「トランスジェンダー」の「定義」についてSNSその他はずっとモメていて、私にはよくわからないところが多くてこれまで何も書いてなかったんですが、そろそろ勉強しないとならない感じで、前期しばらく文献めくったりしていました。考えをまとめるために下のような落書きしてたんですわ。
定義
定義は言葉の意味をはっきりさせ、またその言葉の範囲を定めることです。なにかをうまく論じようとする場合には(それが自明でなければ)必ずおこなわねばなりません。だって、なんの話をしているかわからないままに議論を進めても、読者や聴衆にはなにが論じられているかはっきりわからないですからね。
前にこのブログで書いたように、そうした定義には下のようにいくつかの種類があります。この分類というか特徴づけは、主にその目的や機能のちがいによるものです。ただし、それらは排他的なものではありません。つまり、一つに属するものが、他のものには属さない、というわけではありません。ある定義が下の複数にまたがっていることがあります。
- 辞書的定義
- 人々が実際に言葉をどう使っているか
- 約定的定義・規約的定義
- これからおこなう議論のために 約束事として 言葉の意味を明示する。これは目的に応じて自由におこなってかまわないが、あまりに日常的な言葉づかいと異なると議論が混乱する。
- 明確化定義
- 日常的なぼんやりした定義(辞書的定義)を、議論の目的に合うように明確にする。約定的に宣言することもあれば、日常的な用法を分析してそのエッセンスをとりだすこともある。
- 理論的定義
- 日常的な用法を離れても、背景にある 理論にもとづいて 言葉を再定義する。たとえば「熱」「力」「エネルギー」のような言葉の意味は、物理学(力学)の理論の上で再定義され、日常的な意味から離れており、理論を理解することでそれぞれがなんであるのかを理解することになる。
- 説得的定義
- 議論において他人を説得するためのレトリックとしての定義
言葉の意味と規範的判断
ところで、言葉を定義することと、その言葉で定義された対象をどう扱う「べき」か(規範)ということは、基本的には別の話です。
ネコを「食肉目ネコ科ネコ属に分類されるリビアヤマネコが家畜化されたイエネコ」と定義しようが、広義に「ネコ類(ネコ科動物)のすべて(トラやライオンも含む)」と定義してもよいが、そこから「かわいがる「べき」だ」「駆除する「べき」だ」といった規範的判断は直接には出てこない。
しかし、一部の定義が規範的判断を含んでいることがあります。「売春」の刑法的な定義は「対償を受け、又は受ける約束で、不特定の相手方と性交すること」です。だからお金を対償にもらっても特定の人相手なら売春じゃないし、不特定にお金を対償にエッチなサービスをしてもそれが「性交」でなければ売春にはあたらない(もちろん「性交とはなにか」ということが問題になれば定義しなければならない)。ただしこの売春防止法での売春の定義は、もともとそれを「防止する」という前提があるので、この定義での売春は禁じられる、という前提がある。この法律では「何人も、売春をし、又はその相手方となつてはならない」と明示されてますが、刑法での殺人みたいに「それはなにか」とか「殺人を禁じます」とかわざわざ宣言していない場合もある。
一方、「売春」という言葉をもっと広く使う人々もいて、有名なフェミニスト学者の先生たちは「現代社会での結婚は売春だ」「代理母は売春だ」みたいなレトリックを使ったりするわけですが、これはおそらく「男性が女性を扶養して、女性は男性に性的な能力や生殖能力を提供する」っていう形になっているのを指摘しているんでしょうね。でもそういう意味での結婚や代理母が規範的に悪いものである(非難されたり禁止されたりするべきもの)であるかどうかはよくわからない。でも暗にそうした非難をおこなっているんでしょうね。こういうのは説得的定義で、社会通念での売春に対する非難を連想させて結婚や代理母に適用しようとしている。こういう定義(説得的定義やあやしげな定義)がおこなわれている場合には、なぜ結婚や代理母が悪いものであるのか、非難に値するのかを問わねばならない。
このように、定義が規範的判断を含むものか、規範的判断については中立的なものか注意しておく必要がある。(だから議論をおこなう場合にはあらかじめ定義を確認しなければならない)
トランスジェンダーの定義
たとえば日本学術会議の「提言「性的マイノリティの権利保障をめざして(II):トランスジェンダーの尊厳を保障するための法整備に向けて」では、「トランスジェンダー」を次のように定義しています。
出生時に割り当てられた性別とは異なる性別の性自認・ジェンダー表現のもとで生きている人々の総称(性同一性障害者を含む)。出生時に割り当てられた性別は女性であり、男性として生きている人を「トランス男性」といい、出生時に割り当てられた性別は男性であり、女性として生きている人を「トランス女性」という
性別についての「セックス」と「ジェンダー」の区別は1960年代後半から登場して、次第に一般的になりました。いまの大学ぐらいの教科書には必ず書いてますね。一般的には「セックス」は生物学的な男女の性別を指し、「ジェンダー」は社会的なふるまいの規則や、他の人々からの期待(ふるまいの予想)などを指します。
学術会議の定義での「出生時に割り当てられた性別」は、セックス、つまり生物学的な性別であるでしょう[1]あとで書くように、最近の考え方ではそうじゃないらしい。。それとは「異なる性別の性自認・ジェンダー表現のもとで生きている」の部分での性別は、生物学的セックスではなく、社会的な性的な通念や規範、すなわち「ジェンダー」であるはずに思えます。
