『月曜日のたわわ』広告問題(9) ふたたび広告と製品、そして多様な表現文化

てなわけで、「たわわ」広告についてちょっと見てみたんですが、イギリスの広告基準協会やアンステレオタイプアライアンスの基準や倫理綱領みたいなのを使ってあの広告を非難するのは私には難しそうに見えます。広告と製品・作品は別のものです。作品を非難したいのであれば作品自体を非難した方がよいと思う。これは表現の規制というよりはまずは批評の話になるので、ぜひ読んで批評したらよいと思います。電車のなかにいる真面目そうに見える青年の内面がさまざまな欲望に満ちてる、みたいなのはキモいとは思いますが、それはそれで表現だ。


しかし、広告が、イギリスや国連女性機関の提唱している「精神」みたいなものに 十分にそってない 、みたいなことはもしかしたら言えるかもしれない。ここで注意しないとならんのは、理想みたいなものについては、その実現に努力するのは称賛されるべきことであっても、十分にその理想に貢献していないからといって簡単には非難できない、ということですね。もちろん、ルールに形式的に反してないからなにをしてもいい、みたいな考えかたはそれはそれで邪悪です。そういうのはよくない。

あの広告の別の攻め方として、『月曜日のたわわ』がそのタイトルから明らかなように魅力的なボディーシェイプの女性(一部は高校生)の性的な魅力と、そうした女性に対する男性の性的な欲望を描いているので、そうしたものの広告を大手新聞が掲載するのは不適切だ、という考え方があるかもしれません。

しかし日経新聞の全面広告は2000万程度かかるようで、それを見送るというコストを今回だけでなく将来的にも日経新聞に要求するというのは、かなり強い要求であるように私には思えます。多くのフィクション作品は(ポジティブなものもネガティブなものも含めて)性的な欲望や性的な活動を少なくともその一部で描いていて、一部に(あるいは全面的に)よろしくない欲望が描かれているから大手新聞に広告が打てないとなると、一時期の大江健三郎先生や村上春樹先生の作品でさえ広告できなくなってしまう。そうした制限は、経済活動を抑制することによって表現の自由や多様性まで抑制してしまうことにつながりかねないと思います。

また、表現だけでなく商業活動の自由は現代社会ではやはり重要で、そういうのを規制しようとするときには、根拠をあきらかにし、十分な理屈を立てないとならない。われわれはしばしば他人がやっていることに文句をつけやめさせたいと思うわけですが、いろんな人の利害をそれなりに考慮すべきであると思います。

『たわわ』という作品自体は最初はかなり直接的で私にはあまり趣味のよいものとは見えないものでしたが、次第に作風が変化しているという声もあります。マンガ作家たちは一般に受けるものを描いてお金をもうけ、それをもとでにしてもっと本格的な作品にチャレンジするというのは歴史的にはっきりしていると思います。そうはならない作家もいるかもしれませんが、そうした作家や出版界の裾野を広げていくのが文化の発展だと思います。

また別の方向として、『ヤンマガ』みたいな、趣味のよい人々から見たら下品なエログロマンガ雑誌(『たわわ』よりひどいのは大量に載ってます)と清潔であるべき日経新聞が関係をもつのがよろしくない、ヤンマガの広告はぜんぶやめろ、みたいな非難の方向もあるのかもしれませんが、これって「悪いやつとつきあう奴も悪いやつ」みたいなそういう発想ですよね。人間としてそういう判断をしがちになるのはわかりますが、私たちはこうした部族的な思考には注意して控え目にしないとならないと思います。

われわれは無根拠に他人にあんまり過大な要求をするべきではないし1、要求するならばその根拠をはっきりさせるべきだと思います。これが今回の言いたかったことかなあ。とりあえずシリーズ終了。

脚注:

1

ハフポスト自体が載せているオンラインターゲティング広告にエロ広告が出てる、みたいな話がありましたが、そういうことです。

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