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『不安の概念』(15) 人間は心的なものと肉体的なものの総合である

『不安の概念』読み直すの、もう完全に飽きてるんですが、まあ第1章ぐらいおわらないとね。

第1章の第5節〜6節では、『死に至る病』で主要テーマとして扱われる「人間は総合だ」とかってのが頻出するわけですが、これをどう解釈するかってのもまあいろいろ面倒ですね。

第5節だと「人間は心的なものと肉体的なものとの総合である、しかしこのふたつのものが、もしも第三のものに統一されなければ、総合ということは考えられない。この第三のものが総合である」言われるわけです。んで、第6節ではこんな感じ。

(アダムの堕罪の)結果は、罪がこの世にやってきたこと、性的なものが定立されたことの二重のものであった。一方のものは他のものから切りはなすことはできない。人間の根源的な状態を示すためには、このことは比べ物にならないほど大切である。人間が第三のものに説いて安らうひとつの総合でなかったとすれば、ひとつのことがふたつの結果を生むはずはなかったであろう。人間が精神をささえとした心と肉体の総合でなかったとすれば、性的なものが罪性とともに入ってくることはなかったであろう。

アダムは「知恵の木の実を食べちゃだめです」って言われて、それの意味がわからなかったけど不安になった。でもなにが不安なのかもわからない。んでどういうわけか知恵の木の実を食べちゃって、知恵がついちゃって初めて自分が罪を犯してしまったことを知る、とそういう言うことだったわけです。それ以降アダム(とその子孫)は知恵がついちゃって、かつ、罪への傾向性っていうか神様に逆らったりエッチなことを考えたりできるようになってしまいました。この変化は「質的飛躍」だそうな。まあ最初の罪を犯す前と後では「無垢」であるか「罪人」であるか質が変わっちゃってるわけですね。

そりゃまあわかるんだけど、問題は「心と肉体の精神による総合」みたいなのをどう理解するんかねえ。ここの文脈では、「精神」がなんだかわからないだけじゃなく、「心」もよくわからんのですよ。

無垢においては、アダムは精神としては夢見る精神であった。だからその総合は現実的ではなかった。なぜなら、結びつける役をつとめるのは他ならぬ精神であるのに、その精神がいまだ精神として定率されていないからである。動物にあっては、性的区別は本能として芽生えるが、人間の方はそうしたやり方で性的区別をもつわけにはいかない。人間こそまさしく総合だからである。精神は自分自身を定立する瞬間に、総合を定立する。だが、精神はまずその総合をかきわけて区別しなければならない。そして感性的なものの極限が性的なものにほかならない。人間は精神が現実的となる瞬間に、はじめてこの極限に達することができる。それ以前には、人間は動物ではないにしても、さりとて本当の意味で人間でもない。彼が人間となる瞬間に、はじえて同時に動物でもあることを通して人間となるのである。

「精神」もわからんけど、これはとりあえず自己意識、自己反省や自己創造の能力かあるいはその発揮とかそういうんじゃないかとぼんやり考えてる。まあキェルケゴールはそれがなんであるか(おそらく)どこでも説明してないから、だいたいこうなんだろうな、って考えるしかないと思ってますです。いま私が困ってるのは「心と肉体」ってときの「心」の方ですわ。肉体はまあ動物なら誰でも持ってるこのあれでしょうな。それに対立する「心」となると、デカルト的な意識なんかね。意識、感覚、思考、欲求とかを指すのか、そういうものをもつなんらかの実体みたいなのを考えているのかもまあよくわからない。ここで、キェルケゴールが動物が「心」をもってると考えてるのか、それともデカルトみたいに単なる肉体機械みたいに考えてるのか教えてくれればちょっとましになるような気がするんだけど、そういうのも見つからない。

