チラシの裏:小宮青識論争観戦記

  • 他でけっこう長めの文章書いてしまったけど、要点だけ。
  • この論争がどういう文脈で生じているのかというのは難しい。問題のやりとりの前に、男女の性的行動の評価についての性差別についていろんな人がかなり長い間つぶやきをしていて、今となってはなにが文脈なのか判断できない。それぞれのツイッタラーが見ているツイートもそれぞれだろうし。だから文脈はそれぞれ。ただし、直接の問題になった瀬戸内快男児先生とjiji先生のやりとりのさらに直接のおおもとのsaebou先生の主張は王道セックスリバタリアンフェミニズムで問題がない。
  • それに対する瀬戸内快男児先生のツイートは「この人どうせ海外行ってなくて開き直りで反論してるだけでしょうが、日本男児として外国人の友人から「日本女はなぜに簡単にやらしてくれるのか?」と真顔で聞かれると答えに困るので、海外には貞操観念をしっかり持っていきましょう。/ラッキープッシーとかチープガールとか言われてまっせ。」
  • 一方、jiji先生のは「それってあなた自身が馬鹿にされてるんだよ。」「「あなたの国の女性はなぜ簡単にやらしてくれるの」なんて聞くのは喧嘩売ってるのと同義なのに、そこで「貞操観念をしっかり持ちましょう~」とか自国の女性に言うこのピントのずれ方やばい。」
  • 快男児先生のツイートの「日本人女は」がjiji先生のツイートでは「あなたの国の女性は」になっている。ここでちょっと引用のずれがあるのはアカデミックな人間は気づくべきだと思う。青識先生も小宮先生も平気でその語「あなたの国〜」や「貞操観念」という、友人の発言にはない言葉を使っていて、ここらへんは感心しない。「友人」の発言の意味みたいなものと、快男児先生のツイート全体の意図みたいなものは区別するべきだ。jiji先生と小宮先生は友人の発言が快男児先生に対する侮辱になっていると指摘するが、それは本当だろうか。
  • そもそも快男児先生の友人の外国人が本当に存在しているのか、本当にそういった会話があったのかは判断しがたい。「もし友人〜とたずねられたら困る」ぐらいの例かもしれない。その場合には、「侮辱されているのだ」と指摘するのは微妙な発言になる。もし〜と真顔で、つまり真剣にたずねられたらそれだけで当人に対する侮辱になるとすれば、人、あるいは男性は、関係者女性の性的行動の傾向について質問されただけで侮辱になると解釈せざるをえない。「真顔で」と付け加えることによって、快男児先生は冗談や侮辱であることを排除しているわけよね。それくらいは気をつかっている
  • 一方、仮にそうした会話が実際にあったとすれば、それは実際には外国語でおこなわれたものであるだろうし、その場合には訳語や表現の選択に快男児先生の(性差別的な?)解釈が入るのは当然。外国語でなくとも、会話のなかで他人の発言を引用するというのは本人の解釈がはいるものだ。
  • だからその快男児先生の友人がどういうことを言ったのか、どういう意図で言ったのか、(社会学者風にいえば)この質問行為の「意味」をどう理解するべきか、ということを判断するのはむずかしく、それだけで解釈するのはほとんど無理、というかあんまり意味がないと見るのがまともな判断だと思う。1)【13日追記】指摘してもらって気づいたんだけど、そのあとで「ラッキープッシーとかチープガールとか言われてまっせ」がくっついてるんだけど、これ私は(実在/非実在)の「友人」の発言とは読まなかったけど、どうだろう。 「言われてる」なので実際に言われてる、だろうけど、こっちは友人の発言ではなく、「一般に海外では/外国人の間で〜と言われてるらしいよ」ぐらいだと読んだんだけどどうだろうか。空行も入って別の話っぽいし。そもそもこんな言葉あんまり見たことないけど、どういう世界の友人がいるんかね。これ真顔で発言できる人というのもなかなか想像しがたい。もうひとつの解釈は、いつも友人たちから「日本人女はラッキープッシーだよね」って言われていて、その友人たちはいつもはニヤニヤしてそういうことを言ってるので自分もニヤニヤしてごまかしえるけど、仮に「真顔で」「なんでそうなの?」って聞かれたら困る、とかっていう話だと読むのか。これだと快男児先生本気で侮辱されてやばい。「そりゃ、旦那……それは、……そりゃ……それは日本の女たちが尻軽なんじゃなくて、旦那方がイケメンでおモテになるからでさあ、おいらなんかやらしてもえねえんですから……へい……へへ、そういやこの前嬶が旦那から巾着袋買ってもらったってよろこんでました。ありがとうございます。娘の方も財布もらったんで喜んでました……ではちょっと用事がありますんであのの嬶と娘を食わせなきゃならんのでへへ、ごきげんよう」とか答えないとならんしこれは困るねえ。つらい。
  • そういうのは社会学や会話分析やエスノメソドロジーの専門家だけでなく、なにかの研究者ならまっさきに意識することだろうと思う。それを意図的に指摘しないのなら専門家として誠実ではないと判断されてもしょうがないかもしれず、またそれを意識しなかったのなら専門家としての資格に問題があるかもしれない。このままだと社会学者信頼ポイントがマイナスされてなってしまうし、そして大学関係の人間が誰も指摘しないのなら大学系ツッタラー全員の信頼ポイントがマイナスされてしまうくらい。だから私これ書かないとならない。
  • それはさておき、「なぜ日本の女性は性的に活発なのか」程度のことを「真顔で」質問するという状況は、性差別と関係なくあるかもしれず、それが性差別的な発言かどうかは判断が難しいと思われる。
  • さて、jiji先生の、快男児先生の「海外には貞操観念をしっかりもって行きましょう」という発言がポイントをはずしているという指摘はおそらく的確だろうが、友人の発言は快男児先生に対する侮辱であるという解釈は、そういう次第でかなり一方的な推論であるように見える。
  • 先にも指摘したように、これが侮辱であるためには、人は(あるいは「男性は」)その人に関係する女性が性的に活発だという含みのことを言われたらすべて侮辱されていると解釈するべきだ、ぐらいの判断が裏にないと正当化されないが、これを正当化するのはむずかしい。少なくともセックスリバタリアン的な傾向のフェミニズムとは相性が悪いのは意識するべきだろう。
  • 誰かを尻軽(slutty)であると指摘することはふつう悪口であり、これはフェミニズムとは関係なく悪口である。王道フェミニズムの立場からは、誰かが誰かを尻軽だと判断しても、それはなんら悪口とならないと主張しなければならないだろうと思う(もちろんここはいろいろ議論がありえるところ)。でもとりあえず誰かを尻軽であるとする悪口は、フェミニズムの観点を抜いても悪口でありえるし、そっちの悪口である場合の方が可能性濃厚だと思う2)ここのところも「いろいろ議論はありえる」とは書いたもののコメントがついてしまって、たとえば「誇り高く自分たちについて「Nワード」を使う黒人の人も、白人(やその他)に使われれば怒るだろう、っていう指摘もありました。これはそのとおりで、自分たちの間では誇りを表わす言葉であっても、歴史的にも現在も蔑称であるものを蔑称として使われたらそらまさに侮辱である。おそらくSlutもまだいまだにそういう言葉だろうと思う。しかしこれが蔑称でなく、たとえば「性的に活発」のようなもっと価値的に中立な言葉で表現されれば悪口ではないってことになると思う。現状では「〜の女性は〜に比べて性的に活発で」みたいなのは婉曲な悪口であるかもしれないけど、それを悪口でないようにしたいと思うだろうと思う。あれ、ポイントはずしてるかな。 ちなみにSlutを蔑称じゃなくしてしまおうっていう動きとかはこの本とかがおもしろい。
  • さらに、一般に男性となんらかの関係のある女性の性的な活動が活発であると指摘することは、女性の名誉を傷つけることであり、また、同時に彼女と関係する男性の名誉も傷つける、という考え方は保守的な「名誉の文化」では非常に重要な発想だろうと思うけど、これはフェミニズムとはあいいれない側面が大きいと思う。
  • 男性は女性のナイトやボディーガードであるべきであり、女性が(性的な)名誉を傷つけられたと感じたら戦うべきだ、という考え方は現在も非常につよく、よく北米の映画とかで出てくるシーンであるように思うが、これてどうなのよ。「君、私のレイディーに対する侮辱は私自身に対する侮辱とみなしますよ」「まだ侮辱するか!ならば決闘だ!」みたいな。高度に洗練されたナイトは男フェミニストと区別がつかない、みたいなわけではないと思うしその逆もないと思う。
  • エマワトソン先生のHeForShe演説では、フェミニズムは女性だけでなく男性をもその性役割規範から解放する、ってなことが主張されていたわけなので、男は女性のナイトであるべきだという発想とはあいいれない側面が大きいと思う。
  • 小宮先生が多重質問の詭弁だと指摘したツイートは、匿名化されていて事実に対応しているかどうかわからず、詭弁かどうか判断しにくい。「もしAがBしたとしたら、Pですか」のようなタイプのものは必ずしも多重質問ではない。
  • 詭弁や誤謬推理を見抜けるようになるのは大学教育で最も重要な課題で、それに敏感になることはとてもよいことなのだが、一般に、日常的な議論ではすべての前提が明示されたり言葉が明示的に定義されるわけではないので、ある主張が(非形式論理的な)詭弁・誤謬推理かどうかというのは見た目の形式だけでは判断がつかない場合が多い。したがって他人の発言を詭弁呼ばわりするのはかなり慎重になるべきだと思う。
  • というわけで私は青識先生のほとんどの主張に説得力を感じ、小宮先生の指摘には疑問を感じることが多かった。小宮先生は明示的に自分の社会学者としての権威を使っているのでちょっと厳しめに採点せざるをえない。これはしょうがないと思う。「小宮先生はすばらしく論理的で」のような評価も目についたけど、問題は多かったと思う。
  • しかし、小宮先生が最後の方でまとめの長文を書いて、論点(と難点)をわかりやすくしてくれたのは偉い。こういうのはリスペクトせざるをえない。
  • 一方、論戦の最後の方で、青識先生が話をネットフェミに関係する事件一般に広げて、そうしたネットフェミはオタクに代表される人がやってることを好意的に解釈していないのだから小宮先生の言ってることはおかしい、みたいな議論にしてしまったのはちょっとがっかり。これはロジックというよりはレトリックというか、オルグ学の世界。他のフェミニストの活動そのものに小宮先生が責任負ってるわけじゃないかならねえ。まあそこらへんは残念だったけど、青識先生は啓蒙政治運動家フィロゾーフだからいいのかな。

