翻訳ゲリラ:生物学的性はバイナリーだ、たとえ性役割がレインボーだったとしても

SNSで生物学者の先生が「人間の性は男と女の2つに生物学的に決定されている」と発言して少し話題になってたので、生物学者が考えている「性」についての論説をゲリラ訳。地の塩のみんなでがんばりました

Wolfgang Goymann, Henrik Brumm, Peter M. Kappeler (2023) “Biological sex is binary, even though there is a rainbow of sex roles”, BioEssays, 45 (2). https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1002/bies.202200173 のゲリラ訳です。著作権的にはブラックだけど、オープンアクセスだしお目こぼしいただけるだろう、と勝手に思ってます。注なんかは省略しているので原文見てください。


生物学的性はバイナリーだ、たとえ性役割がレインボーだったとしても

生物学的性を否定することは、自種中心主義であり、自種優越主義を促進する

概要

生物医学者・社会科学者たちは、次第に生物学的性を疑問視するようになっている。彼らは、性(セックス)は二値(バイナリー)の形質というよりは、グラデーションのあるスペクトラムであると主張している。トップ科学雑誌もこの相対主義的な見方を採用するようになっており、これによって基本的な生物学的事実に反するようになっている。私たちは、ジェンダー多様な人々に対してより包摂的な環境をつくりだそうとする努力にまったく賛同するものであるが、このことは生物学的性を否定することを要求するものではない。むしろ反対に、生物学的性を拒絶しようとすることは、進化についての知識不足にもとづいたものであり、自種中心主義(species chauvinism)を支持することであり、人間的なアイデンティティを何百万もの他の生物種に押しつけようとするものである。私たちは、両性の生物学的な定義は、生命の多様性を認識する中心要素でありつづけるものだと主張する。生物学的性とジェンダーの独得のコンビネーションをともなっている人間は、人間以外の動植物とはこの点で異なっている。生物学的性の概念を否定することは、それがどんな大義にもとづくものであれ、究極的には科学の進歩を損ない、「オルタナティブな真実」の水門を開くことにつながりかねない。

はじめに:包摂的な社会環境とすでに確立している生物学の概念

多くの人間社会では、次第に多様なアイデンティティを受けいれるようになっている。平等、多様性、包括といったものに対する支援も強化されつつある。ジェンダー平等に関する論争のなかで、哲学者やジェンダー学者の中には、生物学的性がその本性からして2つであるということを否定する人々もいる。その代わりに、彼ら彼女らは生物学的性が、「文脈依存的な多元的変数である」と、もしくは、単なる社会的構築物でしかないという考えを押し進めてきた。驚くべきことに、トップクラスのサイエンス雑誌がこうした相対主義的な見解を採用しつつある。たとえば、2015年には、Nature誌が「再定義されるセックス」という記事を掲載した。これは、二つのセックスという概念はあまりに単純で、セックスはグラデーションのあるスペクトラムであると主張するものだった。数年後、このNatureの論説記事でも、「研究・医療コミュニティでは、現在のところ、セックスは「オスとメス」よりももっと複雑なものだとみなされており、個々人のセックスやジェンダーに関して、科学がなにかはっきりと結論することができるという考えは根本的にまちがっている」と主張されている。最近、『サイエンス』誌に掲載されたあるレターによると、生物学的性は「多元的変数空間における文脈依存的なまとまり」であり、オスとメスという用語は「複数の変数と柔軟に関わりあう文脈依存的カテゴリーとして扱われなければならない」と主張されている。有力サイエンス雑誌のこうした主張には非常に驚かされる。というのも、そうした主張はセックスという十分確立した生物学的概念を無視もしくは拒否さえし、それゆえに最終的には生物学の基礎的な原理すらも否定するものだからである。

