カテゴリー別アーカイブ: セックスの哲学

キャリン・スタンバーグ先生の心理学的恋愛相談

Karin Sternberg先生のPsychology of Love 101ってのをざっと見てたんですが、最後の恋愛相談室みたいなのが面白かったのでメモ。翻訳ではなく要約というか、まあ勝手なアレ。質問も答もそれぞれよくある話だけど、それぞれ恋愛心理学の有名論文が参照されるのがよい。キャリン先生は、認知心理学と恋愛心理学で有名なロバート・スタンバーグ先生の奥様らしい。ロバート先生の物語理論にけっこう言及しているのが目につきました。このPsych 101シリーズってのよさそうですね。

Q1. ボーイフレンドが2回も浮気しました。彼は結婚したら浮気はやめる、その前に遊んどく必要があるのだと言うのですが、信頼できるでしょうか。

A1: 心理学の原則として、ある人物の未来の行動を予測する一番の目印は、過去の同種の行動です。彼が今浮気するのをやめられないなら将来もやめられないでしょう。

Q2: 僕と彼女はずいぶん情熱的な関係だったけど最近冷めてきたような気がします。

A2: スタンバーグのトライアングル理論によれば、恋愛の三つのなかで情熱は一番熱しやすく冷めやすいものです。

Q3: 彼と4年つきあっています。よい関係なのですが、結婚の話になると彼はだまってしまいます。

A3: 第一に、将来をコミットするのを嫌う人びとがいるので、期限を切ってコミットするのかどうかたずねて、ダメなら別のを探しましょう。第二に、スタンバーグの物語理論によれば相性の悪いストーリーをもってる人びとはうまくいかない傾向があります。自分と相手のストーリーがマッチするものなのかどうか、自問してみましょう。

Q4: あたらしくできた彼氏が、昔の彼女とうまくいかなくなった話ばかりしてやめません。大丈夫でしょうか?

A4: なにかに依存してた人がそれをやめると禁断症状が出るものです。他に注意すべき点として、第一に、いったん別れたカップルままたくっつくというのはよくあることです。第二に、真面目につきあってるカップルは何度か危機的な状況を迎えるものです。彼と彼女の関係もいまそうなのかもしれません。第三に、ある人が恋愛関係を終わらせようとする時に、他の相手と表面的な関係を結んだりすることもよくあることです。あなたとの関係もそうかもしれません。

Q5: 彼女がとても嫉妬深いのですが、どうすれば彼女を変えられるでしょうか。

A5: 第一に、他人を変えることはできません。マニアタイプの恋愛する女性なのでしょう。また、Shaver, Hazan & Bradshow (1998)の「アンビバレンス的愛着スタイル」をもつ人かもしれません。第二、そういうひとはコミットメントのレベルがあがるとなおさら嫉妬深くなる傾向があります。第三に、彼女のの嫉妬は彼女の問題なのでしょうか?あなたの方に問題はないですか?

Q6: 以前は私と彼氏の間でいろんな深い話をしていたのですが、最近はなにか表面的な話ばかりです。

A6: これもスタンバーグのトライアングルを使うと、親密さと関係があります。つきあいはじめはお互いのことを知りたいのでたくさんおしゃべりしますが、だいたいわかってくるとあきてきます。おもしろいのは、過去の関係の悪いことは話しやすいわけですが、現在のパートナーとのことは当人には話せないということです。また関係の最初ではそれが人生の一番重要なことですが、関係が安定してくると他のことを始めます。Vaughn (1990)が別れの分析をしていて、それはだいたい秘密をもつことからはじまるようです。

Q7. ガールフレンドが、僕自身を好きなのか、僕のイメージを好きなのかわかりません。

A7. スタンバーグの物語理論によれば、われわれは恋愛相手をフィルターを通してみてます。ゴフマンの『日常生活における自己提示』1956によれば、「本当の自己」なんてものはは存在しません。。Sternberg & Barnes 1985では、パートナーが感じているだろうとわれわれが思っていることと、パートナーが実際に感じていることの間には弱い関連しかないことが指摘されてます。


秋の夜にプラトン先生で眠れない

セックスの哲学史、みたいなのやってるわけですが、プラトンの哲学をテーマにした場合はなにを論じるべきか、とか考えるわけです。テキストはもちろん『饗宴』と『パイドロス』あたりですね。

この二つの作品についての日本の哲学者の先生たちの解説なんかだと、プラトンと愛&セックスの問題を扱う態度は二つあって、ひとつは、セックスや性欲の面をわりと軽めに扱って、「知への愛」とか真・善・美への愛の話なのだ、みたいにやる方法がある。田中美知太郎先生や納富先生なんかそういうお上品な感じかな。もう一つは、同性愛(とそれに対する近現代の社会的偏見)とか生殖とかそっちの話に焦点をあわせてやる方法で、これはたとえば前に紹介した近藤智彦先生とかがやってる感じ。

でもなんか私はもっと俗な読み方、俗な語り方があるような気がしていて、授業ではそれでやらせてもらってます。具体的には前に2本ぐらい記事書いた感じでやるわけです。

いまぼーっと考えていることでは、プラトンから汲み出せるのは、今も昔もかわらぬいくつかのテーマや通念、人間知みたいなものなんじゃないかと。まあ愛やセックスについて素手の「哲学」でなにかすごいものが発見できるというわけではなく、プラトン先生だってまわりの人々や自分の内的な感情を観察して語っているわけで、それが我々とぜんぜん違う、ってのもないだろうとか思ってます。

