セックスの哲学」カテゴリーアーカイブ

翻訳ゲリラ:リー・C・ライス「スピノザ(バルーフ)(1632–1677)」

リー・C・ライス「スピノザ(バルーフ)(1632–1677)」

Lee C. Rice, “Spinoza, Baruch (1632-1677)”, Alan Soble (ed.) Sex from Plato to Paglia, Grennwood, 2006. https://amzn.to/2QZoQ26 の非合法訳です。しょこら・江口某訳。

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翻訳ゲリラ:セリア・ウルフ−デヴァイン「デカルト」

セリア・ウルフ−デヴァイン「デカルト(ルネ)(1596–1650)」

Celia Wolf-Devine, “Descartes, René (1596-1650)”, Alan Soble (ed.) Sex from Plato to Paglia, Grennwood, 2006. https://amzn.to/2QZoQ26 の非合法訳です。しょこら・江口某訳。

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翻訳ゲリラ:ルース・サンプル、「リベラルフェミニズム」

Ruth Sample (2006) “Feminism, Liberal”, Alan Soble (ed.) Sex from Plato to Paglia, Grennwood, 2006. https://amzn.to/2QZoQ26 の非合法訳。ヤヤネヒロコ・江口聡訳。

https://yonosuke.net/eguchi/wp-content/uploads/2024/02/tr-liberal-feminism-sample.pdf

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翻訳ゲリラ:ピケット「同性愛」

B・ピケット「同性愛」(スタンフォード哲学百科事典、2002年8月、改訂版2006年11月) Brent Pickett, Homosexuality ( Stanford Encyclopedia of Philosophy 、First published Tue Aug 6, 2002; substantive revision Wed Nov 29, 2006)

誰かと共同作業で訳したのですが、Dropboxの事故で誰だったかわからなくなってしまいました……「私だ!」って人は連絡してください。

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翻訳ゲリラ:バートン・レイザー「同性愛、道徳、自然法」

バートン・レイザー「同性愛、道徳、自然法」

Burton M. Leiser, “Homosexuality, Morals and the Law of Nature,” in Hugh Lafolette (ed.), \emph{Ethics in Practice: An Anthology} (Blackwell; Oxford, 1997), pp.242-256

https://yonosuke.net/eguchi/wp-content/uploads/2024/02/tr-laser-homosexual.pdf

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翻訳ゲリラ:マイケル・レヴィン「なぜ同性愛は異常か」

マイケル・レヴィン「なぜ同性愛は異常か」

古いけどこういうのが1980年代には議論されてたわけです。これに対抗する論文も近いうちに出します。こういう議論の結果現在の世界がある、っていうのは学ばないとならない。

Michael Levin, ‘Why Homosexuality is Abnormal,’ The Monist 67. 2(1984) \& in Hugh LaFollette(ed.), Ethics in Practice: An Anthology (Oxford: Blackewell, 1997), pp.233-241,

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翻訳ゲリラ:グレタ・クリスティナ「私たち、いまセックスしているの?それとも?」

「セックス」の定義に関する非常に有名なエッセイ。非合法訳だけどこれはあんまり心配してない。

https://yonosuke.net/eguchi/wp-content/uploads/2024/02/tr-christina-having.pdf

ソース

\begin{document} \maketitle

\begin{framed}
Greta Christina (1992) “Are We Having Sex Now or What?”. 昔から有名なエッセイで、いろんなセックス哲学アンソロジーに収録されている。初出は David Steinberg (1992) \emph{The Erotic Impluse}, Tacher Press.
グレタ・クリスティナの自己紹介はここにある。 \url{https://gretachristina.typepad.com/about.html}。ライター、ブロガー、無神論者、LGBT活動家。 Wikipedia記事 \url{https://en.wikipedia.org/wiki/Greta_Christina}

