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高橋昌一郎先生の功利主義理解

なかなかおもしろそうな本。肉食、代理母、死刑、終身刑、メーガン法、売買春、安楽死、自殺とおもしろそうなネタがてんこもり。ゆっくり読んでみよう。なるほどこういう論述はおもしろいかもしれない。

とりあえず、

ハリー (略)どちらかというと、私は自分自身を快楽主義者に分類したいと思います。私は、人生における自分の喜びが最大になるように計算しながら行動しているのです。ただ、だからといって、ジョージほど利己的でもありません。私は、自分自身に対してほどではありませんが、他人の幸福にも何らかの価値を認めています。そして、長期的に見れば、私がいつも正直であれば、私は最も幸福でいられるだろうという理性的な根拠が十分あるのです。

(略)
教授 ハリーの主張していることが、「最大多数の最大幸福」と呼ばれる功利主義のスローガンですね。ベンサムは、社会全体の「幸福」は、個人の「快楽」の総計だと考えました。一人より二人、二人より三人と、より多くの個人が、より多くの快楽を得ることのできる社会を目指すべきであり、それが新しい道徳だと考えたわけです。(p. 56、強調原文)

うーん、なんか困るなあ。ハリーさんは功利主義者ではなく単なる(善意benevolanceも持ちあわせた)合理的利己主義者なのではないか。功利主義者であるためには、「誰もを一人と数え、誰も一人以上には数えない」、つまり、誰の幸福(ベンサムの場合快楽と苦痛の欠如)をも同じに扱う必要がある。自分を特別扱いに するハリーさんは(一応)功利主義者ではない。もちろん、功利主義者は、皆がハリーさんのように自分の幸福をまず考え、他人にも一定の配慮をするように考えることが、長い目で見れば社会の幸福を促進すると考えるかもしれない。でも自分を特別あつかいにするのは功利主義じゃないのははっきりしている。

また、ベンサムは社会の「幸福」と個人の「快楽」とかってのも(とりあえず)使い分けてない。「より多く」はいいんだけど、数はあんまり関係ない。うーん。

まあハリーさんが規則功利主義者や間接的功利主義者である可能性は十分ありそうだけど、上のハリーさんの言い分そのものは功利主義的ではないと思う。こういう例文の出典らしいスマリヤンがおかしいのかな。

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これまだ見つけられません → 教えてもらいました

に書いた「社会の幸福を有意義かつ正当に増大」の出典調査中。英文ざらっと見ても見つけられない。誰か助けて。

特に重い先天的障害をもつ生命は不幸なものだから、障害をもつ新生児を殺すことによって、「社会の幸福を有意義かつ正当に増大することができるだろう」(トゥーリー[1988:39])

出典がまちがっている。トゥーリー1988は文献表によれば加藤尚武・飯田亘之(編)『バイオエシックスの基礎』東海大学出版会1988だが、39ページはトゥーリーの論文ではなくプチェッティの論文。あれ、この一文は前にも見たことがあるが、出典があやしいぞ。あら、これ翻訳(抄訳)に出てこないんじゃないかな(原典にはあるかもしれんけど)。またエライこと発見してしまったかもしれん。まああとで調査。ぐびぐび。

だれかのロンブンでも同じ引用文を読んだことがあるんだ。だれだったかなあ。

For in the vast majority of cases in which infanticide is desirable, its desirability will be apparent within a short time after birth. Since it is virtually certain that an infant at such a stage of its development does not possess the concept of a continuing self, and thus does not possess a serious right to life, there is excellent reason to believe that infanticide is morally permissible in most cases where it is otherwise desirable.

