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スピーチ評価用紙を作り直した

前に「少人数なら学生様にショートスピーチしてもらう」ていう記事を書いたのですが、その続き。

この前ね、大学コンソーシアム京都ってのの仕事振られて、インターンシップ生の面倒を見るって仕事したんですわ。これはいろいろ勉強になりました。

各大学(おもに私立中堅校)からの学生様が集まって2日ぐらいみっちりゼミのような形でインターン行く業界や会社について調べて発表したり、マナー講座受けたりして、コンソーシアムが契約している企業様のところで2週間〜3週間ぐらい勉強させてもらっていうやつです。

私はどういうわけかホテル業界の学生様たちの面倒を見ることになって、ちょっとだけ私も勉強しました。おもしろいですね。

んでこの前研修後のゼミがあって、そこでインターン先でやってもらった座学セミナーの資料も見せてもらったんですが、これもおもしろかった。その資料を作った某社の部長さんは二度お目にかかったんだけど、もう業界のプロフェッショナルって感じで迫力がある。見識とか大学でも学部長クラスだな、みたいな。

んでその資料見たら、やっぱり「第一印象は大事」とか「笑顔や姿勢や発声の練習しろ」「訓練に1分間スピーチビデオにとって評価しろ」とかの教示や訓練があって、あれ私と同じことやってるな、みたいにちょっと自信がつきました。

んで前に書いてたスピーチ評価用紙も、これまた前に書いた出来具合表(ルーブリック)の考え方で作り直してみたり。

まあこういうの、なんで私がやってんだという気もするわけですが、学生様にとってはやっぱり死活問題だし、そういうのができるようになると勉強のディスカッションもうまくいくようになるだろうと思うし。てか、正直なところ、話し方ができないうちはディスカッションもできなくて苦しんでるところもあるわけです。そういうんで、1・2回生ぐらいでも前期・後期の最初の方ではそういう訓練しないとね、ってな感じ。

まあ実際につかってもうすこし試行錯誤する必要があるけど、PDFとPagesのファイル置いとくので、必要なひとは適当に使ってください。

スピーチ評価ルーブリック(PDF)

speech(pages)

 

A4で作ったけど、縮小してA4に2枚分印刷して裁断してできあがり。受講生*(受講生-1)の枚数を使うのでけっこう枚数必要になります。

 

汚い机の上が恥ずかしい


大福帳を自分で作ってみた

長いこと向後先生の大福帳テンプレートを使わせていただいていたのですが、学部・学科を書く欄がないのがちょっと不便だったので同じものを自分でも作ってみました。そんだけ。

大福帳20170915 (PDF)

Pagesで作ったので改造に必要なひとはファイルあげます。大福帳試作


欅坂の「月曜日の朝、スカートを切られた」も名曲

「月曜の朝、スカートを切られた」も名曲。

なんかこんな感じで秋元康先生の作詞した曲が非難されていました。まあ先生について好き嫌いはあっても才能がないってことはないだろう、ってんでPVで聞いてみたんですが、拙者、一発で打ちのめされましたグホぉ。これは一流の職人さんたちによる最高級の作品ではないですか。歌詞はこっち。 作曲は饗庭純先生。

 

イントロはDのペダル(持続する低音)のうえでDm – C – Bb – C ってやるよくあるやつ、でもこのDmを中心にしたペダルって、いろいろ因縁があって、一番有名なのはオーネット・コールマン先生のLonely Womanですね。Dのペダルってんで、そこそこ詳しい人は誰でも連想するんちゃうかな。あ、もっと有名なのがあった。ドアーズのジ・エンド。でもまあDの上にDm C Bb Cってトライアド(三和音)のせるのはよくつかうやつです。この進行だと不穏なDmは強く感じるけど、まだそれが主調なのかどうかはよくわからない 1)あとDmつまりニ短調で有名なのはモーツァルトのピアノ協奏曲20番とか、『ドンジョヴァンニ』の序曲と地獄堕ちとか。。こう、デモーニッシュっていうか暗くて情熱的な調性だと意識されてる感じ。

