タグ別アーカイブ: キェルケゴール

『不安の概念』(8) 「規定」の意味がわかりません、ははは

んで問題の第1章第5節「不安の概念」というタイトルと同名の節をよみたいわけだけど、ここで止まってしまいました。

この節は「不安は夢見つつある精神の規定である」とかその手の超有名フレーズが頻発するんだけど、この「規定である」っていったいなんだっけ、みたいになってしまった。実はキェルケゴールを読むときに、この「規定」とか「中間規定」とか出てくると読めなくなるんですよね。何言ってるかわからん。

デンマーク語だとBestemmelse、ドイツ語だとBestimmungね。英語はdeterminationでもいいかもしれないけど、qualificationにしてるな。まあいわゆるヘーゲル的な弁証法の文脈で読むべきなんでしょうけど、弁証法とかよくわからんですよね。

実は2エントリぐらいまえにも「欲情が罪の規定だ」とかってでてきて、これは私は「欲情をもつこと、欲情に動機づけられているということがそれが罪であることの決定要因だ」みたいに読んでるんですが、英語だとあっちはdeterminantになってますわね。こっちはqualificationかー。訳者のReidar Thomte先生は訳し分けてるわけね。

こういうの入門書でどう説明しているのか、『キェルケゴールを学ぶ人のために』の藤野寛先生の「逆説弁証法」とかぱらっとめくってみたけどよくわからないです。この「規定」自体の語はそもそも出てこないし。そもそもキェルケゴールのもっている論理学や形而上学や認識論の枠組みがどのようなものか、特にヘーゲルあたりとどう関係あるかという話は世界的に研究者によってまちまちで、ほとんどそのまんまだという人もいれば、ぜんぜん関係ないという人もいる感じ。

私自身は、遊ぶか散歩するか延々なにか自分のもの書いていたキェルケゴールがちゃんと本読んだり他の人と議論して勉強してた時間というのはほとんどなかったろう、と思ってて、まともな哲学的知識はなかったろうから彼自身の哲学的・哲学史的知識の側面をあんまり真面目に考えも益はないだろう、ぐらいです。正直なところ。

まあ私のぼんやりした理解では、キェルケゴールがこういう「〜の規定である」みたいなことを書くときには、まあ、「不安は夢みつつある精神をそれにするような、他の似たようなものから境界づけ限定するような、それを他から区別する特徴となるような、そういうものである」ぐらいなんだろうけどねえ。まあ早い話、不安ってのは「夢みつつある精神」を他の(たとえば、それとして目覚めている)「精神」から区別する特徴なんですよ、ぐらいの意味だと理解してよい。

まあキェルケゴールに出てくるこういう単純で基本的な用語の意味がわかるようでいてよく考えると実はわかってない、ってのがキェルケゴールを読むときの最大の問題なんすわ。雰囲気だけで読んじゃう。

会合とかでそういう基本的な語について質問するとなかなかピンとくる答えが返ってこないし。私にとっては、いつまでたってもキェルケゴールは読めないなあ、って感じる一番の要因ですね。解説書でもこのレベルでなにか言ってくれることはまずない。でもんじゃみんなどうしてるの?っておもっちゃいます。

 

まあ「不安は夢見つつある精神を他から区別する特徴/性質だよ」って読んでよいのだ、ということを誰かが(ある程度の根拠とともに)宣言してしまえば、かなり楽になるんだろうと思うです。私はそれほどの自信はないですね。そういうこと言うとお前はわかってないとか、難しい話されちゃって気後れしちゃうだろうしね。

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『不安の概念』(6) 禁断が欲情を目覚ますが、欲情はまだ罪ではない

ちょっとキェルケゴールを引用すると、こんな感じ。

禁断を堕罪の条件とするなら、禁断が「欲情」を目覚ます事になる。……欲情は、責めや罪以前の責めや罪の規定であって、しかもそれは責めや罪などではない。すなわちこれらの責めや罪によって定立されたものなのである。

こういうのがふつう読めない。これ読めるって人は異常。英語やデンマーク語だとこういう感じ。

If the prohibition is regarded as conditioning the fall, it is also regarded as conditioning concuspiscentia. … Concupiscentia is a determinant of guilt and sin antecedent to guilt and sin, and yet still is not guilt and sin, that is, introducet by it.

Naar man lader Forbudet betinge Syndefaldet, saa lader man Forbudet vække en concupiscentia. … En concupiscentia er en Bestemmelse af Skyld og Synd før Skyld og Synd, og som dog ikke er Skyld og Synd ɔ: sat ved denne.

英語はデンマーク語をほとんどそのまま直訳している感じ。最後がitと単数になってるのにguilt and sinを受けてるのがいやなんだけど、これはデンマーク語も同じ。まあguilt and sinをitで受ける、そう読んでOKだと思う。文法書開くとこういう用法の解説あるはずだけど、ノンストップライティングだからしない。

さらに読みにくいのは、こういうのがいわゆるヘーゲル的な「弁証法」的な記述になってるからね。欲情 conspiscentia は古い言葉、っていうかラテン語で、まあ悪しき欲望はぜんぶこれにしてもいいんだけど、やっぱり性的な欲望、劣情、そういうのを指しますわね。それはいいとしましょう。んでたしかに欲情をもっていることは罪を冒すことの決定的要因なのですが、欲情をもつこと自体はまだ罪ではないのです。

