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品川先生その後

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

品川哲彦先生のリプライは http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~tsina/WBJcommentSE.htm 。
(もとのレジュメは http://yonosuke.net/~eguchi/papers/sinagawa-care2008.pdf )

いつもながらとても誠実なリプライ。
私のへんな文章なんか読んでないで、ぜひ先生の本を買ってください。 アマゾンから買っても私には一銭も入らないので安心。皆様の支出がそのまんま哲学出版と研究*1を支えます。

ちなみにその数日前に行なわれた別の研究会での
野崎泰伸さんのコメントは http://www.arsvi.com/2000/0807ny.htm
品川先生のリプライは http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~tsina/WBJcommentYN.htm 。

品川先生のリプライの最後のところにちょっとだけコメントすると、

私自身はこの手の議論をWeb上で展開するのは、あやうさも感じています。どうも、Web上でひろったジョーホーや、研究会や学会で聞いた耳学問だけで、あれやこれやと判断するひとが増えているように思えるからです。この手のやりとりが、問題となっているテクスト(この場合は拙著ですが)を読まないひと、読んでもわからないひとに利用されることがあるだろうことは、こういうかたちで公開する以上はやむをえないとはいえ、おそろしい気がいたします。

私自身はやっぱりそういう情報はwebでもどんどん流すべきだと思います。国内では
学者や教員が何に興味をもってどんなことをやっているのかもっと公開するべきだし、
もっと人文系の学者もお互いの本を読みあうべきだし、 もっと書評文化が発展するべきだと思っています。そうやってこそ、耳学問であれやこれやな連中を排除することができるんだし、人文系のガクモンのおもしろさや難しさを味わってもらえるんだと思います*2

*1:はてなとアマゾンも支えてしまうけど。

*2:ついでにそういう読んでないのに偉そうなこと言う人間も適切に抽出できるっしょ。そういうのが恥ずかしいとわかってるひとは先生の本買うから大丈夫。読んでもわかんない奴はもとからほっとくしかない。


時間ぎれ

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

コメントのレジュメ。 http://yonosuke.net/~eguchi/papers/sinagawa-care2008.pdf

追記(7/30)

もっと共感的に読むべきだったのははっきりしてます。っていうかそういうの
私はunderstandingじゃなくてダメダメ。でもあんまりunderstandingなのも
哲学としてはどうなんかなという感じがあってね。でもそりゃだめだ。徳が足らんです。

個人的には
おかげでヒューム先生の偉大さを思いしったのが最大の収穫でした。Annette Baierも読もう。
あとノディングスはちょっと詳しく検討して批判する必要があるかもしれない(訳文を含めて)。

なんか品川先生が風評被害を受けているんじゃないかという声もあり。
いや、よい本なんでみなさんぜひ買ってください。哲学者が自分を掘り下げ、
自分でなんか新しいことをやろうとしている雰囲気がよいです。この手の話はこの本読んでからじゃないと
ダメよ、ぐらいに売れてほしいなあ。

追記(8/2)

品川哲彦先生のリプライは http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~tsina/WBJcommentSE.htm です。


ノディングス先生名言集

なんか翻訳大丈夫なんだろうか。わたしが持ってるのは第4刷。3刷で訳直したみたい。

翻訳の問題だけじゃなくて、論述上の問題をかかかえた本に見える。アマゾンで「原典そのものが難解」と評しているひとがいるけど、難解というよりは思考が混乱しているし、かなりふつうのひとが反発を感じそうなことを婉曲的な表現で述べていると思う。これはちょっとのれない。(私はギリガンは非常にまともだと思っているが、ノディングスは有害かもしれないと思いはじめている。)

合州国では、正義の名の下に、学校が人権的(ママ)に隔離されるべきではないことを決めています。人種差別廃止のために、法的な命令によって、人種的な居住区別の学校が廃校にされる場合もあります。転校させられた生徒の両親は、以前の学校では活発であったのに、新しい環境の下では自分がよそ者のように感じられ、その結果、少数民族は、白人の子どもたちを見習うために、いっしょにいる必要があるのだという、誤った考え方にとらわれ続けています。たしかに、かなりの数の人びとが貧困にあえぎ、物資や人間としての尊厳を奪われているというのは、不公正です。しかし、不正義のおもてに表れた兆候を取り除くために作られた、一つの尺度を推奨する前に、ケアリングならば、こう問うでしょう。もしわたしたちがこれをすれば、コミュニティーはどうなるのかしら、家族は、子どもたちはどうなるのかしら、と。(序文p. iii)

微妙な書き方だな。人種分離政策とっといた方がいいってことだろうか?なんかヤバい匂いがする。

ケアするひとであり続けるためには、わたしは殺さねばならないこともありうる。眠っている夫を殺す女性の事例について考察しよう。たいていの状況のともでは、ケアするひとは、そのような行為は誤りだと判断するであろう。それは、夫をケアするというまさしくその可能性を犯している。しかし、夫がどのように妻と子どもを虐待したのかを聞き、その女性が体験してきた恐怖と、その問題を適法的に解決しようとした過去の努力について聞くとき、ケアするひとは自分の判断を修正する。陪審は、酌量されるべき自己防衛という理由でその女性が無罪だと評決する。ケアするひとはその女性を倫理的だと理解するが、それはひどく縮小された倫理的理想に導かれてのことである。その女性は、自分自身と子どもたちを守るためには仕方がないと考えた唯一の方法で行動したのである。したがって、その女性は、自分自身をケアするひととみなすという理想像のなりゆきに則って行動したのである。しかし、なんとひどい理想像であろうか。その女性は、一度殺人を犯したが、再び殺人を侵さないはずのひとなのであって、もはや、たんに殺人を侵さないはずのひとではない。究極的な責任あるいは無責任の吟味は、ケアリングの倫理のもとでは、どのようにして倫理的理想が減殺されたのかということにある。行為者は、貪欲さや、残忍さや、個人的な関心から、落としめられた理想像を選んだのか、あるいは、ケアを維持するのを不可能にするような、良心の欠けた他人によってその理想像へと駆られたのか。(p.160)

なに言いたいのかわからん。うしろpp.178-179あたりを見ると、「子どもと自分を守るために旦那殺したんだったらやむをえない」と言いたいように見えるけど、これが正義の原理じゃなくてなんなんだろう?

クラスでただひとりの黒人学生が、人権侵害や非人道的行為が黒人に対して平然と行なわれている様を、また、かれの絶望感が次第に大きくなっていく様を雄弁に語った。そして、かれは「バリケードに行くつもりだ」と語った。その学生には、あきらかに、人びとの彼に対する扱いを非難し、事態の改善を要求する権利があった。それなのに、バリケードや銃や暴力にいきつかねばならないのか。おそらく、そうなのだろう。・・・ああ、(人種差別主義者の)伯母も父も間違っている。でも、わたしには親切にしてくれた。・・・あなたにもお判りのように、わたしは、バリケードまで行くなら、こちら側にいるに違いないし、また、父やフィービー伯母さんのそばに立っているだろう。わたしは、ジムたちを罵るだろう。バリケードを撤去しようとするだろう。平和をもたらそうとするだろう。・・・では、そのとき、ジムに、まったく「正しい」黒人の青年に何をするだろうか。ジムが視界に入ったなら、とAさんは言う。それがジムだと気づけば、何か別の目標に眼を移すであろうと。(pp. 171-172)

なんかすごいな。バリストするような黒人は物理的暴力を使う悪い人!排除しなきゃ!なんじゃないの?おそろしいよ。ジムから眼をそらして罵りつづけるのね。

暴力が突然、予期せず行使されたとしよう。いま愛されていてケアされているひとが、暴力というこのひどい行いに関与する、あるいは関与しようとするのである。わかりました。Aさんは言うだろう。あなたは、わたしをそこまで追いつめるのですね。わたしは、たとえなにが起ころうと、悪いことには協力するつもりはありません。わたしは、こうしたケアリングに対する侵犯行為に対してならば、ジム(抗議活動をしている正しい黒人青年)を守ったでしょう。しかし、もう一度言いますが、わたしのケアされるひとならばそんなことをするはずがありません。

パパがジムを殺したなんてあるはずがないわ。なにかのまちがいよ。どうしてもしょうがなかったのよ、きっとジムが最初に銃をもちだしたんだわ。暴力じゃないわ、事故よ。ただ威嚇するつもりだったにの弾が出ちゃったのよ。なのかなあ。いや、意地悪く読みはじめるとここらへんキリないよ?こわすぎる。

自分の愛する人びとは「そんなことをするはずがない」と彼女が断言するとき、その断言は信頼の表明である。そしてここにある信頼感は関係性にもとづいている。・・・それは、関係性のうちで過ごされた年数という証拠により跡づけられ基礎づけられた主張である。一定の証拠に基づいて唱えられたこのような主張は、主張者が話題になっている人びとを知っているという状態を要求する。さらに、その主張は、他者のうちでケアが維持され続け、また完全に出来上がっているという状態を要求する。(p.175)

どういうことだろうな。誰か解説してほしい。ノディングの名前を論文にあげる人びとはノディングスほんとに読んでるんだろうか?

わたしたちはどんなひとでも愛せるわけではない。どんなひとでも十分にケアできるわけではない。またケアするためにどんなひとでも愛する必要はない。わたしは「心をかけないケア(care-about)を無視してきたし、またそれでもよいと信じている。それは行おうと思えば、非常にたやすく行える。わたしは、飢えたカンボジアの子供たちを「心をかけないでケア」できるし、5ドルを飢餓救援基金に送れるし、いくぶんかの同情も感じられる。しかし、わたしの送金が、食料費に使われるのか、あるいは、銃の購入に使われるのか、それとも、政治家がキャデラックの新車を購入するために使われるのか、十分にはわからない。上のようなわたしの行為は、ケアにとってのできの悪い又従兄弟である。「心をかけないケア」はつねにある一定の思いやりおある無視を含んでいる。わたしたちは、まさにそこまでは思いやり深くいられる。ちょうどそれくらいの熱中に同意する。承認し、肯定する。5ドルの貢献を行い、それに続けて他の事柄を行う。(p.175)

どういうことなんかね。これも解釈が必要に見えるな。カンボジアの子供たちのために5ドル使うのはあんまり意味がないってことかな。せめてどこの募金団体がそのお金をどう使っているか調べてもよさそうだけどな。

もはやケアれないひとが、後退したそのひとに暴力を働き、脅威を増し、悪意ある取り組みを続けるなら、そのひとは、さらにひどい虐待を阻止するために行動しても正当化される。もちろん、さらにひどい虐待を阻止する行動も、ケアリングの倫理に導かれなくてはならない。がまんできないほどしつこいセールスマンであっても、かれを撃ち殺してしまったなら、あきらかにわたしたちは正当化されない。(p.180)

わたしもそう思います。さっき梅田に超高層駅ビルができるので、とか
電話してきた人がいるんですが、撃ち殺すのはやめておきます。ケアリング。

多くの女性は勝ち負けを争うゲームを避ける。・・・創意に富み、予知できず、空想をかきたてて始まる事柄が、 とにとして、規則に縛られ、技量にこだわり、ひどく深刻なもの*1になる。Aさんを不安にさせるのは、ほとんどすべてこの深刻さである。というのは、深刻さがあるから、彼女は、これは試行ではあるが、自分の夫もこんな仕方で人生を理解しているかもしれないという不安を抱くからである。Aさんは試してみる。彼女は自分の家族とフットボールをするが、そのとき反則をする。対戦相手にしがみついたり、くすぐったりする。こぼれたボールを拾ってタッチダウンする。ときには、フィールドから走り出て、自分のチームが勝って、それでおしまいと主張する。彼女は、ともかくプレイするなら、楽しさが残らなければならないと強く主張する。(p.186)。

 

女はルールにしたがってスポーツすることができないどころか、ゲームを壊し、真剣さや楽しみそのものを壊してしまう。っていうかこういうのは他の女性たちに対する侮辱なんじゃないのか?大丈夫なの?次のページp.186のスポーツ参加の話にも注意。わけわからん。

わたしは、ネズミとの関係を確立しなかったし、いつまでも確立しそうもない。ネズミは、わたしに呼びかけない。ネズミは、期待通りには、わたしの家の戸口には現れない。ネズミは、わたしの方に首を伸ばしもしなければ、自らの欲求を鳴いて知らせもしない。ネズミは、ひとを避けることを覚えていて、すばやく走り過ぎていくだけである。さらに、わたしには、ネズミをケアする覚悟ができていない。ネズミに対しては、どのような関係があろうとも感じない。ネズミを苦しめようとは思わないし、そうしたわけで、ネズミに毒をもるのをためらうけれども、機会が生じたら、ネズミを、きれいに駆除してしまおうと思う。(p. 242)

アザラシの赤ん坊の虐殺は、嫌悪感を催すが、ウツボの虐殺は、単なる安堵をもたらす。倫理性に関して心情の果たす役割を認識する際に、感傷的だと非難されるべきではない。(p.245)

これが人間に適用されるとどうなるかと考えただけで恐い。このひとが思ったときに戸口にあらわれないホームレスの人とかどうなるんだろうなあ。

野放しの「ケアの倫理」は「正義の倫理」によって矯正されなければ超保守思想に結びつくかもしれない。実際にノディングスはそう見える。

教育の第一目標として、ケアリングの維持、向上を指し示す際に、わたしは、優先事項に注意を喚起している。もちろん、知的な目標や美的な目標を捨て去るつもりはないけどれど、次の点を提案したいのである。すなわち、知的な課題や美的な評価は、その遂行が倫理的な理想を危うくするとしたら—永続的にではなく、一時的にではあるが—意図的に度外視されるべきである、と。(pp. 268-269)

もちろん倫理的な理想ってのはケアリング関係の維持だろう。これがどれくらい恐しい主張であるか、読者は注意するべきだと思う。

わたしが提案しているところを述べれば、こうである。すなわち、生徒が主題に対して、つらさや無関心を示すときはいつでも、教育者は、引き下がらねばならない。(p. 269)

これは一理あるかもしれんが「いつでも」は絶対にだめ。「関心をひきだす工夫をしましょう」だろうよ。

たえず、学校にかかわる人びとは、「批判的思考」「批判的読解」「批判的推論」といった目標について語っている。わたしたにの批判的技能や、それを発達させるための練習が「P」とか「Q」とか、「PはQを含意する」とかという表現に縛りつけられている限り、学校は、自らの姿を把握していない。巨大な裸の王様の外観を呈すであろう。曇りのない眼で、行いを見る必要がある。対話の目的は、観念と触れ合い、他のひとを理解し、他のひとに出会い、ケアを行う点にある。

クリシン教育には懐疑的なのね。まあ発達段階によるけどね。でもまともな批判的思考を身につけたら、ノディグス先生の言うこと聞いてくれなくなる可能性があるからじゃないの?

