男性も女性の不快さを理解していないだろう

前のエントリのピンカー先生の「求めてもいない突然のセックスを見知らぬ他人とすることになるのは魅力的どころか不快なことであるという心理を、想像することができない男性の視野の狭さ」(ピンカー 下巻p.58)っていうのは重要で、私の根拠のない推測によれば、こういう不快さがまわりまわってポルノやセクハラに敏感で批判的な女性の多くのバックにあるんじゃないかと思われます。

ピンカー先生や、その解釈のもとになってるバス先生やソーンヒル&パーマー先生組なんかの進化心理学者の解釈によれば、女性にとっての大きな課題の一つは望ましくない相手とセックスしてしまわわないことで、特に暴力とかそういうの使われてセックスされて妊娠させられてしまうのを避ける心理メカニズムが発達しているはずだ、と。

twitterとか見てるとけっこう頻繁にポルノや萌え系アニメ・ゲームとかの話題になるのですが、そういうときに男性の側はそういうのがわかってないんじゃないかと思うときはありますね。

「酒の席でちょっとぐらい下ネタの話してもかわまんだろう」「風俗行くのぐらい普通だから職場の雑談のなかでそういうのが出てもしょうがない」「エロマンガぐらい自由に見てもいいだろう」「なにカリカリしてんだお前らみたいな女のことはそういう対象にもなっとらんわ」とかっていうタイプの意見もあるかもしれませんが、そういう相手の見境のないimpersonalなセックスを求める男性的な性欲のあり方それ自体に女性は警戒するようになってる可能性がある。実際、職場関係者から強制的に性的にアクセスされたりレイプされることもあるわけだし、そこまでいかなくてもしつこくされたりストーカーその他面倒なことになるとかっていうのは非常によくあることなわけだから、女性にとってそういう性欲のあり方をおおぴらに公言したりする人々ってのは脅威であるだろうと思いますね。抽象的に「男性とはそういうものだ」みたいなことを理解しているつもりでも、実際に目の前の男が性欲まるだしだったらやっぱり警戒せざるをえない。「私は家でこれこれこういうポルノを好んで見ておりまして、あれはよいものですな」とかっていってるオヤジがいたらやっぱり警戒せざるをえない。そういうのって不快でしょうなあ。

まあそういうんで、ツイッタとかで大学関係者が「おっぱい、おっぱい」とかやってるのを見るとちょっと気になりますわね。ああいうの読む女子学生様とか不快になってるんちゃうかな、みたいな。

「女性だって家帰ったら薄い本とか読んでんだから」とか言う人もいるかもしれないけど、そりゃ女性向けにある理想化をされたポルノであって、職場や学校でうろうろしているダメな男たちの性欲について知りたいとも思わんだろう。気を許しているとヤラれてしまうし。女性たちが「なんで年柄年中まわりの男たちの性欲がどういう状態にあるか気にしてなきゃならんのか」と思うのはまあ当然のことだろうなあ、みたいな。腐女子と呼ばれている人々が「自重!」とかってやってんのも、彼女たちの性的なファンタジーと性欲の存在が男性に知られると集団として性的にアクセスしやすいと勘違いされる可能性があって、そこらに対する防衛なのかもしれんな、とか。まあそういう性的欲望(とその逆の性的嫌悪)に関してはいろいろ謎が多いですなあ。

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性表現と表現規制(8) ポルノ批判と会田先生の答え

まあ米国での規制の法制度づくりは失敗したわけですが、その後もポルノは性差別だというマッキノンとドウォーキンのラインの議論はけっこう魅力を感じる人もいるようです。

表現そのものが性差別だとかってのに疑問を感じる人がいると思いますが、人種差別的なヘイトスピーチのこととかを考えると、ポルノも女性に対するヘイトスピーチなのだ、みたいな言われ方をしたりします。わかりにくいって言えばわかりにくいんですけどね。

まあもうちょっとだけこのタイプの人々の言い分を聞いておくことにしましょう。

まずポルノってやっぱり言論だから言論の自由の方が大事なんちゃうか、言論だとしたら規制するのはおかしいだろう、という批判に対して、ラジフェミ(まあラジカルフェミニストにもいろいろいますが、今回はとりあえずこう呼んでおきます)の人々は、ポルノはそもそも言論なんかいな、言います。正直言論ってよりはマスターベーションの道具みたいなもんだろう、と。なにも新しいアイディアとか含んでないじゃないか、とりあえずたんなるオナニーの「おかず」ではないか、と。

それに仮に言論だと認めたとしても、言論の自由は絶対的なものではない、虚偽の広告とか規制しているのだから、女はいじめられて喜ぶものだとかって女性についての虚偽をばらまいているポルノを規制しても良いだろう、とか。

ポルノとか芸術とかは既成の道徳概念とかをひっくり返すものだ、みたいな見方に対しては、ポルノのいったいどこが既成の概念をひっくり返してるんだ、男が主体で女は受け身っていう旧来の考え方を繰り返しているだけじゃないか、とか。

まあもっといろいろあるんですが面倒だから途中で。とにかくこの系統の人々はいまだにポルノに対して反対しているし、法規制を求める人も少なくありません。とにかく性表現の規制をめぐる議論は、「猥褻」ではなく「性差別」が中心になってるわけですね。(もちろん性差別反対派と猥褻反対・保守派が手を結んだりしている部分もあります。)

んでまあ一番最初の会田誠先生と森美術館に対する抗議とそれへの返事の話にもどると、「ポルノ被害を考える会」とかはこういうマッキノンたちのラインでポルノを考えているわけですね。特に児童ポルノってのは、年端もいかない少女を邪悪な欲望の対象とするおぞましいものだ、と。んでおそらく会田先生なんかの作品では虐待されている少女が微笑んだりしているこそ気にくわん、女はいじめられて喜ぶというポルノ的幻想の最たるものではないか、みたいな感じだと思うんです。さらに、森美術館という一流美術館がそういう作品を堂々と展示することによって、そうした作品の作り方や欲望のあり方にお墨付きを与え、男性的な性欲とファンタジー中心社会をさらに盛り上げようとしている、と。彼らがよく使う比喩に「黒人が首輪付けられて犬扱いされて喜んでいる絵とかOKだっていうのか?」みたいなのがあるんですが、まあそういうものとしてポルノを見ているわけですね。

というわけでまあ会田先生の法律上の「児童ポルノ」や「わいせつ物」にはなりようがないですが、そういうものだとして展示を中止させようとしたってところだと思います。この戦略が正しいかどうかはわからんですね。私自身はぜんぜんだめだと思うんですが、まあ運動というのはいろいろあるんでしょう。

で、問題はこれに対する会田先生の「発表する場所や方法は法律に則ります」ですな。「考える会」などは法律は不十分だと考え、法が要求する以上のことをもとめているわけです。これに対して「法律に則ります」ってのはぜんぜん会の要求にそうつもりはありません、ってことですわね。「「万人に愛されること」「人を不快な気分にさせないこと」という制限を芸術に課してはいけない」とかってのは嫌いな人や不快な人や腹をたてる人がいてもアッシはやらせていただきますよ、ってことなんで、まあ「考える会」の主張にはまったく従うつもりがないってことですわ。

というわけで、さいど一番最初にもどると、こうしたポルノ批判の文脈で芸術家が「法に則って」とか「法の範囲内で」とか発言することはぜんぜん保守的でもなんでもないわけです。

性表現と表現規制(7) エロチカとポルノ

キャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンのラインの考え方では、性表現はよい性表現と悪い性表現がある、と。それを分けましょう。たんに友好的で平等で自発的で楽しいセックスを描いた「エロチカ」と、女性をものみたいに扱ったりいじめたり差別したり男性に従属させている「ポルノグラフィ」に分ける、と。

このエロチカとポルノ(グラフィ)の分け方は、従来の「猥褻なもの」とかの意味のポルノと混同しやすいのでよくない言葉の再定義ですよね。いろいろ問題が起こります。

まあとにかくポルノはそれ自体が女性をモノ・物品・商品として扱い、女性を苦しめ、女性を男性より下の地位に置いているので差別的であり、性暴力である、ってわけです。

あとは無理やり写真やヴィデオ取られたり、ポルノ無理やり見せられたり同じようなことをしろって命令されたり、「いやよいやよって言ってのは喜んでいるだろう、へへへ、体は正直だぜ」みたいな性暴力の原因にもなっている、というわけです。困りますね。

というわけで彼女たちの派閥の人は、1980年代前半にイリノイとかミネソタとかあそこらへんで条例を作って、そうした女性差別的ポルノを規制しようとするわけです。ただし「そういうポルノを製作販売したら罰する」とかって刑法的なものじゃなくて、「そういうポルノによって被害を受けたっていう民事倍賞を求めることができる」みたいなタイプの民事的な条例です。

まあ刑事だろうが民事だろうが、こういう法律は実際に表現を規制することになります。だってなにかるたびに「これは性差別的な表現だから賠償を請求する!」って裁判起こされたらおちおち出版とか制作とかしてられないですからね。