「性的区別」と訳されているのはden sexuelle Forskjellighed、the sexual difference、性差ですなあ。「動物においては性差は本能的に発達する」みたいな感じ。この「本能」もわからんけど、なんも考えずに生得的に、ぐらいでいいっすか。動物は自分がオスだとかメスだとか考えなくてもちゃんと性的な活動ができるよういなるけど、人間はそうじゃないっしょ、ってなことを言おうとしているんすかね。なんでかというと、人間は自己反省する動物であって、自分がオスだとかメスだとか自覚したり、メスの体をみてみたいなあとか触ってみたいなあとかって欲求を自覚したり、この体についているこの部分をあれするとあれだなあ、あれをあれにあれするのか、とかそういうのを知識として身につけないと性的活動ができない、まあそういうことを言おうとしているんですかね。

そしてキェルケゴールではそれが「罪」ってのと深く結びついていて、罪ぬきのセックス、セックス抜きの罪みたいなのが考えることさえできない、ってんですかね。

 


『不安の概念』(14) 「自由」はいわゆる積極的自由だと思うの

前エントリのキェルケゴール(実は『不安の概念』の著者ヴィギリウス・ハウフニエンシス、またの名を「コペンハーゲンの夜警人」)の「自由」は強制されない自由か、するべきこと/ただしいことをする自由か、ていう問題はけっこう大きな問題なわけだけど、次の箇所では正しいことをする自由の方だと読めるんじゃないかと思う。まあ同じ問題は残ってるんだけど。

さて、もし禁断が欲情を目覚ますものとすれば、無知のかわりにひとつの知をえることになる。なぜなら、その欲望が自由を行使することにあったとすれば、アダムはすでに自由についての知識をもっていたはずだからである。

この田淵訳では「欲情」と「欲望」って訳し分けてるけど、どっちもLysten、the lustあるいはthe desireね。まえに「欲情」って訳したのはconcpiscentiaなので、もっと一般的な欲求・欲望を指しているかもしれない。これも面倒ねえ。キェルケゴール先生あんまり推敲しない人だったので、ここらへんは執筆上の不整合があるかもしれず、なんとも言えない感じもあるけど、まあとにかく禁止がアダムに(善悪にかかわらず)欲望を呼び起こすとして、それが正しいことをしたいという欲望だと考えることはできない、なぜなら、「正しいことをしたい」っていう欲望はなにが正しくてなにが正しくないかを前提とするからね、ってな議論だと思う。ただしこれは「悪いことをしたい」という欲望と考えても同じことが言えちゃうね。どっちにしてもアダムがほんとに善悪について無知ならよいことをしたいともわるいことをしたいとも思わないはずだ、ってのがキェルケゴールの言いたいことのはず。

さて、ここで自由は強制されないという意味なのか、あるいは正しいことをするという意味なのか、とかんがえると、まあ正しいことをする方だろうねえ、ってのが私の根拠の一つなわけです。かなり危うい解釈だけど、理解してもらえるかしらねえ。

……自由の可能性をアダムに目覚めさせるからこそ、禁断は彼を不安に陥れるのである。

そう読んでくると、この「自由」は正しいことをする自由であり、サルトル的な根源的自由、なんでもする自由ではない。実は昼間、Patric Gardiner先生のKirkegaard邦訳)をぱらぱらめくってたんですが、彼も「『不安の概念』の議論はサルトルみたいな世俗的な思想家のキェルケゴール解釈によるものとはぜんぜん違うよ」っていう意味のことを言ってて安心しました。ただ「自由」が私の考えてる意味なのかどうかは言及がなかった。

 

不安の無として無垢をすどおりしていったものが、いまやアダム自身のなかに入り込んできたのである。ここでもなおそれは無であり、*なしうる*ことの不安定な可能性である。自分がなにをないするのか、彼にはなにもわかってはいない。なぜなら、もしわかっているとすれば、一般的にいってあとからしたがうはずの善悪の区別が前提とされていることになるからである。

この「なしうる」も善なる選択、行為の方だと思う。アダムは知恵の(神の命令にしたがって)木の実を食べないことができる、親のいいつけにしたがってエッチな本を読まなかったり、オナニーしなかったりできる、それがなんであるかはまだわからないにもかかわらずね。