いいですか、本気ですが、わたしはこの本、ジョークじゃなくて本当に恐いです。無批判に(読まずに?)称賛している国内の人も恐いです。

枝葉にこだわりすぎかなあ。でも単なる枝葉じゃないような気がする。

 

雑感

ヨナスは品川先生が話題にしていること以外にもいろんなことを言ってるわけだが、もう調べる時間がない。

昨日の合評会のレジュメほしいなあ。

盛永審一郎先生はヨナスの受容でも大きな働きをしている。少なくとも1993年にはその重要性を指摘しているわけだ。 http://ci.nii.ac.jp/naid/40001524258/ すでに品川先生の問題意識を先取りしている。

人間は種として存続可能なのだろうか。人間には動物が持っている「本能的社会」というものがないらしい(注)。それならば、いかにして人間は、種のことを、他人のことを考慮にいれた行為をすることが可能だろうか。(p.25)

注についてるのは日高敏隆先生『動物にとって社会とは何か』1977。まだ日高先生が社会生物学に屈服する前(ローレンツとかの紹介いっしょうけんめいやってたころ?)だね。

CiNiiだと1988年の角田幸彦先生が一番古いのかな。
http://ci.nii.ac.jp/naid/40003633151/

おそらくアネット・ベイヤーなんかはヒュームを正しく理解し援用しているんだな。

もう新しい文献読むのやめなきゃ。

あら?オーキンもってるぞ!まあ読む時間はない。

*1:まだ原書届かないけどseriousかなあ。


まだ文献あつめ

ヨナスには興味はないが。

尾形敬次先生

  • 尾形敬次「存在から当為へ:ハンス・ヨナスの未来倫理」 http://ci.nii.ac.jp/naid/110006273675/ 。ほう、これは役に立つ。

    ヨナスの思想は一般の人びとや政治家たちには高く評価されている。
    連邦政府の現政権党である社会民主党は積極的にヨナスの
    思想を自分たちの政策に導入してきた。一方、大学の哲学研究者の間での
    評価は必ずしも高いとはいえないらしい。

  • なるほど、そうだろうな。

    「我々の議論は証明ではない。なぜならそれは証明不可能な公理的前提に結
    びついているからである。すなわち、第一には責任能力そのものが「善」で
    あること、したがってその存在は非存在よりも優っていること、そして第二
    には、そもそも存在に根ざす「価値」があること、つまり存在が「客観的」
    価値を有すること、これらの前提である」(PUMV, S.139)

  • あら、こんなこと言ってるのか。まあそりゃそういうことになるわな。しかし
    こんなもの前提していいんだった、もはや形而上学いらんだろう。最初っから「人間の生には価値がある」だけで十分。なんだかなあ。

  • 太田明先生の「責任とその原型」(1)~(4)。「予防原則」とか。なるほど。上の尾形先生の社会民主党との関係の指摘とあわせて、やっとヨナスがなんで重要とされているのかわかってきたような気がする。
    やっぱりここらへんは政治的状況みたいなんとあわせて理解しないとだめだったわけだ。反省。

  • 盛永審一郎先生の「状況的責任から配慮責任へ」。ふむ、だんだんヨナスに魅力を感じている
    人びとのことがわかってきたような気がする。

  • それにしても、環境保護とか「世代間倫理」とかってのがそんな問題だったとは。
    私にはほとんど自明に見えててから、本気で悩んでいるひとがいるのがよくわからなかった。

  • っていうか、私の関心のありかたがなんかおかしいのかね。なんでかな?
  • 坪井雅史先生の「ケアの倫理と環境倫理」も重要そうな気がするけど、すぐに入手できん。
    そうか、坪井先生も品川先生と同じような傾向が好きなんだよな。

ヒューム先生は偉大すぎる

  • 超名著『道徳原理の研究』。http://www.anselm.edu/homepage/dbanach/Hume-Enquiry%20Concerning%20Morals.htm#sec3
  • 公共の有用性が正義の唯一の起源ですよ。正義の唯一の価値はその帰結にありますよ。
  • もし資源がふんだんにあったら正義なんて必要ないのです。 “the cautious, jealous virtue of justice” のjealousってどういう意味なんかな。まあ訳本通り「猜疑心の強い」でいいのか。
  • それから、もし人びとが無制限な仁愛もってたらやっぱり正義なんて必要ないですよ。「この場合には、正義の使用は、かくのごとき広大な仁愛によって停止され、所有権および責務の
    分割と協会とは決して案出されなかったであろうことは明白と思われる。」

  • 家族愛も仁愛の一種です。「人間の心の気質が現在の状態にあっては、かかる広大な愛情の完璧な実例を
    見出すことは、おそらく困難であろう。しかしそれでもなお、家族の場合がそれに近いこと、
    そして家族の一人一人の間の相互の仁愛が強ければ強いほど、益々それに近づき、
    遂には彼らの間で所有権のあらゆる区分が、大部分失なわれ混同されるに到ることが
    観察されるであろう。」

  • とか。偉大すぎる。っていうかなんでみんなヒューム読まないんだろう。
  • でも資源があんまり希少な場合も正義なんて関係ないです。
    「社会があらゆる日常の必需品の非常な不足状態に落ち入り、極度の節約と勤勉を
    もってしても、大多数を死滅から、また全体を極端な悲惨から守ることができないと
    想定しよう。このような差し迫った非常事態の際には、正義の厳格な法律は停止され、
    必要と自己保存という一層強力な動機に席を譲ることは容易に承認されると思う。」恐い。そういう状況を経験せずに知ぬまで生きられるといいなあ。

  • 上で使わせてもらってる
    渡辺峻明先生訳の『道徳原理の研究』が出たのは1993年かあ。あれ、入手困難?っていうか
    3万円も値段ついてるじゃん!こりゃいかんわ。そりゃ誰も読めないわな。いったい国内の倫理学はどうなってんだ。まあヒューム読む人は英語で読むからいいのか。でもそれでいいのかなあ。
    英米の哲学科だったら哲学だろうが政治学だろうが、2回生ぐらいで誰でもヒュームざくっと読まされるだろう。国内の学生がそんなやつらと戦うのは
    たいへんだ。
    なんか国内の翻訳力リソースを有効につかう方法とか考えるべきなのかも。

  • なんか秘教的な智恵とされてるのは実はヒュームかもしれんな。
    (国内の一部ではシジウィックがまさに倫理学の奥義あつかいされているわけだが)

  • 『人間知性研究』もなあ。もしかしたら、国内では誰もヒューム読まずに
    「ケア対正義」の議論やってるかもしれないわけだな。
    やっぱりこの状態はまずいですよ。玄白プロジェクト参加するか。一番やらなきゃならないのは
    ここかもなあ。でも古典の翻訳ってのは恐いからやなんだよな。

  • 「しかしながら、迷信と正義との間には、前者がつまらなく、無益で、
    わずらわしいのに対して、後者は人類の福祉と社会の存続のために絶対的に必要であるという、重大な相違が存するのである」の一文にしびれた。

クーゼ先生はすばらしい

ケアリング―看護婦・女性・倫理

ケアリング―看護婦・女性・倫理

  • クーゼの邦訳届いたので読む(英語はもってるけどパラパラ見ただけだった)。すばらしすぎる。こんなみっちり哲学している
    看護系の本はじめて読んだ。

  • いちいち確認してないけど、翻訳もしっかりしてると思う(読んだ5~6章は村上弥生先生)。各節に訳者(監訳者?)の要約がついているのもいいなあ。がんばってる。おそらくこのチームっていうかグループっていうか:-)がやった一番よい仕事の一つだと思う。偉い。
  • これ倫理学の入門書としても、哲学的批判の入門としてもずば抜けてるな。使おうかな。
  • とにかくこれ読んでもらえば「ケア対正義論争」とかについてさらに言うべきことはほとんどないような気がする。
  • クーゼには出てくる「献身」などの言葉が品川先生のにはほとんど(一度も?)
    出てこないのには注意しておく必要がある。

  • それにしてもたしかに看護(や介護)ってのはかなり特殊な職業だよなあ。まあ
    教師もそうかもしれんのだけど。dispositional care 身につけてないとよい職業人じゃない。あ、もちろん医師もカウンセラーもね。人間を直接に扱う職業に共通か。他になにがあるかな。弁護士や宗教者もか。どんな職業もdispositional care必要だと言いたくなるけど、やっぱり
    ちょっと違う感じがあるなあ。

今日の雑感

  • ヨナスが注目されるのも、ケアが注目されるのも、やっぱり功利主義が正しく理解されて
    ないからではないかという疑念はさらに強まるなあ。

  • 将来世代に配慮する義務、なんて功利主義を採用するなら自明すぎる。
  • でもドイツとかでは功利主義は蛇蝎のごとく嫌われてるわけなんだろう。
  • そうなると社会民主主義や福祉重視とかをバックアップする理論があんまりないって
    ことなんだろうか?中道左派にはどういう理論が必要か、とか?

  • でもこの文脈でヨナスなんか持ちだすのはけっこう危険かもしれん。民主主義あんまり好きそうじゃないもんね。やっぱりアメリカ人が嫌いなんだろうなあ。もちろんナチスも嫌いだったろうけど。
  • どうでもいいけど国内で社会民主主義崩壊したってのはほんとに困るよな。
    日本共産党の方がその立場に近いんだろうな。いまの自民党と民主党じゃ区別がつかんよ。ひどすぎ。不可識別者同一の原理によって、実は一つの政党なんじゃないか。実質一党独裁なのか。

  • まああの2回の「牛歩」とか見てる世代はおそらくあの人びとを応援することなんかできんわな。*1
  • ケアの方はやっぱり保守主義に近いような気がするなあ。アメリカでいえば共和党の方を応援しそうだ。ファミリーバリューはアメリカンバリュー。
  • なんか政治(国内も外国のも国際も)ぜんぜん知らんのは恥ずかしすぐる。
  • やっぱり私がだめだめなのかな。功利主義もヒュームもみんなわかった上でやってんだろうな。ここらへん勘違いするととても恥ずかしいからなあ。

*1:あれは少なくとも私にはトラウマ。あら、記憶にあるのは87、88年のやつのはずだけど、92年のと混同してるかも。このころには地獄のサバイバル生活送ってて、外界になにも関心がなかった。子どもの頃のロッキード事件、88年のリクルート事件とあわせて、「政治家はぜんぶ悪い人、政治に関心もつことさえ悪いこと」という私のイメージを作ってしまってる。いかん。


品川哲彦先生のもゆっくり読もう(7)

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

  • 久しぶりにちゃんとした哲学者が倫理学考えている本という感じ。
  • ヨナスとケアの倫理に関しては十分に紹介検討されていなかったので、この本は貴重。
  • 全体、しっかり真面目に地道にやっててとてもよい。私も見習いたい。
  • ジョン・ロックのところとかも正確だし。たくさん真面目に勉強してるなあ。
  • 注、文献情報なども充実していていかにも学者の作品でとてもよい。
  • 特に第2部は綿密に研究されていて勉強になる。
  • どうしても最近は英米系の政治哲学・倫理学ばっかり議論されていて、独仏の
    研究・議論の動向を知ることができる。そっち系のひとはもっとがんばってほしい。
    脱英米倫理学中心主義!

  • 「現象学の他者論」のところはもっと豊かなはずだし品川先生が一番得意なところなんじゃないだろうか。まあまた別の本でやってもらえるのだろうと期待。

注とか。

  • 全体通して、「どこでもいっしょうけんめい考えてるな」と思いました。見習いたいです。
  • p.285の注25は重要そうだ。これは注にまわさずに本文でやってほしかった。
  • p.292注5。うーん、山形浩生先生のフランクファート解説をまにうけてるな・・・いや、大丈夫だけど。
  • p.295注5。品川流の男性学の予告みたい。
    森岡先生あたりと問題意識がすごく近いのがわかる。
  • 索引や文献リストも好感もてるなあ。研究書はこうあってほしいね。

他雑多な疑問。

  • 配慮としてのケアと具体的な行為としてのケアをちゃんと分けきれてるかな。どうも一冊を通して文脈によってあっちいったりこっちいったりしている気がする。証拠さがさなきゃならんか。
  • よく話題にされる「ケア」と看護や関係とかどうよ。看護という職業に、この本で言ってるような「ケア」を持ちこむのは私にはアレに見えるから。いわゆる感情労働の問題。
    あ、文献リストに武井麻子さんがいるな。でも索引には出てこないか。

  • ケア労働。ある意味で、労働になっちゃうのはケアじゃない、とか言えそう。
  • アリストテレスもちだすならやっぱりついでに正義と友愛の関係もチェックしてほしかった。
  • 個人の徳としての正義(やケア)と、社会制度における正義(やケア)の区別がなんか曖昧じゃないかな。まあ区別する必要ないのかな。でもギリガンの場合ははっきりと
    個人の徳性なり道徳思考の特徴なりを指しているわけで。

  • ノディングスの場合も、なにを/どう教育するかがポイントなわけで。
  • あれ、でもここ私もぼんやりしてるな。ヒントはヒュームあたりにありそうだ。
  • 「〈正義〉はポリス的観点とヘクシス的観点の両方から論じなければなならないのである。」(小山義弘「アリストテレス」、『正義論の諸相』)とかも関係あるかな。
  • オーキンも読まないとならんということか。
  • 「献身」とかっていう理想についても考える必要がありそうでもある。
    ミル功利主義論第2章。「誰かが自分の幸福を全部犠牲にして他人の幸福に最大の
    貢献ができるのは、世の中の仕組みが非常に不完全な状態にある場合にかぎられよう。
    しかし、世の中がこんなに不完全な状態にあるかぎり、いつでも犠牲を払う覚悟を
    もつことが人間にとって最高の徳であることを私は十分認めるものである。」下線江口。

  • 「ナザレのイエスの黄金律の中に、われわれは功利主義倫理の完全な精神を読みとる。
    おのれの欲するところを人にほどこし、おのれのごとく隣人を愛せよというのは、
    功利主義道徳の理想的極地である。」これがケアでなくてなんなのだ、と言いたくなるひとも
    いるわな。

    よくいわれることだが、功利主義は人間を冷酷無情にするとか、
    他人に対する道徳感情を冷却させるとか、行為の結果を
    冷やかに割り切って考察するだけで、そういう行為をとらせた資質を
    道徳的に評価しないという非難がある。この主張の意味が、
    功利主義は、行為者の人間的資質に関する意見が行為の正邪の判定に
    影響することを許さないということであれば、これは功利主義への
    不満ではなく、およそなんらかの道徳基準をもつことへの不満である。
    ・・・しかも、人間には、行為の善悪のほかにもわれわれの興味をひくものが
    あるという事実を、功利説は少しも否定しない。

    とはいうものの、功利主義者はやはり、長い目でみたときに善い性格をいちばんよく
    証明するのものは善い行為しかないと考えており、悪い行為を生みやすい
    精神的素質を善と認めるようなことは断乎として拒絶することを私は認める。

    この反対論の意味するとこころが、功利主義者の多くは
    行為の善悪をもっぱら功利主義的基準からだけ見ていて、
    それ以外の、愛すべく敬すべき人間をつくる性格上の美点を
    あまり重視していないということだけなら、認めてもよい。
    道徳的感情は開発したものの、共感能力も芸術的感覚も伸ばさなかった功利主義者は、
    この過ちを犯している。同じ条件のもとでは、どんな立場の道徳論者であっても
    同じ過ちを犯すはずである。

  • とか使えそうなのが山ほどある。
  • どうも70~80年代の米国の「正義」に関する議論があまりにも貧弱だった
    だけじゃないの?

