第2章。
- 環境倫理はあんまり関心ないからまじめに読むのはむずかしい。
- 「環境主体」とかって言葉気になる。まあOK。
- 人間中心主義とか非人間中心主義やら、ここらへんの分け方もあれなんだけど。まあOK。
「非人間中心主義にしても、たんに利益の主体を人間以外の生き物に広げるだけなら、やはり利益と欲求を倫理の根拠とすることに変わりない。たしかにどの生き物も存続したいかもしれない。だが、生存したいなら生態系を守るべしというだけでは、カントふうにいえば道徳の命令ではなく利口の命令にとどまっている。それゆえ、人類の存続、あるいはまた、生命ないし自然の存在が真に倫理的な次元で尊重されるべきなら、人間中心主義や生命中心主義が論拠としている人間や生き物の欲求とは別の根拠が必要である。(p.35、強調江口。)
- これはまったくわからん。
- だいたい、これ判断の主体だれなんかな。私でいいのかな?
- 私が生きのこりたいから、そのために生態系やらとりあえず私の生きている環境を私の住みやすいように配慮する、ってのはたしかに私の私的な利益を考慮しているにすぎない。「楽しく生きたいから環境に配慮しよう」。
- 他の人間や他の生物の利益に配慮して、「みんながなるべく生きやすいようにしたいので、環境に配慮しよう」は完全に道徳的じゃないの?
- ん?カントがポイントなのか?
- 「みんながなるべく生きたいようにしたいのであれば、環境に配慮しろ」は仮言命法だから道徳の命法じゃないってこと?でも「みんなが楽しく生きられるようにしろ」という命令や要求自体は定言命法かもしれない。(まあ定言命法だの仮言命法だのって区別にそんな重大な意義はないと思うけどね。)
- 品川先生は、「真に倫理的」なのはカントみたいに形式的にのみ規程される無条件の命法じゃなきゃだめだ、とか思ってるんだろうか。もし本気ならこれはかなりすごい。
人類の存続すべき根拠、自然の存続すべき根拠—この二つは途方もない問いであり、しかも一見たがいに無縁な問いにみえる。(p.36)
- そうかなあ。なんかおおげさじゃないのかなあ。
- 私は自分の(人)生をよいものとみなしている。主としてそれは私の欲求や快楽や思考や感情、自己意識、その他の心的な活動のためかもしれん(まあここらへんはよくわからんが、いまはどうでもよい)。同様に他人や他の生物の生も(私とだいたい同じようなものだろうし私を特別あつかいする理由は特にないみたいだから)よいものとみなしていて、多くの感覚のある生物がなるべく楽しく暮らせることはよいことだ。ある程度知的で自分の感覚を楽しんだり、自分を反省したり、自由を味わったりすることができる生き物がいるのは特によいことだ。だから人類は(別に生物種としてのホモ・サピエンスじゃなくてもよい)存続すべきだし、他の感覚ある生物たちも楽しく存続するべきだ。感覚ある生物たちが楽しく生きるためには、感覚のない生物や無生物なんかの地球環境が必要だ。だから自然も(できれば現状に近い形で)存続してほしい。いま地球が隕石が衝突したり火山が大爆発したりして壊滅的な打撃を受けたら生物大絶滅かなんかが起こって哺乳類とかイチコロかもしれんし、そしたら現在の我々のように自分の生活を楽しむことができる生物まで進化するのにまた何億年もかかるかもしれんし、核兵器や原発事故とかで放射能とかそういうのをあれしてしまったら、もしかしたらもうそういう生物が生じることができなくなるかもしれん。人類の存続すべき根拠はわれわれの欲求と感覚に依存するし、それと自然が存続すべき根拠は密接に結びついている。こういうタイプの議論のどこに問題があるんだろう?
