Jeremy Waldron (江口聡 eguchi.satoshi@gmail.com 訳) http://plato.stanford.edu/entries/property/
某授業のためのゲリラ訳。英文と読みくらべて誤訳誤字などご指摘ください。この文書に適当にコメントしてもらってOKです。スタンフォード哲学事典は権威ある哲学事典で、哲学入門にぴったりです。Jeremy Waldron先生はニューヨーク大学の教授で、すごく偉くて所有権の権威。 http://en.wikipedia.org/wiki/Jeremy_Waldron
(江口による語句についての解説: 「property」はしばしば「所有」と訳されるわけですが、ここでは基本的に「財産」として訳してたんですが、けっきょく「所有」に一括変換しました。いちばん基本的な意味は「〜のもの」。自分のもの、彼のもの、彼女のもの、というふうに所有者が決まっているのが所有物であり財産。この用法では、財産権はproperty right。ただ、propertyっていうのが個々の物体ではなく、抽象的に「〜のもの」であることを決める制度や慣習を刺す場合もあって、ここらへんいろんな日本語文献で混乱するわけです。まだちょっと訳語決めかねてるところがあるです。)
所有propertyとは、土地やその他の物質的資源の利用と支配力を統制するルールを指す一般的な言葉である。こうしたルールは一般論に関してもそれぞれの特定の適用方法に関しても論争の的になっているため、所有の正当化に関しては興味深い哲学的論議がある。現代の哲学的議論が注目しているのは、多くの場合、(共有所有 common property や集団的所有 collective propertyに対立する意味での) 私的所有権 (private property rights)である。「私的所有」とはある範囲の土地を、特定の個人に割り当てるシステムを指す。当の個人は、その土地を好きなように使用・管理し、他の人々を排除し(その資源を当人よりもっと切実に必要とする人々さえも排除する)、また社会からの細々とした支配もまた排除することになる。こうした排除からすると私的所有は疑わしいものに見えるのだが、哲学者たちはしばしば、個人の倫理的発達のため、あるいは、人々が自由で責任ある行為者として反映できる社会的環境を作りだすために、私的所有は必要だと主張する。
1. 分析と定義の問題
所有についての議論は、他の政治哲学者が扱う各種政策の問題領域にもまして、定義の問題に悩まされている。最初の問題は、所有(property)と私的所有(private property)の間をどう区別するかというものである。
厳密にいって、「所有」は人々が土地や天然資源や、生産手段、製造物、さらには(学説によっては)テキストやアイディア、発明、その他の知的生産物などの利用と支配力を統制するルールをさす一般的な言葉である。こうしたものの使用についての意見の不一致は深刻なものになりやすい。資源の利用は人々にとって重大なことだからである。その対象が希少でありかつ必須である場合には特に深刻なものになる。所有関係は稀少性という条件においてのみ意味をなすと主張する人々もいる(Hume [1739] 1888, pp. 484–98)。しかし、他にも意見の衝突の原因もありえる。たとえば、土地一般が希少であるかどうかにかかわらず、その土地の歴史的・象徴的意味からして、ある土地がどのように使われるべきか、について争われることがありうる。(知的所有は、稀少性に直接には対応しない所有のルールの一例となる。そのうえ、物質的対象とちがって、知的所有の対象は利用が混雑してしまうなどということはない。誰かが知的所有の対象を使用していても、他の人が何人でもそれを使用することができるからである。)
衝突を避けることで利益を受けるどんな社会も、そうしたルールのシステムを必要としている。その重要性はどんなに評価しても評価しすぎになることはほとんどない。というのは、そうしたルールのシステムなしには、協力も生産も交換も、実質的にまったく不可能になってしまうか、そうでなくとも、「ブラックマーケット」で見られるようなひどく不完全な形でしか可能でなくなってしまうからだ。こうした必要性は、しばしば私的所有を擁護する議論として取り上げられる(Benn and Peters 1959, p. 155)。実際のところは、こうした議論が立証するのは、なんらかの種類の所有のルールがあるべきだ、ということにすぎない。私的所有のルールはそのヴァリエーションの一例にすぎないのである。土地や他の経済生活での主要な資源についての私的所有やそれに類したものを認めずに、メンバーの必要と欠乏を満たしてきた社会は数千年にわたって存在してきた。したがって、所有についての健全な論証のための第一歩は、所有一般の存在を支持する議論を、特定の種類のシステムの存在を支持する議論から区別することである(Waldron 1988)。
所有制度には三つの種類がある。共有 common property、集団的所有 collective property、そして私的所有 private propertyである。共有システムでは、資源は、社会のメンバー全員誰でも使用してよいというルールによって統制されている。たとえば共有地 common landは共同体の誰もが牛に草を食べさせたり食べ物を蒐集したりするために用いてよい。公園は誰もがピクニックやスポーツやレクリエーションに使ってよい。使用になんらかの制限を課すとすれば、その目的は、他の人々の使用を排除するような仕方で共通の資源を使うことを防ぐため、公正な利用法を保証するためにすぎない。集団的所有はこれとは違った考え方である。こちらの場合、全体としての共同体が、重要な資源がどのように使われるべきかを決定することになる。こうした決定は、集団的意志決定による社会的利益にもとづいて行われることになる——こうした決定は長老たちの気の長い談論から、ソヴィエト風の「5ヶ年計画」の計画と実施まで、さまざまな仕方で行われうる。
私的所有は、集団的所有と共有の両者に対する代替案である。私的所有システムでは、所有のルールは、さまざまに争われている資源は個々の個人(あるいは家族や企業)の決定権に割り当てられるのだという考え方をめぐって組み立てられている。ある対象が割り当てられている人は、その対象に対する支配力をもつ。つまりその対象になにがなされるべきであるかを決めるのはその人なのである。その人は、他の人になにも説明をせずに自分の発案で扱ってよいし、他の人々と共用してもよい。自分の好きなようにしてよい。それどころか、この決定権を誰か他の人に譲渡してもよい。この場合、その譲渡された人がもとの人と同じ権利をもつことになる。一般的に言って、所有所有者proprietorが自分の所有している資源について自分の好きなように決める権利は、他の人々が所有者の決定によって影響をうけるかいなかにかかわらず適用される。もしジェニファーが製鉄所を所有しているとすれば、それを閉鎖するか、プラントを動かし続けるかを(自分自身の利益のために)決定するのは彼女である——たとえ鉄工所を閉鎖するという決定が労働者や地域共同体にどんなに困ることになっても。
私的所有は個人の意思決定のシステムではあるが、社会のルールでもある。所有者は自分に割り当てられた対象について自分の利益にかなった決定をする権利を守るために自分の力だけに頼らなければならないわけではない。もしジェニファーの意に反して、雇っていた労働者たちが製鉄所を占拠して操業を続けた場合には、警察を呼んで労働者たちを退去させてもらうことができる。自分自身で労働者を退去させる必要はないし、それにお金を払う必要さえない。したがって私的所有はいつでも公的に正当化されていることが必要になる——なぜなら第一に、私的所有は、希少資源の使用法について他の人々の必要や公共の善に必ずしも配慮しないかたちで決定する権威を個人に与えるからである。また第二に、私的所有はそれを許可するだけでなく、それを支えるために公的な費用を使って公的な武力を動員することになるからである。