なぜなら、欲情をもつこと自体が罪であるとされてはじめて、それが「(悪しき)欲情である」ってことがはっきりするからなんですね。

たしかに、(たとえば)性的な不品行とかって意味の罪を犯すには、その決定的要因として、欲情、性的欲求がなければならない。これは前にも性犯罪とかの話でちょっと触れましたが、性的な欲求はもってないけれどもスカートをめくって女子のパンツを見れば天国に行くことができるとか、女子のおっぱいを揉むとガンが治るとか、っていう信念や欲求をもってスカートをめくったりおっぱいに触った場合、それは性犯罪だとは言いにくいところがあるわけです。もちろん被害者にはふつう性犯罪と経験されるだろうけどね。

さらに、罪を犯すにはそれが悪いことだ、それが罪だと知っている必要がある。無知な子供は「なんかわからんけど女の子のパンツが見たい」という直接的な衝動をもったとしても、それを罪だとは思わない、つまり悪いことだとは思っていない。ただ見ようとするだけ。それはだめなことなのです、悪いことなのです、お前は助平なやつだ、将来が心配だ、と誰かからいわれてはじめて、それは罪だということになる。だから欲情そのものは罪ではない、ってな感じになるわけだと思います。

こういうのほんとうにうざい。禁止されてパンツやジャンプを見たいという欲情をもつ、でもその時点ではまだ罪ではない。罪だと言われて、なんでパンツ/ジャンプ見るとだめなの、ということを理解してはじめてそれが罪になる、そういうことを言おうとしているのだとおもうわけです。

いやー、弁証法ほんとうにうざいですね。頭のなかにあることと外にあることの区別がついてないんだもんね。


『不安の概念』(5) 禁止されるとやりたくなりますか

私が一番好きなイエスさんのお説教は、もちろん、これ。

「姦淫してはならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(マタイ5:27あたり)

大事なことだから先生もう一度繰り返します。誰でも情欲をいだいて女を見るひとはすでに心の中で姦淫を犯したのです。もう一回くりかえしますよ、エッチな目で女を見るものは罪人なのです。それじゃ、みんな目をつぶってください。先生怒りませんから、罪人のひとは手をあげてくださーい。あ、目をくりぬいてください、地獄におちるよりその方がましです。

われわれはパンツを見ても見られても平気だったのに、いつから罪人になってしまったのでしょうか。つまり、われわれはいつ無垢を失ったのでしょうか。

キェルケゴールは、これを「心理学的に」探求しようとするわけです。ここでいう「心理学」っていうのは、もちろんブント以降の実験心理学じゃないし、ミル先生あたりの連合心理学とかともちがう。まあ心(プシケー)についての内観によって心の動きを観察する方法なんだと思います。ここらへん当時のデンマークでの用法があって面倒で、私は解説できない 1)キェルケゴールでの「心理学」ってのが何かって論文は日本語でもいくつかあるんですが、納得してないので今は触れません。 。まあでも、心の動きを観察して記述するんね。

キェルケゴールはアダムにおいても、現代のわれわれと同じような心理的な過程があるはずだ、なぜならわれわれはアダムと同じなのだから、っていう想定をおいてます。そうじゃないとアダムは人類じゃないってことになっちゃうからね。キェルケゴールは「人間の本性」みたいなのは想定してかまわんという立場なのでそれでOK。

キェルケゴールはレオンハルト・ウステリ先生っていうドイツの神学者の説を紹介します。キェルケゴールは一応神学修士(マギステル)なので、いちおう神学の基本的学説ぐらいは知ってる。それによると、「知恵の木の実を食ってはいけないという禁止そのものがアダムのうちに罪を生んだ」ってことになってるらしい。

これは通俗的ですが面白いですよね。禁止されるとやりたくなってしまう。ジャンプはエッチだから読んじゃいけません、って言われたらこれは読みたい。それまでジャンプ興味なくても読みたい。それまでただ「裸ばっかりだなあ」て思ってた『ハレンチ学園』も『マジンガーZ』も『けっこう仮面』も、エッチだからだめだといわれれば、読みたい。読みたい読みたい。読みましょう。読んだひとは手をあげて目をくり抜いてください。地獄に落ちるよりその方がましだってイエスさんがいってまーす。

 

 

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1. キェルケゴールでの「心理学」ってのが何かって論文は日本語でもいくつかあるんですが、納得してないので今は触れません。

『不安の概念』(4) 無垢はエロについて無知っす

んで、『不安の概念』の第1章第1節〜第2節では、アダムの最初の罪はよくわからんね、って話をぐだぐだやるわけです。まあここらへんでキリスト教の問題わからん人は読み進められなくなるですね。私も別にキリスト教にそれほど興味あるわけじゃないから読めない。キェルケゴールもよくわからずぐだぐだやってるんだと思う。まあここらへんいろいろ、とりあえず堕罪、原罪の話は大事だよ、ぐらいに読んどいていいんじゃないか。

「堕罪以前のアダムの状態については、古来いろいろ空想的なことが語られてますよね」みたいな話をしている。そう、そういうのはアウグスティヌス先生とかもしてるよ。

問題は第3節「無垢の概念」だ。ここからはそれなりに(それほどじゃないえど)おもしろくなる(いきなりヘーゲル先生登場してうざいんですが)。

無垢 innocence っていうのはまあまだなんの罪もおかしてないし、罪への欲求や傾向ももってない状態、ぐらいに読んでいいんだと思う。まあ罪っていうと(キリスト教に興味ない人間には)抽象的になっちゃうけど、これをエロと読むとどうだ!

