非常勤問題と正義

私は で不用意に
「大学こそは昔から「不平等」という意味での不正義のスクツです」
とか書いちゃったら、http://d.hatena.ne.jp/satoshi_kodama/20080806#1218005891
で正義ってなんだって(暗に)つっこまれてしまったわけだが、ちょっと考えてみないとな。

非常勤の待遇が「正義に反してる」っていう感覚はどっから来てるのか
ってことだわね。
たしかに労働基準法に反しているわけでも、第三者によるひどい賃金ピンハネがあるわけでも、
格差そのものが不正だといっているわけでもない。好きなこと好きにする金を出せと
言っているわけでもない。んじゃ何か?私が「正義に反するなあ」とか書きたくなった
ときに私の頭にあったものはなにか。

児玉先生があげているなかでは、搾取とか、だめ中年が女子大でうはうはいってるのに
優秀な若者が職につけない不公正とかがポイントな気がするんだが、まあ
誰かが「正義」とかもちだすときはもうちょっと別のことを主張しようとしてる
可能性があるんじゃないかと思っている。

私が「正義」について議論されているのを見聞きするときに一番強く感じるのは、
「正義」ってのはたんなるルールの問題ではないかもしれんってことだわなあ。
ある種の倫理学者や政治学者は、適正な手続きにもとづいていれば
それが「正義」だってことを簡単に認めすぎる。「正義」について語るとき、
「正義のルール」ではなく「正義という感情」について語っているのかもしれない。

またミル先生出しちゃうけど(もう本当になんとかの一つおぼえなんだけど、使いやすいんだわな)。

To recapitulate: the idea of justice supposes two things; a rule of conduct, and a
sentiment which sanctions the rule. The first must be supposed common to all mankind, and
intended for their good. The other (the sentiment) is a desire that punishment may be
suffered by those who infringe the rule. There is involved, in addition, the conception of
some definite person who suffers by the infringement; whose rights (to use the expression
appropriated to the case) are violated by it. And the sentiment of justice appears to me
to be, the animal desire to repel or retaliate a hurt or damage to oneself, or to those
with whom one sympathises, widened so as to include all persons, by the human capacity of
enlarged sympathy, and the human conception of intelligent self-interest. From the latter
elements, the feeling derives its morality; from the former, its peculiar impressiveness,
and energy of self-assertion.

要約すると次のようになる。
正義の観念は二つのものを前提している。行動のルールと、そのルールを是認する心情である。前
者は人類全部に共通で、人類の善をめざすものであると想定されていなければならない。後者はその
ルールを侵そうとするものは罰を与えられてもかまわないという欲求である。さらに、(正義の観念
には)その侵害によって苦しんでいる特定の人の観念—そのひとの権利が侵害された—も含まれて
いる。そして正義の心情とは、自分または自分が共感をいだいている人びとに対してなされた危害や
損害に対して反撃し仕返ししようという動物的な欲求が、人類の拡張された共感能力と、知的な自己
利益の観念によって、すべての人を含むほど拡大されたものであると、私には思える。
正義の感情は、後者の要素[共感や利己心]から、その道徳性をひきだしており、また
前者の要素[復讐心]からその特有の強烈さと自己肯定のエネルギーを得ているのである。 ミル『功利主義論』第5章*1

「正義に反してるぞ」とか「正義を実現しろ」とか言うときってのは、 なんかその背後には強い憤りのような感情がある*2
さらにその憤りは、誰かの権利が侵害されているとか、誰かが傷つけられているとかって
認識がある。それが共感とかによって拡張されているのが正義の感覚と。

んで、ちょっと前の記事で大学の非常勤の扱いは正義に反していると
私が書いてしまったときには、どうも常勤職の待遇と比べてあまりにも不平等だってことだけじゃなくて
なんか専業非常勤って仕事自体が人を傷つけるところがあると感じてたみたい。
はてブ見てたら
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060429/p1
がそこらへん重要なところに触れているように思う。