私が学生様に「プラトン先生はこんなこと考えてたみたいよ」って講義するときのポイントを列挙すると、下のような感じになる。

(1) プラトンにとってエロス/性欲/恋愛は凶悪な暴君で、これをどう評価しどうコントロールするかというのは正しい節制的な生活を送る上で最大の問題のひとつだった。

まあこれは我々のなかのそれが強い人にとってもそうかもしれませんね。

(2) エロスは悪しき困ったものでもありが、またなにか我々にとって有益なものでもある。

エロスは我々を気違いじみた行動に駆り立てることもあれば、よりよいもの、よりよい生活への原動力にもなる。そこで、プラトン先生はよいものとわるいものを分別しようとする。この「よいエロスとだめなエロスがありますよ」ってのはプラトン先生にとって中心的な感じがします。

(3) よいエロス、本来的なエロスはよいもの(善)への欲求である。

まあふつうに考えて、恋心にしても性欲にして、美人イケメンナイスバディといった容姿のよい人々、あるいはやさしいとか勇敢だとかっていう性格的な美徳をもった人々、あるいは頭が良いとか足が速いといった知的・肉体的な美点をもった人々に向かうもので、なにも長所やよいところがない人を好きになるのは難しいですね。ただ、プラトン先生は、おかしな考え方をするひとなので、美人のA子さんを好きなのは、A子さんの「美」を好きなのだ、って考えをすすめてしまう。「美」はA子さんと同じく美人のB子さんももってるので、ちゃんと理性を働かせれば、A子さんとB子さんを同じように愛せるようになるはずだ、そして修行をつめばA子さんとB子さんが共通にもっている「美」そのものを求めるようになるはずだ、みたいに考えちゃう。さらには、身体の美より魂の美の方がえらいのだから、魂の美を求めるはずだ、最後には美そのものをもとめるようになるのだ、みたいになっちゃう。哲学者とは思えないほどひどい論理だけど、まあそうなっちゃう理由もわからんではない。

(4) プラトン先生が気にしていて、批判したかたのは、「美と快楽」と「有用さ」を交換するふつうの人々の付き合い方だった。

これはかなり私のオリジナルな読みだと思うんだけど(そしてそう思うのは私が勉強たりないからなんけど)、古代ギリシアのパイデラステアってのは、スタンバーグ先生がいうところの非対称的な関係なわけですよね。年上の地位やお金や知恵を手に入れたおじさんと、まだなにももってないけど若くてきれいな少年の関係。一方は美少年からサービスされることによって快楽を得て、一方はサービスの対価としてお世話してもらってお金や知恵その他を得る。これってまあ現代でもおじさんと若い女性の間に成立しているというあんまり清くないかもしれない形の交際のパターンですね。でもこれって、あきらかになんか不純なところがある。プラトン先生はそういう欲と損得勘定の人間関係ってのがいやだったんだろなとか。

まあ夜中に目が覚めちゃって、半端なことを書いてしまった。あと

(5) もっもプラトン先生は身体の美の価値は否定できない、というよりやっぱり好きで、特になよなよよりガチムチの方が強くてたくましくてえらいので、男女のあれより男どうしの方がえらいと考えていた。
みたいな話もあるけど、これはまた。
関連する過去記事

恋愛の類型学 (4) おまけ:愛の類型学

よく昔の恋愛論や哲学的恋愛論みたいなの見てると、恋愛とその他の愛、特にキリスト教的・利他的アガペーみたいなのが混同されてるような感じがあるんですわ。 loveとかamourとかLiebeとか っていう西洋語は、すごくいろんな人間的な感情や人間関係につかわれるので、そこらへんでいろいろ言葉の意味のすりかえをするひとたちがいるんですね。

んじゃ、「恋愛」じゃなくて、「愛」を分類するとどうなるんだろう?

恋愛心理学とかだとエレンバーシェイドの分類が有名みたいですね。西洋語の愛loveには四天王がいる。それは別の語で表すと、(1) 愛着、(2) 同情愛、(3) 友愛、(4) 恋愛。

(1)の愛着、アタッチメント attachment loveていうのは、子供が親にくっつくような感じの愛ですね。大人、大きいもの、強いもの、経験をつんだひとにくっついていると安心・安全、離れると危険で不安。くっつき愛。

(2) 同情愛 compassionate loveってのは、同情・共感・共苦、パッションをともにする愛です。他人、それも複数の幸せを願うような愛、親切心。困ってるひとをみると助けたい愛。利他的愛、慈善愛、共同愛communal love、アガペ、B-Love、他者愛とかいろいろいわれる。

(3) 友愛 companionate love。コンパニオン愛。友人愛。上の同情愛が不特定複数・多数に向かう。compassionate loveが見返りを求めないっていうか、まあへんな言い方だけど上から下、なのに対して、友愛っていうのはお互いがお互いのことを考えてる互恵的な愛情なのがポイント。早い話、お互い組んでると利益になる。逆に言うと、利益にならなかったりすると友愛を維持するのはむずかしい。

(4) 恋愛 romantic love。この「ロマンチック」ラブの「ロマンチック」ってのは論者によってどう定義するか微妙だけど、バーシェイド先生の場合はエロスとかと関係のあるやつ。