子供は無垢です。エロのことは(すくなくとも)あんまり考えてない、てことになってる。まあ実際には、小学校低学年ぐらいからエッチな興味はあるんだろうけど、その前、3歳児とか少なくともエロをエロだとはおもってないんじゃないか。これです。これが無垢な状態ね。スカートめくりたい、パンツ見たいと思わない。そもそもパンツ毎日見てるし。逆にパンツ見せても平気、すっぽんぽん、それが無垢な状態。まだセックスがなんであるかとか、性欲がなんであるのかがわからない状態、そもそも知らない、それが無垢。

んで3節のキェルケゴールの結論はこういう感じ。

創世記の物語は無垢についてもまた正しい説明を与えてくれる。無垢は無知である。

アダムとイブは、セックスについて知らないという意味で無垢だったのでーす。


『不安の概念』(3) キェルケゴールの問いは

んでまあ、もどって、『不安の概念』の最初の2章で扱っているのは、キリスト教では人間はみんな罪人です、ってことになってますが、人間はどうやって罪人になるのですか、という問いだと思うんですわ。これ、つまり原罪の話ね。

人間にはアダム以来の原罪があるから罪を犯します。われわれはアダムとイブから原罪を遺伝されちゃってます。でもんじゃ、アダムはなぜ最初の罪を犯したのですか。これがキェルケゴールの問いね。

まあキェルケゴールのパパもけっこう悪い人で、奥さん死ぬ前に女中さんに手を付けていて、奥さん死んでから女中さんを奥さんにすげたみたい。それがキェルケゴールのママね。まあ最初の奥さんを殺したとかってことはないと思うけど、なんかやばい。キェルケゴールはそういうパパの血を継いでいるのです。そういう彼の個人史的な事情があるってことはいろいろ指摘されているところ。キェルケゴールのなかでは罪とセックスはわれわれにはわかりにくい形で結びついているのはわかる。

もう一回繰り返すと、キェルケゴールが考えるところでは、人間はアダム以来の原罪をおっちゃてますから罪を犯して罪人になるのです、っていう説明を一応みとめるにしても、んじゃアダム自身はなぜ罪を犯したのですか、ってことになる。最初の罪を犯した結果エデンの園を追放されたのはしょうがないとして、なぜそれまで無垢で原罪なんか負ってなかったアダムが、神の命令に反するという罪を犯したのだろう。

これ、私はもちろんよく知らないのですが、キリスト教では大問題なわけですよね。キェルケゴールはキリスト教の大問題と言われるものを著作で扱っているわけです。『恐れとおののき』ではアブラハムが神様から命令されて息子イサクを殺そうとした話(いわゆる「アケダー」)、『反復』ではなにもわるいことをしてないヨブがひどい目に合う話、そして『不安の概念』では原罪の教義。キェルケゴール前期の3つはキェルケゴールのキリスト教に対する懐疑の表明だと見ることができる、っていうか私はそう読んでるわけです。キリスト教は理解できない。

実際、原罪の教義ってのは、キリスト教では理性によっては理解できないものである、みたいにされてるんですね。ルターのシュマルカルデン条項の「原罪はいかなる人間理性によってもそれを知るよしなく、ただ聖書の啓示によって認められ、信じられるところの深く、いとわしい本性の堕落である」みたいなのが『不安の概念』でも引用されてるです。それは理性ではわからん。


『不安の概念』(1) 『不安の概念』はセックス哲学の本、性欲の本かもしれない

この前、年に1回のキェルケゴール研究者の会合に出て、いつものようにみんながなにを話しているのかほとんどわからなくて、絶望しています。まあそもそも私キェルケゴールあたりから勉強をはじめたのに、30年たってもそういう状態で、いろいろ思うところがあるわけです。「キェルケゴールと私」シリーズにも書いたんですけどね。

http://yonosuke.net/eguchi/archives/1104
http://yonosuke.net/eguchi/archives/1103
http://yonosuke.net/eguchi/archives/1102
http://yonosuke.net/eguchi/archives/1101

まあキェルケゴールは本当に難しい思想家で、どう解釈していいのかわからない。30年以上(ずっとではないけど)時々読み続けて、結局ほんとうにわからんですね。キェルケゴール本人もわからんけど、それを解釈している学者さんたちが言ってることがわからない。なぜそう読むのかとか、そんな難しくて自分自身でわかってるのかとか、いろいろ文句つけたくなってしまって精神衛生に悪いです。

このシリーズで説明していきいますが、私はキェルケゴールは実はセックスの哲学者としても重要だと思っているわけです。ていうかむしろ、セックスの哲学はキェルケゴールを読んだからこそ興味がある。彼がセックスの話を扱っているのはけっこう多いのですが、『あれか/これか』『不安の概念』『人生行路の諸段階』の3冊が基本ですかね。実は私はこのどれも扱ってないので、勉強人生終わるに当たってなんかしておかねばならないとは思っているわけです。

まあ『不安の概念』あたりから行きますかね。「不安とは自由のめまいである」っていうものすごく有名なフレーズがあって、いろんな人が引用するんですが、これわけわかりませんよね。私はわからない。