んで、Aメロの歌詞はごくふつうの中二病ね。

「どうして学校へいかなきゃいけない〜」とかまあベタな感じ。拙者はアイドルグループうといのですが、AKBとかにくらべて坂の方はネガティブで抑圧された曲が多く、歌詞も男子一人称が基本だと思ってて、そういうつもりで聞いてました。

コード進行はDm Bb F Cを4回繰り返していて、よくあるパターン。こういうののキーがなんであるのかは拙者いまだによくわかってません。VIm-IV-I-Vなんかな。6415。基本的にはFがキーだと思うんだけど、Dmにも思える。2拍ずつコードが進行していて、あるエネルギーというか活発さがある。イライラというネガティブなエネルギーだけどね。

Bメロはすごくよくて、わたしそこでいかれました。

歌詞は「反抗したいほど熱いものものもなくうけいれてしまうほど従順でもなくあと何年だろうここから出るには……大人になるため嘘になれろ!」いいじゃないっすか。

コード進行は Bb C Am Dm Bb Am Gm A(A7)だけど、各コードがAメロの倍の長さになってる。AmやGmていうそれまで出てこなかったコードが出てきて、やっとキーがFだっていうのがはっきりする。語り手のある覚悟みたいなのが出てくる感じね。ところが最後でA7が鳴ることによって実は本当のキーはDmなのだ、って宣言されるところがこの曲のミソですわね。ベタだけど拙者は感動しますね。そして、でもA7からDmへの自然な落下という予定調和、というより宿命は、最後まで拒否されるのです。どんなにA7が強力でも、Dmに落ちちゃうことは受け入れないのだ。

ここまででもう主人公は言うべきことをすべて言っていて、2コーラス目の「月曜の朝スカート切られた」ってのはもう実はなんでもいい。

本当は、「月曜の朝トイレにとじこめられた」でも「同級生にカツアゲされた」でも「いやがってるのにコブラツイストきめられた」でも、気の弱い男子があいそうな災難だったらなんでもいいわけだけど、それじゃ情けなすぎて歌にならんしょ。「実は女子の歌でした」ってな感じにしてなんとか歌としての形をたもってると拙者は聞きましたね。

「トゥシューズに画鋲いれられた」でもよかったのかもしれないけど、それだと女子どうしのあれな関係を考えちゃうから 2)そしてそれを連想すると、んじゃこのグループはどうなっているのか、とか考えちゃうし。 、まあわかりやすい卑劣な犯罪ってのでスカート切りぐらい使うのは選択として悪くないと思う。「学校のおばちゃん先生からスカート丈についてぐちぐち説教された」ではやはり歌にならんし。スカート切りぐらいわかりやすい邪悪な存在じゃないとね。だれもスカート切りを擁護しようなんてこと考えないっしょ。

まあ、われわれが出会う理不尽な出来事だったらなんでもよい。そして、われわれはそれには慣れているのです。悲鳴なんかあげてる場合ではないです(もちろんここで主調のDmへ導くA7が鳴る)。どうしても生き延びるのです。だってこれから先も、満員電車みたいな教室や職場でどうしても生き延びなきゃならんのですから。こんなクソみたいな場所は、生き延びれば勝ちなのですからね。

この歌詞はものすごくベタで、実際にこの世界を生きている人間は、こうしたベタな思考さえがいまではネットでも解体されて中二病と名付けられていることを知っているわけです。真実がネットで見つかるわけがないのもわかってる。こんなぐだぐだ定型の反抗をすることさえ、いまの若者たちはできないんじゃないかな。「いじめられても悲鳴はあげません」みたいな誇りでさえぐしゃぐしゃにされている。でもだからこそこういう歌が訴えるところがあるわけでね。

何回か聴き直すと、Bメロは(若手の?)男性ボーカルがうっすら残っていて、これはあえて残してますわね。男子の叫びでもあるわけよ。でも今はもうそれじゃ歌にならない。いまどき、男子が「大人も社会もクソだ、僕はいじめられても負けない」とか歌ってたって馬鹿じゃん?女子アイドルならまだいける。最後のリバーブとか切って生々しくした「あんたは私の何を知る?」っていう叫びみたいなのでさえ、もうわれわれは素では歌えないでしょ。

