安藤本 (7)


いつまでやってるんだ・・・本当にvery slow readerだな。自分で哲学できればいいのだが、私にはそれもできんし。

「現在主義」の正確な規定がわからん。ここらへんうまく書けてないみたい。

p.249の8.3.2.7の冒頭で2.3.3.1を指しているけど、この節はみあたらない。.3.3.1かな。

  • だらだら。快楽が欲求を変化させるってのは音楽のケースを考えるとわかりやすい。いったんその快楽を知れば、趣味が変化するし、それを聴こうとする欲求が生じる。
  • しかし音楽のことを考えると、快楽ってのは難しいもんだってのがわかる。音楽を享楽するときの快は、瞬間的なものではない。繰り返しとか変化とか構成とかそういう時間的要素が不可欠だもんね。音楽によって味わう快は必然的に時間的な広がりを持つ。
  • 安藤先生の痛みと快。
  • あなたは交通事故で四肢を損傷した。意識を取り戻したところ、それらの四肢の神経が死んでいないかどうかを調べるために医師が四肢に探り針をあてていくところである。痛みがあれば神経は死んでいないことになる。あなたは探り針によって痛みを感じそれに喜びを覚える。(p.144)

  • この例はなんか気になる。まあ肉体的・感覚的な快や苦痛を使って幸福なり厚生なりを考えようとするのは無理があるよなあ。でもなんでこの例が気になるんだろうな。痛みってのは多くの場合局所的で「どこが痛い」と言うことができる。でも快は(感覚的な快であっても)そういうことを言うことができないような気がするんだよな。「どこがいいんだ?言ってみろ!」「小指の先がとても気持ちいいです」とかってのはなにかナンセンスなところがある。マッサージされたときに気持ちいいのは肩や腰なんだろうか?
  • シジウィックやブラントは快を「それの持続や生起を欲求する」ってのがポイントだと考えるが、安藤先生はそれに反対。

    (安藤先生が推奨する外在主義的快楽説を受け入れれば)ある瞬間tにおいて望ましいとされた感覚経験Eが次の瞬間t’に於いて望ましからざるものとされることに全く矛盾はない。それゆえ、そのような場合にtに於いてEの持続は欲求されないが、それが快楽(幸福)であることを妨げるものはないのである。(p.146)

    具体的な事例はそこについている注。

    ゴスリングは香水の例を挙げている。香水を一吹きしてその匂いに快を感ずるとしても、その嗅覚の感覚が持続すれば不快であるだろう。

    ってことらしい。ほんとかな?

  • 香水の例は感覚的な快だから不適切な感じがするのかな?嗅覚の快はわりと特殊な感じがするからかな。嗅覚は新しい刺激に特に敏感だからか?むしろ不快の方が重要な感覚だからかな。
  • ここらへんが気になるのは、例のミルが幸福な生活の二大要素とした「平静」と「興奮」を考えているからなわけだが。
  • 彼らのいう幸福とは、歓喜の生活ではなかった。数少ない一時的な苦痛と、数多くのさまざまな快楽とからなり、受動的な快楽より能動的なものが圧倒的に多く、しかも全体の基調として、人生が与えうる以上を人生に期待しないという態度をもつような生存のなかにある、歓喜の幾瞬間を意味したのである。*1

    The happiness which they meant was not a life of rapture; but moments of such, in an existence made up of few and transitory pains, many and various pleasures, with a decided predominance of the active over the passive, and having as the foundation of the whole, not to expect more from life than it is capable of bestowing.

    (略)

    満足した生活のおもな内容は二つあり、そのどちらか一方だけで、しばしば目的を達するのに十分である。その二つとは、平静と興奮である。平静さが豊かに恵まれておれば、ほんのわずかの快楽で満足できよう。興奮が多ければ、かなりの量の苦痛にも満足できる。・・・この二つは両立しないどころか、自然に結びつくものであり、一方が長びけば他方が準備され、他方を熱望させるはずのものだからである。(世界の名著〈49〉ベンサム,J.S.ミル (1979年) (中公バックス) p. 474)

    The main constituents of a satisfied life appear to be two, either of which by itself is often found sufficient for the purpose: tranquillity, and excitement. With much tranquillity, many find that
    they can be content with very little pleasure: with much excitement, many can reconcile themselves to a considerable quantity of pain. There is assuredly no inherent impossibility in enabling even the mass of mankind to unite both; since the two are so far from being incompatible that they are in natural alliance, the prolongation of either being a preparation for, and exciting a wish for, the other.

  • どういう刺激が望ましい(欲しい)かはそれまでどういう生活を送っているかによって左右される。
  • 別にこれが安藤先生の立場と対立するもんだってわけじゃないけど、どうしたって幸福を考えるときには時間的要素がはいらないわけにはいかんような気がするな。whole life satisfactionを考えるのはあんまり意味がないとしても、ある程度の持続をもった実体のようなものとして考えざるをえない。だからどうなのかはよくわからない。私が安藤先生の立場をよく理解していないからだろう。
  • たしかにさっきの引用での安藤先生の指摘は正しいように見える。でもある感覚Eがtとt’で扱いが違うのは、やっぱりそれを通底している欲求なりなんなりがあっての話じゃないのか。たとえば、私はtではEを味わいたいが、t’ではその感覚を味わいたくない、とかって欲求なり価値観なりがバックにないか?ちがうか。わからん。

