なんかこのパーソン論シリーズ、うまく書けなくて自分でもよくわかってないなあという気がしてくじけそうですが、まあ少しづつ書いているうちにうまい説明方法を見つけられるんじゃないかと続けてみます。
よく見かける誤解の一つが、「パーソンでないとされた存在者は配慮の対象にならない」みたいなやつですね。もう面倒なので文献ひっくりかえすのはあとにします。
でもまあ一応森岡ターゲット論文ぐらいは見る。http://www.lifestudies.org/jp/persona01.htm
森岡先生は「パーソン論者によれば、パーソンとは自己意識と理性を持った存在者のことであり、その存在者に対してはある一定の道徳的な配慮をはらうことが要請される」と表現してます。これまちがいではないんですが、誤解を招く表現になってると思うんですわ。
まずまあ前にも書いたように、全部のパーソン論者が「自己意識と理性」をパーソンの条件にしているわけじゃない。でもこれはいいです。問題は次の「ある一定の道徳的な配慮をはらうことが要請される」。
私が書くなら、「ある特別な道徳的配慮をはらうことが〜」になるかなあ。
パーソン論のそもそもの前提は「われわれはパーソンと呼んでいる一部の存在者を特別あつかいしている」って事実なんですよね。まあ特殊な権利を認めたり、特殊な保護をおこなっている。でも、それ以外の存在者に対しては道徳的配慮をしなくてもいいってことにはらんわけです。それは誰も考えてない。猫はおそらくパーソンじゃないけど、楽しみの気紛れに殺してはならん。できるかぎり保護しなければならない。だからパーソンでないとされた存在者は道徳的配慮の対象にならないと考えてはいかん。まあ森岡先生はそうは考えてないと思います。
パーソンである存在者とパーソンでない存在者のあいだにどれくらいの配慮の違いを設けていいのか、ってことはパーソン論そのものからは出てこないはずです。我々がパーソンとそうでない存在者の間にたいしたちがいを設けたくないと思えばそうすればよい。私はそっちの方に賛成ですね。っていうかわれわれはパーソンばっかり特別あつかいにしすぎていると思われます。
何度も書いているようにトゥーリー(1972)の議論はかなり特殊だってことを意識しておいてもらうことを前提にしてトゥーリーの議論を考えてみると、彼によれば自己意識をもってない存在者は自己が存続することを望むことができないので自己の生命が持続することを欲求できず、それゆえ自分の生命に対する権利をもつことができない(くりかえしますが、この議論はうまくいってないです)。でもそれでも猫が苦しめられない権利をもつことは可能なわけです。だって猫は苦しめられないことへの欲求、苦しめられることへの嫌悪をもつことができるでしょうからね。
あとウォレン先生(1973)は、感覚、自発性、コミュニケーション能力、推論、自己意識などの特徴のどれもがないとパーソンとはいえないだろうって言ってますが、んじゃ新生児にはなにも配慮しなくていいのかっていう問いに対しては、新生児とかはすでにさまざまな人間関係や愛情や愛着の対象になってるんだから殺してもかまわないってことにはらならん、としつこくくりかえしてます。
まあパーソンに与えられている「特別な資格や権利」がどんなものであるべきか、ってのは「誰がパーソンであるか」ってこととは別に考えなきゃならんことなのです。これ混同するとおかしなことになる。
- 「パーソン論」よくある誤解(1) パーソン論は功利主義的だ
- パーソン論よくある誤解(2) パーソン論は自分の仲間以外を切り捨てようとする自分勝手な思想である
- パーソン論よくある誤解(3) パーソンでないとされた存在者は配慮の対象にならない
- パーソン論よくある誤解(4) パーソン論は英米生命倫理学の主流の考え方である
- パーソン論よくある誤解(5) パーソン論は障害者の抹殺を求める思想である
- パーソン論よくある誤解(6) パーソン論は人間の間に脳の働きに応じて序列を決める思想だ
- パーソン論よくある誤解(7) 心理的特徴より感情とか類似性とかペルソナとか呼び声とか二人称とかが大事だ
- パーソン論よくある誤解(8) パーソン論は人間の尊厳についての議論である
- パーソン論その後/道徳的地位
- 高橋昌一郎先生の「胎児はいつから人間か」の議論
- パーソン論よくある誤解:「人格」とパーソナリティ
- パーソン論よくある誤解: 人は常に合理的・自律的である
- 「パーソン論」を何度でも:竹内章郎先生の『いのちと平等をめぐる14章』
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