悲鳴はあげない。でも「悲鳴はあげない」ってしか言ってないってことに気づいてましたか?もちろん、この場合はスカート切られてしまってるわけだから、悲鳴あげたってしょうがない。悲鳴ってのは、パニくって、他人からの援助をもとめることだからね。こんな嘘だらけのクソな世界で生きていくには、悲鳴なんかあげたってしょうがないのだ。そのまま我慢することもあるだろうし、警察に行くこともあるだろうし、他のもっと直接的な対応を考えることもあるかもしれない。でも悲鳴なんかあげないのだ。そういう歌っしょ。痴漢にあってるその時点の歌じゃないよ。

こんな名曲、才能がないとかいったいなに聞いてるんですか。

まあでも私「坂」の演出とかはあんまり好きではないです。そういや、「君の名は希望」とかについて昔書きました


References   [ + ]

1. あとDmつまりニ短調で有名なのはモーツァルトのピアノ協奏曲20番とか、『ドンジョヴァンニ』の序曲と地獄堕ちとか。。こう、デモーニッシュっていうか暗くて情熱的な調性だと意識されてる感じ。
2. そしてそれを連想すると、んじゃこのグループはどうなっているのか、とか考えちゃうし。

(個別の事務的な)質問の前には名前や所属を教えてください

えー、これはお説教というよりはお願いなのですが、大人数講義が終わった後に教員に質問に来るときは、最初に所属とか名前とか言ってもらえると対応が楽です。

「あのー、しばらく欠席してたのでレポート返却してもらってないんですが……」(ずいぶん前の話だな、なんでいままでとりにこなかったのだろう、ごちゃごちゃの書類の山に埋もれてしまったか)「え、ああ、悪かったですね、……えと、名前なんでしたっけ、学部は、学生証番号は?いや口で言われても覚えられないからメモかなんか書いてもらうか、メールしてもらえないかしら」とかやるのはけっこうしんどいものです。

最初に「〜学部の〜です、欠席してたので」だと(あ、なんかの実習かな)とかで反応がちがったりする。「4回生の〜です」とかだと(就活とかたいへんだったのかな、しょうがないな)みたいな心の準備もできたりするし。

まあ授業後にかぎらず、各種の用事で研究室に来たり、道端で声をかけるときも、「〜学部の〜とかです、〜の講義を受講しているのですが」とかからはじめてもらうと楽です。「3回生の〜ゼミの」とかもよい情報で、(あー、〜先生には世話なってるからいろいろ配慮しないとな)ぐらいのこと考えたりする(まあそういうのあんまり考えちゃだめなんだけど)。

高校まではネームプレートつけてたり、座席表があったり、クラスの人数がせいぜい50人ぐらいで教師の方も名前をおぼえやすいし、おぼえてなくてもおぼえてるふりはしやすいのですが、150人とか200人とかの授業15回程度で、教員が顔と名前覚えるのは無理ですわ。基本的にはあなたたちの名前も顔もおぼえてないと思ってください。これはもうしわけない。

んで、まあ匿名の人と話すというのは心理的圧迫があるし、名前を聞くというのもかなりエネルギーを必要とすることなんですわ。そういうわけで、最初に名前なのってもらうとかなり楽です。

まあついでなので、もうちょっと講義終了後の教員の心理について書いてみます。

1時間半の講義が終わった時というのはたいていの教員は各種のエネルギーを使い果たしてます。面倒な勉強話をしなければならないのに加え、学生様が退屈してないかとか、室温は適切かとか、居眠りされていやだなあとか、私語しているやつをどうするかとか、まあそういうことをいろいろ考えながらやるので、体力的にも精神的にもカラータイマーがピコピコ言ってます。「はらへり」「とにかく喉がかわいた」「ビール飲みたい」「あれ俺もアル中じゃないだろうか」とかってこと考えたり。