  • キルケゴールが「女性の徳は献身である」とかって馬鹿なこと言ってたのも参照したい。

第11章

  • あ、11章ちゃんと読んでなかった。
  • 第1節、ベナーのケア論。「全人的に介護」なあ。言葉はいいけど。まあ理想としては大事なのかな。
    職業としての看護において本当に「全人的に」ケアすることって難しそうだ。
    ナースにそういうのを要求するのは過大な気がする。まあほんとに「全人的」ってわけではないのかな。

    ベナーは徳の倫理と看護を結びつけながら、しかし
    ナースが職業的役割を意識しすぎると、ケアリングができなくなるおそれを
    指摘していた。(p.246)

  • どういう議論しているか興味あるなあ。もうちょっと詳しく議論してほしかった。
  • デリダ大先生。

    私たちは何らかの共通性や類似性によってたがいを結びつけ、
    その内部を治める規則、法をもっている。それはひとつのまとまりをもつ
    集団内部の法、つまり家(oikos)の法(nomos)である。それゆえ、
    法はまた経済(oikonomia)を意味している。(p.256)

  • すごいな。「それゆえ」がなんともいえん。もひとつ。

    法の埒外にあるものに応答することこそが正義である。正義とは
    「無限であり、計算不可能であり、規則に反抗し、対称性とは
    無縁であり、不均質であり、異なる方向性」をもっている。

  • うーん。理解不能。デリダの正義ってのは
    まったく原則なしの判断なのかな。でたらめにしか見えない。
    まあデリダ使って「正義」とか語る人たちは、
    日常的な意味での「正義」とはぜんぜん違うことを語っているのだということがわかった。
    これは役に立つ。
    中山竜一先生の本も読み直すべきなんだろうか。でもこんなに日常的なものから離れているんだったら、だったら読む価値なさそうだ。

  • コーネルのところも読みなおすけどわからん。猛烈に抽象的だし。たとえば

    テクストはつねに開かれており、語の意味は特定のコンテクストによって
    規定しつくすことはできない。まだ書かれていないものが必ず残っている。
    この「まだない」は先取りされた未来ではない。先取りされるものならば
    既知の枠組みに回収されうるものだからだ。既存の女性観から
    導出されたのではない、まだない女性を、コーネルは女性的なもの(the feminine)と
    読んで女らしさ(feminity江口補)と対置する。(p.257)

  • ほかでは明晰に書いている品川先生がこういうのになると途端にわけわからんように
    なるのはなぜだろう。
    こういうの、私は学部学生や院生に教えたりすることができないように思える。 この文章を授業で読んでいる自分が想像できない。*1

  • 一方で、哲学ってのは真面目に勉強さえすりゃわかるもんだという気もしているし、
    発想や論理のステップなんかを授業で説明したりすることもできるんじゃないかと
    思ってる。クリプキとかパトナムとかだって
    勉強すりゃなんとかなると思ってる。でもデリダとかコーネルとかはできんね。
    なんでかなあ?なんか話に具体性がないんだよな。

  • あ!そうか、こういうのが気になるのは、
    文章を読んでそれに対応する事例を思いつくのがすごく難しいから
    気になるんだな。授業では必ずその場で思いついた例を出すのが楽しみなんだけど、
    それがポストモダンな人びとについてはできそうにない。それやろうとすると
    ふつうの(「モダン」?)な説明になっちゃうからだな。

  • だめだ。品川先生の本のなかでも大事なところなのになにも納得できない。センスないなあ。でもここで言おうとしているのが、「どう違ってるかは言えないけどとにかく違ってる」とか
    ってことだとすれば、とても納得するわけにはいかんわなあ。まあだから私は「他者」とか
    わかっとらん。でも誰かもっと親切に教えてくれてもよさそうなものだ。いきなり
    こんな秘教的になるのはどっか不正だとさえ思う。

  • p.263の男性論はおもしろいよね。前にも書いたけど森岡先生とかと近い。あと
    蔦森樹先生や宗像恵先生とかと問題意識を共有してるなあ。

立山善康先生の「正義とケア」はよい

  • 一応目を通してみたり。杉浦宏編『アメリカ教育哲学の動向』収録。1995。
  • (リベラリズムは)自然法思想に基づいて、人間の最も根源的な価値を
    天賦の自由に求め、個々人の自律的な生の保障を政治・社会の構成原理とする理論である。
    したがって、リベラリズムは本来的には、個人の自由を最大限に確保するために、
    政府の介入をできるかぎり排除する見地であるが、今日では、個人がその自由を行使する
    ために必要な社会的・経済的に平等な基盤を保障するために、再配分政策の
    必要性を認めざるをえないところから、そのために政府の積極的な介入も
    容認するという、一見したところ本来の主張と正反対であるかのような立場も取っている。
    (p.347)

  • どっちやねん、とか。
    ふうむ、でもこういうのがふつうの業界(どこ?)でのふつうの理解なんかもしれないなあ。
  • 正義とケアの二元論を解決する方法は、理論的には次の三通りしかない。つまり、
    (1)正義がケアを内包した概念であるとみなすか、逆に(2)ケアが正義を抱摂した
    概念であると考えるか、それとも(3)両立が可能ないっそう包括的な理論的視座を見いだすかである。(p.357)

  • 品川先生も基本的にこの問題の枠組を受けいれてるわけだな。
    しかしここで
    言ってる「正義」「ケア」ってのはなんなんだ?思考方法?規範的価値?

  • まあ「どっちが優先するか」とかって問いだと考えるなら、
    まあ功利主義をとれば(3)で素直にいけるわけだが。

  • あ、役に立つロールズの引用発見。「一貫して、わたしは正義を社会的諸制度、
    あるいはわたしが実践と呼ぼうとするものの一つの徳性としてのみ考える」そうだよな。
    ロールズの「正義」は人間の徳ではなく社会制度の徳だ。引用もとは”Justice as Fairness”。

  • アリストテレス、ヒューム、スミス、ルソーときて、

    こうした系譜を念頭におけば、正義の倫理とケアの倫理の対象は、古来の正義と
    仁愛という二概念に由来し、さらに根本的には、倫理学の二つの中心概念である
    「正しさ(right)」と「よさ(good)」に対応するものであることは明らかである。(p.359)

  • よい。立山先生はひじょうによくわかっている。

    ~力点の置きかたの違いは、もとをただえば、両者の問題意識の相違にある。
    つまり、正義が、相互に対立をはらんだ複数の価値判断をいかにして
    調停し、合意を形成するかという問題に対処するために要請された規範的原理であるのに
    対して、ケアあるいは仁愛は、個々の価値判断がどのようにしても形成され、
    共有されるかという、その発生的な起源に関係する概念である。したがって、
    正義の倫理は、個別的な価値判断の起源やその共有可能性についてはほとんど
    なにも語っていないし、反対に、ケアの倫理は、複数の個別的な価値判断が
    あって矛盾する要素を含んでいるさいに、いずれの判断を選好すべきかという問題に
    十分答えうるものではない。(p.360)

  • よい。
    最初の方ではおどろいたけど、
    全体として見るとほとんど文句がない。すばらしい。絶賛。そうか、こういう解釈を
    品川先生は叩きたいわけだ。だんだんわかってきた。やはり勉強は楽しい。

川本隆史先生は偉かった

もってるはずなのに1週間探しても出てこなかったので
図書館から。

あ!そうか、この本はとんでもなく重要だったのだな。ここ10数年の
倫理学やら社会哲学やらの議論をガイドしてたのは実はこの本だったのだ。
国内の社会哲学(倫理学、法哲学、政治学あたり)の議論の骨組を作ったのは、
加藤尚武先生でも大庭健先生でも井上達夫先生でも島津格先生でも森村進先生でもない。
いまごろ認識した。昔読んだときは「なんかつっこみ足りないなあ」とか
思った記憶があるのだが、
功利主義、ロールズ、ドゥオーキン、ノージック、共同体主義、
ケア、セン、各種応用倫理とガイドブックとしてはすばらしいできになってんのね。
いろんな本や論文でみなれた表現がやまほど出てくる。表現が明晰でコンパクトなところ
なんかがすばらしい。
これちゃんと読まずに国内の議論についていけないと思ってたのはまさに馬鹿。
いつも横においといて、国内の標準的な理解がどうなってるかとりあえずこれに当たるべきなんだわな。超反省。しかしなんか開眼したような気がする。

*1:私は授業で自分や他人さまの文章を音読するのが好き。


品川哲彦先生のもゆっくり読もう(6)

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

第12章第2節

  • 権利とそれに対応する他人の義務のところ(p.270)。妨害されない権利と助力される権利。
    (あるいは他人から見ると妨害しない義務と助力する義務)。
    ホーフェルドだったら
    もうひとつぐらいあるって言うはず。まあOK。

    生存は爾余の権利が成り立つための先行条件である。それでは、
    生存への権利は、生存に必要な財を供給する義務を他者に課すほど強い
    権利だろうか。しかしながら実際には、不当に殺されない権利にとどまるほかあるまい。
    なぜなら、資源は有限だからである。(p.270)

  • うーん?なぜだろう?そう言えるかな。資源が有限で、完全に全員に行きわたらないとしても、
    必ずしも「不当に殺されない」しか要求できないわけではないだろう。もちろん
    「無制限になにがなんでも財を配分される権利」を認めるのは難しいだろうけど、
    「できるかぎり財を配分される権利」ぐらいでもよいはず。「最低限文化的な生活を送ることができるよう援助される権利」とか重要そう。

    (上の続き)第4章に言及した医療資源の配分はまさに資源の有限性を
    前提として成り立つ問題だった。延命に必要な資源を供給する義務を
    解除するには、正義の倫理の内部で語る限り、人間の一部を人格、
    すなわち生存への権利の保有者から外すことになるだろう。
    ここに、「できない」が「しなくてもよい」に変換される。

  • あれ、なんかおかしいぞ。上の「生存の権利」はどんな権利なのかな。
    ここで「人格」が(おそらく定義上)もっているとされる権利は「不当に殺
    されない権利」か?文脈からすると「生存に必要な財を配分される権利」に見えるけどなあ。なんか変。でもまあ言いたいことはわかる。

    だが、それが事態の適切な表現だろうか。権利と正義の語り口で語ることは、
    生きるためのニーズを保証するのに強い武器を提供するとともに、
    反面、その正義が現実に遂行されえないときには、今述べたような論理に通じてしまう。
    そこに問題が残る。

  • うーん、この手の議論はよく見かけるんだけど、どうなんだろうなあ。
    「Aを認めるとBという結果になる。しかしBはいかん。したがってAは認められない。」まあ
    反照的均衡をやろうとしているわけだな。こういう論法はやっぱりある程度は重要。ただこれの場合、
    「Bはいかん」という判断の正当性をどうやって保証するか。「Bは不正だ」とか
    って直観を共有しない人を説得しようとするときにどうしたらいいか。

    正義の倫理のなかでは、慈悲や思いやりは不完全義務としていずれにしても
    副次的なものとして位置づけられる。これにたいして、
    責任原理やケアの倫理はいっそう根底的な観念として責任とケアを打ち出したのである。

  • ここもうーん。ぱっと見て「不完全義務」ってのに目をとられて、 「責任」や「ケア」が完全義務に対応するものだと読んでしまったが、どうも違う。
    「根底的な観念」であるってのはどういうことなんだろ
    うな。理論的な基礎ってことかな?それだったら問題ない。けっきょく道徳ってのは
    拡張された慈愛だろうと思うんだがな。ミルやシンガーも認めてくれそうだ。

  • 第3節。ホネットとかデリダとかわからん。特にデリダは難しくて私は何言ってるのか
    ほとんど理解できないので、そういう解釈ができることを示してもらいたいのだが。
    とりあえず「もっと、友愛的、
    共感的、慈善的にいきましょう」なのかな。もちろんそうありたい。そうあってほしい。
    ところが違うみたい。

    ホネットはケアを慈愛や親切等と同視している。それらは正義のように
    必ず要請されるわけではない。不完全義務にとどまる。そう考えるかぎり、
    倫理の基礎は正義かケアかという論争は重大な選択を迫られる問題とは
    なりえない。しかも、ケアする誰かがいるというのことは、ホネットにとって
    所与の事実なのだろう。非対称的責任は万人には要請できないとしつつ、子育てに
    おけるその意義を語るくだりには、誰もケアする者がいなくなるというような危機感は
    みられない。それゆえ、ケアが存在しないときに人間関係や人間の共同体がどうなるかといった
    問いに深く立ち入らないのである。(p.276)

  • ううむ。ケアってもっと自然的な感情だと思っていたのだが、そうでもないのか。
    少なくともギリガンやノディングスではそうだと思ってた。

  • 慈愛や善意とケアが違うのは、ケアは特定の(近しい/見知った)個人に対する
    排他的なものだってことなんだろうな。あ、排他的って書くと叱られるな。
    ええと、偏愛的、も叱られそうだ。なんてんだろうな。やっぱりケア。

