『不安の概念』読み直すの、もう完全に飽きてるんですが、まあ第1章ぐらいおわらないとね。
第1章の第5節〜6節では、『死に至る病』で主要テーマとして扱われる「人間は総合だ」とかってのが頻出するわけですが、これをどう解釈するかってのもまあいろいろ面倒ですね。
第5節だと「人間は心的なものと肉体的なものとの総合である、しかしこのふたつのものが、もしも第三のものに統一されなければ、総合ということは考えられない。この第三のものが総合である」言われるわけです。んで、第6節ではこんな感じ。
(アダムの堕罪の)結果は、罪がこの世にやってきたこと、性的なものが定立されたことの二重のものであった。一方のものは他のものから切りはなすことはできない。人間の根源的な状態を示すためには、このことは比べ物にならないほど大切である。人間が第三のものに説いて安らうひとつの総合でなかったとすれば、ひとつのことがふたつの結果を生むはずはなかったであろう。人間が精神をささえとした心と肉体の総合でなかったとすれば、性的なものが罪性とともに入ってくることはなかったであろう。
アダムは「知恵の木の実を食べちゃだめです」って言われて、それの意味がわからなかったけど不安になった。でもなにが不安なのかもわからない。んでどういうわけか知恵の木の実を食べちゃって、知恵がついちゃって初めて自分が罪を犯してしまったことを知る、とそういう言うことだったわけです。それ以降アダム(とその子孫)は知恵がついちゃって、かつ、罪への傾向性っていうか神様に逆らったりエッチなことを考えたりできるようになってしまいました。この変化は「質的飛躍」だそうな。まあ最初の罪を犯す前と後では「無垢」であるか「罪人」であるか質が変わっちゃってるわけですね。
そりゃまあわかるんだけど、問題は「心と肉体の精神による総合」みたいなのをどう理解するんかねえ。ここの文脈では、「精神」がなんだかわからないだけじゃなく、「心」もよくわからんのですよ。
無垢においては、アダムは精神としては夢見る精神であった。だからその総合は現実的ではなかった。なぜなら、結びつける役をつとめるのは他ならぬ精神であるのに、その精神がいまだ精神として定率されていないからである。動物にあっては、性的区別は本能として芽生えるが、人間の方はそうしたやり方で性的区別をもつわけにはいかない。人間こそまさしく総合だからである。精神は自分自身を定立する瞬間に、総合を定立する。だが、精神はまずその総合をかきわけて区別しなければならない。そして感性的なものの極限が性的なものにほかならない。人間は精神が現実的となる瞬間に、はじめてこの極限に達することができる。それ以前には、人間は動物ではないにしても、さりとて本当の意味で人間でもない。彼が人間となる瞬間に、はじえて同時に動物でもあることを通して人間となるのである。
「精神」もわからんけど、これはとりあえず自己意識、自己反省や自己創造の能力かあるいはその発揮とかそういうんじゃないかとぼんやり考えてる。まあキェルケゴールはそれがなんであるか(おそらく)どこでも説明してないから、だいたいこうなんだろうな、って考えるしかないと思ってますです。いま私が困ってるのは「心と肉体」ってときの「心」の方ですわ。肉体はまあ動物なら誰でも持ってるこのあれでしょうな。それに対立する「心」となると、デカルト的な意識なんかね。意識、感覚、思考、欲求とかを指すのか、そういうものをもつなんらかの実体みたいなのを考えているのかもまあよくわからない。ここで、キェルケゴールが動物が「心」をもってると考えてるのか、それともデカルトみたいに単なる肉体機械みたいに考えてるのか教えてくれればちょっとましになるような気がするんだけど、そういうのも見つからない。
「性的区別」と訳されているのはden sexuelle Forskjellighed、the sexual difference、性差ですなあ。「動物においては性差は本能的に発達する」みたいな感じ。この「本能」もわからんけど、なんも考えずに生得的に、ぐらいでいいっすか。動物は自分がオスだとかメスだとか考えなくてもちゃんと性的な活動ができるよういなるけど、人間はそうじゃないっしょ、ってなことを言おうとしているんすかね。なんでかというと、人間は自己反省する動物であって、自分がオスだとかメスだとか自覚したり、メスの体をみてみたいなあとか触ってみたいなあとかって欲求を自覚したり、この体についているこの部分をあれするとあれだなあ、あれをあれにあれするのか、とかそういうのを知識として身につけないと性的活動ができない、まあそういうことを言おうとしているんですかね。
そしてキェルケゴールではそれが「罪」ってのと深く結びついていて、罪ぬきのセックス、セックス抜きの罪みたいなのが考えることさえできない、ってんですかね。
- 『不安の概念』(1) 『不安の概念』はセックス哲学の本、性欲の本かもしれない
- 『不安の概念』(2) セックスセックスぅ
- 『不安の概念』(3) キェルケゴールの問いは
- 『不安の概念』(4) 無垢はエロについて無知っす
- 『不安の概念』(5) 禁止されるとやりたくなりますか
- 『不安の概念』(6) 禁断が欲情を目覚ますが、欲情はまだ罪ではない
- 『不安の概念』(7) 人間は欲情をもって生まれる罪深い存在なんだ……
- 『不安の概念』(8) 「規定」の意味がわかりません、ははは
- 『不安の概念』(9) キェルケゴール学者はパラフレーズできるか
- 『不安の概念』(10) 無垢において人間は精神として規定されない
- 『不安の概念』(11) 無が不安を生む
- 『不安の概念』(12) なにができるかわからず不安です
- 『不安の概念』(13) 不安は可能性の可能性として自由の現実性であーる
- 『不安の概念』(14) 「自由」はいわゆる積極的自由だと思うの
- 『不安の概念』(15) 人間は心的なものと肉体的なものの総合である
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