こういうふうに「愛」って言葉にだまされないで、とりあずそれはどのタイプなのか、そしてそのタイプどうしの関係はどうなってるのか、みたいなふうにかんがえてかないと、変なお説教好きな哲学者にだまされちゃいます。

あと最近の心理学の傾向として、上の4つの「愛」のタイプがどれも進化的な背景もってるだろうってことが協調される傾向にありますね。愛着、友愛、恋愛の三つが進化的に有利、つまり生存と繁殖のために重要なのははっきりしているから、問題は(2)の利他的愛、同情愛がどう進化してきたのか、っていうのがけっこうたいへんな課題ではあるけど、まあ見通しはあります、ぐらい。

よく(女子)学生様は「友人と彼氏、友情と恋愛のちがいはなんだろう」「男女間では友情はなりたたないのでしょうか」みたいな授業後感想を書いてくれることがあるんですが、それは上のバーシェイド先生の(3)と(4)の違いを考えているわけですわね。

んで、先生たちは心理学者なので調査する。この方法がちょっとおもしろいんですわ。彼女たちが「社会カテゴリー法」と名付けた方法を紹介すると、まず被験者に身近な人物のリストを作ってもらう。んでそれを、社会的カテゴリーに分けてもらう。この社会的カテゴリーってのは、「家族」とか「友人」とか「同僚」とか「好きな人達」(people I love)、そういうやつね。当然複数のカテゴリに入る人々もいる。「好きな同僚」は「同僚」と「好きな人々」の両方に現れる。

んで、(A)「私が恋しているひと」people with whom I am in loveにリストアップされるひとは、(B)「性欲を感じるひと」people for whom I feel sexual attraction/desireにも現れるけど、(C)「私が愛してる/好きなひとびと」people I loveの人々は、(B)「性欲を感じるひと」にはあらわれないことがある。一方、(B)「性欲を感じるひと」は(A)「恋しているひと」には現れないことがある。さらに、(C)「恋しているひと」は(D)「友人 」friendにも現れることが多い。

これがなにを意味するかっていうと、バーシェイド先生たちの解釈では、(A)「私が恋しているひと」は、だいたいのところ、(B)性欲を感じる(D)友人だ、ってな感じ。

まああたりまえといえばあたりまえなんだけど、友人と恋人の違いは、相手に性欲を感じるかどうかです、ってな話になる。まあ非常に単純であたりまえの結論ではあるんだけど、こういうのもあるていど実証的な根拠があれば「なるほどね」とかってなりますね。大学の授業とかで追試やってみると面白いと思うんですけど、私自身はこういう調査の手法を勉強したことがないのでできなくて残念です。

あと、それじゃセックスフレンド(friend with benefit)はどうなるのかとかはまた。

バーシェイド先生の論文「「愛」の意味をもとめて」は下のに入ってます。

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恋愛の類型学 (3) スタンバーグ先生の恋愛物語理論

恋愛の類型学、つまりタイプ分けに関しては、ジョン・アラン・リー先生の恋愛の色彩理論ロバート・スタンバーグ先生の恋愛三角形理論が有名で、ネットにもけっこう転がっていますね。私もちょっと紹介しました。

スタンバーグ先生の三角形理論は1980年代のものですが、90年代に今度は「恋愛は物語だ理論」みたいなのを提唱して、三角形理論といっしょにして「恋愛の二重理論」という形にしてます。この「恋愛物語」理論はネットでは紹介されてないし、注目もされてないみたい。ちょっとだけ紹介。

スタンバーグ先生自身の本が翻訳されてるし、それ以降にも『愛の心理学』にもスタンバーグ先生自身が論文書いてるのでそっち見てもらえばいいのですが、講義のためにリストつくったので、まあ紹介。

愛とは物語である―愛を理解するための26の物語
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この理論は、その名の通り、恋愛は、それぞれのひとにとってそのバックグランドやプロトタイプみたいなのになる物語・ストーリーがあるのだ、ってな理論。人によってどういうストーリーをもってるかは違っていて、それが似てたり近かったりすると関係はうまく行きやすいだろう、と。また個人としても、成功しやすいストーリー持ってるひとは成功した恋愛生活送りやすいかもしれないし、まずいのをもってるひとはまあ苦労するかもね、とか。

スタンバーグ先生が挙げてるのは25個とか26個とか、文献によってちょっと違うし、それですべてのタイプのストーリーが尽くされてるとも主張してない。まあ非常に大雑把な話で、理論と言えるのかどうかもよくわからん。ただあらかじめこういうストーリーを挙げていって、それに対応する質問紙を作っていろいろやってみるとおもしろい結果ができるかもしれないね、程度です。

ストーリは大雑把に下のように、そのストーリーが主に何に注目するかってのに対応して「協調的」「原作つき」「ジャンルもの」「パートナー」「関係」「非対称な関係」とかに分けられてるけど、これもまあいいかげんな分類に見えるけどまあ。