(おまけ) https://paper.dropbox.com/doc/–AMoWoz6PteveiUCxRccp0s_RAQ-VL1qQgTsubomPhKbvbjXz

References[ + ]

1. 【13日追記】指摘してもらって気づいたんだけど、そのあとで「ラッキープッシーとかチープガールとか言われてまっせ」がくっついてるんだけど、これ私は(実在/非実在)の「友人」の発言とは読まなかったけど、どうだろう。 「言われてる」なので実際に言われてる、だろうけど、こっちは友人の発言ではなく、「一般に海外では/外国人の間で〜と言われてるらしいよ」ぐらいだと読んだんだけどどうだろうか。空行も入って別の話っぽいし。そもそもこんな言葉あんまり見たことないけど、どういう世界の友人がいるんかね。これ真顔で発言できる人というのもなかなか想像しがたい。もうひとつの解釈は、いつも友人たちから「日本人女はラッキープッシーだよね」って言われていて、その友人たちはいつもはニヤニヤしてそういうことを言ってるので自分もニヤニヤしてごまかしえるけど、仮に「真顔で」「なんでそうなの?」って聞かれたら困る、とかっていう話だと読むのか。これだと快男児先生本気で侮辱されてやばい。「そりゃ、旦那……それは、……そりゃ……それは日本の女たちが尻軽なんじゃなくて、旦那方がイケメンでおモテになるからでさあ、おいらなんかやらしてもえねえんですから……へい……へへ、そういやこの前嬶が旦那から巾着袋買ってもらったってよろこんでました。ありがとうございます。娘の方も財布もらったんで喜んでました……ではちょっと用事がありますんであのの嬶と娘を食わせなきゃならんのでへへ、ごきげんよう」とか答えないとならんしこれは困るねえ。つらい。
2. ここのところも「いろいろ議論はありえる」とは書いたもののコメントがついてしまって、たとえば「誇り高く自分たちについて「Nワード」を使う黒人の人も、白人(やその他)に使われれば怒るだろう、っていう指摘もありました。これはそのとおりで、自分たちの間では誇りを表わす言葉であっても、歴史的にも現在も蔑称であるものを蔑称として使われたらそらまさに侮辱である。おそらくSlutもまだいまだにそういう言葉だろうと思う。しかしこれが蔑称でなく、たとえば「性的に活発」のようなもっと価値的に中立な言葉で表現されれば悪口ではないってことになると思う。現状では「〜の女性は〜に比べて性的に活発で」みたいなのは婉曲な悪口であるかもしれないけど、それを悪口でないようにしたいと思うだろうと思う。あれ、ポイントはずしてるかな。 ちなみにSlutを蔑称じゃなくしてしまおうっていう動きとかはこの本とかがおもしろい。

最近アリストパネス先生を見直しました

もう一つ、『饗宴』で一番有名なアリストパネス先生の人間球体論も久しぶりに読んだんですが、これ私ちょっと読みそこねてた部分があったのです。

さて、諸君は、はじめに、人間の本性と、かつて人間にかかわりのあった事件とを学ばなければならない。そのむかし人間の本然の姿は、こんにち見られるものとは同じからぬ、それとは異なったものなのであった。第一に、人間は三種類あった。すなわち、こんにちの男女二種類のみではなくて、第三の者がその上の存在していたのだ。それは男女両性を合わせもつ者で、名前だけは現在も残っているが、その者自体はすでに消滅してしまっている。つまり「アンドロギュノス(男女)」というのが一種をなしていて、容姿、名前とも男女を合わせもっていた。……

まあここらへんの出だしは有名ですね。

第二に、この三種類の人間の容姿は、すべて全体として球形で、まわりをぐるりと背中と横腹がとり巻いていた。また手は四本、足も手と同じ数だけをもち、顔は二つ、円筒形の首の上にのっかっていたが、両方ともすべての点で同じようにできていた。さらに、頭を一つ、たがいに反対に向いている二つの顔の上にいただき、耳は四つ、隠所は二つ、その他すべて、いま伸べたことから想像されるようなぐあいになっていた。

そして動くときは、こんにちと同じように、直立した姿勢で、望みどおりの方向に進んだが、突っ走ろうとするときには、とんぼ返りの踊り手たちが車輪のように足を回転させながら、ぐるっ、ぐるっと、とんぼ返りをうって行くように、かつては八本あった手足を支えに使って、ぐるっ、ぐるっと急速度に回転しながら進んだのである。

かっこいい、かなあ。まあ滑稽でおかしい。

……強さや腕力にかけても彼らは剛の者で、その心もまた、驕慢であった。そして神々に刃向かうことになった。……そこでゼウスをはじめ、ほかの神々は、彼らをどう処置したものか、寄り寄り相談したが、結論がでない。かつて巨人族になしたように、雷光の一撃で人間の種族を殲滅してしまったら、人間からの敬神の実も神々のための神殿もなくなってしまうだろうから、これはできぬ相談である。そうかと言って、このまま傍若無人のふるまいをさせておくことも許されぬことだ。そこでゼウスは、さんざん頭をしぼって考えたあげく、こう言われた、「わしはどうやら、一つの思案を得たようだよ。それによって人間どもは、このまま存続しながらいまよりも弱体化して、わがままな所業はしなくなるだろうね。その思案とは、こうだ。このたびの処置としては、彼ら一人一人を二つに切り離そうと思う。そうすれば、いまよりも弱くなるだろうし、それに数もますことであるから、われわれにとって、いまよりも有益なものになりもしよう。そして彼らは、二本足でまっすぐ立って歩くことになるだろう。……」

こういってゼウスは、人間どもを二つに切っていった。……そして切るはしから、アポロンに命じて、その顔を半分になった首とを切り口のほうに向け換えさせた。それは、人間が自分の切り口を見ることによって、もっとおとなしくなるように望まれたからである。しかし他のところは、治療するようにとの命令であった。

某描く

ちょっと省略して。

かくて人間は、もとの姿を二つに断ち切られたので、みな自分の半身を求めて一体となった。彼らは、たがいに相手をかき抱き、からみあって、一心同体になることを熱望し、たがいに離れては何一つする気がしない。だから飢えのために、いや、総じて無為のうちに明け暮れるために、つぎつぎと死んでいった。

うん、まあ哀れなものです。

そして、一方の半身が死に、その相手が残されてしまうと、残された者はさらに別の者を探して、からみついた。そのさい、あのゼウスの処罰よりもまえから女性であった者の半身──つまり、ぼくらがいま女性と呼んでいる者であれ、あるいはかつての男性の半身であれ、相手を選ぶことはなかった。このようにして彼らは、滅んでいった。

私がちゃんと読めてなかったのはこの「相手を選ぶことがなかった」の部分なのです。半分に切られた球体たちは、自分の半身を探してだきついたんですよ、ていうのはまではこっけいだけどロマンチックで、そこまでがよく使われる部分なんですよね。でも人間は神様とちがって死ななければならないから、いずれは半身も死んじゃう。そのあと半身はどうしたか?

どうしたって半分じゃ寂しいから、みさかいなく誰かにからみつかざるをえないのです。本当の半身じゃなくても、それにすこしは似たところもあるから。それ以前のパウサニアス先生の演説では、世俗的なエロス、下賎なエロスは心じゃなくて体だけを求めるのだ、とか言われてるわけですが、アリストパネス先生は「しょうがねーじゃん、半身はもう見つからんのだし」ってな話をしているわけですよね。相手選ぶのはたしかに高級なことだろうけど、もう我々にはそれは望むことができないのだ、みたいなパウサニアスに対する反駁がアリストパネス先生の演説には含まれているわけです。

そこでゼウスは憐れに思って、もう一つの案を考えだし、彼らの隠所を前に移した。それまでは後ろ側にあったので、彼らは子を生むにも、相互の結合の力によらず、蝉のように地中に生みつけていただからだ。さればゼウスは人間どもの隠所をこんにちのごとく前に移し、それによって、たがいの相手の体内で、つまり、男性によって女性の体内で生殖をおこなわせたのだ。このばあいのゼウスの狙いは、つぎのようなしだいである。つまり、彼らがからみあうさい、それが男性と女性の出会いであったら、男性と女性は子どもを生み、かくして、人間の種族はつぎつぎにつくりだされていくだろう。また、たとえ男性同士の出会いであっても、いっしょになったために充足感だけは生じ、その結果、彼らの気持ちはひとまずおさまって、ほかのいろいろな仕事に向かい、広く生活のことに気を配るようになる、というわけである。

これは最初はおかしく、もの悲しい話なわけですわ。

かようなわけで、相互に対する恋(エロス)は、このような太古から、人々のうちに植え付けられているのである。それは、人間をかつての本然の姿へと結合する者であり、二つの半身を一体にして、人間本然の姿になおそうとする者なのである。

でも、われわれの多くは、よくわからない半身にさかいなくからみつかねばならないわけです。それが下品だったらい本来的じゃなかったら、んじゃ本然の姿に戻るにはどうしたらいいですかね、っていうふうに話が進むわけよね。プラトン先生は天才ですわ。哲学者としてはイデア論とかわけわからん話したり、超統制二国家を夢見たりして二流なんだから、詩人・劇作家になればよかったのに。そっちだったら超一流だわ。