まあそういうふうにしてマッキノン=ドウォーキンの条例とかは表現の自由っていう大原則と真っ向からぶつかることになります。すごい議論になってみたいね。それまでわりとまとまってがんばって運動していたフェミニスト陣営もこれをどう扱うかっていうので真っ二つに割れる。マッキノンたちの批判はもっともだからポルノ規制しようという派閥と、いや表現の自由はすごく大事だからフェミニストとしてこそ表現の自由を優先するべきだ、みたいな。

実際にマッキノンらが作った条例はどれも違憲判決が出てつぶれます。でもフェミニスト内部にはしこりが残ったままだし、彼女たちが主張したポイントは一応じゅうようなものだと思われています。

いまアメリカとかのAVとか見ると、女性は「おー、いえーす、いえーす、いえーす、おーカモーン、オーイエ〜〜〜ス」とかやっているわけですが、あれは昔はおそらく「おー、ノー」だったんですが「ノー」だって言ってんのにエッチなことをするのはやばいので、「イエス」っていうようになったらしいですね。ポルノ女優じゃなくて一般人がどういうふうに言ってるのかはしりません。あと必ず女性が上になったりもするわけです。そういうのもフェミニストの人々が運動した成果といえるのかどうかはまあよく知らんですが。まあとにかくそういうふうにすることによってポルノじゃなくてエロチカです、というわけでしょう。まあああいうのエクササイズやってみるみたいでどの程度エロいのかよくわからんですな。

マッキノンの本は難しくて読みにくいです。英語で呼んでもよくわかんない部分が多いいし、昔の翻訳もあまりよくないですが、APP研の中里見先生たちのやつは正確でグーです。反マッキノン陣営のストロッセン先生のもいっしょに読んどいたほうがよいです。

私もここらへんの勉強はじめたときにちょっと研究ノートみたいなのかいたことがあるんですが、これ読むよりは下の『ポルノグラフィと性差別』の解説とか読んだほうがいいんじゃないかな。でも一応貼っておきます。「ポルノグラフィとフェミニズム法学」 http://hdl.handle.net/11173/345

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杉田聡先生の考えるあるべきセックスの姿

国内で売買春やポルノグラフィを猛烈に批判している人の一人に、杉田聡先生がいます。

杉田先生によれば、本来セックスは双方が「自発的な意思」によって「自主的に興奮」し、双方が「性的快楽」を味わうことができなければならない。売買春は一方だけが性的興奮や性的快楽を得るものなので不道徳だ、それはもはやセックスではなく性暴力と等しい、と言いたいようです。セックスに金銭をはさむな、そんなのはセックスではないと。

売春は女性の望まない性行為を模し、「強制わいせつ」を模し、「強姦」を模している。要するに売春は性的侵害を模している。……売春が、抱擁・性交・射精などを含む点においてセックスを模した営みと見えたとしても、それが経済行為・サービスとして金銭を媒介に行われるとき、そこで行われる営みはすでに愛し合う者同士の、あるいは互いに性行為そのものへの自発的な意思を有する者同士のセックスでないのはもちろん、それを模してもいない。金銭を媒介にしているという事実、したがって売春者にセックスそのものへの欲求と同意がないという事実は、その性的営みそのものに投影されざるをえない。金銭的動機にもとづく性行為においては、セックスにあるべき女性の自主的な興奮も反応も、それに伴う性的な喜びも存在しないのである。(杉田聡、『男権主義的セクシュアリティ』、青木書店、1999、pp.172-174)

まあなかなか説得力がある。

しかしこれってどうなんですかね。

「自発的な意思」ってのは相手の身体、あるいは身体との接触に対する性的欲望と考えていいんでしょうか。

まず気になるのは、本当に売買春においては性的欲望や性的快楽が一方にしか存在しないのかどうか。なんか男性誌とかAVとか掲示板とか見てると、男性客ってのはいかにして女性に性的快楽を味わってもらったり性欲を喚起するかをいっしょうけんめい考えたり試したりしているように見えますね。

第二に、通常の愛ある人々の間のセックスにしても、お互いが同時に自発的に開始するものなのかどうか。ふつうの人のセックスっていうのは「見あって見あって、はっきょい、のこった」みたいに始まるものなのかどうか。それに多くの男性は女性の歓心をひくためにおもしろい話したりプレゼントしたり指名でお金つかいまくったり、もういろんなことするわけでねえ。セックス産業でもそういうのは多いんじゃないかな。

まあ性産業にしてもキャバクラにしても上から目線っていうかお客だから接客しろ、とか、「キャバ嬢は江戸時代も知らないバカ」とか言っちゃう人もいるみたいだけど、そういうひとってのはたいていモテないことに落語の世界でもなってる。お金払って、さらにもてようとするのがまあそういうのが好きな人々なんじゃないっすかね。

性的快楽もなかなかあれだ。片一方に性的快楽がないと不道徳なセックスなんて言われると、ヘタな人はセックスするのは禁止しないとねえ。まあいろいろ考えちゃいます。

女性の自主的な興奮や反応なんて言われると、「自主的」ってどういうことだろうなあ、と思いますね。どうすると女性は自主的に興奮するんだろうか。男だってどうすりゃ「自主的に」興奮するのか。自主的ってどういうことだろう。まあお金払ったら興奮する人がいるとは思えないけど、あまりにもお金使わないと興奮しない人はいるような気がする。ははは。

またたしかに愛のあるセックスの方が強い性欲をいだくことが頻繁だろうし、性的快楽も多いだろう。愛のあるセックスの方が非道徳的な意味で「よい」セックスな場合は多いかもしれません。愛のない金銭セックスがそんな不道徳かどうかはまだわからない。

それに必ずしもお金払ったりもらったりしたら快楽の点で劣るセックスになるかどうか。愛だの親密さだのを考えないセックスが快楽などの点で優れている場合ももしかしたらあるかもしれんし。

互いの快楽を追求するのがセックスの本来の/あるべき姿だ、みたいなのはそうなのかな、と思うわけですが、お金払ったセックスがそれを目的にしてないのかどうか。けっこう重なりあってる部分もあるんじゃないですかね。わからんですが。ゴルゴ13だって、よくお金払ってセックスしてるけど性の達人ってことになってますからね。ははは。「当店では嬢の自主的興奮と性的快楽を最重視いたしますので、お客様のそのようにお心得ください」みたいな店もけっこう流行るのではないか。

でもまあ杉田聡先生は独善的なところも感じないではないが、哲学者らしいキレ味の議論を提出しているので、売買春やポルノ、性暴力などを考えたい人は必ず読んでみるべきです。上野千鶴子批判とかもなかなか迫力がある。

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杉田先生はもとはドイツの哲学者カントの研究者のはず。私とってはH.J.ペイトン先生の『提言命法』(行路社)を訳してくれたひと。これは手に入りにくい名著。amazonには古本でもないね。あとポルノ批判・売買春批判の他に、自動車批判でも有名。まあ筋金入りの反資本主義左翼。けっこう説得力があるので一読してみるとよい。

クルマが優しくなるために (ちくま新書)
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ストロッセン『ポルノグラフィ防衛論』

やっと出た。翻訳ごくろうさん。3400円におさめたのも偉い。これから読もう。

重要な本なので一応宣伝しておこう。

オビに「松沢呉一発掘」とか。うーん、そうか。

ポット出版からこのタイトルだと、なんだかアレな本ではないかと思われてしまいそうだが、ちゃんとした人のちゃんとした本。これちゃんと紹介してないフェミニスト/非フェミスト学者どっちも怠慢だよな。松沢先生偉い。ポット出版をおとしめるつもりはないけどこれがポット出版からしか出ないってのも問題な気がする。もちろん、ポット出版はいろいろ勇気ある本を出してて偉い出版社だ。これから硬軟とりまぜて伸びてほしい。がんばれー。

追記

上でポット出版について余計なこと書いたけど、この出版社のセクシュアリティ関係の本は(リベラルではあるけど)むしろどれも硬派なんだよね。なんか誤解をまねく書きかたしてごめんなさい。

中里見博先生のポルノグラフィ論 (5)

残り。第11章 性的人格権の復位

中里見先生は、性的自己決定権と別のものとしての性的人格権の重要性を認めるべきだという立場にたつらしい。私にはどっちも性的な強制からの自由を指すように見えるが、どうもずいぶん違う内容のようだ。

性的人格権は、身体的自由権と精神的自由権の両方を統合した権利として、一切の強制からの絶対的な保障を要請する。・・・したがってそれは、性が金銭によって売り買いされることを否定するものである。それゆえ、他人の身体を性的に使用する権利を金銭で売買する行為は、他人の性的人格権を侵害する行為と評価されなければならない。具体的には、管理売春における売春業者と買春者、単純売春における買春者、そしてポルノ業者による他人の性的使用権の売買は、性的人格権の侵害であり、違法行為であると評価される。(p. 227)

