恋愛」ですが、ここは私ほとんどわからないです。村上春樹の『1Q84』、土居健郎の『甘えの構造』、「キャラ萌え」、西野カナ、椎名林檎といろんな論者や作品や風俗やらが出てくるのですが、それらがどうむすびついているのか、私のあたまのなかでうまく像を結ばない。とくに「キャラ萌え」のあたりは、それが恋愛とどういうふうに結びついているのかさえわからない。
その原因はわりとはっきりしていて、「個人主義」とか「自我の確立」とかっていう言葉が私にはどういうことだかはっきりしてないからですね。個人主義ってなんだろう?自我の確立とはなんだろう。実はまちがってKindle版も入手してしまったので(あ、逆だ。Kindle版もってたのにまちがって紙版も入手してしまった)ので「個人主義」や「自我」で検索かけてみたりもしたのですが、あんまりはっきりしない。
この「個人主義」とかっていう言葉は、言葉は文学系の人はわりとよく使うのですが、哲学系の人々はさほど使わないし、使うとしてもわりと狭い文脈で使うのでまあ我慢できるんですが、恋愛というとてつもなくでかくて曖昧な言葉と、個人主義という言葉がいっしょにつかわれるともうだめ。
まあ、日常的な意味で「自我の確立」っていうか「はっきりとした自己意識をもつという」ことはわからんでもないのです。たとえば「リンダ、困っちゃうナ!」とか「ジェームズブラウンはそんなのが好きだと思うか?」とか自分の名前を一人称にしたりする人々がいると、「この人たちは自分と他人の区別がついてないのではないか」みたいに不安になったりするわけです。「このひとは自我が確立してないなあ」みたいなの感じたりもする。でも鈴木先生が言いたい「自我の確立」ってその程度の話じゃないですよね。それが具体的にどういうことかっていうのを説明してもらってない気がする。
「個人とは……サングリーによれば、キリスト教的伝統と、中世宮廷恋愛によって生まれた制度です」(p. 317)とかっていうの、これは定義ではないと思う。個人というものは、歴史的に形成されてきました、ならわかるような気もしないでもないけど、我々が個人と呼ぶものが制度なのか(ありそうにない)、「個人」という発想、個人と呼ぶものがあると信じているのが制度なのか(こっちかなあ)もわからない1)藤田尚志先生の文章をちょっと読んだときに、(それ以上分割できないという意味での)個人じゃなくて(一人の人間はさらに部分に分けられるので)分人、とかっていうへんな話が出てきましたが、それとなんか関係ありそうだけどよくわからない。。「個人「主義」」になると、個人をどう考えたりするとその主義になるのか、もわからない。
個人主義と対立する発想がなんであるのかもわからんのですよね。「集団主義」かなあ。まあ意地悪せずに、もうすこし素直に読むと、鈴木先生は、日本は同調圧力の強い文化(集団主義的?)で、それはけっきょくキリスト教やヨーロッパ的恋愛をちゃんと理解してないからだ、ってな話になりますが、しかしまあいまどきヨーロッパ人だってキリスト教なんかよくわからんと思うし、そんなすごい恋愛してるわけではないんではないかと思う。まあ個人の欲求や要求を主張する強さや頻度みたいなのにはたしかに文化的な差があるかもしれないけど、それってそんなにキリスト教や恋愛と関係あるんだろうか。キリスト教が個人主義的とかっていうのもなんかおかしくて、隣人愛みたいなのは義務だし、地獄に落ちそうな連中がいたら説教して救ってやるか、あるいは邪教にそまってたら火炙りとかにして救ってやる、っていう発想もありそうだし、「俺は俺、他人は他人だからほうっておこう」みたいなのはあんまりキリスト教的ではない気がする。そこらへんもどうなってるんだろうか。
まあ「個人主義」を好意的にとって、「自分を自分だと意識して、自分で判断して自分で行動するのだ!主義」ぐらいに解釈するとして、その場合、そもそも「日本の文化では同調圧力が強い」みたいなのっていうのはどうでもいい話ではないか。いくら同調圧力が強かろうが好き勝手にやるのが「個人主義」ってのだろうから、同調圧力が強いってのは個人主義者にとってはどうでもいい話で、むしろ同調圧力が強い方が「俺は俺だ!」って思いやすいから同調圧力強い方が個人主義的社会だ、むしろ「同調しろ」とか要求してこない社会は他人に関与しないようにする社会で、それはそこに住んでる人々が人の意見を気にする人々だからだろう、とかっていう詭弁を思いついたけどどうだろう。
19世紀なかばにキェルケゴールなんかは「現代人は自己をもっていない」「自己をもってる人間はごく一握りである」みたいな話してたんだけど、あれから170年ぐらいたってヨーロッパ人はみんな自己をもっているのだろうか。キェルケゴールさんだったら「自己をもつということはそんな簡単なことではなく、キリスト教世界に生まれたから、ヨーロッパに生まれたから自己をもつなどといったものではない、ましてや恋愛文学を読んだり恋愛したりすることによって自己をもつことになるなどということはありえない、そんな奴らは自己をもっていると思いこんでいるだけなのだ」とか言いそうだ、とか考えはじめちゃうと難しくてよくわからない。まあ文化論をするまえに、まずは「自我を確立する」とか「自己をもつ」とかっていうのいったいどういうことであるのかとか、現実世界の話をするなら、どれくらいのひとがそういう発達課題みたいなのを達成しているか考えてみたほうがいいのではないかとか思ったりします。

ていうわけで、いったんおしまい。最終章は私はぜんぜんわからなかったのですが、全体としては話題が豊富な本で、そのままそういうものだと信じてしまうと問題はあるかもしれませんが、こんなふうにいろいろつっこみ入れながら読むと楽しい本だと思います。紹介されている作品も並べて読みたい。とくに、『饗宴』と『恋愛指南』『宮廷風恋愛の技法』あたりは、さほど読みにくくはないし、紹介されているのとはちがった印象になるはずなので、鈴木先生のとあわせてぜひ読んでほしいです。私も『青い花』は入手したし、スタンダールの古典は読み直したい(ぜんぜんおぼえてない)。プルーストも死にそうになったらベッドで読もう。

(ツイッタでの追記)

  • 個人主義っていうのが、他人がどう言おうが自分の信じることをするっていうことなら、同調圧力があろうがなんだろうが好きなことをすればいいので社会の同調圧力があろうがなかろうが、どうでもいい話。 一方、個人主義ってのが他人のことにはかまいません、口出ししませんってことなら、やっぱり他の人々が同調圧力をかけてこようがそれに口出しする必要はない。というわけで他人様たちの同調圧力とやらは個人主義なるものとはなにも関係ない。
  • 個人主義というのが、自分は自由であり、よくも悪くも自分がやることは自分で責任をとるのだ、ってのならこれまたそうすりゃいいだけの話で、社会が同調圧力のつよい社会だろうがなんだろうが自分で好きなことをして自分で責任をとればいい。責任をとるというのがどういうことかはさておいて。日本社会や日本の他人様がなんであろうが関係ないわけで、まあ早い話が、同調圧力がどうのこうの、と言いたくなるひとはあんまり個人主義的ではない、ということを報告しているだけではないか。
  • 漱石先生の『それから』とか、それの森田監督による名作映画とかていうのは十分個人主義的なんちゃうかな。ああいうのに個人主義が描かれていなければ、いったい個人主義とはなんであるのか。主人公はちゃんと勝手にエッチなことをして俗物から非難されているではないか。
  • ありそうなのは、「そうじゃなくて個人主義というのは他人の人格を個人として尊重することなのだ、他人をそれぞれ別個のものと見て、それぞれの意思や自由を尊重することなのだ」というのなら、話はだいたいわかってくるんだけど、この「他人を尊重する」っていう側面があんまり強調されてない。なぜかというと、自分以外を(というか自分自身と恋愛相手以外を)「同調圧力を加えてくる社会」みたいな抽象的な存在としてとらえているからだ。あるいは「日本人」「ヨーロッパ人」とかそういうくくりで見てるから。 これは人々をぜんぜん別個のものとみてなくて、ぜんぜんそういう意味での個人主義的ではない。そうした他人を個人として尊重するという意味での個人主義ならば、あれもこれもだいたいおなじだ、みたいなごくおおざっぱな話はしにくくなるっていうこと。
  • そういうわけで、個人主義のところは許さん。
  • でもまあ漱石先生的な、「われわれの文明開花はうわすべりなんちゃうか」「本当のところをとらえてないんちゃうか」「本当はもっとちがうもんじゃないのか」みたいな神経症的懐疑みたいなはわからんでもないし、まあ西洋哲学や文学をあつかう人々にかけられた呪いみたいに残ってるわけよね。「いやー、漱石先生、そういう懐疑って西洋近代的で、十分合格点っす。あっというまに習得しましたね。えらい!」とか誰か言ってあげる人がいればよかったのに。