私の信じるところでは、もしわれわれが人類を滅亡させるならば—現在それは可能なのだが—この結果はほとんどのひとびとが考えているよりもずっと悪いものである。次の三つの結果を比べてみよう。
(1) 平和
(2) 世界の現存の人口の99パーセントを殺す核戦争
(3) 100パーセントを殺す戦争(2)は(1)より悪く、(3)は(2)よりも悪い。この二つの差はどちらが大きいだろうか?ほとんどの人は(1)と(2)の差の方が大きいと信じている。私は(2)と(3)の間の差の方がはるかに大きいと信じている。
(パーフィット『理由と人格―非人格性の倫理へ』p. 615)
- 私もパーフィットと同じように考えてる。おそらくこのレベルではなんらかの功利主義者であることを受けいれちゃってるからかもしれん(少なくとも善は大きければそれだけよい)。
- そもそも品川先生は「根拠づける」ってのをどういう意味で使っているんだろうな。私だったら「ふつうの欲求とかをもっているそこそこ合理的な人がよく考えたら納得できるよう論理的に説得する」ぐらいなんだけど。カントの「基礎づけ」だってそういうことを目標にしているわけなんでさ。でも品川先生はなんかもっとすごいことを考えているような気がする。
2.2
- ヨナス先生の議論なあ。私にはさっぱりポイントがわからんのだよな。
- どうしたらいいかなあ。
- 人間は他人や他の生物を配慮できる存在だ、そしてそれは(たいてい)よいことだ、われわれはできるかぎり他者を配慮するべきだ、他者を配慮できない奴はおかしいぞ、 ってことしか言ってないと思うんだけど。もちろんそれなら認めるんだけどね。品川先生の文章べたべた貼ってステップ追っていってもあんまり益があるとは思えないんだよなあ。どうしよう。
- 自然の目的論的解釈とかについてまじめにゆっくり考える気にはなれない。機械論でいいじゃん。
- ヨナス先生のはただの道徳的直観。いや、大事な直観だけどね。でもどこまでその直観が拡大されるべきなのかな。範囲はどうするのかな。そりゃ弱い者、困っているひとを助けない奴はだめ人間だわさ。ほっとかれてる赤ちゃんをケアする責任を感じないひとは通常の状況ではめったにいないと思うけど(誰もがもってる「惻隠の情」だ)、なんでゴキブリさんや大腸菌さんに責任感じないのかな。たんにヨナス先生はゴキブリさんに責任(あるいは配慮する義務)を感じないからじゃないのかな。われわれはふつうは責任を感じないけど実は感じるべき相手もいるんじゃないのかな。そういうのどうするんだろう。
2.3
- 上の最後の問いは当然の問いなので、2.3であつかう。主として討議倫理の人たちからの批判らしい。
- 「乳飲み子を世話する責任を感じないひとがいたならどうか。ちょうど共感を否定するひとにヒュームがしたように、反論を打ち切るという対応しかヨナスには残されていまい。」(p.41) ここ、勉学に萌える学生さんたちのためにヒュームにも出典つけてほしい。 『道徳原理の研究』の方だと思うけど調べるの面倒。実際学生さんはヨナスよりとりあえずヒューム読んだ方が得るところは多いんじゃないかな。
- カントの普遍化の話
誰もが自殺を格率として採用する事態、すなわちその格率を普遍的道徳法則とみなす事態を想定したならば、どうなるだろうか。それがたとえいかに現実離れした荒唐無稽な想定に思われるとしても、論理的には、人類の絶滅が結果するだろう。そうなれば、道徳ないし倫理について考える存在者はいなくなり、自殺が普遍的道徳法則に合致する格率であるかどうかという今問うている道徳的な問いそのものが問えなくなってしまう。それゆえ、道徳ないし倫理的な思考ならびに行為の成り立つ基盤を確保するためには、自殺は普遍妥当性をもつかという問いに否と答えなくてはなるまい。そう推論できる。(pp. 42-43)