    • 協調的関係
      • 【旅】 人生は旅であり、恋人は旅の道連れである物語。目的へ到達するために二人が協力する。魔王デスピサロを倒したり、海賊王になったりするなかで仲良くなる。
      • 【編みもの】 いっしょに縫ったり編んだりしながら関係が作られる。おだやかでいいですね。少女漫画はそうあってほしいです。
      • 【庭仕事】 草木の手入れのように関係を大事に育てる。土を耕したり水や肥料をやったり害虫駆除したりたいへんです。ときどき剪定もせなならんね。
      • 【ビジネス】 パートナー関係はビジネス。金は力。クールでドライにいきましょう。パパ活?パートナーはそれぞれ役割(仕事)をもつ。二人で連帯して外敵やライバルと戦ったりもするかも。
      • 【中毒】 アディクション。一方が相手に強く依存し、相手の存在が人生にとって不可欠であると感じられる。強く、不安定な愛着。パートナーにしがみつくような行動。パートナーを失うことを考えて不安になったり。メンヘラ的。
    • 原作つき物語
      • 【ファンタジー】 王子と王女、騎士とお姫様。騎士が自分を助けてくれたり、可憐なプリンセスと結婚するなどといったことを日頃から期待する。授業で「あなたたちの大半には、白馬に乗った王子様は、来ません!」とか言うと大反発を受けるので注意。「でもカエル王子はプロポーズしてくるよ」とか言っても喜ばないし。
      • 【歴史】 二人の間に起こった出来事が消すことのできない記録となる関係。精神的にも物理的にも多くの記録をつけてゆく。「あのときのあれがこれの原因なのよね、記録も残ってます」。
      • 【科学】 科学的な原理や公式に従って関係が同分析されるかという観点で物語が構成される。生物学者や進化心理学者はそういう恋愛するのでしょうか。
      • 【料理本】正しいレシピを使えば関係はうまくいく。料理人とパトロンの関係。「うまくいく」方法をみつけたいという欲求。『ルールズ』や『草食系男子の恋愛術』の世界ね。ハウツー本は大事です。
    • ジャンルもの物語
      • 【戦争】 戦闘や交戦状態が重視される。恋は戦争。おそらくパートナーとの。でも相対性理論に「恋は百年戦争」っていう名曲もあるからそっちだろうか。
      • 【演劇】 恋愛には筋書きがあり、いかにもありがちな演技や場面や台詞がかわされるものだ。双方が何かの役を演じる。
      • 【ユーモア】 愛とは奇妙で滑稽なものである。明るく屈託のない関係を保ち深刻になりすぎないことが重要とされる。ウディ・アレン的?
      • 【ミステリー】 愛は謎。恋人たちは相手が自分のことを知りすぎないようにすべきである。一方が相手の情報を明らかにしていく過程。
    • パートナーに注目する物語
      • 【SF】 恋愛は理解しがたい奇妙な存在との遭遇。パートナーの奇妙さや不思議さが大事。『うる星やつら』は違いますね。
      • 【コレクション】 パートナーが大きなコレクションの一部として尊重される。パートナーとは愛着のない距離を取った関係。ドン・ジョヴァンニの「カタログの歌」の世界。
      • 【アート】 パートナーをその身体的魅力について愛する。パートナーの概念がうるわしく見えることが重要。身体的な美を愛する。。美の鑑賞者と美術作品の関係。パートナーの健康に気をつける。容姿が衰えると……。
    • 関係に注目する物語
      • 【マイホーム】 家庭を中心にする物語。恋愛関係が安定した家と家庭の環境を達成するための手段。
      • 【回復】 サバイバー的心象。恋愛関係は、トラウマから回復するための手段。救われたいですか。ひどい目に合ったけどあなたが癒やしてくれましたか。
      • 【宗教】 パートナーが神に近づくための手段、あるいは関係そのものが宗教。これも誰かが救われるんでしょうな。
      • 【ゲーム】 恋愛はゲーム。「勝つためにプレーするのさ」。勝者と敗者。興奮、面白み、人生をまじめに考えるべきではない。「こーいーはげーぇーむじゃじゃなく〜いきるこーとねー」
    • 非対称な関係の物語。このタイプのはだいたいやばい。
      • 【師弟】 愛とは、導くものと導かれる者のあいだに生まれるものである。一方が情報を提供し、他方がそれを受け取る。セクハラの原因。
      • 【犠牲】 一方が自ら譲歩し、他方がその利益を受取る。愛することは自分を犠牲にすることであるという物語。たとえばワーグナーの『さまよえるオランダ人』とか、いみなくけがれなき処女が犠牲になるけどあれなんですかね。
      • 【政府】 一方が他方に対する支配権を持ち管理する。管理管理。
      • 【警察】 一方が他方を監視し、ある枠組みの中に押し込む。パートナーが規則をまもっているかしっかり監視していなければならないと考える物語。または自分が監視される必要があると考える物語。ウォッチングユー。
      • 【ポルノ】 愛は不潔であり、愛することは相手を貶めたり、相手から貶められたりする関係であるという物語。サド公爵とか、『O嬢の物語とか』。谷崎潤一郎先生の『痴人の愛』も近いか。
      • 【ホラー】 一方が相手を怖がらせ、相手が怯えるような関係であるときに両者の関係が興味深いものになる。『羊たちの沈黙』もまあ恋愛物語といえるのかもしれんですね。

まあそんなおもしろいものでもないけど、このスタンバーグ先生の「物語」ていうのは、まさにわれわれが「恋愛観」と呼ぶようなものだろうな、って思います。学生様たちには、「あなたは自分はどの物語を望みますか」とか「これまではどれですか」とか聞いてみるとおもしろいかもしれない。

私たちはどういう物語を生きたいのか、そして実際にはどういう物語を生きてるとおもっているか、っていうのは、恋愛にかぎらず人生についてもちょっとおもしろいところがありますね。それはそのうち。