References   [ + ]

1. 藤田尚志先生の文章をちょっと読んだときに、(それ以上分割できないという意味での)個人じゃなくて(一人の人間はさらに部分に分けられるので)分人、とかっていうへんな話が出てきましたが、それとなんか関係ありそうだけどよくわからない。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (10) スタンダールとプルースト

第7章は、恋愛肯定論者のスタンダールと、恋愛悲観論者のプルースト、そしてフロイト、っていうあたりで、鈴木先生の専門にいちばん近いところで、これも勉強になりました。特にさすがにプルースト(名前は有名だけど実際には誰も読んでないと思う、っていうか私は読んでない、のでみんなこれ読んで勉強しよう!)のところはおもしろい。

でもこれもちょっとわかりにくいところがあって、まずスタンダール先生の有名な『恋愛論』。これは恋愛の分類と、「結晶作用」ってのですごく有名だけど構成とかまったくわけわからん奇書ですよね。それは先生も指摘している。先生はスタンダールの指摘する「結晶作用」、つまり惚れてしまえばあばたもえくぼ、恋は盲目、好きになったらもうなんでもよく見えちゃう、っていう話を、いかにもロマン主義的に恋愛を肯定しているって主張するんですが、私の印象ではスタンダール先生はもうちょっと冷静で、人間の恋愛の心理を冷たく分析しているようで、妄想幻想大好きのロマン主義っていうより、のちの写実主義とか自然主義とか、そういう流れにつながるもののように見えてたんですが、どうなんでしょうか。「好きな人がよく見えるのは、枯れ枝に塩粒がついてキラキラしてるようなもんですぜ」みたいなのってまあ悲観的に見えるけどどうなんだろう。結晶作用と、それがなくなったときの幻滅ってのがまあポイントですよこの本では登場しないみたいだけど、フロベール先生先生とかもなんかこういうタイプの冷静な分析してる印象。おフランス文学全体に、こうした人間の心理からちょっと距離をとった描写と批評みたいなのが得意な印象で、そこが魅力っすよね。

プルースト先生のはおもしろいところを引用していて、277頁のところ孫引きしちゃう。

一人の少女は、浜辺や教会の彫刻に現れた編み毛や一枚の版画など、様々なものと魅惑的に交じり合っているので、そうした少女がやってくるたびに、私たちは彼女を一枚の見事な絵のように愛することになるのだが、このような結びつきは必ずしも安定したものではない。もしも女と完全に生活をともにするようになったら、私たちはもう、彼女を愛させるようになったものを何一つ見出すことがないだろう。

これはかっこいい。女性を芸術作品みたいに見てるんですよね。映画だと(ホモセクシュアルだけど)ヴィスコンティの『ヴェニスに死す』みたいんで、恋愛なんだか性欲なんだか芸術鑑賞なんだかわからない感じ。

鈴木先生のはプルースト先生のこういうのはスタンダールとは違って、「結晶作用などは個人の勝手な幻想であり、恋人の美点は、恋人その人がもってる属性などではない、と考えます。そうした結晶作用とは、個人が勝手に他のところからもってきた憧れを投影しているだけである」(p.277)、ってんだけど、まあそれはスタンダール先生やフロベール先生ももあんまりかわらんのではないだろうか。プルーストがアンチスタンダール、っていうの一般的な理解なんですかね。

まあでもここらへんのプルースト先生の「恋愛とか全部幻想」みたいな発想が鈴木先生のこの本の最大のテーマであり主張であるわけで、それはそれでわかるというか。でもむしろ私からすると、それって昭和や平成を生きてきた我々にはすごくふつうの考え方で、むしろそうじゃないって考えに魅力をもってる鈴木先生はものすごいロマン主義者なんだな、みたいに思ってしまう。

んで、さっきのプルーストの引用を見て気づいたんですが、プルーストのこの芸術作品を見るような恋愛ってのは、これ本当に我々が考えてる「恋愛」なんだろか。だって、サッポーやプラトンやアリストテレスの昔から、「愛する」ということは「愛されたい」という願望と切り離せないわけですわ。そういう相互性がないのは、アリストテレス先生に言わせればフィリア(友愛)でさえなく、単なる「好意」にすぎない。鈴木先生が引用しているプルーストの恋愛からは、例の「合一」への欲求さえ失なわれてる。プルースト先生がかなりかわった人だったろうっていうのはわかるんですが、そういうのを恋愛観の典型としてもってきて大丈夫なんかな。

そして、この「愛されたい」っていう欲求があんまり強調されてないことからもう一つ気づいたことがあり、この本で論じられている文学者たちはみな男性で、そしてみな「愛する」「口説く」ことばっかり話をしていて、(女性たちに特徴的だと言われるかもしれない)「愛されたい」「大事にされたい」みたいな切実な欲求が見えないんですよね。ここらへんどうなんだろうか。まあ男性と女性がどっちがどう、というのではなく、恋愛や性欲というもののが目指す相互性と合一みたいなのがプルーストの引用からは見えないけど、それでいいんですか、という話。

この章のプルースト論の最後の方で、「恋愛感情の裏にはキリスト教的な救済の世界があり、聖母マリアの愛にすがる甘えた態度があり、それは究極的には子どもの母に対する甘えた感情だ」っていう一節があるんですが(p.289)、まあそれが当ってるかどうかは別にして、これってなんかものすごくロマン主義的な男性的なもので、女性はまた別なこと考えるんじゃないだろうか、鈴木先生のゼミの女子学生様たちはこういうの見てどういうことを考えてるだろう、とか考えちゃう。私がこういうことしゃべってたら、私の学生様たちは「この人はおかしいのではないか」とか考えてそう。まあそれは私のしゃべりと人格がおかしいからなので、かっこいい先生がやれば別かもしれない。ははは。

フロイト先生は面倒だからパス。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (9) 厨川白村先生の恋愛論輸入

第6章は、問題の日本のヨーロッパ恋愛輸入なんですが、ここはとてもよいと思いますね。だいたいこの「恋愛の輸入」の話をするときは北村透谷先生とか使ってなんかインチキな話をするのが最近の風潮なんですが、私は透谷先生とかそんな優れた作品を残してるとは思えないし(実は誰も読んでないっしょ? そもそも早死にしたから作品少ないし)、さほど影響力があったとも思えない。影響力があったように見えるのは鈴木先生がメインにとりあげてる厨川白村先生で、この先生の『近代の恋愛論』は私も部分的に読んだんですが、今でも通用するようなおもしろさと説得力で、ベストセラーになったのという話もうなづける。記述もわかりやすい。実際けっこう読まれたと思います。昭和あたりまでの文科省的恋愛論の基本という感じがある。皆も一回読んでみるといいです。この先生を中心に輸入を論じようという鈴木先生のやりかたは成功している。

