花輪和一先生も偉大だ。

学生の人は読んでください。

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刑務所の前 (第1集) (Big comics special)

刑務所の前 (第1集) (Big comics special)

刑務所の前 (第2集) (Big comics special)

刑務所の前 (第2集) (Big comics special)

刑務所の前 第3集 (ビッグコミックススペシャル)

刑務所の前 第3集 (ビッグコミックススペシャル)

功利主義とわたし

なんちゃって。

  • 学部生のころはなにも考えてなかった。功利主義だけでなくほんとになにも考えてなかった。バイトして酒飲んでるだけ。
  • 1回生時点での単位取得は1単位*1、2回生は7単位。ぜんぜん学校行ってなかった。英語の試験遅刻していったら、「き、君は誰だねっ!」とか。
  • ほんとに勉強しときゃよかったなあ。
  • 倫理学の研究室にはいったのは、友人Kがつれていってくれたから。っていうか、かわりに登録してもらったんだったかな?どういうポイントオブビューもなし。
  • 研究室訪問とかもしなかったし。そういやなんかいろいろ新聞記事になってどうのこうのとかって時期だったかな。
  • 先輩たちが勉強してたのはカント(大量)、ベルクソン、ホワイトヘッド、メルロポンティとかフッサールとか。シェーラーも。フロイトも。ハイデガ。
  • 3回生の研究室新歓こわかったなあ。先輩からいきなり、「江口君っていうんですか、グルントレーグンクはもう読みましたか?」とか聞かれてねえ。そのぐるんとなんとかってなんですか、とかは聞けなかったねえ。
  • その夏に「合宿するぞ」っていってテキストとして渡された森口美都男先生の判断力批判についての論文がさっぱりわけわからず、恐くてドタキャン逃亡したような気がする。森口先生ごめんなさい。森口先生とは4回生のときに1回お会いしてお話させていただいた。電話もいただいたような。なむなむ。
  • 留年しても何も考えてなかった。
  • 大学の雰囲気としてはカント、ヘーゲル、フッサール、ハイデガーだったような。ライプニッツやスピノザとかもアレだったか。でもなんか現象学にあらざればテツガクにあらずだったんじゃないかな。木曽先生がヒューム教えてたはずだけど履修しなかった。あ一部でウィトゲンシュタインもはやってたね。「賢い人はいいなあ」とかそんな感じ。
  • でもまあ、「哲学する」ってことはまちがいなく「誰か偉い哲学者を勉強する」ってことだったね。
  • 全体として、学部・専攻の美風である原典主義は、いつのまにか「原典しか読んじゃだめ」になってる傾向もあったような気がする。
  • フッサールの『省察』の授業ではドイツ語読めなくて他の人に迷惑かけた。でも当時はあんまり気にしてなかった。なにも考えてないから。ドイツ語再履修しながらフッサールの授業に出るってのはひどすぎるよなあ。授業前日には友人Nと長電話しながら、「このderってなんなの?」「関係代名詞」「あ、冠詞じゃないのか」「なんでここに動詞があるの?」とかそういうひどさ。ひどい。ひどすぎる。なに考えていたんだ。先生のお名前が思いだせない。衣笠大学の・・・その後しばらくしてお亡くなりになった。なむなむ。
  • 5回生で教養のドイツ語とって、『悲劇の誕生』読んだり。その年定年のD教授に、「君、出席足りないから「自宅に来なさい」とかって呼ばれて4、5回先生のところに通った。思いだすと心あたたまるなあ。D先生はその数か月後にお亡くなり。なむなむ。
  • 英語とかも再履修しまくり。デヴィッド・ロッジの『交換教授』読んだのはおもしろかった。ここらへんからすこしいろいろ考えはじめる。
  • まあ完全な落ちこぼれだな。
  • 講読の授業でキルケゴール読んで、卒論はまあこれかなあとか。二次文献なし。
  • なにも考えないままこれじゃまずいのでとにかく修士に進んだ。
  • 大学院入れてくれた西谷裕作先生もなに考えてたんかね。まあ私の人生については20秒も考えてなかったろう。でもお世話になりました。私もモーツアルト聞きながらおそばに行く予定です。なむなむ。
  • でも1年目はあいかわらず何も考えてなかった。このころ先輩方にはお世話になりました。特にいきなりパスカル読みながらフランス語教えてくれた某先輩さんきゅー。元気ですか?
  • あれ、修士で消えちゃった先輩もサンキュー。いろいろ人生相談のってもらって。
  • 修士でやめちゃったK君もサンキュー。いつも酒飲んでくれたN君はバリバリ働いてます。
  • あのままだとどこでも生きていけなかったな。どうなってたか考えただけで恐いよ。
  • ここまで功利主義の「コ」の字さえ出てこないじゃん。
  • 修士2年目、恐い先生が降臨。恐いー。粛清もあり。トラウマ。
  • 恐い先生に文章を添削してもらう。添削してもらうの自体はじめて。真っ赤に。恐いー。恐い先生はあきれたろうが、私は目からウロコがポロポロ落ちた。4月だか5月だかのこれがなかったら、私いまどういう職場でも生きてないね。