こういうのに加えて、終了後は、説明は分かりやすかったろうか、混乱させたのではないか。あれとあれを結びつければよかったぞ、次はそうしようとかの授業の反省に加え、場合いよっては、研究のアイディアを見つけたぞ!みたいなときもあるのです。入門用の講義でも、話しているうちにけっこう勉強的に重要な発見をすることがあって、そういうのは研究者としての教員にとってものすごく大事なのね。基本的に講義終了直後はあたまが学問の世界に入ってる場合がおおい。だから講義内容に関する質問はわりと、自分の発想その他を発展させたりできるので嬉しかったりもします。

でもそういうタイミングで、「レポートが」「欠席何回までOKですか」「私何回休んでますか」みたいな事務的なことを尋ねられると頭が混乱してひどいことになちゃったり。これ私だけですかね。

まあそういうわけで、講義直後の教員はいろいろあれな状態になってるので、ちょっとだけやさしくしてください。最初に名前や所属おしえてくれるだけでずいぶん楽になるのです。

まあ実は、事務相手でもどこでも、相手が自分が誰だかわかってないかもしれないってときは、つねに自分の名前名乗るところから始めるのが基本だと思ってよいです。あとマスクはずしておいてね。


新しいレポートの「指定の表紙」ニューバージョン

新しいレポートの「指定の表紙」で作ってみた表紙(できぐあい表/ルーブリックもどき)ですが、実際につかってみると使いにくいところがあったので期末用に新しいバージョンを作ってみました。

PDFはこちら。

https://www.dropbox.com/s/06asvsyiovx6l49/%E3%83%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88%E8%A1%A8%E7%B4%992017.pages.pdf?dl=0


『不安の概念』(15) 人間は心的なものと肉体的なものの総合である

『不安の概念』読み直すの、もう完全に飽きてるんですが、まあ第1章ぐらいおわらないとね。

第1章の第5節〜6節では、『死に至る病』で主要テーマとして扱われる「人間は総合だ」とかってのが頻出するわけですが、これをどう解釈するかってのもまあいろいろ面倒ですね。

第5節だと「人間は心的なものと肉体的なものとの総合である、しかしこのふたつのものが、もしも第三のものに統一されなければ、総合ということは考えられない。この第三のものが総合である」言われるわけです。んで、第6節ではこんな感じ。

(アダムの堕罪の)結果は、罪がこの世にやってきたこと、性的なものが定立されたことの二重のものであった。一方のものは他のものから切りはなすことはできない。人間の根源的な状態を示すためには、このことは比べ物にならないほど大切である。人間が第三のものに説いて安らうひとつの総合でなかったとすれば、ひとつのことがふたつの結果を生むはずはなかったであろう。人間が精神をささえとした心と肉体の総合でなかったとすれば、性的なものが罪性とともに入ってくることはなかったであろう。

アダムは「知恵の木の実を食べちゃだめです」って言われて、それの意味がわからなかったけど不安になった。でもなにが不安なのかもわからない。んでどういうわけか知恵の木の実を食べちゃって、知恵がついちゃって初めて自分が罪を犯してしまったことを知る、とそういう言うことだったわけです。それ以降アダム(とその子孫)は知恵がついちゃって、かつ、罪への傾向性っていうか神様に逆らったりエッチなことを考えたりできるようになってしまいました。この変化は「質的飛躍」だそうな。まあ最初の罪を犯す前と後では「無垢」であるか「罪人」であるか質が変わっちゃってるわけですね。

そりゃまあわかるんだけど、問題は「心と肉体の精神による総合」みたいなのをどう理解するんかねえ。ここの文脈では、「精神」がなんだかわからないだけじゃなく、「心」もよくわからんのですよ。

無垢においては、アダムは精神としては夢見る精神であった。だからその総合は現実的ではなかった。なぜなら、結びつける役をつとめるのは他ならぬ精神であるのに、その精神がいまだ精神として定率されていないからである。動物にあっては、性的区別は本能として芽生えるが、人間の方はそうしたやり方で性的区別をもつわけにはいかない。人間こそまさしく総合だからである。精神は自分自身を定立する瞬間に、総合を定立する。だが、精神はまずその総合をかきわけて区別しなければならない。そして感性的なものの極限が性的なものにほかならない。人間は精神が現実的となる瞬間に、はじめてこの極限に達することができる。それ以前には、人間は動物ではないにしても、さりとて本当の意味で人間でもない。彼が人間となる瞬間に、はじえて同時に動物でもあることを通して人間となるのである。