とはいえ、影響力あるサイエンス雑誌がセックスを再定義しようとするのは、称賛すべき大義のためである。つまり、アカデミアとその外にいる多様なジェンダーの人々のためにいっそう包摂的な環境を整備していきたいと願っているのだ。しかしながら、多様なジェンダーの人々の権利を認めるために、セックスという生物学的概念を否定する必要はまったくない。セックスとジェンダーは、2つのまったくもって異なる問題だからである。ここでの問題の要点は、セックスとジェンダーおよびその2つ用語の関係の定義が広く理解されていないことであるように思われる。このために、非常に影響力のある雑誌の読者の間で、間違った考えがどんどん広まっている。特に生物医学(バイオメディシン)の領域では、進化生物学者がどのようにセックスを生物学的性と定義しているのかを単にわかっていない人が数多くいる。またほかの研究者たちは、何が生物学的性かは十分よくわかっているものの、すべての人を公正に取り扱おうとする政治的意志のために、それをあえて不鮮明なものにしようとしている。こうした立場を動機づけているのは、どうやら自然主義的誤謬(自然的な性質に基づいて道徳的判断を行う間違い)、あるいは自然に訴える論法(あるものが自然であることを理由にそれはよいものだと想定すること)である。それによって「自然であること」は倫理学にとってまったく無関係で重要なものではない、ということを見落とすわけだ。こうした間違った捉え方が科学者によって広められてしまえば、それは人々が直接に科学一般を拒絶するようなことにつながりかねず、それは社会の進歩にとってひどい損害になるだろう。本論での私たちの主要な目標は、科学雑誌が科学的な事実を無視することで引き起こす危険に注意を引き、同時に生物学的性という概念を明確化することである。

二値変数としての生物学的性

生物学的性は、有性生殖をおこなう植物種や動物種すべてにおいて二値変数として定義される。少数の例外を除いて、すべての有性生殖生命体は、一つでも三つでもなく二つの型の配偶子を生み出し、それらはそのサイズの違いによって識別される。メスは、定義によって、大きな配偶子(卵)を生みだし、オスは、定義によって、小さく、通常は運動性の配偶子(精子)を生みだす。メスとオスの配偶子のサイズにこのようにはっきりと二分法が成り立つことは、「異型配偶子接合」と呼ばれており、生物学の根本的な原理を指す(図1)。

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生物学的性は、子孫を生みだすためのふたつの別々の進化的戦略を反映している。つまり、メスの戦略は少数の大きな配偶子を生みだし、オスの戦略は少数の小さな(しばしば運動性の)配偶子を生み出す。この根本的な定義はすべての有性生殖する生命体に妥当する。セックスに関連した遺伝子型と表現型(性染色体、第一次成長、第二次性徴、性ホルモンを含む)と性役割と性分化は、生物学的性の帰結である。遺伝子型と表現型の特徴は、性役割とともに、セックスを定義する操作的な基準としてしばしば使われる。しかし、これらの特性は有性生殖する生物種が違えば大きく異なってくるので、一部の種にしか有効ではない。性役割について具体的にみていくと、様々な性役割を持つ動物たちの例が見つかる。

(タツノオトシゴにおいてはメスがオスに受胎させ、オスが育児嚢に子どもを抱える。カクレクマノミはオスからメスに自身の性を変え、そしてその性を変えたメスが集団の中で優位な立場となる。ワオキツネザルもメスが集団の中で優位な立場となっている。アカシカでは雄が複数の雌を独占する。そして雌だけが子の世話をするが、カッコウの一種のムナグロバンケンでは、雌が複数の雄を独占し、雄が子育てをする。)

有性生殖は同じ構造の配偶子の融合(同型配偶)に進化的起源がある。現代的な理解によると、我々が観察する卵子と精子の間のサイズの二型性(異形配偶)には、受精の際に生殖細胞どうしが競合することで選択圧がかかった。簡単に言えば、仮に同じリソースをもっていると想定すると、生命体は配偶子の大きさか、あるいは配偶子の数のどちらかに投資することができる。 大きな生殖細胞──つまり卵子──は、接合子〔受精卵〕形成に対して、エネルギー資源や細胞内小器官、遺伝物質を提供することになる。対照的に、小さな配偶子──つまり精子(あるいは植物における花粉)──が接合子形成に対して提供するものは、ほとんど遺伝的な材料だけである。進化的な観点から見ると、オス(精子を作る性)は、メスが提供した資源をうまく搾取する寄生生物のようなものである。どの卵子にとっても、エネルギー資源を追加してくれて、それによって接合子の生き残りを増やしてくれる別の卵子と融合する方が有利になるかもしれない。しかし、ずっと小さな精子は、大きな細胞よりもずっと大量に生産することができ、そしてずっと運動性の高いものにすることができる。したがって、精子は融合できる他の配偶子とずっと出会いやすくなる。これが意味するのは、他よりも大きな配偶子を生産する「オス」的な配偶タイプがいれば、それは小さくより運動性の高い精子を生産する他の「オス」配偶タイプのものに競争で負けてしまう、ということである。その結果として、二つのタイプの配偶子──大きな卵子と小さな精子──が進化し、これに関連して、二つの生物学的性が進化することになる。