うーん、まあ「金銭では放棄できない」なにからしい。いまだに「放棄」が気になる。どういう場合に性的自己決定権や性的人格権を放棄したことになるのかが知りたいのだが、これは解決しそうにない。

ポルノグラフィ、売買春の中に入ることを「選んだ」人びとが性的自己決定権を行使したことによっていかなる不利益をも課せられることなく、しかも性売買の中の性行為によって、人の基本的な権利としての性的人格権を侵害されたことが社会的に承認されるべきこと、このことが、女性の身体の性的濫用=虐待が日々行なわれ続けている性売買の現場から投げかけられている。(p. 231)

うーん。「選んだ」にかっこがついているのは、そういう選択は真の選択ではないという立場なんだろう。こういう書き方では実際にセックスワークに従事している人びとから応援を得られそうにはない。またそういう人びとが必要としているプラクティカルな解決からもずいぶん遠ざかってしまっているように見える。もちろんリベラルな傾向の人びとにも支持されることはないだろう。まあこれはどれも中里見先生本人も意識しているだろう。苦しい立場だ。

というわけで中里見先生の結論は、売買行為の非犯罪化と買春行為の違法化ということらしい。

・・・強度な自由権としての性的自己決定権は、性売買の中で使用される女性や男性を国家刑罰権の対象とすることから解放し(非犯罪化)、他方で、性的人格権は、金銭の力によって彼らを使用する売春業者、買春者、ポルノ業者の行為を違法化あるいは犯罪化する方向に作用することになろう。 (p. 231)

ということらしい。わたしにはその自己決定権と人格権はまったく矛盾するものに見える。中里見先生はどっちも「性的自由」という大きな価値の一部だと主張したいと思っているような気がするが、「性的自由」の解釈(派生?)からこれほど矛盾するものが出てくるなら、自分の解釈がまちがっていると考えるのが自然だと思う。少なくとも性的自己決定権で売春する自由を認めるのなら、その相手を処罰しようとするのはまちがっているだろう。それでいいのだろうか。わからん。

以上。勉強になった。難しい立場だとは思うが、問題意識はわかる。がんばってほしい。

補足 松沢呉一先生のAPP研究会批判

APP研究会の訴訟事件と対応の問題については松沢呉一先生が
まずまずもっともな批判を書いてくれていた。
http://www.pot.co.jp/matsukuro/archives/2007/01/22/%e3%81%8a%e9%83%a8%e5%b1%8b1220%e4%bb%8a%e6%97%a5%e3%81%ae%e3%83%9e%e3%83%84%e3%83%af%e3%83%ab18/
判決文もここから見ることができる。私は松沢先生ほど厳しい見方はしてないが、この会のwebのプレゼンテーションほか、やっぱりいろいろ問題があるとは思っている。やっぱり「ポルノ被害」の検索でトップに来るのに、「相談をお寄せください」のまま半年以上放置してるのはまずいです。(せっかくの独自ドメインなのに「くらべる?キャッシング」とかのPRがついてるのもどうにかならんのか・・・)

中里見博先生のポルノグラフィ論 (4)

セックスワーク論関係を読みまちがえたかな

のコメントで、id:june_t さんからコメントいただいた。ありがとうございます。

うーん、私の読み間違いかなあ。

「性=労働」論(セックスワーク論)は売買春も労働として社会的に承認す るべきだというアイディアで、売買春では性的サービス、ポルノでは「演技」*1を提供してるのだ、とするわけだ。で、

児童労働が一般に禁止されているように子どもの性売買も当然に否定されるとする。また脅迫や暴力や賃金不払い等は、あらゆる契約行為において違法とされているように性売買においても禁止されるべきだと説く。(p. 53)

と中里見先生はおそらく正確な形で紹介している。この直後に問題のパラグラフ。今度はパラグラフまるごと引用。

このような「性=労働」論に対する最初で最大の疑問は、売買春・ポルノにおいて「性的サービス」労働ないし「演技」行為が売買されている、という前提そのものにある。もし本当に売買春・ポルノにおいて「性的サービス」という労働ないし「演技」が売買されているのであれば、「性労働」市場において最も高く買われる人は、「性的サービス」または「演技」に最も熟達した人でなければならない。ところが、現実の「性労働」市場では、身体的・性的に成熟しておらず、性に関してほとんど無知な子どもが、性的な「サービス」を何ら提供することなく、あるいは性的な「演技」を行なうことなく、完全に受動的に、何もせずに横たえられ、性的使用に供されるままにされることで高額に取り引きされている。あまつさえ縛られ、拘束され、磔にされ、まったく「サービス」も「演技」もできない状態に女性が置かれることに対して、金銭が支払われる。性売買では性的サービス労働や演技が売買されているとみなす「性=労働」論は、このような事態を説明することができない。(p.53)

うーん、わからん。私のカンはこの文章はかなりおかしいと言ってる(だから昨日のような文章になった)のだが、どういうことなんだろう。「このような事態を説明することができない」の意味がわからん。いつものように書きながら考える。

  1. 「セックスワークにおいて、もし性的サービスや演技が商品なのであれば、市場ではその技術がもっとも高い人に高い賃金が払われるはずだ」と中里見先生は考えている。
  2. 現状のセックスワーク市場は失敗している、ってのはOK。でもこれ、「はずだ」なのか「べきだ」なのか。私には本当は「べきだ」の方が適切に見える。
  3. ただし、現状のセックス市場で、子どもや演技できない女優が本当に高い値段をもらっているのかどうかは知らない。ありそうな話だが、すぐれた技術やすぐれた容貌をもったひとはさらに高い賃金を稼ぐことが可能なんじゃないかと思う。
  4. たとえば、(ほんとによく知らないのだが)なんのかんのいっても
    AVの主流はレイプものでもチャイルドポルノでもなく、単体美人女優ものだろう(だった?)。
  5. チャイイルドポルノに高い値段がつけられているのはむしろ社会的に禁止されているからじゃないのかな。わからん。もちろんだから解禁しろとか主張しているわけではない。こういう市場だけじゃうまくいかないところこそ法的規制が必要。
  6. SM系、企画もの系の一山いくらのAV女優の賃金は驚くほど安いはず。
  7. 芸能界という労働市場を見ても、歌や演技がうまいひとほど高い金をもらっているわけではないように見える。でもだからといってテレビ出演は労働ではないとは言えない。
  8. そもそもセックスワーク論は現状の市場の分析ではない。むしろ市場はこうあるべきだという理想だ。これが中里見さんのなかではっきりしてないんじゃないか。
  9. 「売買春やポルノ出演が労働であるなら、なぜ技術のない人びとが高い賃金をかせぐのか」に対してセックスワーク論者は、「だから市場を変えなきゃ」と答えるんじゃないかな。
  10. 当然のことながらセックスワーク論者は労働市場に、判断能力のない子どもが参加することを認めないだろう。
  11. そういやこの点で芸能界とか微妙だよな。ハロプロやジャニーズにはなんか虐待の匂いを感じたり感じなかったり。でもまあおそらくOK。
  12. SM系のビデオ撮影なんかにしても、(一時的なものにせよ)奴隷契約のようなものは認められるべきではないと思われる。ポルノグラフィ出演を労働と考える人びとは、おそらくフェイクでなんとか見せるような技術を要求するだろうし、最低限でもセーフワードのような安全装置を求めるはずだ。そもそもそういう労働者を虐待するような労働そのものを拒絶するかもしれない。「最初におおざっぱに約束して、途中でいやになっても破棄できない契約」あるいは「自分の意思を完全に放棄する契約」ってのが法的にも道徳的にも許容できるのかどうか。私はそれは奴隷契約にしか見えない。ここらへんは法律の専門家にいちどおうかがいを立ててみたい。自衛隊の隊員とかどの程度縛られてるのかね。
  13. こうして見てくると、セックスワーク論に反論するのに、セックスワーク論者が認めないような子ども労働や強制労働もちだしてもだめだと思われる。そういう思い込みが、私が読みまちがえたか勘違いしたかの原因のようだ。でもそれほど大きな勘違いでもないように見える。
  14. まあとにかく、子ども買春や子どもポルノに大きな金が動いているからといって、セックスワーク論はうまくいかん、というのはうまくいってないと思う。
  15. もちろん、セックスワーク論者の主張するようなワークとしてのセックスが、多くの人に好まれ、金を出そうとするようなものであるかどうかはよくわからん。私のたんなる思弁によれば、なんか違うような気もする。難しい。中里見先生が本当に指摘したいのは、「セックスワークとかいうけど、本当に求められているのはそれとは違うでしょ?」ってことかもしれん。男権主義的セクシュアリティが目指すところはおしきせで提供されたサービスの享受とかで
    はない、むしろ、サービスの枠を越えた支配なのだ、とかそういう感じ?うーん。こうなってくるとかなりよさげな主張だ。好意的にこういうラインで読むべきかもしれん。
  16. たしかに私の読みが粗雑だったかもしれないけど、いまのところ昨日書いたものを訂正する必要はまだ発見してない。まだなんかまちがってたらコメントおねがいします。

