セックスワーク論関係を読みまちがえたかな
のコメントで、id:june_t さんからコメントいただいた。ありがとうございます。
うーん、私の読み間違いかなあ。
「性=労働」論(セックスワーク論)は売買春も労働として社会的に承認す るべきだというアイディアで、売買春では性的サービス、ポルノでは「演技」*1を提供してるのだ、とするわけだ。で、
児童労働が一般に禁止されているように子どもの性売買も当然に否定されるとする。また脅迫や暴力や賃金不払い等は、あらゆる契約行為において違法とされているように性売買においても禁止されるべきだと説く。(p. 53)
と中里見先生はおそらく正確な形で紹介している。この直後に問題のパラグラフ。今度はパラグラフまるごと引用。
このような「性=労働」論に対する最初で最大の疑問は、売買春・ポルノにおいて「性的サービス」労働ないし「演技」行為が売買されている、という前提そのものにある。もし本当に売買春・ポルノにおいて「性的サービス」という労働ないし「演技」が売買されているのであれば、「性労働」市場において最も高く買われる人は、「性的サービス」または「演技」に最も熟達した人でなければならない。ところが、現実の「性労働」市場では、身体的・性的に成熟しておらず、性に関してほとんど無知な子どもが、性的な「サービス」を何ら提供することなく、あるいは性的な「演技」を行なうことなく、完全に受動的に、何もせずに横たえられ、性的使用に供されるままにされることで高額に取り引きされている。あまつさえ縛られ、拘束され、磔にされ、まったく「サービス」も「演技」もできない状態に女性が置かれることに対して、金銭が支払われる。性売買では性的サービス労働や演技が売買されているとみなす「性=労働」論は、このような事態を説明することができない。(p.53)
うーん、わからん。私のカンはこの文章はかなりおかしいと言ってる(だから昨日のような文章になった)のだが、どういうことなんだろう。「このような事態を説明することができない」の意味がわからん。いつものように書きながら考える。
- 「セックスワークにおいて、もし性的サービスや演技が商品なのであれば、市場ではその技術がもっとも高い人に高い賃金が払われるはずだ」と中里見先生は考えている。
- 現状のセックスワーク市場は失敗している、ってのはOK。でもこれ、「はずだ」なのか「べきだ」なのか。私には本当は「べきだ」の方が適切に見える。
- ただし、現状のセックス市場で、子どもや演技できない女優が本当に高い値段をもらっているのかどうかは知らない。ありそうな話だが、すぐれた技術やすぐれた容貌をもったひとはさらに高い賃金を稼ぐことが可能なんじゃないかと思う。
- たとえば、(ほんとによく知らないのだが)なんのかんのいっても
AVの主流はレイプものでもチャイルドポルノでもなく、単体美人女優ものだろう(だった?)。 - チャイイルドポルノに高い値段がつけられているのはむしろ社会的に禁止されているからじゃないのかな。わからん。もちろんだから解禁しろとか主張しているわけではない。こういう市場だけじゃうまくいかないところこそ法的規制が必要。
- SM系、企画もの系の一山いくらのAV女優の賃金は驚くほど安いはず。
- 芸能界という労働市場を見ても、歌や演技がうまいひとほど高い金をもらっているわけではないように見える。でもだからといってテレビ出演は労働ではないとは言えない。
- そもそもセックスワーク論は現状の市場の分析ではない。むしろ市場はこうあるべきだという理想だ。これが中里見さんのなかではっきりしてないんじゃないか。
- 「売買春やポルノ出演が労働であるなら、なぜ技術のない人びとが高い賃金をかせぐのか」に対してセックスワーク論者は、「だから市場を変えなきゃ」と答えるんじゃないかな。
- 当然のことながらセックスワーク論者は労働市場に、判断能力のない子どもが参加することを認めないだろう。
- そういやこの点で芸能界とか微妙だよな。ハロプロやジャニーズにはなんか虐待の匂いを感じたり感じなかったり。でもまあおそらくOK。