まああんまり自分でもはっきり意識してなかったけど、猿虎先生のようなことは
いろいろ感じていて、それが一昨日のエントリ

の細かい改善箇所なんかに反映しているように思う。たとえば猿虎の人は
「同僚がいない」って孤独感を述べてるけど、これほんとに深刻なんよね。居場所がない。 常にアウェーでホームがない*3。大学行っても
いる場所がないし、講師控え室とかお互いにストレンジャーどうしの透明人間の部屋。
大学関係者が一番孤独を感じる場所は大学非常勤控室だ。
いまはまあどこの大学行こうが平気だけど、むかしはずいぶんつらい思いをした記憶がある。
(あ、行ってたの名誉のために書いておくと、どこもまともでちゃんと配慮してもらってるところばっかりだったけど、それでもけっこうつらかった)
専業非常勤講師ってのは他にもほんのちょっとしたことに傷つく弱い存在なんだわな。 専業非常勤とかやってるとなにかが蝕まれていく感覚がある*4

まあ私の場合は出身研究室の組織がしっかりしていたし、出入り自由にさせてもらったり人びとと顔合わせる機会を作ってもら
ってたんでなんとか生きていけたけど、研究室組織が弱いところ、ばらばらのところ、そこと
うまくやってけないひとなんかは生きていくのもしんどいだろう。読書会や研究会も重要だわね。
でも学生さんと年はなれちゃうと顔も出しにくくなるだろうし、勉強するまとまった時間がとれないとそういうところにも顔出しにくくなって出られなくなっていって死にそうになる。

あれ、なんかまとまらなくなってきたな。えーと。

つまりね、「正義に反する」とかってときに言われているのは
単に行動や分配のルールだけじゃないかもしれないわけだ。むしろ
傷つきやすさやそれに対する配慮にもとづいたもんかもしれんし、 そしてそれが欠けていることに対する怒りだったりする*5
「正義」がたんなるルールや分配の手続的な公正さに関するものだと思いこんでしまうのは非常に危険に
見える。そこらへんで先月やってた「ケアの~」「耳をかたむけて~」とかやりたい人びとが考えていることには
共感しないでもないわな、とか。そういうこと考えた。なんか頭の調子悪くていつもにもまして
まとまりがわるすぎるけどまあメモ。

*1:中公の訳はこの部分かなりあやしいので訳しなおした。

*2:もしかしたら「処罰感情」は強すぎるかもしれない。

*3:いまどこいっても平気なのはホームがあるから。

*4:同じことは他のいろんな仕事についても言えると思う。日雇いバイトはつらい。私の場合、自分で物理的・社会的環境を変えていくことができないときに特にとてもつらい。

*5:「正義」なんて曖昧な言葉を使わず、そこらへんちゃんと書くべきだったかもしれん。

レポートについてつらつらその後:いっこ忘れてた

あ、昨日の記事ですごく大事ことを書きわすれたからインフォメーションとして書いとこう。 特にsjs7学兄あてってわけじゃない*1

そういう「正しいレポートの形式」とかを一生懸命勉強して、そのような形でレポートがあらねばならないと思って、それで正しいレポートが書けるようになったとしても、それによってレポートを書くのが「楽しくない」と思ってしまったら、元も子もないと思うからなんだよね。http://d.hatena.ne.jp/sjs7/20080730/1217428542 (誤記らしきものは訂正した)

このタイプの主張は他でも時々みかけるんだけど、こういうタイプの不安にはけっこう強力な反論がある。それは、いったんまともな書き方、考え方がどんなものであるのかを知れば、それを知った人がそれによって(たとえば)レポートを書くことが楽しくないと思うようにはならない、ってことだわね。レポートだけじゃなく、ブログだろうがなんだろうが、よい書き方がどういうものかを知ってしまった人が、それを知らなかった状態に戻りたいと思うことは本当にめったにない。「正しい書き方なんて知らなかった方がおもしろく書いてたなあ」とか思うことが経験的にほとんどないのね。実際にはむしろ楽しくなる。どういうわけか発展の方向は一方通行なのね。

同じようなことは音楽とかでもあって、和音その他のポピュラー音楽理論をまだ知らない人が「そんなん勉強したらオリジナリティなくなっちゃう」とかわけわからないことを言うことがあるけど、いったん楽譜の読み方や和声理論を勉強した人が「勉強しなきゃよかった」「楽器弾くのが楽しくなくなった」とか言うことは滅多にない。実際のところ見たことがない。美術系だとデッサンの練習とかまあいろんな分野で同じ
ことがいえるはず。