第8章 アメリカ反ポルノグラフィ公民権条例 第9章 カナダ「わいせつ」物規制法の「被害アプローチ」

どっちも緻密に書かれていて勉強になる。憲法学者としての腕を十分に発揮。すばらしい。でも反ポルノ側から見たものだけを資料にしているように見えちゃうのがちょっとだけ不満。フェミニスト陣営を二分した事件なのだし、ACLUあたりの活動にも触れてほしかったなあ。

あと「スナッフフィルム」が気になる。たしかにそれは実在しているのかもしれない。が、ネットにでまわったという話を聞いたことがないことからすると、ほとんど流通してないんじゃないだろうかと思っている。マッキノンのように、

映像用に女性を殺すことで、いわゆる『スナッフ・フィルム』〔=殺人ポルノ〕がつくられるが、それは非常に儲かるポルノグラフィであり、しかも、被害者が証人になるのを防ぐ確実な
手段でもある。(p. 161、 マッキノンの発言の引用)

とかってのはどうなんかなあ。スナッフフィルムはほんとうにポルノと関係あるのかな。もしそういうのが流通するとすれば、セックスぬきのスナッフだけで売れるだろう。チェチェンの首切り事件やその他の事故映像ならあちこちにあるわけだが。(もちろん見たくない)そういや、4、5年前に女性が頭打ち抜かれる映像がはやったときがあったな。あれはセックスとは関係なかったし、フェイクだったとされているはず。まあ実際にあるとすれば、こりゃ警察力で徹底的に戦わなきゃならんだろう。でも証拠なしに(一応合法の)ポルノとそういうのを結びつけようってのはどうもなあ。もしスナッフフィルム市場がほんとにあれば、それは法規制とはまったく無関係に流通するように思える。暗黒世界はいやだなあ。

9章のバトラー判決についての中里見先生の評価の成否は、大事な箇所なのだがゆっくり検討しないとわからん。ていうか私には無理そうだ。これは憲法学者の仕事だな。

あれ、ここまで中里見先生が「ポルノグラフィ」の定義に「実際の被害」を入れた理由が出てこなかったような。これ困る。

第10章 性的自己決定権の意義と限界

一番読みたかったのはこの章。うまくやれてるかな。

性に関する人権としては、これまで「性的自由」「性的自己決定権」が唱えられてきた。(p. 207)

こういう文脈での「人権」ってどう使われるのかな。人によってずいぶん違うからなあ。中年将来のない若者になってもいまだに「人権」についてクリアなイメージをもってないのはなんだか自分でも恥ずかしい。(まあこれは逆に歴史的に考えすぎるクセがついているかもしれんし、自然権思想のようなものを疑いの目で見るクセがついてるからかも。それだったらそれほど恥ずかしくない。)

まあふつうは「人間が生まれながらにして、人間であるという理由で、もっているいくつかの権利」ぐらい?ふつうは国家に対する個人の自由とか?でもいまではいわゆる「社会権」も含まれるのが普通? 中里見先生はどういう意味で使っているか。まあ社会権も含んでるんだろう。この文脈で「人権というのは」とか考えるのはスジが悪いからとりあえずOK。性的自由と性的自己決定権が大事だ。OK。「賛成」「異議なーし」「異議なし」

・・・性的自由の保護の核心は、性に対する他者からの強制や妨害の排除、すなわち自己決定の自由にある。したがって性的自由は、・・・「性的自己決定権」といいかえられてきた。

「性的自己決定権」とは「いつ、だれと、どのような性行為(あるいは生殖行為)を行なうかの決定権は、本人にのみ帰属する」という権利である。・・・

・・・性的自己決定権は、不可侵の基本的人権である以上、他者に包括的に譲り渡すことのできない一身上の権利として観念される。したがって、人は、婚姻によっても性的自己決定権を放棄していない。・・・(p. 208)

ここらへんまったくOK。

しかし次の「「性=雇用労働」論批判」と「「性=自営業」論の問題点」あたりから あやしくなってくる*2。若尾典子先生の議論を援用して話が進むわけだが、しょうじき私は若尾先生の議論もよくわからんというか納得いかんというか。使われている若尾先生の議論はこれに載ってるやつ。良書なのは認める。もっと読まれてよい本だと思う。

フェミニズム法学

フェミニズム法学

なんかかなり難しい議論なので一パラグラフまるごと引用。

若尾の考察によれば、性的自己決定権を保障する立場からは、性売買が雇用労働であることが否定される。なぜなら、雇用労働においては一般に、使用者(雇用主)は労働者(雇用者)に対して特定の労働を業務命令として要求することができ、労働者は使用者の指揮・命令に従う義務を負うことになる。したがって性売買を雇用労働ととらえると、売買春においては、使用者たる売春業者が労働者たる売買春のなかにいる女性に対し特定の性行為を買春客と行なうよう命令することができ、ポルノグラフィにおいては、使用者たるモデルプロダクション等ポルノ制作者が労働者たる出演者に特定の性行為を行なうよう命令することができることになる。つまり売買春・ポルノの中にいる女性は、だれと、いかなる性的行為を行なうかについて使用者の命令に従う義務を負うことになる。それはいいかえると、性売買の中に入る女性は、一定の範囲—あらかじめ特定された「性的サービス」内容の範囲—ではあれ、性的自己決定権を雇用主である売春業者に委ねることを意味し、その限りで性的自己決定権を放棄することにほかならないからである。(pp. 209-10)

中里見先生は若尾先生の議論に特に批判を加えていないので、ほぼ同意見であるとみなしてよいのだろう。

それにしてもこういう議論はわからん。杉田聡先生とかも同じような議論す るのだが*3。「性的自己決定権」なるものは、「いつだれどどういうセックスするか自分で決める権利」。そして、こういう性的自己決定権は「放棄できない」ことにもとりあえず同意しておく。この二つの前提はOKだ。でも、この前提の上で、業者と雇用契約を結ぶことがなぜ性的自己決定権の放棄になるのか。トリックは最後の文章にある「その限りで」にあるような気がする。これどういう意味なんだろう。「委ねる」から「その限りで・・・放棄する」への微妙な言い直しが論理的な落とし穴とトリックがあることを示している、ような気がするがわからん。

部分的であれ性的自己決定権を放棄することを正当化する雇用労働として性売買をらえることは、性的自己決定権の保障とは相容れない。若尾のいうように、「売春労働契約は、性的自己決定権を放棄するものであり、許されない」、なぜなら、「狭義の自己決定権は、いかなる契約によっても、奪い得ない女性の基本的な権利、すなわち人権である」からである。(p. 210)

なんか論点先取を繰り返しているだけのような気がする。うーんうーん*4

中里見先生と若尾先生の議論の特徴は、売買春を雇用労働と自営業に分けて論じるところなので、まあとりあえず自営業としての売買春の方に。自営業とみなせば、とりあえず上の「自己決定権の放棄」にはあたらんのではないかという議論に対して、

・・・女性は、買春客との関係では性的自己決定権を放棄しているといえないだろうか。なぜなら、自営ではあれ、「業」として性行為を行なう以上、買春客を選ぶことはできないと評価しうるからである。買春客を選ぶ自由と、業として性行為を行なう売春業を営むことは概念的に矛盾しうる。だとすれば、自営業としての売春を営むことも、本来「個別の性行為について、その都度、行使される」べき性的自己決定権を買春客との間であらかじめ放棄しているということになる。したがって、たとえ自営業であっても売春する者と買春客で結ばれる「労働契約は、性的自己決定権を放棄するものであり、許されない」といえることになる。(p. 212)

どの程度この議論が若尾先生のもので、どの程度が中里見先生のものかはちょっとはっきりしないのだが、へんな議論だ。正直なところヘンすぎて筋を追うのが難しい。「業」だから客は選べない、ってのはなんか「業」に関する 概念的な(定義についての)問題なのか*5、それとも実践的な問題なのか*6わからん。「矛盾しうる」もわからん。「矛盾する」じゃないのかな?「評価しうる」とかってのもわからん(法律用語ではないと思う)。おそらくこれは若尾先生の議論なのだろう。このパラグラフに続けて中里見先生は、この議論を否定しているようにも見え
る。

だが、業として営む場合でも、公共的な業務の提供とはいえず、むしろ性行為のもつ特殊な性質から、自営の売春業においては契約を拒否する自由が売春する者に広く認められるべきだと思われる。そうであれば、自営業の場合、売春する者は、「いかなる性行為をだれと行なうか」という意味での性的自己決定権を行使していると評価せざるをえない。 (p. 212-3)

いったいどっちやねん、とか。おそらくこっちが中里見先生の評価なんだろう。はっきりしないのはおそらく書き方に工夫が足りないんだと思う。なんだか苦しくなってきた。中里見先生の結論部分は