下のは堅い心理学の本で、学問としての心理学に興味がないとなにをやってるのかわからないと思う。

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『不安の概念』(15) 人間は心的なものと肉体的なものの総合である

『不安の概念』読み直すの、もう完全に飽きてるんですが、まあ第1章ぐらいおわらないとね。

第1章の第5節〜6節では、『死に至る病』で主要テーマとして扱われる「人間は総合だ」とかってのが頻出するわけですが、これをどう解釈するかってのもまあいろいろ面倒ですね。

第5節だと「人間は心的なものと肉体的なものとの総合である、しかしこのふたつのものが、もしも第三のものに統一されなければ、総合ということは考えられない。この第三のものが総合である」言われるわけです。んで、第6節ではこんな感じ。

(アダムの堕罪の)結果は、罪がこの世にやってきたこと、性的なものが定立されたことの二重のものであった。一方のものは他のものから切りはなすことはできない。人間の根源的な状態を示すためには、このことは比べ物にならないほど大切である。人間が第三のものに説いて安らうひとつの総合でなかったとすれば、ひとつのことがふたつの結果を生むはずはなかったであろう。人間が精神をささえとした心と肉体の総合でなかったとすれば、性的なものが罪性とともに入ってくることはなかったであろう。

アダムは「知恵の木の実を食べちゃだめです」って言われて、それの意味がわからなかったけど不安になった。でもなにが不安なのかもわからない。んでどういうわけか知恵の木の実を食べちゃって、知恵がついちゃって初めて自分が罪を犯してしまったことを知る、とそういう言うことだったわけです。それ以降アダム(とその子孫)は知恵がついちゃって、かつ、罪への傾向性っていうか神様に逆らったりエッチなことを考えたりできるようになってしまいました。この変化は「質的飛躍」だそうな。まあ最初の罪を犯す前と後では「無垢」であるか「罪人」であるか質が変わっちゃってるわけですね。

そりゃまあわかるんだけど、問題は「心と肉体の精神による総合」みたいなのをどう理解するんかねえ。ここの文脈では、「精神」がなんだかわからないだけじゃなく、「心」もよくわからんのですよ。

無垢においては、アダムは精神としては夢見る精神であった。だからその総合は現実的ではなかった。なぜなら、結びつける役をつとめるのは他ならぬ精神であるのに、その精神がいまだ精神として定率されていないからである。動物にあっては、性的区別は本能として芽生えるが、人間の方はそうしたやり方で性的区別をもつわけにはいかない。人間こそまさしく総合だからである。精神は自分自身を定立する瞬間に、総合を定立する。だが、精神はまずその総合をかきわけて区別しなければならない。そして感性的なものの極限が性的なものにほかならない。人間は精神が現実的となる瞬間に、はじめてこの極限に達することができる。それ以前には、人間は動物ではないにしても、さりとて本当の意味で人間でもない。彼が人間となる瞬間に、はじえて同時に動物でもあることを通して人間となるのである。

「精神」もわからんけど、これはとりあえず自己意識、自己反省や自己創造の能力かあるいはその発揮とかそういうんじゃないかとぼんやり考えてる。まあキェルケゴールはそれがなんであるか(おそらく)どこでも説明してないから、だいたいこうなんだろうな、って考えるしかないと思ってますです。いま私が困ってるのは「心と肉体」ってときの「心」の方ですわ。肉体はまあ動物なら誰でも持ってるこのあれでしょうな。それに対立する「心」となると、デカルト的な意識なんかね。意識、感覚、思考、欲求とかを指すのか、そういうものをもつなんらかの実体みたいなのを考えているのかもまあよくわからない。ここで、キェルケゴールが動物が「心」をもってると考えてるのか、それともデカルトみたいに単なる肉体機械みたいに考えてるのか教えてくれればちょっとましになるような気がするんだけど、そういうのも見つからない。

「性的区別」と訳されているのはden sexuelle Forskjellighed、the sexual difference、性差ですなあ。「動物においては性差は本能的に発達する」みたいな感じ。この「本能」もわからんけど、なんも考えずに生得的に、ぐらいでいいっすか。動物は自分がオスだとかメスだとか考えなくてもちゃんと性的な活動ができるよういなるけど、人間はそうじゃないっしょ、ってなことを言おうとしているんすかね。なんでかというと、人間は自己反省する動物であって、自分がオスだとかメスだとか自覚したり、メスの体をみてみたいなあとか触ってみたいなあとかって欲求を自覚したり、この体についているこの部分をあれするとあれだなあ、あれをあれにあれするのか、とかそういうのを知識として身につけないと性的活動ができない、まあそういうことを言おうとしているんですかね。

そしてキェルケゴールではそれが「罪」ってのと深く結びついていて、罪ぬきのセックス、セックス抜きの罪みたいなのが考えることさえできない、ってんですかね。

 


『不安の概念』(14) 「自由」はいわゆる積極的自由だと思うの

前エントリのキェルケゴール(実は『不安の概念』の著者ヴィギリウス・ハウフニエンシス、またの名を「コペンハーゲンの夜警人」)の「自由」は強制されない自由か、するべきこと/ただしいことをする自由か、ていう問題はけっこう大きな問題なわけだけど、次の箇所では正しいことをする自由の方だと読めるんじゃないかと思う。まあ同じ問題は残ってるんだけど。

