に書いた「社会の幸福を有意義かつ正当に増大」の出典調査中。英文ざらっと見ても見つけられない。誰か助けて。
特に重い先天的障害をもつ生命は不幸なものだから、障害をもつ新生児を殺すことによって、「社会の幸福を有意義かつ正当に増大することができるだろう」(トゥーリー[1988:39])
出典がまちがっている。トゥーリー1988は文献表によれば加藤尚武・飯田亘之(編)『バイオエシックスの基礎』東海大学出版会1988だが、39ページはトゥーリーの論文ではなくプチェッティの論文。あれ、この一文は前にも見たことがあるが、出典があやしいぞ。あら、これ翻訳(抄訳)に出てこないんじゃないかな(原典にはあるかもしれんけど)。またエライこと発見してしまったかもしれん。まああとで調査。ぐびぐび。
だれかのロンブンでも同じ引用文を読んだことがあるんだ。だれだったかなあ。
For in the vast majority of cases in which infanticide is desirable, its desirability will be apparent within a short time after birth. Since it is virtually certain that an infant at such a stage of its development does not possess the concept of a continuing self, and thus does not possess a serious right to life, there is excellent reason to believe that infanticide is morally permissible in most cases where it is otherwise desirable.
っていう文章はあるんだけどね。(最後から二つ目のパラグラフ)。和訳では
嬰児殺しが希望される大多数のケースでは、出産後の短い時間内に嬰児殺しの希望がはっきりする。生長のその段階の嬰児が持続的自己の概念を所有せず、したがって、生存する重大な権利を所有していないのは、事実上確実である。それゆえ、何かの理由で嬰児殺しが望まれるほとんどのケースで、嬰児殺しは道徳的に許されうる、ということを信じてよい十全な理由が存在することになる。 (p.109)
まあたいていの人にとって恐るべき結論だ。ただし訳文の「希望」はちょっと訳しすぎかも。(なんらの理由からもうちょっと客観的に)「望ましい」だろう。嬰児殺しって書いちゃうとどうしたって「面倒だから殺しちゃう」とかそういうのを考えてしまうけど、このころに問題になってたののは新生児を殺すってよりは、治療をひかえて死なせること。これもかなり多くの人が非常に強い抵抗を感じると思う。私も感じる。
でもまあ考えてみなきゃならないのは、たとえば超未熟児(超低体重児)に対する対応なんだよな。
- 作者: 仁志田博司,楠田聡
- 出版社/メーカー: メジカルビュー社
- 発売日: 2006/01/26
- メディア: 単行本
- クリック: 5回
- この商品を含むブログ (1件) を見る
この本で東京女子医大の仁志田先生たちは、24週500g未満の新生児を助けることさえ可能になってるんだけど*1、どうにも予後が悪いので、「生育限界」という考え方を入れなきゃならんのではないかと提唱している。
日本全体のコンセンサスとして、このくらいの児は治療を受けるべきであるとするレベル、すなわち一般的な同意としての生育限界は28週、1,000g前後であろう。この生育限界以上の児は、どこで生まれようともすべての日本人同様に現在の医療のレベルを受ける権利があると考えるべきである。 (p. 27)
ということらしい。逆に言うと、28週未満の子はそういう権利がないかもしれない(治療せず死なせることも許されるかもしれない)ということを含意していることに注意。もしどんな新生児も生きる「権利」や治療を受ける「権利」をもっているのならば、仁志田先生たちの立場は道徳的に許容できない。したがってなにがなんでも治療するべきだってことになってしまうかもしれない。「権利」っていうのはそういう厳しい意味で理解されるべきで、たんなる「道徳的配慮の対象となる」ってのとは区別されるべきだ。
これほんとに難しい問題で、私はこういうのを考えようとすると頭がマヒしてしまうのを感じる。産科のお医者が減ってるとかってのもこういうのと関係しているのかなあと想像している。
おしえてもらいました。
Kさんに教えていただきました。ありがとうございます。第1節の最後の方にある。もっと後の方にあると思いこんで目に入っていませんでした。ほんとに私は目のなかに丸太はいってても気づかないだろう。
Most people would prefer to raise children who do not suffer from gross deformities or from severe physical, emotional, or intellectual handicaps. If it could be shown that there is no moral objection to infanticide the happiness of society could be significantly and justifiably increased.