この本はものすごく有名ですが、世界的に、あんまり理解されてない本と思う。キェルケゴールの作品の中でも読むのが一番難しいやつの一つだと思いますね。ハイデガー先生が『存在と時間』でこれの「不安」の話を使っていろいろやってるので有名だってのではものすごく有名なのですが、キェルケゴールのを読んでもそもそもなんの話をしているかわからないってのが普通だと思います。学会や研究会で読んでる人の話を聞いてもなにがなんやらわかりませんね。この前も一つ二つそういうのを聞きました。というわけで、ちょっと時間をかけてやってみたい。

————————–

『不安の概念』を読む上での問題は、まずこれいったい何についての本なのか、ってことですわね。「そら不安でしょ」っていうのはそのとおりだけど、われわれの感じる不安一般についての本なのかどうか。私はそうじゃないと思う。実は副題は、「原罪(遺伝する罪)の教義の問題について、単純に心理学的な方向にそった考察」みたいなやつなんですわ。キリスト教的にはわれわれはみんな罪人であり、それはアダムからずっと遺伝する「原罪」なるものがあるがゆえにキリスト教的には罪をおかさざるをえないってな感じになってるんだけど、それって個々人の心理のなかではどうなってるか考えてみましょう、ぐらい。

もうちょっとばらしてしまうと、キリスト教的、っていうかキェルケゴール的には、われわれはみんな神の命令に背く罪への傾向みたいなのもってるわけだけど、それってどうしてそうなってるんですか、みたいな問いね。アダムとイブが禁断の木の実を食べる罪を犯して、その「原罪」がわれわれまで遺伝してきていて、われわれがもともと罪を犯す傾向をもってしまっているのなら、われわれには罪を犯すことの責任はないっしょ、そういうふうに作った神様がおかしいんではないか、みたいな疑問というのはある。

まあここらまではキェルケゴール読んだことある人ならだいたいわかる。ていうかまあ一番最初に書いて有ることだから、ここだけは読む。問題は、このわれわれの個々の罪、そして「原罪」の問題を、どの程度実感に即してよむことができるのか、ですわ。

解説者や研究者がおうおうにしてちゃんと触れないのは、ここでキェルケゴールの頭に思い浮かんでいる「罪」ってのがセックスに関係したものだ、ってことなんだろうと私は思っているわけです。実は不安の概念はセックス哲学の本なんですわ。これが私がこれから書いていこうとおもっていることです。

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愛をめぐるパスカル君とモンテーニュさん

最近実存主義はやってるみたいですね。ていうか実存主義はいつも「哲学」に興味ある読書好き学部生の心をひきつけてるんだけど、まあ哲学というよりは文学の領域にはいってるところも多くて、大学で「哲学」や「倫理学」教えてるような人間が授業でいじるにはむずかしいところもある。パスカルやショーペンハウエル、ニーチェあたりはもっぱら文学の人が扱ってますわね。キェルケゴールなんかも本来は北欧文学かなんかやってる人が扱うべき哲学者な気がする。あんまり証拠と論理を使って体系を組み上げていくてんじゃなくて、感覚的・感情的で、「こことここで矛盾してるぞ、整合的に解釈するとすれば〜」みたいな論文書きにくいし、文化や生活や当人の人生に密着しているからそういう文化や伝記的情報集めないと勝負しにくいし。

でもそういう人々が書くものっていうのはやっぱり魅力的で、読んでると「ああ、おれはテツガクしてるぅー」みたいな快があります。

恋愛の哲学といえば実存哲学者たちの独壇場ですわね。我々が台風のたびにお世話になっている哲学者・科学者パスカル先生はこんなこと書いてる。

けっこうイケメン。

けっこうイケメン。

ひとりの男が通行人を見るために窓に向かう。そこを通りかかったならば、彼が私を見るためにそこに向かったと言えるだろうか。否。なぜなら、彼は特に私について考えているのではないからである。ところが、誰かをその美しさのゆえに愛しているのものは、その人を愛しているのだろうか。否。なぜなら、その人を殺さずにその美しさを殺すであろう天然痘は、彼がもはやその人を愛さないようにするだろうからである。

そして、もし人が私の判断、私の記憶のゆえに私を愛しているのなら、その人はこの「私」を愛しているのだろうか。否。なぜなら、私はこれらの性質を、私自身を失わないでも、失いうるからである。このように身体の中にも、魂の中にもないとするなら、この「私」というものは一体どこにあるのだろうか? 滅びるものである以上、「私」そのものを作っているのではないこれらの性質のためではなしに、一体どうやって身体や魂を愛することができるのだろう。なぜなら、人は、ある人の魂の実体を、その中にどんな性質があろうともかまわずに、抽象的に愛するだろうか。そんなことはできないし、また正しくもないからである。だから人は、決して人そのものを愛するのではなく、その性質だけを愛しているのである。

したがって公職や役目のゆえに尊敬される人達をあざけるべきではない。なぜなら、ひとは、だれをもその借り物の性質のゆえにしか愛さないからである。(パスカル『パンセ』323)

これ、いつも人気の「「私ってなんだろう」っていう問いと、恋愛や友情の問題を結びつけたものすごく有名な箇所です。(パスカル先生の『パンセ』はこういう断片のよせあつめ。メモ書いといてあとで本にしようとしてたらしいけど完成する前に死んじゃった)

まあ人を愛するっていうのはどういうことか、ですわね。「〜くんが好き」とかいったって、それになんか理由(東大卒だから)がつくんであれば、そんなものになんの価値があるのか、というわけですわ。美人だからイケメンだから、お金持ちだから東大卒だから三井物産だからフジテレビだから、というその人のもつ属性や肩書を愛しているにすぎない。