さて、もし禁断が欲情を目覚ますものとすれば、無知のかわりにひとつの知をえることになる。なぜなら、その欲望が自由を行使することにあったとすれば、アダムはすでに自由についての知識をもっていたはずだからである。

この田淵訳では「欲情」と「欲望」って訳し分けてるけど、どっちもLysten、the lustあるいはthe desireね。まえに「欲情」って訳したのはconcpiscentiaなので、もっと一般的な欲求・欲望を指しているかもしれない。これも面倒ねえ。キェルケゴール先生あんまり推敲しない人だったので、ここらへんは執筆上の不整合があるかもしれず、なんとも言えない感じもあるけど、まあとにかく禁止がアダムに(善悪にかかわらず)欲望を呼び起こすとして、それが正しいことをしたいという欲望だと考えることはできない、なぜなら、「正しいことをしたい」っていう欲望はなにが正しくてなにが正しくないかを前提とするからね、ってな議論だと思う。ただしこれは「悪いことをしたい」という欲望と考えても同じことが言えちゃうね。どっちにしてもアダムがほんとに善悪について無知ならよいことをしたいともわるいことをしたいとも思わないはずだ、ってのがキェルケゴールの言いたいことのはず。

さて、ここで自由は強制されないという意味なのか、あるいは正しいことをするという意味なのか、とかんがえると、まあ正しいことをする方だろうねえ、ってのが私の根拠の一つなわけです。かなり危うい解釈だけど、理解してもらえるかしらねえ。

……自由の可能性をアダムに目覚めさせるからこそ、禁断は彼を不安に陥れるのである。

そう読んでくると、この「自由」は正しいことをする自由であり、サルトル的な根源的自由、なんでもする自由ではない。実は昼間、Patric Gardiner先生のKirkegaard邦訳)をぱらぱらめくってたんですが、彼も「『不安の概念』の議論はサルトルみたいな世俗的な思想家のキェルケゴール解釈によるものとはぜんぜん違うよ」っていう意味のことを言ってて安心しました。ただ「自由」が私の考えてる意味なのかどうかは言及がなかった。

 

不安の無として無垢をすどおりしていったものが、いまやアダム自身のなかに入り込んできたのである。ここでもなおそれは無であり、*なしうる*ことの不安定な可能性である。自分がなにをないするのか、彼にはなにもわかってはいない。なぜなら、もしわかっているとすれば、一般的にいってあとからしたがうはずの善悪の区別が前提とされていることになるからである。

この「なしうる」も善なる選択、行為の方だと思う。アダムは知恵の(神の命令にしたがって)木の実を食べないことができる、親のいいつけにしたがってエッチな本を読まなかったり、オナニーしなかったりできる、それがなんであるかはまだわからないにもかかわらずね。

 

 

 

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翻訳はけっこう問題があるんではないかと思う。でもだしてくれててえらい。


『不安の概念』(13) 不安は可能性の可能性として自由の現実性であーる

 

まあもう飽きてきました。きりがないしねえ。でももうちょっとだけね。

 

「私は不安が恐怖やそれに似た諸概念とはまったく異なったものであることに注意を促したいと思う。それらの概念は何かある特定のものに結びついているが、不安の方は可能性にとっての可能性として、自由の現実性である。動物に不安が見られないのもそのためで、これは動物がその自然性において、精神としては規定されていないからである。」

ここはものすごく有名な一節ですね。はっきりした対象をもつ恐怖と、対象がなんだかわからない不安とは違います。これはOK。問題は、「可能性にとっての可能性として自由の現実性である」で、これまともに解釈しているのはあんまり見たことない気がする。『不安の概念』に関する論文集を見直せばなんかあるかもしれんけど、ねえ。原文は”… medens Angest er Frihedens Virkelighed som Mulighed for Muligheden” / “whereas anxiety is freedom’s actuality as the possibility of possibility”。デンマーク語の前置詞forは、当然ものすごく意味が広くて(英語のforにもbeforeにもofにもtowardにも対応する)、これだけじゃなんだかわからん、ってのが普通だと思います。わかるのが異常。私はほぼあきらめ。他みるしかない。

しかしここのFriheden/ 定冠詞つきfreedomの意味は気になる。ていうのは、キェルケゴールが「自由」ってのをどういう意味で使っているかっていう疑問が、実はこの一連のエントリを書き始めたきっかけなのよね。まあ早い話がこの前の会合の発表でキェルケゴールの「自由」ってのが問題になったんだけど、発表者の言う「なんでもできる自由」はキェルケゴールの(『不安の概念』での)「自由」の意味とはちがうんちゃうか、と。

自由っていうと、バーリン先生の二つの「自由」概念の話が思い浮かびますわね。それは(1)消極的自由、つまり強制されてない、なにかを選択できるっていう自由と、(2)積極的自由、つまり自分が本来なすべきことを望みそれをおこなう自由、の二つね。アナクロニズムなんだけど、こういう捉え方をした場合、キェルケゴールが自由というときにかんがえているのはどっちかっていう問いは実は重要なんちゃうかなと思うわけです。そして、『あれか/これか』から『死に至る病』に至るまで、キェルケゴールの用語法では自由は積極的自由の意味、各種の悪しき欲望の影響から離れて正しいことを行う自由なんちゃうかと思っているわけです。まあこれを言うためには相当の準備が必要なんだけど、いまのところ私はそう思ってる。