- ふむー?カントの自殺の議論は(あやしげな目的論的枠組がないと)ぜんぜんだめだというのが定説だと思うんだけど(いやよく知らんけど)、これはさらにあやしい議論なんじゃないかな。なんでこういうことを考えるんだろう?「「可能なときはすぐに自殺するべし」という格率が普遍妥当性をもつか」という問いと、「そういう格率が普遍妥当性をもつかという問いを問うことが現実的に可能な状況(つまり理性的に判断できる存在者が存在している)が存在するべきか」という問いは論理的にはあんまり関係がないように思えるけどな。神様や天使とかいれば正しい判断してくれるんじゃないかな。あ、神様や天使様も自殺しちゃうのかな?みんな自殺しちゃうとだれも道徳について考えなくなるから死んじゃだめ、という議論なのかな。わからん。
- まあでもそういうイジワルな読みしすぎだよな。もっとカミュみたいな実存主義的な読みをするべきなんだろう。「俺は自殺するべきか?もうなにもかにも面倒だから自殺してもかまわんか?」と考えている中年男の立場で考えてみよう。
ヨナスの立てた問いは、人類が存続できるかという事実問題ではなく、存続すべきかという倫理の問題だった。人類がこの倫理的問いを問うことにみずから関与しているかぎり、つまり倫理的態度をとっているかぎり、「存続すべきではない」という答を選ぶならば、自分自身が今問うている倫理的な問いそのものを否定してしまうことになる。(p.43)
- これがそうなんだろう。でもどうかなあ。私がなにもかにも面倒なので、「自殺してもいいかな」と考えて、「借金はあるしこれから先楽しいこともないし、悲しむ人もいないし、誰も俺のこと気にしてないし、会社の連中は死ねばいいのにと思ってるし、他に社会的な悪影響もまったくないし、かまわんだろう」と考えた場合、なにか矛盾があるだろうか。わからん。おそらく上のような思考における事実認識はたいてい大きくまちがっている(借金は破産すりゃいいかもしれんし、破産してもそれなりに楽しいこともあるだろうし、悲しんだりショック受けたりするひともいるだろうし社会的影響もあるだろうし、本気でよろこぶひともたいしていないだろう)わけだけど、思考自体がどっか矛盾しているとは思えんなあ。わからん。それが言えるのは、そもそも「いかなる事情があれ自殺は道徳的に不正である」ということが前提にある場合だけだろう(私は現実世界ではたいていの自殺は自己利益に反してるだけでなく道徳的に不正だと思うので誤解なきよう。でもそれはアプリオリに決まってるわけじゃない。)。
第3章
- 品川先生の文学的センスが冴える章。
第4章
- この章は本全体では付録っぽいんだけど、気になるんだよな。
- まずうしろのドゥオーキンの生命の神聖さの議論なんだけど、これって正確なんだろうか?時々見るタイプの紹介なんだけど、ドゥオーキンが議論している文脈をはずしてしまっていて、あたかもドゥオーキンが「だから生命の神聖さって概念はまだまだ使える」と主張しているという誤解をまねく紹介になってるんじゃないだろうか。実際の彼の『ライフズ・ドミニオン―中絶と尊厳死そして個人の自由』の議論は「生命の神聖さって言う人びとがいるけど、そう感じる理由はきっと「投資」(とその回収)って考え方で説明できるかもね、そして神の投資とかって考え方は宗教的なもんだよね(だから憲法上はアレだよね)」ぐらいで、生命の神聖さとかってのを積極的に主張している議論ではないんじゃないのかな。すごく大きい本だし米国憲法の議論を離れるとわけわからなくなる議論なので、みんなあの箇所(第3章)だけ見て全体がどういう議論になっているか把握していないような気がする。(私も十分把握しているとはとても言えない)まちがってたらごめんなさい。
- ハーバーマスの議論の方は、ハーバーマス自身が遺伝子決定論みたいなわけわからんこと書いててもうどうにも議論について来れてないことを示しているんじゃないかってのはどっか他のところで書いたことがある。
- 4.5のところは何をやろうとしているのかわからん。
- カントも和辻も、けっきょく人格が特別な価値をもつのはなんらかの心的な能力をもつからだと主張しているように見えるが・・・
第5章「人間はいかなる意味で存続すべきか」
- もうヨナスの議論にはたいして興味がないんだけど、もうちょっとだけ復習。