同文書では、「性自認」は次のように定義・説明されます。
身体に関する個人の感覚(自由選択の結果としての医学的、外科的または他の手段による身体的概観または機能の変更を含む)、ならびに、服装、話し方および動作などの他のジェンダー表現のような、出生時に与えられた性と合致する場合もあれば合致しない場合もある、一人一人が心底から感知している内面的および個人的なジェンダー経験をいう……なお、性自認の「自認」は「identity」の訳語であり、ある程度の時間的・空間的な一貫性をもつ感覚のことを指す
上の定義は私には曖昧でわかりにくいのですが、(おそらく)原文の「ならびに」は「あるいは」の意味でしょう。。したがって、性自認(ジェンダーアイデンティティ)は、(1) 身体に関する個人の感覚、(2) 日常的なジェンダーの内的な感覚、のいずれかであるのでしょう。どちらか一方を指す。
大多数の男女は、身体的にも、社会的にも自分の生物学的な性別(セックス)と一致した「内的な感覚」をもっているのでしょうが、一部には一致しない感覚をもっている人がいて、その人々が「トランスジェンダー」だ、というのが学術会議の定義だということになります。(なお、あまり指摘されませんが、「自認」と訳されている「アイデンティティ」という語・概念にはかなりヘビーな理論的背景があるように思います(後述の予定))。
この学術会議の定義は、 規範的に中立な 定義であるように思われます。つまり、この定義そのものからは、トランスジェンダーの人々を(特別に)どう扱うべきか(たとえばトランス女性に女性専用スペースの利用を許すべきか否か、女性用奨学金を出すべきか)ということは指示・含意されません。
中立的な定義から規範的判断へ
しかし多くの議論はなんらかの規範的な判断を導くためにおこなわれるわけですから、その定義された言葉や概念を使って、どんな規範的主張がおこなわれているのか、おこなわれうるのか、っていうのはよく考えてみないとなりません。
「 人々のジェンダーアイデンティ(ジェンダー感覚やジェンダー表現、ジェンダー経験)はそれぞれ尊重するべきだ 」という規範がすでに存在していたり、あるいは広く認められているならば、当然トランスジェンダーの人々のジェンダーアイデンティティも尊重するべきだ、ということになります。
ここで重要になるのが(1)「平等な尊重」の要求および「差別」の非難と、(2) 個人の抑圧や社会的不承認からの苦しみの経験です。
トランスジェンダーの定義がどういうのであっても、(1) たとえばもし、大多数の人々のジェンダー感覚や経験等が 尊重されるべき であり、「承認」される「べき」だとすれば、トランスジェンダーの人々のジェンダー感覚や経験も当然尊重されるべきであるということになります。具体的には、トランスジェンダーの人が、一方のジェンダー専用のスペースや制度の利用を望むならば、それを排除するにはそれなりの「特段の理由」が必要になります。(学術会議の提言ではジェンダーアイデンティティと「尊厳」の関係にも言及されていて、これも興味深いものですが、これもあとで)
「同じものは同じに扱う」ということが正義の原則の基本です。ただし、似ているが完全に同じではなく、なんらかの点で違いがあり、それが重要な違いであるならば話は別である。たとえば、大多数の男性も、トランス男性も、男性として、同じ内的な感覚をもっているとすれば、 理由なく その二者の扱いを違えるならばそれは平等な配慮や正義の原則に反し、「不当な差別」であると言えます。これがトランスジェンダーをめぐる議論ではなにより差別や抑圧の問題が必ず論じられる理由でもあります。それは正当だと私は思う。
しかしながら、その当の問題(たとえば女性専用スペース)では、内的なジェンダー感覚だけでなく、身体的・生物学的な性別が特段に重要であり、その重要さは、二者の扱いを違えるに値するほど大きなものだ、ということが認められるならば、扱いを違えることが不当な差別であるとは言えない可能性があります。
ここでもう一つ重要になるのが、トランスジェンダーをめぐる論議で格別に話題になる (2) セクシャクシャルマイノリティの 抑圧 や社会的不承認からの 苦しみ の重要性です。多くのトランスジェンダーに関する論説では、トランスジェンダー、広くはLGBTQ〜の人々に対する偏見や差別や社会的な抑圧が語られ、また、特に自殺率(あるいは自殺企図率や自殺念慮率)の高さが話題になります。
その背景には、 苦しんでいるマイノリティや、心理的・身体的に脆弱な人々、社会的に抑圧されている人々には社会は特別な配慮をおこなうべきだ 、という一般的な信念があります。この信念も正当なものであり、性的マイノリティに対しての差別的な扱いは、かりになんらかの意味で合理性があるとしても、最大限控えられるべきだ、という判断の要因になわけです。
また、他にも「不平等」や「差別」に訴えかける議論はいくつか存在するわけですが、あとで書きます。
とかってことをちょっと考えてたのです。つまり、「定義」の問題と、その定義をつかった規範的な主張をおこなう際の前提や背景的な(あるいは明示されない)規範的判断はそれぞれ別に考えるべきだ、みたいな感じです。でもまだわからないことがある。しかし、周司あきら・高井ゆと里先生たちの『トランスジェンダー入門』というグッドな本が出て、もうすこし問題がわかりようになりつつあります。
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References
↑1 | あとで書くように、最近の考え方ではそうじゃないらしい。 |
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