\end{framed}

\vspace{2zw}

他人とセックスをしはじめたとき、私はその相手を数えていたものだ。何人とセックスしたのかを記録しておきたかったのだ。一生に何人とセックスをしたかということはある種のプライドやアイデンティティの源だった。だから、私のなかでは、レンが\ruby{一番}{ナンバーワン}であり、クリスは二番であり、もう名前を思い出すことができない、小柄なヘビーメタル狂のバルビツール中毒は三番であり、アランは四番だ、などなどということになっている。そうするうちに、新しい相手とはじめてセックスをしはじめたとき(そのころは男性としかセックスしていなかった)に、頭に思い浮ぶことが、「オーベイビー、君は私のなかでとってもいい感じ」や「こんなキモい奴と私はいったいなにしてんだろ?」や「退屈。テレビではなにやってるかな?」といったものではなくなっていった。私の頭に思い浮んだのは「七番!」だった。

こうしたことは興味深い結果をもたらした。私は数字にパターンを探そうとした。しばらくのあいだ私が立てていた理論は、4人ごとの恋人はベッドでとてもよい、というもので、しばらくのあいだ、この現象がもつ宇宙的な意義について思いをめぐらせていた。時には、私はセックスした相手の数によって、私自身がどういう人間であるかを決定しようとした。18才のとき、私は10人とセックスをした。そうすることによって、私は、正常であるのか、抑圧されていることになるのか、まったくの\ruby{ヤリマン}{スラット}なのか、自由を愛するボヘミアンになるのか、それとも別のなにかだろうか。私は自分の数を他の人と比べたわけではない{\DDASH}比較はしなかった。それは私だけの排他的構造であり、私の頭のなかでだけおこなわれるゲームだった。

そうこうするうちに、数字が少々大きくなってきた。数字というものはそうしたものだ。そして記録しておくのが難しくなった。最後に数えたのが「17」であったことは覚えているので、覚えきれなかった数字は「18」にちがいないのだが、そこで私は記録が正確なものかどうか疑いをもつようになった。夜横になってから一人で考えるのが好きだった。ブラッドがいて、それに誕生日の時の男がいて、デヴィッドがいて……いやまてよ、大学最初の週のコンパで酔っ払ったときの男がいる……それが七、八、九……午前2時に私はやっと数えあげた。しかし、誰かを数えそこねているかもしれないという疑いは晴れないままだった。自分の体のなかに招きいれてしまったのを忘れたいと思っている、みすぼらしくうすぎたないクズ野郎がまだ残っているのではないか。そんなうすっぺらな泡クズを忘れたいと同じくらい強く、私は数字を正確にしたかったのだ。

だが、私はさらに強硬になった。私はなにがセックスとして数えられ、なにがそうではないのかを問題にしはじめた。たとえば、ジーンとの場合がある。私は、ボーイフレンドのデヴィッドが浮気したために喧嘩していた。これはけっこうな出来事で、私と友達だったジーンはそれまで数週間私を狙っていて、私も彼をきちんと拒絶したわけではなかった。私はジーンの部屋に行き、デヴィッドについての不満をうちあけた。ジーンはもちろんとても同情的で、私の背中をなでてくれた。そして私たちは話をしてタッチして抱きしめあった。そして私たちはキスしはじめ、ベッドにいっしょに横になって、おたがいの体をなであい、その先はわかるだろうが、なにもかにもぐずぐずに、ベッドの上でころがり、まさぐりあい、こすりあい、もみあい、あちこちキスしあい、おしあいへしあい抱き締めあった。彼は実際には入ってこなかった。彼はそうしたがったし、私もそうしたかったのだが、私はボーイフレンドに操を立てていた。そこで私は言いつづけた。「ノー、それはだめ。イエス、気持ちがいい、ノー、それはやりすぎ、イエス、やめないで、ノー、もう十分」。私たちは服さえ脱がなかった、\ruby{いやはや}{ジーザスクライスト}!それはちょっとした夜ではあった。本当のところ最高の夜のひとつだ。しかし長い間、私はそれをセックスした日の一つとしては数えてこなかった。彼は中には入ってこなかったし、だから私はそれを数えなかった。

数ヶ月か数年後、寝転がりながらリストを考えときに、疑問に思いはじめた。ジーンをカウントしないのはなぜ?中に入らなかったから彼は数に入らないのだろうか?それとも、私のデヴィッドに対する道徳的な限界を維持していたから、我慢づよい、貞操堅固な殉教者的ガールフレンドとしての私の立場を守りつづけたからジーンはカウントされないのであり、もしジーンをカウントしてしまったら、傷つけられたとか、より優越していると感じることができなくなるからだろうか?