んでそういう味方からすると、この「不安は、可能性の可能性として自由の現実性だ」っていう謎文は、「本来自由である人間、つまり、正しいことを行うことを欲するべきである人間が、無垢のぼんやりした意識でいるというその無垢な現実の状態では、「〜すべからず」という禁止によってぼんやり自覚される、そもそも正しいのも正しくないもの選択すること(可能性)ができてしまうかもしれない(可能性)ってのが不安の理由なのだ」ぐらいに読むんちゃうかなと思ってるわけです。しかしこれは読み過ぎかもしれない、っていうか読み過ぎだろう。でもこういうふうになんらかの解釈の決定をして読んでいかないと、なにもわからないか、あるいはキェルケゴールのオウム返ししかすることができなくなると思うんですわ。つらい。

最後の動物の話はわけわからんね。犬や猫だって不安そうにしているときはあるわけだから、動物を見たことがないか、あるいはキェルケゴールが考えている不安がそうした観察可能なものとはぜんぜん違うかどっちか、あるいは両方。両方ではないか。

 

 


『不安の概念』(12) なにができるかわからず不安です

今日もちょっと写経してみる。夏の午前中はいいですなあ。第1章第5節ね。

不安は夢見つつある精神の規定であり、そのようなものとしては心理学に属する。

また「規定」と「精神」が出てきた。まあ「精神」ってのはとりあえず自己反省する意識とかそういうのであり、「規定」ってのはその特徴である、ぐらいで許して。

目覚めている時、私自身と私でないものとのあいだには区別があるが、眠っているときにはこの区別は中断され、夢見ているとき区別は暗示された無となる。

起きてるときと寝てる時の話はいいですよね。問題は、「夢見ている」とき、あんまり意識がはっきりしてないときね。田淵訳で「暗示された無」って約されているのは antydet Intet、intimidated nothing。ほのめされている無。まあこの「無」がもちろんわからんのですが、その主観にとっては、その存在そのものを含めてなんだかわからないもの、って感じに読んでよいのではないか。たとえば「エッチなマンガは読んではいけません」ってなことを言われた時、「エッチな」も「マンガ」も知らなければその命令が何であるのは当人はわからない。とりあえず「エッチなマンガ」という読んではいかんものがある、ぐらいしかわからん。それはおそろしいものであるけど当人には無。

 

精神の現実性は、たえずみずからの可能性をおびきよせる姿として現れる。しかし精神が可能性をとらえようとするやいなやそれはのがれ去る。

こういう「現実性」もよくわからんですよねえ。もうほとんどお手上げ。「精神」Aanden/the spiriには定冠詞がついてるんだけど(デンマーク語では名詞のケツにつく)、これが「その精神=その夢見ている精神」なのか、「精神ってものは」なのかもよくわからん。こういう抽象的な文章をじーっと見てると、なんかわかってくるような気分になることもあるんですが(「おう、精神の現実性はみずからの可能性を誘惑するのだな、なるほど」)、実はわからない。まあ提案としては、「われわれが自己反省すると、自分がこれからなにをすることができるかとかってのを考えちゃうもので、それがまさにわれわれの意識がその潜在的能力を発揮しているとき、現実性を獲得している時なのよね」ぐらいに読む。

「でも、あんまり意識がはっきりしてない状態なので、実際になにができるのかって考えようとすると、「夢見る精神」の状態ではなにができるかよくわからない、特に「エッチなマンガを読む」とかってのの「エッチな」がわからない場合には具体的にそれがなにをすることなのかわからない」ぐらいでどうか。まあ正直なところ、これははエッチなマンガより、たとえば「エッチなマンガ読んでオナニーしてはいかんよ」の方がわかりやすいんちゃうかね。「え?オナニーってなに?それ僕できるの?」みたいな感じ。たいへんすね。まあオナニーじゃなくて、「姦淫するなかれ」でも「女子大生にセクハラするなかれ」でもいいけど、そういうこと言われると、よくわからないままにそれについて考えることになる。こうなると、そのつぎの、

それは不安をかもすにすぎない無である。ただ姿を見せているだけなら、これ以上のことはできない。

はわかるんではないか。

 


『不安の概念』(11) 無が不安を生む

わからんのでまず和訳の写経だけしてみる。

この状態(無垢)には平和と安息がある。しかし同時にそこには何か別のものがある。といっても別に不和や争いではない。事実そこには争いの種になるようなものは何もない。ではいったいそれは何だろう?無である。ところで無はどんな働きをするのだろうか?無は不安を生む。無垢が同時に不安であるということ、これが無垢のもつ奥深い秘密である。夢見つつ精神は、自身の現実性を投影するが、しかしこの現実性は無であり、さらに無はみずからの外にたえず無垢を見るのである。

わかりますか?わかりませんね。

まずこの田淵訳は最後のところがよくなくて、英訳だと innocence always sees this nothing outside itselfで、「しかし無垢は自分の外にこの無を見るのである」じゃないとだめ。って書こうとしてデンマーク語確認したら、men dette Intet seer Uskyldigheden bestandig udenfor sigだわ。動詞がseerで、dette Intet (this nothing)とUskyldigheden (innocence)のどっちが主語なのか問題。これ主語と目的語が倒置している可能性は十分にあって、キェルケゴールはそういうのよくやる。どっちも単数なので、動詞の形からでは見分けられない。意味解釈からすれば、「無が見る」とか「無の外部」とかってのが考えにくいから、Thomte先生の英訳の方がやっぱりいいんじゃないかな。じゃないと意味わからん。でもそう読んだからわかるようになるわけでもないけど。-100が-30ぐらいになる感じよね。苦しい。

