男/女/トランスジェンダーの定義 (5) 『トランスジェンダー入門』の「性別」と「アイデンティティ」

というわけで、『トランスジェンダー入門』には「なるほどな」と思わされることが多くて勉強になります。ちょっとだけコメントをいくつか書いておきたいと思います。

「身体の性」vs「心の性」という分け方はよろしくない、ということを論じている部分にこういう一節があります。

私たちは、相手の身体のなかから「性的な特徴」とされるものを漠然と選びだし、髪が長いから女性だろうとか、背が高いから男性だろうとか、声が高いから女性だろうとか、そういった仕方で「身体の性」を捉えているのです。だからこそ、そうして推測された 性別 が当人の 実態 とは異なることもあります。(p.30、強調は江口)

問題は、引用で強調した「性別」と「実態」が何を指すかです。ここらへんもトランスジェンダー論だけでなく、ジェンダー論で一般読者にはわかりにくいところだと思うんですよね。

私の内的な感覚では、たしかに私たちはいろんな特徴から人間を男性と女性に振り分けているのですが、それは私が目の前にいるひとが 生物学的に 男性であるか女性であるか、男の子であるか女の子であるか、おじいさんであるかおばあさんであるかになにがしかの関心をもってるからのようです。特に若い男は乱暴だったりしてうっかりぶつかったりすると危険なことがあるし、若い女性は魅力的だったりするしやっぱり不用意にぶつかったり接触したりすると危険なので関心をひく。このときには私の各種の関心から生物学的な男女に分けておきたいと思っているわけです。知りたいのはその人が自認しているジェンダーではないように思う。まあこれは私が特別に変な関心をもっているからかもしれない。

ともかく、引用で強調した「性別」はふつうの意味では生物学的な性、セックスを指すと思う。前のエントリでは「性別」はジェンダーの方だろうと解釈したのですが、こういうところを見ると、本書全体を通して若干揺れがあるんじゃないかという懸念があります。我々が日常生活で「性的な特徴」から推測しようとしているものは、その人物がスカートを履いているか、「女らしい」身体的な振舞いをしているか、ということではなく、そのような特徴から生物学的な性別を推測しようとしているわけですね。したがって「実態」も生物学的な性別の実態だと思う。そしてそれはだいたい正確だけど(ひょっとしたら我々が進化的に獲得してきた性別判断モジュールのようなのもあるかもしれない)、まちがうこともある。でもそこになにが問題あるかよくわからない。

実際に私たちの社会で重要性を持っている「身体の性的特徴」は、ここに列挙したような雑多なものであり、それらの複合的な組み合わせに基づいて、私たちは他人の性別についての情報を取得したり、あるいは誤って取得したりしています。これが「身体の性」という言葉を使うことの一つ目の弊害です。その言葉は、まるで身体の性的特徴が身体のごく一部に局在しているような、現実生活とは乖離した印象を与えてしまうのです。 (pp.30-31)

ここはうまく解釈できない。けっきょく、「身体の性」ということで、身体のごく一部=性器が問題とされてしまう、ということなのでしょうが、そうじゃない解釈もあるのではないか、とか。よくわからないところです。我々が知りたいのは、男女どちらの性器がついているかということではなく、生物学的にほぼ二分される人間というもののどちらにその人物が属しているか、ということではないのかな。

もう一つ。

私たちは成長するにつれ自分がどの性別集団の一員として扱われているのかを理解し、また自分がどの性別集団に属する人間として生きているのか、あるいは生きていけないのか、という将来のイメージを持つようになります。 (p.33)

現在の社会では男女の性差が大きな意味を持ってしまっています。だからこそ、そうした社会で生きていくうえで、どの性別集団の一員に自分が属しているかということが、 アイデンティティ にとっての重要性を獲得するのです。(p.33)

引用最後の「アイデンティティ」はもちろん「ジェンダーアイデンティティ」ではなく、素の「アイデンティティ」。「ジェンダーアイデンティティはもっと広い意味の、そして我々にとって非常に重大なアイデンティティにとってたいへん重要だ」ということを言おうとしているのだと思います。ここが私が一番関心あるところです。ここで言われているアイデンティティ、自己理解、自己規定、自己定義、自己であるという感覚、そういうものがまさに問題になっているわけですよね。そしてそうした意味での「アイデンティティ」が注目され、また当人のウェルビーイングようなものと結びつけられるのは、まさに20世紀の心理学や社会学の理論的な帰結なのだろう、と思うわけです。しかしこれ、「アイデンティティ」というものが(臨床/発達/社会)心理学や社会学でどう扱われてきたのかをおおざっぱにでも勉強しないと簡単にはわからんのよねえ[1] … Continue reading

こういうのは男や女やトランスジェンダーの「定義」の話ではなく、それらの定義や概念をもちいてどういう規範的な主張をおこなうか、ということに関する話題ですね。つまるところ、 我々は他の人々のジェンダーアイデンティティ(自認)やもっと広い各種のアイデンティティ(これもおそらく自認)をどのように尊重することが(道徳的/政治的に)求められるのか 、という問題です。そしておそらく、これは答えが自明な問いでは ない 。そしてそれがまさにトランス〜を巡る論点だと私には思えるわけです。でも概念をちゃんと定義してくれることはそういう議論を評価する場合にたいへん重要であるわけです。

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References

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1 「「現在の社会では男女の性差が大きな意味を持ってしまっています。」は、生物学的な性差の話で、「どの性別集団の一員に自分が属しているか」は、社会的な性別の話になっている」という指摘がありました。私も8割ぐらい同意かな。でも他の解釈もあるかも。

コメント

  1. 匿名 より:

    先生がよく分からないとおっしゃっているpp.30-31ですが、これもジェンダーをassignするという観点から読み解くべきではないですかね。

    つまり、

    我々は目の前の人に対し、「あなたは男性」「あなたは女性」とassignしているけれど、そのとき「性器を確認して」あるいは「性染色体を確認して」割り当てているわけではない。声の高低とか、胸のふくらみとか、筋肉の多い少ないとか、あるいは名前の響きとか、そういう各種の観測結果に基づいてassignを行っている。だから、社会によるassignは、身体的性別と一致することもあるし、一致しないこともある。
    ところが、「身体的性別」と表現してしまうと、何か客観的なメルクマール1点をもってして、社会が性別を(正しく)assignしているように聞こえてしまう。それは実際に存在する社会的事象とは乖離しているから、よろしくない。

    ・・・と読むべきなのではないかと。

  2. 匿名 より:

    あ、「名前の響き」は身体的特徴じゃないので、その点に言及しているのは議論の混乱を招きますね。「名前の響き」の部分は撤回します。

  3. 江口 より:

    そういう感じだと思います。でも実感としてそれってどうなのかな、と思ってぐだぐだしているところです。

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