『饗宴』とかなんかお上品な解説ばっかりで、それが扱ってる肉欲とかどうしよもなさみたいなのは、少なくとも国内ではあんまり解説されないんですが、私が読むともっとバレ話だし、もっと切実な実感に裏づけられている感じがあるんですよね。上のアリストパネス先生の話は、本文を隠してごくごくロマンチックな話にされたり、あるいは滑稽一方の話にされたりするけど、そうじゃなくておもしろ悲しい話だし、そして『饗宴』全体の有機的なつながりのなかでやはり重要な地位を占めている。あの登場人物たちは別々の話をしているわけじゃなく、前の人の話をひきついで本物の弁証法的な発展をみんなで試みているんですわ。最高。みんなもぜひ読んでほしい。

そして、私の解釈では、『饗宴』全体が、さっきのパウサニアス先生や、このアリストパネス先生の話にあらわれる、性欲のみさかいのなさ、尻軽さ、相手かまわずという一面を考えているんですね。実はソクラテスの演説さえそれを扱っていて、それを推奨さえしているわけですが、それは自分で読んでください。あそこ(ディオティマ先生のお説教)は読みにくいんですわ。

パウサニアス先生は男は尻軽にならないようにいましめています

プラトン先生の『饗宴』の話はどうもこのブログではあんまりしてなかったみたいなんですが、数日前に市民の方向けの「生涯学習講座」みたいなので話をしたので、そのときに思いついたことなど。人前で話をするとそのたびに発見があるものです。ついでに、最近「おまえの国(日本)の女の子はなぜすぐにセックスさせてくれるのだ」とかって言われたとか言われないとかの話を切っかけにツイッタがもりあがってるようで、そこらへんもおもしろいなあ、とか。

前にも書いたように、古代ギリシア人にとって性愛というのは危険なものでした。情念というのはおそろしいものです。

でも、恋愛やセックスにはよいとろもあるはずで、そこらへんをどう説明するか、っていうのが『饗宴』や『パイドロス』のポイントですわ。『饗宴』ではいろんな人が入れかわりたちかわり話をするわけですが、そのなかでパウサニアス先生というひとが話をしている部分。(下の『饗宴』の訳は、事情により2、3種類まじっちゃってて、この部分が誰の訳かわからなくなってしまててすみませんすみません。そのうち直します。)

美とセックスの神アプロディーテーが愛の神エロースと切り離しがたいことは、僕たちの皆知っていることだ。だから、かりにアプロディーテーが一人ならば、エロースも一人となるであろうが、しかし、じっさいはアプロディーテーは二人である。したがって当然エロースも二人となるわけだ。……というのも、少なくとも一方のアプロディーテーは、齢も高く、母はなく、天(ウラノス)を父とする娘、したがって、その方たちを僕たちは天の娘(ウーラニアー)という名で呼んでいる。これに対し、より若いほうのアプロディーテーは、ゼウスの神とディーオーネーの間の娘で、したがってこの方を僕らは、地上的な(パンデーモス)女神と呼ぶ。そこで当然、エロースについても、一方地上的なアプロディーテーとともに事をなすエロースは、これを地上的なエロースと呼び、他方を天上的な愛の神と呼べば正しいわけだ。……

よい恋愛と悪い恋愛がある、ということを示すために、その原因のアプロディテさんやエロース君は実は二人ずついるのだ、っていうことにして話をするわけですね。アプロディテは美とセックスの行為そのもの、エロースは性欲に対応すると考えていっしょ。

さて、地上的なアプロディーテーより発するエロースは、文字どおり、至るところに転がっているもので、風の吹くまま気の向くまま、事も選ばずにやってのける。この愛は、とるに足らぬ人々の欲するものなのさ。つまり、この種のくだらぬ人びとは、第一に少年を愛すると同じように女性をも愛する。次に、その愛する者の魂より肉体を愛する。さらに、できるかぎり、知恵なき愚者を愛する。──以上のようにするというのも、彼らは、ただ愛の想いを遂げることだけに目をそそぎ、その行い方が美しいかどうかを、気にかけないからなのだ。したがって当然、彼らは、何ごとによらず手あたり次第に──善いこと、善くないことの見境もなく──行うということになるのだ。

低俗な方のエロースくんは低俗な人々の友達であって、その低俗なエロースは我々から見れば単なる肉欲であるわけっす。若い女でもショタでもよい。っていうか少年の方は完全にペドフィリアですね。とにかく白くてやわらくて毛が生えてないようなのがよいとかそういう感じなんでしょう。怒られが発生します。相手の頭も悪くてもかまわない。んでエッチなことをして満足することだけを求めるのです。これひどいっすよね。絶対怒られる。市民講座っていうか生涯学習講座でこんな女性差別的な話をしていいいのか!ってくらいで、「いやーこれ私の意見ちがいますよ、プラトンさんでもソクラテスさんでもないですよ、プラトンさんのお話の登場人物のパウサニアスさんていうおっさんの言うことですからね!」みたいにかなりお断りを入れないとやばい。

これに対し、今一方の愛は、天上的なアプロディーテーに発するものだが、このアプロディーテーは、まず第一に女性には関係せず、ただ男性だけに関係している。──次にそのアプロディーテーは、より齢も高く、激情の放縦からは遠い。かかるアプロディーテーの性質のゆえに、このアプロディーテーにつながる愛の息吹をうけたものは、生れつきより強きもの、より知性ゆたかなる者を愛して、男性に愛を向けるのである。けだし彼らは、少年たちが、すでにものの道理をわきまえはじめる頃、──すなわち、まずは髭も生えだす頃になって、初めて少年たちに愛をそそぐ。……

偉いアプロディテさんとそのおつきのエロース君はもっと高潔だというのです。低俗エロスが弱いもの、やわらかいもの、頭悪いもの、意志が弱いものが好きなのに対し、高潔エロスは強いもの、ガチムチ、知的なもの、勇敢なものが好きなのです。女ではなく男だ!そしてきれいな男ではなくガチ男だ!

三島由紀夫先生の仮面の告白をあれしますね。先生によれば、男同性愛な人は、最初はなよっとした少年とかが好きなものだが(これ「ウールニング」とか)、やはり大の男同士は、お互い知的にも肉体的にもガチっとしたのがいい、って主張するようになったとか。老作家と美少年の恋愛とかていうのはケレンであって、そういうのはもう「卒業した」とかって話は有名のようです。

んでパウサニアス先生の話に戻ると、まあ理想的なアプロディテとエロースはそういうわけで、心身ともに強壮な男と若い少年の関係なわけですが、ここで、当時のアテナイのその界隈では、一定の約束事があったわけです。当時の男性同性愛は、対等・対称的ではなく、やはり上下があり非対称だったわけです。はやいはなしが「攻め」(というか「愛する者」エラステース)と「受け」(「愛される者」エローメノイ)という役割があった。当然年上が攻めで年下が受けです。(関心ある人のために書いておくと、いわゆるBL的なアナルセックスとかしてたのかどうかは議論があって、してなかったろうってのが主流のようです)
さて、なにをするにも美しい方法、よい方法と、醜い方法、まずい方法がある。

ところで「醜く」とは、つたない者の恋心をつたなく受け入れることであり、「美しく」というのは、有為な人材に対して立派な仕方でそうすることである。ここに「つたない者」とは、あの、低俗な恋をいだく連中、いってみれば、魂よりも肉体を恋する連中のことである。そしてこの連中は、永続性のないものを恋の対象にしているから、本人のほうも永続性に欠けるのである。つまり彼らは、恋の目当てとする相手の肉体の花が凋むやいなや、それまでの数々の言葉や約束ごとを踏みにじって「飛びさって行く」。

これがだめな恋愛、だめなセックスですね。肉欲が主だとこういうことになる。

それに反して、相手の人柄に──もちろん、それが立派なときのことであるが、それに恋をする者は、永続的なものと融合するわけであるから、一生を通じて変わらないのである。したがって、わが国のならわしは、これら恋を寄せる人々を十二分に吟味しようというのであって、相手よってはその想いを受け入れても、別の者からさし出された手は拒むという態度を、その恋人たちに求めているのである。

ここでパウサニアス先生がなにを言ってるのかというと、相手はちゃんとたしかめてからセックスしましょう、ということですわな。それに誰とでもセックスするのは低俗なことである。上品な人はあんまりたくさんの人とセックスしません!

こうした次第であるから、われわれの習わしとしては、恋をしている人々にはその恋人を追うようにすすめ、逆にその恋人たちには彼らから逃げることをすすめるのであって、こうすることによって当事者をたがいに競わせ、自分を恋する者は、いったい、いまの分類ではどちらに入るのか、また、恋されるほうはどうかということを、それぞれ吟味するわけである。

さらに、プロポーズされたりしてもかんたんにはなびきません。ナンパされて「ついてっちゃう」とかっていうのは下品です。

こうしたことが原因となって、まず第一に、「恋人が簡単に相手の手中におちいることは恥ずべきことである」というふうに定められている。これは時日のゆとりを生みだす意図から出たことであるが、けだし、時日こそは多くのものに対する立派な試金石からである。つぎに、金銭や政治力に動かされて相手の手中におちいることも恥ずべきこととされている。……どのみち、かかるものから高貴な愛情が生じたためしがないのは言うまでもなく、だいいち、それらはどれ一つとして、堅固永続的なものではないではないか。

てな話。さらに、プラトン先生の原文やいろんな解説からすると、当時のウケの方はセックスを自分から求めはならず、さらに快感を得えることも控えねばならず、それがうれしいとかそういうのを口に出したり態度でしめしたりするのもよくないことである、と。そういうのは性欲や快楽におぼれる人々のやることであって、まともな男がやることではないのだ!ってことらしいです。