 

 

 

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翻訳はけっこう問題があるんではないかと思う。でもだしてくれててえらい。


『不安の概念』(13) 不安は可能性の可能性として自由の現実性であーる

 

まあもう飽きてきました。きりがないしねえ。でももうちょっとだけね。

 

「私は不安が恐怖やそれに似た諸概念とはまったく異なったものであることに注意を促したいと思う。それらの概念は何かある特定のものに結びついているが、不安の方は可能性にとっての可能性として、自由の現実性である。動物に不安が見られないのもそのためで、これは動物がその自然性において、精神としては規定されていないからである。」

ここはものすごく有名な一節ですね。はっきりした対象をもつ恐怖と、対象がなんだかわからない不安とは違います。これはOK。問題は、「可能性にとっての可能性として自由の現実性である」で、これまともに解釈しているのはあんまり見たことない気がする。『不安の概念』に関する論文集を見直せばなんかあるかもしれんけど、ねえ。原文は”… medens Angest er Frihedens Virkelighed som Mulighed for Muligheden” / “whereas anxiety is freedom’s actuality as the possibility of possibility”。デンマーク語の前置詞forは、当然ものすごく意味が広くて(英語のforにもbeforeにもofにもtowardにも対応する)、これだけじゃなんだかわからん、ってのが普通だと思います。わかるのが異常。私はほぼあきらめ。他みるしかない。

しかしここのFriheden/ 定冠詞つきfreedomの意味は気になる。ていうのは、キェルケゴールが「自由」ってのをどういう意味で使っているかっていう疑問が、実はこの一連のエントリを書き始めたきっかけなのよね。まあ早い話がこの前の会合の発表でキェルケゴールの「自由」ってのが問題になったんだけど、発表者の言う「なんでもできる自由」はキェルケゴールの(『不安の概念』での)「自由」の意味とはちがうんちゃうか、と。

自由っていうと、バーリン先生の二つの「自由」概念の話が思い浮かびますわね。それは(1)消極的自由、つまり強制されてない、なにかを選択できるっていう自由と、(2)積極的自由、つまり自分が本来なすべきことを望みそれをおこなう自由、の二つね。アナクロニズムなんだけど、こういう捉え方をした場合、キェルケゴールが自由というときにかんがえているのはどっちかっていう問いは実は重要なんちゃうかなと思うわけです。そして、『あれか/これか』から『死に至る病』に至るまで、キェルケゴールの用語法では自由は積極的自由の意味、各種の悪しき欲望の影響から離れて正しいことを行う自由なんちゃうかと思っているわけです。まあこれを言うためには相当の準備が必要なんだけど、いまのところ私はそう思ってる。

んでそういう味方からすると、この「不安は、可能性の可能性として自由の現実性だ」っていう謎文は、「本来自由である人間、つまり、正しいことを行うことを欲するべきである人間が、無垢のぼんやりした意識でいるというその無垢な現実の状態では、「〜すべからず」という禁止によってぼんやり自覚される、そもそも正しいのも正しくないもの選択すること(可能性)ができてしまうかもしれない(可能性)ってのが不安の理由なのだ」ぐらいに読むんちゃうかなと思ってるわけです。しかしこれは読み過ぎかもしれない、っていうか読み過ぎだろう。でもこういうふうになんらかの解釈の決定をして読んでいかないと、なにもわからないか、あるいはキェルケゴールのオウム返ししかすることができなくなると思うんですわ。つらい。

最後の動物の話はわけわからんね。犬や猫だって不安そうにしているときはあるわけだから、動物を見たことがないか、あるいはキェルケゴールが考えている不安がそうした観察可能なものとはぜんぜん違うかどっちか、あるいは両方。両方ではないか。

 

 


