晃洋書房
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なんか翻訳大丈夫なんだろうか。わたしが持ってるのは第4刷。3刷で訳直したみたい。
翻訳の問題だけじゃなくて、論述上の問題をかかかえた本に見える。アマゾンで「原典そのものが難解」と評しているひとがいるけど、難解というよりは思考が混乱しているし、かなりふつうのひとが反発を感じそうなことを婉曲的な表現で述べていると思う。これはちょっとのれない。(私はギリガンは非常にまともだと思っているが、ノディングスは有害かもしれないと思いはじめている。)
合州国では、正義の名の下に、学校が人権的(ママ)に隔離されるべきではないことを決めています。人種差別廃止のために、法的な命令によって、人種的な居住区別の学校が廃校にされる場合もあります。転校させられた生徒の両親は、以前の学校では活発であったのに、新しい環境の下では自分がよそ者のように感じられ、その結果、少数民族は、白人の子どもたちを見習うために、いっしょにいる必要があるのだという、誤った考え方にとらわれ続けています。たしかに、かなりの数の人びとが貧困にあえぎ、物資や人間としての尊厳を奪われているというのは、不公正です。しかし、不正義のおもてに表れた兆候を取り除くために作られた、一つの尺度を推奨する前に、ケアリングならば、こう問うでしょう。もしわたしたちがこれをすれば、コミュニティーはどうなるのかしら、家族は、子どもたちはどうなるのかしら、と。(序文p. iii)
微妙な書き方だな。人種分離政策とっといた方がいいってことだろうか?なんかヤバい匂いがする。
ケアするひとであり続けるためには、わたしは殺さねばならないこともありうる。眠っている夫を殺す女性の事例について考察しよう。たいていの状況のともでは、ケアするひとは、そのような行為は誤りだと判断するであろう。それは、夫をケアするというまさしくその可能性を犯している。しかし、夫がどのように妻と子どもを虐待したのかを聞き、その女性が体験してきた恐怖と、その問題を適法的に解決しようとした過去の努力について聞くとき、ケアするひとは自分の判断を修正する。陪審は、酌量されるべき自己防衛という理由でその女性が無罪だと評決する。ケアするひとはその女性を倫理的だと理解するが、それはひどく縮小された倫理的理想に導かれてのことである。その女性は、自分自身と子どもたちを守るためには仕方がないと考えた唯一の方法で行動したのである。したがって、その女性は、自分自身をケアするひととみなすという理想像のなりゆきに則って行動したのである。しかし、なんとひどい理想像であろうか。その女性は、一度殺人を犯したが、再び殺人を侵さないはずのひとなのであって、もはや、たんに殺人を侵さないはずのひとではない。究極的な責任あるいは無責任の吟味は、ケアリングの倫理のもとでは、どのようにして倫理的理想が減殺されたのかということにある。行為者は、貪欲さや、残忍さや、個人的な関心から、落としめられた理想像を選んだのか、あるいは、ケアを維持するのを不可能にするような、良心の欠けた他人によってその理想像へと駆られたのか。(p.160)
なに言いたいのかわからん。うしろpp.178-179あたりを見ると、「子どもと自分を守るために旦那殺したんだったらやむをえない」と言いたいように見えるけど、これが正義の原理じゃなくてなんなんだろう?