生物学的性は、子孫を生産するための進化的戦略である

しかしながら、二つのセックスのこのような生物学的定義は、個体が持つ本質的な「雄らしさ」とか「雌らしさ」とかに基礎づけられているわけではなく, もっぱら有性生殖をする生物が子孫を生み出すために用いる二つの異なる進化戦略の違いを指すに過ぎない。ただし、有性生殖はオス個体とメス個体とが別々に存在することを必要とするわけではない。大部分の動物においてメスの配偶子とオスの配偶子とは異なる個体によってつくられる一方で、それらは同一の個体からも、同時にもしくは異なる時期につくられることがある。例えば、多くのサンゴ、蠕虫、タコ1、カタツムリなど、そしてほとんどすべての顕花植物は雌雄同体である。そして、同一時期の同一個体がオスとメスの配偶子生産と生殖機能を兼ねている。他方、多くの魚種は、経時的雌雄同体である。つまり、生涯の間に生物学的性を変えることがある。

確かに、生命の系統樹全体を考えるとき、生殖方法は困惑するほど多様であり、その多様性は私たちがよく知っている人間の生殖戦略と比べようもない。例えば、単細胞生物では、子孫は個体を分割して生み出される。それによって、その個体は存続を「放棄」するのだ。この形態の無性生殖は、すべての原核生物、つまり古細菌と細菌だけではなく、一部のアメーバーのような単細胞真核生物にも見られる。多細胞生物では、生物学者は2つの形態の無性生殖を区別する。無配偶子生殖(agametous reproduction)では、子孫は親の体細胞からつくりだされる。それは、(サンゴや海綿動物におけるように)親全体の細片分離によってつくりだされることもあれば、(クラゲにおけるように)親の体からの萌芽による場合もある。もう一つの可能性としては先祖〔親〕が卵を生産する。しかし、これらの卵が受精することはない。これらのいわゆる単為生殖種は、それゆえメスのみで構成され、ワムシやクマムシに見られるが、また一部のヘビやトカゲにも見られる。単為生殖の特別な形がケープミツバチのような自家受精種(automictic species)で進化してきている。こうした種では、子孫は未受精の二倍体卵から発生するため、母親とは遺伝的には異なったものである。一部の種では、性生殖と単為生殖による生殖が交替することさえある。(たとえば、ある種の酵母菌やアブラムシのように)有性生殖が一回行われたのち、無性生殖が数回に渡って生じるような場合である。有性生殖と無性生殖がこのように交替することは非常によくあることなのに対して、無性生殖のみが行われることは滅多になく、全生物種の0.1%以下、被子植物全体の1%程度でしか起こらない。

人間におけるセックスとジェンダー

人間は有性生殖の機構に関して特異ではないが、しかし、私たちが生物学的性とジェンダーを区別しているという点で特異である。この区別は1950年代、ジェンダーという用語がジョン・マネーとその仲間たちによって導入されたときにまで遡る。マネーたちは、人間の半陰陽を研究しているなかで、出生時に割り当てられた性と、養育上の性、外性器の形態、内性器の構造、ホルモン上の性、二次性徴、性腺上の性、染色体の性などとの間の「性別不一致」に気がついた。彼らは「ジェンダーロール」という用語を追加の基準として導入して、上で述べたその他の変数の多様な組み合わせを呈する患者を、よりよく鑑定しようとした。今では古典となったこのマネーたちのテキストでは、ジェンダーロールとは「ある人が、それぞれ少年や男性、少女や女性という立場にあるものとして彼自身もしくは彼女自身を開示するために、言ったりしたりすることすべてである。ジェンダーロールはエロティシズムの意味でのセクシュアリティを含むが、それに限定されるわけではない。ジェンダーロールは以下のものに関連して判定される。すなわち、一般的な仕草、立ち居振る舞い、態度。遊戯の好みと娯楽の関心。また、何も促されない会話における自発的な話のトピックと、何げない言葉。また、夢、白昼夢、空想の内容。遠まわしな質問への回答と投影検査。また、エロティックな行動の証拠。最後に、直接的な質問へのその人物自身の回答」(p. 302)。したがって、ジェンダーロールは人々が自分自身をどう考えているかを指しており、このような評価とその人の生物学的性との不一致はあったりなかったりする。私たちが動物がジェンダーという観念を持つかどうかを知るすべはなく、また動物にそれを尋ねるすべもないので、ジェンダーは特異的に人間的なものであり、それゆえ、この用語は人間以外の動物に言及するのに使われるべきではないのである。

