『不安の概念』(10) 無垢において人間は精神として規定されない

んで、『不安の概念』第1章第5節。ここねえ、本気でどう読むんでしょうね。

「無垢は無知である。」

まあこれはいいや。次。

「無垢において人間は精神として規定されないで、彼の自然性と直接に統一されて、心として規定される。」

わかりますか?私はわからない。

まあ前のエントリで書いたけど「規定する」がわからん。他のキェルケゴール読者がどう読んでいるかもわからん。規定規定定規規定。まあこういう用語法に慣れてる人々はそれをどう読むかっていうのを教える必要はないと考えてるんよね。

英語だと、In innocence, man is not qualified as spirit but is psychically qualified in immediate unity with his natural condition. これだとqualifiedになってて少しはわかるような気になる。私の読みでは、まず、「無垢の状態では、人間はまだ精神と呼べるようなものではない。」キェルケゴールの「精神」もものすごく面倒だけど、なんか自己反省を含んでるやつだ、ぐらいでいいんちゃうか。後半は、「心の面でいえば、彼は彼の自然的状態と直接的に統一されているものと見ることができる/見るべきだ」ぐらいに読むのはどうか。だいぶ開いたつもりだけどまだまだね。

後半部で言いたいのは、まあなんも知らない状態、たとえば2〜3歳児を考えた時に、まだk自己反省とか自意識とかってものをもってないので、たとえば身体的な欲求や感覚をそのまんま生きてる状態なわけよね。ほしいものにはそのまま手を伸ばすし、嫌いなものは吐き出すし、自分が手を伸ばしているとか吐き出しているとかそういうことも意識しない。まあ本当にそういう状態があるかどうかというのはまさに心理学的な問題だけど、そういう見方はあるだろうと思う。同時期のショーペンハウアーも、(おそらく『意志と表象〜』で)動物は瞬間に生きている、みたいなことを言っていたと思うんだけど、まあそうした動物と同じように、欲求や感覚のままに生きていて、それが「直接な統一」っていう状態なんだと思うです。上の英訳だとpsychicallyって副詞がどうかかっているのかわかりにくいんだけど、デンマーク語でも同じようなかかりかた。田淵訳の「心として規定される」はあんまりよくなくて、「心に注目すると」「心について語れば」って感じなんじゃないかと思うんだけど、文法的あるいは解釈的な根拠を示すのはかなり難しい。

やれやれ、こんな調子でやってたら、読み終わったときは白髪のおじいさん、とか浦島太郎よね。私はなにをやっているのだろうか。でも日本でこういう低レベルやってる人は皆無だから、一回でいいからやっておく必要はあるんじゃないかと思うのよ。

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