白村先生の抜粋も多くて、お説教くさくて笑えるのでぜひ読んでください。

ただ歴史的にはちょっと問題があって、この本出たのは大正11年、1922年で、もう文明開花して相当時間が経過していて、明治に恋愛が「輸入」されたとしても、それが相当定着してからの話ですよね、っていうのが一点。それに、この白村先生の恋愛論って、ほんとに恋愛「論」、恋愛の理想論にすぎなくて、ヨーロッパの恋愛を輸入したというより、ヨーロッパの正しい人びとがいってる正しい恋愛観を輸入しているだけだっていうのがもう一点。

だって1922年ですよ? ヨーロッパは世紀末とかでみんないろいろ悪いことをして、まあ第一次世界大戦とかもあって、ヨーロッパの風俗みたいなの乱れまくってる時代じゃないですか。っていうか、19世紀後半のヴィクトリア朝時代だってみんないろいろ悪いことしてたわけで。白村先生はそうした西欧の実情みたいなのほとんど知らなかったんではないかという気がするけどどうだろう。アメリカ留学の経験はあるんですね。アメリカじゃなあ。どこ行ったんだろうか。足悪かったから、あちこち遊びに行ってみるっていうのは無理だったかもしれませんね。せっかくのチャンスだったのに気の毒。

っていうか、ここが問題で、鈴木先生は「ヨーロッパの恋愛」を白村先生が輸入したというんですが、その輸入したのはなんか英語圏プロテスタント系統のわりと禁欲的な恋愛結婚理想論みたいなやつではないかという感じで、それと性欲都市であるパリとかウィーンとかののぐしゃぐしゃどろどろの恋愛やセックスとはあいいれないんちゃうかと思うわけです。もし白村先生が恋愛を輸入したとしても、それってヨーロッパ恋愛文学にあるような恋愛じゃなくて、英語圏のお説教臭いやつなんじゃないの?という疑問があるわけです。私は恋愛文学作品やエロ文学やその作成のコツ(「恋愛の美学」と呼びたい)を輸入することと、恋愛についての道徳的な理念(「恋愛の道徳」と呼びたい)を輸入することはずいぶん違うことのように思う。白村先生が輸入したのは、恋愛でも恋愛論でもなく、恋愛とセックスについてのお説教だ!とか言いたくなる。こういう区別に、鈴木先生が同意してくれるかどうか。

とにかく、ロマン主義的恋愛至上主義どろどろ文学みたいなのと、白村先生が輸入した恋愛至上主義的恋愛清潔道徳主義みたいなのとの間には相当のギャップがあって、そこはなんとかしてつながないとならないと思う。それが前の章での説明が不足していると思われた、ロマン主義恋愛観の毒はいかにして抜かれたか、って話だろうと思います。

鈴木先生の言う「個人主義」とか「個人」についても議論したいんだけど、これもたいへんだから先に。


追記。厨川白村先生をちょっとググったら、こういう文書を見つけました。白村先生の口癖は「オスカア・ワイルドなんて気障な奴ですよ。ここに居合わせば殴りつけてやるんだが」。これはおもしろい。ワイルドは狭義のロマン主義運動とは100年近く離れてますが、ロマン主義的なダンディズムの末裔であると見ることもできて、そういう気障が嫌いな白村先生は、文学とかほんとうにはわかってない人だったのではないか(私は白村先生についてはぜんぜん知りません)。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (8) ロマン主義的恋愛とロマンティックラブ

  • んで、第5章「ロマンティックラブとは」は本書の核になる部分なんですが、ここが読みにくいんですよね。いろいろ難しくて、私は混乱してしまいます。1〜4章の古代ギリシア、古代ローマ、キリスト教、宮廷風恋愛のあたりは、自分でも授業でやったりブログ書いたりしているからだいたい見当つくんだけど、もろに文学の話はうとくて。鈴木先生はとうぜんここらへん専門だから、おとなしくお話をおうかがいするしかない、というのはある。でもどう混乱するかぐらいは書いといてもいいだろうか。

あ、その前に、鈴木先生が本書の解説ブログを開設してくれてるので読んでください。非常に興味深いというかおもしろい。

  • 鈴木先生は「「ロマンティックラブ」は欧米文化の産物で、100パーセントの輸入品です」(p.180)と言い、さらに「ロマンチックラブを概念的にちゃんと把握している人は少ない」っていうけど、そもそもそれは概念的にはっきりしたもんなんかいな、とか思ってしまいますわね。というより、そもそもここまで先生は「ロマンティックラブ」をはっきりどういうものか説明してくれてないと思う。
  • んで、鈴木先生は「ロマンティックラブ」を「(19世紀的)ロマン主義的恋愛」って理解したいみたいなんだけど、大丈夫かいね。おそらく多くの人はそうは思ってないと思う。
  • 鈴木先生の説は、現在我々が信奉しているロマンティックラブイデオロギーと呼ばれるやつは、18世紀末〜19世紀にヨーロッパ全土で流行したロマン主義文学(芸術)運動によって広められたものだ、っていうものだと思う。(そしてあとで、それが明治期に日本に輸入されたのだ、という話になる。)そしてロマン主義は恋愛至上主義であり、愛と個人を「絶対領域」とし、恋愛を崇高と無限・永遠・神秘のものとみなし、世紀病(メランコリー、ある種「うつ」)とともにある、ということらしいです。なかなか難しい。
  • そもそも「ロマンティックラブイデオロギー」、そしてそもそも「ロマンティックラブ」ってなんだろう。何回読んでもどうもはっきりしないんですが、鈴木先生は「ロマンティックラブ」を「ロマン主義文学運動において成立したラブの理想」であり、「ロマンティックラブイデオロギー」とはそうしたロマン主義的ラブが理想であるとするイデオロギー(観念、規範の体系)だって解釈してるみたいなんだけど、それで大丈夫だろうか。
  • もちろん言葉の意味やそれが指し示すものというのは、それを使う人によっていろいろあって、鈴木先生がそういう意味で使うというのならそれでしょうがないのですが、少なくとも社会学の学者先生たちが「ロマンティックラブ」や「ロマンティックラブイデオロギー」という言葉をつかうときには、あんまり鈴木先生のようには使ってないと思う1)論拠は面倒だけど、ギデンズ先生の『親密性の変容』あたり。。彼らが言うロマンティックラブというのは、だいたい「感情的なつながりと親密さをともなった一対一の性的関係」ぐらいにとらえていて、「ロマンティックラブイデオロギー」は「恋愛と結婚と生殖が同じカップルでおこなわれるべきである」という理想、ぐらいにとらえているはず。細かい議論はいずれやるとにして、飛ばします。
  • ロマン主義文学ってので登場する作家は、ルソー、ゲーテ、シラー、ノヴァーリス、シャトーブリアン、ラマルルチーヌ、ユーゴー、ガリバルディ、ってあたり。鈴木先生お気にいりは『レミゼラブル』や『青い花』あたりっぽい。
  • 「ロマン主義は恋愛至上主義である」(p.195)みたいなのもどうなんかな。まあ人生における恋愛の価値がずいぶん高く評価されるようになった、っていうのはあるかもしれんねえ。でもお話の上での話。オースティンの『高慢と偏見』みたいなの、あれロマン主義じゃない気がするし、ロマン主義的な意味ではロマンチックではない気もするけど、それでも我々の恋愛観・恋愛物語の雛形みたいなもんではあるわよねえ。
  • 「ロマン主義の恋愛は、基本的には精神的な恋愛ですが、同時に肉欲、性欲が爆発して、恋人は破滅することが多い」(p.199) とか。破滅するのはいいんですが、あれって精神的な恋愛かなあ。ていうか、なんか内的に矛盾してますよね。そしてここで例に出てくるのが『ロメオとジュリエット』なのでものすごく混乱する。時代がちがいます。例は狭義のロマン主義からとってきてほしい。
  • しかし、ここのところのロマン主義文学の紹介は楽しいので、みんなこの本読んで予備知識を入れて、実際に作品読んでみるといいと思う。私も読みます。人生短いから読みのこした古典文学楽しんでおきたい気がする。