なぜ、未来の人間に配慮すべきか。その根拠として、一般的には、未来世代にたいする私たちの愛・共感・共通の利害関心、あるいは、未来世代が私たち現在世代と等しく有する権利をもちだすこともできよう。だが、愛・共感・共通の利害関心が遠い未来世代にまでおよぶとは確証しがたい。また、まだ現存していない存在者に権利を授与することは困難である。(p.98)
- この問題意識が私にはわかりにくい。「確証しがたい」のところがポイントかなあ。
ヨナスの未来倫理は責任という原理に立脚する。責任が成り立つ構造を定式化しておこう。存在者Xが存在者Yにたいして責任を負うのはいかなるときか。ヨナスによれば、Yが存続の危機に脅かされており、Yの存否を制する力をXが有しているときに、XのYにたいする責任が生じる。核兵器や生態学的危機に対する現在世代の対処しだいで未来世代の存否が左右される以上、現在世代は未来世代にたいしてその存続について責任を負っている。銘記すべきは、責任が対等の関係ではなく、力の不均衡から生じる点である。とこで、同じ定式化からは、地球全体の生物にたいする人間の責任も帰結しうる。ヨナスはこう述べている。人類の存在は他の生物を含んだ全世界にとって喜ばしいことであるか恐るべきことか、その帳尻を考えれば、人類の存続を支持することはかなり難しい。それにもかかわらず、この帳尻とは別に、人類は存続すべきである、と。なぜなら、責任が存在する可能性を確保することこそ何より先行する責任だからだ。したがって、人類が存続すべき理由は、ヨナスによれば、人間のみが責任を感じ、責任を担いうるこの点にある。(pp. 98-99)
- やっぱり部屋に潜んでいるゴキ太郎にたいして私がどうすべきかわからんね。
- 存在者Xやら存在者Yやらは私とかゴキ太郎とかの個体じゃないのかもしれないなあ。
- 人類の存続が全世界にとって喜ばしいことかどうかよくわからん、とかってのになんか人類を罪深い存在と考えているのが見てとれるけど、そんな悪い奴らでもないと思いますよ。そもそもこの「全世界にとってよろこばしい」って誰の視点からのものなのよ。擬人化すぎないのかしら。
- 「責任が存在する可能性を確保することこそ責任だ」ってところ。責任(応答)ってそんないいもんなの?人類がとんでもない邪悪なやつらで他の生物に大迷惑かけても、やっぱり人類は責任を感じることができるから偉い、ってことなのかな。んじゃなんでその責任とやらはそんなに価値のあるもんなんだろうか。けっきょく人間のそういう一種の心的能力に価値があると認めざるをえないからなのかな。んじゃそういう心性もってない奴らは価値がないのかな。 でもそれはっきり書いてくれないとなあ。
- 私にはこの手の話を文字通りまじめに考える価値があるとはやっぱり思えないなあ。
- 私の心が汚れていたり、corruptしているからなの?やだなあ。
- いや、他人を尊重しましょう、弱いものを守り大事にしましょうはもちろんいいんだけど、なんでこんな奇妙な議論しなきゃならないのかがわからない。その程度のことを主張するために、この手のおおがかりな議論が必要だと感じる方が私には奇妙に見える。どっかおかしいですよ。
- ヨナス先生はもうだめ。ついて行けません。
- やっぱり私が主流派の「正義」の理論をよく理解してないからなのか。
- 品川先生にはGoodinのProtecting the Vulnerable: A Reanalysis of Our Social Responsibilitiesとか論評してほしいなあ。
- とにかくヨナス先生は私には難しすぎるので6章とかあとまわし。ケアの方行こう。
- あ、ここまで読んで気づいたんだけど、この本は段落落とす必要があるくらい長い引用がまったくない。短い語句や一行ぐらいの引用や、場所の参照は多いんだけど。これはつまり、品川先生が自分の読みに自信があることや、あんまり自分の読みの正当化に関心がないことを示しているのかもしれないと思う。まあスタイルの問題だけど、やっぱり重要なところはある程度しっかり引用してほしいと思う。
第7章
- ギリガンからその後のケア倫理の紹介はわかりやすくかつ正確でよい。