誤解されないようにいえば、我々は女性や多様なジェンダーの人々のために今まで以上に包摂的な環境をつくるという努力を完全に支持している。ジェンダー平等はもちろん人道的な問題であり、男性の視点に──あまりにも長く──支配されてきた科学にも利益をもたらしてくれるだろう。しかしながら、一部の哲学者や生物医学科学者、影響力のある科学雑誌によるセックスの生物学的定義の拒否もしくは無視は、人間(もしくは哺乳類)だけを考え、その他すべての種を無視するような、近視眼的な観点に基づくように見える。この人間中心的な姿勢が問題含みなのは、人間のアイデンティティ概念を人間でない種に押し付けるという、種優越主義の一種をもたらすからだ。人々はトランス女性(trans-woman)は女性(woman)であるということに合意できるとしても、私たちは、メス(female)とは何でありオス(male)とは何であるかということについての、このように本質的に人間的な社会文化的定義を、他の何百万の生物種に単純に拡張することはできない。生物学においては、私たちは自分たちがもっている人間の観点から一歩下がって、生命のまったくの多様性を正しく認識する必要がある。こうすることによって、私たちが内面化している文化的概念の多くが、しばしば疑問視されることになる。そうした概念のうちには私たちが気づいてさえいないものがあるかもしれない。上述の通り、これらの誤解を招く人間中心的な考えの一つが、2つの生物学的性はいつも別々の個体として現れるとか、あるいは一つの個体の生物学的性は恒常的であるとかいう考えだ。さらに、例えば、刺胞動物、扁形動物、コケムシを、もしくは──有性生殖に加えて──発芽、分裂、細片分離によって増殖する多くの植物たちを考えてみれば、生命はもっと多様であるように見える。これは狭い人間中心的な生殖についての見方だけではなく、私たちの「個体/個人」という考えをも疑わせるものである。

生物学的性についてのさまざまなまちがった考え方

哲学者や生物医学者、ジェンダー理論家の間で、そして今や有力科学雑誌の一部のライターと編集者の間でも広くみられるようになっている誤解は、生物学的性の定義は、染色体、遺伝子、ホルモン、外陰、陰茎、その他に基づいているというものであり、さもなければ、生物学的性は社会的構築物であるというものである。これらの認識は、私たち自身がもっている人間中心主義的観点をかなり強く反映している。実際のところ、メスであることもしくはオスであることは、上にあげたような特徴のいずれによっても定義されない。そういった諸特徴は、生物学的・つまり配偶子のセックスに関係づけることはできるとはいえ、必ずしもそうでなければならないわけではない。

生物学的性についてのこうした誤解の理由のひとつは、生物医学の実務にある。そこでは、哺乳類の性染色体あるいはセックス関連の表現型がセックスの定義に広く使われているからだ。たった2つの性別があるだけという事実を批判する人々の標的は、この〔生物医学の実務での〕定義である。しかしながら、性染色体もしくは性関連表現型は、性染色体をまったくもたない多くの種がいるので、生物学的性の定義にはまったく適さない。哺乳類、鳥類、チョウ類においては、性染色体が性的差異をもたらす一方、他の多くの生命体においては、温度もしくは社会的調節といった環境要因が、性決定や性転換を開始させることがある。このために、性染色体もしくは他の性決定機構は、性を一般的に定義することはできない。そうではなく、哲学者ポール・グリフィスが指摘するように、「生物学的性は、配偶子の性の定義に裏付けられた性決定のための操作的基準であり、一つの種もしくは種のグループにのみ有効である。」性染色体、温度勾配もしくは集団の構成員からの社会的合図はすべて、性をつくる(性の状態をつくりだす)方法でありうるが、性を定義するものではない。