『不安の概念』(12) なにができるかわからず不安です

今日もちょっと写経してみる。夏の午前中はいいですなあ。第1章第5節ね。

不安は夢見つつある精神の規定であり、そのようなものとしては心理学に属する。

また「規定」と「精神」が出てきた。まあ「精神」ってのはとりあえず自己反省する意識とかそういうのであり、「規定」ってのはその特徴である、ぐらいで許して。

目覚めている時、私自身と私でないものとのあいだには区別があるが、眠っているときにはこの区別は中断され、夢見ているとき区別は暗示された無となる。

起きてるときと寝てる時の話はいいですよね。問題は、「夢見ている」とき、あんまり意識がはっきりしてないときね。田淵訳で「暗示された無」って約されているのは antydet Intet、intimidated nothing。ほのめされている無。まあこの「無」がもちろんわからんのですが、その主観にとっては、その存在そのものを含めてなんだかわからないもの、って感じに読んでよいのではないか。たとえば「エッチなマンガは読んではいけません」ってなことを言われた時、「エッチな」も「マンガ」も知らなければその命令が何であるのは当人はわからない。とりあえず「エッチなマンガ」という読んではいかんものがある、ぐらいしかわからん。それはおそろしいものであるけど当人には無。

 

精神の現実性は、たえずみずからの可能性をおびきよせる姿として現れる。しかし精神が可能性をとらえようとするやいなやそれはのがれ去る。

こういう「現実性」もよくわからんですよねえ。もうほとんどお手上げ。「精神」Aanden/the spiriには定冠詞がついてるんだけど(デンマーク語では名詞のケツにつく)、これが「その精神=その夢見ている精神」なのか、「精神ってものは」なのかもよくわからん。こういう抽象的な文章をじーっと見てると、なんかわかってくるような気分になることもあるんですが(「おう、精神の現実性はみずからの可能性を誘惑するのだな、なるほど」)、実はわからない。まあ提案としては、「われわれが自己反省すると、自分がこれからなにをすることができるかとかってのを考えちゃうもので、それがまさにわれわれの意識がその潜在的能力を発揮しているとき、現実性を獲得している時なのよね」ぐらいに読む。

「でも、あんまり意識がはっきりしてない状態なので、実際になにができるのかって考えようとすると、「夢見る精神」の状態ではなにができるかよくわからない、特に「エッチなマンガを読む」とかってのの「エッチな」がわからない場合には具体的にそれがなにをすることなのかわからない」ぐらいでどうか。まあ正直なところ、これははエッチなマンガより、たとえば「エッチなマンガ読んでオナニーしてはいかんよ」の方がわかりやすいんちゃうかね。「え?オナニーってなに?それ僕できるの?」みたいな感じ。たいへんすね。まあオナニーじゃなくて、「姦淫するなかれ」でも「女子大生にセクハラするなかれ」でもいいけど、そういうこと言われると、よくわからないままにそれについて考えることになる。こうなると、そのつぎの、

それは不安をかもすにすぎない無である。ただ姿を見せているだけなら、これ以上のことはできない。

はわかるんではないか。

 


『不安の概念』(11) 無が不安を生む

わからんのでまず和訳の写経だけしてみる。

この状態(無垢)には平和と安息がある。しかし同時にそこには何か別のものがある。といっても別に不和や争いではない。事実そこには争いの種になるようなものは何もない。ではいったいそれは何だろう?無である。ところで無はどんな働きをするのだろうか?無は不安を生む。無垢が同時に不安であるということ、これが無垢のもつ奥深い秘密である。夢見つつ精神は、自身の現実性を投影するが、しかしこの現実性は無であり、さらに無はみずからの外にたえず無垢を見るのである。