  • この章で私が一番問題だと思うのはこうです。鈴木先生にかなり譲歩して、我々のロマンチックな恋愛観(イメージ)がヨーロッパ19世紀のロマン主義文学運動に「起源」がある、というのを認めるとしましょう。しかし、それがなぜ、結婚と結びついた形のぬるいロマンティックラブイデオロギーに変化したのか、というのを説明しそこねていると思うんですわ。

  • 先生は「ロマンチックラブは毒を抜かれてブルジョワ社会にとりこまれた」(p.228)って言うんですが、私はここを知りたい。なによりロマン主義的恋愛小説そのものがブルジョワ社会の生産物であり、そのブルジョワ社会の秩序を破壊するような毒を最初から含んでいるものなのに、なぜそれの毒を抜いて、文科省御用達みたいな世俗的な恋愛と結婚の理想になったのか、その毒はどうやって抜いたのか、それを説明してくれないと私としては不満なわけです。でもまあ一般読者向けの新書だからそこまで求めるのは求めすぎかという気もします。

ちょっと厳しくなってるけど、こんな感じか。この章はとても内容豊富でおもしろくて、いろいろ考えさせらえるので、何回か読みなおしつつコメントしていきたいですね。みんなも読んでみてください。「ロマンティックラブ」についてもあとで別のエントリー書くことになると思う。

References   [ + ]

1. 論拠は面倒だけど、ギデンズ先生の『親密性の変容』あたり。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (7) 宮廷風恋愛

  • んで、第4章は「宮廷風恋愛」。騎士道恋愛、レイディーとナイトのあれですね。ここらへんから先生の専門に近づいている(はず)だし、内容的にもおもしろいと思う。ぜひ読んであげてほしい。
  • 「恋愛は12〜13世紀西洋の発明だ」っていう20世紀に一部でかなり流行した発想のコアの部分ですわ。鈴木先生の立場は「大体において正しい説のように思われます」(p.140)ということで、これは私はいろいろ文句あるんだけど、でもまあ一部で標準的な説なので読んであげてほしい。
  • 私の解釈では「女性をあがめたてるようなタイプの恋愛観、というかお話は中世末ぐらいに発明されれてバカウケした」ぐらいなんですが、まあねえ。
  • 「宮廷風恋愛」についてはこの本読んであげてください。私もだいたい同じ感じで理解してるし、だいたい同じ感じで講義している。
  • ただ鈴木先生に私がもっている違和感の一番大きいやつは、「でもそれってお話ですよね」ってことですわ。宮廷風恋愛なるものが実際に実行されてたかどうかはよくわからない。わかっているのは、そういうお話がウケてた、ってことだけで。この、思想やお話を、現実にあった事実であるかのように解釈してしまうっていうのは私にはよくわからないです。またこれが、明治日本の「恋愛輸入説」とかにまつわる問題でもある。
  • 「命を賭けて、身分の高い女性に対する忠誠を誓う」(p.146)、その恋愛は肉体的なものではなくあくまで精神的なものである、とかそういう恋愛はかっこいいのですが、まあかっこよすぎていったいそんなのどういう人が実行していたのかわからない。まあそういうのいたとして、数人でしょうか。だって騎士とかふつうの人はなれないわけだしね。セックスどころか、会って話をするだけでもたいへんかもしれないし、そもそも騎士とかってのは平安〜鎌倉時代の武士と同じもので、けっきょく乗馬と武器の扱いがうまくて人殺せる人ってことなので、私みたいなのが会うと無礼な!とか殺されちゃうかもしれないから会いたくない。くわばらくわばら、失礼お許しくだせえ。
  • 領主や騎士様なんてのは平民にとっては雲の上の人、勝手に税金とかとってく悪い人なわけだけど、それがウケたのは吟遊詩人がそういう人々の恋物語を歌ったから。トリスタンとイゾルデの世界っすね。(吟遊詩人使ったのはリュートだけではないのではないか)
  • まあ流しの音楽芸人が、高貴な方々の気高い恋愛を歌ったわけですよね。同時代の琵琶法師の世界。
「学生に、「理想の恋愛とはどのようなものですか」というアンケートをとると、「心からわかり合える人と愛し合う」「一緒にいて楽しくて、落ち着く」など、精神的なファクターを挙げる人が大半を占めます。カラダよりも心が大事、ということですね」(p.150)
  • いやそれはいいですが、先生、そういうアンケートとったらやっぱりそういうことになりますよ。それセックスが楽しい上での話じゃないっすか。セックス楽しくないのにいっしょにいて楽しい、とかあんまりないのかもしれんし。セックスできれば気は合わなくていいです、とかあんまりないっしょ。気のあわない人といるのはしんどいものだし。っていうか、そもそもセックスだけして(何時間かかるかわからんけど、想像で2時間としますか)、はいさよなら、みたいなのは学生様たちには恋愛ではないんではないか。
  • 155頁で、奥様のお婆様にナイトとしてのレディーファーストの振る舞い教えてもらった話はかっこいい!ここはみんな読んでほしいですね。ぜひ買ってあげてください。
  • そしてここらへんで、おそらく鈴木先生の一番最初の発想が出てきます。日本の恋愛は「女性は男性の後ろにいて男性を立てる」ということになっているが、西洋の恋愛は「女性が立てられる側にまわる」ものだ、「忠誠の精神的な恋愛は、日本的な色恋沙汰と構造的に違う」(p.159)これです。
  • まあそういう発想はわかるんですが、西洋人が実際にどうしているかっていうのはほんとにさまざまだろうし(DVとかレイプとか欧米の方がはるかに多いと思う)、『源氏物語』や『平家物語』にだってそういうのあるんじゃないかって言いたくなります。どうでしょうか。
  • ル・シャプラン司祭(カペラーヌス)の『宮廷風恋愛の技法』はおもしろいので、鈴木先生の紹介読んだらぜひ現物読んでみてほしいですね。鈴木先生の解釈もおもしろいと思う。ここらへんがこの本の一番おもしろいところなんじゃないかと思います。
  • 鈴木先生によれば、この本でついに男性は女性を理知的に口説く、ということを発見したのだ、ということだと思います。私もこの解釈にはのりたい、っていうか知的に優れていると自信をもってる女子を男子ががんばって論破しにいく、というフランス映画的恋愛がここで描かれているわけですわね。まあそれってどうなのかという気がしますが、インテリの男女どちらも好きそう。どっちかというと男子の方が好きそうな妄想。ははは。
  • こういうルシャプラン先生の読んでると、いまツイッタでフェミニストをアンチフェミ男子が折伏しに行ってるのもこういう伝統のなかでの話ではないか、っていう気さえしてきます。カペラーヌス先生も鈴木先生もほんとにおもしろいのでぜひ読んでみてほしい。
  • 最後のところ。
日本の女子学生に中世宮廷恋愛由来のレディーファーストを説明すると、「やはり恋愛相手はこうではなくちゃ」という反応が時々帰ってきます。この場合、「真実の愛=レディーファーストの愛」と、やや短絡的ではありますが、中世宮廷恋愛が現代の日本人女性にも強い影響力を及ぼし、その感情生活を縛っている様が見てとれます。(p.176)
  • っていうんですが、これ、宮廷風恋愛だのナイトだのと関係なく、とにかく女子はもちあげられてやさしくされるのが好きだ、ということじゃないですかね。
  • そして、宮廷風恋愛というのは、女性の地位が次第にあがってきて、殿様や貴族の奥様としてあるていどテッペンまで登った女性は、そうした男性からのサービスを期待することができるようになった。愛情やセックスをエサにすれば、女性は男性を支配できることを知った。我々をちゃんとよろこばせないならば、セックスなんかさせないし、そもそも見向きもしない。ちゃんと努力して我々を喜ばせろ!
  • そして、そうした「お話」を吟遊詩人やその他のお話が得意な人々から聞いた人々は、「私もうちの男にそうさせよう!」と決意した。そういう歴史上のなにかを表現してるんじゃないでしょうか。

 

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (6) キリスト教はこわくてあんまりコメントできないけど

