ポモドーロテクニックは5分でいい

教員にとって採点や添削はひじょうに負担でつらいものです。私もものすごく苦手。でもやらないわけにもいかないしねえ。

どんどん先送りしてしまって精神衛生にものすごく悪いのでなんとかしなきゃならんのですが、まあ基本は「小分けにする」しかないですね。

一度にレポートの束の山を見るともう手がつけられません。受講生200人のレポート採点とかだと、まず学年・学科・出席番号とかで10人ぐらいの束に小分けして、それを少しずつやる、ってのしかない。

ポモドーロテクニックってのがあって、よくわからんけどキッチンタイマーみたいなのを使って時間はかって作業しましょう、みたいな。リンクから適当なページみてください。これ、だいたいの手引きでは20分とか25分とかを区切りにするといいってアドバイスしているページが多いんですが、私はそれではぜんぜんできない。だいたいの「ライフハック」は正常な人々のためのものなので、外れ値を生きる我々はさらに自分で工夫しないとならんわけです。

今回は思い切って5分にしてみたんですが、これだと捗るとまではいえないけどなんとか進むかなあ、ぐらい。集中力がないんですわね。でもとりあえず5分ずつすすむしかない。もしかした3分でもいいかもしれない。

Togglっていうアプリ(ウェブアプリ)だと回数も数えて記録してくれるから達成感すこしある。それにしても5分というのは情けない。でも情けなくても人生は進めなければならないのです。

幸福の心理学/ポジティブ心理学まわりの本ガイド

授業用。学生様向け。

とにかくこれからでいいだろう。

堅実だけどちょっと硬い印象。

まずここらへんでいいのではないか。

とりあえずこの本が一番おすすめなんだけど、翻訳に問題がある。

ちょっと古いのだがおもしろい。訳もしっかりしている。

まずまず。

上と同じ筆者。

学部生にはちょっと歯応えがあるかもしれないが重要書。

翻訳に問題がある。

これも翻訳に問題があるが、上よりはまし。

これは訳に問題はないのだが、記述があっさりしすぎている。

ちょっと散慢。上の本の方がよい。

とてもしっかりしている。

上の2冊はおなじようなもの。とてもおもしろい。

あとはここらへん見てください。

世界は変えることができる

んで、まあ問題を発見しただけではやはりだめだし、学生様には世界は変えられると信じて欲しい。そのためには私自身が信じないとだめだ。かげで文句いったり、個人を攻撃するだけは世界はよくならん。問題を発見するだけでなく、どうすれば解決するか考えて、ある程度は手も動かさないとならん。知恵をしぼって改善するのだ。そういう態度を教えられないようでは、大学でえらそうなこと言ってらない。ってなわけで面倒でも改善案を書きました。通るといいなあ。

字が汚なくてはずかしい。べつのところで「世界を変える」ってタイトルでこの粗末な紙がその手段か、っていうコメントがありましたが、まあそういうものです。はははは。歌でも歌った方が有効だったろうか。

歌詞の和訳はこっち



(後記)

  • さっそく誘導ベルトが設置されてました。えらい。うれしいなあ。(7/14)

悪いデザインは人を苦しめます

「Togetterで炎上しそうになってしまった……」のつづき)

んで、どういう問題があったか、ブログでは書いておきますかね。

ここにプロ(Yashiro Photo Officeさん)の写真があるので、それを参考にしてください。 http://846-photo.com/archives/portfolio/kyoto-wu-ac-library/ ここでの写真もこのページから使わせていただきます。

この図書館、こういう感じですごくおしゃれでかっこいいんですわ。私は建物としては気にいってる。5階分の吹き抜けになっていて、音や空調や床面積や動線の関係でそれがどうかって話はあるんだけど、今回はそれにはあんまり触れない。

本は壁面書架と、階によってはフロアのまんなかにある書架、そして閉架(自動化書庫)に収められている。

図書館の本を利用する場合、いまはやはりOPACで検索して十進分類にしたがって本をとりにいくって形になりますよね。この図書館は、そのもっとも重要な十進分類が明示されていないのです。

フロアの書架にはこういう形で連番が降られているんだけど、この32・33・34という番号は十進分類とはなにも関係がない。

これはけっこうなストレスになるのです。だって「372.2 A34はえーと」って行くと「34」って目に入るわけだから。まあ運営が管理するためには、棚に番号を振ることは必要なわけだろうけど、それは利用者には関係がない。利用者が知りたいのはその棚に何番台が入っているかで、上の「34」の棚だったら、片面に「372〜375」、もう片面に「375〜375.76」が入っているということを知れば十分。そして十進分類の中身の説明が必要かどうかは微妙。それこそ大学図書館なので、「374.94には学校給食関係がある」みたいなのはいらんかもしれん 。そもそもこの部分的で断片的な枝番説明の選択は、なにが基準なんだろうか?(もしかしたらデザイナーが十進分類をよく知らない可能性まである?)