東欧や旧ソヴィエトの社会主義体制が崩壊し、世界中で市場経済が勝利した現代では、こうした正当化の問題はもはや意味がないと思われるかもしれない。経済的集産主義(economical collectivism)がもはやまったく信頼に値しないのであるから、私的所有を正当化するという問題はもはやいわずもがなの問題だと結論したくなる。つまり、単に他の選択肢がないのだ{からしょうがない}、というわけだ。しかし、ある制度の正当化の議論を行うのは、単にその制度を競争相手に対して弁護するためだけではない。正当化というものはしばしばそのシステムをまともに理解し、またそれをうまく運用するためにも行われる。所有について考えるとき、私的所有というものを認める理由はどこにあるのかということを意識して議論しないかぎりほとんど意味をなさないような問題群がある。そのうちの一部はごく専門的なものである。たとえば、永代所有を禁じるルールや、土地所有の登記{という制度}、あるいは遺言の自由に対する制約などを考えてみよう。こうしたものはすべて古風で理解しがたい単なる決まり事で、せいぜい丸暗記して憶えるしかないことがらのように思われるかもしれない。しかし我々がこうした決まり事を、なぜ我々は物質的資源に対する個人の支配力(あるいは個人の支配力に対する傾向性)の背後に社会的権威を与えるのか、ということの理由と結びつけて理解しようとするなら話は変わってくる。
同じことはもっと大きな問題についても言える。米国憲法修正第5条は、私的所有は賠償なしに公共の用途のために取り上げられることはないと定めている。明らかにこの条文は、たとえば射撃場や空港のために誰かの土地を徴収することを禁じている。しかし、国家が所有者に対して、近隣住民の歴史的美的見地に配慮して近代高層ビルを建ててはならないと告げて土地の利用を制限するとしたらどうだろうか。明らかに、所有者は損失を被ることになる(彼女は高層ビルを建てるつもりで土地を購入したかもしれない)。しかし一方、我々はなんらかの制限が課されたときにはいつでも{憲法で禁じられた}「取り上げ」takingが行われているのだ、などとは言うべきではない。私は自分の車を時速100マイルで走らせることは許されていないが、それでも私はその車の所有者である。こうした問題は、私的所有にこうした憲法上の保護を与えることにどういう理由があるのか(もしそうした理由があるとしてだが)ということを再度考えてみなければまともな答えを出すことができないものである。私的所有が保護されているのは、国家が資源の利用についてまともに決定する能力について我々が疑問を抱いているからだろうか?あるいは、公共の善のために個々人に期待されることになる負担の重さを制限したいからだろうか?私的所有産権(private ownership){を認めること}が寄与するとされている究極的な価値をどう理解するかということが、先の「取り上げ」条文や他の規則の解釈に大きな影響を及ぼすことになることになるだろう。
もちろん、私的所有と集団による管理は、二つに一つの選択ではない。現代社会では、共有ルールによって統制されている資源もあれば(道路や公園など)、集団所有ルールによって統制されている資源もある(軍事基地や武器など)。また、私的所有者が自分に割り当てられた資源を自由に使える度合いもちがう。所有者の自由が、背景となっている行動ルールによって制限されているのは明らかである。たとえば、私は他人を殺すために自分のピストルを使ってはならない。こうしたものは厳密な意味では所有のルールではない。もっとポイントに近いのは、ゾーニング規制のようなものである。結局のところこうした規制は、資源の利用のある側面について、集団的な決定を{所有者に}押しつけることなる。たとえば、歴史地域にある建築物の所有者は、その建築物を販売店や住宅やホテルにしてもよいが、解体したり高層ビルに立て替えたりしてはならないと指示されるかもしれない。このケースでも、歴史的建築物は私的所有として考えられていると言うことができる。しかし、公的機関によって、他にもあまりに多くの決定事項が支配力されることになるとすれば、それは実は集団的所有ルールの支配下にあるのだ(「所有者」は社会の決定にしたがった管理人の役目をしている)と表現したくなる。
それゆえ、私的所有の定義について、所有者が自分の資源について絶対的な支配力をもっているという含意をもたせようとするのはおそらく誤っている##。法学者のなかには、「所有」や「所有権」という言葉は、専門的な議論からは排除されるべきだと考える者もいる(Grey 1980を参照)。こうした法学者らによれば、ある人をある資源の「所有者」と呼んでも、その資源に関する当人の権利についてはっきりした情報を何も伝えてくれないのである。たとえば法人所有者は、個人所有者とは違う。また、知的所有{物}の所有者は、自動車の所有者とはちがった権利群をもっている。またさらにはまったく同一の資源についても、所有地になにも抵当がかかっていない地主の権利(と義務)は、抵当権所有者の権利(と義務)とはまったく別のものである。
こうしたわけで{所有や所有権という言葉を}排除してしまえという提案が意味が理にかなってくる。つまり、私的所有者の地位というものは、問題になっている対象の排他的な使用と支配力についての単一の権利としてではなく、場合によって多種多様な、複数の権利の束であると理解するのが最善なのである(Honore 1961)。「排他的な使用」という観念でさえ複合的な観念である。第一に、これは所有者が自分の好きなように(一般に受けいれられている利用の範囲内で)自由に対象を使用できるということを含意している。第二に、他の人々は所有者の許可なしに対象を使うことを控える義務を負っているということを含意している。この許可という点は、さらに、所有者は他人に自分の所有物の使用を認可する権力をもっているということを含意している。所有者は自分の自動車を貸し、家を賃貸し、土地を通行する許可を与えることができる。こうした権力の結果、また別の所有益(property interests)が生みだされ、所有権に関する各種の自由や権利や権力が複数の個人の間で分割されるということになる。
さらに印象的なのは、所有者は自分が所有している対象に対する権利の束を誰か他の人に全面的に移譲してしまう権限を法的に与えられていることである——ギフトとして、あるいは当人の死後の遺産として。この権限によって、私的所有のシステムは自己維持的になる。いったん対象を所有者に割り当ててしまえば、共同体や国家が配分の問題についてさまざま煩わしいことを考える必要はなくなる。{所有の}対象は個人所有者やその譲り受け人の思いつきや決定が命じるところにしたがって流通することになる。その結果、富が広範に配分されることもあるだろうし、また非常に限られた数の人の手に集中することもあるだろう。こうした大きな構図に関わる責任を誰も負っていないということが、私的所有の論理の一部なのである。社会は単に所有権が含意する排他的な権利を強制することに配慮するだけでよい。富める者と貧しい者の間のバランスに対する配慮は、公共政策の別の問題として扱われる(税制や福祉政策の問題として、あるいは極限的in extremis に広範な再配分の問題として)。あとで見るように、これが私的所有のシステムの長所であるのか、あるいは非難されるべき点であるのかということについて哲学者たちの見解は分かれる。
こうした分析を続けていると、最終的には私的所有の概念はまったくのところ完全に論争の的?になってしまう。所有権が相続権を含むと信じている人々は多い。しかしミルが述べたように(Mill 1994 [1848], p. 28)、私的所有というアイディアは、ただ「各自の、自分自身の能力に対する権利、当人がその能力によって生産するものに対する権利、そしてその生産物と引き換えに公正な市場で入手することができるものに対する権利」しか含意していない。ミルが言うところによれば、生涯においてなにも所有物を処分しなかった個人が、その所有物を子どもに相続させることは「正当な取り決めかもしれないしそうでないかもしれないが、とにかくそれは私的所有の原則からの帰結ではない(同上)」。こうした論争に対してはっきりした決着をつけるのはおそらく不可能である。ある種の概念は「本質的に論争のタネになる概念」としてみなされるべきだと主張する哲学者もいる(Gallie 1956参照)。もしこうした示唆にかなったものがあるとすれば、私的所有はまさにその一つである(Waldron 1988, pp. 51–2を参照)。
2. 所有の歴史
所有に関しては、プラトン、アリストテレス、トマス・アキナス、ヘーゲル、ホッブズ、ロック、ヒューム、カント、マルクス、ミルといった{哲学者の}著作のなかで広範囲にわたる議論が行なわれている。こうした哲学者たちが考察した正当化に関するテーマは非常に広範囲なので、その要約からはじめることにしよう。