わかりますか?わかりませんね。

まずこの田淵訳は最後のところがよくなくて、英訳だと innocence always sees this nothing outside itselfで、「しかし無垢は自分の外にこの無を見るのである」じゃないとだめ。って書こうとしてデンマーク語確認したら、men dette Intet seer Uskyldigheden bestandig udenfor sigだわ。動詞がseerで、dette Intet (this nothing)とUskyldigheden (innocence)のどっちが主語なのか問題。これ主語と目的語が倒置している可能性は十分にあって、キェルケゴールはそういうのよくやる。どっちも単数なので、動詞の形からでは見分けられない。意味解釈からすれば、「無が見る」とか「無の外部」とかってのが考えにくいから、Thomte先生の英訳の方がやっぱりいいんじゃないかな。じゃないと意味わからん。でもそう読んだからわかるようになるわけでもないけど。-100が-30ぐらいになる感じよね。苦しい。

んでこっから解釈なんですが、この無垢ってのを性的な無垢、性的な無知って考えて、性の目覚めの話だと考えると少しは読めるようになるでしょ、っていうのが私の提案。ていうか、そうじゃないと読めないままだし。

子供は性的に無知だ。したがってわれわれのような汚れた大人のようにエッチなことで頭をいっぱいにすることはないってので平和だ。いいですね。でも、なにか予感がある。でもそれがなにかはわからない。これが「無」。それがなんだかわからないから無なのね。たとえば仮に「ある絵を見るとちんちんがむずむずする感覚がある」みたいなのがあったとして、それがなんだかはわからない。むずむずの感覚さえはっきりとは意識してないかもしれない。自意識があんまりないからとりあえずマンガ読む。でもそういう興奮なりなんなりが、なにか大事なことだという予感はある、そういう状態を想像してみてはどうか。

そのあとも面倒。(夢見つつ)「精神は自身の現実性を投影する」も面倒なんですが、精神(自己反省をもつ意識)は、ふつう自分が理解するところの自分自身を考えたり想像したりするわけだけど、まだ自己意識がはっきりしてないので「夢見つつ」にすぎなくて、自分がなにをしているのか、なにをもとめているのかとかもわからず、想像したり考えたりする自分の姿や活動も「無」。だから無垢な状態の子供は、性的ななにかが自分の外にあることは感じるものの、それははっきりしない無にすぎない。でもなんか不安と欲望を感じるよ、ってな感じでどうか。

udenfor sig selvは「いつも自分の外に」。まだ性的にまったく無知だから、その性欲ってのはなんかよくわからないし、自分のなかにあるわけではない。外に広がっているわけのわからないもの、無。

まあ正直なところ、なにか世界には隠し事がある、なぜパンツやエッチな絵がこんな魅力があるのか、ていう不安はみんな感じたことがあるんじゃないですかね。これだとわかるっしょ。

不安Angestは英語だとanxietyっていう感じで、不安だけどanxious forみたいなのがあることからもわかるようにむずむずして落ち着かない感じを指すんだと思うんよね。この「落ち着かなさ」がこの本のポイントで、恐怖に似た意味での「不安」ではないんだと思う。これもハイデガ先生とかの影響で誤解されているところよねえ。「不安」という日本語はまさにその不安定さを表していていいんだけどさ。「不安神経症」とか不安ではないってことよ。

 

 


『不安の概念』(10) 無垢において人間は精神として規定されない

んで、『不安の概念』第1章第5節。ここねえ、本気でどう読むんでしょうね。

「無垢は無知である。」

まあこれはいいや。次。

「無垢において人間は精神として規定されないで、彼の自然性と直接に統一されて、心として規定される。」

わかりますか?私はわからない。

まあ前のエントリで書いたけど「規定する」がわからん。他のキェルケゴール読者がどう読んでいるかもわからん。規定規定定規規定。まあこういう用語法に慣れてる人々はそれをどう読むかっていうのを教える必要はないと考えてるんよね。

英語だと、In innocence, man is not qualified as spirit but is psychically qualified in immediate unity with his natural condition. これだとqualifiedになってて少しはわかるような気になる。私の読みでは、まず、「無垢の状態では、人間はまだ精神と呼べるようなものではない。」キェルケゴールの「精神」もものすごく面倒だけど、なんか自己反省を含んでるやつだ、ぐらいでいいんちゃうか。後半は、「心の面でいえば、彼は彼の自然的状態と直接的に統一されているものと見ることができる/見るべきだ」ぐらいに読むのはどうか。だいぶ開いたつもりだけどまだまだね。