クラスでただひとりの黒人学生が、人権侵害や非人道的行為が黒人に対して平然と行なわれている様を、また、かれの絶望感が次第に大きくなっていく様を雄弁に語った。そして、かれは「バリケードに行くつもりだ」と語った。その学生には、あきらかに、人びとの彼に対する扱いを非難し、事態の改善を要求する権利があった。それなのに、バリケードや銃や暴力にいきつかねばならないのか。おそらく、そうなのだろう。・・・ああ、(人種差別主義者の)伯母も父も間違っている。でも、わたしには親切にしてくれた。・・・あなたにもお判りのように、わたしは、バリケードまで行くなら、こちら側にいるに違いないし、また、父やフィービー伯母さんのそばに立っているだろう。わたしは、ジムたちを罵るだろう。バリケードを撤去しようとするだろう。平和をもたらそうとするだろう。・・・では、そのとき、ジムに、まったく「正しい」黒人の青年に何をするだろうか。ジムが視界に入ったなら、とAさんは言う。それがジムだと気づけば、何か別の目標に眼を移すであろうと。(pp. 171-172)
なんかすごいな。バリストするような黒人は物理的暴力を使う悪い人!排除しなきゃ!なんじゃないの?おそろしいよ。ジムから眼をそらして罵りつづけるのね。
暴力が突然、予期せず行使されたとしよう。いま愛されていてケアされているひとが、暴力というこのひどい行いに関与する、あるいは関与しようとするのである。わかりました。Aさんは言うだろう。あなたは、わたしをそこまで追いつめるのですね。わたしは、たとえなにが起ころうと、悪いことには協力するつもりはありません。わたしは、こうしたケアリングに対する侵犯行為に対してならば、ジム(抗議活動をしている正しい黒人青年)を守ったでしょう。しかし、もう一度言いますが、わたしのケアされるひとならばそんなことをするはずがありません。
パパがジムを殺したなんてあるはずがないわ。なにかのまちがいよ。どうしてもしょうがなかったのよ、きっとジムが最初に銃をもちだしたんだわ。暴力じゃないわ、事故よ。ただ威嚇するつもりだったにの弾が出ちゃったのよ。なのかなあ。いや、意地悪く読みはじめるとここらへんキリないよ?こわすぎる。
自分の愛する人びとは「そんなことをするはずがない」と彼女が断言するとき、その断言は信頼の表明である。そしてここにある信頼感は関係性にもとづいている。・・・それは、関係性のうちで過ごされた年数という証拠により跡づけられ基礎づけられた主張である。一定の証拠に基づいて唱えられたこのような主張は、主張者が話題になっている人びとを知っているという状態を要求する。さらに、その主張は、他者のうちでケアが維持され続け、また完全に出来上がっているという状態を要求する。(p.175)
どういうことだろうな。誰か解説してほしい。ノディングの名前を論文にあげる人びとはノディングスほんとに読んでるんだろうか?
わたしたちはどんなひとでも愛せるわけではない。どんなひとでも十分にケアできるわけではない。またケアするためにどんなひとでも愛する必要はない。わたしは「心をかけないケア(care-about)を無視してきたし、またそれでもよいと信じている。それは行おうと思えば、非常にたやすく行える。わたしは、飢えたカンボジアの子供たちを「心をかけないでケア」できるし、5ドルを飢餓救援基金に送れるし、いくぶんかの同情も感じられる。しかし、わたしの送金が、食料費に使われるのか、あるいは、銃の購入に使われるのか、それとも、政治家がキャデラックの新車を購入するために使われるのか、十分にはわからない。上のようなわたしの行為は、ケアにとってのできの悪い又従兄弟である。「心をかけないケア」はつねにある一定の思いやりおある無視を含んでいる。わたしたちは、まさにそこまでは思いやり深くいられる。ちょうどそれくらいの熱中に同意する。承認し、肯定する。5ドルの貢献を行い、それに続けて他の事柄を行う。(p.175)
どういうことなんかね。これも解釈が必要に見えるな。カンボジアの子供たちのために5ドル使うのはあんまり意味がないってことかな。せめてどこの募金団体がそのお金をどう使っているか調べてもよさそうだけどな。
もはやケアれないひとが、後退したそのひとに暴力を働き、脅威を増し、悪意ある取り組みを続けるなら、そのひとは、さらにひどい虐待を阻止するために行動しても正当化される。もちろん、さらにひどい虐待を阻止する行動も、ケアリングの倫理に導かれなくてはならない。がまんできないほどしつこいセールスマンであっても、かれを撃ち殺してしまったなら、あきらかにわたしたちは正当化されない。(p.180)
わたしもそう思います。さっき梅田に超高層駅ビルができるので、とか
電話してきた人がいるんですが、撃ち殺すのはやめておきます。ケアリング。