古代の哲学者たちは、所有と徳との関係について考察した。これは彼らにとっては自然な議論の主題だった。というのも、私的所有を正当化しようとすることは、自己利益にかなった活動の正当性という重大な問題を引き起こすからである。プラトン(『国家』462b-c)は共通の利益を追求する共通の企てを促進し、「{国ないしは国民について起こっている}同じ状態に対して、ある人々はそれを非常に悲しみ、ある人々はそれを非常に喜ぶ(藤澤訳)」といった、社会的な不和を避けるためには、集団的所有が必須であると論じた。アリストテレスはこれに対して、私的所有は思慮や責任といった徳を促進すると主張した。「所有の配慮・責任が人々のあいだに配分されるなら、彼らはたがいに文句をつけることもないであろうし、かえって各人が自分のものに打ちこむから、いっそう大きい効果をあげることになるだろう(『政治学』1263a、牛田訳)」。利他性を促進するためですら、私的所有制度そのものを問題視するよりも、むしろ私的所有の権利を行使するあり方に倫理的な注意を向けた方が有効だとアリストテレスは言う(同上、{牛田訳p.60})。アリストテレスはまた私的所有{物}と自由の関係についても考えた。所有権はひとを自由な人間にし、それによって市民権をもつにふさわしい者にする。古代ギリシア人は自由であることを奴隷であることとの対比のものでとらえた。そしてアリストテレスにとって、自由であることは自分自信に属することであり、自分自身のもちものであって、奴隷はその本性によって他人の所有物である。自己所有self-possessionとは、自分の欲望から十分な距離をとり、有徳な自己コントロールを行うことである。こうした考え方によれば、自然の奴隷は、理性が身体的な欲望に対してルールに従うことを命じることができないのだから不自由なのである。アリストテレスはこの論点を、奴隷制を超えて、「労働者」the meaner sort of workmanにまで拡張することを躊躇しない。あまりに{生活の}必要性に迫られているため、貧乏な人々は「あまりにも品格を欠き」、そのため、自由人のようには政治に参加することができない。アリストテレスは「奴隷からなるポリスを作ることはできないように、貧困者からなるポリスを作ることもできない」(1278a ★発見できず)と述べている。奴隷と同じく、貧困者は支配されなければならない。さもなければ、労働者たちの差し迫った必要性が、嫉妬や暴力の問題を引き起こすからである。こうしたテーマのいくつかは公民的共和主義の理論でも最近あらわれている。ただ、現代の公民権citizenshipに関する理論は、誰が公民であるべきかに関する感覚から議論をはじめ、次に公民は皆所有(権)をもつべきだという議論する傾向があり、公民であるための独立した条件として、現に所有をもっているという条件を用いることは少ない。
中世においては、トマス・アクィナスがある人物の徳はその所有物の使用法に表われるとするアリストテレス的な考え方を継承し議論した。しかしアクィナスはそれにこうした議論の刃をさらに鋭く研ぎ澄ませた。裕福な者は寛大に振る舞う道徳的義務があるだけなく、貧困な者も裕福なものに要求する権利をもっているのである。アクィナスは「神の恩寵によって確立された自然的秩序にしたがえば、より下位の事物は、人間の必要を満たすという目的を命じられている」という前提からはじめる。そして彼は、人間の法にもとづく資源の分け方が、貧困と結びついた必要性より優先することはけっしてありえないと主張した。これは我々の伝統において、私的所有の正当性について述べたてられる事柄に対する本質的な制限としてなんども繰り返し現れるテーマである——もっとも有名なのは、ロックの統治論第一編(Locke 1988 [1689], I, para. 42)だろう(Horne 1990)。
近代に入ると、哲学者たちは所有が制度化されているありかたに注意を向け、ホッブズやヒュームは自然な「私のもの」や「あなたのもの」は存在しないこと、そして所有は主権国家の創設物であること、あるいはせいぜい協約(convention)による人工的な生産物であると主張した。こうした協約に「社会の成員が参加するのは、外的な財external goodsの所有を安定させるため、また各人が自分の幸運と努力によって獲得したものを平和的に享受することができるようにするため」である(Hume 1978 [1739], p. 489)。一方ジョン・ロック(1988 [1689])は、なんら特別な協約や政治的決定が存在しない自然状態においても、所有は成立しえたはずだと強硬に主張した。
ロックの理論は所有に関する正統派の論議のなかでも最も興味深いものであると広く認められている。これはひとつには彼の論述のはじめかたが興味深かったからでもある。ロックは自分の出発点として、神は人類に共通に世界を与えた、ということを出発点にしているので、私的な権利の保有というのはそもそものはじめから問題含みになることを認めざるをえなかった。我々はいかないして共通で与えられた状態から、「不均衡で不平等な地上の所有」に至るのだろうか?先行する論者たちとは異なり、ロックは(暗黙的かもしれないが)普遍的合意の理論、などといったものにもとづいてこうした問題を解決しようとはしなかった。かわりに彼は、以下の最も有名なパラグラフで、単独的占有の正当性を道徳的に擁護しようとするのである。
大地は……人類の共有物であるが、しかし、すべての人が自分自身の身体に対しては所有権を持っている。これに対しては、本人以外の誰も、いかなる権利をも持っていない。彼の身体の労働とその手の働きは、まさしく彼のものと言ってよい。そこで、自然が与え、そのままにしておいた状態から彼が取り出したものは何であっても、彼はそこで労働をそこに加え、彼自身のものをつけ加えて、それへの彼の所有権が発生するのである。そのものは自然のままの状態から彼によって取り出されたものであるから、この労働によって他の人の共有権を排除する何かが付け加えられたことになる。(Locke 1988 [1689], II, para. 27)(伊藤訳)
ロックの理論のおもしろい点は、最初の占有に関する理論の構造と、労働に関する実質的な道徳的意義についての説明を合体させていることである。「最初の占有」理論がもとづく基盤は、自然資源——たとえば土地——の最初の利用者は、それを自分の所有物にするために他の誰かを押しのける必要はなかったという点で、他の人々からはっきり区別されるということである。そのひとがどのようにしてそれを所有したか、あるいは、それをどのように使用したか、ということは特に問題にならない。さて、ロックはこの理論の論理を用いたのだが、彼にとっては土地を耕したり、なんからの仕方で生産的な利用を行ったりすることが重要だった。(このため、ロックは現地の狩猟民や遊牧民が、歩きまわっている土地の所有者であると本来的な意味で言えるのかということに疑義を表明している。)これは、ロックが労働の所有権を、自分自身に対する根源的な所有権と実質的に結びつけているからでもある。しかしまたそれは、「最初の占有」理論に見いだされる難点の一部に、労働の生産性によって答を与えることができると彼が考えたからでもあった。最初の占有者はたしかに誰も排除しないが、彼がそれを自分のものにしたことは、もし、(ロックの言葉で言えば)他の人にも「共有物として十分なものが同じように残されて」(Locke 1988 [1689], II, para. 27)いなければ、他の人の利益を害していることになる。この難点に対するロックの答は、生産的な労働による所有取得は、実は社会において他の人が利用できる財の量を増加させているのだ、というものである(ibid., II, para. 37)。
イマニュエル・カントの所有についての考察はロックのものほど知られておらず、またロックよりも形式的で抽象的である。カントは所有と行為者との一般的関係を強調し、有益な対象が利用されることを許可するシステムが成立していなければ、行為者への、それゆえ人間の人格性への侮辱が行われることになる。カントはここから、「外的なもの(使用できるもの)が、だれかの自分のものになることができるように、他の人びとに対して行為することは、法の義務である」(Kant 1991 [1797], p. 74, Gregor訳p.42、岩波邦訳p.76)と推論する。こうしたことは一方的取得を正当化するが、しかしそれは暫定的なものにすぎない。資源を私的所有として取得することは他のあらゆる人々の立場に影響を与えるため(そういう事情でなければ追わなかった義務を課すことになる)、一方的な行為によっては完全な合法性を得ることはできないのである。したがって、外的な対象が所有物として使用できるように行為することを人々に要求する原理の力は、人々が市民的政体に参加することをも求める。そして市民的政体が、誰が何の所有者であるかを、全員にとって公平な基盤にもとづいて定めるのである。