- SM系のビデオ撮影なんかにしても、(一時的なものにせよ)奴隷契約のようなものは認められるべきではないと思われる。ポルノグラフィ出演を労働と考える人びとは、おそらくフェイクでなんとか見せるような技術を要求するだろうし、最低限でもセーフワードのような安全装置を求めるはずだ。そもそもそういう労働者を虐待するような労働そのものを拒絶するかもしれない。「最初におおざっぱに約束して、途中でいやになっても破棄できない契約」あるいは「自分の意思を完全に放棄する契約」ってのが法的にも道徳的にも許容できるのかどうか。私はそれは奴隷契約にしか見えない。ここらへんは法律の専門家にいちどおうかがいを立ててみたい。自衛隊の隊員とかどの程度縛られてるのかね。
- こうして見てくると、セックスワーク論に反論するのに、セックスワーク論者が認めないような子ども労働や強制労働もちだしてもだめだと思われる。そういう思い込みが、私が読みまちがえたか勘違いしたかの原因のようだ。でもそれほど大きな勘違いでもないように見える。
- まあとにかく、子ども買春や子どもポルノに大きな金が動いているからといって、セックスワーク論はうまくいかん、というのはうまくいってないと思う。
- もちろん、セックスワーク論者の主張するようなワークとしてのセックスが、多くの人に好まれ、金を出そうとするようなものであるかどうかはよくわからん。私のたんなる思弁によれば、なんか違うような気もする。難しい。中里見先生が本当に指摘したいのは、「セックスワークとかいうけど、本当に求められているのはそれとは違うでしょ?」ってことかもしれん。男権主義的セクシュアリティが目指すところはおしきせで提供されたサービスの享受とかで
はない、むしろ、サービスの枠を越えた支配なのだ、とかそういう感じ?うーん。こうなってくるとかなりよさげな主張だ。好意的にこういうラインで読むべきかもしれん。 - たしかに私の読みが粗雑だったかもしれないけど、いまのところ昨日書いたものを訂正する必要はまだ発見してない。まだなんかまちがってたらコメントおねがいします。
第8章 アメリカ反ポルノグラフィ公民権条例 第9章 カナダ「わいせつ」物規制法の「被害アプローチ」
どっちも緻密に書かれていて勉強になる。憲法学者としての腕を十分に発揮。すばらしい。でも反ポルノ側から見たものだけを資料にしているように見えちゃうのがちょっとだけ不満。フェミニスト陣営を二分した事件なのだし、ACLUあたりの活動にも触れてほしかったなあ。
あと「スナッフフィルム」が気になる。たしかにそれは実在しているのかもしれない。が、ネットにでまわったという話を聞いたことがないことからすると、ほとんど流通してないんじゃないだろうかと思っている。マッキノンのように、
映像用に女性を殺すことで、いわゆる『スナッフ・フィルム』〔=殺人ポルノ〕がつくられるが、それは非常に儲かるポルノグラフィであり、しかも、被害者が証人になるのを防ぐ確実な
手段でもある。(p. 161、 マッキノンの発言の引用)
とかってのはどうなんかなあ。スナッフフィルムはほんとうにポルノと関係あるのかな。もしそういうのが流通するとすれば、セックスぬきのスナッフだけで売れるだろう。チェチェンの首切り事件やその他の事故映像ならあちこちにあるわけだが。(もちろん見たくない)そういや、4、5年前に女性が頭打ち抜かれる映像がはやったときがあったな。あれはセックスとは関係なかったし、フェイクだったとされているはず。まあ実際にあるとすれば、こりゃ警察力で徹底的に戦わなきゃならんだろう。でも証拠なしに(一応合法の)ポルノとそういうのを結びつけようってのはどうもなあ。もしスナッフフィルム市場がほんとにあれば、それは法規制とはまったく無関係に流通するように思える。暗黒世界はいやだなあ。
9章のバトラー判決についての中里見先生の評価の成否は、大事な箇所なのだがゆっくり検討しないとわからん。ていうか私には無理そうだ。これは憲法学者の仕事だな。
あれ、ここまで中里見先生が「ポルノグラフィ」の定義に「実際の被害」を入れた理由が出てこなかったような。これ困る。
第10章 性的自己決定権の意義と限界
一番読みたかったのはこの章。うまくやれてるかな。
性に関する人権としては、これまで「性的自由」「性的自己決定権」が唱えられてきた。(p. 207)
こういう文脈での「人権」ってどう使われるのかな。人によってずいぶん違うからなあ。中年将来のない若者になってもいまだに「人権」についてクリアなイメージをもってないのはなんだか自分でも恥ずかしい。(まあこれは逆に歴史的に考えすぎるクセがついているかもしれんし、自然権思想のようなものを疑いの目で見るクセがついてるからかも。それだったらそれほど恥ずかしくない。)