たしかに自営で行なわれる売春業は性的自己決定権の行使と評価されるであろう。しかし、売買春での性行為が女性の身体の性的使用=濫用=虐待となっている現状を社会的根拠として、売買春への性的自己決定権の行使が「性的自由の放棄」を意味するとみなす言説が、圧倒的なリアリティを社会的に有している。こうした現状のもとでは、性的自己決定権を最終的な性的人権とすることは、売買春における性虐待を規制するのに十分ではなく、むしろ「買春者の暴力の処罰」を現状以上に困難にすると考えらえる。・・・(p. 223)

わたしには大袈裟な言いまわしがせっかくの議論をだいなしにしているようにも見えるけど、とりあえず、売買春を性的自由の一部に認めると、いろいろ悲惨なことやまずいことが起こるからやめておこう、ということらしい。帰結主義的に人権を制約するということかな?しかし人権とか性的自己決定権なるものをたんなる帰結主義・功利主義的な二次原則(あるいは擬制)とはみなさないひとはそれには納得しないだろう。それでいいのかな?そもそも中里見先生は自己決定権やら人権とかどういうものだと思ってるのかな、というのがやっぱり問題になっちゃうわね。 もちろん最初から帰結主義的な立場に立つとか*7、性的自由や性的自己決定権なるものにたいした重要性を認めないのなら、それでもいいんだけどね。パターナリズムやモラリズムでいくぞってのならそれでもいいし。

おそらくこの章の中里見先生の議論は大筋で失敗しているように思える。っていうかとりあえず私は納得しなかったが、どう失敗しているかこれ以上追跡する元気はもうない。終了した方がよいかもしれない。とりあえず8章と9章は読むに値すると思う。

*1:前にも書いたけど、私はポルノビデオで「演技」が売られているとは考えない。

*2:ほんとに「=」は勘弁してほしい。

*3:この本全体に杉田先生の議論への言及が少なくてちょっとショック。

*4:こういう曖昧で不明瞭なものを考える苦しさを分析して明快なものにして抜けだすときの喜びが、哲学する喜びの一部をなしているのは確実だと思うのだが、あんまり多いと本当に苦しい。私には耐えられる自信がない。

*5:その場合、客を選んでセックスするのは売春「業」じゃない、ってことになる。

*6:現実にはなかなか客を選びにくいってこと

*7:もしそうしてくれるならいろいろみんなで議論するべき余地があるし、それはおそらく有意義なものになりそうだ。

中里見博先生のポルノグラフィ論 (3)

と の続き

ポルノグラフィと性暴力―新たな法規制を求めて (福島大学叢書新シリーズ)

第2章「性売買としてのポルノグラフィ」

それほど問題なさそう。現在のAVポルノ制作は売買春を含んでいる。まあ前貼りつかってたころの日活ロマンポルノも広い意味では売買春含んでたのかもしれないけど基本的には「うそんこ」の演技だったわけだが、現在では実際のオーラルセックスや本番なしのAVなんて考えらんないしね。

バクシーシやバッキーに代表される暴力ポルノAVが問題なのは、演技じゃなくてほんとに人間を殴ってそれを撮影してたわけで、そういうのが犯罪を構成しないっては私には信じられん。

そりゃどんな映像も「リアル」なのはおもしろいわけだが、リアルさを追及するためにリアルなことをしちゃうってのがね。現代の広い意味のポルノ(エロチカも含む)の特殊性がここにある。

銃撃戦はおもしろいが実際に銃撃戦することはできない。映画で「誰かが青痣つくほど殴られる」ってのを表現したいときに殴って青痣つけるなんてのはありえない。

本番ポルノ女優としては愛染恭子が有名だけど、ポルノ映画界主流派にとってはやっぱりキワものだったろう。そういやかわぐちかいじの漫画『アクター』でも本番やるってのがあったが、そういう形での「リアルさ」の追求はフィクション作家としては志が低いのはほとんどのフィクションファンは認めるんではないかと思う。ドキュメンタリー作家なら別かもしれんが、ドキュメンタリー作家が人殺しを取るためにおかしな奴に実際に人殺しさせたらやっぱり犯罪だろうよ。(なので私はバクシーシもバッキー栗山もやっぱり犯罪者だと思うし、そういうのをもてはやしていた馬鹿たちはほんとうに馬鹿だと思う。バクシーシもてはやしていたAERAとかそろそろ一回自己批判してみたらどうか。)

どの論者にも、このポイント(「AVはリアル」」)はあんまり指摘されてないんだよな。中里見先生は書いてくれるんじゃないかと思ったけど、ちょっと足りないみたい。自分でもロンブン書くか。

第3章 「性売買批判の論拠」

性売買がだめな理由。

  1. 性売買の強制(経済的なインセンティブも中里見先生にとっては強制)
  2. 現場で被る暴力
  3. 買春する男が女を対象物化するようになり、他の女性に被害を加える
  4. 女性差別の再生産、女性の地位低下

まあよく主張されるポイント。議論しつくされている感じがある。

気になったのは「3 「性=労働」論をめぐって」と題されている第3節。

うーん、このイコールは曖昧なので勘弁してほしいんだけ どな*1。イコールで結んでいるのが内包なのか外延なのかはっきりしない、その意味内容や範囲が同じなのかどうかあいまいなまま進んでいっちゃうのは困る。「セックスの一部は労働としてみることができる」「セックスはぜんぶ労働」「労働としてのセックスもOK」「セックスとしての労働もOK」とかいろんな読み方ができるような気がすんだけどね。あきらかにセックスと労働は違う概念なので、そのセックスの一部と労働の一部がかさなりあうことがある(そしてそれもOK)ってぐらいの意味なんだろう。

セックスワーク

中里見先生の主張は

性売買は性の支配をつうじて人格(尊厳)を侵害するという主張は、性(セクシュアリティ)と人格の結びつきに対する積極的な評価を前提にしている。人にとって性が人格と深いところで結びついているという事実を直視し、人の尊厳を尊重し保護するには、性を労働と同等に扱うのではなく、労働以上に篤く保護する必要があると考える立場である。(p. 52)

まえにもやったけど、この「人格」の概念というか意味はかなり曖昧で取り扱いに苦しむ。 と のうしろの方。これ本気でちゃんと分析するとけっこうオリジナルなロンブンになってしまうなあ。

中里見さんのような人がこういう主張をするばあいの「人格」はかなり多義的で、私の目には少なくとも

  1. 「「そのひとがどういうひとであるか」という意味の「人格」のなかで性欲やセックスや性的アイデンティティはかなり重要な部分を占めている」」
  2. セルフアイデンティティと呼ばれるもののなかでセックス関係は重要。
  3. 他人からある人を見た場合に、その人のセックス関係はその人を評価する上でけっこう重要。
  4. 人間関係を円滑に営む上でセックスはとても重要。
  5. 誰にたいしても性的な自由は尊重されるべきであり、この尊重を要求する権利は、人間が人間である以上普遍的に保持している(べき)ものだ。
  6. 人間の成長発達するなかで性的経験はたいへん重要。
  7. もっとある

とかってのの集合なんだよな。あ、1と2をうまく書き分ききれてない。あとで考える。

さて、セックスワーク論に対する中里見先生の批判は、一部非常に重要な点をついている(っていうか触れつつある)。これは高く評価されるべきだと思う。

このような「性=労働」論に対する最初で最大の疑問は、売買春・ポルノにおいて「性的サービス」労働ないし「演技」行為が売買されている、という前提そのものにある。もし本当に売買春・ポルノにおいて「性的サービス」という労働ないし「演技」が売買されているのであれば、「性労働」市場において最も高く買われる人は、「性的サービス」または「演技」に最も熟達した人でなければならない。ところが、現実の「性労働」市場では、身体的・性的に成熟しておらず、性に関してほとんど無知な子どもが、性的な「サービス」を何ら提供することなく、あるいは性的な「演技」を行なうことなく、完全に受動的に、何もせずに横たえられ、性的使用に供されるままにされることで高額に取り引きされている。(p.53)

私はこれは非常に有効なポイントだと思う。労働ってのはふつうは技術なり労働力なりを売るものなわけだが、売買春や本番AVで女優や男優が売っているのは技術なのかどうか。加藤鷹は技術を売っているかもしれんが、相手の女優は技術ではなく生理的な反応を売っているんではないかという感じがある。中里見先生偉い。このタイプのものを売る商売ってのはなかなか 近いものが見当たらない。マッサージ師も身体を使って仕事をするわけだが、彼らははっきりとした技術を売っていると思う*2*3

ただまあ、売買春において「身体的・性的に成熟しておらず、性に関してほとんど無知な子どもが、性的な「サービス」を何ら提供することなく、あるいは性的な「演技」を行なうことなく、完全に受動的に、何もせずに横たえられ、性的使用に供される」ってのはほんとうかな。児童買春とかはそうかもしれんが、ふつうの街中にあるような風俗とかでもそうなんだろうか?マッサージ師が技術者であるなら、風俗嬢も技術者として評価される可能性は十分にありそうにも見える。そういう技術者として自分を認識している風俗嬢は、技術を磨くこともできれば、その技術と仕事に誇りをもつことも可能かもしれん。まあわからん。キャバクラとかで、自分ただ若い女であることを武器に、しょうもない話術と胸チラとかで商売しているひともいれば、日経新聞とプレジデントとかを毎日読んで努力して自分を磨いている高級クラブのホステスもいるだろう。前者のなかにも、そして後者の多くは自分の仕事にかなりのプライドを持っているような気がするし、それが風俗嬢に不可能かどうか。わからん。