上で説明したように、基本的にすべての有性生殖種ははっきりと2つに分かれた型の配偶子を作るが、それは大きなもの(動物では卵子、植物では胚珠)か小さなもの(動物では精子、植物では花粉)かのどちらかである。ファウストスターリングが措定したような、「精卵」もしくは「花珠」(中間サイズの配偶子)、もしくは5つの異なる生物学的性など存在しない。また、オスとメスという性が「複数の変数と柔軟に関連付けられた文脈に依存する分類」であることもない。いやしくも存在するのは二つの生殖戦略のみであり、それは子孫をつくるために融合する配偶子の、はっきりと2つに分かれた分類に基づく。トランスジェンダーだと自認している生態学者のジョーン・ローガーデンが表現するように、「……「オス」は小さな配偶子をつくることを意味し、「メス」は大きな配偶子をつくることを意味する。それで終わり!」なのである。加えて、次のことに注意することは重要だ。すなわち、この生物学的性の(配偶子のサイズに基づく)基礎的定義は、例えば染色体もしくは遺伝子等々に基づく、セックスという語のあらゆる操作的な用法と区別されなければならない。というのも基礎的定義と操作的定義は同等ではないからだ。

配偶子のサイズがすべての種において生物学的性を定義している。他方、操作的基準は、(1) 多かれ少なかれ生物学的性を予測するにあたって信頼できる形質に基づいてセックスを同定しているにすぎず、(2) 普遍的に〔すべての生物に〕適用できるものではなく、ひとつあるいは少数の種についてしか有効でない。たとえば、ホモ接合型の性染色体(XX)は、哺乳類で「メスであること」の操作的基準として使われる。XXの染色体の配置の哺乳類は、ほとんど確実に卵子細胞をつくることになるからだ。鳥類では、ホモ接合性の性染色体は「メスであること」の操作的基準として用いることができない。ホモ接合性の性染色体(ZZ)をもつ鳥は通常はオスになり、精子をつくるからだ。ゆえに、配偶子のサイズが、哺乳類と鳥類(と、その他の異型接合の生物)の「メスであること」「オスであること」の定義のための基礎を形づくっている。ホモ接合性の性染色体は、哺乳類と鳥類のそれぞれについては生物学的性を予測するのに実に信頼のおける操作的基準であるが、これら二つの分類群ではそれぞれ異なる性を予測するのだ。それゆえに、ホモ接合性それ自体は「メスであること」もしくは「オスであること」の定義に用いることはできず、配偶子のサイズを参照してはじめてそうした定義を行うことができる。接合性と同様に、セックスの操作的基準はどんなものであれ基礎的定義と同等のものにはならないし、したがって生物学的性は、すべての性差の基礎でありつつけるのであり、また性差を記述するために用いられるあらゆる操作的定義の基礎でありつつづけるのだ。

もう一つの生物学的性の概念に関する誤解の大きな発生源は、「性(セックス)」と、「性分化」、つまり生物学的性の表現形への発達過程(図1)との混同である。個体の発達は、遺伝子と環境、成長している生命体の内部にあるフィードバック機構の複雑な相互作用によって特徴づけられる(Ref.[37]によるとても説得力のある要約がある)。それらの過程の間において、生物を一般的な経路から外れさせる多くのことが起きうる(それによって進化が生じるための多様性をつくりだす)が、これは性の生物学的定義に疑念をもたらすものではない。この誤解の人目を引く例は、Nature[3] に掲載された染色体と遺伝子制御過程が、人間と他の哺乳類に曖昧な性差をもたらすことを紹介した特集記事である。この記事の副題は「2つの性という発想は短絡的。今や生物学者はそれよりももっと広い領域があると考えている。」と宣言しており、ゆえに「性」を、「性分化」もしくは「性的発達」と混同している。加えて、この記事は人間中心的、もしくは少なくとも哺乳類中心主義的な観点をとっている。生物医学研究が、哺乳類の性分化を複雑で多様なものだと明らかにしてきたことは疑うべくもない。例えば、この複雑さは、両性の間に重なりがある形質の性的表現型(e.g. 性ホルモン水準)をもたらしているかもしれない。これが、そうした形質を、生物学的性を確実に予測できるような一義的操作的基準として用いることを困難にしている。しかしながら、これは生物学的性には、これまで考えられていたより広いスペクトラムがあると進化生物学者が考えていることを意味しない。それどころか、生物学者の間では、有性生殖する多細胞生物の大多数では、子孫をもうけるために、メスのものとオスのもののちょうど2つの進化戦略を持っていてそれしかない、ということについて完全な意見の一致がある。