っていう文章はあるんだけどね。(最後から二つ目のパラグラフ)。和訳では

嬰児殺しが希望される大多数のケースでは、出産後の短い時間内に嬰児殺しの希望がはっきりする。生長のその段階の嬰児が持続的自己の概念を所有せず、したがって、生存する重大な権利を所有していないのは、事実上確実である。それゆえ、何かの理由で嬰児殺しが望まれるほとんどのケースで、嬰児殺しは道徳的に許されうる、ということを信じてよい十全な理由が存在することになる。 (p.109)

まあたいていの人にとって恐るべき結論だ。ただし訳文の「希望」はちょっと訳しすぎかも。(なんらの理由からもうちょっと客観的に)「望ましい」だろう。嬰児殺しって書いちゃうとどうしたって「面倒だから殺しちゃう」とかそういうのを考えてしまうけど、このころに問題になってたののは新生児を殺すってよりは、治療をひかえて死なせること。これもかなり多くの人が非常に強い抵抗を感じると思う。私も感じる。

でもまあ考えてみなきゃならないのは、たとえば超未熟児(超低体重児)に対する対応なんだよな。

超低出生体重児-新しい管理指針

超低出生体重児-新しい管理指針

この本で東京女子医大の仁志田先生たちは、24週500g未満の新生児を助けることさえ可能になってるんだけど*1、どうにも予後が悪いので、「生育限界」という考え方を入れなきゃならんのではないかと提唱している。

日本全体のコンセンサスとして、このくらいの児は治療を受けるべきであるとするレベル、すなわち一般的な同意としての生育限界は28週、1,000g前後であろう。この生育限界以上の児は、どこで生まれようともすべての日本人同様に現在の医療のレベルを受ける権利があると考えるべきである。 (p. 27)

ということらしい。逆に言うと、28週未満の子はそういう権利がないかもしれない(治療せず死なせることも許されるかもしれない)ということを含意していることに注意。もしどんな新生児も生きる「権利」や治療を受ける「権利」をもっているのならば、仁志田先生たちの立場は道徳的に許容できない。したがってなにがなんでも治療するべきだってことになってしまうかもしれない。「権利」っていうのはそういう厳しい意味で理解されるべきで、たんなる「道徳的配慮の対象となる」ってのとは区別されるべきだ。

これほんとに難しい問題で、私はこういうのを考えようとすると頭がマヒしてしまうのを感じる。産科のお医者が減ってるとかってのもこういうのと関係しているのかなあと想像している。

おしえてもらいました。

Kさんに教えていただきました。ありがとうございます。第1節の最後の方にある。もっと後の方にあると思いこんで目に入っていませんでした。ほんとに私は目のなかに丸太はいってても気づかないだろう。

Most people would prefer to raise children who do not suffer from gross deformities or from severe physical, emotional, or intellectual handicaps. If it could be shown that there is no moral objection to infanticide the happiness of society could be significantly and justifiably increased.

翻訳にもちゃんとある。

たいがいの人は子どもを育てるからには、重大な欠陥や重い肉体的・感情的・知的なハンディキャップを背負っていない子どもの方がいいと思う。もし嬰児殺しに対して道徳的反論が存在しないことを示すことができたなら、社会の幸福 happiness of societyを有意義かつ正当に増加させることが可能となるのである。 (邦訳p.96)

「重大な欠陥」は「著しい形成異常」かなあ。”suffer from”ももうちょっと子ども本人の主観的な苦しみだってのを訳出したいような*2。If ~ couldの仮定法の感じも本当はもうちょっと出したい(「もし仮に~できるならば、~できるだろう」)し、significantlyはコメントにあるように「有意義」はちょっと違うけど、これくらいだと思う。まあなんにしてもちゃんと出典あります。

ついでにその次のパラグラフの文章も紹介。

The typical reaction to infanticide is like the reaction to incest or cannibalism, or the reaction of previous generations to masturbation or oral sex. The response, rather than appealing to carefully formulated moral principles, is primarily visceral. When philosophers themselves respond in this way, offering no arguments, and dismissing infanticide out of hand, it is reasonable to suspect that one is dealing with a taboo rather than with a rational prohibition. I shall attempt to show that his is in fact the case.