- いきなり読みやすくなる。やっぱりこっちから書きはじめてもらった方がよかったんではないかとか。
- そういや「ケア倫理」っていう言葉なんだけど。ethic of careとかfeminine ethicのethicって訳しにくいよなあ。初学者のためにethicsとethicの違いはどっかで解説してほしい。(見落したかな)他でも書いたけどhacker ethicとかのethic。倫理ってよりは「エートス」「価値観」「気質」なんかを指すんだろう。でもまあ「ケア倫理」しか訳しようがないか。”The ethics of care” (V. Heldの書名とか)とかになればこれは「ケアの倫理学」だわな。
- 「ケアの倫理と正義の倫理はたがいに独立で排除しあうのか。あるいは、一方が他方を統合するのか。それとも、両者は相補的な関係にあるのか。」(p.147)とりあえずはこれを考えたいという
わけだ。OK。 - 品川先生はこの問題を考えるために(1) 実証的次元と倫理的次元を分ける必要がある、と。さらに(2)倫理的な次元でも(1)ケアないし正義という規範的レベルでの対比と、倫理を基礎づける規程はケアか正義かという基礎づけレベルでの対比を区別する必要がある、 と。OK。よござんす*1。あとケア対正義という図式は、メタ倫理学における個別主義対公平主義にも対応するよ、と。うーん、まあOK。
- 細かいけどp.148。「性差が見出されたとしても、それを社会的な構成の産物とみなすか女性の本質とみなすかによって、その含意は大きく違ってくる。」 「本質」という言葉をこう軽く使われると当惑するなあ。できれば「それを学習や社会的な条件づけや強制の結果とみるか、なんらかの生物学的な基盤をもった統計的な偏りと見るか」とかだと気にならないんだけど(私ならこう書く)。まあなんにしてもこの手の話のなかで「生物学的な決定論」なんてのを主張しているひとはめったにいない。文章の好みの問題かな。そうじゃないような気がする。
- 1.5で突然フランクファート。(大庭健先生はフランクフルトと書いてるけどやっぱりフランクファートが正しいだろうなあ)。まあ使いたいのはわかるけど、このフランクファートの意味のケアを、ケア倫理とか議論している文脈でもってくるのはどうなんだろうなあ。フランクファート先生は哲学を「認識論」と「倫理学」と「なにについてケアすべきか」の三つに分けた、ってんだけど、私の解釈では最後のやつは単に(道徳外の)「価値の哲学」っていうかそういうやつだと思うんだが。国内の哲学業界では「倫理学」ってのはかなり広い領域で、へたすると美学や宗教哲学なんかも含んじゃうかもしれない分野なんだけど、英米系ではわりと狭く「道徳の哲学」あるいは社会規範の哲学てな扱いだからフランクファートはこう分類しているだけなんじゃないでしょうか。なんかどういうわけかここでシェーラーの名前が思いうかぶんだけど、あのひとがやってたようなやつなんか典型的なこの「なにをケアするべきか」っていう哲学のような気がする。フランクファートの文脈では、たとえば、数学における真理や美の発見を人生の最大の目標にしている人は数学をケアする人だし、キャンパスの芝生の葉っぱの数を数えることにとてつもない価値があると思ってるひとは 芝生の葉っぱの数をケアしている人なわけでなんじゃないかな*2。それをこの(ほぼ対人関係に限られていると思われる*3)ケア倫理の文脈にもってくると誤解されそうだ。まあいいか。使うならもっと別の箇所の方が適切だったんじゃないだろうか。
- 2.1のコールバーグの解釈の説明もOKだろうと思う。
- 「ケアの倫理の論理的な破綻」(pp.156-7)とかって表現もちょっと気になる。さっきethicの話書いたときにも思ってたんだけど、「ケア倫理」とかはおそらく「倫理学理論」そのものではないような気がするので、破綻したりしなかったりするもんじゃないような気がする。わからん。「ケア倫理だけにもとづいた倫理学は破綻する」とかならありそうかな。こういう細かいことばっかり気にするから某偉い先生からこの前叱られたんだよな。ケツの穴が小さい。拡張すべき?