  • 第3章はキリスト教
  • これねえ、ギリシアもローマも難しいんですが、ユダヤ〜キリスト教も難しいんですわ。まあ鈴木先生ジェネラリストとしておおざっぱな話を書いて、スペシャリストからつっこんでもらうつもりみたいだから勇気がある。正しい態度だと思います。私もあれやこれや浅くても広い知識もって好きなこと言いたいんですが、むずかしいですよね。
  • 鈴木先生はキリスト教が性的に禁欲的だって言いたいみたい。私もまあそうだろうと思うんですが、旧約聖書にはそういう感じはないですわね。新約聖書のイエスさんの言行にもそういうのはあんまり見あたらない。パウロさんはかなり禁欲的で、そのあとのヒエロニムス先生とかやばい、ってのは私自身もまえに書いてる気がする。そういうんで、あんまり文句つける気はないです。でもあんまりキリスト教の禁欲的な側面を強調すると信者の人々はおこるんちゃうかな。
  • 111頁の「種の保存のため、人間という動物に基本的にインストールされているはずの性欲と快楽のシステム」とかっていうのはこれは絶対だめ!種の保存なんて考えかたは捨てましょう。誰も信じてません。種の保存じゃなくて、「生殖のために進化のなかで〜」ぐらいにしといたらいいと思う。
  • キリスト教の細かいところへのつっこみは専門家にまかせることにして(知識足りなくてこわいから)、この章で問題にしたいのは、姦淫/不倫/浮気が強く非難されるのは、キリスト教の影響だ、って鈴木先生が言いたがってるみたいなところなんですわ。これは本書の最初っからの目標のようで、けっきょく鈴木先生の頭のなかでは「不倫や浮気を非難するのはわれわれの恣意的な「恋愛制度」のためである、単なる文化的なものである、それはたいして根拠がない、それは歴史的に恋愛の歴史を見ればわかる」って言いたそうなんですよね。しかしこの発想は私はあんまりよくないと思う。
  • 他人の嫁に手をつけてはいかん、というのはこれはかなり文化普遍的だと思う。というか、女性に対する性的アクセスの限定というのは「結婚」という制度の核心部分であって、女性のセックスの管理こそが結婚制度の最大の目的である、っていうのはもうものすごく深いところにあると思う(男性の資産管理も大きいけど)。これを理解しないと恋愛や結婚の制度の話はうまく理解できないくらい重要だと思う。
  • たとえばキリスト教以前にも、姦淫は重大な犯罪・非行であったっていうのははっきりしていると思う。たとえば鈴木先生自身が言及しているオウィディウスが皇帝アウグストゥスからローマ追放された話だって、基本的にはアウグストゥスがローマのセックス問題を解決しようとしたためで、アウグストゥスは姦淫を法的に罰するようにしたみたいですね。とにかく女性の浮気は血なまぐさい揉め事のタネになりやすい。古代ギリシア叙事詩の『イリアス』でトロイが滅亡することになるのはそもそもアフロディテさんも認める超美人ヘレネちゃんが浮気したからだし、『オディッセイア』のオディッセウスの奥さんのペネロペさんは、オディッセウスさんが行方不明になってもいい寄る男を拒絶して独身を守り通し、帰ってきたオディッセウスさんが言いよった男を皆殺しにした、みたいな話も有名ですわね。こえー(オディッセウスさん本人は魔女みたいなのとエッチ三昧してたのに)。まあ、ほぼどういう伝統的文化でも妻の不倫・浮気はひどく非難されると思うし、そういうのしない人々はとても誉められる。えらい!
  • ユダヤ民族が「姦淫するな」とか「隣人の妻をほしがるな」って強調したんだって、隣の奥さんに手を出したりする奴があとをたたないからそういう戒めがあるわけでして。
  • 「バレようがバレまいが、浮気それ自体がいかん、という考え方は、江戸以前にはおそらく存在しかったでしょう」っていうのは、たとえば細川忠興の殿様が、ガラシャに見とれた庭師をその場で手打ちにした、みたいな話は誰でも知ってるわけで。こえー。いつぞや学生様の前で、「そういや殿様が植木屋さんを殺したとかそういう話があって」とかって話してたら、「それで刀の血をガラシャの着物でぬぐうんですよねっ!」ってうれしそうに教えてくれる学生様がいて、すごい1)あれ、血糊の話と庭師の話は別みたいね。
  • というわけで、キリスト教的な伝統が、「放埒な」性的な欲求を強く非難する傾向があった、っていうのは私も賛同したいんですが、不倫や浮気を非難するのはキリスト教のせいだ、みたいな話はあんまりよくないんじゃないかと思う。それにキリスト教のもとでもみんなあんまり真面目に生きてなかった、っていう話はほとんど自明だと思う。ここらへんの西洋セックス・恋愛文化の話になると、かなりたくさんの本がありますね。どれもおもしろいです。
  • あんまり議論できないけど、ルージュモン先生やC.S. ルイス先生とかの「エロスとアガペー」みたいな話は、我々の世代はうたがって読まないとならんと思う。あれはおそらくよくない。
  • でもこの章はOK。こういうふうにざっくり話してもらえば、興味もつひとはそっから本読むだろうし。
  • ひとつだけわりと重大な文句書いておくと、結婚という社会の制度と、恋愛という我々の一部がやってる営みとの切り分けが難しくて、そこははっきりさせてほしいと思う。もちろん先生はその二つがちがうものであることはわかって書いてると思うんだけど、「恋愛「制度」」っていう発想と表現するもんだから、そこらへんがわかりにくくなってるわけです
  • そういや、ここらへんで不倫や浮気の話が出てきているのでもう一つコメントすると、タイトル「束縛の歴史」を見て、たいていの人々は恋愛観による束縛というよりは、男女間(あるいは同性間)の恋愛でのパートナーの行動の「束縛」行為を思いうかべると思うんですよね。鈴木先生はそういうのはあんまり好きじゃないのかもしれないけど、まさに結婚や恋愛関係(それが制度的なものであれば)っていうのの核にはそうした束縛や排他性があって、それ議論してくれないとどうも恋愛論っていう気がしないんですわ。おそらく鈴木先生は、そういう「恋愛もセックスも一対一じゃなきゃ」とか「二股は許さん」みたいなのも文化的なもんだから見直してあんまり重要なものではないし見直してもいいだろう、って言いたいんじゃないかと勝手に推測してるんだけど、それはっきりやってくれた方がわかりやすかったかもしれない。

 

あ、昔エントリ書いたかな? → これか

 

 

References   [ + ]

1. あれ、血糊の話と庭師の話は別みたいね。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (5) ローマ人だってそれなりにロマンチックだったんちゃうかなあ

 

 

  • 第2章の古代ローマ編もざっくり軽快でいいと思う。まあ恋愛の歴史とかっていう巨大な話はどっかでざっくりやらないとしょうがないですね。
  • ただ、バッカス/デュオニソスを「愛の神」(p.72)と呼ぶのはちょっと問題があるんじゃないかと思う。もっとはっきりセックス・性欲の神様、って呼んだらいいのではないか。どうも日本の大学の先生たちはセックスと性欲の話をするのを避けてるところがあって、まあ女子大とかで毎日毎日セックスセックスと口に出してるとたしかに差し支えがあるんですが、恋愛の話するときにセックスの話しないってのいうのも難しいし。
  • ローマ時代の恋愛観が「女は強い男がゲットするもの」というやつだっていうのは、まあ言いたいことはわかるけどちょっと乱暴すぎるかなあ。むしろ「強い男/権力者はモテる!金と権力があればなんでもウハウハ!」ではないんかな。
  • まあ実際にどうだったかはわからないんだけど、一番の問題は、ローマ時代の代表格として鈴木先生がもってくるオウィディウス先生の『恋愛指南』は、「強い男が女をゲット!」とかそういうものではないってことですわ。
  • 「強引にチューしてしまえ」「チューしたらもっとすごいこともしてよい!」っていう部分をとってきてローマ時代の恋愛観は乱暴で女性をモノとして見ている(「モノ化」)って議論してるんだけど、私は『恋愛指南』をそう読むのは無理だと思う。ごくざっくりやるっていうのは賛成なんだけど、題材はえらばないとならんというか。
  • あれを読んだ人は誰でもわかるように、『恋愛指南』は非常にこっけいなマニュアル本で、まあ鈴木先生が指摘しているように乱暴そうに見えるところもあるけど、実際には情けない中年男とかがいっしょうけんめい女性にモテようと苦労する話だし、男性向けだけでなく女性向けの部分もあるわけで。