嬰児殺しは、それが引き起こす強い感情[的反発]という点においてもまた興味深い。嬰児殺しに対する典型的な反応は、近親相姦や食人に対する反応、あるいはマスターベーションやオーラル・セックスに対する古い世代の反応に似ている。その反応は、注意深く形成された道徳原理に訴えるものというよりも、むしろ主として本能的な[反発]であると言った方がよい。哲学者自身が、何の議論も提出せずに嬰児殺しの問題を却下し、さきに述べたような反応を見せるとき、その哲学者は嬰児殺しを理性的に禁じたのではなく、むしろタブーとして扱ったのではないか、と疑ってみる必要がある。事実そのとおりであることを私は示してみようと思う。(p.96)

primarily visceral は、「主として本能的な反発」でもいいけど、「まずなによりはらわたからの反発なのだ」ぐらい?哲学者はタブーを破って合理的な議論をしろとトゥーリー先生は言いたいのだろうが、まあ実際この問題を考えると頭はマヒし、考えただけで「胸が悪くなる」「吐きそうだ」と思う人は多いだろう。

おそらく国内で最も急進的な功利主義者である安藤馨先生は、『統治と功利』で

肉食の肯定について一貫的な立場を採るなら、親や周囲の愛情や配慮という外在的な要因が総て取り除かれるならば新生児を食用のために殺すことも原理的には否定されないだろう。(p.244)

とか書いちゃうわけだが、私はこういう書き方はできないなあ。こういうあざといはっきりした書き方をしちゃうから功利主義者はアレだと言われてしまうわけだが*3、まじめに考えれば安藤先生の主張はかなり説得力がある。それにこれも前提に注意。

オーラルセックスやマスターベーションやホモセクシュアルや人種間結婚に対する態度はずいぶん変ったけど、近親相姦や食人のタブーはもっと深く普遍的でなかなか変わらん。新生児治療停止に対する反発はどっちに近いか。

あともうちょっと「権利」について補足しておくと、「治療の予後が悪いことが予測される超低出生体重新生児は治療を受ける権利がない」という考え方は、「新生児はみんなそういう権利がない」という考え方よりもおそらくさらに受けいれにくい前提を必要とする。「権利」は難しい。

*1:人工子宮なんてのは、受精卵や胚の方からではなく、こっちがわから試行錯誤で攻めていけばいずれは実現されるのかもなあ。でもおそらくそれまでの過程がどこか非人道的になるのかもしれない。こういう発想は自分で考えてもショッキング。

*2:もちろんここから「社会の幸福を増大」させるってことにつなげるには問題の「非同一性問題」を解かないとならない。

*3:あと、「それを知る人々に与える不快感」とかも外在的な要因にはっきり数えあげた方がいいかも

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小谷野先生の『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』

小谷野敦先生は私が敬愛する人の一人。おもしろいことを色々書いていらっしゃる。共感するところも多い。一回は御著書についてなんか書いてみてかった。死刑の問題については最近興味があるので読んでみよう。

それは対偶ではないですよ。

・・・これを、当為命題の形で言うなら「何の罪もない人を殺してはいけない」になるだろう。しかし、それと同値である対偶命題は、「罪のある人は、殺してもいい場合がある」になる。(p.9)

対偶関係ってのは、「P⊃Q」に対して「¬Q⊃¬P」。当為がはいっているやつは面倒なときがあるのかもしれないが、面倒なのでとりあえず単純に「Xには何も罪がない」をP、「Xを殺してはいけない」をQとすると、対偶の¬Qは「Xを殺してはいけないわけではない」、¬Pは「Xには何の罪がないわけではない」。だから、対偶は「Xを殺してはいけないわけではないのならば、Xには何の罪もないわけではない。」もうちょっと日常語に近くすると、「Xを殺してよいならばXにはなんか罪がある」ぐらいか。(正確じゃないけど)

「罪のある人は、殺してもいい場合がある」はPとQで書きなおすと、・・・ええと・・・頭悪いからわからん。これ否定がはいってるからなおさら面倒なんだな。

もっと正確にするために「Xには罪がある」をR、「Xを殺してよい」をSとすると、もとの「何の罪もない人を殺してはいけない」は¬R⊃¬S。対偶は¬¬S⊃¬¬R。「Xを殺してよいわけではないわけではない」ならば「Xには罪があるわけではないわけではない。二重否定はふつう肯定にしてよいので、S⊃R。「Xを殺してよい」ならば「Xには罪がある。」。

ふむ、やっぱり小谷野先生のは対偶命題じゃない。「何の罪もない人は殺してはいけない」と主張する人が、「罪のある人も殺してはいけない」と主張してもなにも矛盾はないし。