  • 香水の例。やっぱり私には、快が快であるかぎり、常にそれの持続か再起を望むように思えるな。香水の場合であれば、「またこの匂いをこの状態で
    嗅ぎたい」「あの匂いをあの状態で嗅ぎたい」と思うんじゃないかな。もちろん、ずーっとそれを味わいたいと思うかどうかは別。嗅覚とか鈍ってしまうから、「フレッシュな鼻で嗅ぎたい」と思いそう。快一般について、「あの快は私自身が変わってしまったから二度と味わうことはできないけれども、もしもういちどその状態に戻ることができたら、また味わいたい」と思いそうだ。

  • 難しすぎ。
  • 快楽名人いいなあ。安藤先生はこの本書いてかなり快楽味わってるね。私の40年分をはるかに越えてるね。
  • 功利主義の魅力ってのははっきりしている。見かけのシンプルさ。そして私にとっては、こういう価値論を含まざるをえないところ。ほんとは、(少なくとも人々の幸福や善行になんらかの価値を認めるかぎり)ほとんどすべての倫理学理論が価値論を含まないとならんわけだが、その他の立場に立つひとはなかなかそうしてくれんもんね。
  • 安藤先生の「単純簡素な功利主義より複雑な諸理論をある程度自己に理解可能な形で敷衍しようと試みる」のはたいへんだ(p.251)ってのはほんとうにそうなんだよな。シンガー先生なんかも「功利主義より複雑なこと言おうとするんならとにかくやってみろ」とかそういうこと言ってる。まったくだ。
  • あれ、私なんで功利主義だの快楽説だのっての勉強してるんだろう?いつのまにか邪悪な陣営にとりこまれているような・・・
  • なるほど、FeldmanのIAH (Intrinsic Attitudinal Hedonism)とSubjective Desire Satisfaction説は実質的に同じものだという論文があるな。Chris Heathwood, “Desire Satisfactionism and Hedonism”。他にも”Attitudinal Hedonism”で調べると山ほど論文が出てる。善の理論としてはここらへんが今旬な感じなのか。なんでも取りこめそうだもんね。客観リスト説にも魅力はあるんだけどな。最終的には快楽説か欲求説のどちらかにとりこまれることになるんだろう。
  • こういうときに大関級以上の大学にいないのは不利だな。まあ勉強不足だからしょうがない。
  • moral scienceとhumanitiesとかってことについてちょっと考えたり。倫理学ももうscienceの仲間。私は人文学の一部としての倫理学の方が好き。バーナード・ウィリアムズのファンが多いのは(特に北大まわり多いようだが)、やっぱりそうものに対するあこがれがあってね。アラスデア・マッキンタイアやチャールズ・テイラーなんかも好きなのはそういう人々。私も好き。そういう過去の自分との整合性もとらなきゃならんのかな。そういう感じがするな。それはそういう態度をとっていた方が態度的快楽を味わいやすいからなのかな。
  • なんか文章中に記号が入ってくると萎えるんよね。IAHだのDHだの。AAIHだのTAIAHだのMDAIAHだの。フェルドマン死ね。なんというか、テンポラリメモリをそれだけで使いきっちゃう感じがある。記号使うやつは付録として、栞として使える取り外し一覧表をつけろ。なくしても作りなおせるようにwebでも公開とか義務づける。「本論文のための特製栞・一覧表はhttp:~で手に入ります」とか。これいいなあ。
  • マイケル・スミスやホーガンとティモンズ読んだときも本気で死にそうだったな。「こんな記号見なきゃならないなら、もう倫理学とかしなくていいし」とか言いたくなる。文章も無味乾燥って感じでね。(安藤先生のはそれほど乾燥してない。)
  • CamelNameとかってのを使ってくれればその方がいいんじゃないのかな。IntrinsicAttitudinalHedonismと書く。長すぎるか。IntrAttHednぐらいでどうか。
  • 日本語の場合は漢字だとなんとかなるのかな。「内態快説」とか「行功説」とか。これならなんとかなりそうな気がしてくるな。でも内在的態度快楽説、行為功利主義で十分かも。「的」はいらんな。安藤先生のは時点極小間接態度快楽功利主義でいいじゃん。
  • あれ、パーフィットのときはそれほど気にならなかったか。いや、そうでないか。わりと何度も要所要所で記号の意味を書いてくれてたからかな?
  • 快楽ってのは多ければ多いほどよいのかとかやっぱり考えちゃうね。年がら年中恍惚としている人生は送りたくない。でもそれは恍惚としている状態に対してあんまりpro-attitudeもってないからってわけか。
  • フロイトの末期。癌で苦しみながらも、なんかまともに考えるために麻酔を拒否している自分の状態に対してpro-attitude持ってたかといわれれば、それは持ってたんだろけど、それ快楽なんかね。たんに言葉の問題なのかな。
  • フロイトに「それはいい感じですか?」と聞けば「いや、苦しい」と答えるわなあ。「麻酔で恍惚としているのとそうやって苦しんでいるのとどちらがいいですか?」と聞けば、「こうやって苦しんでいる方がいい」と答えるだろう。「んじゃ、フロイト先生、そうやって苦しんでいる方にあなたは快を感じているわけです」とつっこんだら、なんか殴られそうだ。なぜだろう?
  • あれ、やっぱりなんか比較の対象が必要だってことなのかな?選好preferenceが基本的なのかな?わからんなあ。
  • ここらへんぼんやりと考えながら人生が過ぎていくのはどうなのよ、という気もする。

*1:この訳には問題がありそうな気がする。moments of suchのsuchはraptureかな?a lifeじゃないのかなあ。

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