さらに数年後、けっきょくジーンとファックすることになり、私は深い安心をおぼえた。少なくとも、彼にははっきりした番号がついて、実際にカウントされることになったからだ。

その後、私は女性ともセックスしはじめた。そして、なんと、\kenten{そのこと}がシステムに穴を開けることになった。私はセックスをペニス-ヴァギナセックス{\DDASH}まあ、\ruby{挿入}{スクリュー}{\DDASH}と定義することによってリストをつくっていた。それはごく単純な区別で、ストレートな二値システムだった。入るか入らないか?イエスかノーか?1か0か。オンかオフか?たしかにこれはまったく恣意的な定義ではあるが、慣習的な定義でもあり、その背後には古代からの尊重すべき伝統が存在しており、男とやっているかぎりは、それを疑問視する理由はなかった。

しかし女性とのこととなるとむずかしい。なにもよりもまずペニスが存在しておらず、したがってそもそも最初から記録システムは欠陥を抱えていることになる。さらには、女性どうしがセックスする方法はたくさんある。さわったりなめたりグラインドしたり指を使ったりコブシをつかったり{\DDASH}ディルドやバブレーターや野菜や、その他部屋のそこらへんに転がっているものを使ったり、あるいは人体以外は使わなかったり。もちろん、女性と男性のセックスについても同じことは言える。しかし女性どうしでは、一つになることとして数世紀にわたった伝統とされる方法はないのだ。私たちが御互いをファックするときもディックは存在しておあらず、だから客観的に言って、「これが重要なことである、我々は今現在セックスをしているのだ!」そして他のことがらは前戯や後戯にすぎないのだ、といった感覚を得ることはできない。だから私が女性たちとセックスしはじめたとき、二値システムはお払い箱になり、もっと包括的な定義が求められることになった。

このことが意味するのは、私がそれまでセックスした人の数のリストは、完全にゴミ箱行きになった、ということである。それを維持するには、最初にもどってすべてを再構成し、ネッキングしたり着衣のままいちゃついたりした人々を含めるようにしなければならない。以前には少しも疑問をもつこともなかった、もっとも重要な「ナンバーワン」の地位を誰が占めるかという問題すら、再評価されねばならなかった。

この時点までに、私はリストに少し興味を失なっていた。それを再構成することは労多くして益が少ない。しかし、重要な問いは残っている。誰かとセックスするとカウントされるものはなんであるのか?

これは私には重要な問いだった。私たちはなにがセックスとされるべきかを知る必要がある。私たちが誰かとセックスすると、その関係が変化するからだ。\ruby{そのとおり}{ライト}?。\kenten{そのとおり}?それは、セックスそのものがものごとをそんなに大きく変えてしまわねばならない、ということではない。しかし、自分がセックスしたのかどうかを知ること、性的な繋がりがあることを意識すること、「私はこの人物とセックスをしたことがある」と考えながら礼儀正しい立ち話をすること、こういうことがものごとを変えてしまうのだ。いずれにしても私はそう信じていた。そして、もし友達とセックスをすることが、その友人関係を混乱させたり変化させたりするならば、自分が相手とセックスしたのかどうかがはっきりとはわからないということがいかに奇妙なことをもたらすのかを考えてみるがよい。

問題は、私がもっといろんな性的なことがらをするようになるにつれて、\kenten{セックス}と\kenten{非セックス}の間の境界線がさらにぼんやりしてはっきりしないものになってきたことだった。私が性的な経験にもっと多くをもちこむようになると、境界線に当たるものごとが私の注意をひくようになった。私が「セックス」として囲いこむテリトリーが広がったのではない。そのライン自体がふくれあがって広い灰色の領域に変化したのだ。それは国境線というよりは非武装地帯のようなものになった。