壁面はもっとひどくて、これはもうほとんど手掛かりがない。上は「K」とか「S」というサインがはいってるけど、このSも上の「34」と同じただの連番で、四方の壁にA〜Zまで入ってるけど、そのA〜Zと十進分類がどういう関係になっているかを知る手掛かりはない。

上の2枚目の方の写真(シャレオツ!)だと中央に「100 哲学」という木製の箱みたいなのが置かれてるけど、手掛かりはこの10番ごとだか50番ごとだかの見えにくい箱みたいなものしかないわけですわ。実際には100番ごとだろうが50番ごとだろうが見えないから関係ない、っていうかこんなもの意識してませんし、何番ごとに置かれてるか1年通ってるけど知りません。これ、どういうことかわかりますか?つまり実際には、とにかくいちいち本の番号をてがかりにして、そこからずーっと棚を見ながら歩いていくわけです。

私はかなりよく図書館を利用するのですが、さすがに十進分類がどこにあるか頭にはいってるわけがない。1階と2階を一周ずつする、さらにフロアのまんなかの棚を見て、例の数字に幻惑される、みたいなの毎日おこってますがね。

書架は8段あるので、最上段は2メートルを越えているので、私の目では何番がはいっているかとかもちろんわかりません。(まあこれくらい高いと本をとろうとして脚立や台座に載るのも危険ですが、それはおいといて)

フロアごとに何番台が置かれているかのサインもない。こんなものがプロの仕事か。

そりゃこれを発注したのは大学で、それは委員会やらコンペやらやってるわけなので最終的には大学が悪く、それを支持している我々一般教職員にもおそらく責任がある。でもデザイナーとか建築家っていうのはプロなんだから、なにをどうすればどうなるかちゃんと考えて提案するもんじゃないのでしょうか。そういう話でした。

大学の優秀な学生様たちは、この使いづらさに気づいているので、こういうものを自作して(あんまり目立たないところにだけど)貼らせてもらってるみたい。(先週やっと見つけました)

私これ見つけたとき、正直ちょっと泣けてきましたよ。「私ら教員がしっかりしてないために君たちにこんなことさせちゃってごめんね」みたいな。

世界は変えることができる」へ続く。

日常雑記:Togetterで炎上しそうになってしまった……

去年9月に大学の新図書館が開館してわーいっていって使いはじめたのですが、なんか使いづらくて困ってたのです。建物自体はおしゃれなんだけど、本の配置なんかが機能的じゃない。「あれをこうしてください」とかいろいろ口頭でお願いしてたんですが、なかなか改善しない。

ずーっといらいらしたまま1年近く過ぎて、「なんでうまくいかないんだろう?どうしたらいのかな?」とか思ってたときに、サインをデザインしたデザイナーさんがその図書館のサインのデザインについてツイートしてたので、つい反応してしまいました。

どうもそのデザイナーさんは、大学だし、OPACなどで検索するのだからサインはそれほどわかりやすくする必要はない、知的な印象を重視したい、のような発想でサインを設計したらしいんですね。ずっと悩んでいらいらが溜っていたので、ついキツい言葉で反応してしまいました。ついでにトギャッタとかでセルフまとめ作ってみたりして。作ったあとに仮眠してたらいきなり3万ビュー、コメント100件とかになっててこれはまずい。ネットリンチを誘発してしまった。反省。

トギャッターの「注目まとめ」とかはてなブックマークの「ホットエントリ」とかに入ってしまうと、あっというまに人が集まってえらいことになってしまうわけですね。問題提起はしたいんだけど、ネットリンチみたいな形になるのは本意ではないので一時閉鎖。

おそろしい時代になりました。ある程度問題提起はしたくても、話題が大きくなりすぎると集団による個人攻撃になってしまう。注目をコントロールするっていうことも考えないとならんわけよねね。

↑この本は非常におもしろいので読んでください。

→ 「悪いデザインは人を苦しめます」に続く。

和訳はこっち。

『トゥーランドット』のラストはあれで正しいか?