注意しなくてはいけないのは、正義の倫理では、どの人間も「私」にとって等しく尊重すべき存在であるのにたいして、ケアの倫理では、どの人間も必ず誰かにケアされるべきことが主張されているのであって、「私」がすべての人間を等しくケアすることは要求されていないということである。(p.157)
- この一節はいろいろ検討する余地がある。参考は(1) D.D.ラファエルがゴドウィンを馬鹿にしてる箇所。(『道徳哲学』)(2) ヘアが普遍性と一般性の違いを議論している箇所。たくさんあるけど、Moral ThinkingだとLoyalityのところかな。
- そもそも品川先生が「正義の倫理」っていってるとき考えているのはやっぱりロールズなんだろうけど、それって個人の倫理判断じゃなくて法や社会制度に関する話なんじゃないのかな。対決させて大丈夫なのかな。上のような文章を見ると、品川先生が主に考えてるのは、社会制度ではなく、個人の意思決定とかあり方とかそういうものだってことがわかるような気がする。もちろんそれは非常に重要なので文句なし。
- まあ個人的な生活において功利主義だのカント主義だの討議倫理だのぶんまわすやつが まともな人間のはずがない*4。
功利主義は、道徳的義務のもつしばしば極めて人格的*5な性格、すなわち、それが特別の人格的な関係に基づいているという事実を無視している。この点は18世紀の功利主義者ウィリアム・ゴドウィンによって、みごとに—倒錯した仕方ではあるが—明らかにされている。ゴドウィンは言う、フェヌロン大司教の宮殿が火事になり、あなたは中に閉じこめられている二人、すなわち大司教と、たまたまあなたの母でもあるところの彼の部屋係の二人のうち、 一人しか救助する時間がないと想定してみよ、と。*6(略)正しい行為は、フェヌロンの方を救助することであろう、というのも、その方が人類にとってより多くの利益をもたらすであろうからである、とゴドウィンは続けるのである。(D.D.ラファエル『道徳哲学』、pp. 109-110、強調原文。)
- カント先生がお金借りに来たお姉さんに会わずに召使に追いかえさせたとかって鬼畜な話はなんで読んだんだっけか。中島義道先生かな?
- む、そうか。【急募!】もしこれ読んでいる大学院生の人とかMichael Stockerの “The Schizophrenia of Modern Ethical Theories”をすでに翻訳している人がいたらちょうだいちょうだい。くださいー。ちょうだいよー。へんな訳でもいいすから。っていうかどう考えてもJames RachelsのEthical Theoriesあたり翻訳出しとくべきだよな。けっきょくこの国では翻訳がないと話がすすまんのだ。
- はっ。私なにしてんだろう?ヒマ人すぐる。
- まあ今日はおしまい。第7章はそれほど問題を感じない。ルール重視の倫理学理論の
問題を的確に指摘していて、とてもよい。 - いちおうヘアも写経しておくか。 いつか授業で使うこともあるかもしれんし。
「功利主義はすべての人の選好を等しい重みを持つものとして扱う。したがって、功利主義は、すべての人がよいと認めて奨励するこうした特別の愛情(江口注。たとえば近親者に対するケアやそれに由来する身内ひいき)に対して全く重みを認めない説だから、拒否されなければならない」と主張されるとき、人びとが直観に訴えていることがいかに見えすいており、またそれがいかに疑わしいか—以上のことが(中略)示されているのである。特定の事例においてこれらの感情を奨励することがよいことであるかどうか、われわれはまず確信しなければならない。家族に対する忠誠心でさえ、実に多様な直観の例を提供している。ある国々においては、権力の座についた人が自分の一族の成員の利益をはかるためにその地位を利用しないことは悪いと考えられている。他の国々ではそうすることは縁故主義と呼ばれ、堕落と見なされている。そして、イギリスにおいてさえ、経済的に恵まれた父親が他の人びとには払えないほど金のかかる学校に自分の子どもを入れて、できるだけよい教育を与えようとするのが正しいかどうか、という問題が論争の対象となっている。
(略)
たとえば、ある母親が子供を生み、母性感情に促されてこの子を育てるものとする。しかしこの母性感情は他人の子供まで育てるようにはさせない、あるいはわが子と同じように育てるまでにはさせない。功利主義者はこの偏った愛を非難すべきであろうか?
