『モーニング』の古いやつが出てきたからスキャン。
家庭内には、娯楽といえるものがほとんどなかったし、外出することもほとんどなかったので、自然セーレンはひとりで思いにふけることが多かった。父は厳格であったが、豊かな想像力の持ち主で、それが年老いても衰えなかった。セーレンが外出を願うと、それを許すかわりに、父は子の手をとって部屋のなかを散歩した。セーレンは行きたいと思うところを言う、するとふたりは想像のなかで、門を出、海岸に出たり、町を歩いたりする。手をとって部屋のなかを歩きながら、父は町や海岸で見るもの聞くものを、実際に見たり聞いたりているように物語ってくれる。知合いに出合って挨拶する、車が音をたてて通り過ぎる、店頭に並んでいる菓子や果物は、かつて味わったこともないほどおいしそうに思われる。父はそれほどあらゆるものを詳しくいきいきと、まのあたりに見るように物語ることができたのである。こうして半時間も部屋のなかを歩くと、まるで一日じゅう外に出て歩きまわったように疲れてしまうのであった。
この「部屋のなかの散歩」は、セーレンに想像の楽しさを教え、こうしてたくましい想像力が養われた。(桝田啓三郎「キルケゴールの生涯と著作活動」、中公世界の名著『キルケゴール』)
キルケゴール幼少期のこのエピソードは非常に強い印象を残すけど、どう見ても虐待。そしてそれを抜けだせないキルケゴール自身に対しては複雑な感情が湧いてくる。キルケゴールはabused child。ミルは父親の死後に父親をつき離して見て、なんとか反抗することができたのに、キルケゴールはついに最後までできなかったようだ [1]この二人はいろんな意味で似ていて、そして対照的。 。桝田先生はどう考えてたのかな。こういうのに無批判なキルケゴール研究者は滅びればいいと思う[2] … Continue reading 。
以下は榎本先生によるキルケゴール幼少期の記録(うそ)。
榎本俊二先生の『ムーたち(1) (モーニング KC)』 [3]ちょうどこの回から『ムーさん』から『ムーたち』にタイトルが変更された。
ジョージ秋山先生は長年にわたって倫理学しているわけだが、2006年に榎本俊二先生ほど「哲学」している漫画家はいなかった。おそらく榎本先生はこのキルケゴールの話を知っていて、それをちゃんとした哲学漫画にしている。
上のキルケゴールの話のうすっぺらさを鋭く描きだしている。われわれの想像力なんてのは榎本先生の描く一枚の立て看板のようなものにすぎない。そう、想像だとあんまり遠くに行けないんだよね。すばらしい。天才。こういう才能を見るともうなんというか、天才として世界を見るってのがどういうことかってのがかいまみえて恐ろしい。次回作どうなるんだろうか。
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