プッチーニの『トゥーランドット』っていう作曲者本人によっては未完の名作(半名作)オペラがあるんですが、あれって見るたびになんか変な気分になるんですわ。あらすじはwikipediaで十分ですよね。こんなかんじ

第二幕まではいいんです。第三幕で召使のリューちゃんが秘密を守るために自殺しちゃって、そのあとカラフ王子がトーランドット姫ちゃんにチューするとなんか姫ちゃんのスイッチがオンになって「その名前は「愛」です!」なんてことになってご結婚、「皇帝ばんざーい」ハッピーエンド。

馬鹿ではないか。リューちゃんなんで死ななきゃならんのですか。姫もチューされたぐらいでなにのぼせあがってるんですか。カラフ、お前も献身的なリューちゃんのことなにも考えてないなゴラ。なんでわがままな姫のために人ばんばん殺されにゃならんのだ。おまえらぜんぶ死ね死ね。

ってやっぱりふつうの観客なら思うと思うんですよ。この筋はどう考えてもおかしい。

これ以前に京都コンサートホールで半上演スタイル(劇はステージの半分だけで、オケもステージに載るコンパクトな形)で見る機会があって、そのとき、私やっと理解したんです。これは本当の筋ではないな、と。

私が思うに、最後は本当はこうなるのです。リューが自殺→ カラフ後悔する → カラフ自分の名前を白状する → でもついでにチューすると姫はなぜか夢中になる → 姫は皇帝にカラフの名ではなく「愛です!」っていう → 皇帝「でも名前は知られたんじゃろ? 約束は守れや!」 → カラフの首が飛ぶ → 皇帝「姫、お前も謎々を解かれたら結婚するっていってたのに結婚しなかったから死刑」→ 姫の首飛ぶ → 民衆大喜び、皇帝の誠実の徳を称える → 皇帝も自分の馬鹿さを自覚して死ぬ → 馬鹿の帝国崩壊。

『サロメ』の最後みたいに、皇帝に「あの馬鹿どもを殺せ!」って命令してもらっていきなり終ってもよい。

これなら勧善懲悪で気持ちいいし、むくわれぬ愛、人間のおろかさ、約束の大事さなどを訴えて、まあ悲劇てかドラマらしい。

まあこれかこれに準ずる形だとすっきりするのですが、まあイタリア人としてこうなるのが当然だとわかっていてもいやなので、形だけわーわーハッピーエンドってことにして、「でもあれ死刑だよね」ってあとで言いあって満足する、ぐらい。とにかく全部死刑に決まってるではないですか。

でもピンポンパンだけはまじめだから許す。田舎帰ってゆっくり文人生活楽しんでください……いやだめだな。悪事に加担したからやっぱり死刑。

ぜんぶ死刑にしてもらうにはこの紫禁城のやつの首切り役人が好きなんだけど(下の動画だと10:00 過ぎに登場)、youtubeに日本語字幕のもあるのも探してみてください。よい時代になりました。

バトラー様と事実/規範の峻別

前のエントリで『LGBTを読み解く』に言及したのに、このブログでは私がなにを問題にしているか書いてなかった。ずっと前に書いてそのままになってたやつをサルベージ。


森山至貴先生の『LGBTを読み解く』についてoptical frog先生が解説書いてくれていて、私もなんか書きたいんだけど、なんかさしさわりありそうなのでちょっとだけ。

もうバトラー様のフォロワーたちが、言語行為論なんかにはまじめな興味もってないのはわかっているので、オースティン先生とかデリダ先生とかはどうでもいい。パフォーマティブがなにか、とかってのもどうでもいいというか、まあ自分たちの勝手な意味で使ってください。それはもうかまわない。

今興味があるのは、その「ジェンダーのパフォーマティヴィティ」なるものに、いったいどういう価値があるのですか、ってことね。

「繰り返されることで通常の用法を外れたものが伝達されてしまうという言語のパフォーマティブな特徴は、ジェンダーにも当てはめられるとバトラーは考えました。」p.136

これは森山先生がそれまで述べていたこととは違う。その前で言っていたのは、「語や句は、その意味が異なる文脈に流用されてしまう、つまり安定した辞書的な意味が綻びることによってむしろ成立可能となっている」とか「言語の特徴は……辞書的な意味を越えてしまう」ことだとか、語や句が「想定ないし意図されている意味にとどまらないような意味を伝達してしまう」っていうことだけなはず。これと「繰り返されることで通常の用法を外れたものが伝達されてしまう」がどうつながっているのか私にはわからない。これじゃ学生様読めないでしょ。でもまあいいや。先。