まあ一番最初にもどって、けっきょく男性であれ女性であれ、簡単にセックスするのは性欲とか快楽とかに動かされていることだから恥ずかしいことであって、とくに簡単に「やらせて」しまうのは男であれ女であれまあ低俗である、という考え方は古来から非常に強力ですわね。男でナンパして毎日違う女性とセックスしてます、みたいなのは一部ではあこがれかもしれませんが、やっぱり上品な人からしたらどうだろうって話になりそうだし、また男性同性愛の人々の間でもカジュアルなセックスをどう考えるかっていうのはなかなかおもしろいネタです。カジュアルでプロミスキュアスにいろんな人とセックスしまくるのも楽しそうなんですが、でもそれってなんかおかしなところがあるような感じから逃れるのは難しいですね。いまハルワニ先生の「カジュアルセックス」の話を翻訳してもらいながらいろ考えてるところ。

70年ごろの国内のウーマンリブの「公衆便所からの脱出」とかて有名な文章あるんですが、今手元にないのでコメントできませんが、やはり公衆便所となったり、そう呼ばれたりするのはあれなことで、性の解放と、みさかいがないと見られてしまう恐れとのあいだの問題というのはまあいろいろい難しいところです。

牟田先生の「セックスはすでにつねにジェンダーである—「男女平等」の罠」

http://www.lovepiececlub.com/feminism/muta/2014/06/26/entry_005203.html

また毎度毎度の牟田先生でもうしわけない。堀あきこ先生が「わかりやすい」ってほめてたので「わかりやすいなら読もう」ってな感じで(昔読んだのを)読みなおしたけどわからない。私あたまわるすぎ。

一番最初はどうでもいいので飛ばす。

 シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、女性解放を論じた現代の古典として名高い『第二の性』(1949)で「人は女に生まれない、女になるのだ」と言明し、いかにして女が「作られて」いくかを論じました。女性はリーダーシップに欠ける、権力志向が無い、だから政治家には向かない・管理職には向かない、などともっともらしく言われたりしますが、それは、幼い時から、女の子は優しく素直にと、従順でつねに他者を自分より優先するようにしつけられ内面化していくから。このことが、女性が政治家になりにくい要因の一つを作っているのは明らかでしょう。

この「内面化」仮説の真偽や、「女らしい」から政治家になりにくいのかどうかは、それほど明らかではないと思うけど、今回はいいや。

 1960年代後半から70年代にかけて花開いた女性解放運動(第二波フェミニズム運動)の女性たちは、ボーヴォワールのこの考えを、「ジェンダー」という概念で表現しました。生まれつきの性別(セックス)が女・男の「らしさ」を決めるのでなく、生れ落ちてからの社会環境と文化の中で人は、らしさを刷り込まれていく。「母性本能」ということばに典型的なように、妊娠や出産をする身体をもっていれば誰もが母になりたがり子育てが自然にできるかのような思い込みが、いかに女性を縛ってきたことか。そのウソをあばいたのがジェンダーの語でした。

「女性を縛ってきたことか」→「女性と男性を」がいいと思うけど、まあいいや。

「ジェンダー」の定義してないけど「男/女らしさ」でいいのかな?それとも「社会的性差」「格差」かな。

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 この意味でのジェンダーは、今では日本でも一般に知られるようになりました。ジェンダーにとらわれない生き方ができる社会を作り上げていくことは、現在進行形の重要な課題であるのは言うまでもありません。
しかし、1990年代以降のポストモダンフェミニズム理論は、ジェンダーにはもっと深い意味があると大胆に発想しました。すなわち、社会的性差は作られたものであるというのはその通りだとしても、その考え方の背後には、男女の生物学的性差は「自然」なものとして存在しているという暗黙の前提があるのではないか。そこで自明とされている「自然」な性差、「セックス」とはいったい何なのか、という問いを投げかけたのです。

問いとしてはいいと思うんだけど、ここで「自然」っていうので何を言ってるかも分析してほしい。「生得的なもの」だろうか。それとも「本性」だろうか。上で「子育てが自然にできる」っていうのがあって、この「自然」はどういう意味かな。「自動的に」「教えられずに」「訓練なしに」「意識的に考えないで」とかそういうのだろうか。けっこうむずかしいね。でもこれもまあいい。

ジュディス・バトラーは「セックスは、つねにすでにジェンダーである」と言います(バトラー、1999、29頁)。肉体的・所与のものと見える性差すら、時代によってさまざまな「科学」的知識の名の下に、二分法的に男/女の記号を付されてきたものである、セックスそのものがジェンダー化されたカテゴリーであると。

ここで、っていうかここは序文みたいなところなのでうしろの方で「科学がどうのこうの」についてバトラー様が論拠にしているのはファウストスターリング先生の研究なんだけど、あれもずいぶん問題のある研究なのよね。

 これを聞くと、おそらく多くの人がそれはおかしい、と思うでしょう。女と男では体つきが明らかに違う、おっぱいや膣は女性にしかないし、ペニスがあるのは男性。ホルモン分泌も、DNAも異なる。それは、どんな文化・時代でも変わりがないはず、それなのに、セックスがジェンダーだなんて非合理もいいところだ、と。

まあヒトは性的二型がかなりはっきりしてる哺乳類だしねえ。DNA異なるというか、Y染色体以外はDNAは異ならない、っていうのもなんか不正確で、染色体が1本ちがう、ぐらい。

 でも、バトラーは、そういった身体的な差異が無い、と言っているのではないのです。人には、身体的差異はいろいろある。肌や眼の色、人種、性的指向、老若の違い、もって生まれた気質や性格、体格もさまざまです。それなのに私たちは、男/女の身体的差異がほとんどまったく意味を持たない状況や場合ですら、人を認識するのにまず、男/女という区切りを考えてしまう。そうした認識のあり方が、セックスすらジェンダーであるということの意味なのです。

ここがわからん。バトラー様のあの箇所からこの解釈が本当に出てくるのかどうか。

「男/女の身体的差異がほとんどまったく意味を持たない状況や場合ですら、人を認識するのにまず、男/女という区切りを考えてしまう」はわかるような気はするんだけど、具体例を示してほしい。具体例がないと私わからんのですよ。たいていの学生様もわからんと思う。

ここでたとえば、「車の免許をとるときに生物学的な男女は関係ないはずなのに、公安委員会は男女で違うテストをする」とかそういうのがあるだろうか。これはありそうにない。でも、自働車教習所の教官は男女の違いを意識するかもしれんね。これは真面目な人は男女での統計的な運転の習熟の早さ遅さとか、無謀運転する傾向とか、どういうふうに教えるとわかりやすいかとか、そういうのを考えるかもしれんね。そういうことなの?

ずっと昔にも書いたけど、私は繁華街で向こうから人が歩いてくるときに男女はけっこう意識しますね。男だと危いやつの可能性がある。危険だ。もちろん危険なやつもいれば危険じゃないやつもいる。そういう統計的な危険性の配慮とかのときに、「そいつが男か女か」をつかうのは、正当化できるときもあれば、できないときもあるだろうと思う。(たとえば会社が、女性はごく統計的にではあれ、早期退社しやすいというデータをもっていても、それを就活で使うことは正当化されにくいと思う。)

まあ具体例がないとなんとでも言えるわけですわ。この具体例のなさ、なにがそれであり、なにがそれでないのかを曖昧にしたままにするっていうのがポストモダンとかのいちばん悪いところだと思う。例出してください例。例が出せない話はよくわかってないんです。学部学生様だって3回生ぐらいになると必ず適切な例だしてくれますよ。

また、「人を認識するのにまず、男/女という区切りを考えてしまう」っていう我々の傾向を説明するのに、なぜ「セックスはジェンダーだ」みたいなことを言わねばならないのかも私にはわからない。上で牟田先生はセックスもジェンダーもちゃんと定義してないのよね。だからなんとでも言えちゃう。もし「セックスは生物学的な性差(チンチンとか)」「ジェンダーは文化的・環境的に思いこまれてる「らしさ」を指すって定義してれば、この文章のおかしさは明白なのに、そうはしないわけですわ。こういう文章は少なくとも学生様には読ませたくない。

 実は、このように男/女を絶対的な区分として考える考え方は、近代以降もたらされたものです。なぜかといえば、近代以降、「人はみな平等」となったから。身分差が絶対のものだった前近代社会では、人の違いは、まず、身分。身分内での男女の差はそのあとから。身分が低い者、低階層の者は男でも教育機会も自由もないが、身分が高ければ、女性は教育も財産も持てる。それが、近代以降、平等の概念が登場したからこそ、女/男の区分が強調されるようになったのです。帝国主義・植民地主義の時代には、「人種」が人を分ける「自然」なカテゴリーであるとする思考が、黒人を人間以下の扱いをする奴隷制を正当化したように、男女を異なるものとしてまず発想する思考は、近代以降の女性差別を正当化してきたのです。

「人を認識するときにまずはわりと男女を意識することがありますね」って話が、「男/女を絶対的な区分として考える」にすべっていく。この「絶対的な区分と考える」の例もない。それにあてはまる例出してください、例。そして可能ならそうでない例も上げてもらえるともっとよい。

どんな「絶対的な区分」を考えてるんだろう? 男は戦争に行けて、女は家にのこってる、とか? もしこういう例をあげれば、こんな考えかたが「近代以降にもたらされた」なんて馬鹿げた話をしようとする人はいませんわね。そもそも近代っていつから近代かわからんし。ヨーロッパに限っても、16世紀なのか19世紀なのか、なにも具体性がない。学者がそれでいいんですか。

近代がいつかわからんけど、以前にだって「女性は〜できない」みたいなのたくさんあったんちゃうんかな。お寺に入れないとか。バトラー様と牟田先生は、なんか根拠もってるのだろうか。出せますか? 「男女の違いが(身分などの他の違いに比べて)相対的に重視され強調されるようになったのは近代以降である」だともうすこしもっともらしくなるかもしれんけど、それさえ立証するのはかなり難しいように思えるけど、ジェンダー社会学っていうのはそれでいいんでしょうか。歴史学者からの怒られが発生するのではないか。

たとえば、最近読んだ『聖書、コーラン、仏典:原典から宗教の本質をさぐる』ておもしろい本では、コーランには生まれた子が女児だったら殺してしまったりする習俗があることが記録されていて、コーランはそれを禁じているっていう記述がありました。こういう話を前にして、社会学者たちはどういう意味で「近代以降」に絶対的区分になったとかってことが言えるんだろう?