「愛する女性の誕生日こそは、君が大いに恐れおののくべき日だ。何か贈り物をしなければならない日、それこそは君にとって災厄の日というべきだ。君がどんなにうまくかわしたとしても、やはり彼女は巻き上げるに決まっている。女というものは、燃え上がって愛を求める男から財貨をかすめ取る術を編み出すものなのだ」(p. 31)

とかっていうのは、もうかわいそうとしか言いようがないですよね。かわいそす。プレゼントとは、女性が男性からまきあげるものなのです。

  • 「ローマ人の場合は「男は支配してなんぼ」だったのです。」「ポール・ヴェーヌなどは、ローマ人の「強姦力」なんて言い方をしています。経済力で男の価値を測る、という基準が現代のジェンダーにはありますが、経済力のかわりに「強姦力」だったわけです。すごい話ですね。」(p.99)とかありますが、まあたしかに最強の神にして強姦マニアのユピテル(ジュピター)様他、乱暴なのが好きな神様はたくさんいるし、歴史や物語でもそういうのは好まれてるっぽいですが、ローマ人たちがそうした生活を実際に生きていた、強姦はごく普通のことであった、とか考えるのはちょっとどうだろうかとは思います。あとこのヴェーヌ先生の本、どこにその「強姦力」があるのか、ページまでつけてもらいたいです。私ざっと見たけど簡単には見つけられないです。
  • これは性暴力とかに関する重要なポイントになってしまうんですが、そうした性暴力が当然のものとして賞賛されるような社会っていうのはめったにないわけです。へんなジェンダー論みたいなのだと、男性中心的社会では女性に対する性暴力が当然のものとされている、といった説明がされたりするんですが、あんまりよくない。なぜかというと、どういう男性も、その親の半分は女性であり、子どもの半分も女性だからですね。自分の家族を強姦されて喜ぶ男性なんてのはほとんどいないはずです。『ゴッドファーザー』で、主人公の姉を殴る夫が殺されたりしてるじゃないですか。ああいうもんだと思う。
  • 古代ギリシアとかでは女性の結婚は親や男兄弟がとりきめるものだったと思うのですが、彼らも自分の経済的・政治的利益の他に、自分の子どもや姉妹の幸福を当然祈って相手を選んだでしょう。古代ローマ人も当然そうだったはずです。もちろん、そうした親兄弟の後ろ盾がない女性は非常に厳しい生活をしていたとは思います。でも、強姦だのなんだのがほめられる社会なんてのはちょっと考えられない。
  • ローマ時代は抒情詩とか盛んだったはずで、実際ヴェーヌ先生の『古代ローマの恋愛詩』では、『恋愛指南』のような滑稽なやつだけでなく、いろんなロマンチックな詩が紹介されていると思う。どうしてロマンチックな詩が書かれたかというと、私の根拠のないカンでは、それは女性を口説くためですね。現代日本でミュージシャンがラブソング作るのと同じ理由によるんじゃないかな。そして、前のエントリでも述べたように、女性を口説く必要があるのは、女性になにがしかの決定権があるからで、決定権がなくても女性は男性にいじわるしたりすることは簡単なわけです。美人奴隷とか買ってきたって、毎日めそめそ泣いてたり、むすっとしてたりしたらいやじゃないっすか。そんなのどんな美人だてたえられない。どうしても女性は喜ばせて笑顔で対応してもらわないとならん、っていうのがどの時代の男性にとって大きな課題だったんじゃないっすかね。
  • んで最後にやられる現代日本との対比ですが、ローマと日本は「女性のモノ化」という点で共通しているって鈴木先生は考えてるんかな。まあオウィディウスとナンパ指南本の類似性とかは私もおもしろいと思いますね。でも必ずしも恋愛の相手をモノ化しているとも、代替可能な何かと見ている(p.103)とは思えない。だって、実際に『古代ローマの恋愛詩』やその他の古代の抒情詩で歌われている感情は、そういうものとはまったく違う、おそらく我々の多くが経験しているロマンチックなやつじゃないですか。われわれが好むポップソングの恋愛とそんなに違いますか?異文化の一部とってきてなんか押しつけるのはひかえめにした方がいいんじゃないかという気がします。

おまけ。私が授業で使ってるオウィディウスまわりのレジュメ。



 


(追記)

  • 鈴木先生のやつ、ちょっともどってオウィディウスのところで書きもらしたことがあるんだけど、オウィディウスの時代、初代皇帝アウグストゥスが姦淫を禁じる法令だしてるはずなんよね。いま調べたら en.wikipedia.org/wiki/Lex_Julia これ。ユリア法? 18-17BC 。
  • 私法上も公法上も、姦淫は罪、ある状況下で不倫しているの見つかったら旦那から殺されたりすることもありえるっぽい。しらんけど。
  • オウィディウスの『恋愛指南』での口説きの対象が人妻なのははっきりしていて、これはまあそもそも色気づくと女性は結婚させられるので、恋愛は結婚して子どもできたりして旦那が飽きてから、ってことになってると思う。
  • オウィディウスの想定女性はさらに小間使いとかもってる地位の女子なので、おうちに入れてもらって無理矢理セックスしようとしても音とかでばれちゃうからデートレイプしほうだい、とかってのはない。
  • っていうかそもそもそんなの試みたのがバレたら旦那から殺される。
  • 鈴木先生は古代ローマは超家父長制で男の権力が強かったから女なんかどうでもしほうだい、みたいに思ってるみたいだけど、家父長制が強いからこそ他人の女には簡単には手を出せず、その女と共謀共犯関係に入る必要があり、だからこそ巧妙に口説くことが必要になったのだと理解している。
  • 19世紀の話だけど、おそらく恋愛結婚というのが一般的になっていくのは、一つには家庭内で、女性に家なり商売なりパーティーの接客なりのいろんな業務をしてもらわなきゃならないために女性の地位があがったこととか、そうした主婦というか奥様になるための教育が必要になって教育期間が長くなって女性の婚期が遅くなり、男性も資産もたないと結婚できなかった(ブルジョワ階級)てのがあって、男性は人妻に手をつけることよりまずは自分の配偶者を見つけるのがたいへんになった、とかそういうのが関与してるんかと思ってるけどよくわからない。
  • まあとにかく恋愛は女性の地位向上と関係があり、そのけっこうな部分が経済的要因の変化の結果なんだろう。
  • こういうのは恋愛の歴史じゃなくて結婚の歴史を読むと説明されている。クーンツ先生あたりがおすすめ。 amzn.to/2WoYnRO これ翻訳してほしい。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (4) こういうのは許しませんyo!