直観的レベルでは、すべての正常な状況においてこの母親は称賛されるべきだ、と誰もが(極端で急進的なコミューンの唱道家とプラトンを除けば)考える。・・・われわれが批判的レベルに遡って、なぜその直観を教え込むべきなのか理由を問うとすれば、その答えは十分明白である。仮に母親が世界中のすべての子供たちを平等に世話する性癖を持っていたとすれば、子供たちは現に養育されているほどにはよく養育されそうにないのである。責任の希薄化は、責任そのものを弱めて消滅させてしまうだろう。 (ヘア『道徳的に考えること―レベル・方法・要点』p.203-5*7)
- 上の写経の最後の一文は、ヨナス先生とかどう思ってるか聞いてみたいところでもあるな。
- あれ、一般性と普遍性は『自由と理性』だったかな。いや『道徳的に考えること』の2.5か。もうちょっと詳しい場所が必要かも。
- あれ、昨日p.8のアリストテレスの正義のところ読みまちがえてたかな。ごめんなさい。あれ、いいのかな。わからん。問題はアリストテレスの1129a-30aあたりの「一般的正義」が「徳」なのかどうなんかなんだけど。わからん。「両者(徳と正義)は基本的に同じものであるが、それらのあり方は同じではなく、その同じものが他者と関係するかぎりにおいては、正義なのであり、そのような条件なしに、それがある特定の「状態」であるかぎりにおいては、徳である、ということなのである。」1130a。ふうむ。「関係するかぎりにおいて」ってのが行為とかそういうことと解釈してよいのかな。状態ヘクシスってのも社会状態とかにも使うものなのかどうか。使わんだろうな。まあこういうのは岩田先生の本でも見ないとわからんな。
- ほんとに今日の分おしまい。いろいろ勉強になりました。特にケアの方。
- そういや、この本7/21に合評会がある。http://www.arsvi.com/2000/0807.htm#21 。私営業で行けないんですわ。
<
div class=”footnote”>
*1:ただ「基礎づけ」がどういう意味かはちょっと気になる。
*2:まあそういうものをケアするべきなのかどうかがこの手の議論のおもしろいところだけど。こういう意味で人生においてなにを一番ケアするかってのはたしかに広い意味での倫理学の問題でもあるんだけど、狭い意味での倫理学から独立した問題でもある。
*3:この点はp.154で指摘されてる。
*4:ブログで「私は功利主義者として生きる」とか書いてるひとだって、実生活ではほんとはよいまともな人(のはず)。
*5:原語はおそらく personalだろう。「個人的」の方がいいんじゃないかな
*6:あたってないけど、『政治的正義』あたりらしい。このタイトルが「政治的正義」なのがまあ示唆的だよね。やっぱり政治とかの場合利害の葛藤とかあるってのが一番最初にあるんで、正義とかってのがどうしても道徳的ミニマムっていうかそういうのになっちゃうんだよな。これがおそらく品川先生が気にしているところでもあるっていうか問題というかなんというか。
*7:ゴドウィンの例の話はp.207。あれ、この注の訳なんかおかしいかもしれん。
- 品川哲彦先生のもゆっくり読もう(1)
- 品川哲彦先生のもゆっくり読もう(2)
- 品川哲彦先生のもゆっくり読もう(3)
- 品川哲彦先生のもゆっくり読もう(4)
- 品川哲彦先生のもゆっくり読もう(5)
- 品川哲彦先生のもゆっくり読もう(6)
- 品川哲彦先生のもゆっくり読もう(7)
- 品川先生:時間ぎれ
- 品川先生その後
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