もう一回「自然」が出てきたけど、ここでの自然もわからんねえ。とくに「」をつけて独自の用法で使ってるって明示してるんだから、その「自然」ってなにかを説明する義務が文章を書く側にあると思う。

 このように考えると、「男女平等」という概念にも、違う意味がみえてきます。フェミニズムは、発祥以来、男女間の格差を解消し「男女平等」を実現することをめざしてたたかってきたわけですが、「男」と「女」の平等をめざす、というのは、そもそも、「男」「女」という別々のカテゴリーが存在するという前提に立ってしまっているのではないか。そのこと自体が、人間をまず性の区分で認識するという、近代以降つくられ女性差別を正当化してきた考え方そのものなのに。江原由美子が、「『男』『女』という『ジェンダー化された主体』が最初にあって、その両者の間で支配-被支配の関係がうまれるのでなく、『男』『女』としてジェンダー化されること自体が、権力を内包している」と論じている通り(『ジェンダー秩序』勁草書房 2001、25頁)、「男」「女」とあたかも人間が二種類であるかのように考えること自体が、抑圧を作ってきたのです。そもそも、「男」「女」は対称でもなんでもないし、「女」と、ひとくくりでくくれるような「女」はどこにも存在しないというのに。

「「男」「女」とあたかも人間が二種類であるかのように考えること自体が、抑圧を作ってきたのです」はわかりにくい。もちろん、グループを抑圧するためには、そのグループがどういうものかを理解しておく必要がある。そういう意味で、男女に分けることは女性を抑圧するための基本的条件。

でも、たとえば哺乳類を人間と人間以外の哺乳類に分ける、っていうことそれ自体は問題はない。問題なのは、人間と人間以外の哺乳類の間に大きな道徳的地位の差がある、と判断することにある。

政治的参加や、幸福の配慮の問題を考えるときに、男女の違いをもちだして、女性(あるいは男性)は選挙権をもつ必要がないとか、それぞれの幸福の価値に違いがある、と考えるのは不正なのはまちがいない。でもそれは人間には生物学的な男と女という典型的な性的二形がある、という事実についての知識そのものがまちがってるわけではない。

もちろん、我々の心理的な傾向として、なにかをグループに分けたら道徳的地位にも差があると考えやすい、っていうのはあるかもしれないけど、グループに分けること自体は中立であるように思う。ここはむずかしいな。

こうしてみると、あたかも、男女を対等にするというフェミニズムの原点自体が、間違っていたということになりはしないか、それではアンチフェミニストの思うつぼなのでは、と心配にもなるかもしれません。
でもだいじょうぶ、そうではないのです。

フェミニストたちは(自分がフェミニストだとは考えない女性も)、現実に存在するさまざまな女性差別に怒り抗議をするとき、いつも、「では男女の性差がなくなればいいのか」「男女がどのような扱いを受ければ平等なのか」と問い返され、答えられるはずのない「差異か平等か」の二者択一を迫られてきました。そして、女性たちの中での対立をも生んできました。まさにこれこそ、「罠」だったのではないでしょうか。この罠を見抜き、「男」「女」のジェンダーカテゴリーをひらいていくこと(脱構築)で、私たちは新たな未来を構想できる—これがポストモダンフェミニストの提言なのです。

ここで「性差」が出てくるけど、この性差はなんじゃいね。「らしさ」のこと? 上でいろいろ述べてきたことがここにどう効いてるのかわたしにはさっぱりわからんです。
「ジェンダーカテゴリーを開く」も意味わからんし、それが「セックスはジェンダー」とどう関係しているかもわからん。「ジェンダーはいろいろあります」でいいんちゃうのかな。なにを言ってるのだ。

女たちはさまざま。「女」とひとくくりされるわけにはいかない。しかし他方、現実に私たちは、「女」としてくくられて明白にも暗黙にもいろんな不利益を受けている。だから私たちは、女性差別に反対しながらも、めざすべきなのは、すべての女たち、さまざまな女たちの自由と尊厳、そして権利。それは、決して画一的なものではないし、ましてや「男」と一緒でいいなんて、そんな薄っぺらなものじゃない!

わからん。ただのアジテーション? 難しいことをいって混乱させて同意させる攻撃? 私こういうの許せないです。

「すべての男女の自由と尊厳」じゃないのかなあ。なんで「女」なの?脱構築ってどこいったんですか? まあ人がなんと言おうがみんな好きに生きたらいいと思う。そのためになんか難しいポストモダン理論は必要ない。そういうのが必要なのは特殊な人だけだとおもいますね。

上の「差異と平等」ってのは1980年代のラディカルフェミニストたち(特にマッキノン)を悩ませた問題です。男女は同じっていったら女性特有の問題(妊娠就労その他)が見えなくなるし、男女は違うって主張しちゃうと「んじゃ違ってていいじゃん」になっちゃう、という問題。マッキノンの答は、同一か差異かではない、そうではなく、男性が女性を支配していることが問題なのだ!っていさましいやつですわ。上の牟田先生の文章はバトラー様というよりはそうしたマッキノン先生の議論を連想させるけど、バトラー様にもあるのかな。

ものすごく好意的に読むと、マッキノン先生の立場の一解釈では、「女」と呼ばれるのは、必ずしも生物学的な女性ではなく、まさに「支配されている」「従属させられている」人間が「女」なのですわ。牟田先生はどうかわからないけど、このマッキノン解釈はわりと根拠があるかもしれないけど、いまは面倒だからまたあとで。それにこれはマッキノン先生の立場であってバトラー様ではない。でももしこういうことを主張したいのであれば、それはそれで明示してほしいですね。

この「ジェンダー化され従属させられている者が女である」っていう解釈だと、上の牟田先生の「女に課されている不利益に抵抗しよう」「女性差別をなくせ」っていうのが当然のように意味をもってくるんだけど、これってふつうはこうは読めないですよね。

 こんなふうに現代のフェミニズム理論は、ジェンダーをめぐる新たな地平に私たちを招待しています。なんだか刺激的じゃないですか?

わからんです。刺激的っちゃー刺激的ですが、わからなくてイライラして刺激的、ぐらい。堀あきこ先生はよくわかるわけなのだろうか。


あ、バトラー様の原文検討しないとならんかったか。またあとで。

これ読める人はすくないわよねえ。

問題の箇所の直前、culturallyが「社会的」って訳されてるね。 文化的のほうがいいだろう。バトラー様の翻訳は私は質が低いと思う。あちこちで誤訳らしきものが見つかるけど、それ指摘している人々は見たことないですね。(私がちゃんと見たのはExcitable Speechの前半だけだけど、あれはひどい)

「セックスの不変性に疑問を投げかけるとすれば、おそらく「セックス」と呼ばれるこの構築物こそ、ジェンダーと同様に、社会的に構築されたものである」とかわからんけど、このif は
本当は「セックス(生物学的性差)っていうのは歴史的に不変であるってことがさまざまな研究によってくつがえされるってことになるんだったら、このセックスという人間の考えや言説によってつくりあげられた構築物は、「ジェンダー」ってのと同じくらい文化的に構築されたものってことになる」ぐらいだろうと思う。まあ「セックス」も「ジェンダー」も、どちらも我々のあたまのなかにあるっていう意味では同じです、ってことね。この意味では、他にも「地球」も「宇宙」も「ペンギン」もぜんぶ構築物なわけですわ。

ファウストスターリング先生とかの研究が正しければ、なにが男女の生物学的性差であると考えられてきたかということ自体が時代によって変化しているので、我々の「セックス(性差)」という概念は文化的構築物ですってことになります、その点では「ジェンダー」と変わりません、ぐらいね。そりゃわれわれの頭のなかにある概念とか考え方とか言葉の内容とかは時代によって変わるので、そのいみでは「セックス」も文化的な構築物だわいな。あたりまえ。チンチンがついたりなくなったりするわけではない。そしてチンチンや生殖ぐらい基本的な部分についての考え方がどれくらい変わったかな? これも例がないからどのていどまで「生物学的性差」にしているかわからんよね。

ルソー先生、あなたの弟子たちが性犯罪に手を染めています(『恋愛工学の教科書』)

以前、ルソーの『エミール』に見られる性暴力の危険性について書いたのですが、あれから250年近くたってもルソー先生と同じ連中はいるわけです。

さて、ここまで密室に移動してからセックスまでのプロセスを見てきましたが、どのプロセスでも女の子は抵抗を見せるはずです。……S[セックス?]フェーズでの抵抗はさらに激しいものとなります。

なぜこのような抵抗(関門といってもいいかもしれません)があるのかと言うと、女の子はセックスすると妊娠する可能性があるので、優秀な遺伝子を選別する必要があるわけです。関門を設けてそれをくぐり抜けることができるGood Genesかどうかを本能的にテストしているわけです。

しかし、その抵抗がテストのための形式的なものか、本当に嫌がっているかは、よく見極める必要があります。行き過ぎると、レイプで訴えられるリスクもあります。

ここでの見極め方としては、力の入り方が挙げられます。女の子はか弱そうに見えて、全力で力を入れると結構強いのです。クリタッチのあたりで、女の子の又に手を入れる際に抵抗して手を掴んでくると思いますが、このときの力の入れ具体をよく見ていた方がいいでしょう。男の力か、というくらい強い力で抵抗されることがあありますが、これはおそらく本当に嫌がっています。

逆に、「いや、全然力入っていないやん」と思ったり、数秒抵抗しただけですぐにやめてしまう場合は、形だけの抵抗だったと言えるでしょう。

このように、抵抗は女の子の性質上、絶対に存在します。その抵抗を額面通りに信じて、やめてしまうのは非モテのマインドです。本当の抵抗なのかどうかという点を常に検証した方がいいでしょう。(pp.222-223、下線は原文ゴシック)