翻訳にもちゃんとある。
たいがいの人は子どもを育てるからには、重大な欠陥や重い肉体的・感情的・知的なハンディキャップを背負っていない子どもの方がいいと思う。もし嬰児殺しに対して道徳的反論が存在しないことを示すことができたなら、社会の幸福 happiness of societyを有意義かつ正当に増加させることが可能となるのである。 (邦訳p.96)
「重大な欠陥」は「著しい形成異常」かなあ。”suffer from”ももうちょっと子ども本人の主観的な苦しみだってのを訳出したいような*2。If ~ couldの仮定法の感じも本当はもうちょっと出したい(「もし仮に~できるならば、~できるだろう」)し、significantlyはコメントにあるように「有意義」はちょっと違うけど、これくらいだと思う。まあなんにしてもちゃんと出典あります。
ついでにその次のパラグラフの文章も紹介。
The typical reaction to infanticide is like the reaction to incest or cannibalism, or the reaction of previous generations to masturbation or oral sex. The response, rather than appealing to carefully formulated moral principles, is primarily visceral. When philosophers themselves respond in this way, offering no arguments, and dismissing infanticide out of hand, it is reasonable to suspect that one is dealing with a taboo rather than with a rational prohibition. I shall attempt to show that his is in fact the case.
嬰児殺しは、それが引き起こす強い感情[的反発]という点においてもまた興味深い。嬰児殺しに対する典型的な反応は、近親相姦や食人に対する反応、あるいはマスターベーションやオーラル・セックスに対する古い世代の反応に似ている。その反応は、注意深く形成された道徳原理に訴えるものというよりも、むしろ主として本能的な[反発]であると言った方がよい。哲学者自身が、何の議論も提出せずに嬰児殺しの問題を却下し、さきに述べたような反応を見せるとき、その哲学者は嬰児殺しを理性的に禁じたのではなく、むしろタブーとして扱ったのではないか、と疑ってみる必要がある。事実そのとおりであることを私は示してみようと思う。(p.96)
primarily visceral は、「主として本能的な反発」でもいいけど、「まずなによりはらわたからの反発なのだ」ぐらい?哲学者はタブーを破って合理的な議論をしろとトゥーリー先生は言いたいのだろうが、まあ実際この問題を考えると頭はマヒし、考えただけで「胸が悪くなる」「吐きそうだ」と思う人は多いだろう。
おそらく国内で最も急進的な功利主義者である安藤馨先生は、『統治と功利』で
肉食の肯定について一貫的な立場を採るなら、親や周囲の愛情や配慮という外在的な要因が総て取り除かれるならば新生児を食用のために殺すことも原理的には否定されないだろう。(p.244)
とか書いちゃうわけだが、私はこういう書き方はできないなあ。こういうあざといはっきりした書き方をしちゃうから功利主義者はアレだと言われてしまうわけだが*3、まじめに考えれば安藤先生の主張はかなり説得力がある。それにこれも前提に注意。
オーラルセックスやマスターベーションやホモセクシュアルや人種間結婚に対する態度はずいぶん変ったけど、近親相姦や食人のタブーはもっと深く普遍的でなかなか変わらん。新生児治療停止に対する反発はどっちに近いか。
あともうちょっと「権利」について補足しておくと、「治療の予後が悪いことが予測される超低出生体重新生児は治療を受ける権利がない」という考え方は、「新生児はみんなそういう権利がない」という考え方よりもおそらくさらに受けいれにくい前提を必要とする。「権利」は難しい。
*1:人工子宮なんてのは、受精卵や胚の方からではなく、こっちがわから試行錯誤で攻めていけばいずれは実現されるのかもなあ。でもおそらくそれまでの過程がどこか非人道的になるのかもしれない。こういう発想は自分で考えてもショッキング。
*2:もちろんここから「社会の幸福を増大」させるってことにつなげるには問題の「非同一性問題」を解かないとならない。
*3:あと、「それを知る人々に与える不快感」とかも外在的な要因にはっきり数えあげた方がいいかも
Views: 14
コメント