G.W.F.ヘーゲルの所有の説明は、所有の自己の発展に対する貢献、すなわち「人格の主観性を止揚(『法の哲学』§41a)#」し、個人の自由という単なる観念にすぎないものに外的な実在を与えることに注目している。こうしたかなり曖昧な定式は、イギリスの観念論者たち、とくにT. H. グリーンなどによってもとりあげられた。グリーンは所有権が倫理的発達、意志や責任の感覚の育成に対してもつ意義を強調した。しかしヘーゲルもグリーンも、個人の成長が究極のものであるとは考えなかった。両者ともに、所有として具現化されている自由は積極的自由——すなわち、より広範な社会的全のために合理的に責任をおいつつ選択する自由であるとみなした。カール・マルクスの哲学においては、積極的自由の成長には段階があるというヘーゲルの感覚は、個人の成長よりはむしろ社会の発展の段階として捉えられることになった。マルクスが言うには、近代社会の発展の道筋全体は、大規模な協働へ向かっている。このことは、大企業を私的所有者とみなす所有の形態によって覆い隠されてしまっているかもしれないが、最終的にはこうした覆いは放棄され、集団的経済関係が出現しそうしたものとして祝福されることになる。
こうして、社会主義と比較した場合の私的所有の一般的な長所という問題が19世紀から20世紀にかけての本物の論争の主題となった。ジョン・スチュワート・ミルは彼らしく開かれた心で共産主義を正真正銘の選択肢の一つであるとして扱った。彼は集団主義的理想に対する各種の反論に対して、現存の資本主義社会における所有の不公正な配分はすでに多くの難点を伴っているという示唆した。しかし彼は、私的所有もまた正しく長所を見られるべきだと主張した。
もし……共産主義と、苦しみと不正義に満ちた現在の状況の間で選択しなければならないのなら、共産主義にまつわる難点は大きなものであれ小さなものであれ、天秤の上では埃のように軽いものにすぎない。しかし、こうした比較を適用するためには、最善の形の共産主義を、現状ではなく、ありえる個人的所有体制と比較しなければならない。……所有に関する法制度は、いまだに私的所有の正当化がもとづいている諸原理に適合したものになっていないのである。(Mill 1994[1848], pp. 14–15)
ミルは確かに正しい。少なくとも、所有に関する哲学的論議がなにを目指しているのかということに関しては。実際のところ、ここまで簡単に調べてきた歴史は、現に存立している偏った配分や搾取の塊から、理想的な私的所有のシステムを正当化できる本当の原理のなんらかの意味や、そうした制度が役に立つことになる道徳的取り組みの意味を梳き出そうとしていると見ることができるのである。
3. 所有は哲学の問題か?
所有のなにか哲学者の興味を引くのだろうか?なぜ哲学者は所有に興味をもつべきなのだろうか。
特に興味をもつ必要はない、という人々もいる。ジョン・ロールズは所有権のシステムは第二義的あるいは派生的な問題出会って、政治哲学的問題というよりはプラグマティックに扱われるべきだと論じた(Rawls 1971, p. 274)。どんな社会でも、経済の組織化が市場と私的所有権を基盤とするべきか、あるいは中央集権的な集団的支配を基盤とするべきかを決定しなければならないが、どちらにもしても哲学者がこうした論議において貢献できることはほとんどない、と。ロールズが言うには、哲学者は、社会的・経済的戦略についてのアプリオリな問いを解決しようとするよりは、いかなる社会制度の成立をも制約すべき正義についての抽象的な原理を議論していたほうがマシである。
一方、近年ますます公共政策一般に注目が集まっているので、所有に関する問題が哲学者が扱えるぐらいには抽象的な言葉で議論できるということを否定するのは難しい。ロールズは、われわれは所有よりもむしろ正義について語り合ったほうがよいと助言してくれているのだが、実際のところは所有の問題は近年政治哲学者たちを夢中にさせている正義の問題のなかに不可避にふくまれているのである。ある種の所有制度は他の所有制度よりも正義のためになるのはまちがいがない。社会のすべての資源あるいは資源の大半をカバーするような市場と私的所有のシステムは、平等、必要に応じた配分、あるいは一部の論者が主張するように――たとえばハイエク1976を見よ――功績に応じた分配といった原則をしっかり適用することをたいへん難しくしてしまう。一部の論者によれば、市場経済における所有の権利は、再分配分に抵抗的なものとして扱われるべきであって、またおそらく、最初の資源配分の瞬間を除いては、分配の正義一般へのインセンティブとして扱われるべきである(Nozick, 1974)。もし我々がこういう見解を採用し、分配の問題をまじめに考えようとすならば、私的所有による純粋な市場システムよりは、もっと妥協的で折衷的なシステムを支持しなければならないことになるだろう。
所有権関係そのものはどうだろうか?ある人の物質的始原にたいする関係の本性に内在的な哲学的に興味深い問題があるだろうか?ある人が「Xは私のものだ」といい、Xが行為であるとき、志向性や自由意志や責任といった興味深い問題があらわれてきて、哲学者はそれを追求したいと思う。あるいは誰かが「Xは人物Pに属する」といい、Xが出来事や記憶や経験であるとき、人物の同一性について興味深い問題がある。しかしXがリンゴや土地や自動車である場合には、XとPの間には、我々の興味をひくような内在的な関係は存在しないように思われる。
これがデビッド・ヒュームの結論だった。私的所有についてはなにも自然なものはない、とヒュームは書いている。我々の情念と、[物質的対象が]「遊動的である人から他の人に容易に移行する」ことの「対立」が意味しているのは、私が保有し使用している資源が常に破壊されてしまうかもしれないとうことである(Hume 1978 [1739], p. 488)。社会的ルールによって所有が安定するまでは、人と物の間には確固たる関係は存在しない。我々はそうした関係が存在するべきだと考えるかもしれない。たとえば我々は、人は自分が作ったものに対して道徳的権利を持っているとか、社会はこの道徳的権利に法的な裏付けを与えるべきだと考えるかもしれない。しかしヒュームによれば、特定のひとと特定の物との関係の規範的な意義について結論を下そうとする前に、まず一般にこうした種類のルールを取り決め実施することにどういう意義があるのかを当必要がある。
我々の所有とは、社会の法すなわち正義の法によって恒常的所持が確立されている物財に他ならない。したがって、正義の起源を解明し負えないうちに所有とか権利とか責務という言葉を使用し、あるいは正義の起源の解明にそれらの言葉を用いさえする者は、はなはだ大きな誤謬を犯す者であり、堅固な根底に立って論究することは決してできないのである。人間の所有とはその人間に関連した事物である。この関係は自然なものではなく、道徳的なものであり、正義にもとづいている。それゆえ、正義の本性を完全に把握し、その起源が人間の人為と工夫にあることを示さないままに、所有についてなんからの観念を得ることができるなどと想像するなどといったことは途方もないことである。正義の起源が所有の起源を説明する。まったく同じ人為が両方を生み出したのである。(ibid., p. 491)(岩波文庫p.64)
所有をめぐる問題は、社会体制の一般的な基盤についての問題を引き起こすということは、すでにトマス・ホッブズによって示されていた。実際のところ、ホッブズは所有を政治哲学の鍵であるとみなしていた。「人間がある物を他の人のものではなく自分のものと呼ぶべきだということはどこから由来しているのだろうか、ということが私の最初の探究だった」(Hobbes 1983 [1647], pp. 26–7 )。ホッブズにとって、所有のルールは権威の産物だった――公認された権威は、平和を保障し、人びとがそれぞれの力を使うだけでは守りきれないような社会的・経済的な活動に乗り出すことを安全にしてくれるのである。対照的にヒュームは、合意は権威を認められた人物によって課されるものというよりは、ふつうの人間の交渉から慣習(コンヴェンション)として生まれくるという可能性に興味をもっていた。
