男/女/トランスジェンダーの定義 (3) 『トランスジェンダー入門』での「割り当て」

まあ前エントリのようなことを考えながら「定義」に関する論争を眺めていたのですが、最近出版された周司あきら・高井ゆと里先生たちによる『トランスジェンダー入門』はよい本でした。いろいろ発見があった。

『入門』での定義はシンプルにこうです。

「出生時に割り当てられた性別と、ジェンダーアイデンティティが異なる人たち」(p.14)

そして「ジェンダーアイデンティティ」は学術会議と同様に「性自認」や「性同一性」と同一の語であり、ジェンダーアイデンティティは次のように定義されます。

自分自身が認識している自分の性別、自分がどのような性別なのかについての自己理解 (p.16)

ただし「帰属意識が関係する」と制限されています。また、「自己意識」とも言われることがあります(p.17)。

『入門』の美点は、著者たちが、 なぜ 上のような言葉づかいをするのか、そしてそれが従来の「セックス」や「ジェンダー」の理解とどう同じでどう違っているのかを丁寧に説明してくれているところですね。これは本当に美点だと思う。そしてそこから見えてくるものがたくさんあって私としてはたいへん勉強になった。

いくつか紹介しておきます

アンブレラタームとしての「トランスジェンダー」は古いらしい

よくネットでひきあいに出される「トランスジェンダー」という語の定義に、国連のどっかの機関が出している「アンブレラターム」としてのトランスジェンダー、すなわち、従来の身体的なセックスとジェンダーアイデンティティが一致しない人々を広くとらえて、GIDの人や異性装(トランスヴェスタイト)までを含んで、多くの人々を多く傘のように包含する定義があって、時々それが問題視されています。『入門』の著者たちによればそれは、「差別の雨に打たれている人が集まる傘として「トランスジェンダー」という言葉が使われる」(p.27)もので、これは「政治的なアイデンティティ」を形成していくものだ、という言い方がされることがあります。これの意味は解釈が必要ですが、「政治的な運動の主体としての多くの人を包含するように定義されているのだ」ということでしょうか。おそらく政治的な目的からこういう広い定義がとられているのだ、というのが著者たちの解釈ですね。これの当否は私には判断できませんが、なるほど、という感じではあります。しかしこれはやはり古い定義、あるいは政治的目的のための定義であって、現在主流の定義ではない、というのが著者たちの立場です。

「からだの性」ではなく「出生時に割り当てられた性」を使う理由

なんといっても勉強になったのは、なぜ「出生時に割り当てられた性」というあまり見かけない表現が最近よく使われているかの説明があるところですね。

「私たちの身体には、確かに性別と密接な結びつきを与えてられている部位・特徴が存在しています。しかし実際には、私たちは社会生活のなかで互いの性別を不断に振り分けており、そうした性別のカテゴリー分けは、……子供が生まれる瞬間から……続いています。「出生時に割り当てられた性別」という表現は、私たちに「性別」が与えられているという、その社会的な実践の存在を含意している点で、より実態を反映できているのです。(p.32)

ここのところを読んで、私がやっと理解するようになったのはこういうことです。

私は古いタイプの人間なので、これまで、 生物学的な性・セックスと、社会的なジェンダーという(おおざっぱな)二分法で考えていた わけです。生物学的な性別であるセックスにはまずは身体的な一次性徴・二次性徴という比較的はっきりしたものがあるだろう、と。そして、そうした一次性徴・二次生長が対応するなんらかの生物学的な性的二型に対応して、もしかしたたら心理的にも(統計的には)なんらかの性差があるかもしれない(たいしてないかもしれない)。もしそうしたものがあるとすればそれは人類共通のなにかだろう、と。

一方、社会的な性別、性差としてのジェンダーは、もっぱら社会的な約束事であり、通念であり、社会的な規範である、と。そうした社会的な規範や性役割分業のようなものは多くの文化で共通しているところが多いので、それは生物学的な性的二型になんらかの関係があるかもしれないが、とりあえず生物学的な性的二型とはちがった、人間としての我々の考え方や生活のしかたに相対的なものであり、それは文化や時代を通して共通するところが多いとはいえ、我々の物質的・文化的な進歩や変化によってずいぶん変わってきたものでもある、と。

でも『入門』の著者たちや、トランスジェンダー論主流派の人々にとってはこれまでの私のような考え方は古いか、あるいは不適切か、あるいはポイントが違っているようなのです。

そもそも 著者たちがいっている「性別」は生物学的なセックスではない わけです。そしておそらく学術会議の「性別」も、同じく生物学的なセックス ではない 。『入門』の著者たちや学術会議は、最初から性別は(私の古い言葉づかいでは)「ジェンダー」であり、それを生まれたときの性器などを見てまわりの人(医師や親たち)が「割り当てて」assignしているのだ(判断しているのではなく)、ということなのですね。なるほど!これで「割り当て」という言葉を使う理由がわかった。

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