前エントリのキェルケゴール(実は『不安の概念』の著者ヴィギリウス・ハウフニエンシス、またの名を「コペンハーゲンの夜警人」)の「自由」は強制されない自由か、するべきこと/ただしいことをする自由か、ていう問題はけっこう大きな問題なわけだけど、次の箇所では正しいことをする自由の方だと読めるんじゃないかと思う。まあ同じ問題は残ってるんだけど。
さて、もし禁断が欲情を目覚ますものとすれば、無知のかわりにひとつの知をえることになる。なぜなら、その欲望が自由を行使することにあったとすれば、アダムはすでに自由についての知識をもっていたはずだからである。
この田淵訳では「欲情」と「欲望」って訳し分けてるけど、どっちもLysten、the lustあるいはthe desireね。まえに「欲情」って訳したのはconcpiscentiaなので、もっと一般的な欲求・欲望を指しているかもしれない。これも面倒ねえ。キェルケゴール先生あんまり推敲しない人だったので、ここらへんは執筆上の不整合があるかもしれず、なんとも言えない感じもあるけど、まあとにかく禁止がアダムに(善悪にかかわらず)欲望を呼び起こすとして、それが正しいことをしたいという欲望だと考えることはできない、なぜなら、「正しいことをしたい」っていう欲望はなにが正しくてなにが正しくないかを前提とするからね、ってな議論だと思う。ただしこれは「悪いことをしたい」という欲望と考えても同じことが言えちゃうね。どっちにしてもアダムがほんとに善悪について無知ならよいことをしたいともわるいことをしたいとも思わないはずだ、ってのがキェルケゴールの言いたいことのはず。
さて、ここで自由は強制されないという意味なのか、あるいは正しいことをするという意味なのか、とかんがえると、まあ正しいことをする方だろうねえ、ってのが私の根拠の一つなわけです。かなり危うい解釈だけど、理解してもらえるかしらねえ。
……自由の可能性をアダムに目覚めさせるからこそ、禁断は彼を不安に陥れるのである。
そう読んでくると、この「自由」は正しいことをする自由であり、サルトル的な根源的自由、なんでもする自由ではない。実は昼間、Patric Gardiner先生のKirkegaard(邦訳)をぱらぱらめくってたんですが、彼も「『不安の概念』の議論はサルトルみたいな世俗的な思想家のキェルケゴール解釈によるものとはぜんぜん違うよ」っていう意味のことを言ってて安心しました。ただ「自由」が私の考えてる意味なのかどうかは言及がなかった。
不安の無として無垢をすどおりしていったものが、いまやアダム自身のなかに入り込んできたのである。ここでもなおそれは無であり、*なしうる*ことの不安定な可能性である。自分がなにをないするのか、彼にはなにもわかってはいない。なぜなら、もしわかっているとすれば、一般的にいってあとからしたがうはずの善悪の区別が前提とされていることになるからである。
この「なしうる」も善なる選択、行為の方だと思う。アダムは知恵の(神の命令にしたがって)木の実を食べないことができる、親のいいつけにしたがってエッチな本を読まなかったり、オナニーしなかったりできる、それがなんであるかはまだわからないにもかかわらずね。
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翻訳はけっこう問題があるんではないかと思う。でもだしてくれててえらい。
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