  • んでプラトン先生の恋愛論と現代日本の恋愛との比較(!)。っていうか、そもそも「論」と現実を比較していいのかどうか。

「現代の日本の恋愛と比べると、明らかに違うのは、この知的な探求と色恋沙汰が微妙に接合している点です。」

「日本では、知的探求に価値を置くやり方、頭がいいのがカッコイイとする「萌え」方は、ヨーロッパほど一般的ではありません。そもそもが知的なものに対する憧れよりも、つまりイデア的な憧れよりも、実生活の中でいかに周囲とうまくやっていくのか、という同調圧力の方が強く働きます。だからこそ、知的な探求、イデアの世界への憧れが「エロい」という発想は、おそらく皆無でしょう。(p.63)

  • いや、先生それどっから来たんすか。鈴木先生が考えてる日本人の「恋愛」というのはどこで誰がやってる恋愛のことなのかさっぱりわからない。新書なのでアカデミックな話を適当にはしょるのはしょうがないと思うんですが、こういうなにも根拠を示さない放言みたいなのあると、学生様にはかなり読ませづらいです。
  • まず一つには、「頭いい」とか「教養がある」そういうのをセクシーだと思う人々は、男女ともにけっこういるんちゃうかな。男性同性愛でもインテリ階層ではそういうのありそうだし、女子異性愛者でも、男性ものすごい難しい話をぽーっとなって聞いてるっぽい人々はいるように思う。(どういうわけか私の授業ではみんな寝てしまうんだけどなぜだろうか)
  • また、それがヨーロッパとどう違うかっていうのの根拠もなにも示してくれてない。まあおフランス映画とかで、女子を口説くときに中年〜高齢男性がものすごい難しいことをベラベラまくしたてる、っていうのはたしかによく見ますが、それってフランス人なりイタリア人なりドイツ人なりハンガリー人なりの特徴的な人々なんすか。
  • こういうの、なにも証拠も根拠も出さないってのは、単に「日本は遅れてる」とかそういうの言いたいだけなんじゃないかと思ってしまって、非常に印象よくないっす。
  • ていうか、知性がエロいのはあたりまえではないか。指原先生がNo.1なのもあれは知性だ! 林檎先生のエロさを聞け!
  • 学生様や一般読者が読んで「ほー、なるほど日本では知的なのは価値がないのだな」とか信じられちゃったらどうしてくれるんですか。ますますモテなくなるじゃないっすか! 許しません。
  • これはまあまじめな話、せめて鈴木先生がヨーロッパで見てきた恋愛模様と、日本で見ている恋愛模様を比較すればまだましだと思う。どちら経験した見聞きできるのは広大な人間社会のほんの一部でしかないと思うけど、なにかあれば「まあ鈴木先生が見てきた世界はそうなのだな」ぐらいで納得しないまでも我慢はしようと思うのです。でもなにも根拠がないとなると、学生様には「こういうなにも根拠しめしてないのにひっかかってしまうようでは真理へのエロスが足りません」とかお説教しなきゃならんようになってしまう。その結果、「あんたががエロス過剰なんちゃうか!?」とか怒られることになって非常に困ります。
  • まあこういう簡単に「ヨーロッパではああなのに、日本ではこうだ」みたいなのは、20年ぐらい前まではけっこう許されてたと思うんですが、21世紀になってクリシン教育とか重視されたり、にツイッタとか一般的になってからはちょっと難しいですよね。いやな時代になった、という感じもしますが、われわれは対応していかないとならんと思う。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (3) イデア論まわり

  • あ、ちなみに、54ページの『饗宴』の出典、久保訳のp.76って指示してあるけど、おそらくpp. 84-85だと思う。あと、複数ページのときはp.じゃなくてpp. って表記するようお願いします。
  • 第1章、55頁からのイデア論の話なんですが、これねえ、どう解釈していいのかよくわからない。
  • 「イデア論は、欧米の文化の中に深く入りこんでいて、西洋の考え方の一つの基礎になっています」(p.55)ぐらいだとまあ微妙なんだけど、「日本語というシステムの中では、このイデア論は非常にわかりにくい」(同)とか言われちゃうと、「いや、西洋人にもわかりにくいだろう」と言いたくなりますわよね。さらに(イデア論とは)「神の見ている世界のことです」という説明されちゃうと、「論が世界なの?それってカテゴリーちゃうんちゃう?」とか言いたくなる。「イデアというのは具体的に、正しい考え、善い行い、美しいオブジェや人のことではなく、正しさそのもの、善さそのもの、美しさそのものだ」っていう説明も、まあわかったようなわからないような。これ、おそらくとりあえず猫のタマと猫のイデアの話して、タマは猫のイデアが具体的になった一例です、みたいな話しないとならんと思う。しかし新書、それも哲学じゃなくて恋愛論の新書では無理か。
  • 鈴木先生はイデア論説明するのに『パイドロス』もってくるんですが、読者にはなぜ突然『パイドロス』もってこられるのかわからないと思う。私だったらむしろ『饗宴』のソクラテスの演説のなかのディオティマ先生のあたり使うと思う、っていうかまあそこ使ってますわ。これは好みかな。
  • 「ちなみに概念という言葉は、英語ではidea、フランス語ではidéeと、イデアと同じ単語を使います。……こんな言葉の使い方を見ているだけで、ヨーロッパにいかにイデア論が心頭しているのかわかる」(pp. 57-58)とかっていうのも苦しい。そういう問題ではないと思う。
  • 「少年の美しさに対する肉体的愛はレベルが低い」(p.59)って言われてて、まあ『饗宴』でも『パイドロス』でもそうなんだと思うけど、『饗宴』のディオティマさんのお説教で次のようになっている。

……恋のことに向かって正しくすすむ者はだれでも、いまだ年若いうちかに、美しい肉体に向かうことからはじめなければなりません。そしてそのときの導き手が正しく導いてくれるばあいには、最初、一つの肉体を恋い求め、ここで美しい言論(ロゴス)を生み出さなければなりません。

しかしそれに次いで理解しなければならないことがあります。ひっきょう肉体であるかぎり、いずれの肉体の美もほかの肉体の美と同類であること、したがってまた、容姿の美を追求する必要のあるとき、肉体の美はすべて同一であり唯一のものであることを考えないとしたら、それはたいへん愚かな考えである旨を理解しなければならないのです。この反省がなされたうえは、すべての美しい肉体を恋する者となって、一個の肉体にこがれる恋の、あのはげしさを蔑み軽んじて、その束縛の力を弛めなければなりません。

しかし、それに次いで、魂のうちの美は肉体の美よりも尊しと見なさなければなりません。かくして、人あって魂の立派な者なら、よしその肉体が花と輝く魅力に乏しくとも、これに満足し、この者を恋し、心にかけて、その若者たちを善導するような言論(ロゴス)を産みださなければなりません。これはつまり、くだんの者が、この段階にいたって、人間の営みや法に内在する美を眺め、それらのものすべては、ひっきょう、たがいに同類であるいという事実を観取するよう強制されてのことなのです。もともと、このことは、肉体の美しさを瑣末なものと見なすようにさせようという意図から出ているのです。

……つまり、地上のもろもろの美しいものを出発点として、つぎになにかの美を目標としつつ、上昇してくからですが、そのばあい、階段を登るように、一つの美しい肉体から二つの美しい肉体へ、二つの美しい肉体からすべての美しい肉体へ、そして美しい肉体から数々の美しい人間の営みへ、人間の営みからもろもろの美しい学問へ、もろもろの学問からあの美そのものを対象とする学問へと行きつくわけです。つまりは、ここにおいて、美であるものそのものを知るに至るのです。(鈴木照夫訳)

  • 解釈はものすごくむずかしいですが、とりあえずふつうに読めば、エロの道を極めようとする男(哲学者)は、まず目の前の美少年の体を賞味して、次に美少年ならなんでもOKになり、次に肉体から精神の美へ向かい、最後に美そのもの(美のイデア)に向かうのです、ってことなので、最初は美少年と肉体的にイチャイチャすることからはじめないとならないっぽい。ソクラテス先生はその道を通りぬけて達人になったからもうあんまりイチャイチャしないかもしれないけど、最初はやはりイチャイチャで。私そういう才能なかったから哲学者なれなかったんですよね。でもとりあえず哲学者めざす若者は恋もがんばってください。
  • まあイデア論にそれほど深入りする必要ないなら、このディオティマ先生の理屈を使って、A君の美しい身体と、B君の美しい身体と、C君の〜は、どれも、「美しい」という性質を共有しているのだ、ふつうのわれわれは美しい身体を見ることしかできないが、達人は複数の美しい身体に共通の「美しさそのもの」、すなわち「美のイデア」を見ることができるようなるはずだ、みたいな話はできないでもないと思う。