  • ハバマス。それにしてもどうもここらへんの話は功利主義は近親者への愛情の重要さを
    認めない、とかってありふれた誤った批判に近いものを感じるなあ。でも「連帯」とかいいよね。「連帯は相互主観的に共有された生活形式において親しく結びついた同朋の幸福に関わる」とか。よござんす。

  • あ、ムーミンだ。ムーミンすてき。ムーミンも最強の哲学マンガの一つだよな。(マンガじゃなない)
  • あれ、最後まで読んできたけどやっぱり「基礎づけ」ってどんなものかわからなかったな。

第6章

  • もどる。ヨナスはやっぱりわからんのだが。

    クローニングによって生まれた人間は、自分と遺伝的性質が同じ
    既存の人間、細胞核の提供者、つまりクローンのオリジナルの人生に
    関する情報を知るはめとなるだろうし、他の人間のなかにも
    クローニングが行なわれた意図と敬意を知っている人間がいるということも
    意識せざるをえない。そのために、導き手のない労苦を生き抜く
    「自発性」は力を失なう(これにたいして、自然にできた一卵性クローンは
    同時代に生きているからその危険はない)。(p.123)

  • なんでだろう。ヨナス先生が馬鹿げた遺伝子決定論かなんかを信じてんじゃないかな。
    人生の労苦も自発性もそんなことではなくならんよ。なんて貧しい生物理解、人生理解なんだ。
    そんなもんで決まるのはハゲぐらいだろう(それさえただの統計的傾向にすぎない)。
    こういうのは品川先生がちゃんとつっこんでほしいんだけどなあ。品川先生もこういう理解してるのかな。やだなあ。

  • 「基礎づけ」の内実は第5節でわかりそう。「未来倫理の基礎づけ」を論じているという想定でのお話しだし。期待。
  • 討議倫理学とかが「基礎づけ」の典型なんだな。手続き?「まともな話しあいで決まっことは正しくて強制力をもつ」とかそういう理解でいいのかな。
  • でも「なんでまともな話しあいに参加するべきか」とか「なぜ話し合いの結果が強制力をもつか」とかは基礎づける必要はないのかな。

    第2章に、ヨナスの責任原理の基礎づけの遂行論的基礎づけによる解釈を提案した。・・・
    人類は人類が存続すべきかという倫理的な問いに人類の消滅を是とする答えを出せば、
    倫理的な問いを問うという今まさにしている行為を自己否定してしまう矛盾を犯すことになる。
    それゆえ、自然のなかで責任を担いうる唯一の存在が人間である以上、
    責任が存在するようにすることがまず果たされるべき責任であり、「第一の命令」となるのである。(p.134)

  • ありゃ、あの議論はすごく重要だったのね。 しかし私にはさっぱり説得力がないんだけどな。
  • 責任原理は共感とか善意とか慈愛とかそういうのとはまったく異質です。(p.136)
    「良心」とはどうだろうか。

    (ヨナスの引用)「世界規模の生態学的危機の高まりつつある圧迫にたいしてたんに
    物質的な生活水準のみならず民主主義的自由も犠牲にし、ついには救いの
    ためには暴政をも招くような警告的予測をしたために、私は
    問題解決のための独裁を支持していると非難されてきた。(中略)私は、
    実際、そのような独裁は破滅よりもはるかにましであり、この二者択一の
    なかでは倫理的に是認されると述べた。この態度を私は存在の審級のまえで固持する。・・・
    (p.137、中略は品川)

  • まあそりゃ破滅よりは暴政の方がましですね。わかります。
    まあ、大袈裟に言ってるだけだろう。っていうか、ヨナスの時代と今の時代はここらへんずいぶん違うのかも。アメリカ人がガソリンがんがん使うの見て腹たって
    たのかも。こういうのも今の我々からはちょっと見にくくなってますわね。 20世紀なかばのもの読むときは社会・歴史的背景にいろいろ注意しなきゃならないことが出てくるくらい遠くなった感じがするなあ*1
    われわれは21世紀に生きてます。
    なんか社会的な工夫や規制いろいろした方がいいですよね。

  • でも「このままじゃ破滅するから暴政するぞ!」とかって言い出すひとがもし本当にいたら、
    その破滅の予測なるものがどの程度正しそうかちゃんと考えてみたいとは思っています。
    どっちにしても人類があと何百万年も繁栄することは考えらんないので。地球も何億年も
    持たないだろうし。

  • そういや三浦俊彦先生は人類あと何年ぐらい持ちそうだと予測してたかな。

第11章

  • 第3節。どうもこの本のケアの部分を通して、フェミニズム内部
    でのケア倫理批判の調査がちょっと甘いんじゃないかと思っております。
    私の理解では、「ケア対正義論争」っていうのは主としてフェミニズム内部での
    戦いだったんじゃないかと思っているわけだが。平等か、差異か、ってやつ。だから
    コーネルを議論する前にマッキノンあたりをちゃんと紹介してほしいんだわな。

  • マッキノンのギリガンあたりに対する態度は「仮借なき批判」というよりも、 なんか両義的な感じだと思う。Feminism Unmodifiedの”Deffence and Dominance”あたり。*2
  • 私はコーネルはなんか節操*3なくて信用できないと思ってるんで、そこらもあれだ。

J. S. ミル先生

  • 今回はキムリッカ先生とヘア先生をぶつけるだけで十分にも見えるんだけど、
    もうなにやるにしても一応ミル先生におうかがいを立てる、ってのが私のいつものスタイル。
    関係ありそうなとこ引用のために写経しておこう。

    およそ道徳の基準とみなされるものに対しては、
    当然のことながら、しばしばこういう疑問が提出される — その強制力はなにか。
    それに服従する同期はなにか。もっとはっきりいえば、その義務の源泉はなにか。 どこからその拘束力を引きだすか。道徳哲学は、この疑問に対して必ずこたえを用意しなければならない。『功利主義論』第3章。(中公世界の名著の訳*4

  • この章は「快楽の質」が出てくる第2章や、功利の原理の「証明」*5が出てくる
    第4章なんかに比べて軽くあつかわれることが多いと思うんだけど、重要なんだよな。

  • 品川先生は「基礎づけ」を正当化ではなくて、説明の文脈で行なってるよ
    うに(も)見えるから、品川先生の意味での「基礎づけ」って点では、第4章よ
    りむしろ重要に見える。

  • 原文も用意っと。 http://www.utilitarianism.com/mill3.htm

    功利の原理は、他の道徳体系のもつあらゆる強制力をもっている。
    また、もてない理由はどこにもない。これらの強制力は、外的なものと内的なものとに
    分かれる。外的強制力については、詳しく述べるまでもない。外的強制力とは、
    同胞や「宇宙の支配者」によく思われたいという希望であり、嫌われる
    ことを恐れる気持ちである。それはまた、われわれがいくらかでももっている
    同胞への共感と愛情であり、結果の利害打算を離れて神の意志を行なう気持ちにさせる、
    神への愛と畏敬の念である。

  • あら、これ翻訳正確かな。「それはまた」の部分が気になる。

    The principle of utility either has, or there is no reason why it
    might not have, all the sanctions which belong to any other system
    of morals. Those sanctions are either external or internal. Of the
    external sanctions it is not necessary to speak at any length. They
    are, the hope of favour and the fear of displeasure, from our fellow
    creatures or from the Ruler of the Universe, along with whatever we
    may have of sympathy or affection for them, or of love and awe of
    Him, inclining us to do his will independently of selfish
    consequences.

  • ううん、まあこれでいいのか。 “sympathy or affection for them (oure fellow creatures)” はミルの分類では外的サンクションなんだな。てっきり、内的サンクション(あとの「心中の感情」)の方に入るんだと思ったた。やっぱり勉強は楽しい。

    義務の内的強制力は、義務の基準がなんであろうと、ただ一つのもの—心中の
    感情である。つまり、義務に反したときに感じる強弱さまざまな苦痛である。
    そして、道徳的性質を正しく開発した人なら、事がらが重大になると苦痛が
    高まり、義務に反する行為をやめさせてしまう。

  • ヨナスだったら「乳飲み子の呼び声が~」レヴィナスだったら「他者の顔が~」とか言いそうなとこだと思うんだが、そうじゃないんだろうか。

    義務の観念がもつ拘束力は、一段の感情が存在することからきている。
    正義の基準を犯すためには、この感情群を突破しなければならない。
    にもかかわらず基準を犯せば、この感情群は、おそらくそのあとで良心の呵責という
    形で姿をあらわすに違いない。良心の本性や起源について何といおうと、この
    感情群こそ良心の本質を構成するものである。
    このように、すべての道徳の究極的な強制力は、われわれ自身の心中にある主観的な感情なのだから、
    功利を道徳の基準とする者は、功利主義の基準の強制力は何かという
    質問に頭を悩ますことはいっこうにないはずだ。こうこたえればよいのである—他のすべての
    道徳基準の強制力とおなじおの、つまり人類の良心から発する感情である、と。

  • そんなもん感じません、ってひとについてはどうかっていうと、

    もちろん、この強制力は、反応する感情をもたない人間には拘束力がない。
    しかし、そういう人間が、功利主義以外の道徳原理によくしたがうわけでもない。
    こんな人間には、外的強制力を加えないかぎり、どんな道徳も効果がないのである。

  • ふむ。正直でよろしい。
  • こういう「良心」はカントが言うように先験的なものじゃなくて
    教育とかの結果だとミル先生は考えるんだな。でも「そのためにこの感情が自然さを失うわけではない。しゃべったり、理屈を言ったり、都市を建設したり、土地を耕したりするのは後天的能力だが、人間にとってはどれも自然なことである。」と。

    強力な自然的心情という基礎は存在する。この基礎は、
    いったん全体の幸福が倫理の基準と認められれば、功利主義道徳の強味となる。
    この確固たる根底とは、人類の社会的感情の根底をいう。つまり、
    同胞と一体化したいという欲求である。この欲求は、すでに人間本性の力強い原理である
    うえに、幸いなことには、わざわざ教えこまなくても、文明が進むにつれて
    次第に強くなる傾向をもつものの一つである。

  • いいねえ。

    But there is this basis of powerful natural sentiment; and this it is
    which, when once the general happiness is recognised as the ethical
    standard, will constitute the strength of the utilitarian
    morality. This firm foundation is that of the social feelings of
    mankind; the desire to be in unity with our fellow creatures, which is
    already a powerful principle in human nature, and happily one of those
    which tend to become stronger, even without express inculcation, from
    the influences of advancing civilisation. The social state is at once
    so natural, so necessary, and so habitual to man, that, except in some
    unusual circumstances or by an effort of voluntary abstraction, he
    never conceives himself otherwise than as a member of a body; and this
    association is riveted more and more, as mankind are further removed
    from the state of savage independence. Any condition, therefore, which
    is essential to a state of society, becomes more and more an
    inseparable part of every person’s conception of the state of things
    which he is born into, and which is the destiny of a human being.

  • まあミル先生の道徳心理学だなわ。この章は思っていたより複雑で問題が多いところ
    かもしれんな。もう少し考えよう。なんか参考書必要だな。

  • もちろん功利主義(功利の原理)そのものを正当化するのは
    他の理論くらい難しいわけだけど、功利主義だって十分責任やらケアやらって
    感情が、道徳というわれわれの営みのなかで果す役割をしっかり
    説明することができるぞ、っと。さらにそういう感情をもつことを正当化することさえできる。(これはケアの倫理や責任原理の立場よりシンプルにやれそう。いやまあケア倫理とはイーブンぐらいか。)

政治の文脈

  • ケア倫理で気になるのは、ここらへんの議論が主として政治学があつかう議論のような気がするとこだよな。キムリッカもオーキンも政治学者だし。いや、何学者でもいいんだけど。
  • 一つ国内の文献でちゃんと書いてくれてるのが少なくて不満なのが、
    ロールズの「正義」やら「リベラリズム」ってのが、米国内ではいちおう「左翼」なんだって
    ことだよね。あれでもあの所有権を保障するために作られた
    国ではかなり左なのだ。「アカ」があんまりいないからだよね。

  • 実はこれちゃんと書いてくれてる文献はほんとにあんまり見なくて、最近やっと
    盛山和夫先生の『リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理』でみかけて安心した。

  • 米国の法学とかではやっぱりロック流の自然法論みたいなんが強いんじゃないのかな。よくわらかんけど。そういうのに対抗したのがロールズなわけでなあ。
  • 法実証主義や功利主義の伝統はもちろんあるけど、イギリスに比べるとずっと弱いわねえ。
  • ロールズがやろうとしたのは、せいぜい契約説の枠組をつかって実質的に
    功利主義(政治的には社会民主主義?)に近い結論を出そうってことだったと私自身は
    理解してる。とんでもなくまちがってるかもしれないけど。

  • たしかに(国際)政治学者でケアとか言ってる人びとはロールズでも足らん、もっと左いこうぜ、第三世界の人にもケアしなきゃ、って論調が多いんじゃないかと思う。
  • しかし一方で、ノディングス先生みたいなひとはわたしにはかなり保守的、右派に見える。やっぱりまず自分の子どもとかケアするためには私的所有とかしっかりしている必要があるからね。ロック流の自然権を信奉している人びとこそ、「われわれの子どもたちを守れ!」って
    叫んでいるような気がするんだが、気のせいだろうか。ここには緊張関係があるはずだ。

  • だいたい、他人や他のグループと敵対することになるのは、自分の利益
    を追求するためってよりは、自分のまわりの人間をケアしてるためって方が人間
    の真実に近いような気がするわけだしね。戦争中の兵隊さんなんかが典型じゃ
    ん。彼らの多くは(少なくとも主観的には)自分が死んでも自分の家族とか守ろうとしているわけだと思う。 仮面ライダー龍騎とかもそういう方でした。

  • ここらへんオーキンとか読んでないからそういう緊張関係がよくわかんないところ
    があるけど、まあそこらへん品川先生はどう考えてるのかなあ。ギリガンやノディングスが
    「ケアの対象は万人に開かれてる」のようなことを言うけど、どうもリップサービスに見えるんだわな。これは私の性格が歪んでるからかもしれん。

  • 正義がなんのために必要かとなれば、
    そりゃ周りの人のケアのためだろう。一方、ケアが正義のために必要だってのは
    たしかになんかおかしい感じはするね。