小谷野先生は鋭い視点が売りなんだけど、論理的な推論が苦手のようで時々
気になるんだよな。これは本論いきなり2ページ目だったからとてつもなく
目についてしまう。三浦先生とは知り合いのようだから『論理トレーニング』ぐらいは読んだのかな。

まあ小谷野先生の名誉のために言っておけば、この文章のつづき

・・人々は、「何の罪もない人々を殺傷し」とテロリストや殺人者を非難する時、暗に、というよりはっきりと、「罪のある者は、場合によっては殺してもいい」ということを認めているのだ。

ってのはほぼ正しいだろう。(しかしこれは論理的な含意ではない)ここらへんの論理関係はたしかに素人には直観に反するので理解しにくいのだ。でも「対偶」とかって言葉を使うひとはちゃんと勉強しとかなきゃならん。

死刑制度の変遷

p.9-24あたりの歴史的叙述はおもしろいなあ。いろいろ知らなかったことが
書かれている。小谷野先生はこういうのがすばらしい。

ただし、

・・・死刑を廃止したヨーロッパ諸国は、キリスト教国である。キリスト教ならば、「ロマ人への手紙」にある「復讐するは我にあり」、つまり、人が人に復讐するべきではなく、紙の手に委ねるべきだという思想があり、死後、人々は紙の国へ行き、最後の侵犯によって悪人は裁かれる、という「信仰」がある。(p.20)

はどうか。ヨーロッパでも死刑はどうかと思われはじめたのはせいぜい18世紀だろう。ベッカーリアもベンサムも無神論的傾向が強かったはずで、キリスト教と死刑廃止が理論的にどの程度関係があるのはかちゃんと立証してもらいたいところ。

ちなみに当該個所は「ローマ人への手紙」12章19節。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」あたり。このパウロが引用している言葉がどこから来てるかは未調査。

あとまあ、団藤先生が死刑廃止運動のトップにまつりあげられたのはたしかに廃止派にとってあんまりよくなかったよな。ここらへんの指摘は小谷野先生鋭い。

改心しない悪人

「「嘘つきや卑怯者、乱暴者は、たいてい、悔い改めないまま一生を終わる。最近の社会生物学によれば、こうした性質はほぼ先天的なものだという。」(p.28)かなり大胆な主張だが、小谷野先生にしてめずらしく出典がついていない。私はそういう趣旨のは読んだことないなあ。

復讐、および社会からの排除が、刑罰の意義の中心をなすと私は考える。復讐とは、人類にとって普遍的な心情であり行為なのである。(p.29)

この本の中心的な主張なのだろうが、これがまさに死刑や刑罰に関する論争の中心的論争点だということを小谷野先生はどの程度自覚しているだろうか。

教科書的に言って、復讐心が「人類の普遍的な心情」であることは、死刑肯定派否定派にかかわらず、ほとんどの論者が認めると思う。また、「社会からの排除」は強すぎるが、「犯罪の抑止」が刑罰の主要な目的であることもほとんどの論者が認める。ふつう、「抑止」は、犯人の再発を防ぐ「特殊予防」と、一般の人々の同様の犯罪を防ぐ「一般予防」の二つに分けられ、「特殊予防」は教育、匡正、威嚇、隔離など、一般予防はいわゆる見せしめってことになる。ここらへんまではどういう人でも力点の差はあってもほとんどの人が認めると思う。

しかし、「復讐」が(国家による)刑罰の意義(「目的」?)がどうかは議論が分かれる。国家には市民の安全を保証する責務があるのだから犯罪を抑止する必要はあるわけだが、「復讐」を国家が市民にかわって行なう理由があるのかどうか。もちろんあるという主張をする人々は多いし、そのひとびとの多くは国家は被害者から復讐する権利を奪っているのだから、その肩代わりをしなければならないと主張するわけだ。でもその議論は簡単にはいかんので、十分な論証が欲しいところ。

小谷野先生は上の文章に続いて、「人はそれを野蛮だと言うのだろうか。」と書くのだが、野蛮かどうかではなく国家の機能がどうかという話をしてほしかったところ。

「遺族」は被害者の代理たりうるか

団藤も、多くの論者は、死刑廃止への反対論は、被害者遺族の感情を基礎としている、と言う。けれど、では被害者当人の報復感情はどうなるのか。誰も、死んでしまった者にそれを尋ねることはできない。しかし、彼に殺された当人の気持ちを尋ねれば、もしかすると天国にいてすべてを許す気になっているかもしれないが、遺族より遥かに強烈な復讐心を抱いているかもしれない。(pp.30-31)

小谷野先生は基本的に経験的に立証できることを重視して、こういう実証も反証もできないようなことは言わない人だという印象があったのだが。
筆がすべった?

