『不安の概念』(6) 禁断が欲情を目覚ますが、欲情はまだ罪ではない

ちょっとキェルケゴールを引用すると、こんな感じ。

禁断を堕罪の条件とするなら、禁断が「欲情」を目覚ます事になる。……欲情は、責めや罪以前の責めや罪の規定であって、しかもそれは責めや罪などではない。すなわちこれらの責めや罪によって定立されたものなのである。

こういうのがふつう読めない。これ読めるって人は異常。英語やデンマーク語だとこういう感じ。

If the prohibition is regarded as conditioning the fall, it is also regarded as conditioning concuspiscentia. … Concupiscentia is a determinant of guilt and sin antecedent to guilt and sin, and yet still is not guilt and sin, that is, introducet by it.

Naar man lader Forbudet betinge Syndefaldet, saa lader man Forbudet vække en concupiscentia. … En concupiscentia er en Bestemmelse af Skyld og Synd før Skyld og Synd, og som dog ikke er Skyld og Synd ɔ: sat ved denne.

英語はデンマーク語をほとんどそのまま直訳している感じ。最後がitと単数になってるのにguilt and sinを受けてるのがいやなんだけど、これはデンマーク語も同じ。まあguilt and sinをitで受ける、そう読んでOKだと思う。文法書開くとこういう用法の解説あるはずだけど、ノンストップライティングだからしない。

さらに読みにくいのは、こういうのがいわゆるヘーゲル的な「弁証法」的な記述になってるからね。欲情 conspiscentia は古い言葉、っていうかラテン語で、まあ悪しき欲望はぜんぶこれにしてもいいんだけど、やっぱり性的な欲望、劣情、そういうのを指しますわね。それはいいとしましょう。んでたしかに欲情をもっていることは罪を冒すことの決定的要因なのですが、欲情をもつこと自体はまだ罪ではないのです。

なぜなら、欲情をもつこと自体が罪であるとされてはじめて、それが「(悪しき)欲情である」ってことがはっきりするからなんですね。

たしかに、(たとえば)性的な不品行とかって意味の罪を犯すには、その決定的要因として、欲情、性的欲求がなければならない。これは前にも性犯罪とかの話でちょっと触れましたが、性的な欲求はもってないけれどもスカートをめくって女子のパンツを見れば天国に行くことができるとか、女子のおっぱいを揉むとガンが治るとか、っていう信念や欲求をもってスカートをめくったりおっぱいに触った場合、それは性犯罪だとは言いにくいところがあるわけです。もちろん被害者にはふつう性犯罪と経験されるだろうけどね。

さらに、罪を犯すにはそれが悪いことだ、それが罪だと知っている必要がある。無知な子供は「なんかわからんけど女の子のパンツが見たい」という直接的な衝動をもったとしても、それを罪だとは思わない、つまり悪いことだとは思っていない。ただ見ようとするだけ。それはだめなことなのです、悪いことなのです、お前は助平なやつだ、将来が心配だ、と誰かからいわれてはじめて、それは罪だということになる。だから欲情そのものは罪ではない、ってな感じになるわけだと思います。

こういうのほんとうにうざい。禁止されてパンツやジャンプを見たいという欲情をもつ、でもその時点ではまだ罪ではない。罪だと言われて、なんでパンツ/ジャンプ見るとだめなの、ということを理解してはじめてそれが罪になる、そういうことを言おうとしているのだとおもうわけです。

いやー、弁証法ほんとうにうざいですね。頭のなかにあることと外にあることの区別がついてないんだもんね。

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