  • これが品川先生の「基礎づけ」とか「優先」とかの意味なのかな。まだわかってない。

ヘア先生のケア倫理短評

ギリガンとコールバーグについてはヘア先生直接に書いてるのがあったな、
とかで探しみた。”Methods of Bioethics”だね。該当箇所を超訳。

「ケアの倫理」を提唱する人びとによっても
感情は強調されており、ほかに重要なものを排除してしまうほどである。
このグループにはギリガンとノディングス、そしてもっと哲学的な人として
ローレンス・ブルームなどが入れられる。
ブルームは最近ギリガンをはっきり支持している本を書いている。
ブルームの議論を細かく議論する余地はないが、
彼の敵役の選択は残念なものであるといわざるをえない。
ギリガンもコールバーグも、アイディアは重要なのだが、あまりクリアに考える人ではない。
私はギリガンと面識はないが、コールバーグはよくしっており、彼からは
多くのものを学んだ。
しかし、コールバーグは自分の発達段階の理論をはっきり説明するだけの
分析的能力をもっていなかった。特に、
彼は、私が先に述べた普遍性と一般性の間の重要な区別をしそこねている。
その結果、彼はひじょうに一般的なルールにもとづく道徳をもつ人が
より高い段階にいると考え、また、われわれが特定の人びとにたちして持つべき特別な関係(特にケア)を無視したとして
ギリガンから非難されることになったが、それも故なきことではない。
しかし、道徳判断が普遍化可能だからといって、
われわれがケア関係をもっている個別のひととの特別なかかわりにもとづいて、
自分の行動をガイドするということができないというわけではないのである。
私はこんなこともうまく扱えないような人といっしょに最高の道徳的発達段階にいる
ことにはされたくない。(“Methods of Bioethics: Some Defective Proposals” in Objective Prescriptions)

なんかひどい文章だな。こういうこと余計なこと書いて人を怒らすから
ヘア先生はみんなから嫌われて、いま誰も読まなくなってんじゃないのか。あ、ここ本論じゃなかった。

ケアリングの提唱者の欠点は、彼女らが強調する美徳が実は美徳ではないということではない。
誰だって、ケアリングや友情が・・・道徳的によい生活において重要なものだという
ことに同意することができる。
ヘルガ・クーゼは重要な論文のなかで、「ケアリング」の概念が不可解なほど
曖昧であることを指摘している。提唱者たちの誰もこの概念を明確にしてくれない。
またクーゼは、このケアリングという概念は、(もしそれが明確になったとしても)、
われわれが実際に困難な選択に直面した場合にほとんどなにもガイドを与えてくれない
ことを指摘している。
その後彼女は『ケアリング』という重要かつ啓発的な本を書いたので、
医師や看護師におすすめしたい。
とにかく、ケア倫理の提唱者たちの一番の難点は、
彼らが攻撃している見解を完全に不公平で不細工なカリカチュアに
してしまっていることである。
彼らが書いたものからは、あたかもこれまで哲学者は誰もケアについて語ってこなかったかのような印象を受けるだろう。

最後のとこはそうだねえ。

ギリガンは、ケアに注意が払われなかったのは哲学的思考における男性支配の
あらわれであると考えている。ピーター・シンガーは
ジェンダーと哲学へのアプローチの間の関係について有益な議論を新しい本(『わたしたちはどう生きるか』だな)で行なっている。
シンガーはたしかに、つい最近までの有名哲学者のほとんどが男性であったことは
認める。しかし、彼らがケアリングや友情を無視しているというのはまったく正しくない。
アンソニー・プライスの『プラトンとアリストテレスにおける愛と友情』やそれが言及している
テキストを読んでみれ。特に『ニコマコス倫理学』の1168a-69bは重要だ。
そのあとで、ヒュームが共感についてどう言ってるか調べてみれ。
カントだって、他人の目的を自分自身の目的であるかのように扱えって言ってるぞ。
(カントの引用)これがケアでなかったら、いったいなにがケアなのか
わしにはさっぱりわからんよ。

カントの引用はあとで探す。Grundlegungすぐに出てこないけど、BA69-430。おそらく
「「各自が他人の目的をも、できるかぎり、促進しようと努めなければ」
人間性を目的それ自体として扱っていることにはならない」だと思う(中公のp.276)。

私はあとでケアリングをカント的な枠組のなかに納めるのはとてもやさしいと
議論するつもりだ。それに、注意ぶかく定式化したカント主義と
注意ぶかく定式化した功利主義は矛盾せんとも主張するつもりじゃ。
そういう枠組のなかで、ケアする人は必要とし求めるケアを十分行なえるのじゃ。
やってはならんのは、ケアリングが道徳性の全体であると考えてることじゃ。
ブルームはの点についてはとてもフェアじゃった。
彼はたんにバランスを直そうとしただけじゃからして。
しかし、ブルームがやりすぎたんじゃないかっていうことは考えてみてもよいじゃろ。

こういうことは、ケアする人が公平さimpartialityについてどう言うだろうか
ってことを考えてみればはっきりするじゃろ。
道徳的生活のなかでのケア関係の重要さを強調したいと思い、
一方でそういう関係を誰とでも持てるわけじゃないというあたりまえの
事実を見ると、ケア主義者たちは
道徳のもうひとつの重要な側面、つまり正義と共通善の公平な追求、という
側面を無視しがちになってしまう。
自分の子どもをすごくケアしておる医者が、
希少な薬品を自分の子どもたちのためにとっておいたとしたらどうじゃ?
こういう問いにはあとで答える。まあ、全体としての道徳のバランスよい説明を
手に入れてしまえば、答えるのはそんな難しくないぞ。

は。なにやってんだ。ヘア先生は偉いけど、こんな文章40分もかけて訳すのは無駄。

*1:何度も書くけど、「正義論」まわりや20世紀の倫理学そのものについても我々に見えにくくなっていることがあると思ってる。

*2:翻訳は 『フェミニズムと表現の自由』 か。「無修正フェミニズム」「フェミニズム一本道」「フェミニズムすっぽんぽん」とかの方がかっこいいと思うのだが。

*3:カント、ラカン、デリダとなんか大物を自分勝手に解釈して利用している感じがある。法学の人びとはそういう「テツガクシャ」をよく知らんからなんかそういうもんだと信じちゃってるところがある。ジュディス・バトラーよりはましかもしれないけえど、そういう狭間産業で生きる人で、マッキノンほど評価されていないはず。おそらく米本国では、法学の人はコーネルを哲学者だと思ってるし、哲学の人はコーネルを法学者か文学理論家だと思ってると思う。

*4:中公さん、手に入りやすくしてくださいよー。

*5:自然主義的誤謬やら合成の虚偽やらであまりにも馬鹿げているといわれるわけだが。


品川哲彦先生のもゆっくり読もう(5)

第9章 「ケアの倫理、ニーズ、法」

なんかまとまりが悪いと思う。

第10章。「ケア対正義論争」

  • ここは大事な章なんだろう。
  • 第1節。「メタ倫理」やっぱりわけらんな。

    ケアの倫理は、状況の個別性を顧慮しないかぎり適切な行為は
    確定できないという個別主義をメタ倫理学上の立場とする。
    この立場を先鋭化した例がノディングスである。
    一方、正義の倫理は、公平に適用される原則を重んじる普遍主義を
    メタ倫理学上の立場とする。(p.215)

  • これはバベックっていう人の解釈らしいんだけど、このひとまともなメタ倫理学者なのかな。Diemut Elisabet Bubeckさんか。知らんな。品川先生はこのひとをずいぶん援用して高く買ってるみたいだけど、なんかへんだと思うんだけど。
  • そもそも「ケア対正義論争」って呼べるようなものが(米国で)あったのかな。ここらへんの歴史的情報も欲しいところ。なんか正統派(必ずしも正義派ではない)がケア派を殴ってるだけ、あるいは「仲間に入れよ」ってオルグしているだけのように見えるのだが。政治哲学とか一番マッチョなとこだからなあ。フェミニズム内部でずいぶん議論があったのは知ってるけど、それは「ケア対正義」ってんじゃなくて、「ケアは女性の価値か」とかそういう感じだったような。
  • どうも品川先生と問題意識が共有できないっていうか呼吸が合わなくて苦しい。
  • ケア対正義論争ってのはなんだろう?「ケアと正義とどっちが大事ですか」とかっていう問いはなんかよくわからん。答は「どっちも大事」以外に考えらんないから。そういう問いじゃないんだろう。品川先生の「基礎づけ」の意味をちゃんと理解してないからだ。あんまり具体的な事例が出てこないから考えにくいのかな。私はとにかく具体的じゃないとわからんのだよな。
  • 以上、ケアを正義に統合するオーキンの議論と、統合に反対し両者の編み合わを説くヘルドの議論をみてきた。はたして、正義によるケアの統合は成り立つのか。それとも、ケアは正義とは独立の意義をもっていて、ヘルドの言うように編み合わせられるべきものなのか。(p.231)

  • これがこの章の品川先生の問題意識だよな。確認確認。
  • えーと、「統合」と「編み合わせ」の違いは。具体的には?
  • 第3節の家族の話で具体的な違いがわかる、はず。
  • うーむ、たとえばキムリッカとか「正義の倫理の擁護者」なのかな。まあ本道政治哲学者だとは思うけど。
  • 私、なんか根本的に誤解しているかもしれんな。困った。
  • そもそもp.234のキムリッカの見解の紹介は、キムリッカに不公平であるように見えるな。(キムリッカ『現代政治理論』の邦訳だとp. 441、英語第2版だとp.419)
  • 私はキムリッカの見方はかなり説得力がある鋭い分析だと思うんだけどな。必ずしも「正義の倫理」の擁護者ではないように思うし。
  • 品川先生はキムリッカあたりの議論をもう少し深刻に受けとめるべきに思えるな。っていうか、ケアの倫理じゃない人びとの反論をもう少し書いてくれてもよいように思う。
  • p.235「以上から、正義の倫理とケアの倫理は異質であって、一方から他方を導出できないことが確認された。統合よりも編み合わせのほうが両者の関係を的確に捕えていると結論できよう。」うーん、導出関係かどうかが問題だったのかな。統合ってのは「導出」とかそういうのを指すのだろうか。
  • 第4節。品川先生を二層式功利主義者に折伏したくなってきた。ケアの倫理と
    功利主義の親近性についてはキムリッカも指摘してる。邦訳p.437。でもまあ功利主義はぼんやりしすぎてていやなのかな。二槽式功利主義とかどうかな。洗うのと脱水は別で。
  • うーん、でもどうもキムリッカのケア倫理の分析をつきつけて、品川先生が
    それぞれどう考えてるのかお聞きするのがよさそうだな。んで、次に
    Goodinあたりの功利主義を紹介して改宗をせまるか。

第11章

あとで読む。

第12章

  • 私には「ケアの倫理とかは徳の倫理の一部だ」っていうレイチェルズの解釈の方が魅力的なんだけどなあ。んで、徳の倫理は近代的な倫理学理論と対立しているのは認める。かつ、徳の倫理が魅力的なのも認める。
  • まあ「正義の倫理」が対等な立場とか理性的な存在とかを仮定しているのは、近代的な倫理なるものがとにかくギリギリ最低限の倫理をなんとかして基礎づけようとしてきたからだわな。まあそういうギリギリ最低限の倫理とかってのはあまりにも貧しいと感じる人もいるだろう。ケアとか愛とか共感とか弱者への思いやりとかってのを前提に入れられるなら、もっと豊かな「倫理」を構築できるのはその通り。でもその場合規範的な力をその分失なってしまいそうな気がする。近代的なやつは「てめーみたいな利己的な奴だって、これくらいは認められるだろうよっ!」ってやろうとしているわけで、「あなたはもっと共感的/良心的なひとですから、ほんとはもっとアレなんですよね」とかってのはなんか違う。でもまあいいや。
  • 人間は傷つきやすく、生はうつろいやすいものだ。その通り。みんな幸せになれればいいねえ。功利主義がいいと思う。
  • われわれが新生児とか「乳飲み子」とか子どもとかそういうのに対してケアするのは、
    そりゃやっぱりそういう人たちが弱いからだ。功利主義者もそういうひとにこそ気をつかうべきだって言いそう。われわれがそう感じる進化的な裏付けもありそう。
  • 「対等な関係にもとづく正義の倫理からは、次世代を産み、育てるべしという当為を導出することはできない」p.268。そんなことはないだろう。あ、ここでも「導出」を使ってるな。やっぱりこれは品川先生のキーワードみたいだ。品川先生は倫理学理論になにを求めているんだろう。自分の直観を正当化すること?
  • 「・・・人間の尊重すべき側面を尊重するにはまるごとの人間が守られなくてはならない。・・・責任原理とケアの倫理がこの共通の態度を示すの・・・一切を支える基盤として生そのものをそれ自身として尊重しているからである。」(p.268)
  • これか!ここが品川先生が功利主義者になれない理由の一部を示しているのかもしれん。功利主義者は「生そのものをそれ自身として尊重」しないかもしれない。少なくともただの生物学的な生にはあんまり気をつかわない。(おそらく大腸菌の生にはそれほど気をつかわないだろう。)私も少なくとも大腸菌個体にはまったく気をつかわないし、さらに、人間以外にも守られなきゃならない個体はいるような気がする。もっとはっきり言えば、私だったらやっぱりさまざまな価値は誰かの感覚に由来すると言いたい。でもここを品川先生や同じように考えている人びとに納得してもらうのは難しいだろうってこともわかる。(実践的にはほとんど違いはないはずなんだけど)
  • 「ケアの倫理はケアする相手のニーズをくみとるために推論能力よりも感受性を重視する。」p.268。そう、感受性はほんとうに重要だ。でも推論の能力、とくに整合性の重視は非常に重要に思える。そうでなければただの直観主義。あるいは、ベンサムが揶揄した「共感と反感の原理」でしかない。品川先生が「正義の倫理」とかってのに噛み付きたいのは、どうも「対等な関係」とかが気になるからのようだ。まあ実際「対等な関係」なんてのは現実世界での人間の相互関係では存在せんからね。
  • しかしやっぱりそれって最低限誰でも認められる倫理とかそういうのをなんとかして基礎づけたい(あ、「基礎づけ」つかっちゃった)から、とにかく思考上の仮定にしてんだよな。
  • そもそも品川先生は自他の非対称性とかどう考えてんのかな。私と他人は(私にとっては)ぜんぜん違うように感じられるんで、私が他人のこと(それもあんまり私に関係ない他人)のことを配慮する理由を探すのはなかなかむずかしいはずだ。私は私の幸福のことだけ考えて生きていきたい。でも、とりあえず私と他人たちがいくつかの意味で平等だとすると(これがホッブズの置いた仮定)、能力も欲求も希望もだいたい同じようなもんだから、とりあえずお互いにヤバくならないように契約結ぶだろうから、 これが法や道徳を守る基礎になるかもしれんなあ*1、ぐらいが基本だわねえ。ロールズもヘアもそういうことやってるわけでなあ。
  • とにかく品川先生が、シンガーががんばった動物の解放や第三世界への援助の義務についてどう考えているのか知りたいな。品川流の解釈をしたヨナスやノディングスから、実践的には何が出てくるのか。品川先生のタイプの直観を重視する人にはそういう問いの方が効果的かもしれない。
  • 聴衆や読者が好意的ならあんまり問題はない。問題は、敵対的な人びとをどう説得するかだ、倫理学ってのはそういう方法を考える学問だ、って思ってるみたい。少なくとも私は。品川先生はどうだろう。これは他の偉いひとにも聞いてみたいな。もちろん、なんでわれわれはこんなに道徳的なのかとか、道徳感情っていってもいろいろあるね、とかもっと微妙な問題もあるんだけど、それは二次的な感じがする(ほんとはこっちの方がおもしろい)。なんか私は態度が敵対的すぎんだな。
  • あれ、すぐ上のは倫理学じゃなくて哲学一般がそうなんだな。倫理学はもっとゆったりしていていいのかも。哲学者ってのはソクラテスみたいな人で、(後期)プラトンみたいな人じゃない(いや、どっちも知らんけど)。相手の前提から出発して相手が望まない結論にもってって屈服させる人だ。当然死刑。