そこは生活するには奇妙な場所だ。悪い場所ではない、たんに奇妙なだけだ。それはジャグリングや、時計製作や、ピアノ演奏に似ている{\DDASH}完全に集中した意識と注意力を要求するなにものかだ。それは認知的不協和のようなものだが、快適なものでもある。それは真にせまったおそろしい悪夢から目覚めることに似ている。それは、いままで自分が知っていると思っていたことはまちがってるとわかったときに感じることに似ている。それはマジでいいことだ。そんなものは苦痛を与えるだけだし、馬鹿げているし、自分をめちゃくちゃにしてしまうからだ。

しかし、私にとっては、問いのなかで生きるということは当然答を探すことにつながる。私は肩をすくめて両手をあげて「クソ、答がわかったらなぁ!」などと言って済ますことはできない。財宝を持ち替えることができないとしても、誰も知らないフロンティアを探検する必要がある。だから、もしそれが不完全で暫定的なものにせよ、私は何がセックスでありなにがそうでないのかという定義をどうしても見つけたい。

私は、どういうときに自分がセクシュアルだと\kenten{感じる}のかは知っている。セクシーだと感じているとき、私のプッシーが濡れ、乳首がかたくなり、手のひらが湿って、頭に霧がかり、肌がひりひりしてとても感じやすくなる。尻の肉が緊張し、心拍が上がり、オルガスムを得る(明白な証拠だ)、などなど。しかし、誰かをセクシュアルだと感じることは、その人とセックスすることと同じではない。\ruby{なんてこった}{グッドロード}、もし私が誰かに魅力を感じ、相手も私をそう感じたときにときにそれをセックスと呼ぶならば、私はいまよりさらに混乱してしまうことになるだろう。誰かといっしょにセクシュアル\kenten{であること}は、その相手とセックス\kenten{をする}ことと同じではない。私はあまりにも多くの人々とダンスして\ruby{気のあるそぶりを交換}{フラート}し、あまりにも多くのセクシーで\ruby{誘惑的}{セダクティブ}かもしれない背中タッチを受けまた与えてきたので、セクシュアルであることとセックスすることは違うと考えないわけにはいかないのだ。

友達の一人が言うには、自分がセックスしていると思ったら、それがセックスだ、ということらしい。これはおもしろいアイディアだ。たしかに、このアイディアを採用すれば、歴史修正主義者のブタにならずに整合的な性的歴史を構築することができる。しかし、実際にはこれは論点先取になってしまう。私がそう思うならそれはセックスだ、というのはよい。しかしでは、それがセックス\kenten{である}と思うものはなんだろうか?もし、私がそれをしているときに、それがセックスに数えられるのかどうかに\kenten{疑いをもった}(wonder)ときにはどうなるのだろうか?

おそらく、誰かとセックスするとは、意識的で、同意の上で、おたがいに承認しあった、共有された性的快楽の追求でである。これは悪い定義ではない。私たちがお互いを興奮させ、それを伝え、そうしつづけるなら、それはセックスだ。この定義は広いもので、性器どうしの接触やオルガスムを越えた、多様な性的活動を含むことができる。また、十分判明(distinct)で、性的な知覚や興奮ならどんなものでも含めてしまうということは\kenten{ない}。またこの定義は、私が感じる諸要素を含んでいる{\DDASH}承認、同意、相互性、そして快楽の追求。しかし、一方がセックスには同意しているが、本当はそれを楽しんでいない状況についてはどうだろう?多くの人々(私を含め)は、満足にはほど遠く、本当はやりたくないような性的交流の経験があるものだ。そして、それが実際に私たちの意思に反して強制されたものでないかぎり、ほとんどの人はそれをセックスに分類するだろうと私は考える。

ひょっとすると、あなたたちの\kenten{両方}(あるいは全員)がそれをセックスだと思えば、あなたが楽しかろうがそうでなかろうが、それはセックスだ、ということになるかもしれない。これは、同意はされているものの望まれたり楽しまれたりはしていないセックスの問題を払拭できる。しかし残念ながら、これもまた論点先取になるか、あるいはさらに悪い。今度は、私たちは、なにがセックスでありなにがそうでないかについての、さまざまな人々のぼんやりとしてはっきりしない観念を重ねあわせて、オーバーラップする場所を見つけなければならない。これはやっかいすぎる。