「セックスは生物学的な性差、ジェンダーは社会的な性差と説明され、後者[ジェンダー]は可変的で改善の余地があるが、前者[セックス]は身体のつくりの違いなので変えようがない、と説明されてきました。しかしバトラーは、この「変えようのなさ」は、身体や性に関するわれわれの言語使用の最大公約数的な特徴なのであり、辞書的な意味を越えるという言語のパフォーマティブな特徴ゆえ、もしかしたらこの「変えようのなさ」もずれたり、ほころびたりするかもしれないと考えました。」([]内は江口の補)

「セックス」は「身体の特徴によって割り当てられた性別、男女の間の差異」。「ジェンダー」の方は森山先生の場合は「「男らしさ」「女らしさ」に関する規範の違い」ってことになってる(p.48)。

ここはちょっとトリックがあるように思う。「セックス」という言葉と、その言葉がさす対象としての生物学的な性差が混同されてないかしら?ふつう、「セックスは変えようがない」と言われているのは、身体(あるいは身体的な基盤をもつなにか)は変えようがないということですわね(この主張自体ぼんやりしていて、おそらく正しくない)。でも「セックス」という言葉そのものは、単なる言葉なので、その意味は変えることができる(かもしれない)。

身体の「変えようのなさ」が実際には反復の中で生まれる最大公約数的特徴にすぎないのなら、「けっきょく女性の身体で生まれたのならその身体に応じた女性としての特徴(女らしさ?)があるのは当然」という「変えようのなさ」に依存した乱暴な議論をそのまま受け入れる必要はなくなります。バトラーの議論は、不変の生物学的「性別」という発想への批判に、哲学的根拠を与える役目を果たしたのです。」

しかし、この文章では、「身体の変えようのなさ」になっている。でも「反復の中でうまれる最大公約数的特徴」は言葉、あるいはジェンダー(「〜らしさ」)の方よね。私は頭が悪いのか、こういうことされるとものすごく混乱する。

さらに、「女性の身体で生まれたのならその身体に応じた女性としての特徴(女らしさ?)があるのは当然」がなにを意味するのか。先に、「男性」や「女性」といったセックスは、身体に応じて割り当てられるって言っているのだから、生物学的女性がその身体に、生物学的女性としてのなんらかの生物学的特徴をもっているのは当然だろうと思う。

それは例えば女性生殖器官(卵巣や子宮)があるとか、性染色体がXXであるとか、あるいは男性生殖器がないとか染色体にSRY遺伝子がないとか、否定的な形かもしれないし、あんまり性器に注目すると性分化疾患とかのひとはどうなるのかとか問題はあるかもしれないけどね。でも「(生物学的)女性としての特徴」が身体的なものであれば、「(生物学的)女性の身体で生まれたのならその(生物学的)身体に応じた(生物学的)女性としての特徴がある」は当然だ。

当然でないのは「(生物学的)女性の身体で生まれたのなら、その身体に応じた社会的な規範にしたがうべきだ」という判断で、これだけだと、この主張は明確に「である/べし」の間にあるはずのギャップをのりこえてしまっている。だから論証が必要なのね。これを正しい推論・論証にするためには、

(a1) 人はもっている身体に応じた「らしさ」の規範を受け入れるべきだ
(a2) 女性は女性の身体をもっている
———-
(a3) 女性は女性の身体に応じた規範を受け入れるべきだ

の形にする必要がある。この形なら論証としては正しい。しかし(a1)を受け入れるべきかどうかはこの論証自体では論証されていない。(a1)を正当化する論証として、たとえば

(b1) 幸福になりたいなら、身体に応じた「らしさ」規範をうけいれるべきだ
(b2) Aさんは幸福になりたい
————
(b3) 幸福になりたいAさんは身体に応じた「らしさ」規範をうけいれるべきだ

のような論証をする必要があるけど、(b1)はものすごく怪しい前提で、私は受け入れないのでさらに(b1)の論証を求めることになると思う。

なぜ怪しいのかというと、仮に長い人類の経験から、男性や女性が「〜らしく」した方がそれ自体でいろいろ有利で幸福につながりやすいことがわかっているとしても、われわれはそれぞれいろんな個性があるので、「〜らしく」するのが幸福につながるのかどうかは自分でいろいろ考えたりやってみたりしないとわからないからだ。「〜らしく」するとむしろ不幸になるひともたくさんいるだろう。