仮に譲歩して、所有は社会的ルールの産物であり、所有について規範的なことを考えるには社会的ルールについて規範的なことを考えなければならないということを認めるとして、所有関係は他でもないある一定の仕方で確率されるべきだと主張する哲学的な前提となる人間の条件なり具体的存在としての我々人間の活動agencyというものがあるかもしれない。明らかに、人が法以前の関係としてもっているように思われる物質的対象が少なくとも一つあり、哲学的分析に値する――それはすなわち、その当人の身体である。我々は身体をもった存在であり、ある程度自分の四肢や感覚器官などの使用と支配力は、我々の活動に欠くことはできない。ある人がこれらの支配力を奪われたとしたら――他人がその人の物理的身体の動きを妨げたり操ったりする権利をもっているとしたら——その人の活動はごく切りつめられたものになり、その人が自分の生活だとみなしているなにかをする意図と行為の能力を使うことができなくなってしまうだろう。現代の論者たちはジョン・ロックにしたがって、これを自己所有という観念のもとで考えようとしている。G. A. コーヘン (1995) によれば、ある人が自分を所有しているといえるのは、その人が奴隷だったらその主人がもつことになるような身体に対する支配力をその人がもっている場合である。さて、奴隷の主人は自分の利益のために奴隷をさまざまに使用する権限をもっているのだから、自己所有という観念からは、当人は自分の精神的・身体的資源に対する支配力から同じようにさまざまな利益を得ることが許されなければならないように思われる。所得に対する課税は(他人や国家のための)強制労働の一形態であるとするノージック(1974)からヒントを得て、コーヘンはさまざまな平等主義的政策(税金からの福祉支出など)は富裕者の自己所有と両立しないと結論する。それゆえ我々は平等の原理と自己所有の原理との間で選択しなければならない。この問題についての論議は続いている。自分自身や身体や物質的資源を所有するということを問う前に、まず我々がお互いに負っているものをはっきりさせねばならない。また別の論者によれば、きちんとした議論をしようとすれば必ず直感に反する結果になってしまう(Nozick 1974, p.234)。
自己所有権が、私の身体以外の外的な事物の所有を考える基盤を与えてくれるのかという問題もある。ジョン・ロックはたしかに与えてくれると考えた(Locke 1988 [1689], II, para. 27)。ロックは、私がある対象に対して作業したり、土地を開墾したりすることによって、私は自己所有している自己のなにものかをその物に投影する。この私が作業したなにものかが私のある部分を具現化している、ということは非常によくある感覚だが、これに分析的に性格な意味を与えることは難しい。ある対象が現状のようになっているのは、私の行為の結果そうなっているのだということはある。しかし、行為は通時的に成立しつづけていて、それがおこなわれた時点ののちにも、その行為はずっと対象のなかに存在しつつけている、などということはできない。労働を混入するという観念は、私的所有を擁護する他の議論を強化するレトリックではあるが、それ自体自立できる論証ではない。
まったく反対の方向への作用を考える論者もいる。自己を対象に投入するというよりはむしろ、事物を自己に併合するという作用を考えているのである(Radin 1982)。こうしたものがヘーゲルの著作での一つのテーマだった。そこでは、所有を所有することは、個人が「人格性の単なる主観性を止揚する」のを手助けすることになる(Hegel [1821] 1991, 73)。平明に言うと、所有の所有は、頭のなかでぐるぐるまわっているだけの企画や計画を具体的なものにする機会を個人に与え、また作業している対象の物質的事物――住宅や彫刻家の大理石の塊――が、彼らがおこなった決定の刻印を押されるということで、その意図についての責任をとる機会を個人に与えてくれるのである(see Waldron 1988, pp. 343–89)(★読めない)。ジェレミー・ベンサムのような功利主義者でさえもこうしたアイディアを云々している。ベンサムが言うには、所有は実定法にもとづいてはいるが、所有の法は、再配分を特段に反対すべきものにするような影響を自我に与えている。法は我々の期待に安全を提供する。そしてこうした安全が特定の事物に集中すると、その事物は当人の活動の構造の一部となる。「したがって我々は行動の一般的計画を形成する力能をもつことになる。それゆえ生の持続を校正するそれぞれの瞬間は孤立し独立した点でなあく、ひとつの全体の持続的部分となるのである。」(Bentham 1931 [1802], p. 111)★ (読めなくて現在ふて寝しております)
4. 所有の系譜学
我々の哲学的伝統では、所有の正当化についての議論はしばしば系譜学的に示される。つまり、それまでのところそうした制度をもっていなかった世界において私的所有が現れる仕方についてのストーリーとして示される。
もっともよく知られているのはロック的なストーリー(Locke 1988 [1689] and Nozick 1974)である。まず、自然状態と、土地は誰も特定の人のものではないという前提から話をはじめる。次に、個人が土地や他の資源を自分のものにして、個人的に使用ことがなぜ賢明なことなのか、またどういう条件でなればそうして自分のものにすることが正当化されるのかというストーリーを語る。個人は、自分のまわりに必要を満たしてくれる物があることに気づく。しかしそれぞれの人Xは、神や自然がそれをXだけ使用するようにはしてくれていないことにぼんやりと気づいている。他の人もそれを必要としているのである。すると、Xはなにをするべきだろうか?一つ明らかなことがある。もしXが、自分の身の回りにある資源を使う前に、それによって影響を受ける人びとによる集会が開かれるのを待たねばならならないとしたら、ロックが言うように「神が豊富に与えてくれているにもかかわらず、人間は飢え死にしてしまったであろう」(Locke 1988 [1689], II, para. 28)。したがって、個人は待っていないでそれを取らねばならない(ibid., I, para. 86)。人間は自分が必要とする物に「労働を混入し」、そうすることによって自己保存という自分の根本的な義務を果たし、また資源の価値を増大させることによって、それが間接的に他の人びとに対する利益にもなる。ロックのストーリーの最初の段階では、個人は共通に与えられた贈り物から、このように有徳で自律的な仕方で自分の必要を満たすことになる。ストーリーの第二段階では、個人はそれぞれ自分が獲得した財の余剰をお互いに交換することになる。ロックは余剰を人びとの共通の相続所有として残すとは言わない。むしろロックは、個人が自分が使い切れるよりも多くのものを獲得し、育て、作ること、そしてそれによって市場と経済的な繁栄一般が可能になることを容認している。しかし、市場と経済的繁栄によって不平等と貪欲と妬みが生じる。ロックの説明の最後の第三段階は、このようにして発生してきた所有権を守る政府の設立である(ibid., II, paras. 123 ff.)。このストーリが前提しているのは、政府の保護なしに誰が財を獲得し交換する権原をもっているのかという問題を個人は推論することができるということ、また、第一段階でも第二段階でも、所有についての社会的・政治的な意思決定は必要とされないということである(★reason throughがちょっと)。
もっとも基本的な一面において、ロックの系譜学は「最初の占有」理論の特徴をもっている。第一に、個人の獲得の正当性の大部分は、他人から直接に取り上げたりはしていないということから生じている。定義によって「最初の占有」は平和的なのである。もちろん、ロックの説明においても功利主義的な要素や徳理論的要素は色濃く存在している。労働の生産性や、「喧嘩好きで争いやすい人びとの貪欲」よりも「勤勉で理性的な人びと」とロックが呼ぶ人びとが特権をもつことなどである(ibid., II, para. 34)。しかし、歴史的先取という論点は欠くことができない。ある資源を誰が最初に使ったかということは重大であり、財が次第に手から手へと移譲された順番は現在の権原の正当性を理解する上で欠かすことのできないものである。ロバート・ノージック(1974)はこの種の「歴史的権原付与」理論をはっきりさせるために誰よりも重要な仕事をした。