もちろんこれは人類の経験としてそういうことはめったにないってだけで、原理的にありえない、可能性としてまったくありえないって話ではない。そういう人も少数でもいるかもしれないし、「俺は勉強するんじゃなかった」とか言うひともごくまれにまあいるんだろうけど、それよりずっと多くの人が「あんとき勉強しときゃよかった」とか「いまからでも勉強しなきゃ」って思っている。そういうんで、少なくとも平凡な人間にとっては、まあ、多数の人びとの長い間の経験は尊重に値する。学問とかその他のいろんな知識や技術ってのはそういう多数の人びとの経験と努力のよせあつめなわけで、大学教員とかはそういうものを尊重する。っていうかそういうのがおそらく大学だけじゃなくてすべての教員の任務。だからそういうものの価値に気づいていない人間が大声で叫んでたら(余力があれば)攻撃するし、学生ならば単位を盾に説教して回心するよううながし、同業者でおかしなことを言っている人間がいたら叩き出すよう努力する。

私の好きなエリート主義者・完成主義者ミル先生はこんなこと言ってる。高校「倫理」の教科書にも載ってるような超有名な箇所。

それでは快楽の質の差とは何を意味するか。量が多いということでなく、快楽そのものとしてほかの快楽より価値が大きいとされるのは何によるのか。こうたずねられたら、こたえは一つしかない。二つの快楽のうち、両方を経験した人が全部またはほぼ全部、道徳的義務感と関係なく決然と選ぶほうが、より望ましい快楽である。両方をよく知っている人々が二つの快楽の一方をはるかに高く評価して、他方より大きい不満がともなうことを承知のうえで選び、他方の快楽を味わえるかぎりたっぷり与えられてももとの快楽を捨てようとしなければ、選ばれた快楽の享受が質的にすぐてれいて量を圧倒しているため、比較するとき量をほとんど問題にしなくてよいと考えてさしつかえない。

ところで、両方を等しく知り、等しく感得し享受できる人々が、自分のもっている高級な能力を使うような生活態度を断然選びとることは疑いのない事実である。畜生の快楽をたっぷり与える約束がされたからとって、何らかの下等動物に変わることに同意する人はまずなかろう。馬鹿やのろまや悪者のほうが自分たち以上に自己の運命に満足していることを知ったところで、頭のいい人が馬鹿になろうとは考えないだろうし、教育ある人間が無学者に、親切で良心的な人が
下劣な我利我利亡者になろうとは思わないだろう。
こういう人たちは、馬鹿者たちと共通してもっている欲望を全部、もっとも完全に満足させられても、馬鹿者たちより余分にもっているものを放棄しないだろう。(J. S. ミル、『功利主義論』、早坂忠訳、中公世界の名著『ベンサム・ミル』、下線はこのブログ書いてる人間。)

ここは、まあ、読みようによってはひどい文章だし、つめてみるといろいろ問題がある箇所でもあるんだけど、レポートや一般に文章に関していえば、いったん高級な能力を身につけた人がもとの状態に戻ろうとすることはほとんどない、ってことだけははっきり言えるだろうと思う。私ももっと高級な能力を身につけたい。もしこういう考え方に興味や反感を感じたら、そういうのをまともに読んでみればよいと思う。そうすれば、やっと大学での勉強とかっての仲間入りしたことになるんだと思う。ところがそうすると、どういうわけかこれがもとの状態にはなかなか戻れなくなるんだわな。そしてその方が楽しい。うははははあ。

*1:けどまあ、暴れ方にいろいろ感じるところがなかったわけではない。

まだ文献あつめ

ヨナスには興味はないが。

尾形敬次先生

  • 尾形敬次「存在から当為へ:ハンス・ヨナスの未来倫理」 http://ci.nii.ac.jp/naid/110006273675/ 。ほう、これは役に立つ。

    ヨナスの思想は一般の人びとや政治家たちには高く評価されている。連邦政府の現政権党である社会民主党は積極的にヨナスの思想を自分たちの政策に導入してきた。一方、大学の哲学研究者の間での評価は必ずしも高いとはいえないらしい。

  • なるほど、そうだろうな。

    「我々の議論は証明ではない。なぜならそれは証明不可能な公理的前提に結びついているからである。すなわち、第一には責任能力そのものが「善」であること、したがってその存在は非存在よりも優っていること、そして第二には、そもそも存在に根ざす「価値」があること、つまり存在が「客観的」価値を有すること、これらの前提である」(PUMV, S.139)