後半部で言いたいのは、まあなんも知らない状態、たとえば2〜3歳児を考えた時に、まだk自己反省とか自意識とかってものをもってないので、たとえば身体的な欲求や感覚をそのまんま生きてる状態なわけよね。ほしいものにはそのまま手を伸ばすし、嫌いなものは吐き出すし、自分が手を伸ばしているとか吐き出しているとかそういうことも意識しない。まあ本当にそういう状態があるかどうかというのはまさに心理学的な問題だけど、そういう見方はあるだろうと思う。同時期のショーペンハウアーも、(おそらく『意志と表象〜』で)動物は瞬間に生きている、みたいなことを言っていたと思うんだけど、まあそうした動物と同じように、欲求や感覚のままに生きていて、それが「直接な統一」っていう状態なんだと思うです。上の英訳だとpsychicallyって副詞がどうかかっているのかわかりにくいんだけど、デンマーク語でも同じようなかかりかた。田淵訳の「心として規定される」はあんまりよくなくて、「心に注目すると」「心について語れば」って感じなんじゃないかと思うんだけど、文法的あるいは解釈的な根拠を示すのはかなり難しい。

やれやれ、こんな調子でやってたら、読み終わったときは白髪のおじいさん、とか浦島太郎よね。私はなにをやっているのだろうか。でも日本でこういう低レベルやってる人は皆無だから、一回でいいからやっておく必要はあるんじゃないかと思うのよ。

 

 

 


『不安の概念』(9) キェルケゴール学者はパラフレーズできるか

「レポートの書き方」みたいなのでは、学生様たちに「パラフレーズしろ、パラフレーズできてはじめてその文章の内容がわかったといえるのだよ」みたいなことを言ってるわけですが、キェルケゴール関係だと学者様たちもほとんどパラフレーズせず、キェルケゴールが書いたものの抜書き集みたいになってしまう。これはほんとうにやばい。

たとえば、すごくえらい大谷長(まさる)先生が『不安の概念』について解説しているものをめくってみる。

先生はこんな感じ。まずキェルケゴールを引用する。

「無垢において精神は人間の中で夢見つつある。このような状態の内には平和と安息がある。しかし同時にそこには別の何かがある、それは何であるか?無である。しかし無はどのような作用を持っているのか?それは不安を産み出す。無垢が同時に不安であるということは、無垢の不快秘密である。夢見つつ精神は自分自身の現実性を投影する、だがこの現実性は無である。しかしこの無を、無垢は絶えず自分の外に見ているのである。」(345f.)

この引用はよい。しかしそのあと大谷先生はこう書く。

無垢の無が不安を産み出すのは、夢見る精神が精神として自分自身の現実性を外に投影しようとする形が不安なのであり、つまり、精神の現実性が不安において外に自らを投影するのは、不安が、前配置されたものの予感の内に、成人の自由の可能的な現実性の実現に向って、その面影の懸念憂慮に満ちた投射の試みをここで先ずおこなっているのである、そしてこれは「不安は可能性の前の可能性として自由の現実性である」(346)と言われる所以であるし、「精神は自分自身に対して不安として関係する。」「無知は精神によって規定された無知である。」(348)と言われるものであり、そして、本稿の以下に説明する前配置の予感の最初の眴(めくばせ)である。(大谷長、「無の不安と有の不安」、大谷長著作集第5巻『キェルケゴーイアナ集成』、創言社、2003、pp. 28-29)

これでいいのかどうか。私はよくないと思うです。でもこういうのがキェルケゴール業界の標準だし、実は世界的にもこういうのは多い。

 

 

 

 

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『不安の概念』(8) 「規定」の意味がわかりません、ははは