私はこういうのが実際にどうなっているのか全然知りませんが、この筆者は、(1) 女子が本気で嫌がっていることがありえることもありえるのを自覚しながらも、(2) その抵抗が弱い場合には本当の抵抗ではないので、形だけの抵抗であると疑って、とりあえずチューと「クリタッチ」ぐらいしてみるべきだ、と主張しているわけですね。そして強い抵抗でないのは抵抗でないのでもっとした方よい。「未必の故意」みたいなもんですわね。

これは生活道路を自動車でぶっとばしてるようなものですね。もしかすると人を轢いちゃう可能性もあるけど、とりあえずぶっとばしたいからぶっとばす。べつにぶっとばす必要なんかなにもないのに。安全第一なら、問うべきは当然「抵抗してないように見えるけど実は嫌がってるのではないか」でしょう。

まあ女子のみなさまにおかれましては、こういう思考をする人々はけっこういて、ネットで情報交換したりしている、ってことを知っておいた方がいいと思います。

さっきのルソー先生の話もぜひ読んでおいてください。

ちなみに、草食系男子へのアドバイスでもとにかくおずおず同意をとったりしないでやってしまえ、ということが言われることがあるので、論文にしてみましたのでよかったら読んでください。まああんまりまじめに女子とセックスの同意を確認する、というのは非モテ思考である、というのはかなり一般的なようです。

バトラー様と事実/規範の峻別

前のエントリで『LGBTを読み解く』に言及したのに、このブログでは私がなにを問題にしているか書いてなかった。ずっと前に書いてそのままになってたやつをサルベージ。


森山至貴先生の『LGBTを読み解く』についてoptical frog先生が解説書いてくれていて、私もなんか書きたいんだけど、なんかさしさわりありそうなのでちょっとだけ。

もうバトラー様のフォロワーたちが、言語行為論なんかにはまじめな興味もってないのはわかっているので、オースティン先生とかデリダ先生とかはどうでもいい。パフォーマティブがなにか、とかってのもどうでもいいというか、まあ自分たちの勝手な意味で使ってください。それはもうかまわない。

今興味があるのは、その「ジェンダーのパフォーマティヴィティ」なるものに、いったいどういう価値があるのですか、ってことね。

「繰り返されることで通常の用法を外れたものが伝達されてしまうという言語のパフォーマティブな特徴は、ジェンダーにも当てはめられるとバトラーは考えました。」p.136

これは森山先生がそれまで述べていたこととは違う。その前で言っていたのは、「語や句は、その意味が異なる文脈に流用されてしまう、つまり安定した辞書的な意味が綻びることによってむしろ成立可能となっている」とか「言語の特徴は……辞書的な意味を越えてしまう」ことだとか、語や句が「想定ないし意図されている意味にとどまらないような意味を伝達してしまう」っていうことだけなはず。これと「繰り返されることで通常の用法を外れたものが伝達されてしまう」がどうつながっているのか私にはわからない。これじゃ学生様読めないでしょ。でもまあいいや。先。

「セックスは生物学的な性差、ジェンダーは社会的な性差と説明され、後者[ジェンダー]は可変的で改善の余地があるが、前者[セックス]は身体のつくりの違いなので変えようがない、と説明されてきました。しかしバトラーは、この「変えようのなさ」は、身体や性に関するわれわれの言語使用の最大公約数的な特徴なのであり、辞書的な意味を越えるという言語のパフォーマティブな特徴ゆえ、もしかしたらこの「変えようのなさ」もずれたり、ほころびたりするかもしれないと考えました。」([]内は江口の補)

「セックス」は「身体の特徴によって割り当てられた性別、男女の間の差異」。「ジェンダー」の方は森山先生の場合は「「男らしさ」「女らしさ」に関する規範の違い」ってことになってる(p.48)。

ここはちょっとトリックがあるように思う。「セックス」という言葉と、その言葉がさす対象としての生物学的な性差が混同されてないかしら?ふつう、「セックスは変えようがない」と言われているのは、身体(あるいは身体的な基盤をもつなにか)は変えようがないということですわね(この主張自体ぼんやりしていて、おそらく正しくない)。でも「セックス」という言葉そのものは、単なる言葉なので、その意味は変えることができる(かもしれない)。

身体の「変えようのなさ」が実際には反復の中で生まれる最大公約数的特徴にすぎないのなら、「けっきょく女性の身体で生まれたのならその身体に応じた女性としての特徴(女らしさ?)があるのは当然」という「変えようのなさ」に依存した乱暴な議論をそのまま受け入れる必要はなくなります。バトラーの議論は、不変の生物学的「性別」という発想への批判に、哲学的根拠を与える役目を果たしたのです。」

しかし、この文章では、「身体の変えようのなさ」になっている。でも「反復の中でうまれる最大公約数的特徴」は言葉、あるいはジェンダー(「〜らしさ」)の方よね。私は頭が悪いのか、こういうことされるとものすごく混乱する。

さらに、「女性の身体で生まれたのならその身体に応じた女性としての特徴(女らしさ?)があるのは当然」がなにを意味するのか。先に、「男性」や「女性」といったセックスは、身体に応じて割り当てられるって言っているのだから、生物学的女性がその身体に、生物学的女性としてのなんらかの生物学的特徴をもっているのは当然だろうと思う。

それは例えば女性生殖器官(卵巣や子宮)があるとか、性染色体がXXであるとか、あるいは男性生殖器がないとか染色体にSRY遺伝子がないとか、否定的な形かもしれないし、あんまり性器に注目すると性分化疾患とかのひとはどうなるのかとか問題はあるかもしれないけどね。でも「(生物学的)女性としての特徴」が身体的なものであれば、「(生物学的)女性の身体で生まれたのならその(生物学的)身体に応じた(生物学的)女性としての特徴がある」は当然だ。

当然でないのは「(生物学的)女性の身体で生まれたのなら、その身体に応じた社会的な規範にしたがうべきだ」という判断で、これだけだと、この主張は明確に「である/べし」の間にあるはずのギャップをのりこえてしまっている。だから論証が必要なのね。これを正しい推論・論証にするためには、

(a1) 人はもっている身体に応じた「らしさ」の規範を受け入れるべきだ
(a2) 女性は女性の身体をもっている
———-
(a3) 女性は女性の身体に応じた規範を受け入れるべきだ

の形にする必要がある。この形なら論証としては正しい。しかし(a1)を受け入れるべきかどうかはこの論証自体では論証されていない。(a1)を正当化する論証として、たとえば

(b1) 幸福になりたいなら、身体に応じた「らしさ」規範をうけいれるべきだ
(b2) Aさんは幸福になりたい
————
(b3) 幸福になりたいAさんは身体に応じた「らしさ」規範をうけいれるべきだ

のような論証をする必要があるけど、(b1)はものすごく怪しい前提で、私は受け入れないのでさらに(b1)の論証を求めることになると思う。

なぜ怪しいのかというと、仮に長い人類の経験から、男性や女性が「〜らしく」した方がそれ自体でいろいろ有利で幸福につながりやすいことがわかっているとしても、われわれはそれぞれいろんな個性があるので、「〜らしく」するのが幸福につながるのかどうかは自分でいろいろ考えたりやってみたりしないとわからないからだ。「〜らしく」するとむしろ不幸になるひともたくさんいるだろう。

面倒だから引用しないけどいつも出してるミル先生の『自由論』の第3章参照。「幸福」ではなく「社会の安定のためにそうするべきだ」のような前提をもってきてもなぜそうなのが十分疑える。われわれはくだらない言葉遊びではなく、ほんとうに重要なことを考えるべきだと思う。

つまり、私が思うには、バトラー様のへんちくりんな「哲学的根拠」なるものは少なくとも私には必要ないし、他の人も必要ないと思う。

結局、バトラー様フォロワーはなんらかの「自然主義的誤謬」に非常に弱い思考様式をしているのだと思う。それは倫理学とか論理学とか批判的思考(クリティカルシンキング)とか勉強してほしい。

牟田先生たちの科研費報告書を読もう (7) おしまい

んでこのシリーズ、実は最初は牟田先生の論文が、われわれの日常的な事実と乖離してるんじゃないか、そしてその規範的主張が勝手なものじゃないか、って書こうとしてたんですよ。実はマッキノンやギデンズのあんまりよくない引用方法を発見してしまったらもうそういうのどうでもよくなっちゃったんですが。

でも最後にその最初の話だけ。

牟田先生は、まともなセックスには同意・合意が必要であると考えます。あたりまえだけど。そして、「同意とは、コミュニケーションによって得られるが、そこにはさらにネゴシエーションも当然含まれてくるはずだ」とおっしゃる。コミュニケーションとネゴシエーションがどういう関係かわからんけど、まあネゴシエーションって交渉ですよね。交渉にはもちろんコミュニケーションが必要、ぐらいか。これもいいっしょ。んで、まともなセックスには「ネゴシエーションと同意の確認の連続がなければならないはずだ」っておっしゃる。これもいいでしょう。まあ交渉したり、セックスをどう進めるのか相談したり、相手の反応を見たり、まあいろいろしながらセックスというのは進むのだと思いますし、そうあるべきでしょう。

牟田先生は、田村公江先生のちょっと変わった論文「性の商品化:性の自己決定とは」(金井淑子編『性/愛の哲学』、岩波書店、2009、収録)を参照しています。牟田先生によれば、田村先生が論じているのは、

性的行為するかどうかの最終決定権は女性が持つ・途中でやめることもできる権利もある・男性は自分の性的快感獲得よりも女性の性的快感獲得を優先すべきである、等の条件が満たされてはじめて、女性は性的行為において男性と対等になれる、と論じる。

ということです。実際に田村先生はこういう驚くべきことを論じているんですわ。田村先生の論文もおもしろいので引用しながら紹介してみたいのですが、もう疲れたのでやめます。