  • あら、こんなこと言ってるのか。まあそりゃそういうことになるわな。しかしこんなもの前提していいんだった、もはや形而上学いらんだろう。最初っから「人間の生には価値がある」だけで十分。なんだかなあ。
  • 太田明先生の「責任とその原型」(1)~(4)。「予防原則」とか。なるほど。上の尾形先生の社会民主党との関係の指摘とあわせて、やっとヨナスがなんで重要とされているのかわかってきたような気がする。やっぱりここらへんは政治的状況みたいなんとあわせて理解しないとだめだったわけだ。反省。
  • 盛永審一郎先生の「状況的責任から配慮責任へ」。ふむ、だんだんヨナスに魅力を感じている人びとのことがわかってきたような気がする。
  • それにしても、環境保護とか「世代間倫理」とかってのがそんな問題だったとは。私にはほとんど自明に見えててから、本気で悩んでいるひとがいるのがよくわからなかった。
  • っていうか、私の関心のありかたがなんかおかしいのかね。なんでかな?
  • 坪井雅史先生の「ケアの倫理と環境倫理」も重要そうな気がするけど、すぐに入手できん。そうか、坪井先生も品川先生と同じような傾向が好きなんだよな。

ヒューム先生は偉大すぎる

  • 超名著『道徳原理の研究』。http://www.anselm.edu/homepage/dbanach/Hume-Enquiry%20Concerning%20Morals.htm#sec3
  • 公共の有用性が正義の唯一の起源ですよ。正義の唯一の価値はその帰結にありますよ。
  • もし資源がふんだんにあったら正義なんて必要ないのです。 “the cautious, jealous virtue of justice” のjealousってどういう意味なんかな。まあ訳本通り「猜疑心の強い」でいいのか。
  • それから、もし人びとが無制限な仁愛もってたらやっぱり正義なんて必要ないですよ。「この場合には、正義の使用は、かくのごとき広大な仁愛によって停止され、所有権および責務の
    分割と協会とは決して案出されなかったであろうことは明白と思われる。」
  • 家族愛も仁愛の一種です。「人間の心の気質が現在の状態にあっては、かかる広大な愛情の完璧な実例を見出すことは、おそらく困難であろう。しかしそれでもなお、家族の場合がそれに近いこと、そして家族の一人一人の間の相互の仁愛が強ければ強いほど、益々それに近づき、
    遂には彼らの間で所有権のあらゆる区分が、大部分失なわれ混同されるに到ることが観察されるであろう。」
  • とか。偉大すぎる。っていうかなんでみんなヒューム読まないんだろう。
  • でも資源があんまり希少な場合も正義なんて関係ないです。「社会があらゆる日常の必需品の非常な不足状態に落ち入り、極度の節約と勤勉を
    もってしても、大多数を死滅から、また全体を極端な悲惨から守ることができないと想定しよう。このような差し迫った非常事態の際には、正義の厳格な法律は停止され、必要と自己保存という一層強力な動機に席を譲ることは容易に承認されると思う。」恐い。そういう状況を経験せずに知ぬまで生きられるといいなあ。
  • 上で使わせてもらってる渡辺峻明先生訳の『道徳原理の研究』が出たのは1993年かあ。あれ、入手困難?っていうか3万円も値段ついてるじゃん!こりゃいかんわ。そりゃ誰も読めないわな。いったい国内の倫理学はどうなってんだ。まあヒューム読む人は英語で読むからいいのか。でもそれでいいのかなあ。英米の哲学科だったら哲学だろうが政治学だろうが、2回生ぐらいで誰でもヒュームざくっと読まされるだろう。国内の学生がそんなやつらと戦うのはたいへんだ。なんか国内の翻訳力リソースを有効につかう方法とか考えるべきなのかも。
  • なんか秘教的な智恵とされてるのは実はヒュームかもしれんな。(国内の一部ではシジウィックがまさに倫理学の奥義あつかいされているわけだが)
  • 『人間知性研究』もなあ。もしかしたら、国内では誰もヒューム読まずに「ケア対正義」の議論やってるかもしれないわけだな。
    やっぱりこの状態はまずいですよ。玄白プロジェクト参加するか。一番やらなきゃならないのはここかもなあ。でも古典の翻訳ってのは恐いからやなんだよな。
  • 「しかしながら、迷信と正義との間には、前者がつまらなく、無益で、
    わずらわしいのに対して、後者は人類の福祉と社会の存続のために絶対的に必要であるという、重大な相違が存するのである」の一文にしびれた。