んで問題の第1章第5節「不安の概念」というタイトルと同名の節をよみたいわけだけど、ここで止まってしまいました。

この節は「不安は夢見つつある精神の規定である」とかその手の超有名フレーズが頻発するんだけど、この「規定である」っていったいなんだっけ、みたいになってしまった。実はキェルケゴールを読むときに、この「規定」とか「中間規定」とか出てくると読めなくなるんですよね。何言ってるかわからん。

デンマーク語だとBestemmelse、ドイツ語だとBestimmungね。英語はdeterminationでもいいかもしれないけど、qualificationにしてるな。まあいわゆるヘーゲル的な弁証法の文脈で読むべきなんでしょうけど、弁証法とかよくわからんですよね。

実は2エントリぐらいまえにも「欲情が罪の規定だ」とかってでてきて、これは私は「欲情をもつこと、欲情に動機づけられているということがそれが罪であることの決定要因だ」みたいに読んでるんですが、英語だとあっちはdeterminantになってますわね。こっちはqualificationかー。訳者のReidar Thomte先生は訳し分けてるわけね。

こういうの入門書でどう説明しているのか、『キェルケゴールを学ぶ人のために』の藤野寛先生の「逆説弁証法」とかぱらっとめくってみたけどよくわからないです。この「規定」自体の語はそもそも出てこないし。そもそもキェルケゴールのもっている論理学や形而上学や認識論の枠組みがどのようなものか、特にヘーゲルあたりとどう関係あるかという話は世界的に研究者によってまちまちで、ほとんどそのまんまだという人もいれば、ぜんぜん関係ないという人もいる感じ。

私自身は、遊ぶか散歩するか延々なにか自分のもの書いていたキェルケゴールがちゃんと本読んだり他の人と議論して勉強してた時間というのはほとんどなかったろう、と思ってて、まともな哲学的知識はなかったろうから彼自身の哲学的・哲学史的知識の側面をあんまり真面目に考えも益はないだろう、ぐらいです。正直なところ。

まあ私のぼんやりした理解では、キェルケゴールがこういう「〜の規定である」みたいなことを書くときには、まあ、「不安は夢みつつある精神をそれにするような、他の似たようなものから境界づけ限定するような、それを他から区別する特徴となるような、そういうものである」ぐらいなんだろうけどねえ。まあ早い話、不安ってのは「夢みつつある精神」を他の(たとえば、それとして目覚めている)「精神」から区別する特徴なんですよ、ぐらいの意味だと理解してよい。

まあキェルケゴールに出てくるこういう単純で基本的な用語の意味がわかるようでいてよく考えると実はわかってない、ってのがキェルケゴールを読むときの最大の問題なんすわ。雰囲気だけで読んじゃう。

会合とかでそういう基本的な語について質問するとなかなかピンとくる答えが返ってこないし。私にとっては、いつまでたってもキェルケゴールは読めないなあ、って感じる一番の要因ですね。解説書でもこのレベルでなにか言ってくれることはまずない。でもんじゃみんなどうしてるの?っておもっちゃいます。

 

まあ「不安は夢見つつある精神を他から区別する特徴/性質だよ」って読んでよいのだ、ということを誰かが(ある程度の根拠とともに)宣言してしまえば、かなり楽になるんだろうと思うです。私はそれほどの自信はないですね。そういうこと言うとお前はわかってないとか、難しい話されちゃって気後れしちゃうだろうしね。

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『不安の概念』(7) 人間は欲情をもって生まれる罪深い存在なんだ……

もういっちょ引用。

人間には原罪が存在することについて、プロテスタント教会が最も力を入れ、真に最も積極的な表現を用いているのは、ほかでもなく人間が欲情concupiscentiaを持って生まれてくるという点である。「自然のままに生まれてくる人間は、すべて罪をもって生まれてくる。すなわち、神を畏れることなく、神を信じることなく、欲情をもって生まれる」。

「」内はラテン語ね。いやはや。たしかに、これはthe・キリスト教。もちろんconcupiscentiaを広く悪しき欲望、あるいは神の命令に背く欲望と読めばそれはそれでいいんですが、人間は性欲をもって生まれてくるのです。山岡さん、京極さん、どうですか。

 

山岡さんや京極さんはともかく、栗田さんもconcupiscentiaもってましたか。発揮してますか?