  • ヘア(Moral Thinking)読んだ。いきなりこれ読んでもあんまり問題がよくわからなかったのだが、Freedom and Reason読んで愕然とした。いったい私はなにやってたの!?みたいな感じ。
  • だんだん倫理学ってのがどういう学問なのかぼんやりとしたイメージをつかみはじめる。遅すぎ。
  • ここらへんでやっと二次文献・三次文献読むことをおぼえる。ひどい。
  • ここらへんまでロールズとかノージックとかについてもなにも知らなかった。馬鹿すぎ。っていうか社会とか国家とかにさっぱり関心がなかった*2
  • のちに名古屋の先生になる人登場。この人も最初はおちこぼれだったはずなのだが。数か月で豹変するのを見て皆驚くことになる。
  • ここらへんから文学部閲覧室に通う人間になる。人もいなくてタバコも吸えてよい環境だった。
  • 夏には就職活動したり。就職しとけばよかったのにね。でもその会社ではアレだったろう。もうちょっとがんばってよい会社に入っておけば、いまごろ人並の人生を送っていたであらう。いや、だめだったかな。微妙か。
  • でも正月過ぎてから内定ぶっちぎって博士課程進んでしまう。失敗。大量粛清。
  • のちにギンギンの功利主義者になる某女史も登場し、いろんな意味で研究室を圧倒する。
  • D1のおわりかD2のはじめからBioethicsの読書会はじめたような気がする。ここらへんから功利主義が本気で気になりはじめる。恐い先生の授業で『バイオエシックスの基礎―欧米の「生命倫理」論』使ったのはD2? D3?
  • シンガー読んで圧倒される。最初はとんでもない反感があったんだけどね。
  • 京都生命倫理研究会とかにも顔を出させてもらったりするようになる。功利主義は邪悪だってことになってたような。はじめて発表させてもらうときはどうにもならなくて、当日の朝、なんか階段から落ちて怪我すれば回避できるかなとか考えたよ。
  • ヘアの翻訳して自分の無能ぶりにあきれる。いろいろ恐い経験もする。トラウマ。
  • パーフィットとかやっと目を通し、たいへんなことが起こりつつあることに気づく。
  • 優秀な後輩たちが続々集結。フランス系やる人がほとんどいなくなる。応用倫理学とかってのが流行し、そういうのの分析に使えない系列が死にたえそうになる。いつのまにか功利主義者たちの牙城に?
  • でもマッキンタイアとかウィリアムズとかそっちの方も説得力あるなあとか。
  • しょぼしょぼ文献とかコピーして集めたり。お金ないから本は買えないし。コピーするのでさえいろいろ考えちゃう。読むのも遅いし。
  • OD1年目、紫綬褒章教授降臨。どんぶり勘定功利主義*3をつねに考えることに。
  • よく考えると、紫綬褒章教授の授業はまともにとってないんだよな。でもほんとうにお世話になっております。
  • 読書会とかいろいろやって後輩から教えてもらう。私は常に下しか見ていません。
  • 重要な文献とかは、文学部にはなくて、法学部や経済学部にある。これはあれだよな。文学部にお金がなかったからなんだよな。
  • つらいOD生活。思いだしたくない。
  • 紫綬褒章教授のおかげで研究室にお金がまわってきていろんな本を読めるようになる。感謝感謝。
  • ミルの素敵さにも目覚める。人生は実験だ!*4ここらへんで功利主義に対する偏見が一気になくなる。
  • シンガーを授業テキストに使ったりして、大きな穴を見つけたいけど見つからない。次第に屈服させられていく。
  • 某大将も就任。
  • 運よく某RA生活。感謝感謝。一番大きいのは、本が買えるようになったことだな。とにかく文献を集めてからはじめるものだ、ってのにこのころ気づいた。遅すぎ。
  • ここらへんになるともうなにやるにも功利主義的な発想を採用してもためらいがなくなっている。他人を攻撃するにはいいやね。
  • でもまだ心までは売り渡してはいないつもり。
  • 運よく就職。感謝感謝。図書費使えるのはうれしいなあ。
  • ここらへんになってから、法学(特に法哲)や政治学や社会学や経済学の人々の方が、ふつうの倫理学者よりりずっとよく倫理学について知っていることに気づく。いやはやなにやってんだか。特にあんまり派手じゃないひとはよく知ってるねえ。
  • Michel SmithやTimmons読んでもうメタ倫理学についていけないことを知る。
  • Railtonとか重要なのはわかってるけどもう読めない。
  • でも道徳的権利とか尊厳とかそういうの、それだけ出されてもあんまり説得力があると思わない人間になってしまった。corrupted? 人格だけはあんまり解体したくないけど。
  • 倫理学のコアな部分で自分がなんか貢献ができるとは思えないな(地方・国内レベルで)。
  • だらだら古典読んだり関係諸分野の概説読むのはたのしいなあ、とかそういう状態。
  • このままゆったりあと20年暮したいものだ。なまけものすぎ。