ところが「人間は中身だ」とかっていったって、それもまた属性や性質にすぎない。「私そのもの」なんてのはどこにもないんじゃないの、んじゃいったい他人を愛するとかってどういうことなの、そももそも私ってなんなの、ぜんぶ借り物じゃん、みたいな。いいっすねえ。

でもだからどうなの、みたいなのもある。

まあこのパスカル先生の文章は、私の理解では、モンテーニュ先生の『エセー』の「友情について」に対する注釈になってるんよね。

恋愛や友情といった人々を結びつける力は、わしらの生活のなかでものすごく重要で 1)おそらく一番重要。 、人生について考える哲学者たちは皆それについて考えている。ソッソッソクラテスもプラトンもニッニッニーチェもサルトルも、みんなそういうのに悩んで大きくなった

このブログでも書いてると思うけど、プラトン〜アリストテレスのラインでの問題は、恋愛や友愛ってのにはよい関係と悪い関係があり、われわれは関係を同定しそれをもつようにしなきゃなんてことでしわね。

 

たとえばアリストテレス先生によれば、ピリア(友愛)には(1) 快楽によるもの、(2) 有用性によるもの、(3) 美徳によるもの、の三種がある。(1)のは美人イケメンとセックスしたり冗談で笑ったりするのは楽しいからおつきあいする、(2)のはお金持ちや家事うまい人といるのは便利だからおつきあいする、ってので、まあアリストテレス先生はそれが悪いとは言わないけけど、そんな価値のあるものではないと言う。優れた人間関係とは(3)のお互いの美徳を認めあい、それがお互いにさらに伸びることを期待しあう関係だ、と。

モンテーニュ先生は、こういう古代哲学に学んだセックス論や友情論を検討して、(3)の関係ってのはやっぱり男どうしだね、お互いのよいところを認め喜ぶのが友情だよ、うまくすれば一心同体ってくらいうまくいくよ、女性とのエッチな恋愛よりも男どうしの友情がいいよね、ぼくにも二十ぐらいのときにすごく仲のよい友達がいたんだよ、そいつの名前はエチエンヌ・ド・ラ・ボエシ 2)ボエシ君は実はちゃんとした先生で、邦訳もこのまえやっと出た。『自発的隷属論』。Wikipedia項目はまだないね。君さ、ほんとうによい友達だったんだ、生涯のベストフレンドだった、好きだったんだよ、でも早死にしちゃったんだってな話をするわけだ。まあ青年期の友情論の最高峰。

イケメンとは言えないけど、ボルドーの殿様だからまあ女は自由自在。

イケメンとは言えないけど、ボルドーの殿様だからまあ女は自由自在。艶福家であったのはまちがいないところ。

要するに、われわれが普通、友人と呼び、友情と呼んでいるものは、何かの機会もしくは利益のために結ばれた知友関係や親交にすぎないものであって、われわれの心もただその点でつながっているにすぎない。ところが私の言う友情においては、二人の心は渾然と溶け合っていて、縫目もわからぬほどである。もしも人から、なぜ彼を愛したのかと問いつめられたら、「それは彼であったから、それは私であったから」と答える以外には、何とも言いようがないように思う。(『エセー』第1巻28章「友情について」)

てなBLラブ好きな女子が鼻血出しそうなところが出てくるわけっすわ。パスカル青年はものすごくかしこかったけど、ぐだぐだ内省ばかりしてそういう友達もてなかった寂しい男。モンテーニュ先生が友情も恋愛もセックスも手に入れて、人生十分に楽しんだのに対して憎しみみたいなものさえもってたかもしれない。モンテーニュの下品なところとか淫らなところとか許せん!なんでそんなに楽しいのだ!みたいなことけっこう書いてる。でもだからこそ、実存主義者の元祖なのだ。ちなみにニーチェ先生は、「パスカルみたいな優れた人間を破滅させたのはキリスト教だ!禁欲的すぎる!許せん!」みたいに怒ってる。実存主義おもしろいっすよね。みんなどんどん読みましょう。

 

パスカルのパンセは文庫で安いので、適当に買っといて寝る前に一言だけ読み、「どういう意味だろう?」とか考えながら寝る、ぐらいがかっこいい。モンテーニュ先生の『エセー』はどこを読んでもものすごくおもしろいので、もう白水社の赤いやつの抄訳じゃなくて全部読みたい。特に『ウェルギリウスの詩句について』は恋愛とセックスに興味ある人はマスト。「習慣について」もおもしろくて、ああいうの読むとブログ書きたくなるはず。

 

 

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1. おそらく一番重要。
2. ボエシ君は実はちゃんとした先生で、邦訳もこのまえやっと出た。『自発的隷属論』。Wikipedia項目はまだないね。

ナカニシヤ出版「愛・性・結婚の哲学」を読みましょう (2)

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福島知己「恋愛の常識と非常識:シャルル・フーリエの場合」

実は刊行前に目次出たときから一番楽しみにしてたのがこの論文で、フーリエの『愛の新世界』っていう奇怪な大著の翻訳者本人のよる解説っていうか部分的紹介。

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フーリエ先生の『愛の新世界』って本はほんとうに奇怪な本で、図書館には入れてもらったもののどうにも読めない。用語法が異常だし話の展開も異常だし。フーリエ先生は「幻視者」みたいに言われることがあるけど、ほんとうに想像力豊かで、ほとんど妄想に近いものを書きつけている感じ。翻訳もたいへんだったと思う。でもフーリエのその幻視かもしれないヴィジョンっていうのはすごく重要だとは思うわけです。セックスや結婚とかに関して、その後の性的に解放されたコミューン形成とかにもかなり影響与えてるんでしょうね。まあとにかくぶっとんでいる。