クーゼ先生はすばらしい

ケアリング―看護婦・女性・倫理

ケアリング―看護婦・女性・倫理

  • クーゼの邦訳届いたので読む(英語はもってるけどパラパラ見ただけだった)。すばらしすぎる。こんなみっちり哲学している看護系の本はじめて読んだ。
  • いちいち確認してないけど、翻訳もしっかりしてると思う(読んだ5~6章は村上弥生先生)。各節に訳者(監訳者?)の要約がついているのもいいなあ。がんばってる。おそらくこのチームっていうかグループっていうか:-)がやった一番よい仕事の一つだと思う。偉い。
  • これ倫理学の入門書としても、哲学的批判の入門としてもずば抜けてるな。使おうかな。
  • とにかくこれ読んでもらえば「ケア対正義論争」とかについてさらに言うべきことはほとんどないような気がする。
  • クーゼには出てくる「献身」などの言葉が品川先生のにはほとんど(一度も?)出てこないのには注意しておく必要がある。
  • それにしてもたしかに看護(や介護)ってのはかなり特殊な職業だよなあ。まあ教師もそうかもしれんのだけど。dispositional care 身につけてないとよい職業人じゃない。あ、もちろん医師もカウンセラーもね。人間を直接に扱う職業に共通か。他になにがあるかな。弁護士や宗教者もか。どんな職業もdispositional care必要だと言いたくなるけど、やっぱりちょっと違う感じがあるなあ。

今日の雑感

  • ヨナスが注目されるのも、ケアが注目されるのも、やっぱり功利主義が正しく理解されてないからではないかという疑念はさらに強まるなあ。
  • 将来世代に配慮する義務、なんて功利主義を採用するなら自明すぎる。
  • でもドイツとかでは功利主義は蛇蝎のごとく嫌われてるわけなんだろう。
  • そうなると社会民主主義や福祉重視とかをバックアップする理論があんまりないってことなんだろうか?中道左派にはどういう理論が必要か、とか?
  • でもこの文脈でヨナスなんか持ちだすのはけっこう危険かもしれん。民主主義あんまり好きそうじゃないもんね。やっぱりアメリカ人が嫌いなんだろうなあ。もちろんナチスも嫌いだったろうけど。
  • どうでもいいけど国内で社会民主主義崩壊したってのはほんとに困るよな。日本共産党の方がその立場に近いんだろうな。いまの自民党と民主党じゃ区別がつかんよ。ひどすぎ。不可識別者同一の原理によって、実は一つの政党なんじゃないか。実質一党独裁なのか。
  • まああの2回の「牛歩」とか見てる世代はおそらくあの人びとを応援することなんかできんわな 1)あれは少なくとも私にはトラウマ。あら、記憶にあるのは87、88年のやつのはずだけど、92年のと混同してるかも。このころには地獄のサバイバル生活送ってて、外界になにも関心がなかった。子どもの頃のロッキード事件、88年のリクルート事件とあわせて、「政治家はぜんぶ悪い人、政治に関心もつことさえ悪いこと」という私のイメージを作ってしまってる。いかん。*1
  • ケアの方はやっぱり保守主義に近いような気がするなあ。アメリカでいえば共和党の方を応援しそうだ。ファミリーバリューはアメリカンバリュー。
  • なんか政治(国内も外国のも国際も)ぜんぜん知らんのは恥ずかしすぐる。
  • やっぱり私がだめだめなのかな。功利主義もヒュームもみんなわかった上でやってんだろうな。ここらへん勘違いするととても恥ずかしいからなあ。

References[ + ]

1. あれは少なくとも私にはトラウマ。あら、記憶にあるのは87、88年のやつのはずだけど、92年のと混同してるかも。このころには地獄のサバイバル生活送ってて、外界になにも関心がなかった。子どもの頃のロッキード事件、88年のリクルート事件とあわせて、「政治家はぜんぶ悪い人、政治に関心もつことさえ悪いこと」という私のイメージを作ってしまってる。いかん。

品川哲彦先生のもゆっくり読もう(7)