とにかく簡単に言えば、田村先生(そして牟田先生)にとって、なぜセックスの決定権が女性にあり、行為において女性の快感が優先されるかというと、女性は身体的にも精神的にも傷つきやすく、また男性(というかペニス)の協力なしには快感を獲得できないからです! びっくりしますね 1)まあ実は私数年前にこの田村先生の論文を3回生ぐらいに配ってちょっと議論してもらったことがあるのであれなんですけどね。ふつうの女子大生様の意見は「甘えすぎではないのか、女有利すぎないか」ぐらいでした。課題は「グループに分かれて、批判的を思いつくだけ考えよ」だったので、私の意見はあんまり反映されてないはず。 そんなんだったらセックスなんかしなくていいのではないか。

上に続けて、牟田先生はこう書きます。

おそらく多くの人は、このような条件は非現実的と考えることだろうが、しかし問題は、これらの条件が守られそうにないこと以上に、「これまで、満たされないことがあまりにふつうであったため、あからさまな暴力や強制がない限り、うやむやにされても女性はその不平等性に気付かなかった」(田村 2009:191)ことにこそある。現在の私たちは、かつての性の抑圧から多少は解放され、性の自由らしきものを手に入れた。だからこそ、女性たちは、「対等」「自由」と信じて、普通のセックスのなかに厳然とある抑圧を見逃してきた。

つまり、田村先生や牟田先生は、ベッドの上での「対等な」関係は非現実的だ、ベッドの上では女性はいつも、みんな、選択権なし、リードされっぱなし、やられっぱなし、快感も得られません、みたいなもんんだって思ってるんですよ。信じられますか。そんな貧弱なセックスがいまの日本の男女なのですか。さらに牟田先生は、

性的行為にはネゴシエーションが必要、という考え方には、現在ではおそらくは女性を含めて多くの人が「面倒だ」「無理」と、疑問や反発を感じるだろう。

っていうわけです。これ、なんか根拠があるんでしょうか。相談しないでセックスしている人々はどれくらいいるんでしょうか。もちろんうまく交渉できない人もいるでしょうけど、ふつうはいろいろ交渉しながら楽しくセックスしてるんじゃないですか。みんな絶望的なセックスしてるんですか。人々の貧弱なセックスは男性中心的社会の構造とかの結果なんですか。

こうした「男にやさしく大事にしてもらわないと楽しいセックスはできないし、そもそもセックスさせてやってるのだからそういうことを要求できる権利が女性にはある」みたいな貧弱でなさけないセックス観のもとで生きるよりは、この論文集に収めれらている元橋先生が批判する「新自由主義的セクシュアリティ」、つまり、女性もがんばって魅力を磨き、自発的で男を喜ばせ自分も快楽その他を獲得しようとするするセックス、の方がずっといい気がしますが、どうですか。

私の好きなハキム先生っていう人は、交渉っていうのは性的な魅力や技術とともに、若いときから少しずつ修得していくものだ、って言ってます。大人の魅力的な女性にとって、それは男性にやさしくしてもらうんではなく、努力によって獲得するものです。

自分のエロティックキャピタル(性的魅力)を開拓するのに多少なりとも時間を費やしてきた女性は、次第に男性の扱いに自信を持ち、優しくも意地悪くもできるようになる。社交術はより磨かれ、多種多様な状況や人々に対応できるようになる。……性的な経験を積んだ女性たちは、男性に対する従順さが薄れ、積極性が増し、自己主張が強くなり、セックスにおいても人間関係においても「支配する」立場に慣れていく。その結果、男性優位主義の文化が強く残る社会でさえ、女性たちは自信を深め、男性と平等だという意識を持ち、従順さよりも自主性を重んじるようになる。(p.221)

ってことですわ。他の印象的なフレーズはここらへんで紹介しておきました

新自由主義的セクシュアリティは女性のエンパワになるかもしれない。「性の商品化」こそエンパワかもしれないのです。新しい世代のフェミニストは、そこらへん批判的に検討してみてほしいですね。そしてなにより、現実の人々がどんなセックスしたり、いろんな面で支配したりされたりしているのかちゃんと観察してみてほしい。文献あさるのでもいいです。イデオロギーで決めつけるのだけはやめてほしい。

半端になったけど、こんな感じでこのシリーズはおしまい。

References[ + ]

1. まあ実は私数年前にこの田村先生の論文を3回生ぐらいに配ってちょっと議論してもらったことがあるのであれなんですけどね。ふつうの女子大生様の意見は「甘えすぎではないのか、女有利すぎないか」ぐらいでした。課題は「グループに分かれて、批判的を思いつくだけ考えよ」だったので、私の意見はあんまり反映されてないはず。

牟田先生たちの科研報告書を読もう (6) 雑感

しかし誤解のないように書いておくと、私この科研費報告書自体は(そして牟田先生の論文も)高く評価しているわけです。この手のセックスにまつわるいろんな問題っていうのは実は国内ではちゃんと議論されてないので、いろんな立場の意見が検討されるべきで、そうした議論の基盤を提供してくれているのでたいへん価値がある。科研費もらってもらってたいへん助かります。ぜひもっと出してあげてほしい。

っていうか、私が思うに、いまジェンダー/セクシュアリティまわりの研究者が少なすぎるんすわ。みんな同じような話してるし。もっと科研でお金出したげてください。

あと前の記事に質問もらってるんですが、牟田先生たちのあの動画サイトはどうなんだ、っていう件なんですが、まああれに学術的価値はほとんどないですわね。でもなんでああなってしまったのかだいたい想像できたりして、ちょっとつらいところがあります。

想像では(勝手な想像ですよ!)、最初はジェンダー平等のための理論と運動の架け橋をつくりたい、とかかからはじまったと思うんです。んで、その手の運動している人だけじゃなくて、その手の学者研究者系統も、ITすごく苦手な人々多いんですよ。まあ牟田先生たち自身もそんな得意じゃないと思う。だから「ジェンダー平等を目指す研究者とその他みんなのための手引きを作ろう」みたいな発想は自然だったと思うんです。

でも実際にそうしたサイトを作ろうとすると、自分らではやはり知識も技術も足りないからできないわけですわ。だからプロに頼む。でもプロっていうのは技術は提供してくれるけど、知恵はあんまり貸してくれないんすよね。どういうサイトつくりたいか、どういうビデオ作りたいかっていうヴィジョンがはっきりしてないとどんなプロでも助けようがない。でも発注する側もよくわからないから、ああいう中途半端というかなんのためかわからんものができてしまう。システムを発注するっていうのはたいへんなことですよね。あちこちの団体で同じような問題が起こり続けていると思います。

まあ例のあの画像の世界ですね。

まあ場合によって責任者はごめんなさいしないとならんかもしれんのですが、彼女たちのあれがそういうものかどうかは私には判断ができません。

あと、今回気づいたんですが、SNSというかツイッターの特徴として、すごくリツイートとかされるネタがあるんですね。フェミニスト批判みたいなのはかなり好まれるネタで、500人とか1000人とかがリツイートしてしまう。これ炎上しているというか攻撃される側としては世界が襲ってくるように見えるはずで、ツイッタの特性を理解してないと認知歪んで世界について誤解しちゃいますわね。

牟田先生の論文のテーマの一つは「なぜ女は「叩か」れるのか」みたいなのだと思うんですけど、SNSとかで活動しても反応が思い通りにいかないと、本気で蹴られ殴られたりしていると思いこんでしまうかもしれない。実際にはそれって一部の人々のものであっても。

世間の人々をうまく説得するのが学者の仕事かっていうとよくわからないし、「隅々まで説得する」みたいなのもおそらく活動家の仕事ですらない。そんなことは誰にもできないわけだし。ネットと通じた言論活動とか啓蒙とか討論とか、そういうのについてはやはりいろいろ考えておかねばならないなとは思っています。SNSもブログも使いかたをまちがうと本気で健康を損ないます。とにかく健康に悪いことは避けたいものです。

牟田先生たちの科研費報告書を読もう (5)

もう一つあげましょう。牟田先生は、「ギデンズが論じるように、法的な平等が保障されジェンダー平等への道が見えつつあるからこそ、性暴力やジェンダー暴力がいっそう生み出されているとすれば」と言います。この文章に対する注は

ギデンズは、「男性の性暴力が性的支配の基盤をなしているというとらえ方は、以前よりも今日においてより大きな意味をもつ……今日、男性の性暴力の多くは、家父長制支配構造の連綿とした存続よりも、むしろ男性の抱く不安や無力感に起因している」(ギデンズ 1995: 183)と論じている。

です。実はこのギデンズに依拠した牟田先生の文章は前にもブログでつっこんでいるのですが、今回本当にギデンズがこんなこと言ってるのかちょっと調べてみました。

別の論文 1)牟田和恵 (2015) 「愛する:恋愛を〈救う〉ために」、伊藤公雄・牟田和恵編、『ジェンダーで学ぶ社会学』(全訂新版)。これについては、別の記事でコメントしました。では牟田先生は、「ジェンダー平等が進展するほど、男性による暴力や支配が起こりやすくなる」と考えているようで、その根拠にギデンズ先生を使ってるわけですね。しかし、男女平等が進むと性暴力が増える、みたいなの信じられますか? 私は信じられない。その逆でしょ。男女不平等なほど性暴力は多いだろうと思う。ギデンズ先生がそんな馬鹿げたことを言ってるとも信じられない。

んでギデンズ先生の『親密性の変容』を見てみると、性暴力を論じているのはまあごく一部ですわね。んで、男女平等になって性暴力が増えてる、みたいなばかげた主張もしていない。

私の読みでは、ギデンズ先生がやってる議論はこうです。男性の女性支配っていうのは、近代までは、男性が女性を「所有」し隔離するという形でおこなわれてました。女性は家庭生活のなかで暴力にさらされることはあっても、家族以外からそういうことを受けることは少なかった、なぜなら隔離されていたから。レイプとかは、戦争とか征服とか略奪とか植民地とかそういうトラブルの時に起こる。(でもそういうトラブルはもちろん多い)でもそうした暴力っていうのは男同士でもふるいあっていて、男性も十分危険な状況で生きていた。