福島先生が紹介しているのは、「聖英雄ファクマ」さんのお話。もちろんフィクション。福島先生の紹介の最初のところ書き写すだけでそのぶっとびかたがわかると思う。

「世界的に調和世代が訪れた未来、遍歴騎士団に属して世界各地を転戦して回る人々の一人、美しき偉丈婦ファクマが、小アジアの都市ニニドスに捕虜として捉えられた。彼女が属する黄水仙群団・隊団はおよそ千人の冒険者からなり(地名2行半省略)を経由して、西ヨーロッパに抜ける予定だった。

前哨としてクニドス周辺を探索中のファクマたちを「チェス・ゲームに比すべき陣取り合戦の結果」として捕虜にしたバッコス巫女たちは、「恋愛に関して捕虜たちを所有する権利の一切」をこの後二十四時間にわたってもつが、早く攻撃方に戻りたいので、権利の譲渡を宣言した。捕虜が主人を変えるたびに捕囚期間は常に半分に減額される。捕虜と恋愛する権利を得るため恋愛法廷が開廷されることになった」

すごいっしょ。『シドニアの騎士』みたいっすね。「奇居子(ガウナ)」とか「衆合船(シュガフせん)」とか出てきそう。これでも福島先生がまだかなり抑えてくれた記述になってる。フーリエ先生の本文は読むドラッグみたいな感じ。

福島先生自身もこの世界のとりこまれているふうがあって、この「恋愛法廷」ってのは、「半日間の恋人を決める集団見合いである。街コンであり、出会い系である」って表現している。いやそうじゃないっしょ。奴隷とセックスする権利をどうするか、ってはなしっしょ。奴隷市場じゃないっすか。

ファクマさんは捕虜っていうか奴隷になってしまって、半日だれかの「恋愛」の相手をしなければならないわけだけど、官能愛=唯物愛はいやで、心情愛ならする、なぜなら1ヶ月肉欲の日々を送ったので疲れているから、みたいな。わけわからんです。求愛者っていうかそういうのが8人いて、しょうがないから8人じゃなくて1人なら相手してやるっていう。でも8人の男の話がまとまらないので、んじゃ誰にもやらせませんし恋愛もしません、って宣言する。すると一人がショックで失神してしまう。ファクマさんはそれをかわいそうに思ってうめあわせとして恋愛してあげようと思う。しかし他の男たちからそれはずるいと責められて、人々を苦しめたという掟に反する罪を犯したので、その償いに54人と唯物愛=セックスすることになる。

わけわからんです。いやすごい世界。哲学はたいへんです。

まあこういうフーリエ先生の奇怪なヴィジョンの背景にあるのは、19世紀ヨーロッパでの結婚制度や売春なんかのいろんな問題なんでしょうけどねえ。福島先生の解説もなかなか難しくて、なんとも論評しにくい。

最終節「幸福の条件」を見てみると、福島先生の読みではフーリエは恋愛を政治的に考えて一種の公共事項とみなすべきだと考えていると。まあ世の中なかの不幸の大きな部分はモテないとかセックスできないとか結婚できないとか、そういうのによっているので、恋愛を公共事業にしてしまえばそうした不幸が減る。これがフーリエ先生的な計画セックスですわね。

まあ実際そういう考え方によって、共産村を作ってセックスの相手を計画して毎日変える、みたいなのは19世紀におこなわれていて、あんまりうらやましくないけど話はおもしろいです。フーリエ先生と福島先生のこれを読む前に、下の本読んでおくとこうしたぶっとんだ話が、現実とどう関係しているかがわかって、そのおもしろさがわかるんちゃうかなと思います。

 

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あと蛇足だけど、「ブックガイド」で映画『ドッグヴィル』について「結末の惨劇には戦慄せざるをえない」っていうのもものすごく違和感がある。そこじゃないでしょ、ってな感じ。全体にこういうずれた感じがあって、興味深い。

(追記)

ちなみに、p.125で論じられているキェルケゴールの『恐れとおののき』でのアガメムノンやエフタは、「共同体から後世称賛され、栄光を得られると考えているため」に自分の子供を犠牲にするのではない。彼らは共同体の命運をかけた闘いの場で神に帰って最初に戸口から出てきた人間を生贄に捧げるという個人的というよりは民族共同体としての誓いを立てて敵に打ち勝ったために、出てきた娘を犠牲にしなければならなかったわけだけど、それは彼らが(やむをえず?)誓いを立ててしまったからであって、個人としてみんなから称賛されるためではない。

(さらに追記)

功利主義の理解もちょっと問題があって、p.124の「8人の求婚者たちは……自分の幸福を追求しているだけであり、このような要求を経なければ最大幸福の計量もできないわけだから、その意味では功利主義原理にしたがっていないわけではない」もわかりにくい。もちろん欲求や選好を表明しないと功利計算できないってことなのだろうけど、それ自体は功利の原理とは関係がない。「(多数の利益に仕えるという)統一の掟も八人の利己主義者の行動も原理的には同じ」になるというのは意味がわからない。