中里見先生のよくない点は、「完全に受動的に」性的使用されるというようなケースのセックスワークがある(かもしれない)ってことから、

「そういった状態に置かれ、性的使用に供されることがサービスや演技の内容なのだ」ということはできる。だがそれはいいかえると、虐待を受け入れることを 「サービス」や「演技」と称して、金の力で強要することを正統*4化することにほかならない。(pp. 53-4)

と進んでしまうことだわなあ。たしかに児童買春は虐待だろう。でもそれをふつうに誇りをもって働いている(かもしれない)セックスワーカーの人たちにまで拡大するのはダメだし失礼でさえあるかもしれない。

性売買の現実をみれば、そこで常に売買されているのは「労働」でも性的「サービス」「演技」でもなく、それらに名を借りた、一定の範囲における、女性の身体の性的使用権である。・・・(売買春・ポルノの場では)売買される女性の身体の性的使用権は、女性の身体の性的濫用=虐待権と実体的に区別がつかない。(p. 54)

「性的使用権」。うーん、そんなもんがあるんかいな。まあ言いたいことはわかるんだけど、なんか根本的にまちがっているような気もする。わからん。

第4章 「ポルノ被害とはなにか」

いろんなポルノ被害を列挙。とくに鬼畜バッキーヴィジュアルプランニングの例が使えているので迫力がある。ここ、読むとウツになるし、トラウマあるひとはフラッシュバックおこしたりする人もいるかもしれないのでその傾向あるひとは注意。

ポルノグラフィと性犯罪の因果関係

たいていの場合ポルノは読んだり鑑賞したりするものではなく使うものであることを正しく指摘。オナニーで使うわけだがそれによって、

ポルノグラフィの内容は、性的快感と生理的反応をつうじて全体で肯定されることによって、その男性に文字どおり身体化され、血肉化される。(p. 75)

こういう大袈裟な書き方が私にはちょっとアレだが、 ここらの問題はちょっと古いけどアイゼンク*5の『性・暴力・メディア』新曜社1982あたりでも詳しく議論されているので興味のあるひとは読むべきだと思う。また、ここらへんは国内におけるポルノ利用の権威 id:kanjinai 先生にも評論してほしいところ。私にはよくわからん。

その次のパラグラフはおかしいと思う。

この事実を踏まえたうえで、なお一部の論者のいうように、「ポルノグラフィの使用が性犯罪を減らす」としたら、その論者はこういわねばならない。ドメスティック・バイオレンスを減らしたければ、妻を殴り、虐待し、拷問することを娯楽に仕立てる本やビデオを社会に大量に流通させ、世の夫全員が妻の虐待映像を自らの身体的・心理的快楽として消費するようにすればよい、と。また子どもの虐待を減らしたければ、子ども虐待を娯楽にする商品を社会に溢れさせて親がそれを好んで使うようにし、外国人差別をなくしたければ、当該外国人を拷問するビデオを人々の楽しみにすればよい、と。「ポルノグラフィが性犯罪を減らす」という議論が、いかに逆立ちした議論かわかるはずである。(p. 75)

これがどうおかしいかを指摘するのは難しい。けっこうよく考えてみないとわからん。とりあえずここでの「ポルノグラフィ」の定義をもういっかいたしかめておく必要がある。中里見先生の定義ははっきりしている。

性的に露骨で、かつ女性を従属的・見世物的に描き、現に女性に被害を与えている表現物 (p.18)

おろ、「現に女性に被害を与えている」っていう一節が目新しい。それは本人も認めている。マッキノンたちはこの表現は使ってなかったと思うから、中里見先生のオリジナルだな。うーん。この新奇な定義の正当化はどこでやってるんだろう。それ見つかるまで保留。

で、もとにもどって、DVへらすならDVビデオ見せろ、ってのはたしかにおかしいよな。でもなんかおかしい。中里見さんが何を見失しなっているのかというと、それは性欲が人間の欲望のなかでもかなり特殊な欲望だってところなんじゃないだろうか。性欲のやむにやまれぬさ、「自然」さってのはほとんどの人に強く感じられるものなんだろうけど、それに対応するようなDV欲とか虐待欲とかってのがあるのかどうか。「だれでもいいから女を殴りたい」「誰でもいいから若い女のパンツを盗撮したい」とかってのはわからんでもないが(あんまりわかりたくはないが)、「誰でもいいから妻を殴りたい」「誰でもいいから子どもを虐待したい」「外国人ならだれでもいいから拷問したい」とかって形の欲望をもつってのはなかなか想像しにくい。私の根拠のない思弁では、そういう人びとの心のなかは(私の想像では)「言うこと聞かない妻をやむなく殴る」「しつけだから」「~人は~だから我が国から追い出さなきゃならん」とかそういう状態になっているんじゃないかと思われる。つまり、DVや児童虐待や外人拷問は、直接に殴ったり虐待したり拷問したりすることを目指す欲求はもってないんじゃないだろうか。いろんな認知の歪みと自己コントロールの喪失が、DVや虐待や外人嫌いの原因であるように見える。これに対してポルノ好きはどうなんかな。性欲は日々生産されつづける生のエネルギーだ、とかってのは、フロイトやユングの理論が滅びた(滅びろ!)いまでさえ、けっこうよさげな仮説なんじゃないかな。わからん。まあとにかくそこらへんかなり大きな違いがありそうだ。中里見先生のはレトリックとしては強力だが、あんまり論理的には見えない。

原子論的「因果関係」論の問題性

でも批評した論文に関係する部分。同じ論旨になっちゃうけど、こっちももういっかいやるか。勝手におつきあいしちゃう。粘着粘着。

ポルノ消費と性暴力の関係性を否定する立場の想定する「ポルノグラフィと性暴力の間の因果関係」なるものは、いかなるものであろうか。それは(1)あるポルノグラフィ消費者すべてが性暴力を実行に移すこと、(2)そのポルノグラフィを消費したことが、その性暴力の唯一の原因となっていること、という二点を暗黙に想定しているようである。 その二点が同時に、あるいは少なくとも一方が証明されなければ、ポルノ消費とその後に続く性暴力との間に「因果関係」はない、そして「因果関係」が存在しない以上、ポルノグラフィは存続しなければならない、というように。(p.77-8)

以前の論文とはちょっと書き方がかわっているが、実際にこんな奇妙な想定を置く論者がどっかにいるのかな。もう1回書くけど、(1)「唯一の」原因なんてものはどういうものについても存在しないし、(2)通常言われる因果関係は統計的であってまったく問題がない。これら誰でも認めるはずだ。この直後のパラグラフもおかしい。

しかし、この原因-結果関係論はあまりにも厳密すぎる。上記のような因果関係が立証されれば、そのような商品・製造物を社会に流通させることは危険すぎるため直ちに禁止されるであろうが、現在の公害責任や製造物責任はそのように厳密な原因と結果(損害)の関係性の立証を要求してない。ポルノグラフィという「製品」は「表現」にかかわることだからという一点だけでは、そのような厳格な因果関係の要求を正当化できないであろう。 (p. 78)

「禁止されるだろうが、」の「が」があいまい。逆接「だろう。しかし」か?