多くの女性は勝ち負けを争うゲームを避ける。・・・創意に富み、予知できず、空想をかきたてて始まる事柄が、 とにとして、規則に縛られ、技量にこだわり、ひどく深刻なもの*1になる。Aさんを不安にさせるのは、ほとんどすべてこの深刻さである。というのは、深刻さがあるから、彼女は、これは試行ではあるが、自分の夫もこんな仕方で人生を理解しているかもしれないという不安を抱くからである。Aさんは試してみる。彼女は自分の家族とフットボールをするが、そのとき反則をする。対戦相手にしがみついたり、くすぐったりする。こぼれたボールを拾ってタッチダウンする。ときには、フィールドから走り出て、自分のチームが勝って、それでおしまいと主張する。彼女は、ともかくプレイするなら、楽しさが残らなければならないと強く主張する。(p.186)。
女はルールにしたがってスポーツすることができないどころか、ゲームを壊し、真剣さや楽しみそのものを壊してしまう。っていうかこういうのは他の女性たちに対する侮辱なんじゃないのか?大丈夫なの?次のページp.186のスポーツ参加の話にも注意。わけわからん。
わたしは、ネズミとの関係を確立しなかったし、いつまでも確立しそうもない。ネズミは、わたしに呼びかけない。ネズミは、期待通りには、わたしの家の戸口には現れない。ネズミは、わたしの方に首を伸ばしもしなければ、自らの欲求を鳴いて知らせもしない。ネズミは、ひとを避けることを覚えていて、すばやく走り過ぎていくだけである。さらに、わたしには、ネズミをケアする覚悟ができていない。ネズミに対しては、どのような関係があろうとも感じない。ネズミを苦しめようとは思わないし、そうしたわけで、ネズミに毒をもるのをためらうけれども、機会が生じたら、ネズミを、きれいに駆除してしまおうと思う。(p. 242)
アザラシの赤ん坊の虐殺は、嫌悪感を催すが、ウツボの虐殺は、単なる安堵をもたらす。倫理性に関して心情の果たす役割を認識する際に、感傷的だと非難されるべきではない。(p.245)
これが人間に適用されるとどうなるかと考えただけで恐い。このひとが思ったときに戸口にあらわれないホームレスの人とかどうなるんだろうなあ。
野放しの「ケアの倫理」は「正義の倫理」によって矯正されなければ超保守思想に結びつくかもしれない。実際にノディングスはそう見える。
教育の第一目標として、ケアリングの維持、向上を指し示す際に、わたしは、優先事項に注意を喚起している。もちろん、知的な目標や美的な目標を捨て去るつもりはないけどれど、次の点を提案したいのである。すなわち、知的な課題や美的な評価は、その遂行が倫理的な理想を危うくするとしたら—永続的にではなく、一時的にではあるが—意図的に度外視されるべきである、と。(pp. 268-269)
もちろん倫理的な理想ってのはケアリング関係の維持だろう。これがどれくらい恐しい主張であるか、読者は注意するべきだと思う。
わたしが提案しているところを述べれば、こうである。すなわち、生徒が主題に対して、つらさや無関心を示すときはいつでも、教育者は、引き下がらねばならない。(p. 269)
これは一理あるかもしれんが「いつでも」は絶対にだめ。「関心をひきだす工夫をしましょう」だろうよ。
たえず、学校にかかわる人びとは、「批判的思考」「批判的読解」「批判的推論」といった目標について語っている。わたしたちの批判的技能や、それを発達させるための練習が「P」とか「Q」とか、「PはQを含意する」とかという表現に縛りつけられている限り、学校は、自らの姿を把握していない。巨大な裸の王様の外観を呈すであろう。曇りのない眼で、行いを見る必要がある。対話の目的は、観念と触れ合い、他のひとを理解し、他のひとに出会い、ケアを行う点にある。
クリシン教育には懐疑的なのね。まあ発達段階によるけどね。でもまともな批判的思考を身につけたら、ノディグス先生の言うこと聞いてくれなくなる可能性があるからじゃないの?
いいですか、本気ですが、わたしはこの本、ジョークじゃなくて本当に恐いです。無批判に(読まずに?)称賛している国内の人も恐いです。枝葉にこだわりすぎかなあ。でも単なる枝葉じゃないような気がする。
雑感
ヨナスは品川先生が話題にしていること以外にもいろんなことを言ってるわけだが、もう調べる時間がない。
昨日の合評会のレジュメほしいなあ。
盛永審一郎先生はヨナスの受容でも大きな働きをしている。少なくとも1993年にはその重要性を指摘しているわけだ。 http://ci.nii.ac.jp/naid/40001524258/ すでに品川先生の問題意識を先取りしている。
人間は種として存続可能なのだろうか。人間には動物が持っている「本能的社会」というものがないらしい(注)。それならば、いかにして人間は、種のことを、他人のことを考慮にいれた行為をすることが可能だろうか。(p.25)
注についてるのは日高敏隆先生『動物にとって社会とは何か』1977。まだ日高先生が社会生物学に屈服する前(ローレンツとかの紹介いっしょうけんめいやってたころ?)だね。
CiNiiだと1988年の角田幸彦先生が一番古いのかな。
http://ci.nii.ac.jp/naid/40003633151/
おそらくアネット・ベイヤーなんかはヒュームを正しく理解し援用しているんだな。
もう新しい文献読むのやめなきゃ。
あら?オーキンもってるぞ!まあ読む時間はない。
*1:まだ原書届かないけどseriousかなあ。
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