またベンサムが同性愛を刑罰で禁じることに反対したわけだけど、「その理由はそれが私的な問題であって、法律の対象になじまないから」ではないはず(これはちゃんとした自信がないけど)。こっそりやられている同性愛を法的に罰する利益がなく、不利益は大きいからのはず。快楽はどんな快楽でもそれ自体として価値がある。さらにベンサムは同性愛などが人口抑制などに有益だとかって話もしているはず。

ちなみにベンサム先生はフーリエ先生と同じようにぶっとんでるし言語感覚が異常な感じがあるけど(どちらも新しい制度の設計や、造語・新語が好き)、そんな奇怪な空想はしないわねえ。タイプが違うんだな。

 

 


いい人・ナンパ師・アリストテレス (4) アリストテレス先生の「高邁な人」はモテそうだ

まあそういうシステマチックな「ナンパ」というのはおそらくあれですわね。ふつうだったら人間の関係っていうのはもっと長い時間かけてゆっくりはじまるわけで、クラスで一番足が早いとか勉強ができるとか、みんなから信頼されているとか、そういうふうにしてどういうひとか知ってからおつきあいしたりセックスしたりするわけですが、高校とか出てしまうともうそういう関係を築くことが難しくなってしまう。自分の価値みたいなのを知ってもらう時間がないんですね。そこで自分に価値がある「かのような」偽装をおこなう。それはちょっとつきあえばすぐにバレてしまうものなので、長くはつきあうことができない。なのであえてその日かぎり、2、3回限りで次にのりかえるってのをくりかえすわけですな。

そういうの価値があるかどうかはよくわからないけど、宮台先生なんかに言わせれば、とりあえずそういうの繰り返していればそのうちだんだん自信がついてきて、ちゃんとステディな関係をもてるようになる、みたいな筋書。どの程度ほんとうなのかはよくわからん。まあなんらかの真理をとらえているかもしれません。

哲学者・倫理学者にとっての、問題はそういうナンパや偽装やカジュアルな関係とかってのが我々の生活や幸福や道徳にどういう関係があるか、みたいな。まあ私自身は実践的にはそういうのちょっと無理だし、かえってしんどそうだと思うのでどうでもいいのですが、まあそんなうまい(?)方法があるなら気にはなるし、われわれの生活についてのなんか洞察をもたらしてくれるのではないかみたいな気はするわけです。

前に名前をあげたRichard Paul Hamilton先生は、ナンパコミュニティの隆盛とかどう見るべきなのか、みたいな問題意識でエッセイ書いてるわけです。

ハミルトン先生によれば、ほとんどお互いについての情報がない状態で、クラブやバーやオフ会なんかで人びとが出会ってお互いを求めあう、なんてのは人類の進化の過程ではほとんどありえない状況だったろうから、我々がそういう状況でどうふるまったらいいかわからないってのも無理はない、と。盆踊りとかのお祭りとかはあったろうけど、だいたい村とかで「どこそこの誰それ、評判はこれこれ」とかってわかる状況だったでしょうからね。そういう状況で問題になるのは「社会的証明」だ。特に女性はセックスまわりではリスクが男性より大きいので、相手がどういう人間かをよく見ようとする。

いい人は女性のそういうのを配慮して、自分は危険のない人間だってのを示そうとして、お世辞そのたさまざま女性のご機嫌をとろうとする。でもそれなんか自信のなさを示すことになり、魅力がなくなってしまう。

岩明均先生の『ヒストリエ』でも
大活躍。落ちついてます。

一方、ジャークやナンパ師は他人の意見なんか気にしない。そしてその他人の意見なんか気にしないことが魅力になっているのだろう。

ハミルトン先生によれば、この人びとっていうのは、ある点で、アリストテレス先生のいう高邁(メガロプシュキアー)な人と似てるね、と。直訳すると「魂の大きな人」ですね。『ニコマコス倫理学』第4巻第3章に登場する。「自分自身のことを大きな事柄に値すると見なしており、また現に値する人」、偉大な人。自分の価値をよくわかっている。自分自身に満足していて、他人からの評価など必要としない。落ちついていてなにがあっても動揺しない。なにがあっても驚かない。いつも「ゆったりしとした動作、深みのある声、落ちついた語り方」をする。自信があるからだ。自信ないやつはセカセカしたり声がうらがえったりしてかっこわるい。とにかく「高邁」は男性のモテるタイプの一つの典型なんですね。このアリストテレス先生の「高邁な人」は19世紀的な「ダンディ」とも関係があっておもしろいです。007のジェームズボンドとか想像してもいいかもしれない。

こういう健全な自己評価をもっている高邁な人と比べると、ジャークってのはアリストテレスの言う「うぬぼれ」の方に近くて、自分の本当の価値よりも自分を大きなものと見ている。いずれは本当の価値がないことがバレちゃって馬鹿にされることになる。彼らは愚かだ。しかし自分を卑下して他人の顔色をうかがいご機嫌をとろうとする「いい人」は、ほんとうはそのままでもモテるかもしれないのに自分はだめだと思いこむことによって、自分から善きものを奪ってしまう。これは「うぬぼれ」よりずっと悪い。一方、ナンパ師は、実際には気の弱い価値のない人間にすぎないのに各種のテクノロジーによって「高邁の人」の見かけだけをまねているにすぎない。