「精神」もわからんけど、これはとりあえず自己意識、自己反省や自己創造の能力かあるいはその発揮とかそういうんじゃないかとぼんやり考えてる。まあキェルケゴールはそれがなんであるか(おそらく)どこでも説明してないから、だいたいこうなんだろうな、って考えるしかないと思ってますです。いま私が困ってるのは「心と肉体」ってときの「心」の方ですわ。肉体はまあ動物なら誰でも持ってるこのあれでしょうな。それに対立する「心」となると、デカルト的な意識なんかね。意識、感覚、思考、欲求とかを指すのか、そういうものをもつなんらかの実体みたいなのを考えているのかもまあよくわからない。ここで、キェルケゴールが動物が「心」をもってると考えてるのか、それともデカルトみたいに単なる肉体機械みたいに考えてるのか教えてくれればちょっとましになるような気がするんだけど、そういうのも見つからない。

「性的区別」と訳されているのはden sexuelle Forskjellighed、the sexual difference、性差ですなあ。「動物においては性差は本能的に発達する」みたいな感じ。この「本能」もわからんけど、なんも考えずに生得的に、ぐらいでいいっすか。動物は自分がオスだとかメスだとか考えなくてもちゃんと性的な活動ができるよういなるけど、人間はそうじゃないっしょ、ってなことを言おうとしているんすかね。なんでかというと、人間は自己反省する動物であって、自分がオスだとかメスだとか自覚したり、メスの体をみてみたいなあとか触ってみたいなあとかって欲求を自覚したり、この体についているこの部分をあれするとあれだなあ、あれをあれにあれするのか、とかそういうのを知識として身につけないと性的活動ができない、まあそういうことを言おうとしているんですかね。

そしてキェルケゴールではそれが「罪」ってのと深く結びついていて、罪ぬきのセックス、セックス抜きの罪みたいなのが考えることさえできない、ってんですかね。

 


『不安の概念』(14) 「自由」はいわゆる積極的自由だと思うの

前エントリのキェルケゴール(実は『不安の概念』の著者ヴィギリウス・ハウフニエンシス、またの名を「コペンハーゲンの夜警人」)の「自由」は強制されない自由か、するべきこと/ただしいことをする自由か、ていう問題はけっこう大きな問題なわけだけど、次の箇所では正しいことをする自由の方だと読めるんじゃないかと思う。まあ同じ問題は残ってるんだけど。

さて、もし禁断が欲情を目覚ますものとすれば、無知のかわりにひとつの知をえることになる。なぜなら、その欲望が自由を行使することにあったとすれば、アダムはすでに自由についての知識をもっていたはずだからである。

この田淵訳では「欲情」と「欲望」って訳し分けてるけど、どっちもLysten、the lustあるいはthe desireね。まえに「欲情」って訳したのはconcpiscentiaなので、もっと一般的な欲求・欲望を指しているかもしれない。これも面倒ねえ。キェルケゴール先生あんまり推敲しない人だったので、ここらへんは執筆上の不整合があるかもしれず、なんとも言えない感じもあるけど、まあとにかく禁止がアダムに(善悪にかかわらず)欲望を呼び起こすとして、それが正しいことをしたいという欲望だと考えることはできない、なぜなら、「正しいことをしたい」っていう欲望はなにが正しくてなにが正しくないかを前提とするからね、ってな議論だと思う。ただしこれは「悪いことをしたい」という欲望と考えても同じことが言えちゃうね。どっちにしてもアダムがほんとに善悪について無知ならよいことをしたいともわるいことをしたいとも思わないはずだ、ってのがキェルケゴールの言いたいことのはず。