すべての所有の系譜学がこうした形態をとるわけではない。デビッド・ヒュームはまったく違うストーリーを語っている。彼のアプローチでは、まず太古以来、人びとは資源を争ってきたのであり、いかなる時点でも事実上の de facto占有の配分は恣意的であって、それは力や欺きや幸運によってそうなっているにすぎない。さて、そうした戦いは無制限につづけることができる。しかし、重要な資源を所有している人びとと、他人から資源を奪いとりたいという誘惑にかられている人びとが、さらに収奪活動をおこなう限界費用が、限界利得と等しくなるとわかる安定した均衡状態におちつくというともありえる。こうした状況下では、「平和的な配当」のようなものが可能になるかもしれない。おそらく誰もが、もはや占有物をめぐって戦わないと合意することによって、葛藤の減少や、社会的関係の安定や市場での交換の見込みを得ることができるだろう。
私の見るところでは、他人が私について同じしかたで行為するとするならば、他人に他人の持ち物を他人に持たせておくのが私の利益にかなうだろう。他人も自分の行動を規制することに似たような利益を感じとる。こうした共通の感覚がお互いに表明され、お互いに知られれば、それに適合した決意と振舞いが生み出されることになる……。(Hume 1978 [1739], p. 490)
こうした決意は、それが継続すれば、時が経つにつれて事実上のde facto所持を法的なde jure所有として承認することにつながる。ロックの理論と同じように、ずっと後になれば、こうして非公式に発生した所有の慣習を強制するために、国家が図式のなかに現れることになる(ibid., pp. 534 ff.)。しかし、ヒュームのストーリーがロックの理論よりも道徳的な主張についてははるかに穏健なものであることに注意しておこう(see Waldron 1994)。このようにして生じてきた配分は正義とはなんの関係もないし、また財が獲得された行為の道徳的性質とも関係がない。おこなわれた配分は公正な場合もあればそうでない場合もあり、また平等な場合もあればそうでない場合もある。しかし参加者は、もはやふたたび他人と力比べをしても、ずっとよい配分を期待することなどはできないことをすでに知っているのである(このアプローチの現代版についてはBuchanan 1975を見よ)。
所有に起源に関する説明として、ヒュームの理論はライバル理論よりすぐれている点がある。それは、人類の歴史の初期は、原理原則などといったものによってほとんど規制されない葛藤があり、後代の道徳的探究には不透明な時代だった、ということを認めている点である。ヒュームの理論によれば、我々は歴史を探究して誰が誰に何をしたかとか、そうしなかったらどうなっていたであろうか、などということを考えなくてもすむ。いったん占有のパターンが生じたならば、あとは適当な線を引いて、「所有の権原がここから始まる」と言いさえすればよい。このモデルには現在にとっても重要な規範的帰結がある。現在成立している所有の配分を疑問視し、転覆させたいという誘惑に駆られている人々は、いくら頑張ってそんなことをしたところで、正義の新時代を切り拓くどころか、すべてが白紙で、計画や協同が実質的にまったく不可能な葛藤の時代を開始させるだけだということを認めなければならない。ヒューム的アプローチの弱点はその長所と裏腹である。ヒューム的なアプローチが軽視している道徳的考慮は、我々には重要なのである。たとえば、ヒューム的慣習が奴隷制やカニバリズムを承認するとしたら我々はうれしくない。しかし、ヒュームが示したのは、誰かが他の人の身体を所有するということが葛藤の時代から生じてきた平衡状態の特徴であってもさしつかえない、ということなのである。結局のところ、正義の感情はお互いの事実上のde facto 占有を尊重するうという慣習から築きあげられてきたというヒュームが正しいとしても、このいったん確立されたこの正義の感情はそれ自身の生命をもってしまい、のちにはこの感情自体を生みだした平衡状態に反するものになってしまうことがあるのだ。
所有物語のバラエティの三番目は、社会契約をロックやヒュームのアプローチよりもさらに根源的なものにするものである。自分が必要としたら欲しいと思う資源を占有するために、自分自身の身体的・道徳的主導権を使いそれに頼っている時代を想像してみよう。そこでは、次第に、信頼できる所有の取り決めが社会的決定を含まざるをえないことが明らかになってくる。最終的には、所有は合意にもとづかねばならない——資源の使用やコントロールについての決定によって影響を受けるすべての人の合意にもとづかねばならない。こうした理論はジャンジャック・ルソー(1968 [1762])とインマニュエル・カント(1991 [1797])の規範的政治哲学と結びつけられている。すでに見たように、ロックによるこうしたアプローチへの批判は常に、物質的必要の緊急性からすると、社会的合意を得るための時間は残されていない、というものだった。実のところは、ルソー/カント的アプローチはこうしたポイントについては問題を抱えているわけではない。一方的な仕方でおこなわれる暫定的な占有も可能である(Ryan 1984, p. 80)。しかし、そうした占有もすべて原則的には全員の合意のもとになければならないし、社会的に承認されなければならない。言い替えると、深刻に異常な配分が生じてしまっている場合には、直接的な必要が緊急だからといって、それが占有を見直し再配分することを疑う根拠にされてはならない。
こうしたことが資源を個人に合法的に割り当てるという点で生み出すことになるのは、一般意志による承認というテストをくぐりぬけた分配の原則の問題である。ロールズ主義や平等主義や功利主義のアプローチはこうした説明の助け借りることでやっと想像できるものになる。ルソー/カント的なアプローチの本質は、社会がこうした分配の原則をすでに成立している分配を評価するために用いることは、権原付与の歴史などによってはくつがえされることはないということであり、実際に占有している人々の間でのなれあいによる平衡状態として生じてきたヒューム的慣習などによって排除されることはありえないということである。
こうした複数のストーリーについてどんな主張がおこなわれてきただろうか?われわれはこれらのうちどれか一つが文字通り正しいと想定するべきだろうか? あるいは、われわれは(かりに歴史的に不正確なものであるとして)これらのストーリーの誤りからなにを推論するべきだろうか。近年かなりの数の哲学者が、文字通り真ではないにしてもこうした系譜学は現象を理解するために重要な貢献をなしえると示唆している。エドワード・クレイグ(Craig 1990)の知識の概念の所有についての系譜学的説明にしたがって、バーナード・ウィリアムズ(Williams 2002)は言語と真実告知の発生について上のようなことを示唆している。ロバート・ノージックもまた「潜在的な説明」と呼ぶもの——もし現には成立しなかったことが成立していたならばなにが起こったであろうかを説明するストーリーについて次のように論議している。「原則として領域全体が根本的に説明されうるということを知ることは、その領域についてのわれわれの理解を大きく拡大してくれる……国家がどのようにして生じることができただろうかということを知ることことは、実際にはそのようでなかったとしても、われわれにたくさんのことを教えてくれるのである(Nozick 1974, pp. 8–9)」。
この点からすると、われわれが見てきた系譜学は様々である。ルソー/カント的アプローチは、なぜ私的所有が内在的に社会の関心事であるのか理解する手助けになる。またヒューム的アプローチは、われわれの正義についての独立した直観に対する答となっているか否かは別にして、とりあえずは、その他の社会生活はこの基盤となる、安定した相互に承認された所有の基盤の価値を理解する手助けとなる。しかし、ロック的系譜学は、それが実際に真でなければ、所有の権原付与についてほとんどあるいはなにも説明してくれない。ノージックが認めているように(1974, pp. 151-2)、近代国家は、過去にはロック的な血統書をもっていたかもしれないが、現にはそんなものはもちあわせていない所有所有などというものに道徳的に制約されると感じるべきではない。こうした点で、最近のロック的理論の主な使用法の一つが、先住民の所有を弁護することだということは興味深い。──そこでは、資源の最初の占有者についての主張や、その後の収奪にまつわる不正義を正す必要が文字通り行われている(see Waldron 1992)。