ハミルトン先生は、ナンパ師たちはアリストテレスでも読んで、上辺だけじゃなくて実際に中身のある高邁の人をめざしたらどうだ、みたいなことを書いてます。ただしアリストテレス先生は、美徳を身につけるには、美徳をもっている人が行うようなことを実際に行いつづけることによって身につけるしかないって言ってます。高邁な人になりたけければ高邁なふるまいをとりつづけてそれを習慣にするしかない。だからナンパ師たちの教えにしたがってモテるようなふるいまいをするのにもなんか意味はあるかもしれない。上辺だけじゃなくて中身も同時に鍛えれば、なにか偽装することなくモテるようになるかもしれない。宮台先生のアドバイスにも(道徳的な邪悪さや実際の危険はさておいて)なんか真理が含まれているかもしれないっていうのはまあそういう感じで。

あれ、おもしろくならなかった。このエントリ失敗。まあナンパとかしたことないことについても考えてもやっぱりあれですね。まあまたそのうち「ダンディ」についてあれするときに戻ってきたいです。まあちょっと言いわけしておくと、ここらへんのネタというのは、私が昔から読んでるキェルケゴール先生の解釈といろいろ関係しているんですよね。あの人の初期の著作(『あれか/これか』)に出てくるダンディズムとか誘惑論とかとここらへんの話に関係しているはずなんですわ。

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進捗どうですか (9)

進捗だめです。

びゅんびゅん時間が過ぎてました。

某発表のためにフェルドマンの議論をちゃんとおさえる、という短期的目標をたててWhat is this thing called happiness読んで、2週間以上かかってしまいました。やっぱりこの本おもしろいなあ。時間測ってたんですが、40〜50時間ぐらいかかってる感じですね。14章と付録があって、まあ1章2時間弱みたいな感じ。ちょっとかかりすぎな気もします。もっとさくっと読める人は多いと思います。論述とかは難しくないけど、いろいろ考えさせられて私はそんな速く読むことはできませんでした。

それにしても本を読むのにどれくらいかかるか計測してみるというのはおもしろい経験でした。ぼんやり思ってるより時間がかかるし、1日にそんなに集中できる時間もそんなにはない。それにどんながんばったって飯食ったり寝たりしなきゃならんわけで、人間ができる活動というのは本当に限られていると思います。エクササイズとかもしないと調子悪くなるし。酒飲む時間やネットする時間だって大事だ。本とか、そんなたくさん読めないですよね。なんか時々膨大な「必読書リスト」みたいなのを提出してくる人がいますが、そういうのってどうなんかな。

もう一つ思ったのは、今回はずっと一人で読んでたけど、本当は読書会とかするべきですよね。読みまちがいとかにも気づくし、おかしいと思ったことを相談したり議論したりもできる。大学院とか進学を考えてる人は、そういう読書会や研究会が盛んなところを目指すのがよいと思います。私も大学院生のころはいろいろ読書会に参加して勉強になりました。オヤジになると、研究者志望の大学院生かかえているような大学の教員にでもならなければそういうのに参加しにくくなってどんどん知識も読解力も劣化してしまう。まあこれはしょうがないです。勉強は一人ではできないな、と思いましたし、そういう意味で私の勉強人生は終りに近づいている気がします。まだ終らんけど。ははは。

あとは国内の文献見直したりして。実はこの分野はあんまり文献ないんですよね。このフェルドマン先生とか、ヘイブロン先生とか、大学院生レベルではけっこう読んでいる人がいると思うんですが、みんなここらへんに言及して論文書けるようになるまでにはもうちょっとかかりますかね。パーフィットの名前を見かけるようになったのも90年代後半ぐらいだったし。サムナー先生の名前を見かけるようになった、ぐらいですか。

倫理学の根本問題の一つなんだけど、倫理学者が直接あつかっている文献は少ない。法哲学の人とかの方が盛んで、これは法哲の人はいきなりコンテンポラリーな文献見るけど倫理学専攻だと古典読まなきゃなんないっていうジレンマがあるからだと思いますね。大学院生からODの間に古典と格闘して、運よく大学教員とかになれたら今度は授業や業務が忙しくて勉強できないままに時間が過ぎて、たちまち白髪のおじいさん、みたいな感じ。私みたいに五十近くになるともう理解力が落ちてて新しいことは学ぶのに苦労する。多くの倫理学研究者がそういう経験をしてきたんだと思います。若い人びとは好きなことやってほしいですね。たいていの人は、いきなりカントやキェルケゴール勉強したい、って思って倫理学はじめたんじゃなくて、道徳なり幸福なりについて考えたいと思ってはじめて、カントやキェルケゴールはそのなかで出会った哲学者の一人に過ぎないだろうから。

それにしてもフェルドマン先生、一つの問題について本当によく考えているな、とか思います。スペシャリストは違うわ。途中でいろいろ幸福な人や不幸な人びとの仮想事例みたいなの出てくるんですが、私「論文書けない大学院生」みたいなのの典型例だなあとか思って読んだり。フェルドマン先生のまわりにもそういう人はたくさんいると思うんですが、どういう目で見てるんだろうなあとか。ははは。

What Is This Thing Called Happiness?
OUP Oxford (2010-03-18)
The Pursuit of Unhappiness: The Elusive Psychology of Well-Being
Oxford University Press, USA (2008-11-15)

Welfare, Happiness, and Ethics
Welfare, Happiness, and Ethics

posted with amazlet at 14.07.13
Oxford University Press, USA (1996-08-31)