  • 久しぶりにちゃんとした哲学者が倫理学考えている本という感じ。
  • ヨナスとケアの倫理に関しては十分に紹介検討されていなかったので、この本は貴重。
  • 全体、しっかり真面目に地道にやっててとてもよい。私も見習いたい。
  • ジョン・ロックのところとかも正確だし。たくさん真面目に勉強してるなあ。
  • 注、文献情報なども充実していていかにも学者の作品でとてもよい。
  • 特に第2部は綿密に研究されていて勉強になる。
  • どうしても最近は英米系の政治哲学・倫理学ばっかり議論されていて、独仏の研究・議論の動向を知ることができる。そっち系のひとはもっとがんばってほしい。脱英米倫理学中心主義!
  • 「現象学の他者論」のところはもっと豊かなはずだし品川先生が一番得意なところなんじゃないだろうか。まあまた別の本でやってもらえるのだろうと期待。

注とか。

  • 全体通して、「どこでもいっしょうけんめい考えてるな」と思いました。見習いたいです。
  • p.285の注25は重要そうだ。これは注にまわさずに本文でやってほしかった。
  • p.292注5。うーん、山形浩生先生のフランクファート解説をまにうけてるな・・・いや、大丈夫だけど。
  • p.295注5。品川流の男性学の予告みたい。森岡先生あたりと問題意識がすごく近いのがわかる。
  • 索引や文献リストも好感もてるなあ。研究書はこうあってほしいね。

他雑多な疑問。

  • 配慮としてのケアと具体的な行為としてのケアをちゃんと分けきれてるかな。どうも一冊を通して文脈によってあっちいったりこっちいったりしている気がする。証拠さがさなきゃならんか。
  • よく話題にされる「ケア」と看護や関係とかどうよ。看護という職業に、この本で言ってるような「ケア」を持ちこむのは私にはアレに見えるから。いわゆる感情労働の問題。あ、文献リストに武井麻子さんがいるな。でも索引には出てこないか。
  • ケア労働。ある意味で、労働になっちゃうのはケアじゃない、とか言えそう。
  • アリストテレスもちだすならやっぱりついでに正義と友愛の関係もチェックしてほしかった。
  • 個人の徳としての正義(やケア)と、社会制度における正義(やケア)の区別がなんか曖昧じゃないかな。まあ区別する必要ないのかな。でもギリガンの場合ははっきりと個人の徳性なり道徳思考の特徴なりを指しているわけで。
  • ノディングスの場合も、なにを/どう教育するかがポイントなわけで。
  • あれ、でもここ私もぼんやりしてるな。ヒントはヒュームあたりにありそうだ。
  • 「〈正義〉はポリス的観点とヘクシス的観点の両方から論じなければなならないのである。」(小山義弘「アリストテレス」、『正義論の諸相』)とかも関係あるかな。
  • オーキンも読まないとならんということか。
  • 「献身」とかっていう理想についても考える必要がありそうでもある。ミル功利主義論第2章。「誰かが自分の幸福を全部犠牲にして他人の幸福に最大の貢献ができるのは、世の中の仕組みが非常に不完全な状態にある場合にかぎられよう。しかし、世の中がこんなに不完全な状態にあるかぎり、いつでも犠牲を払う覚悟をもつことが人間にとって最高の徳であることを私は十分認めるものである。」下線江口。
  • 「ナザレのイエスの黄金律の中に、われわれは功利主義倫理の完全な精神を読みとる。おのれの欲するところを人にほどこし、おのれのごとく隣人を愛せよというのは、功利主義道徳の理想的極地である。」これがケアでなくてなんなのだ、と言いたくなるひともいるわな。

よくいわれることだが、功利主義は人間を冷酷無情にするとか、他人に対する道徳感情を冷却させるとか、行為の結果を冷やかに割り切って考察するだけで、そういう行為をとらせた資質を道徳的に評価しないという非難がある。この主張の意味が、功利主義は、行為者の人間的資質に関する意見が行為の正邪の判定に影響することを許さないということであれば、これは功利主義への不満ではなく、およそなんらかの道徳基準をもつことへの不満である。・・・しかも、人間には、行為の善悪のほかにもわれわれの興味をひくものがあるという事実を、功利説は少しも否定しない。

とはいうものの、功利主義者はやはり、長い目でみたときに善い性格をいちばんよく証明するのものは善い行為しかないと考えており、悪い行為を生みやすい精神的素質を善と認めるようなことは断乎として拒絶することを私は認める。

