堀田義太郎先生の「女性専用車両は不当な差別か」について (3) 痴漢は女性差別の産物

続き https://gendai.ismedia.jp/articles/-/97683

「被害を訴える資格」にからんで、ちょっと本筋とずれた細かい話になってしまうのですが、堀田先生の痴漢の「動機」のようなものについての解釈についても私は疑問があります。

堀田先生は牧野雅子先生の文章を肯定的に引用しています。

女性専用車両を男性差別であると考える論者に共通しているのは、痴漢が、あたかもごく少数の逸脱者であって、自分には無関係、あるいは、痴漢に間違われたり、痴漢対策によって不利益を被っている「被害者」だという認識に立っていることである。

女性専用車両が男性差別であるかどうかという話(堀田先生も私も少なくとも「形式的には」差別であると認める)とは別に、牧野先生や堀田先生は、「女性専用車両を男性差別だと考える 論者 」の心理(認識や動機)を問題にします。こういういかにも社会学っぽいやりかたが、私にわかりにくいところですね。牧野先生や堀田先生たちには、 「なぜあいつらはそんなことを言うのか」という説明が必要だ と思われている。

私からすれば、専用車両がなんらかの意味で(「形式的」なものであれ)差別なのであれば、それを指摘するのはなにも問題がない、むしろ当然であると思われるのですが、先生たちにとってはそうではない。そうした指摘をする人々にはなにか悪しき動機や、誤った(あるいは欠陥のある)認識がある、そういうことになっているのだと思います。

そして、堀田先生や牧野先生の議論では、そうした欠陥ある認識や悪しき動機のようなものは、男性優位社会なるものの害悪に集約されるようです。ここらへんの理屈はとても違和感があり、私にはよく理解できないところですね。

牧野先生は昔の週刊誌とかをひっぱり出してきて、痴漢がファンタジーとして楽しまれているだけでなく痴漢被害とかがおもしろおかしく記事にされているのを指摘して、「それはごく少数の痴漢犯罪者だけの問題ではない」というわけです1。そこから堀田先生は、男性の性暴力への傾向は社会によって植えつけられたものであり、痴漢は男性優位社会の産物だということに同意する。しかしこの二つの主張にはほとんど根拠がないと思うんですよ。むしろこれは第二波フェミニズムの中心的な解釈であり、ひとつの仮説であり、フェミニズムの「理論」であり、前提となる信念なんですよね。性暴力への傾向みたいなのの一部が生得的であるかもしれないし、また男性優位社会(私はそれがなんであるか理解できません)でなくても痴漢する奴はいるかもしれない。

参照されている牧野先生の『痴漢とはなにか』の229頁を見ると、堀田先生が引用したあとにこのように述べられています。

痴漢をはじめとする性暴力は、「性差別社会の産物」である。性差別に起因する、現実の被害を防止するための対策が、一件、差別する側に負担を強いるものになるのは否めない。女性専用車両が男性差別だとの主張は、「差別する側に負担を強いる」という点を問題にしたものにすぎず、背景にある差別が問われていない。これまでの歴史や、女性が置かれている状況を無視して、表面的な現象を論じても意味はない。

性暴力が性差別社会の産物であるということの根拠は、角田由紀子先生の『性差別と暴力』です。まさにこれは立証されていない信念でしかないと私は判断します。けっきょく牧野〜堀田先生は、痴漢は男性全体の差別の結果なのだから男性全体が負担を負うべきだ、と主張しているわけですが、これはつまり「連帯責任」ってやつですね。しかしそんなものは、 われわれが責任を負うべき(負わされるべき)なのはわれわれ個人の行為と結果に対してのみである 、という近代社会の大原則に反する2。そこらへん両先生どう考えてるのか心配になります。なぜ「男性」 全体 なのか。もっと広い「男女全員」でないのはなぜか、あるいは「20〜50才の男性」や「立派なサラリーマン風の中年」じゃなくて「男性」なのか。そういうの説明できるのだろうか。

また続きます。

脚注:

1

斉藤先生は男性はセックスをつかって女性を支配しようとしてていると言うわけですが、これはさらに違和感がある。セックスするために女性を支配するんじゃないのですか。

2

もちろん、意識の高い人びとがそうした責任を自覚して自発的に負担を負おうとするのはえらい。すばらしい!立派だ!でも法的なかたちで要求され強制されるべきこではないと思います。

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