堀田義太郎先生の「女性専用車両は不当な差別か」について (4) 平等な尊重の要請をくつがえす理由?

続き。 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/97683

最後の方の「警戒と不安には理に適った根拠がある」「尊重要請は当てはまるか」の小見出しのところもなんかおかしな議論をしているように思います。

痴漢の被害者が、男性に対して恐怖や不安を感じたり警戒したりするようになってしまう、ということは不幸なことですが、これ自体は自然なことだというか、やむをえないことだと思います。しかし、女性専用車両が「男性蔑視だ」とか「男性差別だ」といっている人は被害者 本人 が恐怖を感じたりすることを男性蔑視や差別だと言っているわけではなく、鉄道会社や社会が、あらかじめ男性を加害者あつかいしていることを蔑視だとか差別だと言っているはずです。私が前のエントリで述べた、我々は原則として自分の行動にしか責任を負わないはずだ、というのも同様の意味です。本人が、当の問題と関係ない属性によって勝手に社会的に否定的な判断をされ公共の場所から排除されるのは差別としか言いようがない。これは単に形式的な差別ではなく実質的に不当な差別です。

堀田先生は7ページ目で「人を個人として等しく尊重すべしという要請(尊重要請)」というものを提示します。私はなぜ突然そんな原則(要請?)をとりあげるのか文脈がよく読めないのですが、とりあえず人を個人として等しく尊重すべきであるというのは平等の原則であり人間・人格(人)を尊重する原則だ、というのはOKです。「等しく尊重する」というのはたとえば功利主義であれば「誰もを一人として数え、誰も一人以上とは数えない」といった形で理解される平等の原則でしょう。もっとはっきりいえば、我々は(法的・社会的な判断をする際に)それぞれの人の利益や欲求などを平等に考慮するべきだ、誰かを特別扱いすることは原則として認められない、ということでしょう。

しかし、ふつうに考えて、自分の子供の利益と、隣の家の子供の利益を同じように扱うというのは馬鹿です(隣の家の子供が実は自分の子供でなければ)。近所で火事が起きたときに自分の奥さんと隣の家の奥さんの安全を同じように考えるのもあんまり誉められたことではない。お金もちが自民党と共産党に同じだけ政治献金をしなければならないと考えるのも馬鹿です。我々はそんなふうに、個人的に近しい関係や主義主張をともにする人々を優遇することが許されているわけです。参照しているエイデルソン先生もそういう話をしています。これは功利主義のように人々を平等に扱うべし!という主義主張が中心にある道徳理論ではちょっと話題になる話ではあります。まあ日常的なレベルでは、「人々を平等にあつかうべし」という命令が、それより優先するもっと重要な義務なんかによってくつがえされたりすることもあるわけですね。これが堀田先生が「具体的な行為内容に応じて、それを覆すに足る他の理由がない限り、という条件付きのものだ」と指摘するポイントです。これは問題がない。

んで、痴漢被害者の人が、いろんな心理的事情によって事実男性全体に対する嫌悪を抱くようになってしまうことがあるのはやむをえないでしょう。それは心理的 事実 なのですから。問題は、一部の(あるいは多数の)被害者が男性嫌悪を抱くようになってしまった場合に、 鉄道会社が あるいは 社会が あるいは 我々が 、 男性一般に対して個人として尊重しない態度をとってよいのか、というもののはずです。堀田先生は被害者当人の話しかしていない。

倫理学の原則の一つに、「「べし」は「できる」を含意する」というやつがあります。自分を含めて誰かに対して「〜するべきだ」と要求できるのは、その人が「〜できる」ことが前提になる、ということです。できないことは要求できない。我々は、好き嫌い、特に嫌悪などの 感情 そのものは自分ではコントロールできないので「嫌悪するな」のような命令が有効でない場合があります。これはしょうがない。

ところが先生は、次のように言う。

その理由は、「男性は全員本能的に性犯罪の傾向があるから」ではありません。被害の実態と、それを取り巻く状況を考えれば、その恐れや警戒、疑いは理に適っているからです。

その状況とは、女性をもっぱら性的対象として見なすような考え方に基づく言説や表象が流布している、という状況です。さらに、痴漢被害を軽視し、または被害の告発を疑い、加害者男性を免責するような、つまり加害に加担する考え方さえいまだにあります。

例えば、痴漢を含む性暴力の責任を、被害者の服装や行動に転嫁しようとする類の発言や、女性専用車両に乗車している女性を、容姿等に基づき品評して揶揄したり、貶めるような発言や態度です。この種の発言や態度がある以上、不特定多数の男性を全般的に避けることができる車両へのニーズは、理に適っていると言わざるを得ません。

私はこの議論がよくわからない。「女性が性的加害の可能性を恐れ、警戒することには十分な理由がある」というのはわかります。しかし、それが女性専用車両を正当化するでしょうか?もしかすると私が読みまちがえていて、堀田先生は「女性が男性を警戒するのは十分な理由がある」ので「女性専用車両のニーズも理にかなったいる」と だけ 主張していて、そのニーズを 実現する理由はない 、と言っている(あるいはニーズを実現することについてはなにも言っていない)のかもしれませんが、それだと筋が通らないように思います。(もちろん私もそうしたニーズがあり、それが切実なものであることは認めます。しかしニーズがあればなんでも実現することが正当化されるわけではない。)

私は堀田先生が、世の中に女性差別的な発想や表現があるので、男性は割をくってもしょうがない、と言っているとしか理解できないのですが、これやっぱり「個人の尊重」とかの原則に反していますよね。もっと好意的に解釈すると、こうした女性差別的な文化のなかでは(一部の?すべての?)女性たちが女性を優遇し男性に不利な判断をするのはやむをえない、ということだと思うのですが、それは本当に、自分の子供を優先したり、自分と主義主張を共有する政治団体を応援したりすることと同じでしょうか?それは平等な配慮の原則を凌駕するに十分な理由になっていますか?

ここで冒頭のエイデルソン先生の問題に戻ると、では一部の女性の強いニーズがある場合に、それを無条件に優先して、男性たちのニーズ(たとえばなるべく空いてる車両に乗りたいとか、犯罪者扱いされると尊厳が毀損された感じがするとか)をディスカウントすることが許されるか、という話になるわけです。私はこのレベルでは男性のニーズをディスカウントしたり、女性のニーズを優先したりする必要はないと思う。単に利益どうしを平等に比較したらよい。それでもおそらく、全体としてはごく弱い男性たちのニーズより、一部の女性の強いニーズが勝つことになるでしょう。それでかまわないのです。

もうちょっとだけ続きます。

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