まあふつうは「人間が生まれながらにして、人間であるという理由で、もっているいくつかの権利」ぐらい?ふつうは国家に対する個人の自由とか?でもいまではいわゆる「社会権」も含まれるのが普通? 中里見先生はどういう意味で使っているか。まあ社会権も含んでるんだろう。この文脈で「人権というのは」とか考えるのはスジが悪いからとりあえずOK。性的自由と性的自己決定権が大事だ。OK。「賛成」「異議なーし」「異議なし」
・・・性的自由の保護の核心は、性に対する他者からの強制や妨害の排除、すなわち自己決定の自由にある。したがって性的自由は、・・・「性的自己決定権」といいかえられてきた。
「性的自己決定権」とは「いつ、だれと、どのような性行為(あるいは生殖行為)を行なうかの決定権は、本人にのみ帰属する」という権利である。・・・
・・・性的自己決定権は、不可侵の基本的人権である以上、他者に包括的に譲り渡すことのできない一身上の権利として観念される。したがって、人は、婚姻によっても性的自己決定権を放棄していない。・・・(p. 208)
ここらへんまったくOK。
しかし次の「「性=雇用労働」論批判」と「「性=自営業」論の問題点」あたりから あやしくなってくる*2。若尾典子先生の議論を援用して話が進むわけだが、しょうじき私は若尾先生の議論もよくわからんというか納得いかんというか。使われている若尾先生の議論はこれに載ってるやつ。良書なのは認める。もっと読まれてよい本だと思う。
なんかかなり難しい議論なので一パラグラフまるごと引用。若尾の考察によれば、性的自己決定権を保障する立場からは、性売買が雇用労働であることが否定される。なぜなら、雇用労働においては一般に、使用者(雇用主)は労働者(雇用者)に対して特定の労働を業務命令として要求することができ、労働者は使用者の指揮・命令に従う義務を負うことになる。したがって性売買を雇用労働ととらえると、売買春においては、使用者たる売春業者が労働者たる売買春のなかにいる女性に対し特定の性行為を買春客と行なうよう命令することができ、ポルノグラフィにおいては、使用者たるモデルプロダクション等ポルノ制作者が労働者たる出演者に特定の性行為を行なうよう命令することができることになる。つまり売買春・ポルノの中にいる女性は、だれと、いかなる性的行為を行なうかについて使用者の命令に従う義務を負うことになる。それはいいかえると、性売買の中に入る女性は、一定の範囲—あらかじめ特定された「性的サービス」内容の範囲—ではあれ、性的自己決定権を雇用主である売春業者に委ねることを意味し、その限りで性的自己決定権を放棄することにほかならないからである。(pp. 209-10)
中里見先生は若尾先生の議論に特に批判を加えていないので、ほぼ同意見であるとみなしてよいのだろう。
それにしてもこういう議論はわからん。杉田聡先生とかも同じような議論す るのだが*3。「性的自己決定権」なるものは、「いつだれどどういうセックスするか自分で決める権利」。そして、こういう性的自己決定権は「放棄できない」ことにもとりあえず同意しておく。この二つの前提はOKだ。でも、この前提の上で、業者と雇用契約を結ぶことがなぜ性的自己決定権の放棄になるのか。トリックは最後の文章にある「その限りで」にあるような気がする。これどういう意味なんだろう。「委ねる」から「その限りで・・・放棄する」への微妙な言い直しが論理的な落とし穴とトリックがあることを示している、ような気がするがわからん。
部分的であれ性的自己決定権を放棄することを正当化する雇用労働として性売買をらえることは、性的自己決定権の保障とは相容れない。若尾のいうように、「売春労働契約は、性的自己決定権を放棄するものであり、許されない」、なぜなら、「狭義の自己決定権は、いかなる契約によっても、奪い得ない女性の基本的な権利、すなわち人権である」からである。(p. 210)
なんか論点先取を繰り返しているだけのような気がする。うーんうーん*4。
中里見先生と若尾先生の議論の特徴は、売買春を雇用労働と自営業に分けて論じるところなので、まあとりあえず自営業としての売買春の方に。自営業とみなせば、とりあえず上の「自己決定権の放棄」にはあたらんのではないかという議論に対して、