面倒だから引用しないけどいつも出してるミル先生の『自由論』の第3章参照。「幸福」ではなく「社会の安定のためにそうするべきだ」のような前提をもってきてもなぜそうなのが十分疑える。われわれはくだらない言葉遊びではなく、ほんとうに重要なことを考えるべきだと思う。

つまり、私が思うには、バトラー様のへんちくりんな「哲学的根拠」なるものは少なくとも私には必要ないし、他の人も必要ないと思う。

結局、バトラー様フォロワーはなんらかの「自然主義的誤謬」に非常に弱い思考様式をしているのだと思う。それは倫理学とか論理学とか批判的思考(クリティカルシンキング)とか勉強してほしい。

ポストモダンの害悪

最近ちょっとtwitterでポストモダンに関する議論があって、まあいつもどおりのよくわからない話をする人がいるってくらいなんですが、そのなかで、「ポストモダン思想がなにか自然科学に実害を与えたのか」みたいな発言がありました。たしかに自然科学に対しては実害とかほとんどなかったっしょね。実害は、自然科学ではなく、政治的な議論、それに倫理的・社会的な学問や論議に対してあったと私は思ってます。デリダ先生が倫理学や社会科学にどのていど影響を与えたかはしりませんが、私が憎んでいるジュディス・バトラー先生は私が関心のあるジェンダー論やセックス論の国内の議論に大きな影響を与えているようで、あちこちで無益なものを読まされることになります。

たとえば、最近出た藤高和輝先生の『ジュディス・バトラー:生と哲学を賭けた闘い』という本があります。藤高先生は若い人なんでしょうね。

そのなかにこんな一節がある。

「私は約束します」という発話がうまくいくかどうかは文脈によって条件づけられる。仮に、約束した当人が電車の遅延などによって集合場所に遅れた場合はその「約束」は「失敗した」ことになるが、しかしその約束を「偽」とはいえないだろう。当人にはその約束を守る意志があったかもしれないからである。つまり、「約束」という発話は「真偽」で計れば矛盾してしまう。先の例でいえば、それが約束された時点では「真」であるが、それが実現されることに失敗した瞬間から遡れば「偽」である、ということになってしまう。むしろ、この場合の「私は約束します」という発話行為は単に「失敗した」発話であるというべきなのである。 (p. 191)

これ、J. L. オースティン先生の『言語と行為』(How to do things with words)っていう重要書の一節を紹介している(らしい)のですが、ぜんぜんまちがってると思う。

今日18時に、「私は明日9時に君に京都駅で会うと約束します」と、私が誰かを前にして言えば、私はその人と明日9時に京都駅であう約束をしたことになります。今日ワールドカップを見て寝坊してしまい、明日の朝京都駅に行けないことがあれば、私は約束を破ったことになる。でもだからといって、今日18時に約束したことがオースティンの意味で不適切だったということはならない。単に「約束を守る」ことに失敗しただけであり、「約束する」ことに失敗したわけではない。「約束する」 という行為が成功しているからこそ、「約束をやぶった」ら非難されるんでしょ。どういうわけか、この箇所を藤高先生は確認していないらしい。そうした基本的な区別さえできずに、いったいどんな学問ができるというのか。

まあこっからうしろもパフォーマティヴィティとかなんだかむずかしい概念について難しいことを書いているのですが、私にはなにがなにやらさっぱりわからない。そしてそれが我々の生活とどう関係するのかもわからない。上のような誰でもふつうに考えればおかしいとわかることを書いて平気でいるのは異常だと思う。ジュディス・バトラー様やデリダ先生の権威に圧倒され、おびえているのではないでしょうか。オースティン先生を2〜4週間ぐらいかけてじっくり読むだけでいいのに。

藤高先生はおそらくLGBTとかに関心があるまじめな研究者だと思うのですが(それはよくわかる)、ポストモダンとやらに手を出してしまったせいで、誰にもわからない混沌とした議論でうめつくされた本を書いてしまっている。

同じようなことは、森山至貴先生の『LGBTを読みとく: クィア・スタディーズ入門』についても同じです。この本は前半はまじめなLGBTとその解放についての歴史記述があるのに、途中からバトラー様の意味不明な議論を紹介しはじめ、最終的にわけわからないものになっている。詳しくはoptical frog先生のブログを読んでください。ここらへんから連載になっています

