まあそういうシステマチックな「ナンパ」というのはおそらくあれですわね。ふつうだったら人間の関係っていうのはもっと長い時間かけてゆっくりはじまるわけで、クラスで一番足が早いとか勉強ができるとか、みんなから信頼されているとか、そういうふうにしてどういうひとか知ってからおつきあいしたりセックスしたりするわけですが、高校とか出てしまうともうそういう関係を築くことが難しくなってしまう。自分の価値みたいなのを知ってもらう時間がないんですね。そこで自分に価値がある「かのような」偽装をおこなう。それはちょっとつきあえばすぐにバレてしまうものなので、長くはつきあうことができない。なのであえてその日かぎり、2、3回限りで次にのりかえるってのをくりかえすわけですな。
そういうの価値があるかどうかはよくわからないけど、宮台先生なんかに言わせれば、とりあえずそういうの繰り返していればそのうちだんだん自信がついてきて、ちゃんとステディな関係をもてるようになる、みたいな筋書。どの程度ほんとうなのかはよくわからん。まあなんらかの真理をとらえているかもしれません。
哲学者・倫理学者にとっての、問題はそういうナンパや偽装やカジュアルな関係とかってのが我々の生活や幸福や道徳にどういう関係があるか、みたいな。まあ私自身は実践的にはそういうのちょっと無理だし、かえってしんどそうだと思うのでどうでもいいのですが、まあそんなうまい(?)方法があるなら気にはなるし、われわれの生活についてのなんか洞察をもたらしてくれるのではないかみたいな気はするわけです。
前に名前をあげたRichard Paul Hamilton先生は、ナンパコミュニティの隆盛とかどう見るべきなのか、みたいな問題意識でエッセイ書いてるわけです。
ハミルトン先生によれば、ほとんどお互いについての情報がない状態で、クラブやバーやオフ会なんかで人びとが出会ってお互いを求めあう、なんてのは人類の進化の過程ではほとんどありえない状況だったろうから、我々がそういう状況でどうふるまったらいいかわからないってのも無理はない、と。盆踊りとかのお祭りとかはあったろうけど、だいたい村とかで「どこそこの誰それ、評判はこれこれ」とかってわかる状況だったでしょうからね。そういう状況で問題になるのは「社会的証明」だ。特に女性はセックスまわりではリスクが男性より大きいので、相手がどういう人間かをよく見ようとする。
いい人は女性のそういうのを配慮して、自分は危険のない人間だってのを示そうとして、お世辞そのたさまざま女性のご機嫌をとろうとする。でもそれなんか自信のなさを示すことになり、魅力がなくなってしまう.
一方、ジャークやナンパ師は他人の意見なんか気にしない。そしてその他人の意見なんか気にしないことが魅力になっているのだろう。
ハミルトン先生によれば、この人びとっていうのは、ある点で、アリストテレス先生のいう高邁(メガロプシュキアー)な人と似てるね、と。直訳すると「魂の大きな人」ですね。『ニコマコス倫理学』第4巻第3章に登場する。「自分自身のことを大きな事柄に値すると見なしており、また現に値する人」、偉大な人。自分の価値をよくわかっている。自分自身に満足していて、他人からの評価など必要としない。落ちついていてなにがあっても動揺しない。なにがあっても驚かない。いつも「ゆったりしとした動作、深みのある声、落ちついた語り方」をする。自信があるからだ。自信ないやつはセカセカしたり声がうらがえったりしてかっこわるい。とにかく「高邁」は男性のモテるタイプの一つの典型なんですね。このアリストテレス先生の「高邁な人」は19世紀的な「ダンディ」とも関係があっておもしろいです。007のジェームズボンドとか想像してもいいかもしれない。
こういう健全な自己評価をもっている高邁な人と比べると、ジャークってのはアリストテレスの言う「うぬぼれ」の方に近くて、自分の本当の価値よりも自分を大きなものと見ている。いずれは本当の価値がないことがバレちゃって馬鹿にされることになる。彼らは愚かだ。しかし自分を卑下して他人の顔色をうかがいご機嫌をとろうとする「いい人」は、ほんとうはそのままでもモテるかもしれないのに自分はだめだと思いこむことによって、自分から善きものを奪ってしまう。これは「うぬぼれ」よりずっと悪い。一方、ナンパ師は、実際には気の弱い価値のない人間にすぎないのに各種のテクノロジーによって「高邁の人」の見かけだけをまねているにすぎない。
ハミルトン先生は、ナンパ師たちはアリストテレスでも読んで、上辺だけじゃなくて実際に中身のある高邁の人をめざしたらどうだ、みたいなことを書いてます。ただしアリストテレス先生は、美徳を身につけるには、美徳をもっている人が行うようなことを実際に行いつづけることによって身につけるしかないって言ってます。高邁な人になりたけければ高邁なふるまいをとりつづけてそれを習慣にするしかない。だからナンパ師たちの教えにしたがってモテるようなふるいまいをするのにもなんか意味はあるかもしれない。上辺だけじゃなくて中身も同時に鍛えれば、なにか偽装することなくモテるようになるかもしれない。宮台先生のアドバイスにも(道徳的な邪悪さや実際の危険はさておいて)なんか真理が含まれているかもしれないっていうのはまあそういう感じで。
あれ、おもしろくならなかった。このエントリ失敗。まあナンパとかしたことないことについても考えてもやっぱりあれですね。まあまたそのうち「ダンディ」についてあれするときに戻ってきたいです。まあちょっと言いわけしておくと、ここらへんのネタというのは、私が昔から読んでるキェルケゴール先生の解釈といろいろ関係しているんですよね。あの人の初期の著作(『あれか/これか』)に出てくるダンディズムとか誘惑論とかとここらへんの話に関係しているはずなんですわ。
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コメント
すべてはモテるためである 二村 ヒトシ<br />誘惑論・実践篇 大浦 康介
面白かったです!