セックスとは、意識的な、同意の上での、相互に承認された、関係者の少なくとも一人の性的快楽の追求である、という定義はどうだろうか。これは前のよりはましだ。上であげたキーになる要素をすべてもち、参加者の一人が性的快楽以外の理由{\DDASH}地位、自信、お金、自分が愛している人の満足や快楽、など{\DDASH}からそれをしている状況も含むことができる。しかし、もし二者の\kenten{どちらも}それを楽しんでいない場合はどうなるだろうか。たとえば、両方が、他方がそれをしたがっていると思いこんでいるからそれをししている、という場合は?うぐっ。

これは難しい。定番の発想{\DDASH}セックスとはインターコースである{\DDASH}にすら致命的な欠陥がある。それはレイプを含むものであり、これは私は受け入れることを断固として拒否したいのだ。私に関していえば、同意がなければ、それはセックスではない。しかし、私はこれは沼地でしがみつける唯一のもののように感じられる。この問題について考えれば考えるほど、疑問が増えることになった。出会いのどの段階で、それはセクシュアルに\kenten{なる}のだろうか。もし、非セクシュアルな交流がいずれセックスになるのだとすれば、それはずっとセックスだったのではないか?寝ている人とのセックスはどうだろう?一方はセックスしていて、他方はそうではない、という状況があるだろうか?どういう定義を考えてみても、その定義を疑問視することになる実生活の経験が思い浮かぶことになった。

たとえば、数年前、私は全員女性のセックスパーティーに参加した(実は私がホストした)。他に12人の女性がいるなかで、私が本気で身体的に\ruby{いやらしく}{ナスティに}なれたのはほんの少数だった。他の人と私はキスをしたりハグしたり下ネタを話したり単にスマイルしたり、あるいは彼女たちが本気で身体的にいやらしいことをしたりしているのを見るだけだった。もし私たちがそれぞれ別々にいたら、私はおそらく、自分がほとんどの女性たちとしたことは、セックスには数えられないと言うだろうと思う。しかし、この経験は、ホットでスイートで\ruby{馬鹿っぽくて}{シリー}とてもとても特別な経験で、私たち全員によって作りあげられたものであって、私が実際にやったのはごく少数だったけれども、私が感じるにはそこにいた女性全員とセクシュアルであった、と感じた。さて、私がそのパーティーに出た女性の一人と会ったとき、私はいつもこっそり疑問に思ったものだ。私たちはセックスしたのかしら?

たとえば、私がはじめてサドマゾキズムを経験したとき、私は本当にホットな女性といっしょになった。私たちはそのとき、そこで何をするのか、なにがOKでなにがそうでないかを相談した。彼女は、自分はセックスしたいのかどうかわからないと言った。さて、私たちはあらゆるプレイやゲームをはっきりプランした{\DDASH}スパンキング、ボンデージ、服従{\DDASH}私はこれらは性的な活動だとはっきり同定する。だが彼女の考えでは、\kenten{セックス}は性器の直接的接触であり、彼女はそれを必ずしも私としたいとは思っていない、というわけだ。彼女とのプレイはとてつもなくエロチックな経験となった。興奮をうながし、刺激的で、ほとんど耐えがたいまでに満足いくものだった。しかし、私たちはお互いの性器にタッチさえすることなく、一夜を過ごした。あれはセックスだったのだろうか?