魅力は。

  • みかけのシンプルさ。
    1. 私にとってはとりあえず私の幸福が目標。
    2. でも道徳ってのはとりあえず不偏的なものならしい。
    3. だから道徳的にはみんなの幸福をめざすのが正しいことになります
  • シンプルすぎるけど、強力。これより複雑なものは私の理解を越えてる。
  • 世俗的。なんかへんな形而上学に訴えないのでわかりやすいような気がする。
  • 幅広い問題解決能力。とりあえず道徳的ジレンマ解決能力がある。答がとりあえず一意に決まる。
  • 価値の理論を含む。まあどんな道徳理論だって価値の理論は含むわけだけけど。

んじゃなんで「俺は功利主義者だ」と言いにくいと私は感じているのかな。

  • 健全な道徳的直観との見かけ上の齟齬。でもヘア以降ずいぶん解決されたような気がする。間接功利主義も有望なのだろう。
  • なにが幸福(善)であるかよくわからん。快楽説も欲求充足説も客観リスト説も難点ありすぎ。特に欲求説はだめだめだねえ。奥野~安藤の流れでは快楽説でいけるというわけか。
  • 功利主義は個人の理想にはならん。
  • 個人間比較。
  • 非同一性問題とRepugnant Conclusionまわり。

実は最後が一番気になっているような気がするな。功利主義特有の問題は最後のやつだけだもんね。「先に進むつもりなら功利主義倒してから行け」とかって安藤先生の立場にはもろに共感。