*1:実際にはホッブズの理論はもっと複雑。


品川哲彦先生のもゆっくり読もう(4)

今日もちょっとだけ。ノディングスの翻訳発掘した。第8章は
ゆっくり読みたい。

  • 3.1 よいです。
  • 3.2 よいです。
  • 3.3 「倫理の根拠」(p.177)。根拠ってどういうことなんだろう。

    私が相手をケアしはじめるとすれば、私は誰か他のひとから
    ケアされ、他のひとをケアした経験を想起して、その相手を
    ケアしはじめるのだ。ケアする気持ちが自然に発露しないときに、
    ケアリングを誘発するのが過去のケアリングの記憶だとすれば、
    先の一文 — 自然なケアリングが倫理的なものを可能にする — は、
    自然なケアリングは倫理的行為の発生論的な必要条件であるというふうに
    解釈しなくてはならない。(p.178)

  • OK。でもまあこう限定しなくても、「道徳的な配慮をする根本にはやっぱり
    もともと他人に対する配慮とか愛情とかそういうのあるっしょ」でもよいような気がする。
    完全に私的利益のみを目的に道徳的な配慮を行なう、とかなんかへんだしね。ヒューム流の
    やり方はそれほど悪くないと思う。
  • まあケアの倫理学とかは、ヒュームの伝統の上で考えてみるべきなんだよな。
    あとシジウィックと対比してみるのもおもしろいだろう。功利主義的な伝統とは
    相性悪くないはずなんだわ。

    ケアしたくないという欲求を克服する契機は自分がケアしケアされた経験の
    記憶から生じる欲求である。(p.179)

  • もちろんOKだけど、ちょっと言いすぎかもしれない。それ以外にもいろいろあるっしょ。
    たとえばカントに共感的な人びとは定言命法として「ケアすべし」を発見するかもしれんし。
  • 上の引用、「ケア」の実質的な中身にも疑問があるな。この意味のケアは
    実際になんかすることで、自然的な感情を持つことではないように見える。
    カントの有名な箇所。

    われわれの隣人を、いな敵をさえも、愛せよ、
    と命ずる聖書のことばもまた、明らかに
    同様な意味(江口補:傾向にもとづいてではなく義務にもとづいている場合にのみ真の道徳的価値をもつ)に理解すべきである。というのは、傾向としての愛は命令されることは
    できないからである。義務そのものから他人に親切をつくすこと、
    たとえそれを促す傾向が存在せぬのみか、
    もちまえの抑えがたい嫌悪が反対する場合にもやはり他人に親切をつくすことは、
    実践的愛であって感情的愛ではなく、
    意志のうちなる愛であって感覚の性癖のうちなる愛でなく、行為の原理のうちにある愛であって、われを忘れた同情のうちにある愛ではない。こういう実践的な愛のみが命令されうるのである。
    (カント、『基礎づけ』、中公『世界の名著』のp.241)

     

  • まあカントが極端すぎてだめだめってのはあるし、なんか倒錯してるところは感じるけど。
    ノディングスの本当の敵はロールズあたりじゃなくてカントだわね。(そしてヒュームはノディングスの友。)
  • カントは同情や共感にもとづいた親切な行為なんかは道徳的には無価値だと
    いうわけだけど、いかなる意味でも無価値だと言っているわけじゃないんだよな。ここらへん
    が問題なんかな。
  • っていうかヒュームでいいじゃん。自然的徳としての共感や愛情やケアと、
    人為的徳としての正義で。われわれの道徳感情の説明や分析としては十分に見えるけどな。
    自然な基礎としての共感とかケアとかないと、人為的徳としての正義とか成立せんです、
    とかそういう論法でいいんじゃないの?
    (もちろん正当化としてはまだ弱いかもしれん)

    しかし、ケアしケアされた経験の記憶から生じる欲求は、
    なぜ、ケアしたくないという欲求に打ち勝つののだろうか。(p.179)

  • こういう表現が気になるんだよな。「なんかケアしなきゃならんらしいけど、
    面倒だからやっぱりケアしない」って人はたくさんいるだろうから、
    前者の欲求が後者の欲求に打ち勝たないケースはいくらでもあるような気がする。
    それに、こういう文脈で「なぜ」をたずねるのはなんか奇妙な感じがするのだが、
    うまく書けない。たんに表現の問題なのかな。
    「しかし、ケアしケアされた経験の記憶から生じる欲求は、
    なぜ、ケアしたくないという欲求に打ち勝つことがあるのだろうか」と
    いうことかな?それとも「しかし、ケアしケアされた経験の記憶から生じる欲求は、
    なぜ、ケアしたくないという欲求に打ち勝つべきなのだろうか」なのかな。
  • うーん、ここらへんで品川先生とノディングス先生はなんらかの
    道徳心理学をやってるんだという理解でいいんだよな。それが実証なんか
    内観なんかわからんけど。おそらく内観だわね。
  • 3.5~3.8。よいです。
  • 問題は4のとこ。(1)ケアするべき対象は?(2)ケアの葛藤(?)はどう解決されるか?(3)どこまでケアするべきか?あたりは一定の答が必要だろうから、そこらへん知りたい。
  • 4.1。普遍的ケアは不可能。ケアする対象は現実にケアできる範囲にかぎってよろしい。
    これは答になってないように思う。もちろん現実にケアできる範囲以上をケアするべきだと
    は言えない(「べし」は「できる」を含意する)けど、現実にケアできる範囲はどの程度ケア
    するかに依存するわけだし。でもこの解釈はまちがってそうだ。
    「普遍的なケアの否定は、見知らぬ他人をケアできる範囲は現実にかぎられている
    という事実上の制約と見るべきである」p.185らしい。
    ほんとは誰をもケアしなきゃならないけど、ってことかな?まあそんでもやっぱり
    答にはなってないような。
  • 4.2。ケアしている対象の人どうしがモメたら、攻撃されている方法を応援。
    (っていう解釈でいいのかな?)チンバンジー社会でケンカが起こったときに、メスたちは
    負けそうな方をかばってやる、とかって話を思いだしたり。(実際にかなり関係ありそうでもある)
    「負けそうな」じゃなくて「攻撃されている」なのがポイントか。
    弱い方が攻撃しかけてたらどうなるんかな。それは攻撃じゃない、ってことになる?
  • 4.3。ここよくわからん。「倫理的自己」を維持できる程度まで。疲れきったりしない程度?
    4.1とのかかわりで、やっぱりどの程度ケア能力を配分するかって問題は
    常にあるわな。それについては第5節でやるわけだ。
  • 5節。バベック先生の批判(「やっぱり分配の原理は必要だろうよ」ってことらしい。読んだことないけど)はもっともに見える。

    害の最小化、いいかえれば、ニーズの充足の最大化の指針は
    ノディングスも支持するだろう。ただし、ノディングスはそれをを
    正義の語り口で語ることを拒否すると思われる。というのも、分配を
    正義によって正当化すれば、ケアされない人間や乏しいケアしかうけられない人間は、
    そうした処遇に値しており、豊かなケアを受ける権利、ないしはそもそも
    ケアをうける権利や権原がないものとみなさざるをえないからである。(p.189)

  • わからん。どういうことだろう。現にケアを受けてない人間は
    その資格がない、ってことになる、ってことかな?でもそれおかしすぎるよな。
    いまだに十分なケアを受けられず
    食いものない人とかマラリアに苦しんでいるひととかもケアを受ける資格も権利も
    もってそうに見えるがなあ。

品川哲彦先生のもゆっくり読もう(3)

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

今日はちょっとだけ。

  • p.161あたりから。

    さて、正義の倫理は、ある人間がある状況においてすべきことは
    同様の状況における他の人間にもあてはまるという普遍化可能性を
    根拠にして行為を指令する。ところが、自他の実質の差異が
    看過されるのであれば、普遍化可能性とはいったい何を意味しちえるのか。
    ノディングスは普遍化可能性そのものを否定する。というのも、
    そのつどの状況は普遍化されえぬほど個別だからだ。(p.161)

  • やっぱり道徳判断の普遍化可能性の要求に対する誤解は深刻だ。どうしたらいいんだろうな。
    みんなもう一回ヘアちゃんと読もうぜ、になるんだろうか。

    さらに、正義が適用される対象のあいだでも、ベンハビブによれば、
    真の意味では普遍化可能性に到達できない。というのも、正義の倫理は
    個別の差異の捨象を普遍化ととりちがえているからである。
    それでは、自分も他者も「同一の権利と義務を与えられたひとりの理性的
    存在者」、「一般化された他者」にすぎなくなり、そのあいだには、
    これから普遍化すべきものはもはや何もない。(p.161)

  • ノディングスよりさらに誤解しているような気がする。どうしたもんかな。
    ベンハビブは読んだことないし。

  • ここらへんは品川先生のようにちゃんとした倫理学者は
    ノディングズやベンハビブの批判をまにうけるんじゃなくて、
    批判的に再検討してみてほしいんだけどなあ。

  • ここらへんになってくると、「ケア倫理」とか「正義の倫理」とかでいろ
    んな論者をひとまとめにしてるのがなんか不安になってくる。どうも我々は
    「ケア倫理(功利主義、社会契約説、カント主義、フェミニズム、マルクス主義、現象学、
    etc.)は~」ってな大きなくくりで話をしたくなる傾向があるけど、だいじょ
    うぶなのかなあ。あんまりくくりが大きいと不安になる。

第8章

  • なんか「ケア倫理」とかの議論にもうひとつ乗りにくいと
    感じている理由の一つは、おそらくコールバーグとギリガン、特にコールバーグが
    なにやってたのかをはっきりさせないままにギリガンからノディングズやらに進むところ
    にあるんじゃないかな。一昨日書いたけど、
    コールバーグがやってたのがまともな心理学上の実証的研究か
    っていうとそうじゃないところがあってなあ。「こういうのがよい(まともな/正しい大人の)
    倫理観」っていう 価値判断がいろいろ含まれているのがなあ。発達心理学に共通の
    問題なんかな。定形発達という意味での「正常」と道徳的価値を混同している可能性がある。
    まあそれがギリガンが指摘したポイントの一つなのだが。

  • だいたい、多くの人(男性?)は、若者のころは青臭い正義感によって社会の不正に憤ったり、
    平等とか平和とか愛とかの理想とかに
    萌えちゃったりしてるのに、 中年になると「社会をよくするためだ」とか口先では言いつつ、
    機を見て利をむさぼり、気にくわないことがあると権力ぶんまわしたりして、
    やがて老年になると極端に利己的になったりまわりの人間に対して疑い深くなったりするわけでな。
    (いやみんながみんなそうなわけじゃないけど)
    そういうのが人間の標準的・平均的「発達」ってやつなんだろうが、その価値判断は別であるべきなんだよな。

  • でもコールバーグの場合はなんだか40~60才ぐらいの社会的地位の高い高学歴高収入男性(大学教員か政治家か)の考え方が目標地点みたいに
    なってて気持ち悪い、ってのはよくわかるよなあ。

  • 「発達」って言葉が悪いんかもね。
    「人間における道徳的の堕落の過程」とかって本書いてみるとどうだろう。なにも考えてない1歳児や、チョー利己的な5歳児が
    頂点ってことでいいじゃん。われわれはそこから次第に堕落していく。

  • ここでもミル先生は重要に見えるな。古いのにねえ。
  • トルストイとか思いだしたり。
  • p.172 あたりからノディングスの議論の検討。フランクファートもここで
    効いてくるのだが、やっぱりなんか違う話をいっしょにしているような疑念はあるなあ。
    ノディングズはもってるのであとで読むか、いや時間ないな。

    ノディングスのケアリングの倫理は、このように、基礎づけレベルでは倫理の基底を
    ケアと断じ、メタ倫理学レベルでは他者への身を入れたケアを道徳の不可欠な要素と
    考え、そのようなケア能力は有限であるために真のケアの対象は特定の個人にかぎられるゆえに、
    原理原則による普遍化を峻拒する。(p.174)

  • うーん、このパラグラフからも品川先生のいろんな前提というかそういうのが見えてくる。
  • 品川先生の「基礎づけ」ってのは、「われわれはなぜ(実際に)道徳を気にしているのか」
    についての説明なのかもしれんなあ。まだわからんけど。

  • 「メタ倫理学」はわたしは基本的に「倫理学で使われる言葉の分析・明確化」であると
    思ってたけど、品川先生は「何が道徳の本質(?)なのか、道徳に必要なものはなにか」という
    問いにかかわるものかもしれん。これもまだわからん。

  • 「普遍化」についての誤解をノディングズと共有している。
  • 「その姿勢は、正義の倫理の語り口に属す正義、権利といった規範を一貫して
    避けるまでにいたっている」とか。ノディングズの本にjusticeやrightsという言葉があんまり出てこない
    ということかな?