んでこっから解釈なんですが、この無垢ってのを性的な無垢、性的な無知って考えて、性の目覚めの話だと考えると少しは読めるようになるでしょ、っていうのが私の提案。ていうか、そうじゃないと読めないままだし。

子供は性的に無知だ。したがってわれわれのような汚れた大人のようにエッチなことで頭をいっぱいにすることはないってので平和だ。いいですね。でも、なにか予感がある。でもそれがなにかはわからない。これが「無」。それがなんだかわからないから無なのね。たとえば仮に「ある絵を見るとちんちんがむずむずする感覚がある」みたいなのがあったとして、それがなんだかはわからない。むずむずの感覚さえはっきりとは意識してないかもしれない。自意識があんまりないからとりあえずマンガ読む。でもそういう興奮なりなんなりが、なにか大事なことだという予感はある、そういう状態を想像してみてはどうか。

そのあとも面倒。(夢見つつ)「精神は自身の現実性を投影する」も面倒なんですが、精神(自己反省をもつ意識)は、ふつう自分が理解するところの自分自身を考えたり想像したりするわけだけど、まだ自己意識がはっきりしてないので「夢見つつ」にすぎなくて、自分がなにをしているのか、なにをもとめているのかとかもわからず、想像したり考えたりする自分の姿や活動も「無」。だから無垢な状態の子供は、性的ななにかが自分の外にあることは感じるものの、それははっきりしない無にすぎない。でもなんか不安と欲望を感じるよ、ってな感じでどうか。

udenfor sig selvは「いつも自分の外に」。まだ性的にまったく無知だから、その性欲ってのはなんかよくわからないし、自分のなかにあるわけではない。外に広がっているわけのわからないもの、無。

まあ正直なところ、なにか世界には隠し事がある、なぜパンツやエッチな絵がこんな魅力があるのか、ていう不安はみんな感じたことがあるんじゃないですかね。これだとわかるっしょ。

不安Angestは英語だとanxietyっていう感じで、不安だけどanxious forみたいなのがあることからもわかるようにむずむずして落ち着かない感じを指すんだと思うんよね。この「落ち着かなさ」がこの本のポイントで、恐怖に似た意味での「不安」ではないんだと思う。これもハイデガ先生とかの影響で誤解されているところよねえ。「不安」という日本語はまさにその不安定さを表していていいんだけどさ。「不安神経症」とか不安ではないってことよ。

 

 


『不安の概念』(10) 無垢において人間は精神として規定されない

んで、『不安の概念』第1章第5節。ここねえ、本気でどう読むんでしょうね。

「無垢は無知である。」

まあこれはいいや。次。

「無垢において人間は精神として規定されないで、彼の自然性と直接に統一されて、心として規定される。」

わかりますか?私はわからない。

まあ前のエントリで書いたけど「規定する」がわからん。他のキェルケゴール読者がどう読んでいるかもわからん。規定規定定規規定。まあこういう用語法に慣れてる人々はそれをどう読むかっていうのを教える必要はないと考えてるんよね。

英語だと、In innocence, man is not qualified as spirit but is psychically qualified in immediate unity with his natural condition. これだとqualifiedになってて少しはわかるような気になる。私の読みでは、まず、「無垢の状態では、人間はまだ精神と呼べるようなものではない。」キェルケゴールの「精神」もものすごく面倒だけど、なんか自己反省を含んでるやつだ、ぐらいでいいんちゃうか。後半は、「心の面でいえば、彼は彼の自然的状態と直接的に統一されているものと見ることができる/見るべきだ」ぐらいに読むのはどうか。だいぶ開いたつもりだけどまだまだね。

後半部で言いたいのは、まあなんも知らない状態、たとえば2〜3歳児を考えた時に、まだk自己反省とか自意識とかってものをもってないので、たとえば身体的な欲求や感覚をそのまんま生きてる状態なわけよね。ほしいものにはそのまま手を伸ばすし、嫌いなものは吐き出すし、自分が手を伸ばしているとか吐き出しているとかそういうことも意識しない。まあ本当にそういう状態があるかどうかというのはまさに心理学的な問題だけど、そういう見方はあるだろうと思う。同時期のショーペンハウアーも、(おそらく『意志と表象〜』で)動物は瞬間に生きている、みたいなことを言っていたと思うんだけど、まあそうした動物と同じように、欲求や感覚のままに生きていて、それが「直接な統一」っていう状態なんだと思うです。上の英訳だとpsychicallyって副詞がどうかかっているのかわかりにくいんだけど、デンマーク語でも同じようなかかりかた。田淵訳の「心として規定される」はあんまりよくなくて、「心に注目すると」「心について語れば」って感じなんじゃないかと思うんだけど、文法的あるいは解釈的な根拠を示すのはかなり難しい。

やれやれ、こんな調子でやってたら、読み終わったときは白髪のおじいさん、とか浦島太郎よね。私はなにをやっているのだろうか。でも日本でこういう低レベルやってる人は皆無だから、一回でいいからやっておく必要はあるんじゃないかと思うのよ。