たとえば、私は数ヶ月の間、\ruby{覗き部屋}{ピープショー}でヌードダンサーとして働いたことがある。ピープショーに行ったことがない人のために説明しておけば\footnote{訳注:映画『パリ・テキサス』で舞台になってましたね。}、それはこんな感じだ。客は、電話ボックスのような狭い暗い小部屋に入る。小銭を入れると、メタルのプレートが引き上げられる。客は窓ごしに、裸の女性が踊っている小部屋/ステージを見る。ある時、一人の男がブースにやってきて、私を見てマスターベーションしはじめた。私は彼の正面でしゃがみこんで、自分もマスターベーションしはじめた。私たちはお互いにんまり笑い、おたがいを見つめつつマスターベーションし、どちらもすばらしい時間を過ごした(私はマスターベーションにお金が払われているのではないと考えている{\DDASH}それはたいへんな仕事だ、しかしそうしなければならないひともいる{\DDASH})。彼が行ってしまってから、私は考えた。私たちはセックスしたのかしら?つまり、それが私の知っている誰かで、さらに、ガラスや小銭がなければ、私にはなんの疑問も浮かばなかったはずだ。相手から2フィートの距離に座り、相手がマスターベションするのを見る?うん、私はこれはまったく問題なくセックスと呼べる。しかし、このケースはちょっとちがう。知らない人だし、ガラスや小銭があるからだ。あれはセックスだったろうか?

私はまだ答を知らない。

\nocite{christina92:_are_we_havin_sex_now_or_not}

\renewcommand{\refname}{書誌情報}

\end{document} %———————————————————-–—

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翻訳ゲリラ:性的アイデンティティ

(Spencer A. Rathus, Jeffrey S. Nevid & Leis Fichner-Rathus, Human Sexuality in a World of Diversity, 6th ed., 2005のp.175からの項目を江口聡 eguchi.satoshi@gmail.com が勝手に訳したもの。著作権クリアしておいません。版も古いです。)だれかいっしょに訳出しませんかね。出版社はどこに相談したらいいかなあ。医学系のところじゃないとだめだわね。

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翻訳ゲリラ:生物学的性はバイナリーだ、たとえ性役割がレインボーだったとしても

SNSで生物学者の先生が「人間の性は男と女の2つに生物学的に決定されている」と発言して少し話題になってたので、生物学者が考えている「性」についての論説をゲリラ訳。地の塩のみんなでがんばりました

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男/女/トランスジェンダーの定義 (6) ストック先生の「女性」概念についての論説

Kathleen Stock (2018) “Changing the concept of “woman” will cause unintended harms” のゲリラ訳。著作権的には黒なのですが、おめこぼしを願う感じです。 https://www.economist.com/open-future/2018/07/06/changing-the-concept-of-woman-will-cause-unintended-harms

すでにhatenademianさんという方の翻訳があるのですが、 https://note.com/hatenademian/n/nf73e538912ce 数カ所ちょっとだけ微妙なとところがあるので訳しなおしました(江口)

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男/女/トランスジェンダーの定義 (5) 『トランスジェンダー入門』の「性別」と「アイデンティティ」

というわけで、『トランスジェンダー入門』には「なるほどな」と思わされることが多くて勉強になります。ちょっとだけコメントをいくつか書いておきたいと思います。

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男/女/トランスジェンダーの定義 (4) 『トランスジェンダー入門』での「ジェンダーアイデンティティ」

『トランスジェンダー入門』での「性別」は(我々の古い呼びかたでは)「セックス」ではなく「ジェンダー」の方です。それじゃ、「ジェンダーアイデンティティ」とはどのようなものだろう?

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男/女/トランスジェンダーの定義 (3) 『トランスジェンダー入門』での「割り当て」

まあ前エントリのようなことを考えながら「定義」に関する論争を眺めていたのですが、最近出版された周司あきら・高井ゆと里先生たちによる『トランスジェンダー入門』はよい本でした。いろいろ発見があった。

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男/女/トランスジェンダーの定義 (2) 学術会議の定義のむずかしさ

まあ定義と結論としての規範的判断をつなぐ前提となる規範的判断・原則が私の興味あるものなのですが、とにかくもうすこし定義について考えたい。

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男/女/トランスジェンダーの定義 (1) 定義と規範的判断

「トランスジェンダー」の「定義」についてSNSその他はずっとモメていて、私にはよくわからないところが多くてこれまで何も書いてなかったんですが、そろそろ勉強しないとならない感じで、前期しばらく文献めくったりしていました。考えをまとめるために下のような落書きしてたんですわ。

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八重樫徹先生の「猥褻」論(3) 「悪い」「悪さ」は少し避けてみたらどうでしょう、あるいは単なるグチ

