んで、『不安の概念』の第1章第1節〜第2節では、アダムの最初の罪はよくわからんね、って話をぐだぐだやるわけです。まあここらへんでキリスト教の問題わからん人は読み進められなくなるですね。私も別にキリスト教にそれほど興味あるわけじゃないから読めない。キェルケゴールもよくわからずぐだぐだやってるんだと思う。まあここらへんいろいろ、とりあえず堕罪、原罪の話は大事だよ、ぐらいに読んどいていいんじゃないか。
「堕罪以前のアダムの状態については、古来いろいろ空想的なことが語られてますよね」みたいな話をしている。そう、そういうのはアウグスティヌス先生とかもしてるよ。
問題は第3節「無垢の概念」だ。ここからはそれなりに(それほどじゃないえど)おもしろくなる(いきなりヘーゲル先生登場してうざいんですが)。
無垢 innocence っていうのはまあまだなんの罪もおかしてないし、罪への欲求や傾向ももってない状態、ぐらいに読んでいいんだと思う。まあ罪っていうと(キリスト教に興味ない人間には)抽象的になっちゃうけど、これをエロと読むとどうだ!
子供は無垢です。エロのことは(すくなくとも)あんまり考えてない、てことになってる。まあ実際には、小学校低学年ぐらいからエッチな興味はあるんだろうけど、その前、3歳児とか少なくともエロをエロだとはおもってないんじゃないか。これです。これが無垢な状態ね。スカートめくりたい、パンツ見たいと思わない。そもそもパンツ毎日見てるし。逆にパンツ見せても平気、すっぽんぽん、それが無垢な状態。まだセックスがなんであるかとか、性欲がなんであるのかがわからない状態、そもそも知らない、それが無垢。
んで3節のキェルケゴールの結論はこういう感じ。
創世記の物語は無垢についてもまた正しい説明を与えてくれる。無垢は無知である。
アダムとイブは、セックスについて知らないという意味で無垢だったのでーす。
- 『不安の概念』(1) 『不安の概念』はセックス哲学の本、性欲の本かもしれない
- 『不安の概念』(2) セックスセックスぅ
- 『不安の概念』(3) キェルケゴールの問いは
- 『不安の概念』(4) 無垢はエロについて無知っす
- 『不安の概念』(5) 禁止されるとやりたくなりますか
- 『不安の概念』(6) 禁断が欲情を目覚ますが、欲情はまだ罪ではない
- 『不安の概念』(7) 人間は欲情をもって生まれる罪深い存在なんだ……
- 『不安の概念』(8) 「規定」の意味がわかりません、ははは
- 『不安の概念』(9) キェルケゴール学者はパラフレーズできるか
- 『不安の概念』(10) 無垢において人間は精神として規定されない
- 『不安の概念』(11) 無が不安を生む
- 『不安の概念』(12) なにができるかわからず不安です
- 『不安の概念』(13) 不安は可能性の可能性として自由の現実性であーる
- 『不安の概念』(14) 「自由」はいわゆる積極的自由だと思うの
- 『不安の概念』(15) 人間は心的なものと肉体的なものの総合である
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