さて、ここで自由は強制されないという意味なのか、あるいは正しいことをするという意味なのか、とかんがえると、まあ正しいことをする方だろうねえ、ってのが私の根拠の一つなわけです。かなり危うい解釈だけど、理解してもらえるかしらねえ。

……自由の可能性をアダムに目覚めさせるからこそ、禁断は彼を不安に陥れるのである。

そう読んでくると、この「自由」は正しいことをする自由であり、サルトル的な根源的自由、なんでもする自由ではない。実は昼間、Patric Gardiner先生のKirkegaard邦訳)をぱらぱらめくってたんですが、彼も「『不安の概念』の議論はサルトルみたいな世俗的な思想家のキェルケゴール解釈によるものとはぜんぜん違うよ」っていう意味のことを言ってて安心しました。ただ「自由」が私の考えてる意味なのかどうかは言及がなかった。

 

不安の無として無垢をすどおりしていったものが、いまやアダム自身のなかに入り込んできたのである。ここでもなおそれは無であり、*なしうる*ことの不安定な可能性である。自分がなにをないするのか、彼にはなにもわかってはいない。なぜなら、もしわかっているとすれば、一般的にいってあとからしたがうはずの善悪の区別が前提とされていることになるからである。

この「なしうる」も善なる選択、行為の方だと思う。アダムは知恵の(神の命令にしたがって)木の実を食べないことができる、親のいいつけにしたがってエッチな本を読まなかったり、オナニーしなかったりできる、それがなんであるかはまだわからないにもかかわらずね。

 

 

 

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翻訳はけっこう問題があるんではないかと思う。でもだしてくれててえらい。


『不安の概念』(13) 不安は可能性の可能性として自由の現実性であーる

 

まあもう飽きてきました。きりがないしねえ。でももうちょっとだけね。

 

「私は不安が恐怖やそれに似た諸概念とはまったく異なったものであることに注意を促したいと思う。それらの概念は何かある特定のものに結びついているが、不安の方は可能性にとっての可能性として、自由の現実性である。動物に不安が見られないのもそのためで、これは動物がその自然性において、精神としては規定されていないからである。」

ここはものすごく有名な一節ですね。はっきりした対象をもつ恐怖と、対象がなんだかわからない不安とは違います。これはOK。問題は、「可能性にとっての可能性として自由の現実性である」で、これまともに解釈しているのはあんまり見たことない気がする。『不安の概念』に関する論文集を見直せばなんかあるかもしれんけど、ねえ。原文は”… medens Angest er Frihedens Virkelighed som Mulighed for Muligheden” / “whereas anxiety is freedom’s actuality as the possibility of possibility”。デンマーク語の前置詞forは、当然ものすごく意味が広くて(英語のforにもbeforeにもofにもtowardにも対応する)、これだけじゃなんだかわからん、ってのが普通だと思います。わかるのが異常。私はほぼあきらめ。他みるしかない。

しかしここのFriheden/ 定冠詞つきfreedomの意味は気になる。ていうのは、キェルケゴールが「自由」ってのをどういう意味で使っているかっていう疑問が、実はこの一連のエントリを書き始めたきっかけなのよね。まあ早い話がこの前の会合の発表でキェルケゴールの「自由」ってのが問題になったんだけど、発表者の言う「なんでもできる自由」はキェルケゴールの(『不安の概念』での)「自由」の意味とはちがうんちゃうか、と。

自由っていうと、バーリン先生の二つの「自由」概念の話が思い浮かびますわね。それは(1)消極的自由、つまり強制されてない、なにかを選択できるっていう自由と、(2)積極的自由、つまり自分が本来なすべきことを望みそれをおこなう自由、の二つね。アナクロニズムなんだけど、こういう捉え方をした場合、キェルケゴールが自由というときにかんがえているのはどっちかっていう問いは実は重要なんちゃうかなと思うわけです。そして、『あれか/これか』から『死に至る病』に至るまで、キェルケゴールの用語法では自由は積極的自由の意味、各種の悪しき欲望の影響から離れて正しいことを行う自由なんちゃうかと思っているわけです。まあこれを言うためには相当の準備が必要なんだけど、いまのところ私はそう思ってる。