しかしまあ、歴史的に功利主義がだめだと(国内で)考えられたのはなぜかね。

  • 最初はミルなんか非常によく読まれてたわけで。シジウィックでさえ翻訳があるのにね。諭吉がもっとがんばってくれれば。
  • やっぱり政策的に戦前にドイツ系が好まれたのがあれなのか。法律とかドイツ系だからか。新カント派とかね。
  • 戦前のなんかしらんけど「国家主義」とか「民族主義」とかってのと功利主義は相性悪いからして。「国家の利益は個人の利益の総和にすぎない」とか国家主義者とかって人々は毛嫌いしたろうな。
  • ところが戦後の「人権」重視とも功利主義はうまくいかん。伝統的には功利主義者は「天与の人権」なんか誤謬だと思っているわけだからして。これ大きそうな気がする。
  • 快楽説のみかけ上の浅薄さ。これはでかい。テツガクシャには顧慮だにされなかったかもしれん。
  • 幸福の個人間比較。経済学者は個人間比較気になるだろうから、序数的選好とかで我慢しなきゃならなかった。とにかく測れなきゃしょうがないもんなあ。功利主義は過去の遺物としてしか見えなかったわな。
  • 50年代には英米の倫理学の輸入が試みられた形跡があるのに、60年代に死にそうになっているように見えるのはなぜなんだろうな。「マルクス主義か実存主義か」みたいな感じ?
  • 全体主義と功利主義が混同されたのはこのころか?
  • ほんとに60年代はどうなってたんだろうな。長尾龍一先生の一般向けの本(『法哲学入門 (講談社学術文庫)』)なんか読むと、「60年代には法哲学は死んでた」とか。英米の哲学者がみんなリンゴの等級づけの話してたからだ。そりゃ 社会と人生について考えたくて本読んだらリンゴの話してたらあきれる人もいたろう。清水幾太郎の『倫理学ノート (講談社学術文庫)』とか読むと功利主義いろいろいじってるのがわかる。でもその雰囲気はいまとなってはわからん。老師に聞いてみてもかなり謎。そのうちid:satoshi_kodama 先生がなんか教えてくれるだろう。
  • それが終るとテツガクシャは現象学にこもる。かなりはっきりした分化があったんじゃないだろうか。メタ倫理の分析の多くは英語の分析だから日本語に使えるかよくわからんし(深谷先生が『倫理学原理』の訳者解説でいろいろ書いている)、法の話は法哲学者に、政治の話は政治学者に、社会の話は社会学者に~とかやってると残るのはそういうところしか残らんもんね。また、哲学研究する人々のジツゾン的な問題もそういうところにあると考えられていんたのかな。私が学生してたのはその名残りから再び社会問題扱うようになった時期のはざま。英米より20年ぐらい遅れていたようだ。でもこの理解はまちがってるかもなあ。ほんとに謎だ。
  • 水田洋先生の『新稿 社会思想小史』とか読むと、功利主義の重要性はわかってるけどそれはマルクス主義に解消されるべきだみたいな書き方になってる。
  • イギリス哲学会の人々は細々と地道にいろいろやってた模様。偉い!でも経済学者中心だったかな。この系列には派手な人があんまりいないんだよね。
  • 70年代後半に英米の政治学・倫理学に関心のある人にとっては、まずロールズありだったわけだ。
  • でも実際には功利主義はやっぱり主流だったと思うんだがな。特にイギリスでは。アメリカだとブラントやフランケナががんばってたとかそんな感じなのかな。わからん。
  • 福祉重視型の社会がなんかうまくいかなくなってきたと思われたのもなんか影響があるか?
  • アメリカの法や政治の背景からすると、個人の権利をあんまり重視しない(と思われている)功利主義はあんまりアレなのはまあわかる。ここらへんをどう折衷するかがロールズとかの問題だったんだよなあ。きっと。おそらく。わからんけど。
  • でも国内でアレだったのはなんでだろうね。やっぱり人権か。法哲の主流はどうなってたんだろうな。
  • 70年代(60年代?)に欲求功利主義とか選好功利主義とかがはやって、すぐにいろんな問題指摘されてポシャる。これも痛かったか。まだがんばれるのか。
  • でも生命倫理とか環境倫理とか人口倫理とかグローバルなんやらとかになってくると、俄然功利主義は魅力的になってくるわけで。ここらへん既存のルールや直観ではよくわからんから、とにかくルール作りの第一オプションとしての功利主義は非常に重要。加藤先生が注目するのもそういうわけだわな。部分的功利主義とか(あれ、ちがった。局所的でもなくて。えーと。あ、未確定領域功利主義)名古屋の先生が提案するのも理解できる。
  • 国内の場合は叩き台としての功利主義がよく理解されないまま、それを批判する方が紹介されていろいろはじまるって形になってて、それがもうひとつアレだったわなあ。論文の数なんかも批判する側の方が多くなるもんね。実際には10年ぐらい前だとアメリカのmoral philosophyとかの学生の修論で一番選ばれたのがヘアだったとかそういう感じだったはず。功利主義とかは超基本教養でとりあえずそこそれなりにおさえないと論文書けないはず。
  • フェミニズムなんかに関してもそういう傾向があると思う(主流はリベラルだけど、国内から見るとラディカルやらクィアやらが流行っているように見える。)。
  • でも最近はさすがにもう大丈夫だろう。