最後に、ここまで見てきた系譜学がすべて、説明しようとしている慣行や制度に好意的だというわけではないことは忘れるべきではない。カール・マルクス(1976 [1867])の本源的蓄積の説明や、ジャンジャック・ルソーの『人間不平等起源論』(Rousseau 1994 [1755])での所有の発明の非規範的記述は、正当化の探求というよりは、ニーチェ的な病理学の精神で書かれている。こうしたネガティブな系譜学が我々に思いおこさせるのは、ミルの意見である。ミルが言うには、私的所有の正当化にあたって、我々は「現在のヨーロッパ諸国における現実の{私的所有の}起源については考察から除外しなければならない」のである。
5. 正当化:自由と帰結
正当化の問題はそれゆえ、歴史や系譜学的な語りを用いずに直接に向かわれることになる。
制度としての私的所有に対する賛成論や反対論を扱うにあたって、私的所有の一般的な正当化と、個々の所有権は別々の問題として扱われるべきだとされることがある。むしろ、刑罰の一般的な正当化と、その分配を定める原則とは分離するよう一部の哲学者たちが示唆しているのと同じような仕方で扱われるべきだ、というのである(Hart 1968, p. 4; see also Ryan 1984, p. 82 and Waldron 1988, p. 330)。しかしどちらのケースでも、こうした分離は完全なものにはならない。ある種の一般的な正当化についてはうまくいくが、そうでないものもある。刑罰の理論においては、応報主義者は、刑罰を統べる原則は、必然的に刑罰の個別の分配をも規制するものになるはずだと信じる傾向にある。これと同様のことが、所有の理論においても存在する。ロバート・ノージック(1974)が主張するところでは、ロックの議論の流れにしたがった歴史的権原付与は、所有の制度の完全な正当化と、その合法的な分配の厳密な基準の両方を提供するものである。ノージックによれば、所有権は、我々が分配の正義についてもっている直観と理論にもとづいて行為する権原を制約するものである。しかしながら帰結主義的理論は、上のような仕方で制度の問題と分配の問題を分離できるかもしれず、また、ある種の自由の理論もそうであるかもしれない(もっとも、自由の分配はそれ自体リバタリアンがしっかりとした──そして平等主義的な!──見解を抱いているものではある)。こうしたわけで、我々が分配についての議論を評価しようとする際には、その議論が分配についての直接的・間接的な含意をもっているかどうかという問いを心にとめておくのがよいだろう。
もっともよく見られる正当化の議論は、帰結主義的なものである。人々は一般に、資源が私的所有という社会秩序によって統制されている場合の方が、他の体制によって統制されているよりも暮しむきがよくなる、というのである。私的所有のもとでは、他の体制より資源はより賢く、あるいはより広い(そしておそらくより多様な)必要性を満たすために使用されることになるだろう。したがって、人間が一定の資源のストックから引き出す全体としての享受が増大することになるだろう、とされる。この種のものでもっとも説得力のある議論は、「共有地の悲劇」と呼ばれることがある(Hardin 1968)。もし誰もが一定の土地を利用する権原を与えられているならば、誰もそこに作物を植えたり、過剰に使用されないようにするインセンティブをもたない。あるいはもし誰かがこうした責任を引き受けるとしても、そういう人々はそうするコスト(作物を植えるコストや自己抑制するコスト)の全部を引き受けねばならない見込みが高い。一方、そうした人々の賢慮によって生まれる便益は、あとに続く人々すべてに渡されることになる。そして、多くのケースではなんの便益もないことになるだろう。というのは、ある人が植えたり抑制したりすることは、他の人々が強力してくれないかぎり無駄だからである。したがって、共有所有というシステムのもとでは、入り会権利保有者それぞれは、できるかぎり早く、できるかぎりたくさん土地から多く獲得するインセンティブをもつことになる。そうすることによる便益は短期的には集中的で保証されてものである一方、自己抑制による長期的な便益は不確実で拡散的だからである。しかし、それまで共有地だったところを区画に分け、それぞれを、個々の何が起こるかコントロールできる人に割り当てれば、計画や自己抑制が有効になる可能性が出てくる。こうなれば、抑制のコストを担う人はその便益のすべてを手にすることができる立場のある。したがって、もし人々が合理的であり、抑制(あるいはなんらかの将来を見通した活動)が実際に費用効果が高いものならば、引きだされる効用の総量は向上するだろう。
この種の議論はよく見られるもので重要ではあるが、他の帰結主義的な議論と同様に、注意して扱う必要がある。ほとんどの私的所有システムでは、ほとんど、あるいはまったくなにも所有しておらず、完全に他の人々の世話になる個人が存在する。したがって、私的所有のもとでは「人々は一般に」暮しむきがよくなるというとき、私たちは問わねばならない。「どの人々が?みんなが?多数が?それても、単に少数の所有者たちの暮し向きがすごくよくなって、功利計算の結果、他の人々の困窮を相殺するほどだ、ってことなの?」と。ジョン・ロックは思いきって、誰もが暮し向きがよくなるだろうと示唆した。共有地が急速に私的所有者によって囲いこまれたイギリスと、先住民が土地に対する普遍的な共有アクセスを享受していた植民地化される以前のアメリカとを比較して、ロックは「大きな豊かな領地の国王が、イングランドの日雇い労働者より粗末な物を食べ、貧しい家に住み、粗末な服を来ているのである」とする(Locke 1988 [1689], II, para. 41)。労働者は何も所有していないかもしれないが、彼の生活水準はより高い。雇用の見込みが繁栄した私有経済(privatized economy)によって提供されているからである。あるいは、帰結主義者のうちでももっと楽観的な人々は、今日ならば「パレート改善」とでも呼ばれるものによって{私的所有}を正当化しようとする。おそらく、以前に共有だった土地を私有化することは、誰にとっても利益になるということはないだろう。しかし、それは一部の人々の便益を与え、かつ、他の人々を以前より暮らし向きが悪くすることはない。この説明によれば、貧しい人々が家をもたず、ますます悲惨になることは、私的所有の結果ではない。こうしたことは人類の自然な境遇であり、そこからなんとか抜け出すことができたのは、少数の精力的な占有者たちだったのだ、とされる。
ここまで、共有所有よりも私有所有を擁護する帰結主義者の主張を考察してきた。集団所有よりも私有所有が望ましいとする帰結主義者の議論は、資源利用に関する責任や自己抑制の必要性といったことがらよりも、市場に関わるものである。市場を擁護する議論は、複雑な社会では、特定の生産プロセスに対して、特定のそれぞれの資源ごとをどう配分するかということについて数限りない決定がなされなければならない、というものである。ある量の石炭を使用するのに、それを発電に使い、その電力をアルミを精錬するのに使い、さらにそのアルミ鍋や飛行機を製造するのに使うのと、その石炭を製鉄に使い、それを線路を作るのに使い、さらにそれを使って家畜やボーキサイトをある場所からある場所へと輸送したりするのと、どちらがよりよい使い方だろうか?ほとんどの経済体制では、数十万もの別々の生産ファクターが存在しており、その配置の効率的な決定が、共同体の名において活動し、全体としての経済を監督する役目にあたる中央エージェントなどといったものによってはうまくなされてないということがわかっている。現実に成立した社会主義社会では、中央計画は経済的寄生や、非効率、浪費などを促進することが判明している(Mises 1951)。市場経済では、こうした決定は、価格シグナルに反応する何千もの個人と企業によって分散ベースでなされる。個人や企業はそれぞれ自分のコントロール下にある生産資源を使用することから利益を最大化しようとしており、こうしたシステムはしばしば効率的に機能する。こうしたことを私的所有なしになしえる市場といったものをと想像した人々もいるが(Rawls, 1971, p. 273)、希望がないように思われる。市場における個々のマネージャーが、投資と配分の決定において個人的利益を考慮することによって直接的・間接的に動機づけられなければ、彼らが価格に効果的に反応すると期待することはできない。こうした動機は、資源が私的に所有されている場合にのみ生じる。その場合には、市場のシグナルが見落されれば損失は彼ら(あるいはその雇用者)のものになるし、しっかり有利に配分された場合の利得も彼らの(あるいはその雇用者の)ものになる。