この反対論の意味するとこころが、功利主義者の多くは行為の善悪をもっぱら功利主義的基準からだけ見ていて、それ以外の、愛すべく敬すべき人間をつくる性格上の美点をあまり重視していないということだけなら、認めてもよい。道徳的感情は開発したものの、共感能力も芸術的感覚も伸ばさなかった功利主義者は、この過ちを犯している。同じ条件のもとでは、どんな立場の道徳論者であっても同じ過ちを犯すはずである。

  • とか使えそうなのが山ほどある。
  • どうも70~80年代の米国の「正義」に関する議論があまりにも貧弱だっただけじゃないの?
  • キルケゴールが「女性の徳は献身である」とかって馬鹿なこと言ってたのも参照したい。

    第11章

    • あ、11章ちゃんと読んでなかった。
    • 第1節、ベナーのケア論。「全人的に介護」なあ。言葉はいいけど。まあ理想としては大事なのかな。職業としての看護において本当に「全人的に」ケアすることって難しそうだ。ナースにそういうのを要求するのは過大な気がする。まあほんとに「全人的」ってわけではないのかな。

    ベナーは徳の倫理と看護を結びつけながら、しかしナースが職業的役割を意識しすぎると、ケアリングができなくなるおそれを指摘していた。(p.246)

    • どういう議論しているか興味あるなあ。もうちょっと詳しく議論してほしかった。
    • デリダ大先生。

    私たちは何らかの共通性や類似性によってたがいを結びつけ、その内部を治める規則、法をもっている。それはひとつのまとまりをもつ集団内部の法、つまり家(oikos)の法(nomos)である。それゆえ、法はまた経済(oikonomia)を意味している。(p.256)

    • すごいな。「それゆえ」がなんともいえん。もひとつ。

    法の埒外にあるものに応答することこそが正義である。正義とは「無限であり、計算不可能であり、規則に反抗し、対称性とは無縁であり、不均質であり、異なる方向性」をもっている。

    • うーん。理解不能。デリダの正義ってのはまったく原則なしの判断なのかな。でたらめにしか見えない。まあデリダ使って「正義」とか語る人たちは、日常的な意味での「正義」とはぜんぜん違うことを語っているのだということがわかった。これは役に立つ。中山竜一先生の本も読み直すべきなんだろうか。でもこんなに日常的なものから離れているんだったら、だったら読む価値なさそうだ。
    • コーネルのところも読みなおすけどわからん。猛烈に抽象的だし。たとえば

    テクストはつねに開かれており、語の意味は特定のコンテクストによって規定しつくすことはできない。まだ書かれていないものが必ず残っている。この「まだない」は先取りされた未来ではない。先取りされるものならば既知の枠組みに回収されうるものだからだ。既存の女性観から導出されたのではない、まだない女性を、コーネルは女性的なもの(the feminine)と読んで女らしさ(feminity江口補)と対置する。(p.257)

    • ほかでは明晰に書いている品川先生がこういうのになると途端にわけわからんようになるのはなぜだろう。こういうの、私は学部学生や院生に教えたりすることができないように思える。 この文章を授業で読んでいる自分が想像できない。*1

    • 一方で、哲学ってのは真面目に勉強さえすりゃわかるもんだという気もしているし、発想や論理のステップなんかを授業で説明したりすることもできるんじゃないかと思ってる。クリプキとかパトナムとかだって勉強すりゃなんとかなると思ってる。でもデリダとかコーネルとかはできんね。なんでかなあ?なんか話に具体性がないんだよな。
    • あ!そうか、こういうのが気になるのは、文章を読んでそれに対応する事例を思いつくのがすごく難しいから気になるんだな。授業では必ずその場で思いついた例を出すのが楽しみなんだけど、それがポストモダンな人びとについてはできそうにない。それやろうとするとふつうの(「モダン」?)な説明になっちゃうからだな。
    • だめだ。品川先生の本のなかでも大事なところなのになにも納得できない。センスないなあ。でもここで言おうとしているのが、「どう違ってるかは言えないけどとにかく違ってる」とかってことだとすれば、とても納得するわけにはいかんわなあ。まあだから私は「他者」とかわかっとらん。でも誰かもっと親切に教えてくれてもよさそうなものだ。いきなりこんな秘教的になるのはどっか不正だとさえ思う。
    • p.263の男性論はおもしろいよね。前にも書いたけど森岡先生とかと近い。あと蔦森樹先生や宗像恵先生とかと問題意識を共有してるなあ。