*1:1単位だけとるのはかなり難しい。そう、それは体育でしかとれない。

*2:いまでもあんまりない。

*3:功利主義がどんぶり勘定なのか、先生の功利主義理解がどんぶり勘定なのかはわからん。

*4:そして実験にはかならず失敗がつきものだ。

安藤本 (7)

統治と功利
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いつまでやってるんだ・・・本当にvery slow readerだな。自分で哲学できればいいのだが、私にはそれもできんし。

「現在主義」の正確な規定がわからん。ここらへんうまく書けてないみたい。

p.249の8.3.2.7の冒頭で2.3.3.1を指しているけど、この節はみあたらない。.3.3.1かな。

  • だらだら。快楽が欲求を変化させるってのは音楽のケースを考えるとわかりやすい。いったんその快楽を知れば、趣味が変化するし、それを聴こうとする欲求が生じる。
  • しかし音楽のことを考えると、快楽ってのは難しいもんだってのがわかる。音楽を享楽するときの快は、瞬間的なものではない。繰り返しとか変化とか構成とかそういう時間的要素が不可欠だもんね。音楽によって味わう快は必然的に時間的な広がりを持つ。
  • 安藤先生の痛みと快。
  • あなたは交通事故で四肢を損傷した。意識を取り戻したところ、それらの四肢の神経が死んでいないかどうかを調べるために医師が四肢に探り針をあてていくところである。痛みがあれば神経は死んでいないことになる。あなたは探り針によって痛みを感じそれに喜びを覚える。(p.144)

  • この例はなんか気になる。まあ肉体的・感覚的な快や苦痛を使って幸福なり厚生なりを考えようとするのは無理があるよなあ。でもなんでこの例が気になるんだろうな。痛みってのは多くの場合局所的で「どこが痛い」と言うことができる。でも快は(感覚的な快であっても)そういうことを言うことができないような気がするんだよな。「どこがいいんだ?言ってみろ!」「小指の先がとても気持ちいいです」とかってのはなにかナンセンスなところがある。マッサージされたときに気持ちいいのは肩や腰なんだろうか?
  • シジウィックやブラントは快を「それの持続や生起を欲求する」ってのがポイントだと考えるが、安藤先生はそれに反対。

    (安藤先生が推奨する外在主義的快楽説を受け入れれば)ある瞬間tにおいて望ましいとされた感覚経験Eが次の瞬間t’に於いて望ましからざるものとされることに全く矛盾はない。それゆえ、そのような場合にtに於いてEの持続は欲求されないが、それが快楽(幸福)であることを妨げるものはないのである。(p.146)

    具体的な事例はそこについている注。

    ゴスリングは香水の例を挙げている。香水を一吹きしてその匂いに快を感ずるとしても、その嗅覚の感覚が持続すれば不快であるだろう。

    ってことらしい。ほんとかな?