生物学的性に関しての誤解が広く拡散したもう一つの理由は、実際は生活史の一段階なのに、それを状態であると考えてしまうことだ。例えば、ヘテロ接合性染色体をもつ哺乳類の胚は、まだそれ自体ではどんなサイズの配偶子もつくることができないのだから、生殖可能ではない。それゆえに、厳密に言えば、生物学的性をまだ持っていないのである。しかしながら、合理的に高い確率で、私たちはこの胚が生殖可能な(精子をつくる)オスになるにいたる発達軌道上にあると予想できる。この理由で、ひとつの操作的「定義」としては、この胚を「オスの胚」と呼ぶことを正当化することができる。ポール・グリフィスを再び引用すると、生物学的性の概念は「すべての個体に対して、その生活史のあらゆる時点で生物学的性を割り当てられるように開発されたものではない」。実際のところ、生物学的性の割り当てができないことはしばしばある。これは生物学的な現実を反映している。なぜなら、生物学的性は、状態というよりは過程なのだからだ。

さらにもうひとつの誤解は、生物学的性と性役割を混同してしまうことだ。生物学的性は二元的だ。しかし、性役割は様々な生物の種内及び種間で柔軟だ。例えば、ハゼ科の一種のトゥースポッテドゴビー(学名Gobiusculus flavescens)は、ひとつの繁殖期内でメスとオスの性役割は変わる。繁殖期の最初、オスたちはお互いに激しく張り合い、メスたちに求愛する。オスとオスの競争、育児行動、捕食は、オスの死亡率をメスのものより高くし、それによって、繁殖期が進むにつれて、成魚の性比をメスが多い方に変化させる。今度は、メスが今や交配機会をめぐっての競争をはじめ、オスに求愛する。この例が示すのは、「競争」と「求愛」が定義によって「オス」の性役割だというわけではないということだ。同じく、親としての世話が定義によってメスの性質であるというわけでもない。親としての世話は、哺乳類においては典型的な雌の性質だが、魚類では典型的には雄の特徴である。比較研究が示すところによると、性淘汰は平均してメスよりもオスの方に強く働いていると示唆されてはいるものの、メスの競争や支配や求愛も、かつて思われていたよりはるかに一般的である。多くの動物の性役割は、環境及び社会的な状態に対して、古典的なダーウィン理論が考えていたよりもはるかに柔軟に反応する。それゆえ、何かを「複数の変数に柔軟に関連する文脈から独立したカテゴリーとして扱うべきだ」とすれば、それは性役割であり生物学的性ではない。

結論: 生物学的性を否定することは、科学の進歩を妨げ、科学に対する信頼を失わせる

両性の生物学的な定義が人々の社会的ジェンダーを定義する理由となり得ないことは明らかである。これは哲学者のポール・グリフィスによって説得的に指摘されたことだ。同様に、ジェンダーという社会文化的、それゆえ人間中心的な構築物は、人間以外の生命体に適用することはできない。生物学的性とジェンダーをもつ人間を、二つのセックスしかもたない動植物──どちらも同一の、あるいは別々の個体において表現されるわけだが──からはっきり分ける一線がある。生物学的性は、生命の多様性を認識するための中心的なものでありつづけていると同様に、人間におけるジェンダーの本性を深いところから理解しようとすることに関心をもっている人々にとっても、決定的に重要なものなのである。生物学的性を否定してしまえば、それがどんな高尚な大義のためであろうとも、科学の進歩を掘り崩すことになる。加えて、おそらくもっと悪いことに、単純な生物学的事実を拒絶することによって、影響力のある科学ジャーナルが「オルタナティブな真実」のために水門を開け放ってしまいかねないのである。

脚注:

1

訳注:タコがそうだというのは自信がないです。

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