ポストモダンにある曖昧模糊とした不明確な概念、論理的でない思考、単なる言葉遊び、情報源をしっかりしらべようとしない態度、有名人を権威だと思いこみ、それをなんとかして解釈しなければならないと思いこむ権威主義、そういうのは学問の世界と我々の生活に大きな害悪をもたらしていると思っています。


と、授業の空き時間にカーっとなっって書いた、みたいな感じなのですが、よく考えたら別にポストモダン悪くないです。悪いのは出典をちゃんとつけなかったり、ちゃんと確認しなかったり、曖昧な言葉をつかったり、単なる言葉遊びですませたりするそういうポストモダンな人々がやる傾向だけで、思想そのものには別に文句はない。文句は、方法にあるのです。ちゃんと読んで出典ちゃんとすればいいだけの話。がんばってください。


「送られてきたファイルが読めません」「ページが見れません」は一工夫したい

ときどき学生様から、LINEやメールで送ったファイルやURLを開くことができない、のような連絡をもらうことがあります。

そういうの連絡の文章は、だいたい↓みたいな感じになります。

「ログインできないので課題出せません」

「ファイルが開けないので課題出せません」

「サイト見えませんので課題出せません」

困ってる気持ちはわかるのですが、それでは返事が面倒なのです。なぜなら、最初は必ず↓のように返さなければならない。

「何で何をしようとしたらなにができなかったのですか?」

1人2人ならいいんですが、これを毎日やるっていうのはけっこうつらいものです。

使ってる機械はPC? Mac? iPhone? Android? アプリはChrome? LINE? Dropbox? なにを開こうとしたの? どのURL?どのファイル、どんなファイル?

最初から、こう聞いてくれると楽

「Android端末のブラウザでhttp://yonosuke.net/eguchi/ を開こうとしても読みこめません。「404 ファイルが見つかりません」と表示されます」

「iPhoneでLINEで送られてきたfoo.pdfというファイルをLINEで直接読もうとしても、「ファイルが壊れています」と表示されます」

のように連絡してくれれば、お互いにハッピー。

企業の苦情・相談テレオペなんかだとマニュアルが用意されていて、その通りに質疑応答してけっこうなお金をもらえるわけですが、我々教員はそういうのではないのでけっこうつらい。最初からできるだけ詳しく報告してくれると対策がとりやすいのです。

まあ上の「できません」みたいなの、昔の2ちゃんねるあたりに相談を書くと、「エスパー募集か」とか書かれておわっちゃってたものです。我々の世代は、この「エスパーじゃないからわからんよ」「ソースは?」の二つによって鍛えられました。あらっぽい匿名掲示板みたいなのが有益な時代はあったんですよね。

いつも、いつ、なにを、なにで、なんのために、どのようにしようとしたのかをはっきりさせましょう。いわゆる5W1Hとかってやつね。コミュニケーションの基本で、大学では口をすっぱくして言われてると思うのですが、あれはレポートやプレゼンするときだけじゃなく、日常のコミュニケーションでこそ重要なわけです。

ちなみにこれも読んどいてください。→ PDFは専用アプリで読むのだ

Spotify楽しいですね

2、3ヶ月前から音楽配信サービスをAppleからSpotifyに乗りかえたんですが、Spotify楽しいですね。いまごろって話になっちゃいますが。すばらしい精度で知らない曲を紹介してくれる。Spotifyの公式のも、知らない他人のプレイリストもおもしろい。

自分でも作ってみたりして。

↑を読むために、参照されてる曲のプレイリスト作ってみました。

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↑で冨田ラボ先生が100曲紹介してたからそれも作ってみてる(まだ途中)

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私のオールタイムベストみたいなのは↓

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昔書いたブログはyoutube音源使ってるけど、かなり消えちゃってわけわかんからSpotifyに入れ替えたいな。

こういうプレイリスト作ったり、つまらないブログ書いたりするのは、なんかボトルにお手紙つめて海に流す、みたいな感じがあって好きですね。おそらく誰の目にも留まらないけどひょっとしたら誰かが拾って読むかもしれない。Spotifyやネットの海に溶けこんでいく感じがある。ボイジャー号にレコード積んで宇宙に流したりするのもそういうロマンよね。あ、パイオニア号につんだ金属板が先だよね。