  • 香水の例は感覚的な快だから不適切な感じがするのかな?嗅覚の快はわりと特殊な感じがするからかな。嗅覚は新しい刺激に特に敏感だからか?むしろ不快の方が重要な感覚だからかな。
  • ここらへんが気になるのは、例のミルが幸福な生活の二大要素とした「平静」と「興奮」を考えているからなわけだが。
  • 彼らのいう幸福とは、歓喜の生活ではなかった。数少ない一時的な苦痛と、数多くのさまざまな快楽とからなり、受動的な快楽より能動的なものが圧倒的に多く、しかも全体の基調として、人生が与えうる以上を人生に期待しないという態度をもつような生存のなかにある、歓喜の幾瞬間を意味したのである。*1

    The happiness which they meant was not a life of rapture; but moments of such, in an existence made up of few and transitory pains, many and various pleasures, with a decided predominance of the active over the passive, and having as the foundation of the whole, not to expect more from life than it is capable of bestowing.

    (略)

    満足した生活のおもな内容は二つあり、そのどちらか一方だけで、しばしば目的を達するのに十分である。その二つとは、平静と興奮である。平静さが豊かに恵まれておれば、ほんのわずかの快楽で満足できよう。興奮が多ければ、かなりの量の苦痛にも満足できる。・・・この二つは両立しないどころか、自然に結びつくものであり、一方が長びけば他方が準備され、他方を熱望させるはずのものだからである。(世界の名著〈49〉ベンサム,J.S.ミル (1979年) (中公バックス) p. 474)

    The main constituents of a satisfied life appear to be two, either of which by itself is often found sufficient for the purpose: tranquillity, and excitement. With much tranquillity, many find that
    they can be content with very little pleasure: with much excitement, many can reconcile themselves to a considerable quantity of pain. There is assuredly no inherent impossibility in enabling even the mass of mankind to unite both; since the two are so far from being incompatible that they are in natural alliance, the prolongation of either being a preparation for, and exciting a wish for, the other.

  • どういう刺激が望ましい(欲しい)かはそれまでどういう生活を送っているかによって左右される。
  • 別にこれが安藤先生の立場と対立するもんだってわけじゃないけど、どうしたって幸福を考えるときには時間的要素がはいらないわけにはいかんような気がするな。whole life satisfactionを考えるのはあんまり意味がないとしても、ある程度の持続をもった実体のようなものとして考えざるをえない。だからどうなのかはよくわからない。私が安藤先生の立場をよく理解していないからだろう。
  • たしかにさっきの引用での安藤先生の指摘は正しいように見える。でもある感覚Eがtとt’で扱いが違うのは、やっぱりそれを通底している欲求なりなんなりがあっての話じゃないのか。たとえば、私はtではEを味わいたいが、t’ではその感覚を味わいたくない、とかって欲求なり価値観なりがバックにないか?ちがうか。わからん。

  • 香水の例。やっぱり私には、快が快であるかぎり、常にそれの持続か再起を望むように思えるな。香水の場合であれば、「またこの匂いをこの状態で
    嗅ぎたい」「あの匂いをあの状態で嗅ぎたい」と思うんじゃないかな。もちろん、ずーっとそれを味わいたいと思うかどうかは別。嗅覚とか鈍ってしまうから、「フレッシュな鼻で嗅ぎたい」と思いそう。快一般について、「あの快は私自身が変わってしまったから二度と味わうことはできないけれども、もしもういちどその状態に戻ることができたら、また味わいたい」と思いそうだ。

