講義科目でキェルケゴールをちょっとだけとりあつかったので、このブログに反映しようかと思って正月三ヶ日『あれか/これか』に収録されている、「直接的・エロス的段階」、いわゆるキェルケゴールのドンファン論を読んでたのですが、やっぱりキェルケゴールは難しいですね。読んでも読んでも何言ってるのかはっきりしないので、「こういうことを言ってます」でさえあんまり自信をもって書くことができない。
まあキェルケゴール読もうとする学生様も院生様もとても苦労するんですわ。私自身も苦しんで、けっきょく「これでなにか書くのは無理だ」ってあきらめてしまった経験があります。
なんでそういうことになると、まずキェルケゴールが文章下手だからです。ものすごく下手。とにかく冗漫冗長でとても長い!いくら読んでも終らない感じがする。『あれか/これか』の設定では、『あれか/これか』はキェルケゴール本人が書いたものではなく、美学者Aっていう若者と、ヴィルヘルム判事っていうオジサンが書いたものを、好事家ヴィクトール・エレミタっていうおじさんが見つけて出版した、みたいな形になっているのも問題で、こういう人物だったらこういう面倒でまわりくどい文章を書くだろう、とかっていう想定の上で書かれてるのも一因ではあるかもしれない。
でも、やっぱり文章が下手なんすよ。キェルケゴールは大量に文章を書いたけど、大学でちゃんと勉強したかというとあんまり勉強してない気がするし、短文なんかを発表して人に読んでもらって修行することも怠ったままマギステル論文(修士論文)の『イロニーの概念』を書いて、いきなり大著『あれか/これか』を書いたりしていて、まあ読むより書く方が早いような人で、日本人でもよくいる典型的なガチャガチャした文章書くんですよね。
国内の(そして世界の)キェルケゴール研究者たちの一部は、「キェルケゴールの文章は名文・美文だ」みたいに言う人もいますが、デンマーク語だったら美文かもしれないけど私はそんなのどうでもいいと思う。そもそもあんまり信用してない。キェルケゴールは「デンマーク語だったら読みやすい(はずだ)」みたいに言う人もいるかもしれませんが、そういうのもおそらくでたらめです。デンマーク人も「音の響きはすてきだが、なに言ってるのかわからん」みたいな感想らしいです。
第二に、キェルケゴールの参照しているいろんな概念や歴史的知識が曖昧だ、というのがある。たとえば「キリスト教が官能性というものをこの世にもたらした」とか言うんですが、これがキリスト教についてのどういう歴史的な知識に依存しているのかがわからない。「〔古代ギリシアでの〕エロスは愛の神であるが、彼自身恋をしていなかった」とかもあるんですが、エロースとプシュケーの神話とか知ってたら「いや、プシュケーちゃんとそうなってたっしょ」とかってつっこみいれたくなるんですが、どっから(あるいはどういう解釈から)そういう話もってきてるかわからない。「エロースは美に向かうが自分自身は美しくない」とかだともちろんプラトンの『饗宴』の話を想起できるからわかるけど。ここらへんも、実際になにか典拠があるのか、あるいはキェルケゴールが勉強足りなかったり勘違いしてこうなってるのか、あるいはこの文章の著者は半可通という設定になってるのでこうなっているのかとか不明なんですよね。とても不安になる。(あら、プシュケーさんとあれしたのは自分で自分を射てしまう事故のためか……説明してくれりゃいいのに。ちなみに上のところ、プシュケーじゃなくてダプネーって書いちゃって恥ずかしい)
第三に翻訳の問題がある。ドンファン論は、デンマーク語原典から訳している太田早苗訳(創言社)、シュレンプフという学者による古いドイツ語訳からの重訳の飯島宗亨訳(未知谷)、それよりは新しいけどやっぱり古いヒルシュという人のドイツ語訳から訳した浅井真男訳(白水社)の3種があるんですが、どれも読みにくいですね。
私が思うに、これは訳者の先生たちが悪いからではない。読みにくくなる理由はいくつかあると思うんですが、一つはキェルケゴールが自分が使う概念がどういうものかさっぱり説明しないままに勝手に話をはじめてしまうので、どういう訳語を当てるのが適切なのかよくわからないっていうのがある。ドンファン論だとたとえば英語のsensualityに当たる言葉が重要なんですが、これまあ普通は「官能性」っていうか好色っていうか、肉体的なセックスに関係あるとかセックス好きだとかそういう意味なわけですが、キェルケゴールだとそれだけじゃなくて感覚性・感性とかそういう意味でも使われるっぽい。でもそういう感性が何と対立する概念・観念なのかはっきりしないんですね。んで先生たちによって感性とか官能性とか訳してるけど、ぼんやりしていて読者の頭に入ってこない。
もうひとつ今回気づいたのは、キェルケゴールは、長い修飾句がついた抽象名詞みたいなのものを、かなり後ろでthat+名詞やthe+名詞、つまり「あの〜(抽象名詞)」みたいな表現するクセがあるんですね。太田先生は、たとえば「〔理念の〕内容が乏しければそれ故受け取り直しが考えられない蓋然性はより大きく」っていう感じで出てきた「蓋然性」という言葉を、次の段落で「理念が抽象的であればある程、蓋然性は少なくなる」って訳してしまってますね。これは、英語だとthe probabilityって書いてるから直訳するとこうならざるをえないんですが、これだとふつうの人は読めない。浅井先生と飯島先生は「 反復の 蓋然性」って親切に訳してます。
ただしこれでも「受け取り直し」とか「反復」が何言ってるのかわからないので普通の人は読めない。なんの反復なんだろう?反復の蓋然性って何だろう?って思いますよね。けっきょく、キェルケゴールは一文一文、彼が何を言っているのかを解釈しないとならない。一文一文がこうした解釈を必要とする悪文のあつまりの大量のページなので、まあ普通の人には読めませんね。
でもおもしろいところもないではないので面倒なんですよね。でもこれからキェルケゴールを読もうとする人は、キェルケゴールは偉い思想家らしいから読みたい、読むべきだ、みたいに思いこまないで、とりあえず読んでみて読めておもしろいと思ったら読めばいいし、難しくてよくわからないと思ったら「この人は文章下手でしょうがない人なのだ」って判断して読むのやめるのをおすすめします。「偉いひとらしい」っていう伝聞情報から、「デンマーク語勉強すれば読めるはずだ」とか「ヘーゲル読まないと」「フィヒテやシェリングも」とか思いこまないように!
→ 参考 https://yonosuke.net/eguchi/archives/1104 https://yonosuke.net/eguchi/archives/1103 https://yonosuke.net/eguchi/archives/1101
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