公害責任や製造物責任が原告側に原因と結果の間の詳しい因果関係のメカニズムの証明を求めていないのはその通り(そしてそれはよいこと)だが、それとポルノグラフィと性暴力の関係は同じものだろうか?無過失責任を企業に課すのはさまざまな(たとえば功利主義的)正当化が可能なわけだが、それはやっぱり製造物と被害のあいだに(正確にはどういうメカニズムかはわからんにしても)一定の因果関係があることがわかっているときに限られるのはとうぜんのことだ。私の人生が今失敗していることが、子どものころに『宇宙戦艦ヤマト』を見たからだ、なんて主張されたら困るでしょ?だから、メカニズムの分析はともかく、なんらかの因果関係の推定はどうしても必要なのよ。法律学者が法律についてなんか書いたらわれわれは(特別な事情がないかぎり)それを信頼するのだから、ここらへんはわかりやすくちゃんと書いてほしい。この手の本を読むひとが法律に精通しているってことはないだろうから、せめて因果関係は刑法でも民法でもけっこう難しい哲学的大問題として議論されているぐらいのただし書きつけておいてほしい。

民法だったらふつうは相当因果関係説か。製造物責任について 自由国民社『図解による法律用語辞典』*6では次のような解説している。

化学物質・薬品あるいは一定機械器具を永年使用したことと身体障害との間の因果関係の問題は、高度の専門的知識を必要とし、また現在の科学の水準をもってしては証明できないこともしばしばである。これについても、裁判官の革新を必要としたのでは、証明の不可能または至難となる。そこで、一応の因果関係があるとの蓋然性の証明がなされたときは、製造者の側で因果関係がないという反対の証明をしなければならないものと解される。(『辞典』p. 347)

まあ蓋然性の証明は必要なんよね。ポルノと暴力の関係が現段階の研究でそういう蓋然性さえ示せているかどうかどうか。また、それを規制した場合に、表現の自由やポルノ愛好者の快楽を抑圧するに見合うだけの社会的な利益や効用をもたらすのかどうか。わたしはいまのところ、うたがわしいと思っている。

刑法だと(1)条件説「その行為がなかったらその結果は生じなかったろう」、(2)原因説「条件のなかからなんらかの標準だけを選択し「原因」とする。たとえば一番有力な条件となったものが「原因」)、(3)相当因果関係説(だいたいその行為からその結果が生じるのが経験上通常)の三つぐらいの立場があって、相当因果関係説が主流、と。どれも中里見先生が洞察するような主張は含んでいないように見える。せめてポルノと性暴力のあいだに相当因果関係があることぐらいは示したい。そこらへん法律学やっているひとはどう考えるのかな。っていうか法律学者や哲学者には、知識に加えてここらへんの分析の腕を求めたいところ。(もちろんいろんな分析や立証の方法があると思う。)

アメリカでは、1970年代末から、ポルノグラフィが消費者に与える影響についての膨大な研究が蓄積されている。 (p. 79)

だからそれ以前からいろいろあるっちゅーに。まあ狭い「(暴力的)ポルノ」の影響という形ではじめたのは70年代後半だからそれでいいのか。でもなんかあれだぞ。厖大ってほど厖大にはない。60年代からメディア暴力と現実の暴力の研究があるわけだし。ここらへんの経緯について私が見たなかで一番詳しいのは上であげたアイゼンクの本。必読。

ミーズ委員会の問題についてはやっぱり触れてくれないのね・・・ここらへん一方的なのは、本気で運動しようとしているのなら逆効果になるのになあ。

第5章 「二つの凶悪事件」「インターネット時代のポルノ」

バッキービジュアルプランニングと「関西援交」。それに各種特異な嗜癖の人の掲示板の書き込みなど。ここらへんいろいろ詳しくしらべてあってご苦労さま。そういうのが好きじゃないのに見たり読んだりするのはたいへんだったろう。ここらへんが「喜びよりも苦悩をもたらした」の一部かなあ。私にはできん。へんな掲示板まよいこむとトラウマになるよ。偉い。

今日はこれくらいかな。ちなみに、Hustler誌 1978年6月号の有名「女体ミンチ」表紙がp. 132にあげられている。この号は入手してない(超高価で入手できない)けど、この表紙は、フェミニストたちがHastler誌が「女を肉のピースのようにして吊りさげている」として攻撃したのに対する編集者ラリー・フリント流の皮肉な反撃のはず。だから「We will no longer hang women up like pieces of meat. — Larry Frynt”」となるわけだ。フェミニストに対する宣戦布告。もちろんフリントは「俺らは女性の美とセックスの快楽を賛美してるんだ!」「言論の自由を守る!」とか言うわけだ。ハスラー読者がこういうのを好んで見ていたわけではない(と思う)。まあたしかにひどくdisgustingではあるが、そういう前後の文脈を説明せずに写真だけ載せちゃうのはあんまりフェアじゃない。まあ米国のフェミニズム関係の本でも同じ扱いをされているカバー写真なのだが。(「ポルノ好きはこんなのでまで萌えてるんですわよ!」「まあ!」)

70年代後半のHustlerがどんな感じだったかは あたりからわかる。そのころPlayboyは(今から見ると)ちょっと上品な保守的なブロンド美人ピンナップと上質の読み物、Penthouseはもろセックスもありのエロ中心、Hustlerはお下劣おもしろいならなんでもあり、っていう方向だったんじゃないだろうか。(そういうのお嫌いな方は見てはいけません)フリントは奇矯で魅力的な人物なので、興味あるひとは映画『ラリー・フリント』見てみるとよいと思う。(ポルノではない。脇役のコートニー・ラブがよかった)wikipedia (en)から調べてみるといろいろおもしろいと思う。

*1:まえに赤川学先生に発すると思われる「性=人格説」とかって表現についても攻撃したけど

*2:まあでも手の温度とかそういう生理的なものも重要かもしれん。

*3:教員とかカウンセラーとかってのはかなり特殊な商売で、技術というよりは「人格」そのものを商売道具にしているような感じがするのだが、まあ生理的な反応を売っているわけではない(はず)。

*4:ママ。おそらく「正当化」の誤植。

*5:心理学者。条件づけとか学習とかの権威。行動療法を発展させた人。

*6:この本はいろんな法律用語が素人にもよくわかるように書いてあるので、いろいろ法律問題も考えてみたい素人はとりあえず必携。

中里見博先生のポルノグラフィ論 (2)

最近児童ポルノの単純所持の違法化の議論あたりの影響か、「中里見博」で検索してたどりつく人が増えているような。http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20060313/p1 にひっかかって来訪していただいているらしい。

新しい本を出してらっしゃるのでじっくり読んでみる。(前にも書いたが政治的にはまったく違う立場に立つけど、やっていること自体や立派な学者的態度は応援している。)

ポルノグラフィと性暴力―新たな法規制を求めて (福島大学叢書新シリーズ)

ソフトからハードまでグラデーションとして存在するポルノグラフィを共通して貫いている原理は、女性を性的に客体物化する(objectify)ことである。(中略)女性の性的客体物化の究極的な形態は、女性の死であるといってよい。つまり、女性の性的客体物化の行き着く果ては、セックス殺人(セックスを目的に女性を殺すこと)である。女性を性的客体物化することを快楽とする男性のセクシュアリティは、究極的にはセックスと死を結びつける — 女性の死こそ男性の最大の性的快楽とする — 権力にほかならない。つまり、女性を性的客体物化する男性のセクシュアリティそのものが、一つの権力なのである。女性の性的客体物化(sexual objectification)、これがジェンダーとしての男性が女性に行使する共通の性的権力である。(pp. 26-7)

うーん、どうなんだろうな。ポルノが女性を客体物化(objectify)しているってのまではわかるのだが、それがセックス殺人と結びつくってのはとっぴもない主張に見える。まあそういうのが好きな人がいるってのはありそうな話だが、ポルノ好きを極めると殺人ポルノに行きつくってことはどれくらいありそうな話なのかな。私はほとんどありそうにないと思うのだが。レイプもの好きなのもそれほど多くないような気がするし。「行き着く果て」ってのは、「一部の人の嗜好が行き着く果て」ということでよいのだろうか。

まあじっくり読んでみよう。衝撃的だったのはあとがき。

七年にわたるAPP研究会での活動をつうじて、多くの同志と出会い、少なくない同志を失った。この活動は幸福よりも不幸を、喜びよりも苦悩を、より多くもたらしたかもしれない。(p. 238)

うーん、いろいろたいへんだったんだな。やっぱり不幸になる研究活動とかって のは凡人には難しい。研究や勉強は、相応の快楽や喜びをもたらさねばならない 1)私は功名心や名声心だけでなく、敵意の満足でさえよろこびの一部をなすならそれでもよいかもしれないと思うようになってきている。 。訴訟とかもあったしなあ。あの会の活動のしか
たが、ちょっと無防備というかvulnerableな感じがあって心配していたのだが。(この研究会も、webの使い方がヘタな団体の一例なんだよな。http://www.app-jp.org/

References[ + ]

1. 私は功名心や名声心だけでなく、敵意の満足でさえよろこびの一部をなすならそれでもよいかもしれないと思うようになってきている。

中里見博先生のポルノグラフィ論 (1)

中里見博「ポルノグラフィと法規制:ポルノの性暴力にジェンダー法学はいかに対抗すべきか」、『ジェンダー法・政策研究センター研究年報』第2号、2004

と「ポルノ被害と法規制:ポルノグラフィーをめぐる視座転換をめざして」、『ジェンダーと法』、第2号、2005。

後者は前者の短いバージョン。

米国では、1970年代末から、ポルノグラフィが消費者に与える影響についての膨大な研究が蓄積されている。その研究には、大別して、(1)被験者を用いた実験研究、(2)性犯罪加害者の聞き取り、(3)サバイバー(性暴力被害者)の証言・体験談、がある。

(略)

(1)の実験研究の結論は、概ね次のようなものである。すなわち、暴力ポルノの試聴によって視聴者は、女性への攻撃的な態度の増大を引き起こす。女性への攻撃的態度は、女性への性的暴力行為の増大を引き起こす。1986年の司法長官「ポルノグラフィに関する委員会」の最終報告書は、「既存の研究によると、暴力ポルノを相当程度消費することは、反社会的な性的暴力行為を引き起こし、消費者の一定の人びとは、性犯罪を引き起こすという仮説が明確に証明される」と結論づけた。(「法規制」の方のp.228)