んでそういう味方からすると、この「不安は、可能性の可能性として自由の現実性だ」っていう謎文は、「本来自由である人間、つまり、正しいことを行うことを欲するべきである人間が、無垢のぼんやりした意識でいるというその無垢な現実の状態では、「〜すべからず」という禁止によってぼんやり自覚される、そもそも正しいのも正しくないもの選択すること(可能性)ができてしまうかもしれない(可能性)ってのが不安の理由なのだ」ぐらいに読むんちゃうかなと思ってるわけです。しかしこれは読み過ぎかもしれない、っていうか読み過ぎだろう。でもこういうふうになんらかの解釈の決定をして読んでいかないと、なにもわからないか、あるいはキェルケゴールのオウム返ししかすることができなくなると思うんですわ。つらい。

最後の動物の話はわけわからんね。犬や猫だって不安そうにしているときはあるわけだから、動物を見たことがないか、あるいはキェルケゴールが考えている不安がそうした観察可能なものとはぜんぜん違うかどっちか、あるいは両方。両方ではないか。

 

 


『不安の概念』(12) なにができるかわからず不安です

今日もちょっと写経してみる。夏の午前中はいいですなあ。第1章第5節ね。

不安は夢見つつある精神の規定であり、そのようなものとしては心理学に属する。

また「規定」と「精神」が出てきた。まあ「精神」ってのはとりあえず自己反省する意識とかそういうのであり、「規定」ってのはその特徴である、ぐらいで許して。

目覚めている時、私自身と私でないものとのあいだには区別があるが、眠っているときにはこの区別は中断され、夢見ているとき区別は暗示された無となる。

起きてるときと寝てる時の話はいいですよね。問題は、「夢見ている」とき、あんまり意識がはっきりしてないときね。田淵訳で「暗示された無」って約されているのは antydet Intet、intimidated nothing。ほのめされている無。まあこの「無」がもちろんわからんのですが、その主観にとっては、その存在そのものを含めてなんだかわからないもの、って感じに読んでよいのではないか。たとえば「エッチなマンガは読んではいけません」ってなことを言われた時、「エッチな」も「マンガ」も知らなければその命令が何であるのは当人はわからない。とりあえず「エッチなマンガ」という読んではいかんものがある、ぐらいしかわからん。それはおそろしいものであるけど当人には無。

 

精神の現実性は、たえずみずからの可能性をおびきよせる姿として現れる。しかし精神が可能性をとらえようとするやいなやそれはのがれ去る。

こういう「現実性」もよくわからんですよねえ。もうほとんどお手上げ。「精神」Aanden/the spiriには定冠詞がついてるんだけど(デンマーク語では名詞のケツにつく)、これが「その精神=その夢見ている精神」なのか、「精神ってものは」なのかもよくわからん。こういう抽象的な文章をじーっと見てると、なんかわかってくるような気分になることもあるんですが(「おう、精神の現実性はみずからの可能性を誘惑するのだな、なるほど」)、実はわからない。まあ提案としては、「われわれが自己反省すると、自分がこれからなにをすることができるかとかってのを考えちゃうもので、それがまさにわれわれの意識がその潜在的能力を発揮しているとき、現実性を獲得している時なのよね」ぐらいに読む。

「でも、あんまり意識がはっきりしてない状態なので、実際になにができるのかって考えようとすると、「夢見る精神」の状態ではなにができるかよくわからない、特に「エッチなマンガを読む」とかってのの「エッチな」がわからない場合には具体的にそれがなにをすることなのかわからない」ぐらいでどうか。まあ正直なところ、これははエッチなマンガより、たとえば「エッチなマンガ読んでオナニーしてはいかんよ」の方がわかりやすいんちゃうかね。「え?オナニーってなに?それ僕できるの?」みたいな感じ。たいへんすね。まあオナニーじゃなくて、「姦淫するなかれ」でも「女子大生にセクハラするなかれ」でもいいけど、そういうこと言われると、よくわからないままにそれについて考えることになる。こうなると、そのつぎの、