まあどうでもよいことだが、私自身が近親縁者を殺されたら自分で殺しに行くですけどね。でもそれが国家がやるべきことなのかどうかはわからん。そしてそれは被害者本人の感情とはなんの関係もないかもしれんなあ。

この文脈で出てくるのが、小谷野先生のかなりオリジナルな主張だ。

「復讐」は、遺族の感情の満足のためではなく、被害者本人を代理して行なわれるべきものなのである。(p.33)

これをどう解釈するかはかなり難しい。ひとつの解釈は、復讐行為を行なう人々の心理的事実として、彼らは「自分の感情の満足のためではなく、被害者のためにやっているのだ」と感じている、というもの。これはおそらく事実として正しい。上で私は「被害者本人の感情とはなんの関係もないかも」と書いたのは、客観的に見ればかなり異常で、ふつうは「彼の(彼女の)恨みをはらす」という形になるだろう。

しかし小谷野先生はこれを「行なわれるべき」だと書く。この「べき」はどこから来ているのか。なぜ被害者(の感情)を代理すしなければならないのか。また、死者の感情ってのをどう考えるべきだと小谷野先生は考えているのか。そういうものが存在するのかどうか。そして復讐が成功したとしても、それによって
(あると主張されている)死者の感情になんらかの変化が生じるのかどうか。復讐が成功したかどうかは(おそらく)死者は知りえないだろうし。もちろん死者が天国からこの世界を見ていれば別だが、そういう形而上学的な主張にコミットしないと小谷野先生の主張は出てこないように見えるが、それでもOKなのかどうか。

ここから小谷野先生はさらにオリジナルな主張に進む。正直おもしろい。

私が「仇討ち制度」復活に賛同しかねるのは、実現の困難以上に、この理由による。呉は、仇討ちの権利を個人から国家が奪ったというが、逆に言うならば、仇を討ってくれるような家族がいない者(殺された者)にも、国家が代わって復讐する権利を与えたとも言えるのである。(p.33)

なんかよくわからんがすばらしい。そういう孤立した人間に思いを馳せることができるのが小谷野先生のすばらしいところ、私はそういうところが好きなんだなと確認。

残りの部分

残りの部分は国内のだめな廃止論者の論評とかフィクションの論評とかそういうの。それなりにおもしろいけど特に感じるところなし。

全体として、小谷野先生が「復讐」に注目しているのはよいのだが、それと国家の関係がよくわからんので死刑についての議論としてはあんまりおもしろくなかった。でもまあこんなものかな。団藤先生流の方針じゃない廃止論を誰かが紹介してくれればいいんだけどなあ。

復讐感情については、「死者の感情」とか解釈に苦しむものを導入しなくても、J.S.ミルの議論(ex. 『功利主義論』の第4章とか)にある「共感」とか参考にすれば、もうちょっとまともなことが言えそうな気がするんだが。「われわれは動物と共通に危害を加えられたらそれに報復する感情をもっていて、さらに人間は動物より拡大された共感の能力によって、共同体の仲間に加えられた危害についても同じような報復の感情を抱く」とかそういう感じ。まあ小谷野先生はそこらへんはあんまり興味ないかもしれない。

あと、まああれだ。小谷野先生が悪人はある程度先天的に決まってるとか更生させるのは難しいとかってほのめかしているのはどうなんかな。別にいいんだけど、私だってヤノマモ族のような環境に生まれてたら人の一人や二人は殺したろうし、場合によっては強姦とかもするだろうし。まあ反社会的な人々がいるってのはもちろん認めるけど。わからん。

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