この委員会の報告書は入手していないが、 http://www.porn-report.com/ で全文を読めるようだ。引用されているのは

http://www.porn-report.com/205-question-of-harm.htm の 5.2.1だと思われるが、直接この文章に対応するのはまだ見つけていない。引用符でくくってはいるが、直接の引用ではなく、要約のようだ。まちがっているわけではない。

しかしいくつかポイント。

研究の歴史

中里見先生の記述は若干ミスリーディングなところがある。

第一に、米国でのポルノと性犯罪の研究は「1970年代後半」になってやっと行なわれるようになったわけではない。1960年代にはすでに多数の科学的実証研究が行なわれていたし、特にジョンソンーケネディ政権の時に大統領委員会が上の司法長官委員会よりずっと大きな予算を使って行なわれた。(結果はポルノと性犯罪の間には因果関係はなさそうだ、というもので米国のハードコアポルノ解禁の論拠となった)

研究方法

第二に、ポルノと性暴力の関係についての科学的調査では、(1)被験者を用いた実験研究、(2)性犯罪加害者の聞き取り、(3)サバイバー(性暴力被害者)の証言・体験談、に加えて、(4)社会統計的な調査が大きな役割を果たしている。ポルノの規制をゆるめた国で性犯罪が増えたか減ったか、ポルノが入手しやすい国や地域とそうでない地域で性暴力がどの程度違うか、とかそういう調査。ジョンソン委員会でもイギリスのウィリアムズ報告でも、この社会統計が大きな役目を果たした。司法長官委員会では(4)をちゃんとやらなかったと批判されている。実際のところ、国別に見たときにポルノが手に入りにくい国の法が性暴力が多いとか、米国でも性暴力が多いのは保守的でポルノ入手が難しい地域だという指摘がある。

報告書

第三に、司法長官委員会(Meese委員会)の報告書は発表当時からかなり問題があると指摘されているので、2004年の段階では論拠としては使いづらいと思うのだが、どうなんだろうか。よく書けている問題点の指摘が http://home.earthlink.net/~durangodave/html/writing/Censorship.htm で読める。まあ問題ありまくり。委員会のメンバーがもともと反ポルノだとか。

それにこの報告書の参照されている部分は、中里見先生がほのめかしているように実験研究だけに限定されたののではない。下参照。

因果関係

この報告書で特に科学的・哲学的に問題だとされているのが、因果関係の立証に関するところで、被験者にポルノを見せて「女性に対する攻撃性」が上昇するところまでは実験室で示すことができたとしても(これさえかなり難しいのだが)、それが実際の性暴力につながることを示すことはほとんど不可能だ。(実際に被験者に性暴力や暴力一般をふるわせるわけにはいかない)

この点についてMeese委員会はぜんぜん科学的じゃない。

Finding a link between aggressive behavior towards women and sexual violence, whether lawful or unlawful, requires assumptions not found exclusively in the experimental evidence. We see no reason, however, not to make these assumptions. The assumption that increased aggressive behavior towards women is causally related, for an aggregate population, to increased sexual violence is significantly supported by the clinical evidence, as well as by much of the less scientific evidence.[45] They are also to all of us assumptions that are plainly justified by our own common sense.

女性に対する攻撃的ふるまい*1と(合法であれ違法であれ)性的暴力との間のつながりを見つけるには、実験的な証拠だけでは見つけられないようないくつかの仮定が必要になる。しかしながら、われわれは、これらの仮定を置かない理由を見つけられない。女性に対する攻撃的ふるまいの増加が、人口全体からすれば、性的暴力の増加に因果的につながっているという仮定は、臨床的な証拠によっても、それほど科学的でない証拠によっても支持されている。(このような)いくつかの仮定はわれわれ全員にとって、われわれの常識によってあきらかに正当化された仮定でもある。

つまりこの因果関係(実験室で観察されるかぎりでの女性に対する攻撃的ふるまい(性的ではない)→(実際の)「性」暴力)は、たんに委員会の人びとの常識や直観にもとづいたものにすぎない。(assumption(s)の単数、複数にも注意)

あとclinical evidenceという言葉が出てきていることからわかるように、これは中里見先生の(2)や(3)も含んだ研究なんよね。まあそれは中里見先生もわかってると思う。

まあ詳しくは上のDavid M. Edwardsの論文でもどうぞ。

ポルノと「攻撃的ふるまい」

ポルノと性暴力の直接の関係だけでなく、ポルノと女性に対する攻撃性の間の関係もなかなか実証しにくい。私が知るかぎりあんまり積極的な実験結果は出てないんじゃないかと思う。Donnersteinの有名な論文ぐらい。それも批判が多い。さらに悪いことに80年代後半からはそういう実験の倫理性のようなものが注意されるようになったのもあって(だって実際に攻撃性や性暴力につながるなら危険だし)、ほとんど研究されていない分野になってしまっているはず。むずかしいものだ。

メモ

Meese委員会の問題は非常によく議論されたので、ここらへんに興味があるひとは誰でも知っていると思ってたが、そうじゃないのだろうか。2005年の論文でMeese報告を無批判に使われると困る。

中里見先生はアンチポルノの文献ばかり読んでしまってるんじゃないかと思う。アラン・ソーブルのようなポルノ中毒哲学オヤジのものや、カミール・パーリアのようなポルノ好きフェミニストのものも読んでみるべきだと思う。

中里見先生に限らず、同意するかしないかは別として、パーリア読まないでフェミニズムを語るのはやっぱりまずいんじゃないだろうか。

そうでなければ、政治的な目的のために学術的な研究の一部を無視しているのかもしれない。(でもこの人はまじめな学者肌の人のようだからそうではないだろう。)

まあ撮影現場での性暴力やだましや物理的暴力や精神的暴力はいかんのはもちろんなのだが、やっぱり学問したいところ。中里見先生は反ポルノ陣営のエースなのでがんばってほしい。(政治的には応援してないけど学問的には応援している。はっきりした問題意識と姿勢、鋭い着眼点その他学ばせていただく点は多い。他に腰をすえてちゃんとやろうというグループはあんまりいないし。)

ポルノ好きはここらへんの議論にどう向かうべきか

中里見先生はかなり自分で考えてみる方なので、おもしろい論点も提出してくれる。

因果関係否定論には次のような想定があるように思われる。第1に、ポルノが当該性暴力の唯一の原因となっていなければならない、第2に、あるポルノが性暴力の原因となるなら、そのポルノを消費するすべての男性に同じ結果が生じなければならない、という想定である。それらが証明されないかぎり、ポルノは存続しなければならない、と。

それはなぜだろうか。1つの、しかし決定的な理由は、立法者、法執行者、メディア人、研究者など言説を支配している人びとの大半が、ポルノグラフィを娯楽・快楽として楽しんでいるからではないか。ここには、ジェンダーという「階級」利益の問題が深く関わっていると思われる。(「法規制」 p.68)

上の方の二つの「想定」の分析はどうだろう。因果関係に懐疑的な人達はどちらも特に想定してないんじゃないだろうか。少なくとも私は見たことがない。若干トリヴィアルに見えるかもしれないが、そもそも人間の行動について(だけでなく、実はすべての事象について)、「唯一の」原因なんてものは存在しない。マッチに火がつくときはマッチを擦ったという原因の他に、酸素があるとか濡れてないとかそういうのも必要。ポルノが性暴力の十分重要な原因の一つになることを示すだけで十分だろう。また、一部の気質の人びとにポルノが非常に重大な影響を与えるということは十分ありえる(研究室実験でははっきり差が出ているはず)し、それは認めるだろう。「ある種の人びとにポルノを見せると(他の条件がおなじなら)性暴力ふるう傾向が強まることがある」という程度のことは因果関係否定論者も認めるだろうと思う。

一方、「因果関係が証明されないかぎり、ポルノは存続しなければならない。」と思っている人びとは多いだろう。しかしこれを権力をもっている人びとがポルノ好きだからだ、と言ってしまうのは乱暴すぎる。問題になっているような暴力ポルノを好きな人びとはそんなに多くないと思うし(実際ポルノ売り場でもレイプものや暴力的なものは美人ものなどに比べて売り場が狭い)、もし自分がポルノ好きでなくとも、好きな人びとの利益は考慮されるべきだと考えるのがふつうだろう。まあポルノ好きの人には一定のバイアスがあるという程度の主張ならはその通りだと思うわけだが。法社会学的には興味深いテーマではある。

また、とりあえずポルノが一部の人が性暴力をひきおこす原因のひとつとなる、ということが仮に実証されたとしても、だからポルノを規制しちゃえということにもならん。まあこれは当然先生も理解されておられるわけだし、法による規制というものがどうあるべきかというのは現在の私の能力を越えてるから書けない。

*1:これも本当は攻撃的「態度」でなければならないはずだが。