  • どうもノディングズの文章も短い語句だけあちこちからひっぱってきてつなぎあわせているので、
    本当にノディングズがそういうことを述べているのか自分で調べないとならん。ここらへんやっぱり
    ある程度の段落を切ってもってきてほしい。もちろん品川先生の読解力は私も信用しているんだけど。

  • ノディングズってお師匠さん(っていうより研究仲間)誰なんかなあ。謝辞を見ればわかるか・・・あれ、本が見つからん。・・・見つけた!と思ったらクーゼのやつだった。
  • 今日はここまで。ノディングズ見つかったらまた。
  • あら、私ノディングズの英語のはもってないのか。

品川哲彦先生のもゆっくり読もう(2)

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

第2章。

  • 環境倫理はあんまり関心ないからまじめに読むのはむずかしい。
  • 「環境主体」とかって言葉気になる。まあOK。
  • 人間中心主義とか非人間中心主義やら、ここらへんの分け方もあれなんだけど。まあOK。

    「非人間中心主義にしても、たんに利益の主体を人間以外の生き物に
    広げるだけなら、やはり利益と欲求を倫理の根拠とすることに
    変わりない。たしかにどの生き物も存続したいかもしれない。だが、
    生存したいなら生態系を守るべしというだけでは、
    カントふうにいえば道徳の命令ではなく利口の命令にとどまっている。
    それゆえ、人類の存続、あるいはまた、生命ないし自然の存在が真に
    倫理的な次元で尊重されるべきなら、人間中心主義や生命中心主義が
    論拠としている人間や生き物の欲求とは別の根拠が必要である。(p.35、強調江口。)

  • これはまったくわからん。
  • だいたい、これ判断の主体だれなんかな。私でいいのかな?
  • 私が生きのこりたいから、そのために生態系やらとりあえず私の生きている環境を
    私の住みやすいように配慮する、ってのはたしかに私の私的な利益を考慮しているにすぎない。
    「楽しく生きたいから環境に配慮しよう」。

  • 他の人間や他の生物の利益に配慮して、
    「みんながなるべく生きやすいようにしたいので、環境に配慮しよう」は完全に道徳的じゃないの?

  • ん?カントがポイントなのか?
  • 「みんながなるべく生きたいようにしたいのであれば、環境に配慮しろ」は
    仮言命法だから道徳の命法じゃないってこと?でも「みんなが楽しく生きられるようにしろ」という
    命令や要求自体は定言命法かもしれない。(まあ定言命法だの仮言命法だのって区別に
    そんな重大な意義はないと思うけどね。)

  • 品川先生は、「真に倫理的」なのはカントみたいに形式的にのみ規程される
    無条件の命法じゃなきゃだめだ、とか思ってるんだろうか。もし本気ならこれはかなりすごい。

    人類の存続すべき根拠、自然の存続すべき根拠—この二つは途方もない
    問いであり、しかも一見たがいに無縁な問いにみえる。(p.36)

  • そうかなあ。なんかおおげさじゃないのかなあ。
  • 私は自分の(人)生をよいものとみなしている。
    主としてそれは私の欲求や快楽や思考や感情、自己意識、その他の心的な活動のためかもしれん(まあここらへんは
    よくわからんが、いまはどうでもよい)。
    同様に他人や他の生物の生も(私とだいたい同じようなものだろうし私を特別あつかいする理由は特にないみたいだから)よいものとみなしていて、多くの感覚のある生物がなるべく楽しく
    暮らせることはよいことだ。ある程度知的で自分の感覚を楽しんだり、自分を反省したり、自由を味わったりすることができる生き物がいるのは特によいことだ。だから人類は(別に生物種としてのホモ・サピエンスじゃなくてもよい)存続すべきだし、他の感覚ある生物たちも楽しく存続するべきだ。
    感覚ある生物たちが楽しく生きるためには、感覚のない生物や無生物なんかの地球環境が必要だ。
    だから
    自然も(できれば現状に近い形で)存続してほしい。
    いま地球が隕石が衝突したり火山が大爆発したりして壊滅的な打撃を受けたら
    生物大絶滅かなんかが起こって哺乳類とかイチコロかもしれんし、そしたら
    現在の我々のように自分の生活を楽しむことができる生物まで進化するのにまた何億年も
    かかるかもしれんし、核兵器や原発事故とかで放射能とかそういうのをあれしてしまったら、
    もしかしたらもうそういう生物が生じることができなくなるかもしれん。人類の存続すべき根拠はわれわれの欲求と感覚に依存するし、
    それと自然が存続すべき根拠は密接に結びついている。
    こういうタイプの議論のどこに問題があるんだろう?

    私の信じるところでは、もしわれわれが人類を滅亡させるならば—現在それは
    可能なのだが—この結果はほとんどのひとびとが考えているよりもずっと
    悪いものである。次の三つの結果を比べてみよう。

    (1) 平和
    (2) 世界の現存の人口の99パーセントを殺す核戦争
    (3) 100パーセントを殺す戦争

    (2)は(1)より悪く、(3)は(2)よりも悪い。この二つの差はどちらが大きいだろうか?
    ほとんどの人は(1)と(2)の差の方が大きいと信じている。
    私は(2)と(3)の間の差の方がはるかに大きいと信じている。
    (パーフィット『理由と人格―非人格性の倫理へ』p. 615)

  • 私もパーフィットと同じように考えてる。おそらくこのレベルではなんらかの
    功利主義者であることを受けいれちゃってるからかもしれん(少なくとも善は大きければそれだけよい)。

  • そもそも品川先生は「根拠づける」ってのをどういう意味で使っているんだろうな。
    私だったら「ふつうの欲求とかをもっているそこそこ合理的な人がよく考えたら納得できるよう論理的に説得する」ぐらいなんだけど。カントの「基礎づけ」だってそういうことを目標にしているわけなんでさ。
    でも品川先生はなんかもっとすごいことを考えているような気がする。

2.2

  • ヨナス先生の議論なあ。私にはさっぱりポイントがわからんのだよな。
  • どうしたらいいかなあ。
  • 人間は他人や他の生物を配慮できる存在だ、そしてそれは
    (たいてい)よいことだ、われわれはできるかぎり他者を配慮するべきだ、
    他者を配慮できない奴はおかしいぞ、 ってことしか言ってないと思うんだけど。もちろんそれなら
    認めるんだけどね。

  • 品川先生の文章べたべた貼ってステップ追っていってもあんまり益が
    あるとは思えないんだよなあ。どうしよう。

  • 自然の目的論的解釈とかについてまじめにゆっくり考える気にはなれない。機械論でいいじゃん。
  • ヨナス先生のはただの道徳的直観。いや、大事な直観だけどね。
    でもどこまでその直観が拡大されるべきなのかな。範囲はどうするのかな。
    そりゃ弱い者、困っているひとを助けない奴はだめ人間だわさ。
    ほっとかれてる赤ちゃんをケアする責任を感じないひとは通常の状況ではめったにいない
    と思うけど(誰もがもってる「惻隠の情」だ)、
    なんでゴキブリさんや大腸菌さんに責任感じないのかな。たんにヨナス先生はゴキブリさんに
    責任(あるいは配慮する義務)を感じないからじゃないのかな。われわれはふつうは責任を感じないけど実は感じるべき相手も
    いるんじゃないのかな。そういうのどうするんだろう。

2.3

  • 上の最後の問いは当然の問いなので、2.3であつかう。主として討議倫理の人たち
    からの批判らしい。

  • 「乳飲み子を世話する責任を感じないひとがいたならどうか。ちょうど共感を
    否定するひとにヒュームがしたように、反論を打ち切るという対応しか
    ヨナスには残されていまい。」(p.41) ここ、勉学に萌える学生さんたちのために
    ヒュームにも出典つけてほしい。 『道徳原理の研究』の方だと思うけど調べるの面倒。
    実際学生さんはヨナスよりとりあえずヒューム読んだ方が得るところは多いんじゃないかな。

  • カントの普遍化の話

    誰もが自殺を格率として採用する事態、
    すなわちその格率を普遍的道徳法則とみなす事態を想定したならば、
    どうなるだろうか。それがたとえいかに現実離れした
    荒唐無稽な想定に思われるとしても、論理的には、人類の絶滅が結果するだろう。
    そうなれば、道徳ないし倫理について考える存在者はいなくなり、自殺が
    普遍的道徳法則に合致する格率であるかどうかという今問うている道徳的な
    問いそのものが問えなくなってしまう。それゆえ、道徳ないし倫理的な
    思考ならびに行為の成り立つ基盤を確保するためには、自殺は
    普遍妥当性をもつかという問いに否と答えなくてはなるまい。そう推論できる。
    (pp. 42-43)

  • ふむー?カントの自殺の議論は(あやしげな目的論的枠組がないと)ぜんぜんだめだというのが
    定説だと思うんだけど(いやよく知らんけど)、これはさらにあやしい議論なんじゃないかな。
    なんでこういうことを考えるんだろう?「「可能なときはすぐに自殺するべし」という格率が普遍妥当性をもつか」という問いと、
    「そういう格率が普遍妥当性をもつかという問いを問うことが現実的に可能な状況(つまり理性的に
    判断できる存在者が存在している)が存在するべきか」という問いは論理的にはあんまり関係がない
    ように思えるけどな。神様や天使とかいれば正しい判断してくれるんじゃないかな。
    あ、神様や天使様も自殺しちゃうのかな?みんな自殺しちゃうとだれも道徳について考えなくなるから
    死んじゃだめ、という議論なのかな。わからん。

  • まあでもそういうイジワルな読みしすぎだよな。
    もっとカミュみたいな実存主義的な読みをするべきなんだろう。
    「俺は自殺するべきか?もうなにもかにも面倒だから自殺してもかまわんか?」と考えている中年男の立場で考えてみよう。

    ヨナスの立てた問いは、人類が存続できるかという事実問題ではなく、
    存続すべきかという倫理の問題だった。人類が
    この倫理的問いを問うことにみずから関与しているかぎり、
    つまり倫理的態度をとっているかぎり、「存続すべきではない」という
    答を選ぶならば、自分自身が今問うている倫理的な問いそのものを否定してしまうことになる。
    (p.43)

  • これがそうなんだろう。でもどうかなあ。私がなにもかにも面倒なので、
    「自殺してもいいかな」と考えて、「借金はあるしこれから先楽しいこともないし、悲し
    む人もいないし、誰も俺のこと気にしてないし、会社の連中は死ねばいいの
    にと思ってるし、他に社会的な悪影響もまったくないし、かまわんだろう」と考えた場合、
    なにか矛盾があるだろうか。わからん。おそらく上のような思考における
    事実認識はたいてい大きくまちがっている(借金は破産すりゃいいかもしれんし、
    破産してもそれなりに楽しいこともあるだろうし、悲しんだり
    ショック受けたりするひともいるだろうし社会的影響もあるだろうし、
    本気でよろこぶひともたいしていないだろう)わけだけど、思考自体が
    どっか矛盾しているとは思えんなあ。わからん。それが言えるのは、
    そもそも「いかなる事情があれ自殺は道徳的に不正である」ということが
    前提にある場合だけだろう(私は現実世界ではたいていの自殺は自己利益に反してるだけでなく道徳的に不正だと思うので誤解なきよう。でもそれはアプリオリに決まってるわけじゃない。)。

第3章

  • 品川先生の文学的センスが冴える章。

第4章

  • この章は本全体では付録っぽいんだけど、気になるんだよな。
  • まずうしろのドゥオーキンの生命の神聖さの議論なんだけど、これって正確なんだろうか?
    時々見るタイプの紹介なんだけど、
    ドゥオーキンが議論している文脈をはずしてしまっていて、あたかもドゥオーキンが「だから生命の神聖さって概念はまだまだ使える」と主張しているという誤解をまねく紹介になってるんじゃないだろうか。
    実際の彼の『ライフズ・ドミニオン―中絶と尊厳死そして個人の自由』の議論は「生命の神聖さって
    言う人びとがいるけど、そう感じる理由はきっと「投資」(とその回収)って考え方で
    説明できるかもね、そして神の投資とかって考え方は宗教的なもんだよね(だから憲法上はアレだよね)」ぐらいで、生命の神聖さとかってのを積極的に主張している議論ではないんじゃないのかな。すごく大きい本だし米国憲法の議論を離れるとわけわからなくなる議論なので、みんなあの箇所(第3章)だけ見て全体がどういう議論になっているか
    把握していないような気がする。(私も十分把握しているとはとても言えない)まちがってたらごめんなさい。

  • ハーバーマスの議論の方は、ハーバーマス自身が遺伝子決定論みたいな
    わけわからんこと書いててもうどうにも議論について来れてないことを示しているんじゃないか
    ってのはどっか他のところで書いたことがある。

  • 4.5のところは何をやろうとしているのかわからん。
  • カントも和辻も、けっきょく人格が特別な価値をもつのはなんらかの心的な能力をもつからだ
    と主張しているように見えるが・・・

第5章「人間はいかなる意味で存続すべきか」

  • もうヨナスの議論にはたいして興味がないんだけど、もうちょっとだけ復習。

    なぜ、未来の人間に配慮すべきか。その根拠として、一般的には、未来世代に
    たいする私たちの愛・共感・共通の利害関心、あるいは、未来世代が私たち現在世代と
    等しく有する権利をもちだすこともできよう。だが、愛・共感・共通の利害関心が
    遠い未来世代にまでおよぶとは確証しがたい。また、まだ現存していない存在者に権利を授与することは困難である。(p.98)

  • この問題意識が私にはわかりにくい。「確証しがたい」のところがポイントかなあ。

    ヨナスの未来倫理は責任という原理に立脚する。
    責任が成り立つ構造を定式化しておこう。
    存在者Xが存在者Yにたいして責任を負うのはいかなるときか。
    ヨナスによれば、Yが存続の危機に脅かされており、
    Yの存否を制する力をXが有しているときに、XのYにたいする責任が生じる。
    核兵器や生態学的危機に対する現在世代の対処しだいで
    未来世代の存否が左右される以上、現在世代は未来世代にたいしてその存続について
    責任を負っている。銘記すべきは、責任が対等の
    関係ではなく、力の不均衡から生じる点である。
    とこで、同じ定式化からは、地球全体の生物にたいする人間の責任も
    帰結しうる。ヨナスはこう述べている。人類の存在は他の生物を含んだ
    全世界にとって喜ばしいことであるか恐るべきことか、その帳尻を考えれば、
    人類の存続を支持することはかなり難しい。それにもかかわらず、この帳尻とは
    別に、人類は存続すべきである、と。なぜなら、責任が存在する可能性を確保することこそ
    何より先行する責任だからだ。したがって、人類が存続すべき理由は、
    ヨナスによれば、人間のみが責任を感じ、責任を担いうるこの点にある。(pp. 98-99)