現代社会では、それいぜんよりは比較的暴力が抑制されていて、男性同士の暴力も少なくなって、暴力といえば男女間の暴力、性暴力が注目されるようになった。そこで上の

「男性の性暴力が性的支配の基盤をなしているというとらえ方は、以前よりも今日においてより大きな意味をもつ……今日、男性の性暴力の多くは、家父長制支配構造の連綿とした存続よりも、むしろ男性の抱く不安や無力感に起因している」

の引用文なんすよ。牟田先生が原文確認しているかどうかわからないけど、ここの「大きな意味をもつ」の原文は

It makes more sense in current times than it did previously to suppose that male sexual violence has become a basis of sexual control. (原書p.122)

で、「昔よりは今についての方が、男性の性暴力が性的支配の基盤になった、っていう考えかたが、make more senseする/筋が通ってる/理解できる/もっともらしいですね」ですわ。このブログでも何回か議論したブラウンミラー先生あたりの「レイプは昔から男性が女性を支配する脅しの手段だった」っていうのをむしろ否定してるんですわ。

まあもうすこしギデンス先生を解説しておくと、そのあとは

In other words, a large amount of male sexual violence now stems from insecurity and inadequacy rather than a seamless continuation of patriarchal dominance. Violence is a destructive reaction to the waning of female complicity. (p.122)

「言いかえれば、男性の性的暴力の大部分は、今では、たえまなく続く家父長制支配というよりは、男性の不安と無力感に由来している。暴力は女性の(男性との)共謀関係の衰えに対する破壊的な反応なのだ」ぐらいっすか。

これはまあ読みにくいしギデンズ先生がどれくらい自信あって断言しているのかわかりませんが、フェミニストが言うような家父長制のためとかってよりは、男性自身が不安だから性暴力振ってしまうんでしょ、ぐらいね。女性が男性に協力してくれなくなったから、それに破壊的な形で反応してるんでしょう、と。でもそうした性暴力全体が「増えてる」なんてぜんぜん言ってないですからね。

で、ここ見てたらもっと大きな問題を見つけてしまいました。この引用文のすぐあとで、ギデンズ先生は、女性もけっこう男性に対して身体的暴力を振ってるよとか、女性同性愛でも性暴力はけっこう頻繁だよとか、雑誌のセックス悩み相談に手紙を送る男性たちは、女性の性的満足のために自分の問題を解決しようと悩んでるみたいだよとか、売春婦のところに通う人々の多くは(牟田先生が想像している「女性を組み敷く」みたいな能動的なセックスのためではなく)受動的な役柄を演じたいと望んでいるよとか、まあそういうことを紹介しているわけです。これ、牟田先生が、この論文で想像している男性の一方的セックスとか暴力的で凄惨な売買春現場とかとはぜんぜん違ったものです。なぜ自分が引用している箇所の次のページ(翻訳p. 184)でそうした自分に不利な知見が紹介されているのを無視してしまうのですか。

やばい。(おそらくまだ続く)

References[ + ]

1. 牟田和恵 (2015) 「愛する:恋愛を〈救う〉ために」、伊藤公雄・牟田和恵編、『ジェンダーで学ぶ社会学』(全訂新版)。これについては、別の記事でコメントしました。

牟田先生たちの科研費報告書を読もう (4)

上野千鶴子先生が「嘘はつかないけど不利になることは隠す」とか発言しているのが発見されて、ツイッターの学者研究者界隈に動揺が広がってるようですが、まあそういう感じありますよね。特にフェミニズム/ジェンダー論まわりでは目につく。というか、昔からフェミニズムまわりではつらい経験をすることが多かったのですが、「嘘は書かないけど自論の不利になることにも言及しない」ぐらいの原則でやってるのだと思ったら理解しやすいことは多いです。

牟田先生の論文でもそういうところはあって、たとえば去年SNSで話題になった事件について、こういうふうに書くわけです。

日本では、5月に、伊藤詩織さんが、元TBS記者の山口敬之氏からTV局での仕事を紹介するからと酒席に誘われて酔わされた状態で、ホテルに連れ込まれレイプされたことを実名で告発した(伊藤 2017)。山口氏は安倍首相の伝記本を複数著している首相ご用達ジャーナリストであるところから警察権力の介入によって逮捕を免れた疑惑さえある。しかしこの事件はネット上では拡散し詩織さんのサポートの声がひろがったものの、一般のTVや新聞等の大メディアはほとんど報道せず、現在のところ捜査が再開される様子も無い。

この文章には嘘はない、というかまあSNSで知られているそのままが書いてあります。でも、山口氏が合意の上のセックスだと主張していること、東京地検が嫌疑不十分で不起訴処分にしたこと、検察審査会でも不起訴相当と判断されたことは書かれていない。デュープロセスや推定無罪、疑わしきは被告の利益に、という非常に重要な原則についても論文全体を通しても触れられていない。(実は推定無罪という言葉は、この科研費報告書全体でも一度も使われていないようだ。)はたして科研費報告書のようなもののなかで、山口氏の名前を出すのが適切かどうかわたしには判断ができない。

古久保先生の論文でも

続いて若者の性暴力(大学生における性暴力事件)の頻発について、テーマとしている。これが性暴力問題に関する1回目の授業になるが、そこでは性暴力被害者に焦点をあてるというよりも、むしろ二次加害者・傍観者という立場に焦点をあてて授業を進めている。これは、過去の大学でのレイプ事件の際に、加害者の「友人」たちがSNSを使って二次加害行為を行ってしまったという歴史的経緯を踏まえて行っているものであり、信頼している友人が加害者だと訴えられている事実を知ったときの認知的不協和を想像してもらいながら、二次加害の問題性を説明している。この授業を通じて、学生に性暴力が身近なところにあることに気づかせることにもなるが、実際、この段階で感想文のなかでは、「自分の友達」の性暴力被害についての言及が毎年出てくる。

という表現があるのですが、これはおそらく、2009年にあった京都教育大学集団準強姦事件と呼ばれてるやつをモデルにしてますよね。でもあれは、判決文などで知られている範囲ではかなり微妙な事件ですし、二次加害が云々の話もどれだけ古久保先生がデータをもっているのかわかりません。実際の裁判判決等の事情をふつうに書いたらやっぱり古久保先生たちには不利になるだろうと思います。それに、それこそこういうのが、「加害者」とされた人々への伝聞による加害ではないのかと心配になります。この報告書で触れられている他のトラブル・裁判例についてもそうした不安は同様です。

性暴力まわりの裁判とかについては、そうした「嘘は書かないけど自説に不利なことも書かない」みたいなのが一般化しているようで、非常につらいです。「これおかしいな」と思って判決文とりよせたりするとぜんぜん印象の違うことが書いてある、のようなのは頻繁で、フェミニスト学者の先生が出してくる裁判事例は、私はそのままでは信じない習慣がついてしまいました 1)このブログやtwilogにも角田由紀子先生や小宮友根先生の本での判例紹介についてのコメントが残ってるはずです。

こうした「嘘は書かないけど不利なことは隠す」という態度と、権威の発言や文献を恣意的に使う、というのは密接な関係にあるように思います。こうなってくると、意図的に勝手な使いかたをしているのか、あるいは勘違いその他のためにまちがってしまっているのかわからない場合がある。牟田先生の論文から二つ挙げてみたい。

一つは次の文章です。

セクハラに関する法理を打ち立てたアメリカのフェミニスト法学者キャサリン・マッキノンが「はっきりしているのは、自由に選択したとみなされている「真実の愛」と、頭に突きつけられた銃のようなものを意味する強制とを対立させる硬直した二分法では、女性のセクシャリティがどのように社会的に形づくられているのか、そしてそれが表現される条件――経済的なそれを含めて――がいかなるものであるかと説明するのには十分ではないということである」と述べているように(マッキノン 1999:103)、上司など職業上重要な関係にある相手からの性的なアプローチや性的言動をすぐにはっきりと断るなどきわめて困難であり、対応に曖昧さやためらいがまとわりつくのも当然だ。

牟田先生がマッキノン先生の文章をどう解釈しているのかはよくわからないですが、「セクハラされてるときに女性は簡単には断れないのだ」ということを主張する根拠になると解釈しているようです。

でも実はこれ、もっと広い文脈で見ると、マッキノン先生が主張しているのは「上司と部下のセックスでも、はっきり強制やレイプ(まがい)と言える場合もあるけれども、はっきり合意と言える場合もあるし、さらには、はっきりどちらともいえないような微妙でグレーなケースもあることはやっぱり認めなきゃならないね、でも少なくともはっきりしているやつはアウトだ」っていう文脈なんですわ。

私の読みでは、マッキノン先生は教育や秘書業務とかの現場で、尊敬や業務上のふるまい、あるいは利益なんかと恋愛感情や性欲がごっちゃになってしまうということを指摘した上で、

以上述べたことは、セクシャル・ハラスメントの法的成立条件を明らかにする論点ではなく、法的にはむしろ不利な事例を検討してみることによって、その社会的真実を明らかにすることができる論点である。

って述べてるわけです。マッキノン先生は80年代はかなり強硬で一方的な議論をするようになるのですが、少なくとも70年代はこうして自分たちに不利な事情があることも認めた上で、それでもなおセクハラっていうのはなくすべきだ、はっきりしているのは撲滅すべきだ、と主張しているわけです。牟田先生が使ってるように「マッキノン先生が指摘しているように女性は簡単に断われないのだ」っていう文脈のものではなく、「同意か強制かよくわからないケースもあるんだから、たしかに白とか黒とかはっきりしない場合もありますよ」ってことを言おうとしている流れなのです。まあマッキノン先生のこれは立派な態度だと思いますね。現代のフェミニストの先生たちにもそうしてほしいと強く願います。

(この項続きます)

References[ + ]

1. このブログやtwilogにも角田由紀子先生や小宮友根先生の本での判例紹介についてのコメントが残ってるはずです。