    立山善康先生の「正義とケア」はよい

    (リベラリズムは)自然法思想に基づいて、人間の最も根源的な価値を天賦の自由に求め、個々人の自律的な生の保障を政治・社会の構成原理とする理論である。したがって、リベラリズムは本来的には、個人の自由を最大限に確保するために、政府の介入をできるかぎり排除する見地であるが、今日では、個人がその自由を行使するために必要な社会的・経済的に平等な基盤を保障するために、再配分政策の必要性を認めざるをえないところから、そのために政府の積極的な介入も容認するという、一見したところ本来の主張と正反対であるかのような立場も取っている。(p.347)

    • どっちやねん、とか。ふうむ、でもこういうのがふつうの業界(どこ?)でのふつうの理解なんかもしれないなあ。

    正義とケアの二元論を解決する方法は、理論的には次の三通りしかない。つまり、(1)正義がケアを内包した概念であるとみなすか、逆に(2)ケアが正義を抱摂した概念であると考えるか、それとも(3)両立が可能ないっそう包括的な理論的視座を見いだすかである。(p.357)

    • 品川先生も基本的にこの問題の枠組を受けいれてるわけだな。しかしここで言ってる「正義」「ケア」ってのはなんなんだ?思考方法?規範的価値?
    • まあ「どっちが優先するか」とかって問いだと考えるなら、まあ功利主義をとれば(3)で素直にいけるわけだが。
    • あ、役に立つロールズの引用発見。「一貫して、わたしは正義を社会的諸制度、あるいはわたしが実践と呼ぼうとするものの一つの徳性としてのみ考える」そうだよな。ロールズの「正義」は人間の徳ではなく社会制度の徳だ。引用もとは”Justice as Fairness”。
    • アリストテレス、ヒューム、スミス、ルソーときて、

    こうした系譜を念頭におけば、正義の倫理とケアの倫理の対象は、古来の正義と仁愛という二概念に由来し、さらに根本的には、倫理学の二つの中心概念である「正しさ(right)」と「よさ(good)」に対応するものであることは明らかである。(p.359)

    • よい。立山先生はひじょうによくわかっている。

    ~力点の置きかたの違いは、もとをただえば、両者の問題意識の相違にある。つまり、正義が、相互に対立をはらんだ複数の価値判断をいかにして調停し、合意を形成するかという問題に対処するために要請された規範的原理であるのに対して、ケアあるいは仁愛は、個々の価値判断がどのようにしても形成され、共有されるかという、その発生的な起源に関係する概念である。したがって、正義の倫理は、個別的な価値判断の起源やその共有可能性についてはほとんどなにも語っていないし、反対に、ケアの倫理は、複数の個別的な価値判断があって矛盾する要素を含んでいるさいに、いずれの判断を選好すべきかという問題に十分答えうるものではない。(p.360)

    • よい。最初の方ではおどろいたけど、全体として見るとほとんど文句がない。すばらしい。絶賛。そうか、こういう解釈を品川先生は叩きたいわけだ。だんだんわかってきた。やはり勉強は楽しい。

    川本隆史先生は偉かった

    もってるはずなのに1週間探しても出てこなかったので図書館から。

    あ!そうか、この本はとんでもなく重要だったのだな。ここ10数年の倫理学やら社会哲学やらの議論をガイドしてたのは実はこの本だったのだ。国内の社会哲学(倫理学、法哲学、政治学あたり)の議論の骨組を作ったのは、加藤尚武先生でも大庭健先生でも井上達夫先生でも島津格先生でも森村進先生でもない。いまごろ認識した。昔読んだときは「なんかつっこみ足りないなあ」とか思った記憶があるのだが、功利主義、ロールズ、ドゥオーキン、ノージック、共同体主義、ケア、セン、各種応用倫理とガイドブックとしてはすばらしいできになってんのね。いろんな本や論文でみなれた表現がやまほど出てくる。表現が明晰でコンパクトなところなんかがすばらしい。これちゃんと読まずに国内の議論についていけないと思ってたのはまさに馬鹿。いつも横においといて、国内の標準的な理解がどうなってるかとりあえずこれに当たるべきなんだわな。超反省。しかしなんか開眼したような気がする。

  • *1:私は授業で自分や他人さまの文章を音読するのが好き。