先に、帰結主義的な擁護は、私的所有システムのもとで誰もが暮しむきが良くなるということ、あるいは少なくとも誰も暮し向きが悪くなることはないということが示されなければ、うまくいかないと述べた。さて、経済の私有化からすべての市民が大きな利益を得る社会というものは、おそらく実現不可能な理想ではない。しかし、現存する私的所有システムでは、ほとんどあるいはまったくなにも所有していない階級の人々が存在しており、彼らは社会主義的な代替案のもとでよりも暮しむきがずっと悪いと主張できる。正当化する理論はこうした人々の苦境を無視することはできない。それが、正当化という課題を提示しているのがそもそもこうした人々の苦境だという理由からにしてもである(Waldron 1993)。強硬派の帰結主義者は、私的所有から利得を得ている人々に対する利潤は、下層階級に対するコストを上回ると言いはろうとするかもしれない。しかしながら哲学的には、この種の強硬路線はまったく不評である(Rawls 1971, pp. 22–33; Nozick 1974, pp. 32–3)。もしわれわれが道徳的正当化の焦点として「社会の善」のような観念的な存在よりは個人に注目するなら、擁護している制度が支持に価するのはなぜかということについて、個々の人に言うべきなにかがあるはずである。そうでなければ、(我々が無理矢理そうさせる権力と数をもっていないかぎり)その人がその制度のルールを守ることを期待されるべきである理由が明確でなくなってしまう。
おそらく、貧しさのなかで苦しみ暮す人々もいるにもかかわらず、私的所有制度の果実を味わえる人もいるということに正当性があることを示すためには、帰結主義的な議論を功罪応分desertについての議論で補強することができるかもしれない。もし私的所有が資源のより賢くより有効な利用を含むとすれば、それは誰かが思慮や勤勉、自己抑制といった美徳を行使したからである。この説明では、貧困に喘ぐ人々は、大部分、その怠惰さや放蕩、進取の精神のなさなどのためにそうなっているのだ、ということになる。こうした理論は、それが現存の私的所有経済のもとでの現実の富の分配を正当化しようとするのであるならば、簡単に疑いを投げかけることができる(Nozick 1974, pp. 158–9; Hayek 1976)。しかし、功罪応分の理論が採用できるもっと穏健な立場がある。すなわち、私的所有だけが、勤勉さを犠牲にして怠惰が報われるということのないシステム、思慮や生産性という負担を担う人々が、こうした人々をなんの努力もしなかった人々から区別するものである美徳の成果を収穫することを期待できるシステムを提供できるのだ、とする立場である(Munzer 1990, pp. 285 ff.)。
こうして主張されている市場の長所の多くは、私的所有が一定の仕方で分配されるときのみ生じる。数少ない個人や企業による産業の主要要素の独占的なコントロールは、市場の効率性を破壊することがある。また、私的な権力を集中させることによって、自由や意義申し立て、所有制度についての民主主義などにもとづく議論を無効にしてしまうかもしれない。分配の平等は、非帰結主義者の議論についっても肝要である。所有所有は美徳を促進するという考えは、すでに見たように、アリストテレスまで遡る。そして今日でも、市民的共和主義者によって、経済的集団主義に反対する議論として用いられている。この議論によれば、もし経済的資源のほとんどが皆の便益になるように共有され、あるいは集団的にコントロールされるならば、市民の生活状態が共和主義的な美徳を促進するようなものになる保障がなにもない、ということになる。共産主義的・集産主義的社会では、市民は国家の受動的な受益者となるか、共有地の悲劇への無責任な参加になるかのどちらかである。一、二世代がそうした性格をもって育てば、社会全体の統合性が危うくなる。こうした議論は興味深いものだが、こうした議論が所有の分配についてどのていど敏感であるかに注意しておく必要がある(Waldron 1986, pp. 323–42)。T. H. グリーンが言うように、資本主義社会で何も持たない人は、「所有の所有が奉仕するはずの倫理的目的の観点から、所有権をまったく否定されることになるかもしれない」 (Green 1941 [1895], p. 219)。
最後に、所有を自由と結びつける正当化の議論を考察したい。私的所有を認める社会は、しばしば自由な社会として記述される。これが意味するものの一部は、たしかに所有者は自分の所有を好きなように使う自由があるということである。所有者たちは、社会的・政治的決定に縛られない。(また関連して、経済的意思決定における政府の役割は極小化される。)しかし、これが意味されていることのすべてではありえない。というのも、私的所有を不自由のシステムとして記述することも同じようにぴったりしているからだ。それというのも、私的所有は、他人が所有している資源から人々を社会的に排除することを必然的に含んでいるからである。いかなる所有システムも、なんらかの制限がなければ自由のシステムとは記述できない。他人に属するものを使用する自由は、自由ではなくライセンスであり、したがってその排除はリバタリアン的計算においては私的所有システムに反対するものとはならない、と応答する人がいるかもしれない。しかしこうした戦略の対価は非常に大きい。こうした戦略をとれば、リバタリアンはいつもは避けようとしている(積極的自由の場合のような)道徳化された自由の概念にコミットすることになるだけでなく、そのように定義された自由は、もはや論点先取になるような仕方以外では所有制度を支持するためには使えなくなるからである(Cohen 1982)。
二つのことがリバタリアン的な性格づけによって含意されている。第一は、独立性に関するポイントである。ある程度の私的所有—たとえば住宅と収入源—をもっている人は、他の形態の所有制度が優位である社会の市民よりも、他者からの意見や強制を恐れることが少ないだろう。前者は、かなり文字通りの意味で、リベラルたちが個人ために尊んでいる「私的領域」—自分自身以外には誰にも答える必要のない行為の空間—に居住している。しかし、美徳についての議論と同様、リバタリアンのこの主張もまた、分配の問題に左右される。私的所有経済において何も所有しない人々は、—この議論によれば—社会主義的社会における人々と同じくらい不自由だとみなされることになるだろうからである。
しかしながら、この最後の点については拙速だたかもしれない。私的所有が自由に貢献する別の間接的な道があるからである。ミルトン・フリードマン(Friedman, 1962)が主張するところでは、政治的自由は、知的・政治的生産が多数の—非常に多数のというわけではないにしても—私的な個人、団体、企業によってコントロールされている社会において強化される。資本主義社会では、反体制の人は、自分のメッセージを流布させたければ(公務員以外の)複数の人々と交渉する選択の余地をもっており、そうした人々はメッセージの内容を考慮することなしに、単に金銭のためにメディアを利用可能にしている。対照的に、社会主義社会では、政治的にアクティブな人々は、国家期間を説得して自分たちの見解を配布してもらうか、地下出版のリスクを冒すかのどちらかになる。フリードマンの議論では、もっと一般的にいって、私的所有制度社会はなにも所有しない人々に対して、社会主義社会で提供されるよりも生計を立てるもっと多種多様な手段—お好みであれば、より大きなご主人様のメニュー—を提供する。こうした仕方で、ある人々が私的所有をもつことは、皆の自由に対する積極的な貢献となりえる—あるいは少なくとも、選択の強化になりえるのである。
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- Original Assignment of Private Property, (in PDF), by Boudewijn Bouckaert (University of Ghent), in Encyclopedia of Law and Economics
- Property, in the Wikipedia
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