  • やっぱり部屋に潜んでいるゴキ太郎にたいして私がどうすべきかわからんね。
  • 存在者Xやら存在者Yやらは私とかゴキ太郎とかの個体じゃないのかもしれないなあ。
  • 人類の存続が全世界にとって喜ばしいことかどうかよくわからん、とかってのに
    なんか人類を罪深い存在と考えているのが見てとれるけど、そんな悪い奴らでもないと思いますよ。
    そもそもこの「全世界にとってよろこばしい」って誰の視点からのものなのよ。
    擬人化すぎないのかしら。

  • 「責任が存在する可能性を確保することこそ責任だ」ってところ。責任(応答)ってそんな
    いいもんなの?人類がとんでもない邪悪なやつらで他の生物に大迷惑かけても、
    やっぱり人類は責任を感じることができるから偉い、ってことなのかな。んじゃ
    なんでその責任とやらはそんなに価値のあるもんなんだろうか。けっきょく人間の
    そういう一種の心的能力に価値があると認めざるをえないからなのかな。んじゃそういう
    心性もってない奴らは価値がないのかな。 でもそれはっきり書いてくれないとなあ。

  • 私にはこの手の話を文字通りまじめに考える価値があるとはやっぱり思えないなあ。
  • 私の心が汚れていたり、corruptしているからなの?やだなあ。
  • いや、他人を尊重しましょう、弱いものを守り大事にしましょうはもちろんいいんだけど、なんでこんな
    奇妙な議論しなきゃならないのかがわからない。その程度のことを主張するために、
    この手のおおがかりな議論が必要だと感じる方が私には奇妙に見える。どっかおかしいですよ。

  • ヨナス先生はもうだめ。ついて行けません。
  • やっぱり私が主流派の「正義」の理論をよく理解してないからなのか。
  • 品川先生にはGoodinのProtecting the Vulnerable: A Reanalysis of Our Social Responsibilitiesとか論評してほしいなあ。
  • とにかくヨナス先生は私には難しすぎるので6章とかあとまわし。ケアの方行こう。
  • あ、ここまで読んで気づいたんだけど、この本は段落落とす必要があるくらい長い引用がまったくない。
    短い語句や一行ぐらいの引用や、場所の参照は多いんだけど。
    これはつまり、品川先生が自分の読みに自信があることや、
    あんまり自分の読みの正当化に関心がないことを
    示しているのかもしれないと思う。まあスタイルの問題だけど、やっぱり
    重要なところはある程度しっかり引用してほしいと思う。

第7章

  • ギリガンからその後のケア倫理の紹介はわかりやすくかつ正確でよい。
  • いきなり読みやすくなる。やっぱりこっちから書きはじめてもらった方がよかったんではないかとか。
  • そういや「ケア倫理」っていう言葉なんだけど。ethic of careとかfeminine ethicのethicって訳しにくいよなあ。
    初学者のためにethicsとethicの違いはどっかで解説してほしい。(見落したかな)
    他でも書いたけどhacker ethicとかのethic。倫理ってよりは「エートス」「価値観」「気質」
    なんかを指すんだろう。でもまあ「ケア倫理」しか訳しようがないか。
    “The ethics of care” (V. Heldの書名とか)とかになればこれは「ケアの倫理学」だわな。

  • 「ケアの倫理と正義の倫理はたがいに独立で排除しあうのか。あるいは、一方が他方を統合するのか。それとも、両者は相補的な関係にあるのか。」(p.147)とりあえずはこれを考えたいという
    わけだ。OK。

  • 品川先生はこの問題を考えるために(1) 実証的次元と倫理的次元を分ける必要がある、と。
    さらに(2)倫理的な次元でも(1)ケアないし正義という規範的レベルでの対比と、
    倫理を基礎づける規程はケアか正義かという基礎づけレベルでの対比を区別する必要がある、 と。OK。よござんす*1。あと
    ケア対正義という図式は、メタ倫理学における個別主義対公平主義にも対応するよ、と。
    うーん、まあOK。

  • 細かいけどp.148。「性差が見出されたとしても、それを社会的な構成の産物と
    みなすか女性の本質とみなすかによって、その含意は大きく違ってくる。」 「本質」という言葉を
    こう軽く使われると当惑するなあ。できれば「それを学習や社会的な条件づけや強制の結果とみるか、
    なんらかの生物学的な基盤をもった統計的な偏りと見るか」とかだと気にならないんだけど(私ならこう書く)。まあなんにしてもこの手の話のなかで「生物学的な決定論」なんてのを主張しているひとは
    めったにいない。
    文章の好みの問題かな。そうじゃないような気がする。

  • 1.5で突然フランクファート。(大庭健先生はフランクフルトと書いてるけど
    やっぱりフランクファートが正しいだろうなあ)。まあ使いたいのはわかるけど、
    このフランクファートの意味のケアを、ケア倫理とか議論している文脈でもってくるのは
    どうなんだろうなあ。フランクファート先生は哲学を「認識論」と「倫理学」と
    「なにについてケアすべきか」の三つに分けた、ってんだけど、私の解釈では最後のやつは
    単に(道徳外の)「価値の哲学」っていうかそういうやつだと思うんだが。
    国内の哲学業界では「倫理学」ってのはかなり広い領域で、へたすると美学や宗教哲学なんかも含んじゃう
    かもしれない分野なんだけど、英米系ではわりと狭く「道徳の哲学」あるいは社会規範の哲学てな扱いだから
    フランクファートはこう分類しているだけなんじゃないでしょうか。なんかどういうわけかここで
    シェーラーの名前が思いうかぶんだけど、あのひとがやってたようなやつなんか典型的な
    この「なにをケアするべきか」っていう哲学のような気がする。
    フランクファートの文脈では、たとえば、
    数学における真理や美の発見を人生の最大の目標にしている人は数学をケアする人だし、
    キャンパスの芝生の葉っぱの数を数えることにとてつもない価値があると思ってるひとは 芝生の葉っぱの数をケアしている人なわけでなんじゃないかな*2。それをこの(ほぼ対人関係に限られていると思われる*3)ケア倫理の文脈にもってくると誤解されそうだ。まあいいか。使うならもっと別の箇所の方が適切だったんじゃないだろうか。

  • 2.1のコールバーグの解釈の説明もOKだろうと思う。
  • 「ケアの倫理の論理的な破綻」(pp.156-7)とかって表現もちょっと気になる。
    さっきethicの話書いたときにも思ってたんだけど、
    「ケア倫理」とかはおそらく「倫理学理論」そのものではないような気がするので、
    破綻したりしなかったりするもんじゃないような気がする。わからん。「ケア倫理だけにもとづいた倫理学は破綻する」とかならありそうかな。こういう細かいことばっかり気にするから
    某偉い先生からこの前叱られたんだよな。ケツの穴が小さい。拡張すべき?

    注意しなくてはいけないのは、正義の倫理では、どの人間も「私」にとって
    等しく尊重すべき存在であるのにたいして、ケアの倫理では、
    どの人間も必ず誰かにケアされるべきことが主張されているのであって、「私」が
    すべての人間を等しくケアすることは要求されていないということである。(p.157)

  • この一節はいろいろ検討する余地がある。参考は
    (1) D.D.ラファエルがゴドウィンを馬鹿にしてる箇所。(『道徳哲学』)
    (2) ヘアが普遍性と一般性の違いを議論している箇所。
    たくさんあるけど、Moral ThinkingだとLoyalityのところかな。

  • そもそも品川先生が「正義の倫理」っていってるとき考えているのは
    やっぱりロールズなんだろうけど、それって個人の倫理判断じゃなくて法や社会制度に
    関する話なんじゃないのかな。対決させて大丈夫なのかな。上のような文章を見ると、
    品川先生が主に考えてるのは、社会制度ではなく、
    個人の意思決定とかあり方とかそういうものだって
    ことがわかるような気がする。もちろんそれは非常に重要なので文句なし。

  • まあ個人的な生活において功利主義だのカント主義だの討議倫理だのぶんまわすやつが まともな人間のはずがない*4

    功利主義は、道徳的義務のもつしばしば極めて人格的*5な性格、すなわち、それが特別の人格的な関係に基づいているという
    事実を無視している。この点は18世紀の功利主義者ウィリアム・ゴドウィンによって、
    みごとに—倒錯した仕方ではあるが—明らかにされている。
    ゴドウィンは言う、フェヌロン大司教の宮殿が火事になり、あなたは中に閉じこめられている
    二人、すなわち大司教と、たまたまあなたの母でもあるところの彼の部屋係の二人のうち、 一人しか救助する時間がないと想定してみよ、と。*6(略)正しい行為は、フェヌロンの方を
    救助することであろう、というのも、その方が人類にとってより多くの利益をもたらすであろうからである、とゴドウィンは続けるのである。(D.D.ラファエル『道徳哲学』、pp. 109-110、強調原文。)

  • カント先生がお金借りに来たお姉さんに会わずに
    召使に追いかえさせたとかって鬼畜な話はなんで読んだんだっけか。中島義道先生かな?

  • む、そうか。【急募!】もしこれ読んでいる大学院生の人とか
    Michael Stockerの “The Schizophrenia of Modern Ethical Theories”をすでに翻訳している
    人がいたらちょうだいちょうだい。くださいー。ちょうだいよー。へんな訳でもいいすから。
    っていうかどう考えてもJames RachelsのEthical Theoriesあたり翻訳出しとくべきだよな。
    けっきょくこの国では翻訳がないと話がすすまんのだ。

  • はっ。私なにしてんだろう?ヒマ人すぐる。
  • まあ今日はおしまい。第7章はそれほど問題を感じない。ルール重視の倫理学理論の
    問題を的確に指摘していて、とてもよい。

  • いちおうヘアも写経しておくか。 いつか授業で使うこともあるかもしれんし。

    「功利主義はすべての人の選好を等しい重みを持つものとして扱う。
    したがって、功利主義は、すべての人がよいと認めて奨励するこうした特別の愛情(江口注。たとえば近親者に対するケアやそれに由来する身内ひいき)に対して全く重みを認めない説だから、
    拒否されなければならない」と主張されるとき、人びとが直観に訴えていることが
    いかに見えすいており、またそれがいかに疑わしいか—以上のことが(中略)示されているのである。
    特定の事例においてこれらの感情を奨励することがよいことであるかどうか、
    われわれはまず確信しなければならない。
    家族に対する忠誠心でさえ、実に多様な直観の例を提供している。ある国々においては、
    権力の座についた人が自分の一族の成員の利益をはかるためにその地位を利用しないことは
    悪いと考えられている。他の国々ではそうすることは縁故主義と呼ばれ、堕落と
    見なされている。そして、イギリスにおいてさえ、経済的に恵まれた父親が
    他の人びとには払えないほど金のかかる学校に自分の子どもを入れて、できるだけ
    よい教育を与えようとするのが正しいかどうか、という問題が論争の対象となっている。

    (略)

    たとえば、ある母親が子供を生み、母性感情に促されてこの子を育てるものとする。
    しかしこの母性感情は他人の子供まで育てるようにはさせない、あるいはわが子と同じように
    育てるまでにはさせない。功利主義者はこの偏った愛を非難すべきであろうか?

    直観的レベルでは、すべての正常な状況においてこの母親は称賛されるべきだ、と誰もが(極端で急進的なコミューンの唱道家とプラトンを除けば)考える。・・・われわれが批判的レベルに
    遡って、なぜその直観を教え込むべきなのか理由を問うとすれば、
    その答えは十分明白である。仮に母親が世界中のすべての子供たちを
    平等に世話する性癖を持っていたとすれば、子供たちは現に養育されているほどにはよく養育されそうにないのである。責任の希薄化は、責任そのものを弱めて消滅させてしまうだろう。 (ヘア『道徳的に考えること―レベル・方法・要点』p.203-5*7

  • 上の写経の最後の一文は、ヨナス先生とかどう思ってるか聞いてみたいところでもあるな。
  • あれ、一般性と普遍性は『自由と理性』だったかな。いや『道徳的に考えること』の2.5か。
    もうちょっと詳しい場所が必要かも。

  • あれ、昨日p.8のアリストテレスの正義のところ読みまちがえてたかな。ごめんなさい。
    あれ、いいのかな。わからん。問題はアリストテレスの1129a-30aあたりの「一般的正義」が「徳」なのか
    どうなんかなんだけど。わからん。「両者(徳と正義)は基本的に同じものであるが、
    それらのあり方は同じではなく、その同じものが他者と関係するかぎりにおいては、正義なのであり、
    そのような条件なしに、それがある特定の「状態」であるかぎりにおいては、徳である、ということなのである。」1130a。ふうむ。「関係するかぎりにおいて」ってのが行為とかそういうことと解釈して
    よいのかな。状態ヘクシスってのも社会状態とかにも使うものなのかどうか。使わんだろうな。まあこういうのは岩田先生の本でも見ないとわからんな。

  • ほんとに今日の分おしまい。いろいろ勉強になりました。特にケアの方。
  • そういや、この本7/21に合評会がある。http://www.arsvi.com/2000/0807.htm#21 。私営業で行けないんですわ。

*1:ただ「基礎づけ」がどういう意味かはちょっと気になる。

*2:まあそういうものをケアするべきなのかどうかがこの手の議論のおもしろいところだけど。こういう意味で人生においてなにを一番ケアするかってのはたしかに広い意味での倫理学の問題でもあるんだけど、狭い意味での倫理学から独立した問題でもある。

*3:この点はp.154で指摘されてる。

*4:ブログで「私は功利主義者として生きる」とか書いてるひとだって、実生活ではほんとはよいまともな人(のはず)。

*5:原語はおそらく personalだろう。「個人的」の方がいいんじゃないかな

*6:あたってないけど、『政治的正義』あたりらしい。このタイトルが「政治的正義」なのがまあ示唆的だよね。やっぱり政治とかの場合利害の葛藤とかあるってのが一番最初にあるんで、正義とかってのがどうしても道徳的ミニマムっていうかそういうのになっちゃうんだよな。これがおそらく品川先生が気にしているところでもあるっていうか問題というかなんというか。

*7:ゴドウィンの例の話はp.207。あれ、この注の訳なんかおかしいかもしれん。