・・・女性は、買春客との関係では性的自己決定権を放棄しているといえないだろうか。なぜなら、自営ではあれ、「業」として性行為を行なう以上、買春客を選ぶことはできないと評価しうるからである。買春客を選ぶ自由と、業として性行為を行なう売春業を営むことは概念的に矛盾しうる。だとすれば、自営業としての売春を営むことも、本来「個別の性行為について、その都度、行使される」べき性的自己決定権を買春客との間であらかじめ放棄しているということになる。したがって、たとえ自営業であっても売春する者と買春客で結ばれる「労働契約は、性的自己決定権を放棄するものであり、許されない」といえることになる。(p. 212)
どの程度この議論が若尾先生のもので、どの程度が中里見先生のものかはちょっとはっきりしないのだが、へんな議論だ。正直なところヘンすぎて筋を追うのが難しい。「業」だから客は選べない、ってのはなんか「業」に関する 概念的な(定義についての)問題なのか5、それとも実践的な問題なのか6わからん。「矛盾しうる」もわからん。「矛盾する」じゃないのかな?「評価しうる」とかってのもわからん(法律用語ではないと思う)。おそらくこれは若尾先生の議論なのだろう。このパラグラフに続けて中里見先生は、この議論を否定しているようにも見える。
だが、業として営む場合でも、公共的な業務の提供とはいえず、むしろ性行為のもつ特殊な性質から、自営の売春業においては契約を拒否する自由が売春する者に広く認められるべきだと思われる。そうであれば、自営業の場合、売春する者は、「いかなる性行為をだれと行なうか」という意味での性的自己決定権を行使していると評価せざるをえない。 (p. 212-3)
いったいどっちやねん、とか。おそらくこっちが中里見先生の評価なんだろう。はっきりしないのはおそらく書き方に工夫が足りないんだと思う。なんだか苦しくなってきた。中里見先生の結論部分は
たしかに自営で行なわれる売春業は性的自己決定権の行使と評価されるであろう。しかし、売買春での性行為が女性の身体の性的使用=濫用=虐待となっている現状を社会的根拠として、売買春への性的自己決定権の行使が「性的自由の放棄」を意味するとみなす言説が、圧倒的なリアリティを社会的に有している。こうした現状のもとでは、性的自己決定権を最終的な性的人権とすることは、売買春における性虐待を規制するのに十分ではなく、むしろ「買春者の暴力の処罰」を現状以上に困難にすると考えらえる。・・・(p. 223)
わたしには大袈裟な言いまわしがせっかくの議論をだいなしにしているようにも見えるけど、とりあえず、売買春を性的自由の一部に認めると、いろいろ悲惨なことやまずいことが起こるからやめておこう、ということらしい。帰結主義的に人権を制約するということかな?しかし人権とか性的自己決定権なるものをたんなる帰結主義・功利主義的な二次原則(あるいは擬制)とはみなさないひとはそれには納得しないだろう。それでいいのかな?そもそも中里見先生は自己決定権やら人権とかどういうものだと思ってるのかな、というのがやっぱり問題になっちゃうわね。 もちろん最初から帰結主義的な立場に立つとか*7、性的自由や性的自己決定権なるものにたいした重要性を認めないのなら、それでもいいんだけどね。パターナリズムやモラリズムでいくぞってのならそれでもいいし。
おそらくこの章の中里見先生の議論は大筋で失敗しているように思える。っていうかとりあえず私は納得しなかったが、どう失敗しているかこれ以上追跡する元気はもうない。終了した方がよいかもしれない。とりあえず8章と9章は読むに値すると思う。
*1:前にも書いたけど、私はポルノビデオで「演技」が売られているとは考えない。
*2:ほんとに「=」は勘弁してほしい。
*3:この本全体に杉田先生の議論への言及が少なくてちょっとショック。
*4:こういう曖昧で不明瞭なものを考える苦しさを分析して明快なものにして抜けだすときの喜びが、哲学する喜びの一部をなしているのは確実だと思うのだが、あんまり多いと本当に苦しい。私には耐えられる自信がない。
*5:その場合、客を選んでセックスするのは売春「業」じゃない、ってことになる。
*6:現実にはなかなか客を選びにくいってこと
*7:もしそうしてくれるならいろいろみんなで議論するべき余地があるし、それはおそらく有意義なものになりそうだ。
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