レポートではいったん「自分」を消してみよう

どうもレポートとか書いてもらうと、「〜について図書館に行って調べてみた」とか書く人がいてうんざりします。そんなこと読みたくありません。大学教員は一般にはあなた自身やあなたの行動には興味がない(それはよいことで、へたに教員に個人的な興味もたれるとえらいことになります)。

戸田山和久先生の名著『論文の教室―レポートから卒論まで』(NHK出版)の【鉄則7】は「問い+答え+論拠」以外のことを書いてはいけない」です。戸田山先生は以下のようにおっしゃっておられます。

その課題を選んだ経緯、自分がその意見をもつに至った事情、その他の「自分語り」、たとえば思い出話やエピソード、必要な参考文献や資料が手に入らなかったことの言い訳、うまく書けなかったことの言い訳、お世辞みたいなの。こうしたことを論文に書いてはいけない。(p.42)

まあ就職のこととか考えるとわかりやすいと思うんですよ。「チミチミ、我が社が企画している新店舗を〜に出す計画の評価レポートを作成してくれたまへ」とかって課題に対して、「私は図書館に行ってOPACを調べてみました。なかなか資料が見つからず苦労しました。」とか中学生みたいなこと書いてたらぶっとばされるっしょ。クビです。そうじゃなくても「チミに頼んだのは失敗だなや」とか言われちゃう。ふつうのひとはあなた自身やあなたの行動には興味がないのです。興味があるのは成果だけ。そのレポートが読むひとをちょっとでも賢くするような情報を含んでいるかどうか。

まあこれは小学校から大学に到る作文教育に問題があって、「あなたの事を自由に書きましょう」とかって教えられてるからレポートでもそうなっちゃうんよね。私たちがイクナイのです。ごめんなさい。教育イクナイ!でも大学2年生ぐらいになったらレポートからはそういう「私」を消すことを試みてください。最初はあなたの行動とか感じ方とかそういうの忘れて、資料とか文献とかをきっちり読んでなにが問題なのか、どういう解釈や見解があるのか淡々と書く。

そういうのを消していっても、いずれあなた自身の「独自の考え」が出てくるから大丈夫。資料や他人の見解の価値を検討していくうちにそれまでの文献では不十分なところが見つかったり、どうしても納得いかないことがでてきたりして、どうしても「しかし私は〜と考える、なんでかっていうと〜だからだ」と書きたくなる、いや書かねばならないと思うときがやってきます。この「しかし」がない「私は」なんか意味ないっす。そして、「しかし」のあとのあなたになら私も興味ありますよ(こっちの興味はそれほど危険じゃないです)。

で、これは就職関係の「自己分析」とかコミュニケーションについても言えそうなんよね。多くのひとは「私ってどんな人間」とかそんなんばっかりが「自己分析」だと思ってるみたいだけど、そんなんどうでもいいわけ。そういうのに関心あるのはあなたと近い人びとだけ。他人は、むしろある対象をあなたがどう評価するかとか、それとあなたがどういう関係にあるかを知りたい。

「君ってどんな人?」とか聞かれると答えようがなくて困るっしょ。だいたい「うーん、努力家です」とか言われたって信用できるわけないし。まあこういうこと質問してくる人はだいたいダメ。「俺ってさー、すげーんだぜー」とか「このまえ(お前が知らない)ツレの〜と〜行って次に〜行って、その次に〜行って」とかだらだら報告聞いてもあんまりおもしろくないでしょ?

「『恋愛小説家』っていう映画見たことある?好き?どこがよかった?ジャックニコルソンどうよ」とかだとまだ話に発展性がある。そういう共通のものについて分析したり評価したり批判してると、相手がどういう人かわかってくるわけでね。まあそういうわけで、「私」を中心にものを見るのをやめて、とにかくなにか自分以外の対象について考えてみましょう。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。