  • 難しすぎ。
  • 快楽名人いいなあ。安藤先生はこの本書いてかなり快楽味わってるね。私の40年分をはるかに越えてるね。
  • 功利主義の魅力ってのははっきりしている。見かけのシンプルさ。そして私にとっては、こういう価値論を含まざるをえないところ。ほんとは、(少なくとも人々の幸福や善行になんらかの価値を認めるかぎり)ほとんどすべての倫理学理論が価値論を含まないとならんわけだが、その他の立場に立つひとはなかなかそうしてくれんもんね。
  • 安藤先生の「単純簡素な功利主義より複雑な諸理論をある程度自己に理解可能な形で敷衍しようと試みる」のはたいへんだ(p.251)ってのはほんとうにそうなんだよな。シンガー先生なんかも「功利主義より複雑なこと言おうとするんならとにかくやってみろ」とかそういうこと言ってる。まったくだ。
  • あれ、私なんで功利主義だの快楽説だのっての勉強してるんだろう?いつのまにか邪悪な陣営にとりこまれているような・・・
  • なるほど、FeldmanのIAH (Intrinsic Attitudinal Hedonism)とSubjective Desire Satisfaction説は実質的に同じものだという論文があるな。Chris Heathwood, “Desire Satisfactionism and Hedonism”。他にも”Attitudinal Hedonism”で調べると山ほど論文が出てる。善の理論としてはここらへんが今旬な感じなのか。なんでも取りこめそうだもんね。客観リスト説にも魅力はあるんだけどな。最終的には快楽説か欲求説のどちらかにとりこまれることになるんだろう。
  • こういうときに大関級以上の大学にいないのは不利だな。まあ勉強不足だからしょうがない。
  • moral scienceとhumanitiesとかってことについてちょっと考えたり。倫理学ももうscienceの仲間。私は人文学の一部としての倫理学の方が好き。バーナード・ウィリアムズのファンが多いのは(特に北大まわり多いようだが)、やっぱりそうものに対するあこがれがあってね。アラスデア・マッキンタイアやチャールズ・テイラーなんかも好きなのはそういう人々。私も好き。そういう過去の自分との整合性もとらなきゃならんのかな。そういう感じがするな。それはそういう態度をとっていた方が態度的快楽を味わいやすいからなのかな。
  • なんか文章中に記号が入ってくると萎えるんよね。IAHだのDHだの。AAIHだのTAIAHだのMDAIAHだの。フェルドマン死ね。なんというか、テンポラリメモリをそれだけで使いきっちゃう感じがある。記号使うやつは付録として、栞として使える取り外し一覧表をつけろ。なくしても作りなおせるようにwebでも公開とか義務づける。「本論文のための特製栞・一覧表はhttp:~で手に入ります」とか。これいいなあ。
  • マイケル・スミスやホーガンとティモンズ読んだときも本気で死にそうだったな。「こんな記号見なきゃならないなら、もう倫理学とかしなくていいし」とか言いたくなる。文章も無味乾燥って感じでね。(安藤先生のはそれほど乾燥してない。)
  • CamelNameとかってのを使ってくれればその方がいいんじゃないのかな。IntrinsicAttitudinalHedonismと書く。長すぎるか。IntrAttHednぐらいでどうか。
  • 日本語の場合は漢字だとなんとかなるのかな。「内態快説」とか「行功説」とか。これならなんとかなりそうな気がしてくるな。でも内在的態度快楽説、行為功利主義で十分かも。「的」はいらんな。安藤先生のは時点極小間接態度快楽功利主義でいいじゃん。
  • あれ、パーフィットのときはそれほど気にならなかったか。いや、そうでないか。わりと何度も要所要所で記号の意味を書いてくれてたからかな?
  • 快楽ってのは多ければ多いほどよいのかとかやっぱり考えちゃうね。年がら年中恍惚としている人生は送りたくない。でもそれは恍惚としている状態に対してあんまりpro-attitudeもってないからってわけか。
  • フロイトの末期。癌で苦しみながらも、なんかまともに考えるために麻酔を拒否している自分の状態に対してpro-attitude持ってたかといわれれば、それは持ってたんだろけど、それ快楽なんかね。たんに言葉の問題なのかな。
  • フロイトに「それはいい感じですか?」と聞けば「いや、苦しい」と答えるわなあ。「麻酔で恍惚としているのとそうやって苦しんでいるのとどちらがいいですか?」と聞けば、「こうやって苦しんでいる方がいい」と答えるだろう。「んじゃ、フロイト先生、そうやって苦しんでいる方にあなたは快を感じているわけです」とつっこんだら、なんか殴られそうだ。なぜだろう?
  • あれ、やっぱりなんか比較の対象が必要だってことなのかな?選好preferenceが基本的なのかな?わからんなあ。
  • ここらへんぼんやりと考えながら人生が過ぎていくのはどうなのよ、という気もする。

*1:この訳には問題がありそうな気がする。moments of suchのsuchはraptureかな?a lifeじゃないのかなあ。