八重樫先生の「性表現の哲学入門」の第2回は、「猥褻」を性的興奮と性的羞恥心によって定義した上で、その「道徳的悪さ」を検討するというかたちになってます。

まあ「猥褻」をそういうふうに定義するというのが、八重樫先生がそう定義したいというのならば文句を言うつもりはないです。でも今度は「道徳的に悪い」というのが気になる。

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八重樫徹先生の「猥褻」論(2) 猥褻の条件とチャタレー判決

まあ私が気になっているのは、「猥褻」という概念を定義したり分析したりするっていうのがどういうことなのか、というのが 私自身にとって はっきりしてないことですわね。

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八重樫徹先生の「猥褻」論(1) 猥褻の定義

『フィルカル』っていう若手中心の哲学とカルチャーに関するすばらしい雑誌があって、いつも楽しく読ませてもらってます。八重樫徹先生っていうこれまた優秀な先生が性表現の問題を哲学的に分析する話を連載しているのでじっくり読まざるをえないですね。とてもおもしろいです。

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定義ってなんだろう (1) 定義の分類と注意

男性や女性やトランスジェンダーの「定義」がネットでずっと話題になってます。これは日本語圏だけでなく英語圏でもですね。先進国はそうなんだと思う。

定義の問題は昔から気になっているのですが、自分で書いてみる機会がなかったので簡単にまとめておきたいです。本当はなにかの授業でやっててしかるべきなんですが、そういう抽象的な話をする機会がなかったのですわ。「哲学」や「論理学」っていう名前の授業をもつことが少なかったからかな?

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「ジェンダー論」の文献は難しすぎる(清水晶子先生の場合)→あきらめ

この前千田有紀先生の文章にコメントしたので、それが批判(?)している清水晶子先生の「埋没した棘」っていう論文も読んでみたのですが、これは千田先生のやつに輪をかけて難しい、というより私にはほとんど理解できませんね。こういうの読まないとならない学生様院生様たちはどうしてるんだろう?

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堀田義太郎先生の「女性専用車両は不当な差別か」について (5) 女性専用車両をめぐる論議とは(おしまい)

続き。 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/97683

というわけで、いろいろ文句つけてしまったのですが、堀田先生の論説の基本的な主張と結論には私はまったく異論はないのです。つまり、電車痴漢の被害は甚大なので、形式的には差別に見える女性専用車両はやむをえない、そして男性は痴漢やその他の性暴力の被害の大きさをよく考えて撲滅に協力すべきだ、そのためにはまずは多くの男性はそれぞれが自分の意識を変革すべきだ、というのはまったく同意するのです。でもそこに至る議論に文句があるわけです。

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堀田義太郎先生の「女性専用車両は不当な差別か」について (4) 平等な尊重の要請をくつがえす理由?

続き。 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/97683

最後の方の「警戒と不安には理に適った根拠がある」「尊重要請は当てはまるか」の小見出しのところもなんかおかしな議論をしているように思います。

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堀田義太郎先生の「女性専用車両は不当な差別か」について (2) 被害を訴える資格

続き。 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/97683

次は「心理的苦痛を訴える資格」。これは見出しからして心乱れます。そんなものがあるのだろうか。苦痛は苦痛であり、それを訴える資格なんか必要がないと思う。もちろん、それを考慮に入れるかどうかというのはその訴えを聞く方の都合でいろいろあるでしょうが、「苦痛を訴える 資格がない 」みたいな言いかたってとほうもないように私には思えます。

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堀田義太郎先生の「女性専用車両は不当な差別か」について (1) 潜在的な加害者

堀田義太郎先生の「女性専用車両は「男性に対する不当な差別」「男性蔑視」なのか? そうではないと言える理由」を読んで、ちょっと気になるところがあったのでメモしておきます。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/97683

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「ジェンダー論」の文献は難しすぎる(千田有紀先生の場合)

ジェンダーまわりの議論というのは、論文よりもツイッターのようなSNSやブログでなんか議論されていることが多くて、どうしてもそういうのを見ないわけにはいかないのですが、ここ数年トランスジェンダーまわりが激しいやりとりがつづいていて、興味もたずにはいられません。

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