安藤本 (6)

うーん。

  • Repugnant Conclusionわからん。

    既に見たように、我々は間接帰結主義の行為選択モデルに於いて時点主義と極小化主義を選んだのであった。問題になっている新たな感性主体が存在するようになる前の時点の世界の事態を考えよう。それらのどの時点での事態も新たな感性主体を未だ含んでおらず、それらの事態が含む厚生に新たな感性主体の厚生は含まれていない。(p.121)

    はい。

    従って、自らの極小行為によって感性主体が存在するか否かが決するようになるその最後の瞬間になるまで、認識的理想主体の行為決定に新たな感性主体の厚生は効いてこない。

    はい。

    だが、その最後の瞬間のような状況に追い込まれるような行為経路を認識的理想主体が辿るだろうと考えるべき功利主義的理由は特にないので、いわゆる「いとわしき結論(repugnant conclusion)」に向かってこの行為者が突き進むべきだと考える理由は客観的正しさのレベルでも存在しない。

    はあ。 Repugnant conclusionってそういう話でしたっけか。この問題はやっぱり政策とかのレベル*1で問題になるわけだから、こういう逃げ方はできないような気がするのだが。わからん。
    あ、注では「人口と未来世代を巡る功利主義の様々な問題を巡る~展開は扱わない」って書いてるから、まあ扱わないということだな。そりゃしょうがないね。上のような議論して実質的な問題扱わないのはどうなんだろうな。

  • 10.2.2.2。基礎快と構成快。他者危害原理の問題を扱うには(実践的には)こういうおおまかな分類がやっぱり必要になるとか。まあそうだろうな。どうしたってこの手の区別が必要になる。大事なやつとそれほど大事じゃないやつ。変えられるやつとあんまり変えられないやつ。私には安藤先生があげてる四つのF以外にも、健康、知識、美的経験、友情、遊びとかってのもほとんど基礎快の対象に見える。成長や発展とかさえ。でもこういう区別をはじめちゃうると、なんからの客観リスト説やinformed desire説に近づいているのを感じるな。でも安藤先生は違うぞと言うだろうな。
  • あれ、上、ぜんぜん違うぞ。四つのFは基本的欲求かもしれんが、安藤先生の「基礎快」ではないぞ。安藤先生は「自尊」とかも基礎快に近いところに入れてるし。私が問題を読みまちがえている。
  • やっぱりどうにもこうにも歯が立たないなあ。
  • ある経験が意識主体に快をもたらすか否かは我々の自由にはならない。私が忌避し全く欲求していないものですら、経験されるならば多大な快楽をもたらし、我々の欲求プロファイルを根底から組み替えてしまうかも知れない。それは崇高な行為への欲求を生み出すものでもあり、悪魔的な行為へと人を駆り立てるものでもあり、或いは極めて卑俗な行為に人をして耽溺せしめるものである。快楽は快楽主体の恣意的な選択など全く踏み越えてしまうものなのだ。我々を根本的に組み替えてしまうような契機に対して快楽説は常に開かれている。なにやらせせこましい「インテグリティ」に執着して自閉する立場と快楽説が根本的に異なっていることが注意されるべきである。(p.267)

    かっこいいねえ。こういうのを書ける人は食わず嫌いに悩んだりしないんだろうな。

*1:セックスやマスターベーションや射精とかの個人的極小(?)行為の問題ではなく・・・

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