『不安の概念』(6) 禁断が欲情を目覚ますが、欲情はまだ罪ではない

ちょっとキェルケゴールを引用すると、こんな感じ。

禁断を堕罪の条件とするなら、禁断が「欲情」を目覚ます事になる。……欲情は、責めや罪以前の責めや罪の規定であって、しかもそれは責めや罪などではない。すなわちこれらの責めや罪によって定立されたものなのである。

こういうのがふつう読めない。これ読めるって人は異常。英語やデンマーク語だとこういう感じ。

If the prohibition is regarded as conditioning the fall, it is also regarded as conditioning concuspiscentia. … Concupiscentia is a determinant of guilt and sin antecedent to guilt and sin, and yet still is not guilt and sin, that is, introducet by it.

Naar man lader Forbudet betinge Syndefaldet, saa lader man Forbudet vække en concupiscentia. … En concupiscentia er en Bestemmelse af Skyld og Synd før Skyld og Synd, og som dog ikke er Skyld og Synd ɔ: sat ved denne.

英語はデンマーク語をほとんどそのまま直訳している感じ。最後がitと単数になってるのにguilt and sinを受けてるのがいやなんだけど、これはデンマーク語も同じ。まあguilt and sinをitで受ける、そう読んでOKだと思う。文法書開くとこういう用法の解説あるはずだけど、ノンストップライティングだからしない。

さらに読みにくいのは、こういうのがいわゆるヘーゲル的な「弁証法」的な記述になってるからね。欲情 conspiscentia は古い言葉、っていうかラテン語で、まあ悪しき欲望はぜんぶこれにしてもいいんだけど、やっぱり性的な欲望、劣情、そういうのを指しますわね。それはいいとしましょう。んでたしかに欲情をもっていることは罪を冒すことの決定的要因なのですが、欲情をもつこと自体はまだ罪ではないのです。

なぜなら、欲情をもつこと自体が罪であるとされてはじめて、それが「(悪しき)欲情である」ってことがはっきりするからなんですね。

たしかに、(たとえば)性的な不品行とかって意味の罪を犯すには、その決定的要因として、欲情、性的欲求がなければならない。これは前にも性犯罪とかの話でちょっと触れましたが、性的な欲求はもってないけれどもスカートをめくって女子のパンツを見れば天国に行くことができるとか、女子のおっぱいを揉むとガンが治るとか、っていう信念や欲求をもってスカートをめくったりおっぱいに触った場合、それは性犯罪だとは言いにくいところがあるわけです。もちろん被害者にはふつう性犯罪と経験されるだろうけどね。

さらに、罪を犯すにはそれが悪いことだ、それが罪だと知っている必要がある。無知な子供は「なんかわからんけど女の子のパンツが見たい」という直接的な衝動をもったとしても、それを罪だとは思わない、つまり悪いことだとは思っていない。ただ見ようとするだけ。それはだめなことなのです、悪いことなのです、お前は助平なやつだ、将来が心配だ、と誰かからいわれてはじめて、それは罪だということになる。だから欲情そのものは罪ではない、ってな感じになるわけだと思います。

こういうのほんとうにうざい。禁止されてパンツやジャンプを見たいという欲情をもつ、でもその時点ではまだ罪ではない。罪だと言われて、なんでパンツ/ジャンプ見るとだめなの、ということを理解してはじめてそれが罪になる、そういうことを言おうとしているのだとおもうわけです。

いやー、弁証法ほんとうにうざいですね。頭のなかにあることと外にあることの区別がついてないんだもんね。