それは不安をかもすにすぎない無である。ただ姿を見せているだけなら、これ以上のことはできない。

はわかるんではないか。

 


『不安の概念』(11) 無が不安を生む

わからんのでまず和訳の写経だけしてみる。

この状態(無垢)には平和と安息がある。しかし同時にそこには何か別のものがある。といっても別に不和や争いではない。事実そこには争いの種になるようなものは何もない。ではいったいそれは何だろう?無である。ところで無はどんな働きをするのだろうか?無は不安を生む。無垢が同時に不安であるということ、これが無垢のもつ奥深い秘密である。夢見つつ精神は、自身の現実性を投影するが、しかしこの現実性は無であり、さらに無はみずからの外にたえず無垢を見るのである。

わかりますか?わかりませんね。

まずこの田淵訳は最後のところがよくなくて、英訳だと innocence always sees this nothing outside itselfで、「しかし無垢は自分の外にこの無を見るのである」じゃないとだめ。って書こうとしてデンマーク語確認したら、men dette Intet seer Uskyldigheden bestandig udenfor sigだわ。動詞がseerで、dette Intet (this nothing)とUskyldigheden (innocence)のどっちが主語なのか問題。これ主語と目的語が倒置している可能性は十分にあって、キェルケゴールはそういうのよくやる。どっちも単数なので、動詞の形からでは見分けられない。意味解釈からすれば、「無が見る」とか「無の外部」とかってのが考えにくいから、Thomte先生の英訳の方がやっぱりいいんじゃないかな。じゃないと意味わからん。でもそう読んだからわかるようになるわけでもないけど。-100が-30ぐらいになる感じよね。苦しい。

んでこっから解釈なんですが、この無垢ってのを性的な無垢、性的な無知って考えて、性の目覚めの話だと考えると少しは読めるようになるでしょ、っていうのが私の提案。ていうか、そうじゃないと読めないままだし。

子供は性的に無知だ。したがってわれわれのような汚れた大人のようにエッチなことで頭をいっぱいにすることはないってので平和だ。いいですね。でも、なにか予感がある。でもそれがなにかはわからない。これが「無」。それがなんだかわからないから無なのね。たとえば仮に「ある絵を見るとちんちんがむずむずする感覚がある」みたいなのがあったとして、それがなんだかはわからない。むずむずの感覚さえはっきりとは意識してないかもしれない。自意識があんまりないからとりあえずマンガ読む。でもそういう興奮なりなんなりが、なにか大事なことだという予感はある、そういう状態を想像してみてはどうか。

そのあとも面倒。(夢見つつ)「精神は自身の現実性を投影する」も面倒なんですが、精神(自己反省をもつ意識)は、ふつう自分が理解するところの自分自身を考えたり想像したりするわけだけど、まだ自己意識がはっきりしてないので「夢見つつ」にすぎなくて、自分がなにをしているのか、なにをもとめているのかとかもわからず、想像したり考えたりする自分の姿や活動も「無」。だから無垢な状態の子供は、性的ななにかが自分の外にあることは感じるものの、それははっきりしない無にすぎない。でもなんか不安と欲望を感じるよ、ってな感じでどうか。

udenfor sig selvは「いつも自分の外に」。まだ性的にまったく無知だから、その性欲ってのはなんかよくわからないし、自分のなかにあるわけではない。外に広がっているわけのわからないもの、無。

まあ正直なところ、なにか世界には隠し事がある、なぜパンツやエッチな絵がこんな魅力があるのか、ていう不安はみんな感じたことがあるんじゃないですかね。これだとわかるっしょ。

不安Angestは英語だとanxietyっていう感じで、不安だけどanxious forみたいなのがあることからもわかるようにむずむずして落ち着かない感じを指すんだと思うんよね。この「落ち着かなさ」がこの本のポイントで、恐怖に似た意味での「不安」ではないんだと思う。これもハイデガ先生とかの影響で誤解されているところよねえ。「不安」という日本語はまさにその不安定さを表していていいんだけどさ。「不安神経症」とか不安ではないってことよ。