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (2) プラトン『饗宴』まわり

全体的にゆっくり考えたいところはいくつかあるんだけど、しばらく目についたとこだけ順にコメントしていきます。

  • 最初、古代ギリシアからはじまっているのはよいと思うんだけど、その前に国内標準的なジェンダー論・クィア論のお説教ついているのがなんだかイヤん。鈴木先生がこの本でやりたいことの一つは、「我々が標準的な恋愛のあるべき姿と思っているのは、単なる歴史的に構築されたものであって、なにもその根拠はない」みたいな形の主張なんじゃないかと思う。ただし、鈴木先生は直接にはこういう表現はしてない。まあいろいろ言いたいことはあるけど飛ばす。
  • 古代ギリシアの恋愛観として大々的に紹介されるのがプラトン先生なんだけど、これ大丈夫なんかと思います。そりゃ我々にとってプラトン先生はとても大事な先生なんだけど、当時の人々にとってのプラトン先生っていうのはやっぱりかなり特殊な人で、彼が言ってることをみんなまにうけたわけではないと思う。プラトン先生の恋愛論を古代ギリシアの恋愛論、みたいに書かれるとリンダ困ってしまう。
  • でもとりあえずアリストファネス先生の人間球体論は基本。こういうの載ってるやつで学生様が読みやすいやつが欲しかったのでとてもえらい。しかし、その前にやっぱり『饗宴』がどういう枠組みの話か、っていう話はいちおうしてほしいものだと思います。アリストファネス先生の話はおもしろいし、『饗宴』といえばこの話、ってくらい重要なわけだけど、いちおう『饗宴』は6人だか7人だかの話が対話を含めて有機的に発展していくところがおもしろいわけだし。まあそこまで求めるのは求めすぎか。
  • 「古代ギリシアでは一時期、もっとも価値があり「正常」であったのは男性同士の愛でした」(p.45)とかそういうのはおそらく書きすぎだと思う。ドーヴァー先生あたりもそういうことは言ってないと思う。単にアテネを中心とした古代ギリシア社会では、一時期そういう慣行があった、ぐらいじゃないんかね。まあプラトン先生なんかはガチで同性愛好きだったと思うけど。
  • プラトンと同時期の快楽主義者アリスティッポス先生なんかは女性っていうか美人ヘタイラの方が好きだったみたいな感じだし。一般に同性愛の方が偉いとかそっちの方が楽しいとかっていうのは、やっぱり一部の人々の話ちゃうかな。ドーヴァー先生もう一回読んでみないとならんですね。でもとにかく、男同士の愛の方が正常で高級だ、っていうのはプラトン先生のまわりではそうだったかもしれないけど、一般にそうだったろうとはそんな簡単には言えないと思う。
  • むしろ指摘しておくべきなのは、当時の(男女の)結婚というのはふつうは親が経済的・政治的な配慮の上でとりきめるものであって、当人たちの恋愛感情なんてのはあんまり重視されていなかった、ってことだろうと思う。ふつうの家の女性に惚れても、それと結婚できるとは限らない、というかまあだいたい男性は、嫁入り前の中上流階級の女性とは会うことができなかったから我々が考える恋愛とかはできなかった、ということだと思う。ヘタイラ(高級娼婦)のお姉さんたちとの恋愛というのはあったかもしれないけど、まあヘタイラさんはいろいろあれで、そうした恋愛が私たちの思う恋愛(どんな?)とはちょっとちがったものであったかもしれない。奴隷もってる男性市民は女性家内奴隷とかともセックスしてたかもしれません(っていうかしてたと思う)が、それもなんか恋愛っていうのとはちょっとちがうかもしれませんね。
  • まあこういうのは専門家にまかせないとならんですが、なんにしても当時の男性にとっては(今考えるような意味で)「女性を口説く」ということはあんまりなかったわけです。「女性を口説く」ということの前提には「女性に決定権がある」ということが必要で、そうでなければお金で買ってきたり、戦争で捕まえてきてしまえばよいわけです。つまり、恋愛というのは苦労せずセックスできるのならさほど問題にならない、のかもしれない。
  • 一方、プラトン『饗宴』などで問題になっている「パイデラステア」(この語は出してほしかった)での男性カップルは、お金で買ってきたり戦争でつかまえてきたりする関係ではない。おつきあいするにはイケメンの方がいいだろうし、頭もいい方がいいだろうから、特定の若者はおじさんからモテるし、若者の方もなるべく自分の成長と出世の役に立つおじさんとつきあいたいだろう。その関係は支配従属関係ではなく、お互いの自発的な好意にもとづいたものである必要があるので、互いにいろいろ誘惑したり口説いたりする余地があるわけです。
  • 長くなったので途中で切ります。
  • 私が書いたプラトン先生まわりのは下。

 

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『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (1) まえおき

福岡大学の鈴木隆美先生が『恋愛制度、束縛の2500年史』っていう新書を出して注目してます。ある程度アカデミックな恋愛の歴史、恋愛観の歴史みたいなのはみんな興味あるのに読みやすいやつがないから、新書レベルの本が出るのはとてもいいですね。少しずつ読んでいきたいと思います。っていうか、実はゼミで3回ぐらいで部分ごとに読んでいこうとしている。

一読してみて、一番疑問なのは、「ヨーロッパの愛と日本の愛では、何がどう違うのでしょうか」(p.14)っていう問いがそもそもまともな問いなのかってことですわね。そもそもヨーロッパの愛と日本の愛は違うのですか。その根拠はなんですか。鈴木先生はヨーロッパと日本の恋愛についてどのていどのことを知っているのだろう。私どっちもぜんぜん知らないので、とても気になります。

鈴木先生は、この本をフランスのおばあちゃんが孫に対して言う「ジュテーム」ってのから話をはじめてるんだけど、それ恋愛における「ジュテーム」と同じなのかどうかもよくわからない。まあヨーロッパと日本の愛はちがうよ、って言ってるときは性的な恋愛のことを言ってるんだと思うんだけど、おフランスの恋愛と日本の恋愛はそんなに違うもんでしょうか。そらおフランスの文学で描かれる恋愛と、日本の文学で描かれる恋愛はちがうでしょうけど。でも作品なんで星の数ほどあるし、生身の人間もそれよりずっと多いし、ヨーロッパと日本の恋愛は違う、っていうとき、何が言われてるんだろう。

この、文学や思想作品で扱われている恋愛と、生身の人々の生活での恋愛ってのごっちゃにする人がいて私とても気になるんですが、鈴木先生はそうした罠にはまってないといいなと思います。

ツイッタやこのブログでも何回か指摘しているように、日本の文学研究〜社会学のあたりでは「恋愛輸入説」ってのがあって、我々が考えてる恋愛というものは、明治期に文学者たちによって西洋から輸入されたっことになってるみたいです。私これよくわからないんですが。そんなはずはないと思う。私が尊敬する文学研究者の小谷野敦先生なんかははっきりそういうのはおかしな理屈だって指摘してますね。『日本恋愛思想史』とか読んでみてください。私も基本的には小谷野先生に賛成。恋愛輸入説賛成派で、さらに、その輸入は不完全で奇妙なものであって、そのまんま日本では恋愛が「ガラパゴス化」しているとかそういう議論をしたいらしい。私こういう文化論みたいなのはほんとによくわからないんだけど、まあそういう議論ができるのかどうか、考えながら読んでいきたいです。

あ、タイトルにある「恋愛制度」と「束縛」は、恋愛というのは文化的な制度であって、歴史をもつということと、それは人間が勝手に作りだした制度であるので、そういうのに捕われているのは束縛である、ってなことだと思います。「制度」っていうのがどういうことかとか、その制度に捕われるというのはどういうことか、っていうのも、読んでいけばいずれ説明してくれるんじゃないかと思います。

あらかじめ、下の本読んでおくとよいです。小谷野先生のセレクションは悪くない。